Are you Wimpy?

次々と心に浮かぶ景色と音。
そこからは絶対に逃げられないんだ。

★「ネット小説大賞」にもチャレンジ中★

29.イーゴ

2020年04月20日 | 日記
「イーゴなんだな?」

その青年は骨と皮だけになったと言っても過言ではないくらい痩せ細った両手を自分の股の間にダラリと下げて,うつろな目で空を見上げたまま何も答えなかった。そこには2か月前のイーゴの面影は皆無だったが,その眼は確かにイーゴだということを僕に確信させた。

「お知り合いですか」

今度は看護師が驚いて尋ねた。

「この方,イーゴさんとおっしゃるんですね」
「妹は?」
「妹?」
「ああ,彼には妹がいるんだ」

看護師は困った表情でイーゴを見下ろした。僕は胸のポケットから写真を取り出して彼女に渡した。看護師は写真を受け取って数秒間見つめてから首を振りながら戻した。

「残念ですが」
「何があったんだ?」
「私も詳しくは存じ上げないのです」
 
僕はしゃがんでイーゴを見上げながら,写真を彼の鼻先に突きつけた。

「アジャはどうしたんだ」

僕は震える体を何とか抑えようと試みていたが,漠然とした不安がその努力を無駄にした。イーゴはうつろな目で,何かを見つめているというのでもなく,生きているのかさえ疑わしい様子で反応することはなかった。

「数週間前,大きな戦闘があった様です。私もそれで派遣されたものですから・・・」

僕はイーゴの膝の上に写真を置いたまま,不安と怒りが入り交じった言い尽くしがたい感情を抱いて勢いよく立ち上がって看護師を睨んだ。看護師が怖がって僅かに身を引くと,ジェイが僕の両肩を押さえて制止しようとした。

「・・・この辺り一帯の建物のほとんどが破壊されていて・・・」
「建物?」
「ええ。かろうじて建物だったのだろうとしか・・・私たちは彼のことを瓦礫の中から救出するのが精一杯だったのです」
「・・・死んだ」

急に辺りが静まり返った様な気がした。耳の中に風が舞い込む音がして,僕は看護師の方へ顔を向けたまま,そう呟いたイーゴの方に目をやった。イーゴはいつの間にか写真を手に取ってじっと見入っていた。

「・・・みんな死んだ・・・」

イーゴは英語で途切れ途切れに呟いた。僕は再びしゃがんでイーゴの両腿を震える手で掴んだ。

「アジャは・・・」

僕がそう聞くと,イーゴはゆっくりと僕の方へ視線を動かして,表情こそ変えなかったが,一瞬ほっとした様に瞬きをした。

「アジャ・・・死んだ」

目の前が言葉の通り真っ暗になって僕はその場に尻餅をついた。すると,イーゴは今度は何かが外れてしまった様に大きな声を上げて泣き出した。その声は悲しみというより,絶望と怨念に満ち溢れた例えがたいほど恐ろしい響きを湛えていた。そのおぞましさの余り,僕は何をすることもできず,ただイーゴが泣き叫ぶ姿をじっと見上げていた。看護師が会釈をして慌てて車イスを押して走り去った。ジェイが僕の右肩と左腕を支える様にして抱き起こしてくれた。

「アジャは・・・」
「もう何も言うな」
「アジャは・・・」

僕はジェイの顔をじっと見据えたまま言葉を続けることができなかった。去っていく車イスと看護師とすれ違う様にして近付いてきたリアノがジェイの肩越しに僕の方を睨んだ。僕は自力では立っていられず,ジェイに支えられながら辛うじて意識は保っていたが呼吸の仕方も忘れてしまった様に呆然と立ち尽くしていた。

 「今度はどうしたってんだ,ウィンプ?」

リアノが呆れたように勢いよく話しかけてきたが,その声はまるで遥か彼方からの木霊みたいに僕の身体に吸収されてしまった。ジェイが何かをリアノに説明していたが,耳鳴りがして視野がどんどんと狭くなっていった。そこからの記憶は全くない。次に気づいた時にはひんやりとした床に横になって向こう側で慌ただしく動き回る医師や看護師たちの様子を眺めていた。ヘルメットや防弾ベストも脱がされて,腰ベルトのセットと一緒に自分の頭の近くに整然と置かれていた。硬い床から人が移動する振動が伝わってくるのを感じながら,そのまま僕はまた気を失ったらしい。

 「ソーヤンさん・・・」

聞き覚えのある声に僕は起こされた。全身に力が入らなくて,半開きになった瞼からぼやけた光が差し込んだ。景色はぼんやりとしていたが,僕の顔の真ん前であの看護師が眼鏡のレンズのせいで余計に青味を帯びた眼差しを覗かせていた。

「国際赤十字のパオラといいます。ソーヤンさんですよね。」

僕は肩や背中の痛みを庇いながら,不器用に体を起こした。

「昨日は失礼しました。イーゴさんが・・・」
「イーゴが?」
「今朝方息を引き取ったのです」

僕は一体何が起こってるのか整理できずにいた。町中での銃撃戦があって,多くの死体と向き合って,多くの人の死を見届けて・・・そうだ,イーゴからアジャの死を知らされて・・・。

「イーゴが死んだ?」
「ええ,私達も驚いて・・・。今朝,ベッドに伺った時にはもう・・・」

僕は自分の足元を暫く見つめて何も言葉を発することができなかった。ただ,小さな子供の様に涙が溢れて仕方なかった。壁に掛かった時計は既に7時を回っていた。周囲にはベンチや床で着の身着のままでぐったりとした医師や看護師達,僕の傍らにはジェイたちも横になって熟睡していた。

