楽しく遍路

四国遍路のアルバム

高瀬から 弥谷寺へ

2020-02-19 | 四国遍路

 
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申し訳ありません。またまたスキップです。
前号は本山寺奥の院・妙音寺で終わったのでしたが、今号は高瀬から始まります。
妙音寺-高瀬間は、次回遍路で歩き直す計画を温めていることもあり、今号では、あえてスキップさせていただきました。煩雑ではありますが、ご了解ください。



予讃線高瀬駅(三豊市)近くの宿に泊まり、弥谷寺→海岸寺へ向かいます。海岸寺へのルートは、朝の段階では海沿い道としていましたが、いくつかの出会いがあった後、天霧峠から下る道へと変更することになります。
距離は短いのですが、あまりゆっくりとはできません。というのも明日の行程のため、詫間まで移動しなければならないからです。


高瀬川 葛ノ山
高瀬川です。大麻山を源流とし、三豊市を北西に貫流。(明日歩く)詫間港に注ぎます。
写真奥は葛ノ山(くずの山)です。


瓦谷
県道221号・宮尾高瀬線 からの景色です。ガードレール沿いに高瀬川が流れています。
右端の山が(前出の)葛ノ山94㍍。中央やや左の、富士山型の山は山条山(やまじょう山・186㍍)。地元ではトンギリ山と通称される山です。とがっている山、ということでしょうか。
左端は爺神山(とかみ山・214㍍)。高瀬富士とも呼ばれていますが、残念ながら採石(安山岩の砕石をとる)で、山体に段ができてしまいました。今でも見る角度によっては、富士山型ですが。


爺神山と宗吉瓦窯跡
山条山と爺神山の間の谷は、瓦谷と呼ばれています。7C中-8C初、 瓦の生産が行われていたことから付いた名前です。当時の、最大級の瓦産地で、窯跡が24基も、今に残っています。
瓦谷周辺は、宗吉瓦窯跡史跡公園として整備されており、宗吉かわらの里展示館もあります。私は H25(2013) に訪れました。


宗吉瓦窯跡
本山寺の奥の院である妙音寺は、出土した瓦を鑑定した結果、7世紀後半の創建とされ、( 現存する中では )四国最古級の古寺とされています。
(少なからずビックリしましたが)藤原京跡から、妙音寺の古瓦と同范の瓦が見つかったのだそうです。宗吉瓦窯産の瓦で、妙音寺瓦と同じ粘土を使って作られ、同じ文様が刻まれているといいます。
とすると、藤原京が営まれていたのは694年-710年ですから、妙音寺の創建も、その時期・・7世紀後半・・だろう、ということになります。


宗吉瓦窯跡
重くて割れやすい瓦の運搬は、どのようにして行われたのでしょう。宗吉窯は、藤原京で使う瓦の、最も遠隔の産地だったと考えられています。陸送は無理です。
(見にくいと思いますが)次の地図で、古代の海岸線をご覧ください。(地図は、宗吉かわらの里展示館でいただいたものです)。


地図
予讃線みの駅の辺りは、この頃は海(古三野湾)です。海が、(前出の)葛ノ山の北裾まで迫っており、当然、高瀬川も葛ノ山の東を河口としていました。現在の河口である詫間港からは、直線距離で4キロ余も手前です。
宗吉瓦窯は、当時は海の側にあり、瓦は窯近くの湊から、瀬戸内海→大和川→飛鳥川を経て、藤原京に運ばれたとのことです。


海岸線
近くを歩くと、かつての海岸線と思われる、土地の高低が見られました。


窯跡からの景色
かわらの里が広がっています。手前が山条山、奥が爺神山です。


窯跡からの景色
窯跡から見た景色です。手前に、宗吉瓦窯跡史跡公園の施設が見えています。
奥の山は、右端のピークが天霧山。その左、鞍部を挟んで弥谷山→黒戸山と連なっています。左の富士山型の山は、貴峰山(きみね山222㍍)です。


窯跡からの景色
さて、遍路道に戻ります。
札所71番から73番の山々が、一望できます。左は(前出の)弥谷山系。右は、火上山-中山-我拝師山。


分岐
川下(地名)を過ぎると、道がY字に分岐し、道標が建っています。遍路道は左です。右は、今では国道11号に合流します。


道標
  これより、いやだに寺 三十九丁 / 打越へ 屏風ヶ浦 六十九丁
とあります。
「打越」の意味は不明ですが、あるいは「一点からある点を越えて測る長さ」を意味するかもしれません。とすると道標の意味は、・・ここから(弥谷寺を越えて)屏風ヶ浦 まで 六十九丁・・となります。この場合、屏風ヶ浦は(善通寺ではなく)、海岸寺を指しています。


道標など
先の道標に従って左に進むと、すぐ、いくつかの石造物に出会いました。散在していたものを集めたと思われます。
石柱には、光明真言一億万遍とあり、土台に左手差しが浮き彫りされています。
大師像の台座石には、沓(くつ)と水瓶が浮き彫りされ、その下、土台には、「左へんろみち 是ヨリいや谷 三十九丁」などと刻まれています。三十九丁は、前の道標と同じ距離です。


天霧山 弥谷山
’屏風ヶ浦 六十九丁’ 海岸寺への道は、弥谷山と小ピークの間の天霧峠を、向こう側(=北方向=海方向)へ降ります。
この道については後述します。


コスモス
もう12月ですが、コスモスが頑張っていました。この花、見かけによらず根性があると、私は一目置いています。


常夜灯
石造物に、続々と出会います。これは、出井集落の常夜灯です。
道標の正面は、左手差し弥谷寺・・と読めます。小祠は、土地の神さまでしょう。


落合大師堂
落合集落の大師堂です。スワンが、かわいいアクセントになっています。
右には集落の集会所があり、左には神社があります。鳥居の扁額には、ただ「神社」とのみ書かれています。なんの神さまか、もうわからないのでしょうか。とにかく、神さまがいらっしゃる社です。
左、木のポールの下に大師像の道標がありますが、文字は不明です。 右の高い石柱は、弘法大師千百年御遠忌と記されています。およそ百年前のものです。


道標など
落合大師堂から百㍍弱先、民家の前に、道標などがを集められています。
いちばん手前の小さな道標は、左指差しの下に、・・右 丸が免(め) / 左 いや谷 みち とあります。
延命地蔵さんでしょうか、半跏踏み下げ地蔵尊の座像があり、台座石正面には、袖付きの左指差し 右 丸か免道 左 へんろ道、と刻まれています。


九免明
金常夜灯の「金」は、金毘羅の略です。金毘羅様に奉献された常夜灯、ということでしょう。「金」の他にも、「八」で八幡様を表したり、「蛭」で蛭子様を表したりもするようです。
奥の小祠は、土地神さまでしょう。九免明は地名で、「くめんみょう」と読みます。


門柱
弥谷寺の門柱です。右 弘法大師御修行之遺跡、 左 四国第七十一番弥谷寺、とあります。


八丁大師
道標に、従是本堂江八丁 とあります。もはや「これより弥谷寺へ」ではありません。


足跡
何者かがここを歩きました。蹄が二つ、偶蹄の持ち主です。イノさんでしょうか。



へんろ道は様相をかえました。この道は、基本的には車は走りません。


俳句茶屋
懐かしの俳句茶屋です。同郷の歩き遍路お二人との、出会いの場所です。
あの時は、ここに荷物を置かせてもらって参拝したのでしたが、残念ながら、・・老朽化による倒壊の危険が心配される為、修繕計画中です、・・とのことでした。


