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楽しく遍路

四国遍路のアルバム

吉良川 羽根 加領郷 奈半利 神屋神社 神峯寺 神峯神社

2015-08-13 | 四国遍路

 
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吉良川町へ
吉良川は「川」ではなく、「街」です。東ノ川と西ノ川という、(ありのままの呼び名がその名となった)二本の川に挟まれています。
東ノ川に架かる橋を渡って街に入りますが、この道は、高知と室戸を結ぶ、藩政時代の浜街道をベースにした道で、旧国道55号線です。


吉良川の通り
吉良川は古い街並みをよく残しており、平成9(1997)、重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
格子模様は何を商うかによって異なり、糸屋格子、米屋格子、酒屋格子など、いろいろあるようです。写真は、炭屋格子だったと思います。吉良川は、明治に入り、木炭生産を始めて栄えました。特に土佐備長炭としての吉良川炭は、強い火力と保ちで高く評価されたと言います。
なお、この二枚の写真は、前にも一度、ご紹介したものです。好きな写真なので、もう一度、使用させていただきました。


御田八幡宮
「おんだ八幡宮」は、浜街道(旧55号線)の山側に、海に向かって鎮座されています。斜面は海成段丘の段丘崖です。かつて汀線がここにありました。


御田八幡宮から海方向
吉良川は、昔、石清水八幡宮の杣(そま)のひとつ、「貴良河」だったと言います。杣は、大きな寺社の(造営や修繕に使う)木材調達用地です。
しかし御田八幡宮の創建は不明で、石清水八幡宮から勧請された(可能性はあるにしても)、確証はないようです。


御田八幡宮
社名の「御田」は、この神社が伝える御田神事から来ています。「御田」は、米作りの一年間を音楽と踊りで演じる予祝神事で、田植えの前に、五穀豊穣、天下太平を祈願して奉納されます。御田八幡宮の次回奉納は、2016年(西暦偶数年)5月3日です。
「殿とカシャ(冠者)」が狂言仕立ての進行役となって、14の演目が演じられます。説明板によると「古式祭典行事で、田遊、田楽、猿楽など古風な能楽を演じ、芸能史的にきわめて貴重なものとして、国の重要無形民俗文化財に指定されています」とのことです。


拝殿 本殿
14の演目のうちの「酒絞り」は、子授かり、子孫繁栄を願う神事です。
・・・酒は、人が神に近づこうとするときに戴く、神聖なものです。新米の収穫を慶び、神の恵みに感謝しつつ、人は謹んで新酒を造ります。・・・モロミから酒を絞り出そうとすると、(この辺が面白いところですが)、酒とともに男の子が生まれ落ちます。とりあげ婆が「男の子じゃー」と言って、(男の子に模した木の人形を)差し上げて投げると、子を授かりたいと願ってやって来た女たちが、男の子(人形)に殺到し、奪い合います。・・・ひとしきり争奪戦が繰り広げられた後、バラバラになった人形は再びつなぎ合わされ、子がほしいと願う女たちに順番に、やさしく抱かれます。女たちは神の子を抱きつつ、子授かりを願います。


石ぐろ塀
室戸は、(近頃はあまり使われない言葉ですが)「台風銀座」で、強い風雨への対策が欠かせませんでした。家々は屋根を低く抑え、「石ぐろ塀」で囲みました。吉良川の街は、これを比較的よく残しています。


石ぐろ塀
半割りの玉石を使った「石ぐろ塀」です。新しい塀ですが、見た目を意識した工夫は、古い塀にも見られます。


石ぐろ塀
古い塀です。見た目と安定性を追求しています。


石ぐろ塀
「石ぐろ」の「ぐろ」は、’ものを積み重ねる’ことを意味するようです。よって「石ぐろ塀」は、「石を積み重ねた塀」、となります。


石ぐろ漁
以前、下ノ加江川で「石ぐろ漁」見ました。こっちの「石ぐろ」は、川に「石を積み重ねて」ウナギを捕る漁です。
石を積み重ねてウナギが好む巣をつくり、棲みつくのを待ちます。棲みついた頃、潮が引くのを見計らって石を除き、ウナギを捕らえるという算段です。


