Are you Wimpy?

次々と心に浮かぶ景色と音。
そこからは絶対に逃げられないんだ。

★「ネット小説大賞」にもチャレンジ中★

23.神様の気配

2020年02月20日 | 日記
僕たちは翌朝早くに難民キャンプある国境付近まで移動することになった。それは東西に長いこの国の東端にあったから,前日に入れ替わりのグループが乗って来た草臥れたトラックに乗り込んで2時間程走らなければならない。

「そういえば昨日,あいつらの1人と何をしてたんだ?」
「ああ・・・お守り代わりににね・・・」

ゲイリーに自分のピストルを見せると,彼の顔から一瞬笑みが消えた。

「コレを交換したんだよ」

僕がピストルをホルスターに戻してベルトをパチンと留めると,ゲイリーは俯いてため息をついた。

その後僕たちは何も話さずに荷台で揺られていた。点在する集落の様な場所を通り過ぎたが人の気配を感じることができなかった。しばらくすると森が現れて,トラックのスピードが少しずつ落ちてきてやがて乱暴に停車した。

複数立ち並ぶ白いテントには人が犇めき合っていて,車から降りるなり何もしていないのにあれよあれよと多くの民衆が僕たちを囲んだ。僕たちは少し気後れしたが,その人たちの方がルールを弁えているらしく,自然と列が作られスムーズに物資の配布が始められた。僕が以前アジャから教わった現地の言葉をいくつか試すと,人々の表情に安らぎの色が涌き出て胸の辺りがじんわりと温かくなるのを感じた。

ところが,赤いベレー帽を被った背の高い兵士が僕たちの様子を見に近づいてきた途端,人々の様子が一変して嫌な緊張感が走った。忙しかったせいで最初は余り気にならなかったが,それまで整然と列に並んで静かに待っていた人達が響動めき始めて,少しずつそれが押し寄せる波の様に大きくなっていく気がした。

イギリスの国旗を肩や胸に縫い付けた全身立派な装備に包まれた兵士はサングラスをかけたまま大きな声で気さくに話しかけてきた。

「僕らが警備担当だ」
「助かります」
「国境の向こうは大変だぞ」
「そうなんですか」
「ここも6月に独立したばかりで混乱してるがまだマシな方さ。
お前の国は大丈夫か?」

その兵士は左手でポケットから何かを取り出して口にくわえてシュっとスプレーした。

「喘息なんだ。軍はオヤジのコネでね」

僕は彼の方へ体を向ける余裕もなく仕事を続けた。

「それよりスコットランドが独立したがってるんじゃないのかい」
「良くご存じで。でも,まぁ,こことは違って"カリスマ"がいるからな」
「日本も同じだよ」
「なるほど」

彼は僕の背中を軽く叩きながら軽く咳ばらいをした。

「あっちで現地のガードマンと合流するまでは責任をもって守るから安心してくれ」
「守る?何からですか」
「・・・何からって・・・」

その時,幼い男の子を抱きかかえた父親らしき男性が僕たちに近寄って大きな声で怒鳴り始めた。何を言っているか理解できず2人でまごついていると,ひきつった表情をした数十人の民衆に回りを囲まれてしまった。側にいたジエイとゲイリーも焦りの余り手を止めて黙ったまま立ち尽くした。一体何が起きているのか把握できなかったが,その人達から強い怒りを感じて恐ろしさの余り後ずさりすると,僕と話していた兵士が抱えていた見たこともない変な形をした機関銃の安全装置を外す音が聞こえてはっとした。ピストルの訓練の時に覚えたカチャンという独特な金属音で反射的に彼の方を見ると,さっきまでのリラックスした印象とは全く違った彼が震えながら立っていた。

歯を食い縛って首や額の血管が浮き出ている彼の尋常じゃない様子に僕は嫌な予感を覚えて,とっさにわざと彼の前に立ちはだかって両腕を上下に振りながら民衆の方に向かって叫んだ。

「プリオティ! プリオティ! 英語を話せるか? 英語だ! プリオティ!!」

そう言ってから振り替えると今度は兵士に詰め寄って「落ち着け,何もするな」と息を殺して懇願した。

「英語か,わかるぞ」
「わたしも」
「おれもだ!」

続々と申し出てくれる人たちに焦りを気付かれない様に必死で微笑みながら「プリオティ!! 僕らを手伝ってくれ」と言うと,申し出た人達が自国語で話始めた。すると,さっきまでの怒号が一瞬止んで,民衆が戸惑った様な様子を見せて僕たちから離れ始めた。

