楽しく遍路

四国遍路のアルバム

拾い遍路②:慈眼寺 穴禅定 DMV 室戸岬 御厨人洞 最御崎寺

2022-09-28 | 四国遍路

 
この記事の末尾へ  アルバムの目次へ 

  二日目(平成19年4月3日)

慈眼寺へ
7:00過ぎ、「さかもと」に荷物を預け、地図をいただき、別格3番月頂山慈眼寺に向かいました。
天候は晴ですが、黄砂は相変わらずで、空は曇っています。


集落
坂本が紅葉の植樹をしていると、前号で記しましたが、桜もきれいです。


登り口
左側に理髪店を見て、前方50メートルほど先に、山道への登り口があります。
ブリキ看板にある「清酒 津乃峰」は、阿波橘にある津峰神社(つのみね神社)のお神酒です。なお津峰山は、(如意輪寺がある)中津峰山→(H26秋 1) 、日峰山 →(H26春 7)とともに「阿波三峰」と呼ばれ、航海安全の神として信仰されました。山上には今も、地乗り航法時代の名残として、灯の鉄塔が建っています。



電柱に外灯がついているのにお気づきでしょうか。この道は山道ですが、より上の集落の人たちが使う、生活の道でもあるようです。
後のことになりますが、平成21年4月、北さんとこの道を登っていると、自転車に乗った男子中学生が二人、すごい勢いで降りてきました。久国の勝浦中学校に通う子たちでしたが、この子達の帰宅時のことを考えれば、ここに外灯は、絶対必要でしょうね。片道6-7キロはありそうで、しかも帰りは、すべてが上り坂です。私などはついつい、車での送迎を考えてしまうのですが。


ミカン農家
この集落には車道が通じているようです。今はどこにも通じているのでしょう。しかし家族が自家用車で送迎するとか、スクールバスが廻ってくるなどの話は、(この時点では)ないと思われました。それよりも大人達は、自転車通学する子たちの「たくましさ」を、楽しんでいる風でさえありました。「さかもと」の人たちに中学生の話をすると、いかにも楽しげに、「あの子たち(もう、どこの子か分かっているらしい)、帰りは横瀬から山の上まで、立ちこぎですよ」「足腰が強くなるわー」などと話をはずませたのでした。私が、「昔、西鉄ライオンズというチームに、神様、仏様、稲尾様と頼りにされるピッチャーがいましてね、彼は子供のころ、船を漕いでいたので足腰が強かったんですよ」と昔話を紹介すると、「山には船は登らないけどねー」とまぜかえします。



もう一つ、この件で感心したことがありました。
私たちが中学生二人とすれ違った話をしたときのことです。「二人は挨拶しましたか」と私たちに尋ねた人がました。私たちには唐突とも思える問いなのに、居合わせた人たちは、当たり前のようにそれを聞いています。むしろ答を聞きたがっている風でした。
それでわかりました。どうやら、それが地域の大人達の、地域の子供達への接し方なのです。あの子たちは「他所の子」ではなく、「地域の子」なのでしょう。だから挨拶をしたかどうかが、気にかかるのです。


景色
山道から一度車道に降りてきた、標高300メートル辺りからの景色です。すぐ先に「おへんろさん休憩所」(黄表紙地図では「小屋」と記されている)があり、そこからまた山道に入ります。なお、慈眼寺の大師堂や寺務所がある地点の標高は550メートル、本堂、穴禅定がある地点は650メートルです。


おへんろさん休憩所
山中にこんな立派な休憩所があるとは、予想もしないことでした。「さかもと」の人から後で聞きましたが、近くの集落の方が始めたのだそうでした。「電気も引いてあったでしょ」と言われたので写真で確認すると、なるほど電灯が下がっています。
それほど疲れはありませんでしたが、せっかくなので、しばらく休ませてもらいました。ここから再び山道になることですし。



慈眼寺は、寂本さんが・・此寺札所の数に非といへども、霊境にて載ざる事を得ず・・と記す名刹です。「穴禅定の寺」とも呼ばれますが、その由来を、慈眼寺HPは次の様に記しています。
・・延暦年間(西暦782年~805年)、桓武天皇の御代。弘法大師が19才のとき、末代衆生(あらゆる人々)の生活苦、病苦など一切の苦厄(四苦八苦)を除くため当地をご巡錫しておられました。



・・大師様は、深山霊谷のそのまた奥に霊気漂う不思議な鍾乳洞を発見し、邪気祓いのため洞窟の入り口で護摩祈祷の修行をなさいました。その結願も近いある日、洞窟内に巣くっていた悪い龍が忽然として現れ出て、お大師様めがけて猛然と襲いかかりました。お大師様は、慌てずひるまず秘密真言を唱えうち、その法力をもって悪龍を洞窟の奥に封じ込め、21日間の加持をして、さらに霊木に一刀三礼して十一面観音様を刻み、霊験あらたかな行場としてその秘法を末代の修行者のために残されたのです。


慈眼寺
慈眼寺です。「さかもと」から、1時間半ほどかけてやってきました。3.5キロほどの登りでした。
ただし(前述のように)ここは大師堂、寺務所を中心に構成された区域で、本堂、穴禅定は、写真奧に見える、峭壁の下にあります。


大師堂
大師堂右の納経所で穴禅定の申し込みをすると、さっき出ていった人達と一緒なら1500円だが、次回は1時間先で、もし希望者が一人しかいなかったら、3000円になります、とのこと。すぐ1500円で申し込みをし、追いかけることにしました。


登る
着替えの白衣とローソクを受け取って、急ぎました。
けっこう急坂で、息が切れました。何とか追いついた一行は、女性の先達に率いられた、三河から来たという、5人の女性たちでした。何はともあれ、「運命」を共にさせてください、とご挨拶。列のしんがりにつきました。
なお、前を行く人たちの白衣に南無大師遍照金剛の背文字がないのは、下ですでに、穴禅定用の白衣に着替えているからです。