石ぐろ塀
吉良川「おまつり館」で見せていただいた写真です。これが、かつての吉良川です。ちょっと信じられません。自然の厳しさを思わせる、貴重な写真です。


右瓦
瓦は普通、右瓦で葺かれるそうです。この塀は右瓦です。


左瓦
ところが、このお宅は逆の葺き方、左瓦です。風向きを考えて、(吹き飛ばされないように)、左瓦にしたと言われています。
ただし、一枚の屋根の左半分を左瓦、右半分を右瓦にしているお宅もあります。石ぐろ塀と同様に、見た目の美しさを意識したと考えられます。


羽根岬へ
西ノ川を渡り羽根に向かいます。写真奥が羽根岬です。橋は、東ノ川と同じにデザインされています。
「羽根」という名の興りはいろいろですが、その一つを、土佐日記に登場する「幼き童」が教えてくれます。・・・羽根といふ所は、鳥の羽根のやうにやある。
それを聞いて「ありける女童」が・・・まことにて 名に聞く所羽根ならば 飛ぶがことくに 都へもがな・・・と詠みます。


峠登り口
また一つ、岬を回る海沿いの道が「跳ね(はね)石みち」だったことに由来するとも言います。真念さんの「四国遍路道指南」に、・・・かりやうご浦(加領郷)、此間はね石という海辺也・・・とあります。
なお「跳ね石道」について、「四国遍礼名所図会」には、・・・伽竜虎浦(はね浦より是迄山坂也)是よりなばり迄はね石といふ難所也・・・とあります。岬廻りを避け、中山越え(岬越え)の道を行っても、加領郷から先にも奈半利まで、「跳ね石」という難所が続いた、というのです。真念さんは、・・・中やま坂しんざん也、・・・とも記していますから、いずれにせよ厳しい道だったのです。
ただ・・・、賢明さんはよほど健脚だったのでしょうね、「空性法親王四国札場御巡行記」に書いています。・・・迦陵子浦を羽根石と世に言ふ程にはをもほへず。


ふり返ると
登りの途中、ふり返ると、室戸岬、行当岬が見えました。


中山峠
登ると、海成段丘の段丘面が広がり、畑地が拓かれています。水が少ないので、水田ではありません。



×印のシールは、私は初めて見ました。この道を進んではいけない、ということです。助かります。


石畳
下りの石畳は(コケも生えていて)、特に雨の日には怖いです。


加領郷
「加領郷」は、元は「加漁郷」だった、と言います。
・・・江戸の始め頃、この辺はまず、木材伐採目的で拓かれたと言います。しかし沖に魚影が濃いいと見て、網をつくり、漁を始めたのだそうです。・・・漁を加えたというわけで、初め当地は「加漁郷」と呼ばれていましたが、いつの間にか、「加領郷」と書くようになった、とのことです。


加領郷
「未来まで 加領郷の町 美しく」とあります。


網元の家
説明看板によると、・・・昭和10頃(1935頃)の築だそうで、(高所に建てて)物見櫓的性格をもたせている、とのことです。地階は倉庫、一階は家族の生活空間、二階は接客用に座敷が配されている、と記しています。


網元の家
入母屋の破風に懸魚(けぎょ)がついています。鬼瓦の下、大の字の上です。
懸魚は中国伝来のものです。元々は棟木の木口を保護するためのもので、縁起かつぎもかねて魚を象って取り付けていました。「魚」の中国語音は YU で、「余」(ゆとり)と同じ音であることから、魚の形が選ばれました。
日本に伝わってからは、(日本語の「魚」と「余」は音が違いますから)、縁起の意味が変わってきました。魚が水を連想させることから、火除けのまじないになりました。
丸に大の文字は、網元・大西家の大、です。


懸魚
古い写真を見ていたら、魚を象った懸魚が見つかりました。雪蹊寺の近くで撮ったものです。


奈半利木材共販所
高知県の県木が杉であることは前回お伝えしましたが、奈半利川上流の魚梁瀬(やなせ)で採れる杉は「魚梁瀬杉」と呼ばれ、良質な杉として知られていたそうです。奈半利は、奈半利川の河口にあることから、近世、魚梁瀬杉の集散地として発展しました。その伝統を継ぐ共販所なのでしょう。


