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Are you Wimpy?

次々と心に浮かぶ景色と音。
そこからは絶対に逃げられないんだ。

★「ネット小説大賞」にもチャレンジ中★

39.一筋の光

2020年08月07日 | 日記
8月も下旬を迎えようとしている頃,その年の夏の暑さはテレビのニュースで「外出すると癌になる」といったレポートが毎日伝えられる程,例年のものに比べて熾烈を極めていて木陰にいれば涼しいという定説も崩される有様だった。

僕は6月いっぱいで語学学校も終了していたから,帰国してからの3週間程の間は特に何をするでもなく毎日を無為に過ごしていた。学生時代に塾講師のアルバイトで貯めた資金も大分残っていたし,せいぜい住んでいたフラットの家賃よりも安い住処を探すべく動き始めているくらいだった。それだって実を言うと,邦子と直美が僕のフラットを気に入ってしまい2人でシェアして住みたいという話が出て,ベンが知り合いの不動産屋を紹介してくれたのがきっかけでもあった。以前以上に僕のアパートで過ごす時間が多くなったカリンも思いの外乗り気で,ウィルソンというそのエージェントとの交渉の中で,カリンが入学を希望していたブライトンカレッジの近くに2人で住む場所を探すことになってしまった。カリンと僕は同い年だったしお互いに家族の様な存在になっていて,帰国した日にカリンからは好意を告白された様な状態ではあったが,決してお互いを求め合う程の強烈なエロスは不在だったから,僕自身も特に抵抗感もなく流れに従っていた。プレストンから少しだけブライトン側に入ったインウッドクレセントに早々2階建てのフラットを借りたマシューがドーナツ工場で働き始めて,ベンはそのフラットに間借りしながら“インテリアデザイナー”と称してウィルソン氏から時々依頼を受けている様なことを言っていた。知り合って間もない2人の日本人の素性は良く分からなかったが,どうやら一月以上もB&B生活をしていたから裕福な家の出だと思っていると,彼女らに言わせれば朝食や風呂,トイレも付いて1泊8ポンドなら日本で下手なアパート生活をするより快適で格安だという論に舌を巻いた。ただ,僕の住むフラットが1ヶ月150ポンドだという事を聞いて,それを目当てにしていたのか僕が通っていた英語学校への9月入学を決めたのだと言ってきた。

ウィルソン氏はとても知的で日本通だった。彼が所有する店舗やフラットの内装デザインをベンが手伝っている関係で僕たちの物件探しに協力してくれた。偶々コレクションの日本刀を自慢された際,その柄部分に刻まれた文字を僕が解説したことを大層喜んで,僕たちの引越しについていろいろと配慮してくれたので有り難かった。僕とカリンが住もうと決めたフラットはブライトンの海岸通りから緩やかな上り坂になったロワーロックガーデンズという通りに面していた。ウィルソン氏曰く,その近隣にはゲイのコミュニティが多く集まっているから家賃も格安で,電気やガス,水道など一切込みで一月100ポンドという耳を疑うほどの提示だった。当時の英国では男女問わず同性愛者が堂々と暮らしていたから意外だったが,不動産の価値が若干下がって家賃が安くなるのは大歓迎だった。しかもカリンがカレッジに通うという話を聞くと勉強机やスタンドまで用意してくれ,僕たちが生活するのに何の不自由もなかったが,彼の早合点でダブルベッドが1つだけ用意されたことに僕は若干尻込みした。

サマーバンクホリデーの26日の昼過ぎ,ウィルソン氏の手解きもあって僕たちは一斉に引越しと手続きを済ませることができた。前日の昼前に突然遊びに来たジエイが「間に合って良かった」と喜んでいた。彼と食べた日本の即席ラーメンがそのフラットでの最後の食事になった。その後出かけた近所のバーでは「引越祝い」だと称してジエイがカールスベルグを1杯奢ってくれて,彼はその足でガトウィックへ向かった。ブライトンターミナルでの別れ際「もう大丈夫そうだな」と優しい笑顔を向けてくれたジエイと力強く抱き合った時,彼とは今生の別れをしたつもりだった。