本堂
本堂にお参りした後、ローソク以外の一切の物・・ポケットの中の物、メガネなども、本堂前の小屋に置き、一列に並びました。
列は先達さんが先頭で、その後ろにグループで一番大柄の人がつきます。狭い岩窟の中で先達さんの助言を一番必要とするのは、大柄の人だからです。(あまりにも大柄の人は、詰まってしまうので入れません)。私はスリムなので(つまり痩せているので)、しんがりにつきました。
先達さんの指示は伝言ゲーム式に必ず後ろに伝えること、もし前の人がつかえたら、出来るだけ楽な姿勢で待つこと、の2点が指示され、いよいよ入洞です。


岩屋
洞内の様子を寂本さんは、次の様に記しています。・・松(たいまつ)ともし入に、いとくらく、いとせばし。先達の人に随ひ身を左みぎになし、はい入事十間斗(ばかり)・・
私は、もう少し生々しく、次の様なメモを残しています。・・左肩から入る。身体を沈めて頭を通し、上体を後方に倒して右手で支え、ズルようにして足から抜ける。が、立ち上がる時、頭に気を付ける。といった具合に、ふだんめったにとることのない姿勢で抜けてゆく。岩の表面は意外と滑らかで、ローソクが垂れてそうなったのか、どなたかが塗ってくれているのか、わからないが、滑りが良くなっていた。


景色
最奥部に弘法大師を祀った、やや広い空間があり、ここでも般若心経などを全員で読経。その後、それぞれの「祈願」を先達さんに伝え、先達さんを介してお大師さんにお願いしてもらいました。「祈願」の最後は、先達さんのサービス祈願で、「全員、この洞窟から早く出られますように」でした。大方は笑っていましたが、中には”恐い冗談は止めてくれ”と思った人もいたようでした。
とまれ祈願のおかげもあってか、全員無事帰還。空が(黄砂で曇っているにもかかわらず)広々と見えました。その後、本堂の周りを三回、真言を唱えながら行道。無事帰還のお礼をしました。


道標
先達さんとの会話です。
・・一日、何回くらい案内されるのですか。
・・多い日には六回ですね。
・・中で身動きならなくなったりすることは・・
・・私はないですけど、たまにあるようですね。そういうときは、大変です。閉所に長くいると、誰だって恐いですよね。
・・ではサービスの祈願は、案外、先達さんの本心なのでしょうか。
・・もちろん、そうです。


景色
穴禅定は予想していたよりも長く、2時間余かかりました。5人だと、これくらいはかかるようです。
この後、坂本からバスでの移動を考えていますから、下山を急がねばなりません。


帰着
12:40「さかもと」に帰り着きました。急いで(予約してあった)昼食をとります。山菜はどれも、「そこらで採れたもの」とかで、美味でしたが、特に私好みだったのは、虎杖の漬け物でした。


郵便局
バスの発車は13:18。坂本郵便局の前がバス停になっています。間に合いそうもないので、車で送ってくださいました。
行き先はJR南小松島駅。牟岐線で海部まで移動し、(予約はまだですが)海部の宿に泊まる予定です。


南小松駅
南小松島駅。
駅前公衆電話で海部の宿に電話を入れますが、通じません。「その電話は使われていません」との応答。まさか廃業?しかし104で尋ねると、「登録されています。別の公衆電話でかけてください」とのこと。しかしその別の電話が、最近はなかなかみつからないのです。
困り果てていると、売店のおばさんが助けてくれました。ご自分の携帯でかけてくれたのでした。携帯の取得。もう観念しなければなりませんかね。


ディーゼル車
15:05 南小松島発。特急「むろと」です。
車窓風景を楽しみたいと思っていたのですが、うつらうつらが始まってしまいました。北さんが同行していれば、彼はこのようなときは絶対に寝ませんから、こんなことは起きなかったのですが、・・。私は車中の大半を寝てしまい、ようやく撮れた写真が、下の2枚です。


田植え
関東では田植えは五月連休の頃ですが、こちらでは、もう始まろうとしていました。ある田圃は、まだ田起こしをして乾かし中。ある所は、もう水を張ってある。早くも早苗が風を受けている田圃もある、など、いろいろです。写真は、田植え直前の代掻きをしているところでしょうか。


日和佐城
日和佐城です。天然の要害と言えましょうか。16世紀の後半、土地の豪族・日和佐氏が、長宗我部元親の阿波侵攻に備えて築いたのが最初、と考えられています。ただし日和佐氏は、戦わずして降伏してしまいます。その理由などについては、→(H27春 2)をご覧ください。
なお、立派に「復元」されていますが、この城について知られていることは、少ないと言います。「復元」は(立派ではありますが)、原型を正しく踏まえているとは、言いがたいようです。


海部駅2番線
海部駅は、昭和48年(1973)、牟岐線が延伸(牟岐-海部)されたことにより、牟岐線の終点の駅として誕生しました。当時、高架駅は珍しく、四国では初めてだったとのことです。
その後、平成4年(1992)、阿佐海岸鉄道の阿佐東線(海部-甲浦)が開業し、海部駅は、阿佐東線への接続駅としても働くようになりました。従来の牟岐線ホームに加えて、阿佐東線のホームを増設。一つ駅舎に、鉄道2社が同居する形が生まれたのでした。


