Are you Wimpy?

次々と心に浮かぶ景色と音。
そこからは絶対に逃げられないんだ。

★「ネット小説大賞」にもチャレンジ中★

35.名前

2020年07月25日 | 日記
8月4日,日曜日,午後2時。僕は既にドーバーに向かうフェリーに乗っていた。

往きの旅で見かけたイギリス人二人もブリュッセルから一緒だった。防弾ベストやヘルメット,泥や汗や血に塗れた“作業着”のことが不思議なくらいに懐かしく,ふわふわとした軽い体に重力すら失ったかの様な違和感すら覚えて,僕はぎこちなく船上の旅の中にあった。もはや,そこには黴臭い土や金属と硫黄の混じった殺し合いの臭いもなく,ただ少しだけじめりとした夏の潮風の香りが僅かに漂っていた。旅の途中で遇った幼い不思議な兄妹のことを思いながら,上空を漂う雲を見上げては時折目を瞑って,果たしてそれが現実だったのか夢だったのか漠然と考えていた。

同行していた牧師は,イギリス人らしい丁寧な発音で細かく指示してくれたが,僕たちに名乗ることはなかった。でも,出会いが別れの始まりなのだなどという,ある種トラウマの様なものにとりつかれていた僕にとってそれはありがたく,逆に余計に優しくさえ思えたし,牧師はそのことを察していたのかもしれない。

不規則に,しかも唐突に目の前に鮮やかに現れるイーゴやゲイリーの姿を追い払うことができず,断続的に目を開いてはアジャのお守りを何度も握り締めて,僕はただラウンジのベンチに腰かけて俯いていた。

「やぁ,大丈夫かい」
例のイギリス人二人が僕の両側に腰かけた。
「ベネディクトだ,往きでも一緒だったろう,コイツはマシュー」
「僕は・・・」

二人と握手を交わしながら,僕は一瞬自分の名前を言うのを躊躇した。リアノが僕につけてた“Wimp”というあだ名に多少は愛着があったし,いろいろな記憶をまだ整理できないのと同時に自分自身が一体何者なのか証明する自信すらなかった。それに,名乗るということは別れの導入である出会いを受け入れることになるのだから,この短期間に受け入れ難い永遠の別れをいくつも体験した僕には,まるでその名前を自分の手帳に記さなければならないという錯覚すら生じて,酷い抵抗感があった。

「面白いだろ,コイツの名前は“ベンドディック”(折れたチンポ)ってゆーんだぜ」
「何だと,この“マシュマロ頭”め」

何だか二人で示し合わせた様な漫才に絆されて,僕は自然と“ソーヤン”というニックネームを選んで伝えた。

「もう21歳だから,若くはないけど“So Young”」
「同じ歳じゃないか。中国人かい」
「いや,日本から来た」
「じゃあ,あいつは・・・ほら,ゲイリーとか言ってたろ」
「・・・彼は・・・」

一瞬目の前が真っ暗になって「寒いんだ」というゲイリーの最期の声が聞こえた。

マシューがハイネケンの小瓶を僕に差し出して肩を摩りながらベンとの漫才を続けた。
「あいつはイギリス人だ。中国系のな」
「へぇ」
「往きの便所で少し話した」
「小便の友」
「ああ,少なくともチンポは曲がってなかったけどね」
「黙れ“マッシュルーム”め」

ベンが僕の肩越しに何度かマシューの頭を叩いた。余りのくだらなさに僕がクスっと漏らすと「笑ったな,コイツめ」と今度はベンが僕の肩を摩った。僕たちは古い友人の様に瓶をカチンと合わせてから冷たいビールで喉を潤した。二人が僕の頭越しに元気よく談笑を続けた。

「やっぱりビールは冷えてるのが1番だな」
「でもパブのぬるーいビールも懐かしい」
「それにしても,拍子抜けだったよな,戦場ってのは」
「来る日も来る日も物資運びだけで腰が痛くなっちまった」
「そっちはどうだったんだ,ソーヤン」

イーゴの泣き声と僕が見送った大勢の人達の「神の息吹」が甦った。僕はそれを振り払う様に右手に持っていたお守りを固く握りしめ立ち上がってから彼らを見下ろした。二人は一瞬ぎょっとした目で僕を見上げたが,僕が自分の影の下で怯える彼らの様子にはっとして「もう御免だな,あんな仕事は」と応えると二人ともホッとした様に立ち上がって一緒に船尾の方へ歩き始めた。