僕が元々使っていたフラットの仲介は別の不動産エージェントで契約も大分残していたが,その辺もウィルソン氏が上手にやりくりしてくれて,移動の時間も含めて引っ越しは3時間ほどで終了した。新しい居所からはブランズウィックがかなり遠ざかってしまったし,週末のマシューとの約束にはバスを使わなければならなくなったが,残念な気持ちは殊更なかった。

その日の夜、ベン達がブランズウィックでの引越祝いを計画していたが,カリンと僕はそれを丁寧に断って,先ずは新生活に必要な物を買いに出かけることにした。坂を少し上ったセントジェームズストリートにはセインズベリーという休日も営業しているスーパーもあったし,リサイクルショップ,金物屋等々,ウィルソン氏がそこまで考えてくれたとは思わないが,とにかく欲しい物は何でも手に入る通りだった。僕たちはカーテンやシーツ,当面の食料の他に,屋台で売られていたケバブと冷えた瓶ビールを買い込んできて,2人で新生活の門出を祝うことにした。その日は夏らしい暑さで1時間ほどの買い出しでも大分汗をかいたが,地下室の様な造りのフラットに戻るとひんやりとして心地良かった。部屋に入ってすぐにカリンがベッドの上に飛び込んだ。彼女はすぐに身体を起こしてマットの上に足を組んで座ると,自分の左側をポンポンと叩いて僕のことを招いた。僕は少し照れ臭かったが,彼女の横に静かに座ってみると,カリンが小柄なこともあったが,思いの外広々としたベッドに安心した。僕が「大きいね」と言うと,彼女は上目遣いに少し頬を赤らめた。

20畳程のワンルームの小さなキッチンの前には2人掛けのテーブルと椅子が据えられていたから,僕たちはそこで祝杯を挙げた。僕たちの定番メニューになることを予見できるほど美味しいケバブをプレートの上でフォークを使いながら食べていると,突然カリンが切り出した。

「あなたもカレッジに行かない?」

僕の留守中にケンブリッジ大学主催の英語検定に合格したカリンは以前より自信に満ち溢れていた。それとは反対に,帰国してからの3週間をただ思い出だけを人生の拠所にして過ごしていた僕は,きっと彼女にはとても荒んで見えていたのかもしれない。明かりのない真っ暗なトンネルの中を歩いているような日々を過ごしていた僕にとって,カリンのその一言がさり気なく足下を照らしてくれた気がして,その提案を断る理由など何一つ見当たらなかった。

38.運命

2020年08月07日 | 日記
ブランズウィックで飲み直そうと提案したのは僕だった。海辺にあるブランズウィックの方がやはりのんびりと寛げたし,自分のフラットから歩いて10分ほどの所だという安心感もあった。それに,日本から来た“OL”だという彼女たちもイギリスに来てほんの数日で実は語学学校も住む場所も決めていないという状態だったから,僕が通っていたホーヴ駅近くの学校や比較的安価なフラットが並ぶ通り等についても興味があるみたいだった。

ブリティッシュグリーンのメトロというマシューの小さな愛車に乗りこんで移動することになった。見た目からは想像出来ない程室内が広く,後部座席の小柄なベンが王様になった様な態度で邦子と直美の隣で満足そうに座していた。ブランズウィックはKing&Queenに劣らず多くの人で賑わっていた。車から降りてすぐに何ともいえない胸の苦しさを覚えて,僕は駐車場側の入り口の数メートル手前で足を止めた。馴染みの客も多いから,僕の姿を見つけると「久しぶりだな」と声をかけてくれる人もいたが,僕は笑顔を向けるのが精一杯で何となく店内に入るのが怖くて仕方なかった。もうそこにはアジャもイーゴもイレイナも円山さんもいない。ブランズウィックは何も変わっていないはずなのに,僕にとっては全く見知らぬ場所になってしまったことをその時初めて思い知らされたのだ。