延ばそう!阿佐東線 
上掲写真は、海部駅の2番線ホームですが、隣駅に阿佐東線の「宍喰」(ししくい)が表示されています。宍喰の次は(阿波-土佐の国境を挟んで)終点・甲浦(かんのうら)となります。短いながらも阿波の鉄道が、また少し室戸に近づいたのです。
なお、後の話ですが、阿佐海岸鉄は令和3年(2021)12月、DMV運行・・デュアル・モバイル・ビークル=鉄道と道路の両用車両の運行・・という形で、室戸までの延伸を実現します。運転日が限定されているなど、まだ不十分なところは多いですが、とにもかくにも、戦前からの念願の夢が実現したのは、間違いありません。


今夜の宿
今日の宿です。部屋に入って小休止。その後、徳島駅でお接待にいただいた案内書に目を通しました。とても量があるので、持ち歩けません。明朝、宿の人に事情を話し、処分してもらうことにします。
同宿は、歩き遍路が3人でした。宮城から来た青年遍路は礼儀正しい人で、家業を継ぐ前に、その決意を作ろうと遍路に来たのだそうです。70代白髪の男性は、スマートな立ち居振る舞いをされる方です。公平、誠実、冷静が感じられ、好感が持てました。もうお一方は60代の男性で、磊落というのでしょうか、明るく、ざっくばらんな方でした。話すうち、彼が丸亀の自宅に遍路休憩所を設けている人で、3ヶ月前、北さんと私がそこで休ませてもらっていたことがわかりました。私はもちろん、彼もその奇遇を喜んでくれました。利用者からの感想がきける機会は、あまりないのだそうでした。


夕食
丸亀の方は話題豊富な方で、いろいろの話で座持ちを務めてくれました。白髪の人と私は、所々で質問などを発する役回り。青年はその聞き役。飽きもせず、よく聞いてくれました。終わりに、退屈しなかった?と尋ねたら、・・勉強になりました。お椀の開け方も。・・とのこと。堅く閉まった蓋の開け方を、私が教えてあげたのです。
和やかにして楽しいひとときでしたが、みんなが真剣になった話もありました。当時、ある遍路宿の「悪評」が、歩き遍路の間に広まっていました。・・雨の日、宿に着いた歩き遍路が、まだチェックイン時刻の前だという理由で、軒先で待たされた・・というような「悪評」です。丸亀の人がこれを取りあげ、皆さんはどう思いますか、と尋ねたのです。(詳細は略しますが)話をまとめたのは、白髪の方でした。・・あの宿について、私は他にも同様の話を耳にしていますが、それらの出所は一つと考えています。雨のなかで待たせたことは、あったとしても一度だけのことでしょう。なぜなら・・。その説得力のある説明に、みんな聞き入ったものでした。彼の話は、こう締めくくられました。・・遍路もまた、日常を引きずって歩いている、並みの人間ということでしょう。迷故三界城。

  三日目(平成19年4月4日)

ボラの子
川で泳ぐ小魚(出世魚・ボラの幼魚で、オボコとかスバシリと呼ばれる段階らしい)を見ていると、東南アジア系の青年が通りかかりました。私が遍路とわかっているらしく、ご苦労様です、と声をかけてくれました。マグロ船に乗り組んでいるが、これから母国・インドネシアに一時帰国する、といいます。
3年前、平成16年(2004)12月26日に起きたインドネシア・スマトラ島沖大地震・インド洋津波の時のことを尋ねると、あのときはインドネシアにいたが、住まいがボルネオ近くなので大丈夫だった。しかし地震の揺れは尋常ではなく、大事が起きたことはすぐ理解した、と話してくれました。
後のことになりますが、それより7年後の平成23年(2011)3月11日、私は揺れ止まぬ地震の中で、彼の話を思い出していました。そして気づきました。・・あの時、私は他人事ではないと思って彼の話を聞いていたが、我が事としては聞いていなかった。・・’他人事ではない’と’我が事である’は、同意ではないのです。


阿佐東線
海部から阿佐東線で甲浦に移動します。甲浦からはバスに乗り換え、佐喜浜辺りで下車。室戸岬まで歩くつもりです。宿は、前にも泊まった、室戸岬先端の宿です。公衆電話探しに懲りて、朝早々、宿の電話をお借りして、予約しました。
さて、天恢さん。もし秋遍路が実現すれば、ここはDMVで行くところですよね。甲浦の乗り換えはなく、当然、バス待ちもなく、ずいぶん快適な移動となります。おまけに、鉄路モードから道路モードへの切り替えという、世界でもここでしか見られない場面に立ち会うこともできるのです。天恢さん、秋遍路で乗れるといいですね。


阿佐東線の終点・甲浦
バス待ちの間、話しかけてくれる人がいました。中年の女性で、その頃東洋町で問題になり全国ニュースにもなっていた、「高レベル核廃棄物(核のゴミ)最終処理場」の話をしてくれました。東洋町の町長さんが核廃処理場の立地調査に(住民はおろか、議会の同意も得られないまま)応募してしまったそうなのです。



まあ、立地調査が実施されたたけで、年間10億円の交付金が出るとか聞かされれば、財政難に日夜苦しむ町長さんの食指が、ついつい動いてしまったのも、仕方ないのかも知れません。
しかし、とはいえ「ついつい」では事は片付きません。当然のように反対運動が起こり、町長リコールの署名運動が始まりました。私が東洋町に入った4月4日は、その運動が最高潮に達しようとしていた頃で、女性が私に声をかけたのも、そんな雰囲気の中でのことであったと思われます。どこの誰とも知れぬ遍路の私にさえ声をかけたのは、・・この問題はひとり東洋町だけの問題ではなく、国の問題なのだ・・との認識が、彼女にあったからでしょう。
なお私は、この翌日、4月5日、奈半利の宿のテレビで、町長さんが辞意を表明したニュースを耳にします。反対運動の局面は、リコールから町長選挙戦に転じたのです。



