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車止めピロー:旧館

  理阿弥の 題詠blog投稿 および 選歌・鑑賞など

梅田啓子さんの百首から

2010年04月25日 | 五首選 - 題詠2010
094:底
 ためらひのごとき間をおき潰れゆくわが靴底の青き梅の実


098:腕
  息つめて電話のベルを待ちし日のわが腕に毛はくろぐろありき
043:剥
  ポンカンを剥けば果汁のほとばしり高知は娘のふるさとになる
009:菜
  菜の花のたばね棄てられたる中にそこより伸びる一本のあり
007:決
  <スト決行>文字薄らぎて岡林信康の髭ととのひてをり


東京に出て、六畳一間のアパート暮らしを始めたとき、
一階には初老の大家さん夫婦が住んでいた。
ひと駅先は、もう二十三区という立地だったけれど、
そのアパートの裏庭には健やかな梅の木があり、
季節が来ると、大家のおばさんがご自分で漬けた梅干を、
瓶に詰めて差し入れてくれたのだった。
市販のものよりずっと塩っぱく私好みの梅干で、
一粒でご飯三杯くらい食べられた。

トイレや玄関が共同という、ずいぶん古びたアパートだったが、
二年半ほど住んだ頃、大家さんの息子夫婦が建替えを主張し、
間借り人はみな退去せざるを得なくなった。
大家さん夫婦はずいぶん反対したようだけれど、強行されてしまったのだ。
若く稼ぎのある子どもたちには逆らえなかったのかもしれない。
そんなわけで、美味しい梅干しにはありつけなくなってしまった。


 さて、私の拙い想い出話が梅田さんの素晴らしい一首とどういう関係があるのか、
 自分でもよく分からない。ただ、ぱっとよみがえって来たのだ。

 初夏、まだ熟しきらない梅の実を、知ってか知らずか踏んでしまった。
 その瞬間のはっとした感覚、しかしもう避けようにも避けられない、
 その僅かな時間が「ためらひのごとき間」なのだ。
 若い梅の実がわずかな抵抗をみせる刹那。
 為してしまったこと。取り返しの付かないこと。
 潰れた実に、何が重なって見えたのだろうか。


数年して懐かしい場所を通りかかると、あの老朽アパートは、
一階に駐車スペースのある、三階建ての大きな建物に姿を変えていた。
裏庭の梅の木はどうなったろうか。
おばあちゃんの梅干を、お孫さんたちが喜んで食べているといいのだけれど。

  マリームの広口瓶に漬けられし梅の実たちよ明日ながらふべし   理阿弥

陸王さんの百首から

2010年04月17日 | 五首選 - 題詠2010
056:枯
 最後まで残されたサボテンも枯れ棘が生ゴミ袋を破る


003:公園
  寒空に窓のあかりが消えるのをワン切りし待つ児童公園
008:南北
  南北の河は水浴びする子らの姿もなくて38℃
009:菜
  肩ならべきみが野菜をカゴに入れぼくが支払うだけのしあわせ
054:戯
  「フランスパン殺人事件」戯曲読み演じてみれば残るパン屑


世話を放棄された植物が、次々と枯れていく。
水不足に慣れているはずのサボテンもとうとう。
鉢植えたちを手にかけていた人が、出ていってしまったのだろうか。
背後に匂うのは生活の荒れ、破綻だ。

捨てる前に棘をケアする事にすら思い至らず、それがまた新たな苛立ちを生む。
本当にこれで最後と思っていたのに、なぜまた顔を出すのか。
抵抗をみせるしなびたサボテンは、健全だったはずの暮らし、その象徴だ。
よみがえるにおい、温度、ことば。

思い出してしまうのはチクチクと辛い。
サボテンを捨て終わったら、彼はその部屋を出ていくのだろう、たぶん。
かつて刺さった棘の数々を本当に忘れるためには、
そうするしかないのだから。

