goo blog サービス終了のお知らせ 

車止めピロー:旧館

  理阿弥の 題詠blog投稿 および 選歌・鑑賞など

中村成志さんの百首から

2010年08月28日 | 五首選 - 題詠2010
039:怠
   最近、ネジ式の機械を見ない。
 その中のあたたかさゆえオルゴール怠けるごとく弛みゆき、暗


020:まぐれ
   女子は複数になると、笑ってから話す。
 うすわらいする女学生飛ぶ鳥に小石まぐれで当てたるごとく

075:微
   クオーツは、時に神経に障る。
 死にかけて微かに震う秒針の〈5〉を越えることなきを見つめる

078:指紋
   もう小学四年生だそうだ。
 庭の辺の椅子に彼の日のしいちゃんの指紋のごとき蝸牛ゆく

099:イコール
   調べてみると、ブルマの歴史もなかなか壮絶なものがある。
 同型の紅白帽をイコールでむすべよ〈前に、  習え〉


エロスは停滞をもって完結する。

その最終型は緩やかな死だ。
快感と直結している死のネジを、人は繰り返し巻き上げる。

元気にピンを弾いていた間隔は、徐々に長くなってゆく。
弛緩、停滞、暗。
この死に至る弛緩こそが、生を感じさせる装置なのだ。

――止まらないオルゴールなど誰も手に取らないだろう――

明日もまたネジは巻かれる。
生と、そして死の喜びを得るために。

  粘液の中をうごめく円筒のごとき命よひそり止まれよ   理阿弥

眞露さんの百首から

2010年08月27日 | 五首選 - 題詠2010
095:黒
 人の世に忌み嫌われて黒い羽根しばし休めてひとしきり啼く


005:乗
  乗る人のない助手席の窓を開け流るる髪の残像を追う
012:穏
  穏やかに年を重ねし老人の眼を見返せず目を伏せる我
040:レンズ
  夜明けまえレンズをとおし見る街にいのち吹き込むきみの寝息よ
083:孤独
  晴れわたる雑踏に身を任せても琥珀に満つる百年の孤独


ファーブル昆虫記、少年動物誌、ロン先生の虫眼鏡。
この三冊が、幼少期の自然科学の教科書だった。
このなかの唯一の漫画、『ロン先生の虫眼鏡』(原作:光瀬龍)に出てくる台詞を、
うろ覚えではあるが、ふと思い出した。

「カラスだって、小鳥たちのようにさえずったり、鳴き交わしたい時もあるさ」

カラスは不吉な鳥だよ、と嫌う少年をロン先生がたしなめて言った台詞。
全ての生命にひとしく、穏やかな視線を送る彼らしい言葉だ。
今と違って大昔には、世界各地の民話で神の使いとして扱われたカラス。

作中主体を、集団から押し出されて生活に疲れた人のイメージとして
読むこともできるけれど、ギリシア神話やイソップ物語に出てくるような、
キャラクターとしてのカラスを想像してみたい。
主である太陽神アポロンに、今の不遇な立場を訴えかけているのかもしれない。

  七つの子可愛可愛と鳴く朝も恋うひとネヴァーモアと啼く夜も   理阿弥

砂乃さんの百首から

2010年08月25日 | 五首選 - 題詠2010
093:全部
 ポケットの中身は全部見せあって僕らはおやつをはんぶんこする


082:弾
  「盗ってごらんお前次第だ人生は」父の弾いたコインを掴む
066:雛
  なぜだろう夜店のヒヨコがニワトリの雛だと忘れてまた父は買う
044:ペット
  ピペットの先を咥えたまま「フキ」と言ったあなたにまばたき返す
016:館
  雨降りの水族館の水槽に原始のぼくを探しに行こう


少年少女の世界は、ときには不平等で、ときには不寛容で、そして多くの場合、利己的である。
利己的であるがゆえ、少年時代にお互いに施しあった寛容な処遇は
よく覚えているし、それが永い友情を育む。

「腹、へったなぁ」と言いながら、ポケットの十円玉、五十円玉を寄せあう。
そうして集めたなけなしの小銭で一つ二つの駄菓子を買い、
供したお金の多寡に関わらず、平等に分けあって食べる少年たち。

誰もが自分の記憶の水瓶に、そんな思い出をいくつか浮かばせている。
もしかしたら、いつか観たアメリカ映画の1シーンを自分の経験として
刷り込んでいるのかもしれないのだが。