選挙(4月22日)の結果は、自宅で聞きました。処理場に反対する候補が当選。東洋町が応募を撤回して、個別東洋町の問題は終わります。むろん彼女が案じていたように、処理場の問題は未解決のまま、国の課題として残りました。
そして、・・それから13年後、令和2年(2020)10月3日、私は次の様な報道に接し、暗澹たる思いにかられます。
・・「核のごみ(原発から出る高レベル放射性廃棄物)」の最終処分場をめぐり、北海道の神恵内(かもえない)村と寿都(すっつ)町が、国の選定プロセスに応募する方針を固めた。応募すれば2007年の高知県東洋町(その後撤回)以来13年ぶりで、・・「文献調査」に応募すれば、2年で最大20億円の交付金が得られる。2町村はいずれも人口減で先行きが厳しいとして、選定に向けた調査で得られる交付金に期待する。・・
地方の貧困につけ込むような国のやり口も、毒と知りつつ敢えて飲もうとする自治体の「安易さ」も、この13年間,変わっていないようです。いえ、むしろ深刻化しているのだと思います。


室戸岬へ
室戸岬まで19K余の所でバスを降りました。
5年前、この辺を飛ぶように歩いたのを、思い出します。なぜ「飛ぶよう」だったかと云えば、両足のマメの痛みを一歩一歩、ゆっくりと味わうことには、もう耐えられなくなっていたからです。痛みを感じる間もおかず次の足を出せば、二度の痛みが一度になります。忍者が水面を走る「原理」と似ていますね。片足が沈む前に次の足を出す、というやつです。
しかし今回は、10キロ膝の不安はあるものの、今のところ痛みはありません。ゆったりとした気分で、左は海、右は山、前方に岬が次々と現れてくる、・・国道55号線の景色を楽しみながら歩くつもりです。
なお5年前のアルバム・→(H14春)二回目の遍路②で、試しに「マメ」を検索してみたら、11件が検出されました。・・マメにも負けず、風にも負けず・・などと記しています。よほどまいっていたのです。


佐喜浜八幡宮
5年前、ゆっくり見たいと思いながらも、見られなかった佐喜浜八幡宮です。
境内の説明板によれば、・・鎌倉時代の天福元年(1232)、京都男山石清水八幡宮より勧請して創められ、佐喜浜全住民の氏神となっている、・・とのことです。
例大祭で奉納される、俄(にわか)、獅子舞(狂い獅子・荒獅子)は、「佐喜浜八幡宮古式行事」として、県の無形民俗文化財に指定されています。常夜灯は、西洋レンガが使われた珍しいものです。明治16年(1883)の年号が入っています。


佐喜浜漁港灯台
八幡さまのご利益は多岐にわたりますが、佐喜浜では就中、海上安全、豊漁が期待されています。この神社が海に向いているのは、それ故です。写真がないのが残念ですが、佐喜浜八幡宮一の鳥居(常夜灯の鳥居は二ノ鳥居)からふり返ると、豊穣なれども荒れれば恐い、無辺の海が見えます。漁師達はこの海へ、八幡神のご加護を信じて出漁し、加護を得て帰ってくるのです。


佐喜浜漁港
威勢のよい声で、水揚げの最中でした。たぶん、今が旬の鰤でしょう。(この後、椎名の記事でもご紹介しますが)この頃は定置網の盛漁期で、脂ののった鰤が大量に獲れていました。


  
後ろは桜の山でした。


源内槍掛けの松跡の碑
石碑に、「明治31年生 73歳の同士 槍掛けの松跡に碑を建つ (連名) 」と刻まれています。
源内とは、崎浜(佐喜浜)城主・大野家源内左衛門貞義のこと。長宗我部元親の侵攻を阻まんと勇猛果敢に戦い、その神出鬼没ぶりは「ここにても源内、かしこにても源内」と云われるほどだったと伝わります。
しかしその源内も、敵将・沢田太郎左衛門に討ち取られてしまいます。佐喜浜勢はこれを機に総崩れとなり、元親は阿波への道を開きました。その時、多数の住民が元親の命により、「なで切り」にされたそうで、近ごろ人気回復気味の元親も、ここでは(天恢さんが言うとおり)「ワル」です。
その源内がよく槍を立てかけたという松が、昭和6年(1931)、倒れてしまいました。写真の碑は、これを惜しむ明治31年生まれの人たちが、昭和46年(1971)、「同士」と語らい、建立したのだそうです。これが如何なる「同士」であったかは、わかりません。


火除け・魔除け
火除けや魔除けとして、吊しているのでしょう。貝が持つトゲが邪悪なるものを払う、と信じられているのかも知れません。ただ、このお宅以外には貝を吊している家は見つからなかったので、この界隈に広がる信仰ではないかもしれません。沖縄などでは、水字貝(すいじがい)を吊すなど、魔除けとして貝を吊すことは、よく行われていますが。

 
石垣
国道55号の前身は、昭和28年(1953)に徳島-高知間に建設された、2級国道194号でした。昇格して一級国道55号となったのは、昭和38年(1963)だったとのことです。その際、堤防を強化するなど、国道を護る工事が行われましたが、それらが引いては、居住地を護っていることは、いうまでもありません。
海沿いを走る国道55号は、(まだ充分とは言えませんが)海に対して陸地を守る(即ち住民を守る)、長い防御ラインとしても在るのです。東日本大震災で仙台東部道路が津波を止めたことは、よく知られています。


自力防衛
おそらくこれらの家々は、かつてはもっともっと直に、海の脅威にさらされていたにちがいないのです。


国道
1日20キロを超えないことは、リハビリ遍路の原則でした。今日も、この原則は守られています。
しかし、そろそろ30キロレベルにアップしなければ、とは考えています。今日の具合を見て、できれば最終日の明日は、ちょっと頑張ってみるか?