 ◇

枯れにくいサボテンは、最後に枯らされるさだめとして、
これからも歌の中に詠まれていくことでしょう。

わたしも今回、「孫」のお題に近いモチーフで一首詠んでいますので、
その歌を返歌として。

  孫の顔みせてくんろと母の言う鉢のムスクラ枯らしたばかり   理阿弥

黒崎立体さんの百首から

2010年04月07日 | 五首選 - 題詠2010
087:麗
 麗しい、葉の表面をつたう朝、しずくの形とはねる光、


094:底
  フラスコの底にいるような錯覚 つややかすぎて真冬のまひる
053:ぽかん
  母さんのあたまぽかんと叩いたら忘れてくれるかしら わたしを
026:丸
  引き潮のようにあなたは離れてく 丸い背骨に浴びる海鳴り
001:春
  定義1:夏に芽吹いてもうじきに生まれるおまえは春いちばん

はしる

歌の最後におかれた読点は、キャンバスの枠を破壊する武器だ。
1ピクセルだけ解れた輪郭線の穴から、絵の具が流れだすように、
中身が外界へとあふれてゆく。
自然の美しさが様々なかたちをとって、読み手の脳内に広がるのだ。
雨上がりの清しい空気の匂い。

散文調、破調の歌を詠まれる方なのだが、
この一首では、結句が六音であることが大きな効果を生んでいる。
美しい朝の光景に出会った人の感動が、自然と口をついて詩のように流れ出す、
それを直接間近で聞いているかのように思えるのだ。

彼女の朗詠はこのあとも長く続いたことだろう、
汲めども尽きぬ春の泉のように。

  手のひらに明き泉のほろほろと湧ける記憶よ温き陽の射す   理阿弥

六六鱗さんの百首から

2010年04月04日 | 五首選 - 題詠2010
043:剥
 剥ぎ取れば藁縄蓆一枚の猫であったか吾を失う


097:換
  換へ干した池の渇きを癒さむと六六鱗は甘露に煮らる
082:弾
  弾かれて莢を飛び出す豌豆の一粒ほどの命と思え
065:骨
  骨と皮ばかりの亡者わたくしの縁かもしれず手向ける香華
001:春
  春 野辺に戸惑い残る私の滴 小さき者を潤す


寒く暗く痛い、そんな剥き身の境遇が伝わってくるようだ。
一読して、最初は「猫=吾」なのではないか、と感じた。
解釈は様々に可能だが、少なくともそのとき「吾」が
その猫の肌感覚を自分のものとしたことは確かだろう。

隠れ家を剥ぎ取られ、裸身となった一匹の猫。
様々なものを手にしているように思っていたけれど、
一歩すすめば、その猫となんら立場は変わらないのだ、
敷衍すれば誰もが同じなのだと、そう気付いてしまったわたし。
さらには、自分は猫のようには独りで生きていけないのだ、ということにも。

暖かい毛布の中で、気付かず一生を終える人もいる。
むしり、むしりとられて気がつく、そんな作中主体の
『夜明け前』の一瞬が、この一首には描かれている。
つまりこの後にはやがて、必ず光が見えてくるはずで、
だからこの歌は暖かな希望を内包しているのだ、そう考えたい。

  朝まだき馴れた我が家をあとにしてわたしのミィよいまは何見る   理阿弥

はじめさんの百首から

2010年04月01日 | 五首選 - 題詠2010
024:相撲
 相撲好き祖父母ゆずりの孫がいて自然と描ける力士の姿


066:雛
  飛ぶために 練習してる 雛たちよ 羽ばたく音が 春を知らせる
056:枯
  窓の外 白粉つけた枯れ木あり凛としていてしばしば見とれ
054:戯
  海岸で戯れている幼子は波を背景にキラキラひかり
052:婆
  お婆さん孫への思い話してる見知らぬ人に笑顔うつして


高校生の頃、椅子のことを「コシカケ」と呼ぶ友人がいた。
おばあさんと長く同居していたそうだ。
しかし、このような古い言葉や習慣の多くは急速に失われていく。
とくに生活に密着していればいるほど。
それらはどのメディアからも受け取ることが難しいから。

受け継がれるもの、受け継がれないもの。

私の祖父母は、四人とももうこの世にいない。
もともと遠く離れて暮らしていたこともあって、
彼らの頭の中につまった、膨大な知識や経験のほとんどが、
受け継がれないまま、なくなってしまった。