山門へ
俳句茶屋のすぐ先に、山門につづく石段があります。
弥谷寺の参拝導線は、今は石段になっており、これより本堂まで、10本ほどの石段を上り継がねばなりません。段数の計は、山門から540段だそうです。(この石段は含まれていません)。


山門
  剣五山  弘法大師御修行道場  真言宗大本山弥谷寺 
幼き頃の弘法大師・真魚は、7才から12才まで(781-786)、現・大師堂の奥にある「獅子の岩屋」で、勉学に励まれたそうです。また唐より帰国後も、再度窟に籠もり、千座の護摩を修されたといいます。このことに因み、弥谷寺は「弘法大師御修行道場」とされています。


仁王像 阿
ただし当時の寺名は弥谷寺ではなく、八国寺(やこく寺)と号したそうです。四国遍礼霊場記(寂本)は、・・此峰にのぼりぬれば、八国を一望するが故に、八国寺といひける・・と記しています。
そして、・・何れの時よりか、・・八国寺(やこく寺)を弥谷寺(やこく寺)と書くようになった、としています。霊場記の頃、弥谷寺(いやだに寺)は、「やこく寺」と読まれていたようです。


仁王像 吽
なお弥谷寺HPが記す寺名由来は、次のようです。
改号は大師ご帰国の大同2(807)のことで、・・再度獅子窟に籠り千座の護摩を修し、満願の日、蔵王権現のお告げをきき、五柄の剣と唐にて恵果和尚より授かった金銅の五鈷鈴(国重文)を納め、山号を剣五山、寺名を神仏の谷の寺(神仏の坐す弥山の谷にある寺)として弥谷寺に改めたと伝わります。


船石名号  
この船形石は、「船石名号」と呼ばれています。山門の側にあります。
左行には、五輪塔のような浮き彫りが見えています。しかし右行は、何かの名号が掘られていると思われますが、風化で、ほとんど読みとれません。南無阿弥陀仏でしょうか。


四国遍礼名所図会の弥谷寺図部分  
「船形名号」はよく知られていたらしく、四国遍礼名所図会の弥谷寺図には、山門の左側に、それらしきものが描かれています。
なお、後述しますが、三途の川と、それに架かる法雲橋も描かれています。


賽の河原
山門から始まる二本目の石段付近は、「賽の河原」に擬せられています。
死出の山を越えた死者は、賽の河原を六日間歩きつづけます。そして七日目、三途の川を渡ります。


四国遍礼霊場記の弥谷寺図
とはいえ、石段の道から賽の河原をイメージするのは、難しいと思います。
そこで四国遍礼霊場記から弥谷寺図をお借りし、載せてみました。弥谷寺の原初の姿が視えてくるような、そんな気がする絵です。
五輪仏塔が、・・幾千といふ事をしらず(霊場記)・・描かれ、まさに弥谷寺は山中他界。死者の霊が帰る所、と見えます。


四国遍礼名所図会の弥谷寺図 
二つの絵を見比べてみてください。名所図会からお借りした絵ですが、こちらからは、どちらかといえば、現在に近い姿が見えてくるのではないでしょうか。
霊場記の発刊は元禄2(1689)。名所図会は、それより111年後の、寛政12(1800)と考えられています。二枚の絵は、この間の弥谷寺の変化を、写しているのだと思います。


賽の河原  
賽の河原には、親に先立った不孝の故に、三途の川を渡れずにいる子たちがいます。
子たちは、先立つ不孝を詫びつつ石を積みますが、・・日も入相のその頃は 地獄の鬼が現れて やれ汝らは何をする・・くろがねの棒をのべ 積みたる塔を押し崩す・・(賽河原地蔵和讃)
鬼に追い立てられる子たちを救うのは、 能化の地蔵尊です。そんなわけで石段の両側には、多くの地蔵尊が並んでいます。


お手かけ岩
二本目の石段を上がると、道の両側に巨岩があります。あたかも関門のように見えるこの岩は、「お手かけ岩」だそうです。
手を岩に掛け、こじ開け、途(みち)を通してくださったのは、お大師さんでしょうか。


法雲橋
お手かけ岩を抜けると、その先が法雲橋です。この橋は三途の川に架かる橋ですが、善人にのみ、渡ることが許される橋です。
法雲橋を渡る善人にとっては、下を流れる川は、けっして恐ろしい川ではないので、橋柱には、その名も潅頂川と刻まれています。


法雲橋  
しかし、罪ある人が渡ろうとするとき、潅頂川はたちまちにして怖い川へと変じます。罪深き場合、その罪人は、むろん法雲橋は渡れず、下流の強深瀬(ごうしん瀬)を渡らねばなりません。そこは波逆巻く激流で、水中には五体を引き裂く大きな石が転がり、肉を食らう大蛇が棲んでいるといいます。
罪浅き場合は、上流の浅水瀬を渡りますが、それでも水深は膝下くらいあるそうです。けっして楽々とは渡れません。


三途の川
法雲橋から覗くと、(水は涸れていましたが)三途の川の川筋が見えました。
三途の川の川幅は、(見た目には1メートルほどでも)、実際には!幅4000キロにもなんなんとする、大河だそうです。なにせ、彼岸と此岸を隔てる川ですから。


お迎え観音菩薩
おかげさまで法雲橋を渡ることができた私たちは、金剛拳菩薩のお迎えを受けることが出来ます。
この菩薩像は、江戸時代の元禄年間の作だそうです。


岩塊
さて、ちょっと話題が変わります。
この辺に点在する岩塊ですが、これらは凝灰角礫岩の崩落岩塊で、かつて弥谷山の南斜面が大崩壊したとき、上から落ちてきたものだそうです。


岩塊
弥谷寺はその崩落跡に、凝灰岩類の岩壁を利用しつつ、建てられているそうです。例えば大師堂奥の獅子の岩屋は、凝灰岩を掘削した洞穴に、阿弥陀如来、弥勒菩薩、大師像を安置したものだといいます。また数多の磨崖仏は、凝灰岩壁に刻まれています。(香川大学工学部安全システム建設工学科作製「讃岐ジオサイト27」より)


108段石段
閑話休題。
煩悩の数と同じ、108段の石段を上ります。一段上がるごと、煩悩を一個、捨てます。
しかし私はと言えば、海岸寺に参る道を如何せんか、降りてくるお坊さんとの短い立ち話から、迷い始めることになります。この話は次号で。


大師堂へ
大師堂へ上がる石段です。
前述しましたが、大師堂の奥には、獅子の岩屋と呼ばれる岩窟があります。お大師さんが真魚の頃、勉学に励んだところです。ここで祈れば、背負った罪を獅子が食い尽くしてくれるので、獅子の岩屋なのだと言われます。また一説には、洞窟が、口を開けた獅子のように見えることから来る、とも。


多宝塔
多宝塔を経て本堂へ向かう道もありますが、私はこの道はとりません。


香川氏代々の墓
香川県の名の興りともなった、天霧城主・香川氏代々の墓です。弥谷寺山のもっと上部に在ったものを、こちらに降ろし、供養しているそうです。
香川氏(讃岐香川氏)は、秀吉の四国攻め(天正の陣)で改易となり、滅びました。


修行大師像
修行大師に励まされ、次なる石段に向かいます。


十王堂
石段の途中に十王堂が、在るべくしてありました。三途の川を渡った死者達は、十王による審問を受けねばならないからです。
殺生、盗み、不貞、虚言など、生前の悪行が順次問いただされ、閻魔帳に記載されます。噓をついても、浄玻璃鏡(じょうはりの鏡)に真実が映し出されますから、すぐバレてしまいます。こうして35日目には閻魔大王から審判が下り、49日目には、六道のいずれに行くかが決まります。


