わたしの里 美術館

とりあえず西洋絵画から始めて、現代日本作家まで

逸見 政孝

2008-10-25 | Talent

タレント

 逸見 政孝【わたしの里・Talent】1945 ~ 1993


逸見 政孝 (いつみ まさたか)

(1945216日 - 19931225日)
日本のフリーアナウンサー、タレント、俳優、司会者、ニュースキャスター。
元フジテレビアナウンサー。愛称はいっつみい。
大阪府大阪市阿倍野区出身。
妻はエッセイストの逸見晴恵、長男は俳優の逸見太郎、長女はタレントの逸見愛。

(wikipedia)

 

 

 

死去の背景[編集]

弟・憲治の癌発症[編集]

2歳年下の実弟である憲治(同志社大学在学中は学生相撲でならした)は、1980年に胃癌の中で最も予後の悪いものであるスキルス胃癌で半年間の闘病の末に、32歳の若さで兄の政孝より先に死去。このことから逸見は、人一倍癌に対して気をつけ、年一回の検診も欠かさず受けていたが、皮肉にも弟の死から13年後、同じ病で亡くなった。

憲治は、婚約が決まった直後に受診した精密検査で末期の胃ガンを発見されたが、結局最後までガンの告知はしなかった。逸見はこの件について「幸せの絶頂にある弟に末期の胃癌であると告げることはとても私にはできなかった」「癌の告知をすべきか否か、私自身このことについてはまだ結論を出せずにいる」と著書で告白している。また、憲治の婚約者にも逸見からは知らせることができず、結局は仲人から事実を伝えることとなった。ちなみに、後に逸見自身が癌だと告知された時には「助かる望みがあるからこそ告知されたんだ」と言い聞かせながら闘病生活を送っていたという。

『FNNスーパータイム』のキャスターを務めていた1988年、石原慎太郎にインタビューした際、石原の実弟である石原裕次郎が前年肝細胞ガンで亡くなったことを踏まえて、自らの弟も癌で亡くなったという話を切り出した。慎太郎は一瞬表情を変え、「やっぱり兄弟は生まれた順に死んでいく方が良いよね」としんみりとした口調で話した。また、患者本人に癌を告知しなかった点についても逸見は触れたが、慎太郎は「僕は告知した方が良かったと思う」と語っている。なお、逸見が癌を公表して入院した際には慎太郎からも激励の手紙が送られている[13]。

1991年、古舘伊知郎(元テレビ朝日アナウンサー)の姉が癌で他界した時には、同じフリーアナウンサーであり、比較的若い年齢で兄弟を癌で亡くした同じ悲しみを知る者として、古舘にお悔やみの手紙を送った。また、四十九日法要の際には古舘のもとを訪れて霊前に手を合わせ、思い出話をしていったという。これをきっかけに親交を持つようになり、癌で入院した際には『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』の店長代理として古舘が2度出演している。

癌発症までの病歴[編集]

1970年代後半頃から糖尿病を発症していた。酒類が全く飲めない反面、学生時代から下宿の窓にコーラの空き瓶がズラリと並ぶほどのコーラ好きであり、また全般に甘いものが大好きだったため、それが原因であると推測される。医師の勧めで運動不足解消のためゴルフを始め、食事制限をするなどして血糖値を正常に戻した。また、弟・憲治の癌発症もあってそれまで1日3箱吸っていたタバコもきっぱりとやめた。それでも、糖尿病は亡くなるまで逸見について回った。また、仕事優先のあまり糖尿病の治療がおろそかになりがちだったともいわれる。

1981年には胆石で入院。自宅の新築を控えて、既に当時から休日返上で結婚式の司会などのアルバイトをこなしていたこともあり、見舞いに訪れた上司から「これからはアルバイトは一切禁止だ」と言われ、「分かりました」と殊勝に頷いていたが、実際にはこの後もアルバイトを続けた(休みは年間で10日程しか取らなかったという)。

1988年秋、本番前の控え室で突然倒れて1週間近く入院。当時担当していた『FNNスーパータイム』を3日間休んだ。フリーになった直後で、精神的なストレスが増大した結果の発症であった。

1989年は年末に腰痛が悪化。ついには歩けないほどになったため、1990年の1月1日から10日間入院した。この時、内臓疾患が腰痛の原因となることもあるということで内臓の検査も受け、慢性胃炎、十二指腸憩室症、大腸ポリープなどいくつかの症状が認められたため担当医師は仕事を休んで精密検査を受けるよう勧めたが、腰痛が回復するとすぐに仕事に復帰した。結局、「過労による腰痛」という診断になったが、はっきりとした原因は最後まで分からないままだった。

最初のガン発見と手術[編集]