55号線を歩いていると、前方に次々と岬が見えてきます。今度こそ室戸岬だ、と思うのですが、それは「偽」室戸岬。
この繰り返しで、もうあきらめかけた頃、「真」室戸岬が現れます。


夫婦岩
雨風に、また激しい波にも打たれながら、夫婦岩は、しっかりと立ち続けています。まさに夫婦は、斯くあらねばなりません。
しかし、当然ながら、夫婦岩にも侵食は進んでいるようです。近年は落石の危険があり、立ち入りが出来ません。



浜を歩くと、さまざまの漂着物に出会います。テキサスから手紙入りの瓶が流れ着いていたり、名も知らぬ遠き島から椰子の実が流れ着いていたりもします。ブライアン少年の手紙が海を渡り高知に届いた話は、中学の英語の教科書に載りました。流れ着いた椰子の実から、柳田国男さんは海にも「道」があることを感知。日本人のルーツに思索を巡らせました。島崎藤村はそれを歌に書き、「椰子の実」は今も歌われ続けています。漂着物にはロマンがありました。→(H27秋4)→(H15秋2)
しかし近ごろ、浜に流れ着くのは、かならずしも嬉しいものばかりではありません。流れ着いた鯨の胃には、プラスティックゴミや漁網などが、いっぱい詰まっていたそうです。大気も海も、汚れました。グレタさんが・・なんてこと、してくれたんだ・・と怒るのももっともです。


南無大師遍照金剛
丁寧な字で書かれています。字から不快は感じません。心から道中恙ないことを祈ってくれているのも、わかります。
しかし、私たち遍路が歩いている道が他人様の生活空間であることを、忘れてはいないでしょうか。我が思いを、思うように書き残して、いいわけがありません。


側溝
側溝の蓋の上に、何人もの足跡がついています。この上は水平なので歩きやすく、ここを歩く人は多いようです。私もよく歩きます。
初めのうちは、穴にお杖を差し込んでしまい、引っ張られてしまうことがよくありましたが、いつしか慣れて、サッと引き抜く術もおぼえました。ただし、とりわけ暗くなってからは、十分な注意が必要です。突然蓋がなくなることがあるからです。足摺岬で北さんがそれに気づかず、空踏みして転倒したときは、→(H15秋4) 一瞬、大怪我を覚悟したものでした。


水切り
「水切り」は、雨から漆喰を守るための工夫です。高知ではよく見かけます。


海洋深層水
「海洋深層水」の看板が多く見えます。平成16年(2004)8月にこの辺を歩いた菅直人さんはご自分のHPに、「宣伝を頼まれたので」と断ったうえで、深層水を宣伝していました。「頼まれたので」は、政治家の用心なのでしょうが、あるいは深層水の採取が引き起こす自然破壊を、危惧されてのことであったかもしれません。なにせこの辺には、深層水利用の風呂、深層水でたてたコーヒー、芋けんぴなどなど、海洋深層水商品が大流行なのです。「母なる海」の深部は、あまりかき回したくないと、私は思うのですが。


  
かつての海底が姿を見せているのでしょうか。ここは、海と陸地がせめぎ合う所です。



椎名漁港で定置網の補修をしていました。威勢のよい若い衆とお年寄りが、私に話しかけてくれました。
 年寄り 昨日はブリが3500本あがった。
 私    スゴイ!
 若い衆  一昨日は5000本だった。(若い衆の小鼻がふくらむ)
 若い衆  その前は17万トンだ。
 私    エッ、スゴイ。でも、トンって?
 若い衆 ブリ以外のアジやイカなどは、まとめてトンで数えるんさ。まあ、雑魚ちゅうわけ。(また小鼻がふくらむ)
 年寄 り 隣は40万だ。(隣とは、隣の三津漁港のこと)
 若い衆  40万は獲りすぎよ。魚が傷むろーが。(定置網を引き上げるとき、重みで魚体が傷ついてしまう)


網修理
何とも楽しい会話ですが、その間も手は動きつづけます。


いしぐろ塀
きれいに角が取れた石です。「いしぐろ」については、→(H27春 7)をご覧ください。少しまとめてあります。


鯨山見
「鯨山見」跡への登り口です。50Mほどの高さで、上には焚き火の跡が残るといいます。狼煙の跡?
この辺りの古式鯨漁は、寛永の頃に始まり、明治末期まで続いたとのこと。登ってみるべきでした。→(H27春5)


遭難碑
滋賀丸遭難者慰霊碑案内板に、次の様にあります。
・・昭和19年(1944)5月30日、この沖合約1500米を高知より大阪に向けて航行中の貨客船・滋賀丸役900トンアメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受け瞬時にして沈没した。当時は報道を禁止され、詳細は不明のまま30年が過ぎた。室戸ライオンズクラブはこの痛ましい霊を慰めるべく極力調査の結果、幼児を含む37名の遭難者を確認、その御霊を祭って昭和49年5月30日眼下の波打ちぎわに慰霊の碑を建立した。以来毎年この命日には遺族と共に慰霊祭を行っている。  平成14年5月30日 室戸ライオンズクラブ


アザミ採り
堤防の切れ目から下をのぞくと、なにかを採っている人がいました。
降りてみると、アザミの根を採っているのでした。石の間のわずかな砂地に生えているので、釘抜きのような金具を使っていました。
・・石の間の砂に生えた根を掘るので、金具(釘抜き)がいるんです。育ちきらないうちに、白い根を取ってテンプラにすると美味いんですよ。掘ってみて、まだ早いと思うと、砂をかけ、石をかぶせます。もっと育ってから採るんです。


アザミ
これがアザミの根。テンプラにして食べるそうです。育ちすぎると味が落ちるので、今が旬と言います。
私がこの食べ方を知らないと話すと、・・この辺でしか食べんのかなあ。でも美味いですよ・・とのこと。帰宅後、調べてみると、けっこう知られた食べ方でした。