護摩堂
石段を上がりきると護摩堂があります。中は洞窟で、護摩壇が設えられているので、護摩窟ともいうそうです。窟にある石の坐像は、道範阿閣梨とおっしゃいます。
ここを右に進むと、天霧峠から天霧城跡、あるいは天霧峠から海岸寺に至ります。左は、水場を経て本堂です。私は当面、左に進みます。


水場の窟
身内に死者が出ると、家族はその魂を背負い(背負う格好をし)、この水場までやって来ます。水場の窟は、あの世への入り口だと信じられているからです。


水経木
家族は魂をここに降ろして、死者が未練を残さぬよう、けっしてふり返ることなく、帰るのだそうです。
ここにたくさんの位牌や経木が見られるのは、水場の窟からあの世に渡った死者達を、供養してのことです。


本堂へ
本堂へ上がります。弥谷寺の核心部です。


本堂
大師堂や護摩堂がそうであったように、本堂もまた、岩穴につながって建てられています。創建時から、本尊・千手観世音菩薩が祀られてきた、岩穴だそうです。
五来重さんは「四国遍路の寺」に、・・洞窟が多いところはたくさんの行者が集まります。山岳修行をする人たちは洞窟を探して、洞窟に籠もって修行をしました。
そしてそこに、山岳寺院が発祥しました。


磨崖仏
水場窟から本堂にかけての凝灰岩壁には、多数の五輪塔が陽刻されて残っています。
かつては、霊場記の弥谷寺図ででも見たように、この辺のみならず全山、数多といっていい数の納骨五輪塔がありましたが、残念ながらその多くは、今は失われています。


磨崖仏
五来重さんは、・・かつては死者の霊が山に帰るという信仰がありましたから、山岳寺院が死者供養の場となりました。・・と記しています。


磨崖仏
五輪塔の真ん中に穴を穿ち、骨を納め、四角の石で蓋をしていました。


支え
壁に掘られた穴には、足場や建物を支えるために掘られた穴もあります。


三尊像
中央に阿弥陀如来、左右に観音菩薩、勢至菩薩が陽刻されています。平安から鎌倉にかけてのものではないかと言われており、あるいは大師の作かとも言われているそうです。


三尊像
左右には、六字名号・南無阿弥陀仏が、ここに葬られた数多の死者への回向として、陰刻されています。(風化で見えにくくなっていますが)、9行にわたっているそうです。


景色
ご覧いただきまして、ありがとうございました。
高瀬→弥谷寺→海岸寺を予定して書き始めた今号ですが、すみません、弥谷寺で止まってしまいました。弥谷寺→海岸寺は、次号廻しとなります。更新は3月19日の予定です。

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新居浜市の 北の坊 南の坊  観音寺から本山寺 妙音寺へ

2020-01-22 | 四国遍路

 
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  新居浜市の、北の坊 南の坊
前号は観音寺の、琴弾山-興昌寺山探訪で終わったのに、今号はいきなり新居浜に逆戻りです。このブログを続き物としてご覧いただいている方には、わかりづらい構成となり、まことに申し訳ないことです。北の坊-南の坊は、昨年の春遍路で見逃し、ようやく秋遍路の初日の半日を利用し、訪れることができた真言宗のお寺です。魅力的なお寺ですので、ぜひご覧ください。
なお、前号の続きは、後半に、「観音寺から本山寺 ・ 妙音寺へ」と題して記しています。場合によっては、そちらを先にご覧いただく方が、いいかもしれません。


萩生の坂道
新居浜市の萩生に入ると、さぬき旧街道は軽い上りになります。


寺名碑
その坂の中程に、大きな石柱が建っています。
  新四国第四十九番 北の坊
ここでいう「新四国88ヶ所」は、新居浜市内の写し霊場で、大正期、北の坊の住職さんが中心となり、定めたといいます。


北の坊 阿弥陀寺
北の坊の山号寺号は、仏光山阿弥陀寺。宗派は、高野山真言宗です。


南の坊 萩生寺
北の坊に向かって、南へ上がって行きます。四国の瀬戸内海側では、山方向が南、海方向が北です。
ほどなく左方向(東方向)に、ちょっと変わった雰囲気の仏塔が見えてきました。北の坊に対して、南の坊と呼ばれる白王山萩生寺で、宗派は北の坊と同じ、高野山真言宗です。


北の坊 阿弥陀寺
同じ宗派の寺が、およそ300㍍の距離に在ります。おそらく両寺は、もとは一つだったのでしょう。南-北、対になった呼称は、その頃の名残なのだと思います。
ただし、すでにお分かりのように、現在の位置関係は、南-北ではなく、東-西に変わっています。


石段
その辺の経緯について、わかる範囲で記してみます。
・・萩生寺の創建は建久年間(1190–1199)で、当初はもっと南(山側)に在りましたが、天正の陣(天正13/1585 秀吉の四国征伐)で焼かれ、慶長年間(1596-1615)、現在地に再建されました。
・・いつの頃でしょうか、おそらくは慶長年間末のことでしょうか、再建・萩生寺の北方向(海方向)に、(今はもう在りませんが)坊が建ちました。それを北の坊と呼んだことから、萩生寺に南の坊の呼称が生まれます。


北の坊からの景色
・・この頃は、南の坊と北の坊は、まだ一つの寺であり、その呼称は、実際の位置を反映していました。
・・呼称と実際の位置との間にネジレが生じたのは、元和9(1623)のことでした。北の坊が、金子氏・飯尾氏の菩提寺=阿弥陀寺として独立。寺地を現在地に移したのです。これにより両寺の位置関係は東-西となりました。


山門
しかし「独立」とはいえ、喧嘩別れなどではありませんでした。
・・北の坊は、阿弥陀寺の創建以前から、金子氏・飯尾氏の事実上の菩提寺だったろう。
私は、そう考えています。
萩生寺 北の坊を、金子氏・飯尾氏の菩提寺として、より充実させたもの、それが阿弥陀寺だったのではないでしょうか。だから「独立」の前と後は順接につながり、北の坊の名は、阿弥陀寺にも引き継がれた・・。


阿弥陀堂 本堂
金子氏とは、ご存知、天正の陣における「地元軍」の総大将で、’義理の義の字の華と散る’と歌われた、金子備後守元宅の金子氏です。→H31春2 →H30春8 飯尾氏も、やはり天正の陣を戦った、飯尾駿河守義雄の飯尾氏です。→H31春3
小早川隆景の軍と戦った金子氏・飯尾氏の菩提を、同じく小早川軍によって焼き討ちされた(前述)萩生寺・北の坊が弔うようになるのは、ごく自然な流れであったと言えましょう。


遍照殿 大師堂
北の坊のお大師さんは、願掛け大師として知られているそうです。
手前の大師石像は、水掛大師。その右は修行大師です。


南の坊へ
北の坊から南の坊・萩生寺に向かいます。
繰り返しになりますが、私は東向いて歩いています。


佛眼  
仏塔の下に来ました。「佛眼」が描かれています。
「佛眼」とは、辞書によると、五眼の一で、悟りを開いた者に備わる、すべての実相を見通す眼、だそうです。


山門
戴いた説明書は、次のように記しています。
・・ネパールにあるボードナートの寺院に描かれた佛眼をデザインしたものです。眼にはスワヤンブの注意深く万物を見透す眼力が表現され、鼻には、人間の探究心を象徴する疑問符が表現されています。
 *ボードナート、スワヤンプは、ネパール・カトマンズ近郊の、チベット仏教の聖地。