「みんな怒ってるのかと思った。どうしたんだ」
「銃で脅してくるからだろ。お前は怖くないのか」
「・・・違うよ。脅かされてなんかいないよ。彼も友人だ」

僕はすぐに兵士が胸に抱えている銃を背中にグルリと回させた。それからわざとおどけるようにして「プリオテイ」を何度も何度も歌う様にリズムを付けて連発した。そのうち小さな子供たちが笑い始めると大人たちもクスクスと笑って緊張が一気にほどけていく。少しホッとした僕が今度は手を高く掲げて「フヴァラ」と元気良く挨拶すると,民衆がどっと笑って一気に雰囲気が和んだ。

「プリオティ,君たちも配るのを手伝えるかい」

僕が話す英語を自国語で皆に伝えながら1人ずつ僕たちの仕事に加わる人が増えていった。子供も数人僕の方へやってきて嬉しそうに手伝ってくれる。僕はその兵士にも一緒に手伝うように頼むと,まだ頬を赤らめて強ばった面持ちのまま「ありがとう」と返事をして加わってくれた。兵士が彼の両脇にいた子供たちの頭を優しく撫でると,ざわめきはポジティブな活気に変わっていった。

僕のミッションはそうやってスタートした。多少ぎくしゃくはしたものの,その時初めてここへやって来て良かったと心の底から思った。そしてアジャの柔らかい表情をその人たちに重ねながら,何となく神様が近くにいてくれるような錯覚を抱いていた。

22.器

2020年02月11日 | 日記
7月中旬。

僕たちは午前6時半発のフェリーに乗り込んだ。結局フェリーの上でも特に具体的な説明はなかったが,僕以外にベネディクト,マシュー,ゲイリーという3人,いずれもイギリス国籍の仲間がいて,スイスで簡単な訓練を受けてから様々な地域へ散らばる旨の予定が告げられた。

「肉体はただの“器”だから,その使い方が自分達の課題なのだ」といった内容の説教を受けてから「万一に備えて」家族への遺書を書くように言われて,船旅を楽しむ余裕を一気に奪われてしまった。遺書なんて書くのは勿論初めてのことだったし,渡されたカードに両親や姉弟へ宛てた一言ずつを綴っていると死の恐怖が現実味を帯びて何だか悲しい気持ちになった。

ドーバーまではそれぞれ別の牧師が同行して来たが,フェリーに乗ってからは物静かなフランス人が1人で僕たちの船頭を務めていて,淡々と予定説明を終えた後,船内のラウンジで読書をしながら僕たちの遺書の提出を待っていた。彼が小さく頷きながら無言で遺書を受けとる強ばった表情が印象的だった。

カレーに到着するとそのまま牧師が運転する赤いフォードエスコートに乗り込んでブリュッセルの「本部」という所へ向かった。2時間ほどのドライブの間,緊張からか僕たちはほとんど口を開くことはなかったから時間が物凄く長く感じられた。

本部ではパスポート等の荷物を預けてから予め用意されていた薄いカーキー色の作業服に着替えさせられた。爪先に鉄板が入った安全靴はサイズが4種類しかないので履いたときに少し余裕のあるものを選んで踝まである紐で調節しなければならなかった。

ドーバーから一緒になった4人でせっせと着替えていると,続々と別のグループが到着して,1時間程の間に21人のボランティアと8人の牧師で部屋が一杯になった。すると更にグループ分けが行われて,僕はイギリスから一緒だったゲイリーという「イギリス生まれの中国人」と一緒に,フランスから来たジェイ,パトリック,ラファエルと5人でアジャの住む国の手前にある「基地」と呼ばれる場所へ向かうことを確認した。皆物腰が優しい好青年だったが,ジエイは僕には関心がないといったあからさまな素振りを見せた。メンバーのほとんどが敬虔なクリスチャンで皆一様に十字架のアクセサリーを大切そうに上着のポケットに入れていた。いきなり跪いて黒表紙の聖書を開いた途端数人で祈り始めるグループもいて少し居心地が悪かった。準備が整うと10ポンド程度だという少額な現地の通貨が配られ,ようやく出発となった。