僕は本当に心の底から二度とは戻るまいと思ってはいたが,イレイナの消息を掴んでいないこともあって,僅かに後ろ髪を引かれる感覚も持ち合わせていた。数か月後,もっと過酷な状況に陥ったかの地へ,まさか自ら志願して出かけることになろうとはその時は微塵も想像していなかった。

「なんだ,ソーヤン,ブライトンなのか」
「俺たちはプレストンだよ」

何の因果か,もう誰とも出会うことを望んでいなかった僕に,神は新しい出会いを下さった。それは新しい「試練」として与え給うたものなのか,この上なく嬉しそうに燥いでいる二人とは対照的に複雑な心境にあった僕には苦笑いしか浮かばず,それが逆に彼らの気持ちを高揚させた。

「マシューのクルマで来てるんだ,通り道だから送るぜ」
「ああ,あの陰気な牧師ともおさらばだ」

僕は彼らの申し出に丁寧に礼を述べてから,教会で待つカリンのことを理由にして牧師と同行する旨を伝えた。見たところ,彼らには教会に届けるべきノートは持ち合わせてはいない様子だったし,彼らが体験したものはどうやら僕のものとは大きく違っていた。

ベンが厭らしい長めの口笛を吹きながら羨ましそうに頷いた。
「そりゃ,仕方ないな」

牧師はマシューが車を預けている親戚の家まで送ると提案したが,二人は早く状況を脱したかったのか固辞してフェリーで車に乗り込むことはなかった。その晩ブライトン駅近くにある“KING&QUEEN”というパブで落ち合う約束をして,僕は黙って牧師の色褪せた銀色のフォードシエラの後部座席で船着き場へ到着するのを待った。船の倉庫はひんやりとしていて,エアコンを装備していない車でも広々とした室内は居心地が良く,僕はそのまま深い眠りに誘われていった。

34.小さなアジャ

2020年07月18日 | 日記
僕は左膝を抱えて,トラックの荷抑えに持たれながら薄っすらと開いた瞼の向こうに広がる星空を見上げながら微睡んでした。時々小さくヒョコヒョコと荷台は持ち上がったが,それほどスピードも出ていなかったから心地よい安らかなひとときを過ごしていた。トラックが巻き上げる土埃と排気ガスが混じった臭いが自分の体臭を緩和する様に漂っている。森を抜けると少しずつ建物の輪郭が目立つようになった。鉄で拵えられた荷抑えの隙間から三角形の屋根がいくつも見えたが,どの家にも明かりがなく,まるでゴーストタウンの様に集落は静まり返っていて,トラックの重たそうな走行音だけが響き渡っていた。

突然リアノが運転席の後ろ側の鉄板を拳で数回叩いてトラックが急停止した。リアノは素早く立ち上がると荷台から飛び降りてから運転席を振り返りながら子供の声まねで「ナンバーワン!」と叫んでから左側にヨロヨロと歩いて行った。暗がりに姿は見えなくなったがリアノは大声で付け足した。

「ここいらは安全だ。ついでにクソもしてくる」

するとトラックはエンジンを切った。僕はリアノの後を追う様に無意識に荷台から飛び降りて振り返った。運転席の両側のドアが開く音がして降りてくる兵士たちのシルエットが確認できたが,彼らは僕には気を留めず談笑しながら用を足し始めた。僕も彼らの顔も知らなかったし,彼らの放尿の勢いの良い音を不快に感じて,そこから逃げる様にしてリアノが行った方とは逆に少し歩いた。舗装された道路は所々ひび割れていて凸凹としていた。僕はめくり上がったアスファルトの塊に足を取られ転びそうになったのを無理に体制を整えようとして,体を反転させながら結局尻餅を搗いてしまった。僕がため息を漏らした瞬間,かわいらいしい子供の笑い声が響いた。トラックからは50mも離れていなかったが,何度かライターの火が見えて,何も気にせず兵士たちがタバコを吹かしながら談笑しているのが分かった。空耳なのか,それともリアノがまたふざけてるのか・・・。僕は一抹の恐怖すら感じながら,ゴーストタウンと思しき町の様子を観察した。すると今度は小さな子供の走る軽やかな足音が近づいてくるのが聞こえて一瞬ぎょっとした。