本堂
佛眼のある多宝塔が、萩生寺の本堂です。
S57(1982)、新築されたそうです。


ナムゲル・チユ-ルテン
本堂の前の仏塔は、チベット式仏塔(ナムゲル・チユ-ルテン)です。
H21(2009)、チベット仏教最高の指導者・ダライ・ラマ14世をお迎えして、開眼されたといいます。


ナムゲル・チユ-ルテン
ナムゲルはチベット語で「ヴィクトリー」を、チユ-ルテンは「塔」を意味するのだそうです。

   
ナムゲル・チユ-ルテン
土台部にも細かい細工が施されています。これらを読み解くことが出来れば、楽しいのですが。


両面大師
珍しい大師像です。二体の大師像が背を合わせ、一体化しており、両面大師と呼ばれています。


弘法大師像
一面は、私たちが拝見することの多い、大師像です。右手に五鈷を、左手に念珠を握りしめています。
高野山に入定されて以来、永遠の禅定を続けておられる、大師のお姿でもありましょうか。


秘鍵大師
もう一面は秘鍵大師で、右手に文殊の利剣を、左手に念珠をお持ちになっています。禅定をつづける大師が、文殊菩薩となって働く、お姿でしょうか。
萩生寺HPによれば、文殊の利剣とは、文殊菩薩がお持ちになっておられる利生(りしょう)の剣・・衆生を利益(りやく)する剣・・で、諸戯(しょけ)・・為にならない言論や判断・・を断つ剣だといいます。佛眼に通じるものを感じますが、どうでしょうか。


金毘羅神社
金毘羅神社です。元禄期に勧請されたといいます。
紅葉がきれいでした。


大師堂へ
これより大師堂にお参りします。
萩生寺の大師堂は、この境内には在りません。境内を出て、およそ100㍍ほど北東に在ります。


遠景
途中ふり返ると、萩生寺の全景が見えました。左の杜が金毘羅神社です。


いちょう
散歩中のおばあさん、二人連れが、案内してくださいました。
・・大師堂はちょっと分かりにくいので、この銀杏を目印にするとええんよ。今度来るときは、そうしい。
お一人がそう言って、あめ玉を一つ、くださいました。もう一人のおばあさんは、・・私は、あげるもんがないんよ、ごめんね。
いえいえ、お心だけで充分です。


いちょう  
・・私らもしばらく来とらんで、ちょっと参っとこか。
というわけで、一緒にお参りしました。


泉大師
萩生寺の大師堂は、泉大師といいます。


水天宮
泉大師と呼ばれる所以が、ここにあります。
水天宮が祀られています。


水天宮
おばあさん達に寄れば、
・・昔はそのまま飲めたけど、今は、飲めんようになったんよ。やっぱり周りが住宅化するとねえ、いかんわい。



萩生は、縄文の頃から、人が住む土地だったようです。次のような案内がありました。
・・萩生の台地は縄文・弥生・古墳時代を通じて古くから栄えた土地である。古代ここに住んだ人々は、窪地になっていた大師泉に日常使用していた石器、土器などの破片を捨てたもので、ここから多くの縄文土器、弥生土器の破片が採集された。
・・また、大師堂敷地に続く畑からは弥生時代の銅剣二振が発掘され、・・


流れ
おばあさん達とお別れし、私は新居浜駅に向かいました。
駅近くの宿の泊まり、翌朝、新居浜駅から観音寺に移動するためです。


こんぴら道標
駅への途中、「こんぴら大門まで十五里」の道標を見るため、喜光地商店街を通過しました。前回、見つけられず素通りした道標で、(H31春 3)の号では、「十五里」の写真だけが欠けていたのです。
ちょっと残念だったので寄道し、写真にも撮りました。天恢さん、場所のご教示、ありがとうございました。遅ればせながらですが、(H31春 3)にも補充しておきました。

   観音寺から本山寺 ・ 妙音寺へ

観音寺の山々
70番本山寺へ向かいます。
ふり返ると、観音寺の山々が見えました。中央に小さく見える富士山型の山が、江甫草山(つくも山)153㍍。 別名、有明富士です。その右が、七宝山系の主峰ともいうべき稲積山404㍍。 最近、天空の鳥居で若者に人気のパワースポットだとか。


観音寺の山々 遠望
有明富士の左は、山崎宗鑑の一夜庵がある興昌寺山。その左が、一山二札所・神恵院、観音寺がある琴弾山です。興昌寺山と琴弾山の間を抜けると、観音寺中学があるのでした。


県道49号
県道49号・観音寺-善通寺線を東進します。
見える看板は、「天空の鳥居」の案内です。1キロ先の左折を指示しています。稲積山がある七宝山山系は南北に走っていますから、(左折して)北方向に進み、その後、西進して、稲積山にアクセスするのでしょう。



県道49号を2キロほど歩くと、竿川が財田川に合流してきます。遍路道は、ここで49号から離れ、竿川に架かる小橋を右に渡ります。
写真奥に見えるのは、丸山33㍍(後述)です。



遍路道は財田川に沿った堤防の道となります。変わらず東進します。


丸山と財田川
丸山は、往古、御神室山(おかむろ山)と呼ばれていた山で、山上に、加麻良神社(かまら神社)があります。開拓神・大己貴命と少彦名命を祀る神社です。
また、ここには、神々が降り立つとされる巨石=磐座があります。今回、三豊の「巨石」を見て歩くつもりの私には、ぜひ寄道したい所なのですが、残念、うまく日程が組めず、果たせませんでした。


弥谷山 我拝師山など
左前方に、札所の山々が見えてきました。
中央右は火上山408㍍→中山439㍍→73番出釈迦寺の我拝師山です。
中央左に、天霧山378㍍と弥谷山381㍍が見えます。


予讃線
遍路道が予讃線を潜ります。


ねこ
この子、よほど飼い主さんから可愛がられているのでしょう。近寄ってきて、蠱惑的とでもいうような姿態?を見せてくれました。


宮川
宮川の「宮」は、もう少し上流にある、大水上神社(おおみなかみ神社)を指しています。本山寺の後、訪ねる予定の神社です。
ただし、丸山をカットせざるを得なかったように、この辺の行程はとても詰まってしまい、実は充分見学できませんでした。(前号コメントでも記しましたが)次回遍路で、歩き直してみるつもりです。


五重塔
本山寺の五重塔が、すぐ側に見えてきました。


山門
本山寺山門は国の重文です。
本山寺に伝わる「一夜建立」譚、「太刀受けの弥陀」譚などについては、→H25 初夏 ③ をご覧ください。


境内
また七宝山の延寿寺、興隆寺廃寺、不動滝についても、→H25 初夏 ③ に記していますので、ご覧ください。興隆寺廃寺の石塔群は、とりわけ見応えがあります。時間を都合して、訪ねられてはいかがでしょう。興隆寺は、本山寺の元奥の院ともいわれています。


五重塔  
四国88霊場で五重塔があるのは、本山寺の他、31番竹林寺、75番善通寺、86番志度寺です。


石魂堂 
満蒙開拓団犠牲者の冥福と永遠の平和を祈念する佛堂だそうです。


十王堂 護摩堂
中は覗きませんでしたが、閻魔様を中央に、十王・・冥土で亡者の罪を裁く十人の判官・・が祀られているはずです。また閻魔様の本地である地蔵菩薩も、いらっしゃるにちがいありません。