邦子や直美を口説くのに夢中になっているベンとマシューは,僕のそんな思いなど気にも留める様子がなかった。だから僕がすぐ先にある海辺に酔い覚ましに歩くことを提案すると何の躊躇いもなく快諾してくれた。イギリスの夏は日が長く,そろそろ8時になるというのに昼間のような明るさだった。最初はブランズウィックから逃げるようにして海岸を目指した僕だったが,キングズウェイを渡って海辺の歩道に辿り着いた途端,少し前にブランズウィックで感じた恐怖感に似た感情にまたも支配された。日本では見かけない石浜にはまだ大勢の人たちが散在していて時々はしゃぐ様な叫び声が聞こえてくる。得体の知れない力の様なものに足止めを食らっている僕に流石のベンも訝しさを感じたのか「大丈夫か」と聞いてきた。僕は不機嫌な声で「少し疲れた」とだけ答えた。そのやりとりに少し気が紛れたのかなぜか自然と足が前へ出て,いつしか誰が先頭ということもなくガヤガヤと話しながら海岸沿いを西の方へ進んだ。僕らは勿論英語で談笑していたのだが,邦子や直美がベンたちに日本語を教え始めて,時々僕も意見を挟み込みながら15分程歩いた。ホーブストリートまで来たところでブランズウィックに戻るつもりで北上しているうちに,6月まで通っていた英語学校まで足を延そうという流れになってしまった。僕はいつの間にか,アジャ達との楽しかった1ヶ月を思い起こす様なルートを辿りながら気が付いたときには円山さんが住んでいた家の前で立ち止まっていることに気付いた。最後に見かけた時に掲げられていたFOR RENT”の看板は取り除かれている。すると表で庭仕事をしていた初老の女性が家の様子を見つめていた僕に気づいて声をかけてきたから,僕はフェンス際に走り寄って尋ねた。

「ここを借りられたんですか」
「借りた?」
「ええ,前に“FOR RENT”の看板を見かけたものですから」
「ああ・・・」

僕が開け放たれた窓の奥に円山さんと組み立てていたミニの姿を認めたのに気づいたのか,今度はその女性が尋ねてきた。
「自動車が好きなのかしら?」

突然マシューが近づいてきて話に割って入った。
「キットカーを組み立ててるんですか,すごいですね」
「いいえ,アレはもう処分するところよ」
「ええ! 勿体ない!」

僕が暫く黙ったまま2人のやりとりを見守っていると玄関の方からご主人らしき男性が近づきながら元気よく話しかけてきた。

「前に住んでいた日本人の知り合いかい」
「まぁ,そうなの・・・?」

僕がどう説明しようか迷っていると,ベンがマシューの肩を抱いて言った。
「昔直してたミニよか上等だな」
「結局だめだったからな」
「部品は全部揃ってるんだ・・・」

自分の一言で生じた一瞬の沈黙の中,僕がそのミニに纏わる話を簡単に説明すると,聞き入っていたご主人が何の前置きもなく僕たちを部屋の中へ招待した。

部屋の中にはいくつか見慣れない家財道具があったが,以前とそれほど見栄えは変わってはおらず,カウンターの向こう側にジャッキアップされたミニが所狭しと鎮座しているのが見えた。開いた窓から風が流れて油と鉄のにおいを運んでくる。それを懐かしく味わおうと深呼吸をした途端,なぜか強烈な悲しみが沸き起こってきて,僕はそこにヘタリと座り込んで立てなくなってしまった。驚いた邦子とベンが僕に駆け寄って体を支えてくれたが,僕は涙が止まらなくなってそのまま2人の腕の中で目をつぶって黙ったまま自力ではすぐに立ち上がることはできなかった。痙攣する瞼の向こうで慌てた老夫婦がグラスに水を浪波と注いで直美に渡すのが見えた。マシューは老夫婦に自分たちが数時間前に帰国したことや,旅先での活動のことについて触れながら,きっとその疲れが一気に出ただけなのだと説明していた。マシュー達が老夫婦と紹介し合っているのを見ながら直美に水を飲ませてもらっている内にぼんやりとした視界が徐々にはっきりとしたコントラストを取り戻して,セピア色に映っていた景色が色合いを帯びていった。

それが運命だとするならば,僕は何かに導かれていくように新たなる出会いの中に無理矢理引き戻されて,神という存在が本当にあるのならば,意地悪にも冷たい別れを前提とした優しい出会いという物を僕たちの前に並べて,その様子をほくそ笑みながら眺めているのかもしれない。