そういった喪失が、毎日、毎日いたるところで起こっているのだ。
それを考えると気が遠くなる。
古くから蓄積された「知」に日頃から接することの豊かさ、素晴らしさ。

この祖父母ゆずりの子は、すくすくと育っていくことだろう。
力士の姿を描きつつ、ほかにも多くの恵みを享けながら。
多くの家族が、ともに過ごせる世でありますように。
そう願わずにいられない。

  技師であり教師でありし爺さまの指さし曰く雲母であると   理阿弥
             *雲母=きらら

菅野さやかさんの百首から

2010年03月28日 | 五首選 - 題詠2010
025:環
 地上では今日も花火があがります 環状線のような憎しみ


086:水たまり
  動かない父のベッドにできていた水たまりへと涙を落とす
066:雛
  雛菊を手折りてのちに夏来おり ごうごうという苦い雨音
063:仏
  仏手柑の匂い満ちたりわが庭の泥饅頭に石を積みおく
009:菜
  不意打ちの一人の夜に菜箸の先をなめなめ味わう煮付け


花火は通常、地上から見上げるものだが、
作中主体はそれを、上方から見下ろしているように読める。
炎のように熱くも、氷のように冷たくも無い感情。
乾いて醒めた心で、距離をおいて対象を眺めている。

遠く山の上から…あるいは心の中の、神の視点で。
自分と関わりの無いところで繰り広げられている、お祭り騒ぎ。
その中に、本当は自分もいたはずなのではないか。
醒めたなかにも諦められぬ気持ちがある。

喜びは大体において、突発的で新鮮なもの。
それはいつも驚きに満ち、新しい。
堂々巡りをするのは、常に憎しみの方なのである。
ああまた私はそのことを、同じことを考えている、と。

その環状線から、脇へそれることはできるだろうか。
遠方では花火が上がり続け、そこから目を背けられないのに…?
やがて時間が立てば忘れるのだろう、もちろん。
あるいは地上に降りて、自ら花火を上げるのだ。

  汝が胸の円環めぐる憎しみも時に洗われ鎖解くらむ   理阿弥

リンダさんの百首から

2010年03月23日 | 五首選 - 題詠2010
002:暇
 隙と暇からだじゅうから発散し思春期のむれ自転車で行く


089:泡
  一夜にて泡と消えゆく逢瀬なら赤い花びら残して欲しい
074:あとがき
  振り返りあとがきのように整然と終わった恋を語る人あり
052:婆
  婆さんもいくつになっても女だと波うつ皺が照れる横顔
007:決
  決心が揺らいでしまう陽だまりに小さな新芽見つけたために


高校生たちがふらふらと街をゆく、日常の一風景。
「自転車」以外に、具体的なことばが使われていないのに、
若者の姿が見事に脳内に映像として結ばれる。
すばらしい描写力。

肩書きも財産も、社会的な影響力もほとんど持ち合わせない青春時代。
どこに通用する名前もなく、そこには肉体しか無い。
だからこそ、体中それこそ指先まで「俺、俺、俺」で溢れている。
誰もが通り過ぎるこの短い時間が、この一首には凝縮されている。

自由になるお金はそんなにない、でも貧乏ってわけでもない。
社会に不満はないけど、何をしたらいいのかは分からない。
ストリートは平和で、身構えなくても暮らして行ける。
テレビも飽きた、ネットも飽きた。部活をやってるわけでもない…
若さというエネルギーの、発散方法が分からない。
そうして今日も明日も、若者は通りをだらだらと行くのだ。
その特権的期間が、いつかぷつっと途切れることに気づかずに。

  そこここに蛇行運転精力を汪溢させて少年明日も   理阿弥

船坂圭之介さんの百首から

2010年03月22日 | 五首選 - 題詠2010
040:レンズ
 憎まれてゐるこころ在り潔斎のごとく眼鏡のレンズを磨く


044:ペット
  扁桃腺腫らし一夜を唸り居る猫はペットであるを知らずに
035:金
  肌冷ゆる身を弾ませつわれや在る金梅の色黄に映ゆる傍(そば)
033:みかん
  しんしんと雨散る夜半を堪へながら酸ゆきみかんをわが恋ひて居り
009:菜
  月蝕は穏やかに過ぐその黒き影をわが掌の菜へ与えつつ