高良神社
本山寺と隣接して、高良神社(こうら神社)があります。神仏習合の頃、本山寺は、高良神社の神宮寺だったのかもしれません。


クスノキ
香川の保存木で、奇木とされています。ただし、ごめんなさい、撮影を失敗し、奇木たる所以の部位が写っていません。次回、三豊再訪では、たぶん立ち寄ることができると思います。その時は写して、ここに掲載いたします。



枯木地蔵→妙音寺へ移動します。


枯木地蔵
地蔵堂は改築されたようです。


以前の枯木地蔵
H25の枯木地蔵です。


本山小学校
本山小学校は明治25(1892)、本山村立本山尋常小学校として設置されました。現在の生徒数120名余。
当然、本山寺との関わりは深く、「学校だより」から、ほんの一部を抜粋させていただくと、・・本年度も、本山寺のご協力をいただき、全校生が「本山寺ふれあい活動」として「お接待体験」を行いました。・・お接待班は、手作りのしおりをさし上げたり、お茶や飴を勧めたりしながら、お遍路さんとの楽しい交流の時間を過ごしました。また、清掃奉仕班は、境内の落ち葉集めや草抜きなどを行いました。


妙音寺へ
本山小学校の先で国道11号に入り、北進。
豊中南駐在所のところで右折すると、そこは妙音寺の参道です。


えんとつ
参道脇に作業場があり、レンガ造りの煙突が立っています。
たまたま作業している方がいましたので尋ねると、かつてここで瓦を焼いていて、その名残なのだそうです。
今回の遍路では巨石巡りがテーマの一つだと前述しましたが、実は瓦窯巡りも、テーマの一つなので、ちょっとうれしくなりました。


五十鈴神社
妙音寺の側には、五十鈴神社があります。祭神は、天照皇大神・天太玉命・天津児屋根命だそうです。
天照皇大神は日本神話中の最高神で、皇室の祖神とされています。伊勢神宮内宮に祀られる神です。
天太玉命・天津児屋根命は天岩戸の変で、天照皇大神の引き出しに働いた神です。共に天孫(邇邇藝命)の降臨に従った随行神でもあります。
社名の「五十鈴」は、伊勢神宮の祓川である、五十鈴川に由来するのでしょうか。


妙音寺山門
本山寺奥の院・七宝山妙音寺です。
現存する中では、四国最古級の寺とされている寺です。→H25 初夏 ③ でふれましたので、よろしければご覧ください。また、当寺出土の古瓦については、次号でもふれる予定でいます。


本堂
さて、ご覧いただきまして、ありがとうございました。
次号は「三豊再訪」との関係もあって、ちょっとスキップし、高瀬→弥谷寺→海岸寺を報告させていただきます。
更新は、2月19日を予定しています。

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琴弾八幡 放生川 宗鑑の一夜庵 有明浜 問答岩 専念寺の一茶句碑

2019-12-18 | 四国遍路

 
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  琴 弾 山
 
68番 69番境内
一山二札所=六十八番神恵院、六十九番観音寺のお参りをすませ(前号)、
背後の琴弾山上、展望台に向かいます。


薬師堂石段から
薬師堂の石段を上り、そこから展望台への道に出ました。
手前の屋根は愛染堂、奥が69番大師堂の屋根です。


江甫草山
富士山型の山は、江甫草山(つくも山)153㍍。別名・有明富士です。中世、山城がありましたが、ご存知、長宗我部元親により、焼き払われました。
右の、落ちてくる尾根は、稲積山403㍍の尾根です。山頂に、高屋神社があり、その鳥居は「天空の鳥居」として、最近、とりわけ若い人たちに人気です。いずれも登ってみたい山です。


象鼻石
四国遍礼名所図会に、・・象鼻石 ( 此所より中国路・予州路・川口・有明の浜、眼下見下ろし絶景いわんかたなし )・・とあります。
象鼻石は絶景を眺める特等席です。その名の由来は、撮影角度が悪くわかりにくいのですが、海に向けて伸びている、石の形状にあるようです。伸びた部分が、象の鼻に見立てられているのでしょう。


銭形と伊吹島
象鼻石から見た絶景です。
海岸線は有明浜で、銭形があるこの辺一帯は、琴弾公園として整備されています。
燧灘に浮かぶ島は、伊吹島です。イリコの島として知られていますが、観音寺と向き合い響き合う、信仰の島でもあります。( →H25 初夏 ④


銭形
銭形は、領国巡見中の幼君・生駒高俊の無聊を慰めんと、一夜にして造られたといわれています。
幼くして高松藩主となった生駒高俊が、外祖父・藤堂高虎の後見を受けていたことや、高虎が派遣した西島八兵衛が満濃池を復活させたこと、高俊がお家騒動(生駒騒動)の結果、出羽に流されたことなどは、前号で記しました。


金運のパワースポット
生駒騒動ではちょっとケチがついた銭形ですが、近頃は、金運のパワースポットとして大人気です。
大興寺に近づいた頃から、数えること4回、次のような話を耳にしました。
・・観音寺でロト(宝くじ)の億が、二本でたんよ。こーれは銭形の御利益じゃわいね。
億クジが出たというロト売り場、たまたま近くを通ったので、寄ってみました。買いませんでしたが。


本殿へ
元68番・琴弾八幡宮へ向かいます。


拝殿・本殿
・・大宝3(703)のことです。日証上人がこの地で修行していたところ、西方の空が鳴動。黒雲が空を覆ったといいます。日月の光も見えなくなり、三日三晩、国人はおののいて過ごしましたが、やがて西方の空より白雲虹のごとく出でて聳き(そびき=たなびき)、中より妙なる琴の音とともに、一艘の船が現れました。


拝殿
・・日証上人が船に近づき、いかなる神人にてましますやと尋ねると、我はこれ八幡大菩薩なり、帝都にちかづき擁護せんがために宇佐より出、この地霊なるが故に、此にあそべり、と宣われたといいいます。


拝殿
・・上人が、凡夫にはなかななか、その言信じ難し、願わくば愚迷の人のため霊異をしめし給え、と証しを求めると、その夜のうちに、辺りの海は竹林となり、砂浜は松林となりました。
・・上人はおどろき、欲染なき童男童女数百人を集めて御船を峰上に引き上げ、これを斎祀して琴弾八幡と号し奉った、といいます。( 四国遍礼霊場記より )


下へ
これより石段の参道を下ります。裏口から入り、表口から出る格好となりますが、この際、勘弁していただきます。


木之鳥居
石段の中間点くらいに、木之鳥居があります。
案内板によると、・・古来八幡信仰の篤い源氏方は、元歴2(1185)、義経が屋島合戦に勝利し、更に平家追討の成功を祈願して、当社に神馬「望月」と、この木之鳥居を奉納した。( 神恵院蔵「弘化録」 )・・とのことです。


扁額
扁額に、三所霊神と記されています。
琴弾八幡宮の祭神である、応神天皇(八幡神)、その母神・神功皇后、玉依姫(綿津見大神の子神にして神武天皇の母神)を指しているのでしょう。


下へ
さらに下ります。長い石段ですが、斜度がそれほどきつくないので、助かります。


琴弾八幡宮鳥居
降りてきました。


放生川河口
ちょっと風情がありませんが、鳥居の側に河口があります。放生川の河口です。
放生川河口部は、その名の通り、放生会の祭場となる所です。


一つ物神事 由来
放生会の位置づけについて記した案内板が、近くにありました。
「ひとつもの」は、”唯一かけがえのない神事”といった意味でしょうか。この重要神事を支えるのが、齊(ものいみ)と、祓川での放生会である、というのです。