それらの甘美な記憶は、社会全体が共有している
「無垢で平等であるべき子供時代」というノスタルジーであり、集団的な理想でもある。
大人はその<ノスタルジー>という魂の浄化装置をとおして、
少年たちを羨望の眼で見、あるいは「昔は良かった」といつまでも独り言ちる。
二度とそこには帰れないと、誰もが知っているのだ。

  残照に「アイス喰うひと!」だれとなくプール帰りは杉野商店   理阿弥

天鈿女聖さんの百首から

2010年08月23日 | 五首選 - 題詠2010
054:戯
 鳥獣戯画のうさぎのような人がいてフラペチーノを飲み干している


090:恐怖
  コーヒーを挽く音ばかり書いているスターバックス恐怖新聞
052:婆
  三時間前にサヨナラしたかった 麻婆豆腐の油が浮いてく
022:カレンダー
  カレンダーどおりに春が来るけれど「すみません」しか言えないでいる
015:ガール
  ボーイ・ミーツ・ガール私は踊りだす二倍速したボレロのように


何年か前、プライスコレクションを観に行ったとき、
若冲や芦雪の、そのマンガ的な表現の仕方に関心したのだけれど、
考えて見ればそれより何世紀も前に、鳥羽僧正が「日本最古の漫画」
と呼ばれる傑作をものしていたのだった。

日本人はデフォルメが得意なのだろうか。
画材の制約で、写実的な描写が難しかった事実はあるのだろうけれど、
ミニマルな表現で世界を写し取ろうとしていたことは確かで、
それは歌の世界にも通じているような気もする。

この一首のような日常の一描写は、
スナップ写真をあつめたアルバムをのぞくようで楽しい。

  円筒に押し込まれてる伝票のような男にカツ定おごる   理阿弥

時坂青以さんの百首から

2010年08月22日 | 五首選 - 題詠2010
035:金
 いやらしく見えない金歯じいちゃんと仲良しだからそう見えるんだ


098:腕
  遠いものほど腕のばし行くのだろう星の源(みなもと)見えなくなるまで
078:指紋
  ゆっくりとスポンジで磨くタンブラー君の残した指紋さよなら
037:奥
  「欲しいのは奥さんかなあ」言いながらつないだ右手力入れんな
029:利用
  片付ける利用者の癖想像すこの配置なら君左利き


「知る」ことは、認め許すことの第一歩だ。
知らない人間に攻撃的になるのは容易く、逆は難しい。
テレビで顔を売っている芸能人には票が集まりやすく、
節操のない政党が、躍起になってタレント候補を擁立する。
顔の売れていない候補者は、街宣車で手を振り、また必死で握手を求める。

視覚で判断し、よく知ったものを贔屓にする。
そうやって人間は、生物として生き延びてきたのだから、
そのような習い性があることを、いちど認めなければならない。
その上で、公正な判断力が後天的に獲得できること。
それが、人間がもつほのかに温かい希望なんだろう。

  五つ六つ別れたひとに欠点を教えていただくあばたもえくぼ   理阿弥

龍翔さんの百首から

2010年08月20日 | 五首選 - 題詠2010
050:虹
 私だけ気付いていれば良いのです。時には悲しい虹もあること。


098:腕
  取りに来て。取りに来ないで。腕時計。捨てる。捨てない。捨てようとする。
091:旅
  不謹慎だけど楽しみ。この部屋を出て行くことが。旅行みたいで。
089:泡
  泣きながら揉み洗いした。少しだけ紅いシャボンの泡が弾けた。
041:鉛
  いじめてもいじめられてもいないけれど、白の色鉛筆は減らない。


どの歌も、小説や随筆のどこかに紛れていてもおかしくない気がする。
しかし、短歌としてすんなりと受け入れることが出来るのは、
しっかりした定型感覚が、作者のなかに確立されているからなのだろう。
定型感覚がめちゃくちゃならば、たとえ文語で詠んだとしても、
それは一首として成立し得ない。

そして句読点を使うスタイルが、瑞々しい詩心にマッチしている。
そのことも一首一首に強度を与えているのだろう。
自分らしいスタイルを見つけることは、歌人にとっては
とても重要なことだというのが分かる。
うたの心はそのまま、うたの姿となるのが理想なのだろう。