1993年1月18日、胸のみぞおちの辺りに痛みを訴え、江川卓に紹介された港区元赤坂の前田外科病院(現:赤坂見附前田病院)を年に1度の定期健診も兼ねて受診することにした。その際に担当医から、いきなり「胃に初期の癌細胞を見つけた」と診断が下された。その瞬間、付き添っていた晴恵は恐怖のあまり震えが止まらず、また自身もみるみるうちに顔が青ざめたという。それでもその時の担当医は、夫妻に対し「初期の癌だから、手術をすれば完治しますよ」と言っていた。

1週間後の1月25日に入院、院長の前田昭二はじめ医師の執刀により、同年2月4日に胃の4分の3と周囲のリンパ節、腹膜の転移病巣を切除する3時間程度の最初の手術を受けた。本人には胃の3分の2を取り除いたと伝えられたが、この際晴恵だけには前田が「ご主人の病状は、実際は初期の癌ではなかった。ギリギリの所で全ての癌細胞を取り除いたが、残念ながら5年先の生存率はゼロに近い」と宣告していた。実際、逸見の死後に前田外科病院は、この時の逸見の病状は腹膜播種という末期症状であったと公表している。

手術から1ヶ月後の同年2月25日に退院。翌日には『夜も一生けんめい。』の収録で仕事復帰。当初は、病名を穿孔性十二指腸潰瘍と偽って公表していた。退院後も、抗ガン剤投薬や前田外科病院への検査通院を続け、同年春から新番組も始まったことで逸見は再び軌道に乗り始めたかに思えた。

しかし、同年5月下旬頃になると、メスを入れた手術跡の線上がケロイド状に膨れ始めた。担当医からは「通常、手術後に起こる症状であるから心配ない」と言われたが、その突起物が次第に大きくなり、やがて服を着るにも邪魔な程になってしまった。逸見のスケジュールの都合で、夏休み中の同年8月12日にその「突起物を除去する」という名目で2度目の手術を受けたが、癌は既に腹腔全体に広がるまでに進行しており、もはや手のつけようがない状態だった。だが、そのような状態であったにもかかわらず、執刀医は本人に癌の再発を一切告知しなかった(晴恵夫人はガン再発を告知するよう依頼するも、執刀医は「逸見との信頼関係を崩すから告知しない」と断固拒否されたという)。その一方で、同時期に米国で医師のゴンザレスによるビタミン治療も検討されていたが、渡米前夜になって突然先方の医師から一方的に治療をキャンセルされてしまう。

当時の逸見は、前田外科病院には全幅の信頼を置いており、晴恵や所属事務所社長の三木治など、何度も周囲から別の病院での診察を勧められても全く聞き入れず(晴恵には「自分が決めたことに対して一切口出しするな!」と激怒することもあったという[14] 。また、当時はセカンド・オピニオンという概念がまだ一般化していなかった) 、加えてこの時期にはレギュラー番組を週5本も抱えていたこともあり、極めて多忙な日々を送っていた。

ガン再発と告白会見、そして闘病期[編集]

前田外科病院での再手術にあたり、逸見が院長に直接「執刀をしてくれますね?」と尋ねた処、院長は笑みを浮かべながら「丁度その頃、僕は夏休みに入っているんだよなあ」と思わぬ返答をされている(代わりに副院長が手術)。さらに米国での治療が直前で取り止めになったことから、逸見は次第に前田外科への不信感を抱き始めた。その後も晴恵や三木社長らの勧告もあって(後に晴恵は、逸見に「他の病院で診てもらって下さい!」と土下座してまで頼み込んだというエピソードを明かしている)、同年9月3日にようやく新宿区河田町の東京女子医科大学病院へ番組収録前の午前中に訪れ、この時に初めて癌の再発を宣告される。そして、羽生冨士夫教授をはじめとする医師団からは、触診の際に「何故ここまで放っておいたのですか!?」と怒られ、厳しい現状を告げられた。そのことを受け止めた逸見は、再々手術を決意することとなった。

同年9月6日午後3時、日本テレビ本社(現:日本テレビ放送網麹町分室)内2階の大型ホールで緊急記者会見を行い、各局のワイドショーで生中継された。冒頭のコメントでこう述べた。

 

「こういう形での記者会見は賛否あると思いますが、私が入院してから事務所を通じてのコメントを出しますと、真意が伝わらなかったり、あるいは誤解を生じてもいけませんので、私の口から伝えることによって、皆さんに集まって頂きました……最初に皆さんにお詫びをしなければいけないのですが、今年(1993年)の1月から2月にかけて私が入院いたしまして、手術そして退院した時にやはり集まって頂きました。その時に私が発表した病名は大変申し訳無かったのですが、嘘の病名を発表致しました(中略)本当のことを申し上げます……私が今、侵されている病気の名前、病名は……癌です」