ブリュッセルからは全員マイクロバスに乗り込み,更に7時間程かけてスイスに入った。そこで初めて射撃訓練を受けると告げられた。人助けのつもりで参加したはずなのに人を撃つ訓練を受けなければならないという矛盾に一抹の不安を感じるのと同時に,遺書を書いたときに感じた死の存在が再び僕の脳裏で渦巻いたが,他の誰もが動揺する様子もなく質問する者もいなかったから仕方なく黙って指示に従った。

迷彩服を着用した背の高いスイスの兵士数人から2時間ほどかけて様々な距離に設置された皿のような金属の板を撃ったり,分解や組み立てなどの練習をして一通りピストルの扱い方を教わると, 新しい弾丸が7発ずつマガジンに装填された状態で支給された。そして休息を取ることもなく其々用意されたトラックに便乗し現地に向かうことになった。ベルンの日暮れはイギリスと同じくらいで遅いらしく,腕時計を確認すると既に午後10時前くらいだった。

最初は柔いサスペンションのせいで船酔いの様な嫌な感覚に苦しんでいたが,嘔吐するまで酷いことはならずに済んだ。疲れていただけかも知れないが,そのうちトラックの荷台の簡易シートに横向きに座っていても,幌を支える細いバーに寄りかかってぐっすり眠れるまで慣れた。未だに自分が置かれた世界に対して疑いを抱きながらアジャに会えるかもしれないという奇跡を信じて気持ちは少しだけ高揚していた。

トラックが何度か燃料補給するのに立ち寄る場所で用を足したりしながら,基地に到着したのは明くる日の夕方だった。確か国連の介入は公式に発表されてはいなかったが,両側面に「UN」と言う文字が大きく書かれた白い装甲車が3台,同じく白い塗装が施された車両が数台整然と駐車してあって,周囲には青いヘルメットカバーを掛けた兵士達がのんびりと寛いでいた。僕たちが到着すると,彼らが着用している草色のものとは違う土色に近い僕たちの服装に気付いたのか,じっとこちらに視線を向けている者もいた。

僕たちは食事も取らされずに基地に横付けしてあった大きなトレーラーから数台のトラックに支援物資を積み替える任務についた。誰もが疲労感の局地にあったはずだが窮屈な荷台から解放されてホッとした様子だった。僕はと言えば,漠然とではあったが,アジャの傍に1ミリでも近づけた様な感覚に絵も言えぬ嬉しさを禁じ得ず軽やかに体が動いた。

しばらくすると,赤いベレー帽を被った兵士が2人近寄ってきて黒い防弾ベストと茶色いカバーがかけられたヘルメットを1人ずつに渡した。重たいベストの脇のベルトやヘルメットの顎のバックルを留めるのに苦労していると別のトラックが到着して,荷台から僕たちと同じ格好をした3人が亡霊の様に降りて重々しい足取りで近づいていた。

「ガードマンは明日だ。途中戦闘があってな・・・」

彼らがフランス語訛りのある英語でベレー帽の兵士と勢い良く話してるのが聞こえた。

21.カリン

2020年02月03日 | 日記
その日を境にカリンと僕は一緒にいることが多くなった。それは,お互いの存在がとても心地よく安心できるものだったというか,とにかく自然に僕たちは付き合う様になった。サンドリンが資格試験の勉強が大詰めになってブランズウィックに顔を出さなくなったから,2人きりでのんびりと飲む日が増えたのも成り行きだったのかもしれない。

円山さんは学校に顔を出さない日が続いて,自宅を訪問しても生活している空気すら漂ってはいなかった。流石に心配になった僕は,以前円山さんからもらった名刺を頼りに仕事先まで確認に行って,既に退職をしたと聞かさて愕然とした。しかも,パリから帰国した週の金曜には手続きを済ませていたのだという。ほどなくして,円山さんの自宅には“FOR RENT”という看板が掲げられ連絡を取るのは絶望的になってしまった。ガレージには主を失った飼い犬がじっとその帰りを待ち続けている様に,まだ組み立てかけのミニが悲し気に佇んでいた。こんなことなら日本での連絡先を聞いておくべきだったと後悔したが,決して黙って姿を消した円山さんを責める気にはなれなかった。それに,時間が経てばきっと何もなかった様に再び僕の前に現れるだろうと疑いもしなかった。