放生会の祭場
放生会の祭場です。ここは琴弾八幡宮にとって、きわめて大切な場、ということになります。


枇杷の首
河口に鎮座する大石は、「枇杷の首」と呼ばれるそうです。
なぜ「枇杷」と呼ばれるのかは、確とはわかりませんが、その形状から来るようです。「首」(くび)は、「杭」(くい)の転である、とも言われています。


放生川(満ち潮時)
「杭」について、地元消防団の方が、こんな話をして下さいました。
・・擁壁に藻が付いとろう。満潮の時には、潮が上がってくるんよ。台風の時には高潮で、たまに床下浸水することもあってね。
・・あの大きな石は、そういうことを止める、言うてみれば「杭」なんよ。大昔から、治水は杭打ちから始まるけんね。
楽しいお話を、ありがとうございました。


一夜庵道しるべく
「枇杷の首」の側に、「一夜庵道しるべ」が建っています。
  北三丁 下々の宿あり 一夜庵
道しるべに誘われて、私はこれより、一夜庵に向かいます。
一夜庵は、俳諧の祖・山崎宗鑑が結んでいた庵で、これより北三丁の、興昌寺境内に在ります。


切り通し
琴弾山南麓を東進すると、切り通しの道があります。琴弾山と興昌寺山の間を切り開いた道です。二つの山は、かつては尾根でつながっていました。
この切り通しを渡った先が、興昌寺です。

  興 昌 寺 山

山門
興昌寺山の南麓に、興昌寺があります。


七宝山
前号でも記しましたが、ここでも、山号は七宝山です。


扁額
開基は弘法大師で、かつては真言密教の道場であったといわれています。
今は、臨済宗の寺です。


一夜庵
一夜庵の存在が表示されていました。


境内へ
外界と世界を画すかのような、石垣の構えです。


しょうじ
その内側に、シンとした鎮もりの世界が現出しています。
こんな時にいつも思うのは、障子の素晴らしさです。


記念碑
  俳祖宗鑑翁 四百五十年祭記念碑
山崎宗鑑は戦乱の室町後期を生きましたが、生年、没年ともに不詳です。亡くなったのは天文8-10(1539-41)ころで、70-80才代だったと考えられています。


一夜庵
宗鑑は滑稽・機知の句風をもち、一夜庵の入り口には、
  上の客人立ち帰り、中の客人日帰り、泊まりの客人下の下
と記されていたとのことです。
来客がこれを見て、帰ってくれれば、その客は上客。長居しない客は中の客。これを見てもなお泊まろうとする客は、下の下客である、というのです。


一夜庵
弟子達に残した辞世は、
  宗鑑は いづくへと人の 問うならば ちとようがありて あの世へといへ
宗鑑はどこへ行ったのかと問われたら、ちと用があって あの世へ出かけております、と答えなさい、というのですが、実は宗鑑、酷い腫れ物=ヨウ、が出来て亡くなったのでした。


宗鑑法師之塔
そんな宗鑑を、虚子はよく理解していたのでしょう。人目にはうらぶれても見える宗鑑の墓を、こんな句にしています。
   宗鑑の 墓に花なき 涼しさよ  虚子
泉下の宗鑑さんは、我が意を得たりとご満悦でしょう。”涼しさよ”たぁ、うれしいね!
なお、この写真は墓ではなく、供養塔です。墓は撮り忘れたのですが、供養塔同様、「宗鑑法師 御墓」の碑がなければ、だれの何なのか、まったく判じ得ません。


移動
小径をたどり、根上がり松へ移動します。
この辺には(前号で記した)江甫草城主(つくも城主)・細川氏政の墓などがありますが、略します。


除風の墓
「四国文藝秘史」というブログに、次のような記事があります。
・・備中の俳人、一夜庵四世の除風(延享三年没)の墓が一夜庵の裏山にある。その存在を知る人は多くはない。供華参拝されることもめったにない。当庵初代山崎宗鑑のことさえ知らない、無関心の人が多くなってくると、刻字は明確ながら、それは全く見捨てられた石ころに等しい。                  
・・世の人よ、心あらば伝えてよ、俳祖宗鑑終焉の一夜庵を再興した除風なる献身の人がいたことを。
 *残念ながら一風については、わかりません。心あらばおしえてよ。 

  

見事な松が現れました。
寺は、日蓮宗の常行寺です。


根上がり松
その先に根上がり松があります。
寛永通宝の銭形が金運スポットであると前述しましたが、「根上がり」は「値上がり」に通じるとて、この松も、株価や給料が上がってほしい人たちの、金運スポットであるそうです。


切り通し
根上がり松から、先ほどの切り通しに降りてきました。これを北(海方向)に進むと、・・


観音寺中学校
すぐ先に観音寺中学があります。
校歌を見ると、
 一、あけゆく朝の 陽に映えて 琴弾山のよぶところ
       真理を目指す 眉若く 希望の歌が湧き上がる 
 二、花橘の香も高く 財田の流れ澄むところ
       若木の生命 すこやかに 自立の力 鍛えゆく
 三、潮はにおう燧灘 平和の光さすところ
       明るい明日へ立ち上がる ああ観音寺中学校
いかにも昭和22年開校の新制中学らしく、真理、希望、生命、自立、平和、明日が高らかに歌われ、ふるさとの山、川、海、・・琴弾山、財田川、燧灘・・が、歌い込まれています。


松原
観音寺中学を過ぎ、私は琴弾山の北嶺・琴弾山公園(有明浜)を西進します。


松原
近頃、瀬戸内海沿いの松原では、老松を見ることが少なくなっているのですが、有明浜はちがいます。いっぱいあります。


松原
かつて瀬戸内海沿岸で大発生した松食い虫被害を、有明浜はどのようにしてか、切り抜けています。


松原
ヘリコプターで薬剤を散布した所もあったと聞きますが、ここでは、そういうことはなかったようです。


銭形
銭形にやって来ました。
東西122㍍、南北90㍍m、周囲345㍍m、溝の深さは2㍍を超えているといいます。年に2回、春と秋に「砂ざらえ」をして、形を整えるのだそうです。


大師の井戸
・・かつて弘法大師が観音寺の住職をされていた頃、旱魃がつづいて、住民は飲み水にも難儀しておりました。大師はこれを哀れみ、この井戸を掘ったと伝えられています。
海近くであるにもかかわらず、真水がこんこんと湧き、昭和の初めまで、茶人や住人が利用していたとのことです。現在、井戸は東屋の下に保存され、見ることは出来ませんが、御水は、このヒネルトジャーから、自由にいただくことが出来ます。なお飲用には、一度湧かしてくださいとのことです。


大平正芳記念館 世界のコイン館
大平正芳記念館は、以前は一ノ谷川沿いのへんろ道にありましたが、こっちに移転したようです。入場料は、世界のコイン館と共通で300円。
コイン館は、寛永通宝に因んでいるのでしょう。


観音寺郷土資料館
その隣の観音寺郷土資料館は、現在は閉館中ですが、大正3(1914)の建築で、登録有形文化財に指定されています。魅力的な「洋風建築」です。
初めは三豊郡農会農事試験場として建てられましたが、その後、産業勧業館、讃岐博物館、市立図書館などに転用され、最後は、郷土資料館となりました。


旧大平正芳記念館
お若い方のために、・・大平正芳さんは元日本国の総理大臣。在任は、S53-57(1976-80)。三豊郡和田村(現観音寺市)の生まれです。


問答石
大平記念館を過ぎ、八幡宮の鳥居が近づいてきた所に、「問答石」が在ります。
日証上人はこの石に倚り、船中なる宇佐大神と問答した、と伝わります。ここでの問答があったのち、船が山上に引き上げられました。