「アジャ!」という男の子の声が聞こえるが早いか,僕が座っているすぐ脇の建物の壊れた扉の隙間から小さな女の子がひょっこりと姿を見せて僕に手を差し伸べた。暗闇に目が慣れて,フリルがあしらわれた白っぽいドレスを着た4,5歳の女の子の笑顔が見えたから,僕は「フヴァラ」と言って彼女の小さな手を握ってから膝をついて体を起こした。僕は少女の顔を覗き込みながら確認する様に「アジャ?」と呼びかけて頭を優しく撫でた。ありふれた名前なら驚くことはないし,宗教的な国なら同じような名前が聞こえるから不思議なことはないが,その時の僕にとってその名前は何か深い縁を感じざるを得ず,胸がとても熱くなって嬉しくて仕方なかった。小さなアジャはコクリと頷いて,かわいらしい両手を自分の鼻先にくっつけてニコニコと僕を見つめていた。僕は胸の辺りのじんわりとした温かみが全身に広がっていくのを感じて,数秒間その少女と微笑み合っていた。ふと,腰ベルトにぶら下げていた小物入れの中にクッキーがあったのを思い出してクシャクシャの紙の包みを取り出した。アジャは目の前に広げられた包みの中身がクッキーだと気づいて驚いた様な表情で息を吸い込んでから1つ摘まむと嬉しそうに一齧りした。すると男の子も走り寄ってきてアジャの肩に両手を載せながら僕の顔を覗き込んだ。アジャはもう一枚クッキーを取って男の子に渡した。彼は一瞬僕の方を見てからクッキーを受け取って一口頬張るとモグモグと口を動かしながら微笑んだ。何の明かりもない暗闇の中で夏とは思えない爽やかな風が吹き抜けると,背後からリアノが僕を呼ぶ声が聞こえた。

「出発するぞ,ウィンプ!」
クッキーの包みを丸ごと女の子に渡して去ろうとした時,男の子が無言で僕の右手を引っ張った。数回セルが回されてエンジンがかかる音が聞こえた。

「ウィンプ!」
リアノの声が凄みを増したので「もう少し待ってくれ」と応えてから,僕はもう一度しゃがんで子供たちの肩を数回摩った。

「ウィンプもクソだってよ」
男たちの笑い声がした。二人の頭を撫でてから立ち上がって行こうと立ち上がると,今度は二人共僕の手を片方ずつ小さな手でギュっと握り締めて悲し気な目で見上げてくる。僕はその手を解いて後ろ髪を引かれるような思いを残したままトラックの方へ進んだ。するとまた冷たい風がサーっと流れて廃墟と化した町の並木の葉を揺らす音がした。二人は追いかけては来なかったが,振り返ると暗がりの中で同じ場所に留まっているのが見えた。トラックに近付くと,荷台の上から腰に手を当てたリアノが強い眼光をこちらに向けていた。
「ケツは拭いたか,ウィンプ」
兵士たちがクスクス笑いながら運転席に乗り込んで不規則にドアを閉めた。薄い鉄板をぶつけ合う様な乱暴なドアの閉まる音がして辺りが静まり返った時,僕は足を止めた。

「もう少し待ってくれないか・・・」
「おいおい、何だ?腹でも壊したのか」
「いや・・・」
「だったら,さっさと乗れ。遠足じゃねぇんだぞ」

リアノが急かす様に度盛ながら荷台の奥の方へ進むのを見上げながら,僕は乗り込もうとしなかった。
「気になるんだ」

僕は子供たちの方へ向き直ったが,暗闇の中にその姿を確認することができなかった。

「何だってんだ。え?ウィンプ・・・」
リアノを遮る様に,油の切れた様な音を激しく立てながらドアを開けると,兵士が慌てて運転席から下りてきた。するとトラックの前方の空が一瞬明るく光ってオレンジ色に変化していくのが見えた。数キロ先の爆発だろうか,遠方から聞こえる花火が炸裂する様な音が聞こえて,オレンジ色の雲が高く舞い上がっていくと,みるみる廃墟と化した町の様子が分かるまで明るく照らした。リアノが慌てて荷台から飛び降り兵士たちと少し喋った後,僕の方へ素早く近寄ってきて,驚いたような顔で僕を睨みつけた。

「何で分かったんだ?」
そう吐き捨てる様に言ってトラックに戻ったリアノが兵士たちと相談している間,僕はもう一度子供たちの方へ戻った。しかし,そこには壁や屋根に大きな穴が開いたレンガ造りの家が静かに佇んでいて,何度か声を掛けたが,人気は全くなかった。