ナイト夫妻は元々円山さんが借りていた家のオーナーで,円山さんとの契約が終わった後すぐに入居の募集を考えたものの,円山さんが処分するはずだった組み立て途中のミニが置き去りにされていたこともあって,結局ブライトン中心部にある自宅を売り払って海辺に近いこの家で余生を過ごそうと決心したのだという。幼い頃に機械工の父を亡くしたマシューが高校生の時分に近所から拾ってきたボロボロのミニを直そうと自宅のガレージで悪戦苦闘した経緯に「リベンジを果たさないか」という提案をしたナイトさんは「新しい人生の幕開けに相応しい一大イベントになりそうだ」と良い意味で鼻息を荒くしていた。僕たちに紅茶とスコーンを振る舞ってくれた奥さんもワクワクした様子が隠せず, 「いきなり子供が何人もできたみたい」と嬉しそうに呟いた。すっかり気分が落ち着いた僕はマシューとミニのパーツを一通り確認して,毎週土曜日の午前中にナイト邸で落ち合って円山さんのミニを完成させる段取りをした。

37.King&Queen

2020年08月07日 | 日記
僕は小さめのボストンバッグを右肩に掛けて約束の場所へと急いだ。駅前のトラファルガーストリートを5分ほど西へ,クイーンズロードを左に折れて更に5分ほど行くと右手に貴族の紋章の様な釣り下げ看板が目に入る。扉は開け放してあるから,通りにもバンドの生演奏の音が響き渡っていて,歩道の人も一瞬興味深げに中を覗き込んで確認する。自分も最初にここを訪れた時は同じような感じで,正直に言うと,ホーヴにあるブランズウィックというパブに比べれば居心地はよろしくない。それでもKing&Queenは大盛況の賑わいを見せていた。僕は約束通り彼らは来るのだろうかと半信半疑で身体半分入店させた状態で,まだ7時前だというのにパイントグラスを片手にご機嫌に語り合う人混みの中に2人の姿を探した。響き渡るサキソホンのフレーズに注意を奪われた途端,バンドの右手前のテーブルに陣取っているマシューが左手を高く上げて微笑みかけているのが目に入った。薄暗い店内で,マシューの丸眼鏡が,オレンジ色の照明を反射して白っぽく煌めいている。僕はバッグが誰かとぶつからないように精一杯の努力をしながら彼の方へ真っ直ぐ進んだ。もうひとつブランズウィックと明らかに違う点は,このパブには椅子付きのテーブルが何脚か並べてあって,のんびりとバンドの演奏を楽しむことができる様になっていることだ。僕はマシューの左横に雑に並んでいた椅子に腰掛け握手を交わしてから騒がしい音を嫌うようにマシューの耳元で尋ねた。
「ベンは?」
マシューは呆れた表情で肩をすくめがら,既に1/5程しか残っていない黒ビールを少しだけ口に含んだ。

バンドの女性ボーカルがドラムのハイハットのリズムに会わせて小刻みに身体を揺らしている様子が,スローな曲とギャップがありすぎて気になって眺めていると,突然肩をパンと小気味良く叩かれて身体を捩らせた僕の左側にベンが軽やかに座った。

「ソーヤン,大事な話があるんだ」
ベンはのっけから真剣な表情で切り出した。

「日本語で,“You’re so beautiful”って何て言うんだ」
「あぁ,それは“きみはきれいだ”だよ」
「きみわ・・・きれいだ」
「そうそう」
「OK」

ベンは,まるで戦車に爆弾でも落としに来た戦闘機みたいに,すぐさま立ち上がって通り側の隅の方へいそいそと姿を消した。

「いつもあんな感じ」
「あんな感じって?」
「女だよ。日本人が好きなんだ,アイツはね。特に日本人の女」
「あぁ,なるほど」

そもそも英語を学びに来たんだという思いで,学校で日本人を見つけても関わらない様にしていたこともあったが,僕のニックネームのせいか,どうやら日本人学生は僕の事を同胞とは思わないらしく,僕自身も常にアジャやイーゴたちと連んでいたから,その時まで余り日本人のことなんか気にならなかったけど,折しもその年は“JAPAN FESTIVAL”という催し物が全国的にあって,何だか日本人の存在感が急激に強まっている様な雰囲気もあった。