通り
土佐日記に、・・・十日、けふはこの那波の泊にとまりぬ、とあります。「なは」が「なはり」に変わる経緯は、「なはの里(さと)」が「なは里(り)」となり、さらに「奈半利」と変わったなど、いろいろと言われていますが、定説はないようです。
とまれ紀貫之さんの座船は 、翌日、羽根岬を回り、室津に泊まるわけですが、この辺の下りについては、すでに記しました。


高札場
奈半利はまた陸路の要衝でもありました。奈半利から始まる野根山街道は、野根連山の尾根伝いに、44キロ、室戸半島の東岸、野根との間を結びます。養老の頃(8世紀初)に拓かれた官道・南海道をベースにしており、藩政時代には参勤交代の道として、また庶民の生活道として整備されました。
今は、ほとんど通る人もなく眠っている道ですが、室戸半島の東岸の野根が、西岸の奈半利と同じ安芸郡に属していた事実を思えば、その存在は大きかったと分かります。


岡御殿
参勤交代時の、藩主の宿泊所ですが、回船業者・岡家の敷地内にあることから、岡御殿と呼ばれるようです。商人の台頭を示してあまりあります。



さて、申し訳ありません、ブログの文字数制限を超えそうなので、神峯寺の麓、安田町唐浜(とうのはま)の東谷(とうだに)まで、スキップします。
追記:「東谷」の読みを間違えていました。後に登場されるSatossanさんからご指摘いただきました。ありがとうございます。「とうだに」が正解です。


唐浜東谷の神社
五来重さんの「四国の寺」に次のような一文があります。・・・(地主権現は)現在は唐浜の村の中に一つあります。・・これは山頂の山の神を下におろしたものです。
唐浜の村に、神峯から降ろしてきた地主権現が一つある、というのです。私は地主権現を探してみようと思いたち、唐浜東谷の、この神社に見当をつけ、訪ねてみました。


神屋神社
上がってみると「神屋神社」とありました。しかし、由緒を記した看板などはなく、また尋ねるべき人も見つからず、結局、地主権現との関連は、なにもわからぬまま帰宅したのですが、・・・
帰宅後ネットで調べていると、興味深い記事に出会いました。「 Satossanの Enjoy 2nd Life 」というブログに、東谷の祭礼準備の模様が記されていて、その中に、地主権現に関連する記述があったのです。生活記録としても貴重なので、ぜひ全文をお読み戴きたいのですが、ここでは「地主権現」に関わる部分のみ紹介させていただきます。


社殿
・・・生憎の空模様ですが、今日は、朝早くから明日の神屋神社(通称:権現様)の夏祭に向けて、・・・とあります。
東谷では神屋神社を「権現様」と通称していることが記されています。ひょっとすると神屋神社=地主権現か!私は悦んで続きを読んだのですが、しかし、・・・
・・・ひとまず神屋神社での作業は終了。引き続いて、町営西ノ戸住宅横の地主神社の幟を立てて、・・・と続いています。
権現様と通称する神屋神社の他に、地主神社という神社が存在していると記されていたのです。地主権現は(五来さんが書くように)「村の中に一つ」ではなく、東谷と西ノ戸に分かれて、在るようなのです。


力石
東谷の人たちにしてみれば、地主神社と権現様(神屋神社)の両方を、お世話しているのですから、結果的には、合わせて「地主権現様」のお世話をしているのですが・・・。
しかし「村の中に一つ」ではありません。地主権現様は、村に降りて二つに分かれたのでしょうか、それとも別のどこかに、一体の地蔵権現として在るのでしょうか。分かれたとすれば、どういう経緯からでしょうか。
まあ、神々の系譜はいろいろに語られ、決め手はないのが普通ですから、結論が出ることは期待しませんが、楽しくなってきました。次回は地主神社にもお参りし、もうすこし追いかけてみます。
Satossan、ありがとうございました。もし、なにか不都合な記述がありましたら、遠慮なくお申し出ください。またご存知のことなど、ご教示いただければ嬉しいです。2nd Life 楽しんで下さい。


神社から見た景色
神社から見た景色です。ハウスが並んでいます。唐浜は高知県蔬菜園芸発祥の地だといいますが、その関係でしょうか。
・・・促成栽培 安田が本場 遠く関東、満州まで・・・
野口雨情さん作詞の安田の唄です。雨情さんは(前々回、とりあげた揮毫旅行で)、安田にも立ち寄ったようです。