約束通り僕はアジャへの手紙を毎日書いていた。カンティーヌやビーチで僕がアジャへの手紙をしたためていると,特に会話もなくカリンがただ傍にいて別のことをやっているなんて感じだった。彼女は僕と同い年のスイスジャーマンで,フランス語やイタリア語も堪能な才女だが,英語は初級コーズで学び始めたばかりだった。9月から地元のカレッジに通う為にファーストという英語技能試験を控えていたから,既にその資格を取得している僕から文法や表現上のアドバイスを求めることがあって,僕もそんな風に頼られることに対して悪い気はしなかった。

アジャへの手紙・・・と言っても,A5サイズのノートに思い付くままに書いたもの,例えばその日の出来事や学校やブランズウィックの様子なんかを,カリンと同じ初級コースで学んでいたアジャにも分かるように単純で短い英文で思いつくままに日記の様に綴るだけだった。1ページ程書き上がったらページを切り取って封筒に入れて送った。船便だから時間は相当かかるだろうけれど,もう3週間1つも返事がなかったから少し不安にはなったが,もはやそれが習慣になっていた。時々カリンも一緒になって内容を考えてくれたりして,そんなふうに,カリンの存在がアジャがいない寂しさを緩和してくれていたんだ。

カリンのクラスは1階にあって授業が終わるとほぼ毎日の様に僕のことをエントランスで待っていてくれた。そのまま海辺の道を散歩したりフィッシュアンドチップスを買い食いしたりしながらのんびりと過ごすことで僕は癒されていた。カリンは日曜日の教会でオルガニストのアルバイトをしていたから,時々彼女のオルガンの練習にも僕は付き合った。平日の午後,教会にはほとんど人影はなく,真剣な面持ちでオルガンの練習をしているカリンとアジャへの手紙を書く僕の2人きりになれる隠れ家の様な場所になって,いつしか僕はサンデーサービスにも参加する様になっていた。

そんなある日教会のボランティアへの参加をニコラス牧師から突然提案された。それは混迷の色彩が濃くなってきていたアジャの国への人道支援の一貫だったのだが,危険を伴う仕事ということもあって参加者が皆無なのだという。そこでカリンが僕のことを牧師に紹介してくれたらしい。それは飽くまで提案というでニコラス牧師はにっこりと「1か月もありますから,じっくりとお考え下さい」と丁寧におっしゃってくれた。

「もしかしたら,アジャにも会えるかもしれないじゃない。旅費も滞在費も教会持ちだから悪い話じゃないと思ったの」

おとなしくて誠実なカリンの積極的な申し出に僕は驚きつつも心から感謝した。カリンの両手を取って礼を言う僕に,カリンは頬を少し赤らめて優しく微笑んだ。

「ごめんなさい,でしゃばって。でも手紙の返事が来ないから心配だと思って」
「こんなチャンスないよ。本当にありがとう」

6月1日の夕方,僕は教会へ詳しい話を聞きに行った。出発は1ヶ月以上先の7月中旬で3週間の滞在となると知らされた。細かな内容は出発してからドーバーからのフェリー内で伝えるというシンプルなもので集合場所や時間を確認して15分ほどで終わった。牧師たちは翌日のサンデーサービスの準備で慌ただしく退席した。

僕はボランティアに参加するのが初めてだったからそんなものだろうと何も不思議には思わず,そのままカリンと一緒にブランズウィックへ向かった。

「明日の準備はいいのかい」
「大丈夫,たっぷり練習もできたし,今日は旅の前祝をしましょう」
「ありがとう,カリン」
「アジャ,絶対に元気よ。“No news is good news”って言うでしょ」

その時,突然夕立が降り始めた。こんな時,風も結構強めに吹くから傘なんて全く役に立たない。僕は日本から持ってきた傘はもう2本とも壊されてしまった。イギリスでは1日に4つのシーズンが味わえるんだと地元の人間は楽しそうに言うけど,やっぱり僕はこの国の雨が大嫌いだ。「ヒャー!」と叫んでウィンドブレーカーのフードを被った僕をカリンが笑った。ザーザーと降る雨の向こう側で草色のフードに包まれたカリンの笑顔が天使の様に見えた。

20.サンドリンへの手紙

2020年02月01日 | 日記
5月。

円山さんの自宅からブランズウィックまでは5分ほどだった。6時を過ぎると店の外にまで多くの人たちが集まってくる。駐車場にも見慣れた車が駐車してあって,そこを見れば誰が遊びに来ているのかある程度想像できた。お金に余裕がある日本人の留学生も中古のアルファロメオやプジョーで乗り付けてスヌーカーやダーツに興じていた。