  雨、師走。少女が見下ろすターミナル朝の市バスはきらきら背中   理阿弥

あかりさんの百首から

2010年08月19日 | 五首選 - 題詠2010
043:剥
 薄皮が剥がれるように何者か質されていく準備はまだか


007:決
  後悔はしないと誓う決めたのは自分だ西の空に夕焼け
011:青
  空の青に溶けるくらい海の藍に染まるくらいまっすぐ生きよ
040:レンズ
  ぎこちなくポーズをとると微笑んだレンズを通し君ぼくだけの
088:マニキュア
  マニキュアに彼は惹かれて行きました裸の爪に息吹きかける


口語短歌の「終止形・連体形」問題。
さんざん語られているトピックだとは思うけれど、
ネットで短歌を読む人(自分も含め)に、どのように捉えられているのだろう。
私はどちらかというと、「積極的に肯定したい派」なんだけれど。
一首を曖昧にし、作者の意図も分かりにくくなるかもしれないが、
だからこそそれは、口語短歌が獲得した強みと成り得るんじゃないか…

「短歌初心者の意見だ」と笑われるだろうか。
しかし、どっちで読めばいいだろうなどと頭をひねりながら
歌意を考えるのも、ひとつの楽しみであることは間違いない。

とらせていただいた「剥」のお歌、私は四句切れと読んだが、みなさんはどうだろうか。

  眼差しに身を硬くする栗鼠のよなきみと朝の街に出逢って   理阿弥     朝=あした

コバライチ*キコさんの百首から

2010年08月18日 | 五首選 - 題詠2010
075:微
 無糖より微糖コーヒー好めるは優しきひとと瞬間想ふ


006:サイン
  まほろばの古寺の柱の裏側に大工のサイン密やかに在る
021:狐
  天気雨洗濯物を取り込みつつ狐の祝言思ひて笑ふ
049:袋
  弟がお袋姉貴と友に言ふを聞きて心のくすぐられしよ
058:脳
  「犬ノ肉、豚ノ脳ミソモオイシイヨ。」中華街奥、提灯(ランタン)笑ふ。


この一首は感覚の歌であるから、ロジックを求めても仕方ない。
しかし、単に一般論を五七五の音韻に落とし込んだ歌よりよほど面白い。
一瞬よぎった思いが、実際にそうだったのか、勘違いだったのか。

表現が「私的詩的フィルタ」を通したものになっているか。
詩人たらんとするならば、これは常に問いかけねばならないのだけれど、
私にはまだ全然自信がない。

  快復を告げられし胃にその夏のモカは沁みれり一年を経て   理阿弥    一年=ひととせ

鳥羽省三さんの百首から

2010年08月18日 | 五首選 - 題詠2010
050:虹
 虹消えて既に無けれど有る如く思ひて行かなセブン銀行


086:水たまり
  潦(にはたづみ)と言へば何やら儚くて午睡の夢の水たまり越ゆ
070:白衣
  この頃は薪を割るのが趣味でして樹木医みたいな白衣着て割る
006:サイン 
  森永のネオンサインに焦ぐる身を数寄屋の橋に冷ませしあの日
001:春
  ねばねばと毛氈苔の吹き出でて法然院の春はたけなは


私たちの社会生活はとても煩雑なものだ。
現代人を縛る様々な契約が、「食べて寝て遊んで働く」以上のものを要求してくる。
そしてときおり、自分のやっていることが何のためなのか、わからなくなって佇んでしまう。

引き落とされた三千円は何の料金だったっけ。
期日前投票の締切日は?
減免の申請書類はどこで貰えばいい?
印鑑を替えたから、再登録しなくちゃ…

生命活動には直接的な影響は無いが、「健全な」社会生活に必要な
そんな細々とした約束事が、これでもかと溢れている。
ある意味でばかばかしいようにも思える、それらの約束事を守るのは、
時に億劫なものだ。

だがそれら雑務を、いつまでも放っておくわけにもいかないので――――
例えば、明け方の澄んだ空気や、好きなひとの笑顔や、
たまにみかける鮮やかな虹なんかを契機として、
人はその重い腰を、やっと上げているのかもしれない。

  ローソンを出れば煙雨に霞む街手にはトトくじ心には虹   理阿弥

畠山拓郎さんの百首から

2010年08月09日 | 五首選 - 題詠2010
009:菜
 裏庭が祖父の手放れ母の手へ野菜畑は花畑へと


065:骨
  納骨をペアで済ませる祖父と祖母 遺影もペアで並んでおりぬ
038:空耳
  「さようなら」空耳じゃない祖父は言うびっくりしながら「さようなら」言う
032:苦
  漢方の苦い薬を飲んでいる痴呆に効くと調べれば出る
029:利用
  夜もすがら溶け合うような愛しさで私的利用をしてみたい夏