神峯神社鳥居
神峯神社の鳥居です。これより「神峯」に登ります。
「四国遍礼霊場記」には次のようにあります。・・・此山高く峙ちて のぼる事壱里なり。絶頂よりのぞむに、眼界のをよぶ所 諸山みな山下につらなり、子孫のごとし。幽径九折にして、くろき髪も黄になんぬ。魔境なるの故に 申の刻(午後3時頃)より後は 人行事を得ず。



・・・むかしは堂塔おほくありしと きこえたりといへ共、一時 火災ありてより、今は本堂・大師堂・鎮守のみ也。養心庵と云うあり。参詣の人ハ 是に息ふ。此のあたりに 食わず貝といふものあり。


添付の絵図
坂一里を登った山の上に鎮守が描かれ、少し下ったところに本堂と大師堂が描かれています。絵図の下部には「海」とあり、海近くに養心庵と唐浜民家が描かれています。また、大師に差し上げるのを嫌がったため食べられなくなったという、「食わず貝」も描かれています。これを化石と言ってしまっては、身も蓋もありません。


山道へ
車道から山道に入ります。山道は途中、車道によって何カ所か、$状に切られています。黒髪が黄色になるほど厳しいとのことですが、今日では、賢明さんの言葉をお借りすると、世に言ふ程にはをもほへず、です。



高知大学の舩木直人さんという方の作品、平成11(1999)、だそうです。この道を特徴づけています。


神社へ
まっこと、神仏分離されています。私は先に神社にお参りします。鳥居をくぐって直進です。


神社へ下大師堂
大師堂を左下に見て登ります。


神社へ
長い石段が続きます。


弘法大師の腰掛け岩
石段の途中から、弘法大師の腰掛け岩に立ち寄ってみました。・・・大師が腰をおろし四国の景観を眺めながら、大事業の秘策を練られたと伝えられる、とのことです。
左に室戸岬、行当岬、羽根岬が見え、右に土佐の連山、太平洋、さらには足摺岬もみえる、ともありますが、木が生い茂り、展望を塞いでしまいました。13年前に訪ねたときは、確かに見えたのですが。


神峯神社
大山祇命を主祭神とし、天照大神、天児屋根命、応神天皇を合せ祀っている、と説明看板に書いてあります。
大山祇神は天照大神神話の神、つまり大和政権神話の神様です。天照大神の兄神ともされています。それかあらぬか、(神峯神社日記によれば)、神武天皇が東征の際、この山を神の峯とし石を積み神籬(ひもろぎ)を立てて祀ったことが起源と伝えられている、とのことです。ここに大山祇命が降り立ったわけです。


神峯神社
大山祇神は山の神(山津見)ですが、また、和多志大神と同体視される、海の神(綿津見)でもあります。「和多志」は「渡し」で、海を安全に渡らせてくださる、という意味です。
神峯の主祭神が、山の神、海の神、二つの側面を持っていることの意味は、この後、「燈明巌」のところで明らかになると思います。


神峯神社
配する神々については、寺の略縁起に、・・・当山は神功皇后三韓征伐にあたり、勅命で天照大御神その他の諸神をまつり、・・・とあるそうです。
「三韓征伐」もまた、大和政権の勢力拡大にかかわる話です。天児屋根命、応神天皇が「その他の諸神」に相当するのでしょう。ただし、応仁天皇がお生まれになったのは、神功皇后「三韓征伐」の帰途ですから、戦勝祈願時には祀られていません。また、別の説明看板に春日大神の名が記されていますが、この神は天児屋根命と同神です。天照大御神と併記するときは、天児屋根命の方がいいと思います。


神峯神社
神峯神社は、現在は神峯寺の奥の院ですが、神仏分離以前は27番札所でした。
その関係でしょう、神社はふつう、拝殿と本殿が分かれていますが、神峯神社では一殿に納まっています。寺の造りになっているのです。この建物は元の観音堂で、行基作と伝えられる十一面観音像が祀られていました。
神仏分離で神峯寺が廃寺となり、明治20(1887)、神社下に再興されるまでの間、十一面観音像は、金剛頂寺に移されていたと言います。


岩屋神社
境内の左手に岩屋神社があります。地蔵尊が祀られているとか?