琴弾八幡宮鳥居 
ふたたび八幡宮の鳥居です。これで琴弾山を、一周したことになります。


三架橋 
三架橋を渡り、・・


琴弾八幡宮遠望 
琴弾八幡を遠望する場所にやって来ました。
専念寺を訪ねるためです。


専念寺
専念寺は浄土宗の寺で、一茶の句碑があることで知られています。
案内板に寄れば、 一茶は専念寺を二度、訪ねています。一茶と専念寺の住職・俳号五梅は、共に江戸の俳人・二六庵竹阿を師と仰ぐ、相弟子だったそうです。


一茶句碑
  元日や さらに旅宿と おもほえず  一茶
二度目の訪問時の元日、詠んだ句だそうです。旅先で元日を迎えた寂しさが、旅宿(はたご)の温かいもてなしに、癒やされています。
句碑の字体は、寺に残っている一茶の自筆を、模写したものだといいます。


一茶句碑
なお一茶について、よろしければ、 H24春3 (北条の「一茶の道」)、H24春5(西條の実報寺に残した句)も、ご覧ください。

さて、ご覧いただきまして、ありがとうございました。
令和の御世にもかかわらず、しつこく続いた「H31 春へんろ」シリーズでしたが、ようやく今号を以て、終わりとなりました。
おかげさまで令和元年初冬の遍路も終えることが出来ましたので、(実はそのため、本号の更新がおくれたのでしたが)、次号から本ブログも改元、「R1 冬へんろ」となります。更新予定は、令和2年1月22日です。
末筆ながら、どうかどうか令和二年が、皆さまにとって、日本の人たちにとって、世界の人たちにとって、よい年でありますように。    合掌

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砥石観音 萬福寺 68番観音寺  69番神恵院

2019-11-20 | 四国遍路

 
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  砥 石 観 音

砥石観世音
67番大興寺から68番69番への途中、砥石観音にお参りしました。
後述しますが砥石観音は、70番本山寺の建立譚に発する観音霊場です。


国道377号
まず砥石観音までの道を、概略、お伝えします。
写真の道は国道377号で、ほぼ北東に向かって走っています。交通標識にあるように、信号を左(北方向)に曲がると、68番神恵院、69番観音寺です。ただし、これは車の道で、歩きの道は別にあります。
砥石観音へは、神恵院、観音寺の方に曲がらず、直進します。


七宝山
左方(北方向)に七宝山の山系が見えます。観音寺、神恵院、総持寺、本山寺、本山寺奥の院・妙音寺などなどが山号を「七宝山」と号しているのは、ご存知の通りです。
弘法大師がこの山のどこかに、七種の宝を埋めたと伝わります。
・・(弘法)大師七種の珍宝を此山に納め国家の鎮押とし玉ふの故に七宝山と称すなり・・(四国遍礼霊場記)


岩神さん
国道377号の右側、次に記すローソンの6-70㍍手前に、「岩神さん」があります。
三豊市には巨石信仰の痕跡がいくつか残っていますが、岩神さんもその一つと思われます。説明板には、・・巨石信仰として古代から「山の神」と称して、豊作を祈願し農業神を祝いまつり、社を造ったという。・・とあります。


山の神
三豊市内にある巨石の主なものは、加茂神社(三豊市仁尾町仁尾丁)の注連石、妙見宮(仁尾町仁尾戌)の明星石などの巨石、鬼ヶ臼山(高瀬町上高瀬)の巨石などです。
ぜひ次回、訪れたいと思っています。


ローソン
国道377号から右折し、県道5号に入ります。
角にローソンがあり、水、食糧の補給に便利です。


県道5号
県道5号です。砥石観音は、ここより約6キロ先にあります。


財田川
県道5号は、財田川(さいた川)に沿った道です。
財田川は、讃岐山脈から西流し、三豊平野を流れ、燧灘に注ぐ二級河川で、満濃池の水源の一つにもなっています。


旧道
県道5号の旧道です。
郵便局は財田中郵便局で、協力会地図に記載されています。前記のローソンからは、2.3キロです。


合流
手前が旧道で、奥が県道5号です。再合流点が近づいてきました。
流れる川は、財田川の支流である長野川です。長野川は、右奥に見える雨宮(あめのみや)神社の祓川とされています。


雨宮神社社叢
雨宮神社に行ってみました。
見事な社叢です。昭和51(1976)、香川県の自然記念物に指定されています。
アラカシ、タブノキ、クスノキ、カゴノキ、ムクノキ、センダン、ヤブツバキ、マサキ、ノダフジなどが見られるといいます。


雨宮神社
祭神は、高龗神(たかおかみ神)、闇龗神(くらおかみ神)、天水分神(あめのみくまり神)です。「おかみ」は、字が(雨+龍)であることからもわかるように、雨を司る龍神ですから、これら三神は、雨を司る農耕神ということになります。天水分神は文字通り、水の配分にかかわる神です。


境内へ
雨宮神社の社名由来について、四国新聞が次のような記事を書いています。
・・長久4(1043)の干ばつで苗代の苗が枯死寸前に陥り、村人が雨ごいを祈願したところ、にわかに慈雨が降り注いだ。以来、雨ノ宮神社と称するようになった、と町史は記す。
三神から慈雨が戴けたことを村人は喜び、その喜びを踊りに表現したといいます。入樋地区の弥与苗(やよな)・八千歳(やとせ)踊は、その喜びの踊りを、今に伝えるものだそうです。


拝殿
拝殿の左に、碑が建っています。「御苗洗所之碑」です。
これについても、四国新聞が記事にしています。
・・大正3(1914)の大嘗祭で、主基殿(すきでん)で使う筵藁の御用苗を財田村が献納。神社東側の長野川で洗浄したことを記念する石碑が、誇らしげに境内に立つ。
大嘗祭、・・私たちの記憶に新しいところです。


御苗洗所之碑
・・誇らしげに立つ・・その誇りは、大嘗祭の主基に選ばれたことへの誇りであるのはむろんですが、この地が農耕三神に護られた地であることへの、誇りでもあったでしょう。
時は遡り、弘仁8(817)は大干魃の年でした。讃岐もまた例外ではなく、このままでは大飢饉は必至と思われていました。ところが、そんな中、唯一、稲が豊に実る場所があったといいます。それが財田でした。財田は、三神の霊験あらたかな地なのです。


財田川
村人はその収穫を、天皇に献上したといいます。天皇は喜ばれ、当地に「たからだ」との地名を下さいました。今は財田を「さいた」と読んでいますが、元は「たからだ」と読んだようです。村人に言わせれば、・・これまで主基に選ばれんかった方がおかしいんじゃ、・・であったでしょう。
当たり前よ、選ばれいでか。此所は、天皇さんから「たからだ」の名を戴いた土地じゃぞ、・・御苗洗所之碑が”誇らしげに”立っているのには、こんなわけがあったのかもしれません。


鉾八幡
財田は、元は、財田上の村、中の村、西の村と、三つに別れていたそうです。一つになったのは天正の頃(戦国時代)で、天王城(橘城とも)に拠った大平国秀が勢力を伸張し、統合しました。天王城は、財田川を挟んだ対岸にある山城です。
大平氏は、土佐大平氏の分流で、国秀の13代前に讃岐に移住。(香川県の名の興りである)香川氏の配下として、財田から豊浜にかけて、勢力を築きました。おそらくその関係でしょう、この辺には大平姓が多く残っています。かつての首相・大平正芳さんもその一人です。