ぐるりと見回してみても,そこかしこに日本人らしき若者の何と多いことか。ここで「日本人らしき」と僕が言っているのは,これも海外留学すると実感することなのだが,服装や髪型,醸し出す雰囲気で中国人や韓国人と直感で区別できるということであって,それにはそれほど高い正確性が伴わないからだ。

すぐ後のテーブルに座るグループにも日本人が何人かいて,所謂“Japalish”(Janglishとも言うかもしれない)で一生懸命に会話をしている。

「なぁ,ソーヤン。アイツら何語話してるんだ?英語にも聞こえるけど・・・」
真剣な眼差しでその一行を観察するマシューの様子に僕は思わず吹き出した。そんなことには気も留めず,必死で英単語をカタカナで並べる日本人と,眉を顰めながらじっと凝視しているマシューの姿がこの上なく滑稽に見えたので僕は涙が出るほど笑って胸が苦しいほどだった。

「あれは英語だよ。英語」
「そんなばかな。全然わかんないぞ。オレってイギリス人だよな?」

マシューのジョーク,もしかすると真剣な感想だったのかもしれないが,僕は更に笑いが止まらなくなって死にそうなくらい大笑いした。そのうちマシューも愉快になってきたのか,2人で笑っていると,またベンが僕の肩を叩いた。

「“I love you”って何ていうんだ」
「ああ,それは・・・」

僕はアジャたちがイギリスを去って,円山さんが姿を消して以来,こんなに愉快に笑い転げた記憶がなくて,本当に何もかもがどうでもいいくらいに愉快で爽快な気持ちになっていたから,その時思いがけず悪戯心に支配されて,彼が真面目な顔で復唱する姿に笑いを堪えながら言い尽くせないほどの卑猥な日本語を3つ程教えて見送った後,マシューにそれを教えるとマシューも呼吸できないくらいに笑って,2人でベンの様子を観察しようと後を追いかけた。

ベンが向かったテーブルにはおとなしそうな日本人女性が2人座っていて,ベンはその前に立ちはだかると,なぜか人差し指で天井を指して僕が教えた禁止用語を大きな声で唱えたものだから,僕はマシューと一緒に肩を組んで爆笑した。女性たちが呆気にとられてニコリともせずベンを睨み付ける様子に異変を察したベンがゆっくりと僕たちの方を見た時の情けない顔といったら。僕たちは声を枯らして笑い続けた。すると僕たちの周りにいた見知らぬ人達までもが「何があったんだ」と言うほどの騒ぎになってしまい,マシューが気さくに説明するとあちこちで笑いが連鎖して,それに促される様にその日本人女性たちも笑った。僕は何だか煽られたみたいに再び笑いが混み上がってきて,ベンに謝りながら笑い続けると,ポカンと口を開けたまま自分が置かれている状況を把握できないかといった表情でアピールするベンの姿に観衆は笑いをそそられるのだった。

たかだか5分ほどのエピソードだったが,多くの人たちの幸福そうな笑顔と声と熱気に,深手を負った僕の傷心が癒やされていくのを一瞬でも感じることができたのは幸いだった。それに,この出来事のおかげで,ベンとマシューはその日本人女性たちと付き合うことになったし,マシューに至っては翌年に結婚まで漕ぎ着けたのだから,ベンに嘘を教えたことに対する罪悪感などは微塵も感じる必要はなかったんだ。

36.告白

2020年08月02日 | 日記
教会に到着したのは午後6時前だった。前席越しのフロントガラスの向こうにニコラス牧師とカリンが出迎えているのが見えた。彼らが待ち構える歩道近くに車が静かに寄せられると,ドーバーから無言で運転してきた牧師が穏やかな声で「到着しました」と言いながらドアロックを外してくれた。僕が礼を述べながらドアを開けて降りようとした時,僅かに車が下がってサイドブレーキのギーという音が聞こえた。