休憩所
ここで昼食をとらせてもらいました。宿でお接待のおにぎりです。
伝言板には色々の書き込みがあります。「4/4 7:20 ロッジ尾崎発。9:40着」と書き込んだのは、昨日立ち話をした、旭川の人です。ついさっき、ここを通過したようです。
この旭川の人のことを、私は同じ北海道の札幌の人から聞くことになりますが、その話は次号で。


野根まんぢう
野根まんぢうの名が広く知られるようになったのは、昭和25年(1950)、天皇陛下の四国ご巡幸の時、献上菓子に選ばれて以来のことだといいます。陛下がお代わりを所望されたなどの噂と共に、その名が広まりました。
しかし、 野根まんぢうの誕生そのものは古く、土佐藩主山内容堂公が参勤交代の際、かならずお買い上げになったとか、坂本竜馬や中岡慎太郎が上洛の際、茶屋で密かに食べたなどとも伝わっています。延々9里にも及ぶ野根山街道・・奈半利から野根山連山の尾根をたどり、野根に至る道・・を歩いた身体が、ぜひにも野根まんぢうの甘味を、欲したのでしょう。


空海道
前述の旭川の人が伝言板に記した全文は、
・・4/4 7:20 ロッジ尾崎発。9:40着 空と海の路を歩く・・この後も空と海の道を歩くのだ。北海道旭川から来ました。(氏名) 59才・・でした。
・・この後も空と海の道を歩くのだ・・と、空海道を歩き抜く決意を残してゆかれました。


たんぼ
海と山の間の狭い土地に田圃があります。荒れた日には汐をかぶるのではないかと、心配していたものでしたが、令和2年(2020)6月、次の様な朗報が、報道がされました。
・・世界初、根の改良により塩害に強いイネを開発  産総研・・
根本から変るとは、このことでしょうか。


農業
女性がワラを運んでいました。聞けば、スイカを寝かせるのに使うのだそうです。
スイカは出荷するのではなく、家で食べる用なのだそうでした。


荒磯
御崎に近づくにつれて風が強くなりました。
歩行補助用の乳母車を押して、おばあさんがやって来ました。服が風でブルブルとふるえています。乳母車にはちゃっかりと、4-5才の女の子が乗っており、私に話しかけてきました。
・・おばあちゃんが二人おるガー。今日は泊まりに来チュー、・・と言います。お婆さんの助けも借りて翻訳すると、・・自分は、普段は別のおばあちゃんと室津に住んでいる。だけど今日は、室戸のおばあちゃんの所に泊まりに来チュー・・というわけです。私は方言を話す子供が、大好きです。


青年大師像
遠くに「青年大師像」が見えてきました。奥の白い像がそうです。


明星来影寺
明星来影寺の寺名は、(前号でも記した)空海著「三教指帰」の序文にある・・阿国大滝獄に躋り攀ぢ、土州室戸崎に勤念す。谷響を惜しまず、明星来影す・・から来ています。「来影」の「影」は、ここでは「光」です。日、月、燈火等の光を「影」といいます。
明星は金星。古代中国名では太白星(たいはくせい)です。虚空蔵菩薩の化身、あるいはお使いと考えられています。寂本さんは四国遍礼霊場記に、・・大師みづからかゝせ給ふに、土佐室生門の崎(室戸崎)にをいて寝然として心に観ぜしかば、明星口に入、虚空蔵の光明照らし来て、菩薩の威を顕はし、仏法の無二を現ずと。・・と記しています。この「光明照らし来て」が「来影」です。


虚子句碑
  龍巻に添うて虹たつ室戸岬  虚子
室戸岬で吟行を催したとき、たまたま竜巻に遭遇。この句を作ったそうです。
なお、龍巻が去ると、
  龍巻も消ゆれば虹も消えにけり
と詠んだそうです。同行者達は、思いもよらず、「写生」のお手本を見せてもらうことができました。


烏帽子岩
この岩は「烏帽子岩」と名付けられているに違いない、そう思って近づくと、やはり「烏帽子岩」でした。


みくろど
一般的に「みくろど」と呼ばれている所の全景です。海食洞が二つ写っています。右が神明窟とよばれる窟で、左が御厨人窟です。


御厨人窟内から
「みくろど」については、→(H26秋 5)をご覧ください。(実は字数制限の上限が近づいており、書き切れなくなったのです)。



国道55号に戻り、24番札所・最御崎寺への登り口に向かいます。


登り口
「ほつみさき」は「火つ御岬」であろう、と五来重さんは言います。
・・火を焚くところです。(しかし)この字は平安時代に忘れられてしまって、岬の最も先端にある寺という意味で最御崎という字が書かれるようになりました。・・とのことです。
「火を焚く」については、「四国辺路の寺」でも多くの説明がされていますが、一ヵ所だけ引用すれば、・・辺路信仰の本質は、海のかなたの常世にとどまっている祖先の霊に、聖なる火を捧げるということです。それが辺路修行の一つの目的でした。それを海岸の岬で焚くと、あそこに岬がある、この辺を通ったら安全だということになって、航海する船が二次的に利用するわけす。・・とあります。


山門
最御崎寺は、また東寺(ひがしでら)とも呼ばれています。この呼称が西寺(にしでら)と呼ばれる金剛頂寺と、対になっているのは言うまでもありません。これについての五来さんのお考えは、たとえば次の様です。
・・室戸では、室戸岬と行当岬(ぎょうどう岬)に東寺と西寺があって、だいたい10キロ隔たっています。室戸岬と行当岬を、行道の東と西と考えたのが東寺・西寺と名付けられた理由だと思います。
「行当岬」は、「行道」の西だから、(ぎょうとう岬ではなく)ぎょうどう岬と読むのでしょう。なお、東寺と西寺の中間に在る津照寺(津寺)については、次号・津照寺のところで記すつもりです。