憎しみは憎む者の所有物ではなく、憎まれる我のものだ。
憎まれていると胸の内に感じることでしか、憎しみに直接触れる方法はないからだ。
その意味で、憎しみは悲しみである。
ひとりでいるとき、悲しみは全身の細部にまで宿る。
心の中にある、そのような否定的な感情に抗おうとするとき、
ひとは身体感覚に頼るのかもしれない。

たとえば、我と外界をつなぐためのレンズを磨く。
指先に確かな抵抗を返すガラスの感触を確かめることで、
自身の存在もまた再確認される。
肉体の反復運動には、精神を浄化する作用がある。
だからこそしばしば、単純な作業の繰り返しの中に悟りは得られる。

その清めの儀式は、傍目には手遊びにも似て見えるだろう。
手遊びは何のためでなく、手遊びそのもののために行われる。
レンズ磨きも、いつの間にか心の曇りの払拭のためでなく、それ自体が目的となり、
そうなった時ひとは、はじめて平穏を取り戻すことが出来るだろう。

  何時になく澄めるレンズに我は見つ悲しみを君拭ひし跡を   理阿弥

翔子さんの百首から

2010年03月20日 | 五首選 - 題詠2010
005:乗
 菜の花の散り敷く道や夕暮れてエンディングノート乗り遅れまい


063:仏 
  仏にも階級あると知った時ポニーテールが激しく揺れた
059:病 
  病み飽きて犬など飼ひし秋の日をやむなく歩く町はずれまで
056:枯
  枯尾花ほんとに枯れて花のようこの山の下彼岸ありしか
015:ガール 
  筍を抱え笑顔のマイガール髪の枯葉がリボンのごとし


夕暮れ時、菜の花が散っている田舎道を、バスに遅れまいと急いでいる。
作中主体の胸に、突然何かが兆したのだろうか、
四句目にすっと差し込まれた「エンディングノート」。
間に合わなければ、独りお腹をすかせて、
寂しい夜を過ごすことになるだろう小さな娘の顔。
あるいは夫、あるいは他の…。

その誰かに、既に書いてしまったエンディングノートを、
見られることを気にしているのだろうか。
それとも、そこに書けなかったこと?書きかけのこと?

待つ者、待たれる者。ゆく者、残された者。
いろんな苛立ちや焦りや思いがあるけれど、
読み手がそれぞれに、自身のやり残したことを
思い起こしてしまうような、そんな歌。
暗さではなくて、なんとなしの暖かさを感じさせてくれるのは、
冒頭に春の花を詠み込んでいるからだろうか。

理屈で歌を詠んでしまう私にはけしてものせない、
すばらしい一首。

  忙しげなバスを逃して傍らの黄色い花は待つひとのため   理阿弥

月下  桜さんの百首から

2010年03月18日 | 五首選 - 題詠2010
018:京
 東京の朝のラッシュに乗り合わせぎゅうと押されて魂がでた


095:黒
  黒髪の人々交差する国はなんだかとても無防備になる
079:第
  第三話見逃したからもういいや夜の楽しみ色々あるもの
034:孫
  公孫樹葉は黄金にチロチロひらめいてぬける空に手を振っている
023:魂
  魂は相撲をとっているらしくびしょ濡れになって夜中目覚める


魂がでた。
これ以上に的確な表現がありましょうか。
あのツラさ、ほんとに死んでしまいたくなるもの。
もうどうにでもして~、って感じで。
通勤地獄とはよく言ったものです。

あの状況が何十年も改善されず、みんな我慢してるのが
この国の不思議なところ、面白いところ。
ネットが発達して、全国どこに居たって商売はできる、
という言もちょくちょく聞かれたけれど、けっきょく人と人、
顔をあわせないと仕事ができないことが、証明されつつあるのかな。

  通勤の人の流れを遡上する家路も辛き朝の東京   理阿弥

シホさんの百首から

2010年03月16日 | 五首選 - 題詠2010
047:蒸
 今朝のこと サツマイモ入り 蒸しパンを 作りました すぐ来られたし


062:ネクタイ
  もどかしい ネクタイはずす 時間さえ 夜のとばりに まぎれて逢瀬
059:病
  青いんだ 病棟から 見る空も やつれた兄が ポツリつぶやく
034:孫
  クラス会 行かないと言う 母の理由 孫の話で 盛り上がるから 
009:菜
  スーパーで 菜の花を買う 外は雪 一足早い 春の訪れ


