カール・ラーション
(Carl Larsson、1853年5月28日 - 1919年1月22日)
スウェーデンの画家。油彩・水彩ともに多数の作品を残し、
フランス印象派の画家に多大な影響を与えたとされる。
自身の家族を題材として当時の中流階級の
日常生活風景の作品を数多く残し、
その情景から溢れ出す幸福感が
人々の共感を呼び、大いに人気を集めた。
(wikipedia)
ラーションは1853年、スウェーデンのストックホルム旧市街のガムラスタンで生まれた。家庭は貧しく、救貧学校に通う。小学校に入ると、担任教師がラーションの絵の才能を評価し、王立美術学校予備課程への入学を申し込んでくれたため、1866年に予備課程に入学。 同級生にはアーンシュト・ユーセフソン(en)、ペール・エークストレム、ヒューゴ・ビルイェルが、指導教授には風景画家のグスタヴ・ヴィルヘルム・パルムらがいた。初級課程(古典課程)、第2課程(モデルスクラン:モデル素描)、油彩課程と進み、その間の作品は学校よりたびたび表彰された。
ラーションは1890年から水彩画のシリーズ『わたしの家』を制作し続け、1899年に画集として出版されるとこれが最も高い評価を受けた。他にも、1888年にはフュシュテンベリーの私設ギャラリーにトリプティック『Rokoko-Renässans-Nutida konst』を制作し翌年にこれがパリ万博で1等のメダルを受けた。1897年にはストックホルムのオペラ座の休憩室の天井画と天窓の連作を、1907年にはストックホルムの王立劇場の天井画も手がけた。イェーテボリの女子高校とラテン高等学校でもフレスコ画などを制作している。こうした記念碑的作品の制作のため、1899年、リッラ・ヒュットネースに大きなアトリエを造っている。この間、画集『ラーション家の人々』(1902年)、『スパーダルヴェト』(1902年)、『日向に』(1910年)、『他家の子どもたち』(1913年)を出版。
1909年に出した画集『太陽の中の家』は10万部を短期間で売り上げた。『日向に』に掲載した水彩画は1909年にミュンヘンで展示されている。
1911年にはローマの展覧会で1位をとり、1912年にはベルリンで金メダルを受けるなど、近隣諸国でも高く評価された。いっぽう、ラーションは1879年よりアウグスト・ストリンドベリと親交があったが、1908年、ストリンドベリがラーションを自著で批判したことから、二人の関係は終結した。
1914年、国立美術館は、美術館の階段上部に展示する壁画としてラーションが制作を始めた 『冬至の生贄』 の主題の変更を彼に求めた。1915年には実物大の油彩下絵が完成し国立美術館に展示されたが不評であった。ラーションの友人の アンデシュ・ソーン が妥協案を出したにもかかわらず、翌年、国立美術館はこの絵の受け入れを拒否した。
1917年以降、ラーションはスンドボーンの家と1907年よりファールンに所有していた家とで過ごし、自伝の執筆を続けた。1919年1月、ファールンの家で死去。亡くなる直前に脱稿した自伝は1931年に刊行されることとなる。