本堂
風が強く、なかなか線香に火がつきません。やはり苦労されていた、年配の女性との協力で、なんとか付けることが出来ました。この女性と旦那さんとは、宿で再会。面白い話を聞かせてもらうことになります。


室戸岬灯台
高い所にあるので、灯台自体の背は、高くありません。どれくらい高いところにあるかは、下掲の写真をご覧ください。


岩見重太郎塚
岩見重太郎の名は、私たちの年代の男子では、知らぬ者はいませんでした。実在の人物だったそうですが、もちろん私たちが識っているのは、狒々退治など、彼の伝説部分のみです。
側の説明板は、次の様に記しています。
・・没年 慶長20年(1615)5月6日 (出生年月日は不詳)。豊臣秀吉に馬廻衆として仕えたと伝わる。秀頼には三千石で仕えていた。剣の道を極める為、諸国を武者修行の旅に出たが、天橋立での仇討の助っ人をした話や、信州松本の吉田村で狒々(ひひ)退治をした話などが有名。大阪冬の陣といわれる慶長19年(1614)11月には、大いに戦って有名をとどろかし、さらに翌年5月の大阪夏の陣では、ついに惜しくも戦死したと伝えられる。


灯台
下山し、海岸編をブラブラと歩きました。
下から見上げた灯台です。


柱状節理
マグマが冷却固結するときに生じる柱状の割れ目を、柱状節理と云うそうです。この方面をまったく勉強しなかったのが、悔やまれます。


荒磯
喫茶店でコーヒーを飲みながら、今日の整理をし、明日の予定をたてました。
明日は早起きして室戸岬の日の出を見ます。宿は、29キロほどを歩いて、奈半利に泊まります。奈半利では海岸に出て、夕日を見るつもりです。
膝は大丈夫のようなので、明日は、少ししっかりと歩くつもりです。


中岡慎太郎像
新潟の山の中で幼少期を過ごした友人が、・・子供の頃、俺は山の向こうにある世界を夢見ていたのだが、出来れば海の向こうの世界を夢見たかった、・・と話したことがあります。この像を見ていると、なるほど山よりも海だ、そんな気がしないでもありません。


今夜の宿
室戸岬の最先端にある宿が、今夜の宿です。庭には句碑(右端)があり、投句ポストもあります。


句碑
句碑の末尾に,こんな句があります。宿の女将さんの句でしょう。
  遍路待つ お杖洗いの 水置きて  
そして夕食時に聞いた句には、こんなのもありました。
  網しぼる 鰤3000本の 潮けむり
佐喜浜の若い衆から・・3500本ぜよ。もっと多いが-、・・などと言われかねませんが、句の中の数字は、かならずしも正確である必要はありません。響きよく、大きさが表現できればいいのです。


テレビ
テレビの下は、「高知県立室戸高校」のペナント。今春、甲子園初出場ながらも、強豪・報徳学園、宇部商業を破り、八強に残りました。宿の奥さん曰く、「室戸は沸いた」のだそうです。さもあろう。


人生即遍路
夕食時、最御崎寺で会った夫婦が隣に座りました。
奥さんが開口一番、いいました。・・私はこの人(ご主人)が心配で、付いてきているのです。・・数年前、この人、恩山寺で倒れましてね。脳梗塞でした。幸い(きっとお大師さんのおかげです)早く人に見つけてもらえて、徳島日赤に運んいただけ、おかげで一命は取り留めたのですが。
・・だけど、この人ったら、入院中も本当にワガママだったんですよ。今も、まだ偏食がなおらず、糖尿病なんです。足も悪くなっていて、だから(お礼参りなのに)車で廻ってるんです。それも私の運転で。
旦那さんは閉口の体で聞いていましたが、一言、・・こんな私の女房でいてくれるのは、こいつだけですから、有り難いと思っています。・・とのことでした。これもまた夫婦。


荒天の室戸岬
夫婦遍路といえば、同じ室戸で、前にも夫婦連れと出会ったことがありました。そのことは(H14春)二回目の遍路 ② に記してあるのですが、この二組、どこか似ているので、コピペして少し補足。併載してみます。
御厨人洞で会った奥さんの弁です。・・この雨風は(その日、室戸岬は荒れていました)、主人の人生そのものでしてねえ。もう、安心して見ていられないんです。大手術がうまくいって、そのお礼にと出かけて来たんですが、もう心配で。(お二人は歩きでした)。実は私は、いざというときの、救急車の電話係なんですよ。いつでも呼べるように。そのつもりでついてきたのです。まあ、もう長い間、こんな夫婦なんで、これでいいんですけど・・・。
この後のことです。ご主人が虚子の句碑前で、動かなくなりました。強い雨風の中、かまわずに何やら考えこんでいるようでした。そんな彼を、奥さんが側でじっと待っています。私たちはこんな夫婦なんです、と言っているようでした。

さて、ご覧いただきまして、ありがとうございました。
出来るなら、二組の夫婦が結願した後、何を話し合うか、(かなわぬことではありますが)知りたいところです。それはきっと、今とは違う話であるにはちがいありません。嫌も応もなく何かを考えさせるのが、遍路道だからです。
明日は、(前述のように)室戸岬で日の出を迎え、奈半利で夕日を惜しみます。今回の遍路で初めての、30キロへの挑戦です。はたして10キロ膝は、保ってくれるでしょうか。更新は、10月26日の予定です。

 この記事のトップへ アルバムの目次へ 



コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 拾い遍路①:立江寺 楓(ふう... | トップ | 室戸岬で日の出 津照寺 金... »