「・・・イーゴは・・・」
「ご案内しますわ。こちらへ」

僕たちは建物の別棟へと向かった。僕の歩幅を気にしながらパオラはゆっくりと先導した。その時間が異様にゆっくりと流れているみたいで,まだ僕の両足には血が巡っていないかと思う程冷たく,自分の意思とは無関係にただパオラの後を追いかけた。唐突にイギリスでの楽しかった時間が甦って,不気味に感じるかも知れないが,僕は泣きながらも笑みを浮かべている自分に気付くのだった。

28.僕たちの仕事

2020年04月15日 | 日記
「我々の仕事はあっちにある。戻るぞ」

思わせぶりなラファエルの態度に小さな苛立ちを覚えたが,ゲイリーをリアノに託してとにかく古参の彼の言う事に従った。同じ出入り口から建物の中に戻ると,医師や看護師たちが慌ただしくけが人の治療にあたっていて,人々の苦悶に満ちた呻き声や器材が立てるカチャカチャといった音に交じって時々痛々しい叫び声が聞こえた。すぐ向こう側でジェイとパトリックが患者の傍らにしゃがみ込んでゴソゴソと何かをしているのが見えた。
 
「この人たちは死ぬんじゃない」
ラファエルが彼らに向かって歩き出しながら話し始めた。

「名前くらいは聞き出せるんだろう」
「確か,“カコセゾヴェテ”」
「それでいい」

近付くとパトリックが聖書を広げ祈りの言葉を唱えていた。僕たちに気付いたジェイが怯えた様子でゆっくりと顔を上げた。彼らに挟まれるように横たわる患者は薄っすらと瞼を開けて口元を小さくパクパクとさせていた。僕は無意識に姿勢を低くすると,その女性の口元に耳を近づけてから名前を尋ねた。彼女は小さな声で「ミア」と囁いた。

「この人の名前は“ミア”だ」
そう伝えるとラファエルがジェイにフランス語で何かを指示した。ジェイは小さく頷いてからフランス語で何かを小さなメモ帳に書き綴た。僕はその様子を注視しながら立ち上がって,ラファエルの顔を覗き込んだ。

「間もなく彼女の息吹も天に召される。我々はそれを見届けて,名前,性別,服装,場所・・・分かる限りの情報を記録して祭壇に持ち帰るのだ」

パトリックが「アメン」と唱えるとほぼ同時に,またあの恐ろしい「音」が聞こえた。弛緩した声帯を吐息が震わせるだけの振動音なのか,それは女性の声とは思えない低い周波数で,ゲイリーの時と同じように3秒ほど続いた。

ジェイが手帳とペンを床に置いて小刻みに震えながら十字を切ってパトリックとラファエルに続けるようにして「アメン」と呟いた。

身寄りのない怪我人が息を引き取る度に国際赤十字の職員から呼ばれ,僕たちはその最期を看取る為に足早に移動した。

名前が分からないことがほとんどで,ラファエルの指示で性別や服装,容姿から判断できる大体の年齢,亡くなった時間と場所だけを記録することも多かった。二手に別れて1人ずつ回りながら,分担していても数時間は休む間もなくあちこち動き回ることになった。僕は韓国人のジェイと組んで,祈りを彼に任せて主に聞き取りと記録を担当した。ジェイはここへ来てから数日間は僕の挨拶にも応えず,あからさまに無視をする様な態度を取っていた。イギリスに来てからずっと韓国人との人間関係には失望することが多かったので,それも仕方なく感じていたが,ペアを組んでからのW.W.の任務の上では手際のいい良いパートナーだった。それに,手が空いたときに他愛ない話を振ると少しずつだが返事を返してくれた。

その日の夕方,やはり2人で休憩を取っていると,初めてジェイから話しかけてきて少し驚いた。
「お前はクリスチャンなのか」
一瞬迷ったが「いいや」と正直に答えると,ジェイは軽く微笑んだ。そこで母親と父親の顛末を話してやると,大そう興味深げに聞き入っていた。
「800万とは凄いな」とジェイは呆れたように呟いた。

それから僕たちは水筒の水を入れ換えに国際赤十字の事務所へ行った。病院とは言っても,元は市役所の建物を避難的に利用してるだけで,どの水道も器具や布類の洗浄をするのに立て込んでいたから,支援物資のボトル入りのミネラルウォーターが目当てだった。

パトリックに聞いて国際赤十字のテントへ来たものの,勝手がよくわからなくてうろうろしていると,ぐったりとして痩せこけた青年の車イスを押しながら職員が近づいてきたので,すれ違い様に挨拶を交わしながら尋ねることにした。

金色の髪を首の後ろで結って度のきつい眼鏡をかけた青い目の女性はにこやかに答えてくれた。機能性に優れていそうな夏用の白い制服を姿勢正しくカチっと着こなして,看護師らしい,きびきびとした調子で分かりやすく道の案内をしてくれた。

礼を述べた僕たちに丁寧なイギリス英語で「どういたしまして」と答えた看護師が車イスを押して去ろうとした瞬間,車イスの荷物掛けにぶら下がっているアクセサリーに僕の目は釘付けになって息が止まった。まるで心臓が破裂して全身の血が沸騰する様な感覚に襲われ,僕は目の前の光景に愕然とした。そして崩れるように膝から地面に座り込んで,その紫色のお守りを両手で確認した後,恐る恐る車イスの青年を見上げて,瞬間的に恐れていた想像が現実であると確信した。

「どうしたんだ?」

 僕はジェイの驚いた表情にチラリと視線を向けた後,すぐに青年の腿を震える両手で掴みながら恐る恐る話しかけた。