こんなに柔らかくて、暖かいお誘いをもらったら、
行かずにいるのはとても難しいのです。
自転車が無くったって、きっと走ってゆく。
今みたいに、寒い時期がいいな。
息を切らして、上気して。

  寄り添ってまだ暖かい蒸しパンを紙カップから剥がすしあわせ   理阿弥

髭彦さんの百首から

2010年03月11日 | 五首選 - 題詠2010
059:病
 列島の病みて十年けふもまた自ら逝かむ百人ほども


061:奴
  万葉に糞鮒食めると歌はれし女奴いかに生きて死にけむ
045:群
  馬群れし県(あがた)もあれば山梨の実りし県もかつてありけむ
030:秤
  秤売る古色蒼然類なき店のありたり宮益坂に
022:カレンダー
  埋まりゆく吾がカレンダー見つ笑ふ遊びをせんとやひと老ひゆかむと


日本での自殺者数が十二年連続で、三万人を越えた。
一日あたり百人近くの人が、と具体的に数字で突きつけられると、
これはさすがに穏やかならざる気持ちになる。
ちなみに、20代では死因の半数が自死だそうだ。

総人口が一億二千万を越えた日本ではあるが、
少子化の影響もあり、ここ数年の人口推移は横ばい傾向だ。
もしかすると一億二千万という数字は、この日本の国土において、
日本人の生物としての繁殖限界を示しているのではないだろうか。

斜陽を迎えているのではないかという囁きが聞こえるとはいえ、
衛生状態がよく、最高の医療があり、栄養状態も、交通事情もよいこの国。
なにより他殺率は世界でも最低の水準である。
産んで殖やして、ますます繁栄していってもいい条件がそろっているのに。
どこかで、死にたがっている我々の本能にスイッチが入っているような気がするのだ。

田舎では過疎化している地方もあり、土地不足という問題ではない。
日本人の多数は、自分も含めて都市を離れては生きられなくなっている。
街にひしめき合って暮らし、その過密さに、生物としてのスイッチが入ってしまう。
あと半世紀も経たないうちに、世界人口は百億人に達する見込みという。
そのとき日本の人口は、そして自殺率はどうなっているだろう。

  餌食まぬハムスターの仔ら日々狭くなりゆくケージに囲はれをりて   理阿弥

アンタレスさんの百首から

2010年03月09日 | 五首選 - 題詠2010
045:群
 南天の朱実漸く色づきて日々愛で居ればヒヨドリの群れ


086:水たまり
  幼きが赤き長靴おねだりし雨待ち履けば水たまり避け
061:奴
  空高く操られつつ遊び居る奴凧にもペーソス有りや
038:空耳
  空耳であって欲しいと願いおる医師の告げたる廃用一言
034:孫
  来る筈の孫の来ずして買いおきし節分の豆声ひそめまく


ヒヨドリは、庭に来る鳥のなかでは比較的大型な鳥。
私の父が他の小鳥たちのため、庭の枝に林檎やミカンをさしてやっても、
図体に幅を利かせたヒヨドリたちが、横取りしてしまうことがよくあった。
群れで訪れたのなら、南天はあっというまに食べつくされてしまっただろう。
鳴き交わす声はやかましく、食欲旺盛でたくさんの糞をする(おかげで雪がよく融ける)。

小さな庭のギャングといった趣で、食べ物を荒らすので農家には嫌われたりもする。
しかしよく見るととても可愛い目をしていて、枝にとまる姿はとても凛々しい。
一昔前のロックスターみたいな髪型のせいかな。
「俺たちは思うままに生きるぜ!」と叫んでいるようだ。

自在に羽ばたき、生命力に溢れた鳥たち。
その鳥をひきつけるために、魅力溢れた色に化粧する果実たち。
思惑通りにヒヨドリのおなかに納まった南天は、
次の春にどこか遠くの庭で新しい芽を出し、また他の鳥たちの糧となるだろう。

