2017年3月2日 札幌 シアターキノ

エゴン・シーレはタブーと挑戦的に戦った画家だと認識していた。
そういう風に紹介している図書が多いし、作品を直視できないようなエロい絵画が多い。
エロいというべきかエロスというべきか正直悩む。
映画はドライな印象であった。
フランス映画だったら、もっとエロくねっとりした描写になるような「主題」であるのに、驚くほどあっさりしている。
エゴン・シーレが育ちのいい好青年過ぎて、残された作品を改めて見ていても好青年の印象は全くない。
絵画から読み取れる解釈ではなく、年表と出来事、文献などをフラットな目で見てストーリーを組み立てたのかもしれない。
妹ゲルティの目線からの物語ということで、大好きな兄を余計なフィルターをかけないで美しく表現させたかったのかもしれない。
今まで、わたしはエゴン・シーレを色眼鏡をかけて見ていた。
そしてあらゆる方向から人物を見ようとはしていなかったことに気がつかされた。
シーレはとにかく人を描きたかったのだ。
人の形だけではなく、人の内面をえぐり出して描きたかったのだ。
ただ美しい人や装飾美術など形式的に描ける。
人の内面のエグいところは、感じ方が人それぞれであるように表現も独自なものになってしまった。
ただそれだけのことであったのだ。
シーレの絵画が彼の生きていた時代に受け入れられたのは、時代的にも土地柄的にも幸運な方だったのかもしれない。
未成年者誘拐事件や妹との近親相姦疑惑など、今の時代に生きていたとして(日本的な環境に身を置いているわたしの感覚で考えて)、彼のやっていたことはワイドショーに毎日とりだたされて叩かれて、ネット上では炎上することだと思う。そして炎上商法も何食わぬ顔でやり通す青年なのではないかと思う。
シーレにとって周りの目や評価など気にしていないのだ。
シーレはただただただ、人の内面からにじみ出るものを描くことに興味があったのだ。
その対象が、女性であれ、男性であれ、未成年であっても全く関係なかったのだ。
独特なポージングも描きたい対象物を極限にまで削ぎ落として見えたかたちなのではないかと思った。
彼の独特なセンスを理解したモデルはいい理解者であったが、彼が最終的に妻に選んだエディットは中流階級のお嬢様で妻であるためにシーレの思うままに描かせなかった。
わたしが妻だとしても、内面も外見もえぐり出してプライバシーを人々に晒してもいいよとは言えない。
芸術を理解していても、邪神を捨てきれない。だからわたしはヴィーナスにはなれないんだよね。
そういう意味でも、モデルとしてシーレを支えたモアやヴァリはヴィーナスであった。
映画では「死と乙女」は、ヴァリの訃報を知ってタイトルを変えたことになっていますが、実際のところはどうなのでしょう。
シーレは結婚してもなおヴァリとの関係は続けたかったけれども、シーレの思うようにことは進むはずなく・・・。
この辺の感覚は芸術家なのか、それともいいところだけを取りたいおぼっちゃまなのか頭が混同してしまいますが、彼の作風や思想から考えると人と同じものの考え方ができないよく言えば天才肌で悪くいうと空気の読めない男だった。だから彼は時代の寵児になり、28歳の若さで亡くなったことが、芸術家としての汚点を残さずに済んだ。
いやいや、汚点は妻の絵を想い通りに描けなかったことではないのだろうか。
すべてはうまく進むと考えていた。今の日本でいう中二病者である可能性は捨てきれない。
そう考えると、シーレの人生をもう少し妄想してみるのも悪くはないかな。
「エゴン・シーレ 死と乙女」

エゴン・シーレはタブーと挑戦的に戦った画家だと認識していた。
そういう風に紹介している図書が多いし、作品を直視できないようなエロい絵画が多い。
エロいというべきかエロスというべきか正直悩む。
映画はドライな印象であった。
フランス映画だったら、もっとエロくねっとりした描写になるような「主題」であるのに、驚くほどあっさりしている。
エゴン・シーレが育ちのいい好青年過ぎて、残された作品を改めて見ていても好青年の印象は全くない。
絵画から読み取れる解釈ではなく、年表と出来事、文献などをフラットな目で見てストーリーを組み立てたのかもしれない。
妹ゲルティの目線からの物語ということで、大好きな兄を余計なフィルターをかけないで美しく表現させたかったのかもしれない。
今まで、わたしはエゴン・シーレを色眼鏡をかけて見ていた。
そしてあらゆる方向から人物を見ようとはしていなかったことに気がつかされた。
シーレはとにかく人を描きたかったのだ。
人の形だけではなく、人の内面をえぐり出して描きたかったのだ。
ただ美しい人や装飾美術など形式的に描ける。
人の内面のエグいところは、感じ方が人それぞれであるように表現も独自なものになってしまった。
ただそれだけのことであったのだ。
シーレの絵画が彼の生きていた時代に受け入れられたのは、時代的にも土地柄的にも幸運な方だったのかもしれない。
未成年者誘拐事件や妹との近親相姦疑惑など、今の時代に生きていたとして(日本的な環境に身を置いているわたしの感覚で考えて)、彼のやっていたことはワイドショーに毎日とりだたされて叩かれて、ネット上では炎上することだと思う。そして炎上商法も何食わぬ顔でやり通す青年なのではないかと思う。
シーレにとって周りの目や評価など気にしていないのだ。
シーレはただただただ、人の内面からにじみ出るものを描くことに興味があったのだ。
その対象が、女性であれ、男性であれ、未成年であっても全く関係なかったのだ。
独特なポージングも描きたい対象物を極限にまで削ぎ落として見えたかたちなのではないかと思った。
彼の独特なセンスを理解したモデルはいい理解者であったが、彼が最終的に妻に選んだエディットは中流階級のお嬢様で妻であるためにシーレの思うままに描かせなかった。
わたしが妻だとしても、内面も外見もえぐり出してプライバシーを人々に晒してもいいよとは言えない。
芸術を理解していても、邪神を捨てきれない。だからわたしはヴィーナスにはなれないんだよね。
そういう意味でも、モデルとしてシーレを支えたモアやヴァリはヴィーナスであった。
映画では「死と乙女」は、ヴァリの訃報を知ってタイトルを変えたことになっていますが、実際のところはどうなのでしょう。
シーレは結婚してもなおヴァリとの関係は続けたかったけれども、シーレの思うようにことは進むはずなく・・・。
この辺の感覚は芸術家なのか、それともいいところだけを取りたいおぼっちゃまなのか頭が混同してしまいますが、彼の作風や思想から考えると人と同じものの考え方ができないよく言えば天才肌で悪くいうと空気の読めない男だった。だから彼は時代の寵児になり、28歳の若さで亡くなったことが、芸術家としての汚点を残さずに済んだ。
いやいや、汚点は妻の絵を想い通りに描けなかったことではないのだろうか。
すべてはうまく進むと考えていた。今の日本でいう中二病者である可能性は捨てきれない。
そう考えると、シーレの人生をもう少し妄想してみるのも悪くはないかな。
「エゴン・シーレ 死と乙女」