この会見で、自ら進行胃癌(スキルス胃癌)であることを、初めて公の場で告白した。そして、これから癌闘病生活を送ることを述べた逸見は、記者から闘病に挑む心境を尋ねられ「やはり自分にとって一番難しいことですが、仕事のことを忘れることでしょうかね。なるべくそうして闘いに行ってきます」と述べた。会見の最後の方では、「もう一回、いい形で生還しましたというふうに言えればいいなと思っています……どうもありがとうございました」と復帰に懸ける闘病への意気込みを語ると、記者からは「生還してください!」という声が飛び、記者会見終了後、「頑張ってください!!」と満場の拍手で逸見を激励した。

癌と闘う決意表明に、多くの芸能関係者は感動していたが、親しかった一部の芸能関係者には、「逸見さんにとってこの記者会見が生涯最後の仕事になるだろう」と悲観視する者も少なくなかった。また、当時は「癌発症を記者会見で発表する」こと自体が異例中の異例だったため、一部のマスコミ・週刊誌では「病気をネタにした売名行為」「とても良い営業をしている」などと中傷記事が書かれたこともあった。それは入院後に逸見の耳目にも入っていたが、ニュースキャスターという様々な批評を受ける立場を経験していたせいか「こんな見方もあるのか」と冷静に受け止めていたという。

その記者会見の翌日から全ての仕事を休止。東京女子医科大学病院に入院し、本格的な闘病生活に入った。そして、羽生冨士夫消化器病センター所長ら数名の権威の執刀により、同年9月16日に13時間(臓器摘出手術に5時間、大腿部から腹部への皮膚移植手術に8時間)にも及ぶ大手術を受けた。

術後の容態悪化と最期[編集]

手術後は歩行訓練を行ったり、お粥などの流動食から好物のたこ焼き等の普通食を摂るなど、順調に回復している様子も見せた。

ところが、大手術から1ヶ月が経過していた同年10月23日、突然激しい腹痛を起こして食べ物を嘔吐した。この日は一時帰宅日であったが、その後の検査結果が腸閉塞と判明したために中止となった。これにより、普通食禁止の絶対安静となり、絶食状態を余儀なくされたため高栄養の点滴をつけられたが、逸見は徐々に衰弱していった。その状態にも関わらず、同年11月上旬から抗癌剤の投与が開始され、副作用の影響から日頃の表情豊かであった逸見とは程遠い状態に陥った。

激しい吐き気を催して意識が朦朧となり、うわ言を発するなど益々病状は悪化していった。同年10月に、マスコミに公表された病室での容姿よりもさらに痩せ細り、体重が50kgを下回っていた同年12月16日には、再検査で腸に癌が見つかった。主治医は、12月1日に「ご主人の体に再びメスを入れることはできなくなった。残念な話であるが、年を越せるか疑わしい」と妻の晴恵ら家族に宣告していた。

12月24日は、長男である太郎の21回目の誕生日だったが、この日遂に意識不明の危篤状態に陥る。そして早期復帰の願いも空しく、最初のガン発見から341日後、そして「私は1年後に亡くなるのは本意ではありません」と述べた記者会見からわずか3ヶ月半後である翌12月25日午後0時47分、末期のスキルス胃癌による癌性悪液質のため、東京女子医科大学病院でこの世を去った。まだ48歳の若さであった。戒名は、誠實院温譽和顔政孝居士(せいじついんおんよわがんしょうこうこじ)。

テレビ番組での交流を通じて逸見と親しかったジャイアント馬場は、逸見が回復するよう願掛けを込めてそれまで愛好していた葉巻を止めていたが、願いが叶うことはなかった。そして、馬場も1999年に亡くなるまで、葉巻を口にすることはなかった。

手術について死後の賛否両論[編集]

結果的に癌の再発を根治することはできず、胃壁の中に広がる特殊な進行癌という特質上、死後「末期の状態であったにも関わらず、何故大手術を受けた(受けさせた)のか」「クオリティ・オブ・ライフを無視した手術だった」といった疑問・批判の意見が多数あがった。

当時の医学水準での意見として、手術も抗癌剤投与も行わず処置した方が、1年程度は長く生きることができたとの見方もあった(一般的にはS-1とシスプラチンによる術前補助療法と術後抗癌剤逐次投与を組み合わせた治療が有用であるとされる。ただし、遠隔腹膜転移がある場合は、手術適応外ー胃癌取扱い規約第12版P2/P3ーとされる)。 一方では腸閉塞を防ぐため、中・長期的な生存のためには、このような大手術が必要であったという見方もあり、賛否両論がある[15]。

 

2013 03 07 アメリカも ガン患者【日記】  アメリカも ガン患者

 

タレントの顔 日本人 タレントの顔 日本人

 

 

 

 

話題の人物  話題の人物  政治家の顔 政治家の顔  

 

 

 

わたしの里美術館【索引】 ここをクリックすれば、タレントの顔で画像検索ができます。
わたしの里 美術館      わが郷 HOME  

 

 

 

 

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。