ニコラス牧師は真っすぐにコチラを見据えて小さく会釈をした。僕はドアを閉めて彼の前に立ったが何を言うべきか思いつかず,ただ「ハロー」とだけ言って顔を覗き込んだ。

「手帳をお預かりします」
ニコラス牧師からそう言われて,荷物から雨や土を含んでブアブアにふやけたノートを慌てて取り出したが,僕は一瞬それを渡すのを躊躇した。そのノートは元々アジャに手紙を書くために自分で用意したものだったし,1ページ目には彼女とイーゴのことが記してあった。それに,数日間でも亡くなった人たちに寄り添った証として自分の身体の一部の様な気さえしていた。手元を見つめている僕の気持ちを察する様に,ニコラス牧師が両手で手帳を優しく掴んで,僕が手を離すのを待ってくれていた。僕は数秒ほどして大きく息を吐きながら指先の力を抜いた。ニコラス牧師は手帳を大切そうに自分の額の上で拝みながら祈りの言葉を呟いた後,すぐ後ろにいたカリンに渡した。ノートを受け取ったカリンが一瞬はっとした様にこちらに目をやったので僕は頷く仕草をした。きっとカリンも,そのノートが手紙用だったということに気付いたに違いない。

「これが代わりです。今回はお渡ししていなかったので」と言いながら,ニコラス牧師がポケットから新品の手帳を取り出した。彼も僕がW.W.になることまでは想定していなかったのだろう。

「お疲れでしょう,お送りさせましょうか」
長身のニコラス牧師は僕を優しく見下ろしながらゆっくりと話された。

「・・・いえ・・・」
僕がまたカリンに目をやると,ニコラス牧師が「カリンも間もなく帰ります」と付け加えた。僕が「では待ちます」と応えると,自らも降りて僕たちの様子を見守っていた運転手が「失礼します」と唱えた。僕が振り向いて「ありがとう」と言うのを合図に,彼は晴れ晴れとした笑顔で車に乗り込んですぐさまに走り去った。

ニコラス牧師は車を見送りながら会釈をしてから,僕の方へ向き直って微笑みかけた。
「あなたは思いがけず,私達の家族になりました」

その時僕は牧師の言葉の意味がよく分からなったが,何も言い返さずニコラス牧師の背中を見送った。カリンは悲しそうな瞳でちらりと僕の方を見てから無言のまま彼に続いて建物の中へ進んだ。

教会の屋根に据えられた十字架のオーナメントが青空を背にして,まるで帰りを待ち受けていたと言わんが如く,まだ高い日の光を僕の方へ反射していた。僕は暫くその眩しさに目を細めながら見上げていたが,ふと視野に入った道端のベンチに歩み寄って深く腰掛けた。貰ったとて使い道など思いつかない新しい手帳を右手に持ったまま,今度は肘を自分の膝に着けた前かがみの姿勢でカリンを待つことにした。記憶を整理しなければと思いつつも何から手を付ければいいか思案している内に,勢いよく右側に座ったカリンが僕を力強く抱きしめた。

「おかえりなさい」

そう言うと,カリンはすぐに両手で顔を覆ってすすり泣き始めた。どうしていいか分からなくて何度か彼女の名前を呼んだけど,僕の胸元でカリンは首を小刻みに横に振りながらただ泣くばかりだったから,今度は僕が彼女の肩を抱いてあげた。

「あなたがいないと駄目・・・」

そう囁いてからカリンは少しずつ落ち着きを取り戻して話し始めた。それでも時々苦し気に嗚咽しながら,アジャたちがずっとこの教会に通っていたことや,ニコラス牧師が本当はアジャたちの事を気にかけて僕のことを派遣したことを告白してくれた。

「ごめんなさい。でもこんなことになるなんて・・・」

イギリスからの派遣は元々後方の物資運搬の仕事が目的だったのだが,危険な地域に展開していたフランスの派遣グループに僕とゲイリーを加えたことも教えてくれた。それは僕をアジャに会わせる為に全てカリンが教会に頼んだことだったこともわかった。

