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David

2009-11-10 | 作家の記録

 

 

Jacques-Louis David

 

Jacques-Louis David ( /ʒɒkˈlwiˈdɒvid/)
(30 August 1748 – 29 December 1825)

was an influential French painter in the Neoclassical style, considered to be the preeminent painter of the era. In the 1780s his cerebral brand of history painting marked a change in taste away from Rococo frivolity toward a classical austerity and severity, heightened feeling[1] chiming with the moral climate of the final years of the Ancien Régime.

David later became an active supporter of the French Revolution and friend of Maximilien Robespierre (1758–1794), and was effectively a dictator of the arts under the French Republic. Imprisoned after Robespierre's fall from power, he aligned himself with yet another political regime upon his release, that of Napoleon I. It was at this time that he developed his Empire style, notable for its use of warm Venetian colours. David had a huge number of pupils, making him the strongest influence in French art of the early 19th century, especially academic Salon painting. ( wikipedia )


 

 1748年、パリに商人の子として生まれた。9歳の時、父親は決闘で亡くなっている。ロココ絵画の大家であるフランソワ・ブーシェはダヴィッドの親戚(母の従兄弟)であった。当時50歳代だった ブーシェ は弟子を取っておらず、彼の紹介でジョゼフ=マリー・ヴィアン(1716年 - 1809年)という画家にダヴィッドは師事する。

長い修業期間を経て、ダヴィッドは1774年『アンティオコスとストラトニケ』で、当時の若手画家の登竜門であったローマ賞を得た。これはヴィアンに入門してから約10年後、26歳頃のことで、当時としては遅いデビューである。ローマ賞受賞者は、国費でイタリア留学ができる制度になっており、ダヴィッドも翌1775年よりイタリアへ留学した。同年、師のヴィアンはローマのフランス・アカデミーの院長としてローマへ赴任したため、師弟揃ってのローマ行きとなった。

ダヴィッドは1780年までの約5年間、イタリアで古典絵画の研究に没頭する。こうしたイタリアでの研究を機に彼の作風は、18世紀のフランス画壇を風靡したロココ色の強いものから、新古典主義的な硬質の画風へと変わっていく。ルイ16世注文の『ホラティウス兄弟の誓い』(1784年)は最初の国王注文作であり、「新古典派宣言」とも見なされる[要出典]記念碑的作品である。

1789年、フランス革命が勃発するが、このころのダヴィッドは、ジャコバン党員として政治にも関与していた。球戯場の誓いを描いている他バスティーユ牢獄襲撃事件にも加わっており、1792年には国民議会議員にもなっている。1793年には革命家マラーの死を描いた『マラーの死』を制作している。1794年にはロベスピエールに協力し、最高存在の祭典の演出を担当、一時期国民公会議長もつとめている。ロベスピエールの失脚に伴い、ダヴィッドの立場も危うくなり、一時投獄された。この時、自画像と唯一の風景画を残している。

1800年にはナポレオンがレカミエ夫人を愛人にするための、彼女への贈り物として肖像画を依頼され、『レカミエ夫人』を制作した。しかし、レカミエ夫人本人は気に入られず(制作理由が気に入らなかった)、未完成に終わってしまったという(その後、夫人は彼の弟子のフランソワ・ジェラール(英語版)に肖像画を依頼し、彼の絵画はドミニク・アングルが現在の形にした)[要出典]。その後、ナポレオン・ボナパルトの庇護を受けて復活した。1804年にはナポレオンの首席画家に任命されている。縦6.1メートル、横9.3メートルの大作『ナポレオンの戴冠式』は1806年から1807年に描かれたものである。ナポレオンの失脚後、ダヴィッドはまたも失脚し、1816年にブリュッセルへ亡命し、9年後の1825年に同地で時代に翻弄された77年の生涯を終えた。

ルイ16世の処刑に賛成票を投じたことが災いし、彼の遺体はフランスへの帰国を許されなかったが、心臓が現在ペール・ラシェーズ墓地に埋葬されている。 ( wikipedia より抄出。画像添付と編集をくわえた。 )

 
 
Mars désarmé par Vénus

 

 

 

 ダヴィッド の作品紹介は、こちら にあります。 

 

 マラーの死【ダヴィッド】
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