母方の祖父は庭づくりが好きで、祖母は美術や音楽が好きだった。
祖父母が亡くなるとすぐ、伯母が手のかかる庭の樹をみな切り倒し、
画集もレコードも全て売り払ってしまった。
一軒家は見る影もなく、今風に改築されて貸し出された。

もともと伯母夫婦が祖父母の側に住んで、彼らの面倒をみていたのだから、
遠方の自分に文句を言える道理はない。
そして、世界は生者のものなのだ。疑いようもなく。

しかし、人はどんなあり方で他者の存在を認めるかを考えると(そのひとと相対している時を除けば)、
もちろん彼/彼女を想起することによって、それに他ならない。
つまりその場に居ないときに人間は、生者であれ死者であれ、
思い出してもらうことによって同じように生かされるのである。

伯母が思い切りよく全てを抹殺してしまったのは、私には衝撃だった。
故人を思い出すことは、彼女には辛すぎたのかもしれない。
だから何もかも無くしてしまったのだろう。
だが、もう少し穏やかで優しいバトンタッチの方法はなかっただろうか―――
そう、野菜畑を花畑として活かすように。

かつてそこにあったものを思い出させる、そんなよすがが僅かでもあれば、
人は生の終わったあとも、長く生きていけるのだから。

  祖父の樹と祖母の画集を売り急ぐ疎遠の伯母に会うときの顔   理阿弥

行方祐美さんの百首から

2010年08月02日 | 五首選 - 題詠2010
100:福
 福多味をつまむ指のひかりゐつ扁爪は薄い涙かしれぬ


085:訛
  横訛りのやはさを含むブラウニー釜山の土産の一つ二つに
041:鉛
  鉛筆の木を語りゐつ雨やかぜのにくらしきほど近い窓辺に
030:秤
  秤量瓶に溜まる吐息か昼過ぎて窓にゆつくり降る雪がある
020:まぐれ
  たをたをと水ひかりゐつ父といふ呼び名撓めて春ゆふまぐれ


手指をみることは、自分自身を見つめること。
手は動作の主役であり、かつ人生で最も視界に入る自己である。
だから人は、顧みるとき「ぢつと手を見る」。

爪ってナミダのようだな、と思ったこのときにも、
やはり主体の無意識的な悲しみが反映されているのだ。
フクダミ(=トコブシ:貝の一種)から自らの悲しみまでの、
一見無関係なものが視点移動によりむすばれる、
その動作がスムーズで心地良い。

自分は悲しい、悲しいのだ、と押し付けがましく詠うのではなく、
それが生活の中で、ふとよぎった感情として提示されることで、
かえって読み手の胸に、真に迫って響いてくる。
福多味は一首の「実感」を支える役割を担っているのだ。

  故郷を想う熱気で薄曇る車窓にあてた指先の冷え   理阿弥

子帆さんの百首から

2010年07月29日 | 五首選 - 題詠2010
077:対
 コスモスの対義語であるカオスとは桜のことであったのでしょう


088:マニキュア
  マニキュアで「さ」を塗りつぶす幼子のママよりパパに抱かれる夕べ
083:孤独
  心臓がドクコドクコと鳴っている生きているって孤独なんです
040:レンズ
  古田新太=マツコ・デラックスなるレンズで見つけた君だから
007:決
  日曜8時の過ごし方 決めたこと破ったことも誰も知らない


おなじ色合いの花を咲かせる、秋桜と桜の対置。
かたや秋の澄んだ空気と陽光が似合う、可愛らしい花。
かたやその美しさを、しばしば「妖しい」と形容される春の花。
降り敷く桜の木の下には、妙齢の蠱惑的な女がぴったりだし、
その根元を探せば、もれなく死体が埋まっているのだ。
月明かりに舞う桜の花の美しさ、怖ろしさ。

 カオスとは桜のことであった

そう言われてみると、ただの言葉遊び以上の説得力がここにはあるが、
しかし提示されるまでは気付けないものだ。

挙げさせていただいた五首は、いずれも詠み手のフィルターをしっかり通しての
表現がなされていて、誰にでも詠める作品ではないと思う。
作者の独特の感性が色濃く反映した歌を読むと、
嬉しい驚きが湧くとともに、参りましたと腹を見せて降参するような気持ちになる。