「アジャは・・・アジャは私にとっても大切な友達よ。ゲイリーも・・・」

ゲイリーはカリンが勤める教会の信者家族の長男で,僕が帰国する迄には既に遺体不在のまま教会でひっそりと葬儀が執り行われた。ゲイリーの死の連絡を両親と妹が不思議な程冷静に受け入れ,母親が葬儀の挨拶の中で「神の御心に添えたから本望だ」と言った時,カリンはショックの余り足がすくんだという。

「私はあんなに強くなれない・・・」

カリンは左腕の傷跡を右手の人差し指と中指でなぞりながらまた泣き始めた。それから彼女が高校を卒業してすぐに幼馴染と結婚していたことや,夫が自分の父親の運転する自動車に同乗している時に事故で亡くなったことを話した。その時の怪我で父親が車椅子の生活になっていることも。

「父のことを憎んだって無駄だって分かってた。それでも恨むしかなかった」

罪悪感を払拭できない様子の父親を不憫だと思いながら,逆にその気持ちに甘んじて冷たく当たった挙句,当てつけに自殺を図ったいきさつも説明した。

「アジャの訃報は昨日知ったわ。だから・・・」

カリンは僕の腕を解いて,姿勢を正してから僕のことを少しの間力強く見つめてから静かに落ち着いて話し続けた。

「ソーヤンの気持ちが苦しいくらいわかる・・・」

僕はカリンの左手を優しく掴んで手首の傷を撫でながら「ありがとう」とだけ応えた。彼女に出会った頃からその傷には気付いていたけれど,まさかそんな悲しい物語が秘められているとは想像してなかったし,今回の派遣の一連の流れにも多少は驚いたものの,その時の僕には何もかもが普通に受け入れられる程の不気味なゆとりがあった。

カリンははっとした様に左腕を隠しながら恥ずかしそうに顔を背けた。

「ごめんなさい。こんな時に・・・」

僕は急に話題を変えなければと感じて,ベン達と会う約束がある事を伝えながら立ち上がった。カリンは座ったまま優しく「いってらっしゃい」と微笑んだ。僕を見上げるその表情は太陽の光に照らし出され,さっきまで泣いていたとは思えないくらい晴れやかに輝いていた。僕はカリンの笑顔を確認するために数歩だけ後歩きをして,そのままパブの方へ元気よく向かった。

35.名前

2020年07月25日 | 日記
8月4日,日曜日,午後2時。僕は既にドーバーに向かうフェリーに乗っていた。

往きの旅で見かけたイギリス人二人もブリュッセルから一緒だった。防弾ベストやヘルメット,泥や汗や血に塗れた“作業着”のことが不思議なくらいに懐かしく,ふわふわとした軽い体に重力すら失ったかの様な違和感すら覚えて,僕はぎこちなく船上の旅の中にあった。もはや,そこには黴臭い土や金属と硫黄の混じった殺し合いの臭いもなく,ただ少しだけじめりとした夏の潮風の香りが僅かに漂っていた。旅の途中で遇った幼い不思議な兄妹のことを思いながら,上空を漂う雲を見上げては時折目を瞑って,果たしてそれが現実だったのか夢だったのか漠然と考えていた。

同行していた牧師は,イギリス人らしい丁寧な発音で細かく指示してくれたが,僕たちに名乗ることはなかった。でも,出会いが別れの始まりなのだなどという,ある種トラウマの様なものにとりつかれていた僕にとってそれはありがたく,逆に余計に優しくさえ思えたし,牧師はそのことを察していたのかもしれない。

不規則に,しかも唐突に目の前に鮮やかに現れるイーゴやゲイリーの姿を追い払うことができず,断続的に目を開いてはアジャのお守りを何度も握り締めて,僕はただラウンジのベンチに腰かけて俯いていた。

「やぁ,大丈夫かい」
例のイギリス人二人が僕の両側に腰かけた。
「ベネディクトだ,往きでも一緒だったろう,コイツはマシュー」
「僕は・・・」

二人と握手を交わしながら,僕は一瞬自分の名前を言うのを躊躇した。リアノが僕につけてた“Wimp”というあだ名に多少は愛着があったし,いろいろな記憶をまだ整理できないのと同時に自分自身が一体何者なのか証明する自信すらなかった。それに,名乗るということは別れの導入である出会いを受け入れることになるのだから,この短期間に受け入れ難い永遠の別れをいくつも体験した僕には,まるでその名前を自分の手帳に記さなければならないという錯覚すら生じて,酷い抵抗感があった。