入り口近くに設置してあるスロットマシーンの脇を通り過ぎると右手にダーツやスヌーカーのコーナー,左手にはテーブルが数脚置いてあって,一番奥がカウンターだ。左手にも駐車場に抜ける出入り口があるのだが,その手前のテーブルでサンドリンが黒ビールを飲みながら別の女性と歓談していた。

僕はジーンズの右前のポケットに突っ込んだままの封筒を確認してからそちらに近づいた。

サンドリンは先に僕に気づくと手を高く挙げて明るく声をかけてきた。一緒にいた女性もこちら側に微笑んだ。

「ソーヤン!」

賑やかな店内だったが,サンドリンの陽気な呼び声が響き渡ってバーテンダーを含む何人かが僕の方へ振り返った。僕が手紙を差し出そうとするとサンドリンの方から切り出した。

「アジャたち,残念だったわね」

彼女はまだ知らないと思っていたから,僕は少し驚いた。それを察した様にサンドリンが話した。

「アジャと同じクラスのカリン,彼女から聞いたの」
「はじめまして」
「ソーヤンね,アジャのボーイフレンドでしょ」

僕はカリンと握手を交わしてからサンドリンに手紙を渡した。サンドリンは手紙を受けとるとグラスに3分の1ほど残っていたギネスをグイッと飲み干した。

「おごるわ,ソーヤンもギネスよね」

サンドリンから5ポンド札を受け取ったカリンが傍のカウンターへ注文をしに席を外すと,サンドリンが酔っ払った様子で勢い良く話し出した。

「どうせ,どちらかが帰国するまでの付き合い。あなたとアジャだってそうでしょ?」

僕が一瞬言葉を失っていると,サンドリンが呆れた様に天井に視線ををやりながらフゥっと息を吐いた。

「愛してるの?」
「愛・・・?」

サンドリンが吹き出した。
「あんたっていい人ね」

サンドリンが笑っているところへ不思議そうな顔をしたカリンがギネスのパイントグラスを2つ持って戻ってきた。

「何話してるの?」
「愛の話よね,ソーヤン」
「・・・難しそうね」

カリンの戸惑った様子にサンドリンがもう1度吹き出すと,カリンが少し俯いたまま,助けを求める様に大きな目で僕を見上げた。そのときアジャと同じリンゴのパフュームの香りが立った。

「あ・・・」
「どうしたの?」
「いや,何でもない。ただ・・・」

カリンは控えめにサンドリンの方を向きながら微笑んだ。サンドリンは僕とグラスを合わせると半パインとくらいグイッと飲んでから僕を睨み付けて言った。

「あんたにとって愛って一体何なの,ソーヤン」

サンドリンはいつもこんな感じだ。クールだが気になったことはどんな小さなことでもしつこく突き止めようとする。僕は一口ビールを飲んでから即座に答えた。

「Giving and forgiving anything」

サンドリンはふーんとばかりにもう一口ビールを含んだ。

「だから僕は誰も愛せないんだろうな」

意表を突かれたサンドリンがまた笑った。
「ほんと,いい人!」

僕とサンドリンの関係性に不馴れなせいか,カリンが戸惑った様子で「良く分からないわ」と小声で言ったので僕は説明を加えた。

「誰かを愛してるなら,その人に殺されたっていいということ。でも僕は殺されるのは嫌だからね。誰も愛さないよ」

するとカリンも笑った。サンドリンが笑いながら封筒をクシャクシャ丸めてウィンドブレーカーのポケットにしまった。

「もう,これは終わったことよ」

その時ガトウィックで別れた時のイーゴの悲しそうな表情が浮かんだが,僕は無理強いをしてまでサンドリンに手紙を読ませようとはしなかった。別れ際,泣き顔のアジャと初めて交わしたキスの感触も甦ったが,サンドリンの言う通り別れを前提とした出会いだったというのも真実なんだと理解した。

自分を納得させる様に僕はグラスをサンドリンに向けて掲げた。

「チアーズ」

僕らは3人で乾杯した。グラスを一気に飲み干したら,何かが吹っ切れた様に僕の体は軽くなった。

「サンドリンはギネスだね。カリンは・・・ラガーでいいかい?おごるよ」
「じゃあ,私もギネスをちょうだい」

かすかに漂うリンゴの甘酸っぱい香りに懐かしさを感じながら僕はカウンターへ向かった。