岩屋神社
どうなんでしょうか。


龍田神社
境内右手奥にあります。中に、神馬の像が奉納されています。


豊受神社
右手前に豊受神社があります。本殿に祀られている天照大神の「お食事係」、ということでしょうか。伊勢神宮の内宮・外宮の組み合わせです。


上へ
神社を下に見ながら、さらに上に登ります。手前は豊受神社ですが、位置的には大師堂の位置にあります。


磐座
神社より上は、「いわくら」(磐境また磐座)の世界です。神が宿る聖なる岩、聖なる場所、が「いわくら」です。その岩石が扁平で神座にふさわしいものを「磐座」と書く、と解説する人もいます。


燈明巌
説明板によると、・・・太古から夜半になるとこの岩が青白く光を放っていたので「燈明巌」と呼ばれる、のだそうです。また、困難や異変が起こる前兆に、この岩が光るとも語り伝えられている、とも言います。


燈明巌
五来重さんは、・・・昔はここに修行者がいて火を焚いていたことを、そう(燈明巌と)いったのだとおもいます。・・・海上、海辺の民から「神の峯」として仰がれたものだとおもわれます。・・・と書いています。
この辺のことについては、如意輪寺、建治寺、津峯山などのところでも記してきました。ぜひ、合わせご覧下さい。


燈明巌
山の神と海の神は、このようにして結びつき、同体となるのです。その必然性が、すこし分かる気がしています。燈明巌は神峯神社の原点、神が降り来たる磐座です。


展望台
眼界のをよぶ所 諸山みな山下につらなり、子孫のごとし、・・・とは如何なる景色か、・・・展望台まで登ってみました。


室戸方向
実は枚数多く撮ったのですが、・・・


高知方向
あまりにも天気が良くて液晶画面が見えず、なんとかモノになったのは、この二枚だけでした。


神峯寺へ
降りてゆきます。階段下で美味しい水をいただきました。


神峯寺本堂
十一面観音を祀る、神峯寺本堂です。神峯神社と建物がよく似ています。


神峯神社
比べてみて下さい。


大師堂
平成4(1992)落慶だそうです。


鳥居
唐浜まで、下山しました。これから登ろうという方がいます。申の刻より後は、人 行くことを得ず、なのですが・・・。


神峯道への道標
安田明神の側にある道標です。安田明神を越えると、大山岬を経て安芸です。

さて、ご覧いただきまして、ありがとうございました。次の更新は、9月3日に予定しています。厳しい残暑の中、お体大切にお過ごしください。

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4 コメント

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はじめまして。 (satossan)
2015-08-13 11:25:33
楽しく遍路 様
こんにちは。ブログ拝見させていただきました。
当方の記事で参考になるものがありましたら、いくらでもお使いいただいて結構です。
それよりも貴方様の博識ぶりに驚いております。地元に住んでいながら、そうした由来などに全く無頓着な自身が恥ずかしい限りです。
ブログにもありました「権現様」のすぐ下が我が家ですので、今度地主神社にお寄りの際には、是非ご一報ください。
なお、一点だけご訂正いただけるとすれば、字名の「東谷」は「とうや」ではなく「とうだに」と読みます。
これからも元気に遍路旅を続けられることをお祈りしております。
返信する
Unknown (楽しく遍路)
2015-08-13 21:24:33
早速コメントをいただきまして、ありがとうございます。
次、いつ頃、行けるでしょうか。あまり先のことは見通せない歳ですが、がんばります。季節は、安田川の鮎がうまい時季にしましょう。安田川の鮎が野根川の鮎とともに日本一という話を、この区切り遍路中、三カ所で耳にしました。野根、尾崎、金剛頂寺下です。野根の人はもちろん「野根川の鮎は安田川とともに・・・」と言ったのですが。
歩いていると各所で「元気」に出会います。今回またSatossanさんの「元気」と出会うことができました。土地の人たちの「元気」は、私の歩くエネルギーです。エネルギーを分けていただきながら、私(たち)は歩いています。お身体大切に(腰痛にも)、2nd Life を満喫してください。その「元気」をブログで発信してほしいと思います。my favorite に登録して、読ませていただきます。