そんな生命循環の一瞬がこの一首に詠まれている。

  寒庭の連雀たちが忘れたる融雪薬に春は起され   理阿弥

みずきさんの百首から

2010年03月07日 | 五首選 - 題詠2010
091:旅
 トンネルに耳奪はれしのちの雪 旅のはじめの海へ吹雪けり


085:訛
  訛り濃き女の黙(もだ)し因習に細ら雪降る郷のあれこれ
068:怒
  怒濤なす海を見つめて逸れゆきし運命を思ふこゑ亡き父と
052:婆
  婆さまがスコッチを呑む日の短か 過去が息づくやうにしやべれる
025:環
  冬涛の暗さに環かけせつせつと雪の波郷の遅き秒針

トンネルから出て雪景色に出逢うと、耳が聞こえなくなったかのような錯覚に陥る。
雪が音という音を吸いこんでしまうことを、脳が覚えているせいだ。
沈黙の中の白い世界。列車の走行音はまるではるか遠くで鳴っているように思える。

雪原は音を吸収するかわりに、たくさんの光を返す。
列車は明るさの中を駆け、またトンネルの闇を轟音とともに迎える。
故郷への旅程であれば、その繰り返しは着実に距離をこなすための
メトロノームとなるだろう。
見知らぬ土地へ行くのなら、雪模様は期待あるいは不安、
もしくはその両方を増幅させるアンプとして作用する。

旅のはじめに振り出した雪は、トンネルをひとつ越える毎に激しさを増し、
緯度が変わるにつれ少しずつ違った景色を作り出す。
すべての旅の本質を保証するのは変化そのものに他ならない。
雪が降り出せばその旅は、裏づけを得たことになる。
まさに本物の旅たらしめられることの。

  鉄路ゆく音と光の道程の内なる海に雪は降りつむ   理阿弥

西中眞二郎さんの百首から

2010年03月04日 | 五首選 - 題詠2010
092:烈
 地を這いて赤く小さき花咲く庭に台風前の雨足烈し


085:訛
  故郷近き町に入ればバスに乗る人の訛りの疎ましくもあり
057:台所
  南向きなるに故郷の台所記憶辿ればなぜか小暗き
043:剥
  この角もビル壊されて裏のビル剥き出しとなる窓なきままに
034:孫
  かあさんと呼べば妻と子二人して返事を返す孫らの来た日


歌を詠むときの悩みの一つとして、どこまで対象を絞るのか、ということがある。
赤く小さき花、をもっと具体的に絞って、たとえば芝桜などとすることもできる。
この判断はいつだって難しい。
珈琲、あるいはモカ。
腕時計、あるいはオメガ。
リンゴ、あるいは紅玉。

この一首は、絞らないという選択がなされた歌だ。
読み手は、自分の知っている赤く小さいどんな花でも想像することができる。
そして同時に絞らないことで、その地域の全ての庭に、
同じように激しい雨が降っていることが示されているように思う。

品種名を入れ、絞ってみるとどうなるかというと、
芝桜の咲いているその時の自分の庭、というように、
『私』性と、くわえて一時性が強くなるはずだ。
ほかならぬモカを飲んでいたそのとき。
セイコーではなくオメガを填めていたとき。
わざわざ紅玉を買って、アップルパイを焼こうと考えていたとき。

ここに詠まれているのは、ひとつの個人的経験には違いないけれど、
そのときの「私」の心持ちというよりは、台風前の同じ強雨を体験している人々の、
その市民生活の普遍性に、より焦点が当てられているように思える。

ではこの歌の「私」性を支えているのはなんだろう。
注目したいのは、「五・七・七・七・七」の音数。
(字余りながらリズムよく読めて、詠み慣れた方の作品とわかるのだが)、
三句目の七音、私にはこの綻びこそが、その役目を果たしているのだと思える。
字数を整え、定型で詠むこともおそらく不可能ではなかったはずだ。
しかしそうしなかったからこそ、この歌は類型化を免れ、
一首は一首たらしめられているのだと思う。

絞らないこと同様、字余りもひとつの積極的な選択なのだ。

  オニユリの咲くこの庭におなじ雨きみ住む国に冷雨ある頃   理阿弥