  明日の朝八百万のコスモスが咲いても世界は狭くならない   理阿弥

周凍さんの百首から

2010年07月25日 | 五首選 - 題詠2010
018:京
 京なる賀茂の流れのささにごり雲ヶ畑には雨の降るらし


088:マニキュア
  これやこの汝が指先のマニキュアに移ろふ色こそこころなりけれ
074:あとがき
  折かくる波に千鳥の跡消えてあとがきなき歌誰そ知るらむ
063:仏
  さみだれに打たれ風にも磨かるる仏石かや川のほとりの
061:奴
  わきかへる恋の奴となりぬるを秋のむら雲月な隠れそ




数年前の晩夏、京都に滞在しての仕事で、最終日に大きな失敗をした。
多くの人が関わっていたプロジェクトだった。
東京へ戻るのを一日延ばし、自転車で鴨川沿いを上流へと走った。
この大きな流れはどこから来るのだろう。

かつて暴れ川と畏れられたその川は、護岸もやたらと施されておらず、
その姿は姿のままに、というやり方で愛され守られているように見えた。

お弁当を広げる夫婦。サッカーに興じる少年たち。
流れに足を浸すひと。水鳥。

自分のそれまでの十年と、ひとつの素人のようなミス。
この仕事から、離れるべきなのだろうか。
遠くに雨の匂いのする夕暮れであった。

走れど走れど、流れる川に終わりは無いように思われた。
自分だけ立ち止まっても、社会は永永と流れ、生活も続く。
穏やかな日もあれば、嵐の日もある。
やってやれないことがあろうか。前を向こうじゃないか。

翌日、下鴨神社に参り、そして新幹線に乗った。

 ◆

そんなことをバァッと思い出しました。
ひとつの小さな穴を穿って、各々の胸に大きな傷を呼び起こす。
それが短歌なんですよね。

  雨風と賀茂の濁りの収まらぬ朝のあらむか自転車をこぐ   理阿弥

龍庵さんの百首から

2010年06月01日 | 五首選 - 題詠2010
066:雛
 夕立に傘をささない主義だから夏はときおり雛になる君


099:イコール
  イコールで結んだときに消えてゆく多少の差異の行方を思う
080:夜
  下腹部をはいずり回る虫のため夜と朝との縫い目を歩く
044:ペット
  気がつけばペットに話し掛けるのと同じトーンで僕の名を呼ぶ
026:丸
  まっすぐに線を描いてこの星をぐるり一周したなら丸だ


全身を濡らして、生まれたてのような喜びに溢れているひと。
くしゃくしゃになった頭のままで、笑っている姿が目に見えるよう。
もしかしたらそんな格好のままで、ちょこちょこと後ろをついてくるのかも。
些事にこだわらない、そんな無垢な人が身近にいたら、
愛おしいと感じないワケがないし、いつだって気に掛かるだろう。

雨にたたられたらどうしよう、なんてクヨクヨ考えない。
濡れたって平気、そんな「君」の周りにいる人々は、
きっとみな健康で幸せになっていくだろう。
ときどきは、一緒に雛になってみたりしながら。

お題の「雛」の一語に、「君」の様子と人柄、
そして作中主体の、対象への思いが集約されていて、
題詠としても完璧な、清々しい一首。

  五月雨に立つ君が居て五月雨に凛々しく濡れる立ち方を知る   理阿弥

はこべさんの百首から

2010年05月17日 | 五首選 - 題詠2010
030:秤
 お米屋の奥なる壁に懸かりおる点景のごときてんびん秤


089:マニキュア
  看護婦の小指のマニキュア残りいて昨日のデートの名残なるらん
080:夜
  音もなく重なってゆく群青の夜の隅には眠らぬ橋姫
054:戯
  ハマシギの戯れおりし浜辺にはさざなみ寄せて影ゆがみおり
047:蒸
  青葉する山の駅から見下ろせば蒸気機関車煙ひきおり


この天秤は、かつてその米屋で長きにわたって働き、
今はもう使われることのなくなった一品なのだろう。
昨今では米屋の秤も次々に電子化され、置き換えられているに違いないが、
代々使ってきた古い秤は、おいそれと捨てられないものだ。

米屋の秤は、定期的に国の検査をパスする必要がある。
つまり店の信頼の象徴であり、その家を支えてきた証、
さらにいえば国の食産業を支えた証なのだ。
時代とともに役目を終えた天秤は、若き店主の手で恭しく、
誇りをもって店の壁へと掲げられることとなる。

壁面ひとつをきりりと引き締めている天秤。
作者の静かな筆さばきによる描写が、この一首を一幅の絵たらしめている。

  米店の秤の精度を検し終え官吏と主人ふくらに笑う   理阿弥