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
天恢の一期一会の四国遍路 第7回 (天恢)
2022-10-10 08:32:50
 早いもので、もう10月! 残念ながら、今年もコロナに明け暮れる一年で終わるのでしょうか? 「楽しく遍路」さんの予想も『コロナの感染状況は、踊る阿呆達が四人に一人も感染したとか、入国制限撤廃とか言われており、おそらく第7波の沈静化は望めず、高止まりするか第8波が始まるか』と、余り芳しくありません。
 それでも、天恢はコロナだけには負けたくありません。 感染者が少し減る兆しもあるので、昨年と同様に、「ちょっと四国の風にふれる」つもりで16回目の遍路に出掛けます。 何しろ残り少ない人生ですから「やめたら終わり」になるからです。

 さて、今回7回目は「四国遍路の応援歌」です。 先日、毎日新聞に気になる記事が掲載されました。 『四国遍路をしている人の正確なデータはないが、一つの指標となる太龍寺ロープウェイの(徳島県阿南市)の実輸送人数をみると、明石海峡大橋の開通効果などあった1998年~2002年度は年平均役13万5千人。それが14年から18年には約6割の約7万8千人。 さらに 21年度は新型コロナの影響で約3万3千人にまで激減している。』とのこと。
「楽しく遍路」さんは2001年から、天恢は2007年から初遍路ですから、四国遍路の全盛時代を垣間見ています。 おそらく「四国遍路」は、テレビ・映画で早坂暁の『花へんろ』シリーズ、『寅さん』シリーズなどで徐々に盛り上がり、21世紀を迎えた頃に頂点を極め、映画、テレビ、新聞などでマスコミに盛んに取り上げられ、書籍、雑誌など出版物も溢れました。
 天恢が今も愛読し、記憶に残るその頃のものは、2001年出版の辰濃和男さんの『四国遍路』と『歩き遍路』、2005年講談社 『週刊 四国八十八ヵ所遍路の旅』 全30巻、2007年小学館 サライ 『四国遍路 サライは、こう歩く』など。 また映像としての思い出は、2006年 NHKテレビ 『趣味悠々 四国八十八ヶ所 はじめてのお遍路』、2006年 NHKテレビ 土曜ドラマ 『ウォーカーズ 迷子の大人たち』、2008年 卓球の 四元 奈生美さんによる『街道てくてく旅・四国八十八か所』 などがあります。

 さてさて、四国では昔から「世の中が乱れると、お遍路さんが増える」と言われているそうです。 この混迷する現代社会、悩める人たちが殺到しても不思議でないのに、やはり、気になるのはお遍路さんの姿が年ごとに少なくなってきたことです。 減って困るのは、札所の納経料や観光収入だけではありません。 大事なことは「お遍路文化」の消滅の危機です。 例えば、何百年も培って根づいた「おもてなし」の「お接待」もこれじゃ廃れていきます。 コロナ渦で挫けた部分もありますが、何とか四国遍路を支えて、頑張って応援していきましょう。
返信する
Unknown (楽しく遍路)
2022-10-13 09:22:36
なるほど、・・やめたら終わり・・とは、その通りです。
だから、・・やれるうちは、やらねばならない・・のでもあるのでしょう。
天恢さん、歩けるうちは、歩かねばなりません。・・やれなくなって終わり・・となってしまった人たちの悔しさも、幾分かは背負って、ぜひ歩いてきてください。
私は「基礎疾患」なるものを抱えていますので、いましばらく「自粛」し、リライト版を書きつづけることにします。とまれ続けることがあることを、幸せとしながら。

蟻の熊野詣とは、参詣人の如何にも多い様をいう言葉ですが、初めてこの言葉を耳にした中学生(高校生だったか)の頃、私はこの例えを信用していませんでした。蟻の行列とは、いくらなんでも大袈裟な、と思っていたのです。蟻の行列が実景描写であったことを知るのは、退職後、四国遍路を始めてからだったと思います。例えば私は(R1初冬 12)に、次の様に書いています。
・・江戸時代も後期に至ると、丸亀湊に入津する金毘羅船は、’引きも切らず’の状態だったと言います。
上陸した参詣者は「蟻の熊野詣」もさながらに、列をなし、およそ3里先の金毘羅さんを目指しました。
蟻の行列さながらの参拝者の行列は、熊野詣にかぎらず、金毘羅詣や大山詣などにおいても現出していたのです。ついに伊勢神宮へのお蔭参り(抜参り)に至っては、もはや蟻の行列どころではない、狂気の大行進ともなっておりました。

このような大動員とも言える参拝熱に比べれば、天恢さんや私が垣間見た「全盛時代」の遍路道は、いかにも「静か」ではなかったでしょうか。そんな印象を私は受けているのですが、どうでしょう。
遍路道で大声が聞こえてくるようなことはまずなく、昔の講のように多人数で歩く人たちに出会うことも、(札所は別にして)まずありません。たいてい遍路は、単独で、(複数でも二人止まりで)黙々と歩いているのが、私たちがよく見る景色です。遍路道を内省の場と捉える人が、増えてきたのでしょう。若者達にとっては、「根性試し」の場でしょうか。

さて、大変申し訳ありませんが今回の「コメント返し」、ここまでということにしてください。
先週、すぐ上の姉を亡くしました。ある程度の覚悟は出来ていたので、動揺は少なめですが、それにしても忙しい。人を送るって大変です。
書きたかったのは、なぜこのような変化が生じてきたのかについての、私見でした。
故宮崎建樹さん達「へんろみち保存協力会」の人たちが整備した、「安全だが決して楽ではない」遍路道のハードが、どのような「四国遍路の全盛時代」を招来したか、そんなことにも触れてみたいと思っていたのでした。
なお更新予定は、極力、守ろうと考えています。かつては異なることの二つも三つもに、同時並行で対処できていたものですが、残念、今は一つがやっと、二つになると悲鳴をあげてしまいます。
そんわわけで、悪しからず、です。
返信する

コメントを投稿