「面白いだろ,コイツの名前は“ベンドディック”(折れたチンポ)ってゆーんだぜ」
「何だと,この“マシュマロ頭”め」

何だか二人で示し合わせた様な漫才に絆されて,僕は自然と“ソーヤン”というニックネームを選んで伝えた。

「もう21歳だから,若くはないけど“So Young”」
「同じ歳じゃないか。中国人かい」
「いや,日本から来た」
「じゃあ,あいつは・・・ほら,ゲイリーとか言ってたろ」
「・・・彼は・・・」

一瞬目の前が真っ暗になって「寒いんだ」というゲイリーの最期の声が聞こえた。

マシューがハイネケンの小瓶を僕に差し出して肩を摩りながらベンとの漫才を続けた。
「あいつはイギリス人だ。中国系のな」
「へぇ」
「往きの便所で少し話した」
「小便の友」
「ああ,少なくともチンポは曲がってなかったけどね」
「黙れ“マッシュルーム”め」

ベンが僕の肩越しに何度かマシューの頭を叩いた。余りのくだらなさに僕がクスっと漏らすと「笑ったな,コイツめ」と今度はベンが僕の肩を摩った。僕たちは古い友人の様に瓶をカチンと合わせてから冷たいビールで喉を潤した。二人が僕の頭越しに元気よく談笑を続けた。

「やっぱりビールは冷えてるのが1番だな」
「でもパブのぬるーいビールも懐かしい」
「それにしても,拍子抜けだったよな,戦場ってのは」
「来る日も来る日も物資運びだけで腰が痛くなっちまった」
「そっちはどうだったんだ,ソーヤン」

イーゴの泣き声と僕が見送った大勢の人達の「神の息吹」が甦った。僕はそれを振り払う様に右手に持っていたお守りを固く握りしめ立ち上がってから彼らを見下ろした。二人は一瞬ぎょっとした目で僕を見上げたが,僕が自分の影の下で怯える彼らの様子にはっとして「もう御免だな,あんな仕事は」と応えると二人ともホッとした様に立ち上がって一緒に船尾の方へ歩き始めた。

僕は本当に心の底から二度とは戻るまいと思ってはいたが,イレイナの消息を掴んでいないこともあって,僅かに後ろ髪を引かれる感覚も持ち合わせていた。数か月後,もっと過酷な状況に陥ったかの地へ,まさか自ら志願して出かけることになろうとはその時は微塵も想像していなかった。

「なんだ,ソーヤン,ブライトンなのか」
「俺たちはプレストンだよ」

何の因果か,もう誰とも出会うことを望んでいなかった僕に,神は新しい出会いを下さった。それは新しい「試練」として与え給うたものなのか,この上なく嬉しそうに燥いでいる二人とは対照的に複雑な心境にあった僕には苦笑いしか浮かばず,それが逆に彼らの気持ちを高揚させた。

「マシューのクルマで来てるんだ,通り道だから送るぜ」
「ああ,あの陰気な牧師ともおさらばだ」

僕は彼らの申し出に丁寧に礼を述べてから,教会で待つカリンのことを理由にして牧師と同行する旨を伝えた。見たところ,彼らには教会に届けるべきノートは持ち合わせてはいない様子だったし,彼らが体験したものはどうやら僕のものとは大きく違っていた。

ベンが厭らしい長めの口笛を吹きながら羨ましそうに頷いた。
「そりゃ,仕方ないな」

牧師はマシューが車を預けている親戚の家まで送ると提案したが,二人は早く状況を脱したかったのか固辞してフェリーで車に乗り込むことはなかった。その晩ブライトン駅近くにある“KING&QUEEN”というパブで落ち合う約束をして,僕は黙って牧師の色褪せた銀色のフォードシエラの後部座席で船着き場へ到着するのを待った。船の倉庫はひんやりとしていて,エアコンを装備していない車でも広々とした室内は居心地が良く,僕はそのまま深い眠りに誘われていった。