おそらくSatossanさんにとっての権現様や神峯様は、うらやましい限りですが、生まれたときからある景色だと思います。生来のものに何の疑問も抱かないのは、当然のことです。
私は「旅人」ですから、つい物珍しく思い、(すこし凝り性気質もあるかもしれませんが)、いろいろ調べてみたりするのだと思います。そして・・・間違えるわけです。
「東谷」の読み、ご指摘ありがとうございました。わざわざ振ったルビを間違えるとは、面目次第もありません。前に「唐浜」に「からのはま」とルビを振り、やはりご指摘をいただいて訂正したことがあります。うっかりミスではあるのですが、付け焼き刃なんですね。このような初歩的な誤りが、他にもいっぱいあるに違いないのです。多くのご指摘をいただきながら、勉強してゆきたいと思います。
返信する
土佐の恩人忘れてなろか (天恢)
2015-08-22 09:21:56
 暑い、暑い夏でしたが、どうやら秋の気配も感じられるいい季節となりました。 それにしてもこの夏は、昼は猛暑日、夜は熱帯夜が一週間以上も続くと、もう何も考えたくない思考停止の状態に陥り、コメント書くのもままなりませんでした。 
 さて、今回も『吉良川 ~ 神峯寺 神峯神社』の道中を楽しく読ませていただきました。 吉良川の古い街並み、御田八幡宮、加領郷の網元の家、奈半利の御殿、神峯寺と神峯神社 展望台まで読んで、「楽しく遍路」さんの歴史学、宗教学、民俗学、社会学、建築学、文学、芸術学、人文地理学・・・しっかりした学術的な基礎に裏打ちされて、さらに現地を丁寧に歩き調べられた結実は、よくぞここまでと地元の人も含めて読者を唸らせること請け合いです。 天恢も3度ほど唐浜の東谷を訪れていますが、神峯寺への「まっこと、きちゅう坂」の思い出くらいで、せめて神峯神社、展望台まで上がれば、もっと視野も思考も広がったことだろうと反省しきりです。
  さてさて、前回のコメントで『「野中兼山」を知らずして土佐路を抜けることはできません』とありましたが、天恢も「室津港」での兼山との初めての出会いから 今なお土佐の地に息づく兼山が残した手結内港、舟入川、新川川整備など数々の業績を道中で垣間見て、『江戸時代初期の土佐で数々の偉業を達成した「野中兼山」とは何者であろうか?』との思いで土佐を歩きました。 兼山の栄光と挫折の中で、土佐藩は兼山に「恩を仇で返す」ような仕打ちをして、死後追い打ちをかけるように、過酷な運命にさらされた遺族たちを思いやれば、毀誉褒貶相半ばする?兼山評価を土佐の歴史認識問題として「楽しく遍路」さんによって紐解いていただきたいと期待しています。
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天恢さん同様 (楽しく遍路)
2015-08-23 15:12:37
天恢さん コメント、ありがとうございました。
3週間に一度の定期更新は、ノッペラボーな日常にアクセントをつけるものとして、心地よいものですが、ただし、それは快調なるときに限ります。暑さ残る中、天恢さん同様、夏ばての身には、けっこう負担であるのは事実です。涼しいときが待たれますね。

私が(未消化ながらも)教わることの多い五来重さんは、二つのことを勧めています。一つは、奥の院に参ること、二つは、ここと思う札所に納得のいくまでお参りすること、です。
なるほどと思うのですよね。しかしこれが、簡単そうで難しい。天恢さん同様、私も、焼山寺では三度お参りしながら、一度も奥の院へはお参りしていません。今度こそと思って急いだら道に迷ってしまったりして、なぜかご縁をいただいていません。納得いくまでとは言っても、歩いて行く先があることですから、時間が気になります。どうしてもザッと廻ることになり、・・・あれこれと見落としがでてしまいます。
五来さんの助言、ありがたくいただきながら、私たちにできる範囲で楽しんでいこうではありませんか。

野中兼山評価、難題ですが頑張ります。
司馬遼太郎さん辺りが兼山を描いていてくれたら、と思うのですが、残念です。もし今もご存命なら、きっと描いていると私は思います。
司馬さんは「夏草の賦」で長宗我部元親を描き、「龍馬がゆく」で龍馬を描かれました。両者間のミッシングリンクは「野中兼山」です。私も天恢さん同様、司馬さん描く元親には、やや異論を持っていますが、司馬さん描く「兼山」があるならば、ぜひ読んでみたいですよね。いかが?
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