壊れた鳥居
鉾八幡宮は、統合三ケ村の氏神として、創建されたようです。勢力を扶植するためには、(武力だけでなく)こうしたものが必要だったのかもしれません。
ぜひ入ってみたかったのですが、残念ながら鳥居が壊れており、かないませんでした。


すもも
お接待で、いっぱいスモモを戴きました。ずいぶん食べたのですが、それでもまだ、こんなにあります。一日持ち歩きました。もしかすると車遍路と間違えていらっしたのかもしれません。
翌日のことです。出会ったインドネシアの青年達が、何故そんなものを持ち歩いているのかと尋ねるので、けっこう苦心しながらも、なんとか「お接待」を説明。その上でスモモをお接待してみると、なんと、ぜんぶ平らげてくれました。おかげで腐らせることもなく、スモモ農家さんの好意を無にせずにすみました。


財田町
財田診療所、財田支所、財田郵便局などがある一画です。「協力会地図」に記載があります。前記のローソンから、およそ4.8キロ。
この辺で左折し、県道5号から離れます。



県道5号から県道218号に移る道です。写真の左方向に進みます。


財田橋
財田川を渡ります。架かる橋は財田橋。
先に萬福寺が見えています。


山門
萬福寺は、讃岐三十三観音霊場 第十三番札所になっています。
本尊は砥石観音菩薩です。つまり、私が目指す砥石観音堂は、萬福寺の奥の院であるということです。
伝わる由緒などについては、後に、砥石観音のところで記します。


藤棚
藤棚です。萬福寺はまた、藤の寺としても知られているそうです。。


花観音
藤棚の下に花観音さまが立ち、隣に今は、アジサイが咲いています。


萬福寺
萬福寺の寺名は、弘仁8(817)、(前記の)大干魃の年、献上米を喜ばれた天皇が命じて、大師が付けられたものだといいます。従って萬福寺の開基は、弘法大師となっています。


田植え
この頃の大師関連の年表を抜粋してみます。
 大同2(807)  平城天皇の勅願により、弘法大師が70番札所として本山寺を開基。
 弘仁8(817)  大干魃起こる。→大師、萬福寺を開基。
 弘仁9(818)  満濃池が決壊する。復旧は困難を極める。
 弘仁12(821)  朝廷は空海を築池別当として派遣。空海、復旧に当たる。


県道218号
県道218号を進みます。


品福寺
萬福寺(まんぷく寺)から400㍍ほど先にある品福寺(ほんぷく寺)は、浄土真宗の寺です。
樹高18㍍というラカンマキが見事です。


左へ
看板に、讃岐観音霊場 第13番萬福寺奥之院 砥石観音、とあります。左に入ると、すぐ砥石観音です。
県道218号を直進(トラックが行く方向)→国道32号を北上すると金刀比羅宮。逆に南下すると、箸蔵街道を経て箸蔵寺です。32号の黒川から北東に進むと神野寺(満濃池)があります。


道標
前述の、ローソンの角に、こんな道標がありました。
  左 こんぴ○   右 はし○○
ここで金毘羅さん方向と箸蔵さん方向が分かれたようです。


砥石観音堂
砥石観音が伝える譚は、70番本山寺が伝える一夜建立譚につながる譚です。砥石観音堂の説明看板は次のように記しています。
・・大同3(808)、弘法大師が本山寺を建立された時、渓道の大師谷から用材を伐り出したが、斧の刃が折れて伐子たちは大いに困っていた。そこへ行脚の僧が現れて砥石をあたえた。


本堂
・・かれらは早速斧を研いで用いたところ、おどろくほどよく伐れ、容易に用材を伐り出すことができた。村人たちは霊験あらたかな砥石を当地に持ち帰り、堂宇を建立して安置したものと伝えられている。(建立年が前記と異なっていますが、気にしないことにします)。


境内
本尊は石の観音さまで、背面が砥石をおもわせる孤状をしているといいます。


石段の上から下
さて、これより観音寺に向かいますが、同じ道を引き返します。

  68番神恵院 69番観音寺

琴弾山 財田川
お山は標高58㍍の琴弾山。手前を流れる川は財田川です。
琴弾山の山頂部には、元68番札所の琴弾八幡宮があります。そして中腹には、境内を共にして、現68番神恵院と69番観音寺があります。


財田川河口付近
まずは札所へのお参りをすませ、その後、展望所に上がり、寛永通宝がある有明浜や、伊吹島が浮かぶ瀬戸内海を楽しもうと思います。


山門
境内を共にする68番と69番は、山門も共にしています。
明治期の神仏分離により、68番札所であった琴弾八幡宮は札所からはずれ、代わって新68番が、神恵院として生まれました。
琴弾八幡宮の本地堂に祀られていた阿弥陀如来を観音寺の西金堂(さいこんどう)に遷し、これを新68番神恵院としたのでした。


山門
一寺二札所は他に例を見ませんが、ここ観音寺にあっては、格別に新しいものではありませんでした。
というのも、観音寺は神仏習合の時代、琴弾八幡宮の別当寺でしたから、当時も事実上、一寺二札所だったからです。四国遍礼名所図会は、次のように表記しています。
  六十八番 琴弾八幡宮 別当観音寺
  六十九番 七宝山観音寺神恵院
納経も現在と同じく、観音寺が二札所分を行っていたようです。


境内の右半分部分
境内に入ると、大まかには、向かって右半分が69番観音寺域、左半分が68番神恵院域になっています。
写真奥が69番観音寺の本堂で、赤いのぼり旗は愛染堂。白い向拝幕が69番観音寺大師堂です。


69番観音寺本堂
観音寺はかつて、奈良興福寺に倣い、西金堂-中金堂-東金堂を基軸とする伽藍配置を造っていたそうです。大師が観音寺第7世住職となって、建立されたと伝わります。
中金堂に当る本堂は、国指定重要文化財です。室町時代の建築ですが、数度にわたる大修復が加えられていることが、重文にとどまっている理由のようです。


69番観音寺大師堂
69番観音寺の大師堂です。
手前の大樹は楠。


薬師堂
69番本堂に向かって左、石段の上に薬師堂が在ります。神仏分離された琴弾八幡宮の本地仏・阿弥陀如来は、此所に遷されました。


薬師堂
H14(2002)、現・神恵院の本堂(写真後掲)が新築されるまで、此所が68番神恵院の本堂でした。
68番大師堂は、この隣に在りました。


68番神恵院本堂
H14(2002)、68番神恵院本堂は、この建物(白いコンクリートの建物)に遷されました。


68番本堂
白い建物の中に、69番神恵院本堂があります。


68番大師堂
入母屋造りの大師堂は珍しいと思っていたら、この大師堂は、かつては延寿寺( →H25初夏3 )の本堂だったそうです。
此所では初め、十王堂として使われていましたが、旧本堂の隣に在った大師堂が、台風で壊れたとかで、十王堂の右半分を大師堂としたのだそうです。

さて、この後、琴弾山からの景色などをご覧いただく予定でしたが、更新日が来てしまいました。切りが悪くて申し訳ないのですが、今号は、ここまでとさせていただきます。近々、四国に出かけたいとも思っており、その準備などもあって、・・というのが言い訳です。
琴弾山、有明浜、興昌寺山、本山寺などは、次号回しとします。更新予定は、12月18日です。

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池田町佐野から 66番雲辺寺 67番大興寺

2019-10-23 | 四国遍路

 
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佐野
境目峠を下り、国道192号から佐野に入ってきました。徳島県三好市池田町佐野です。
わずかなカーブをみせて道が一本通り、両側に家が並んでいます。重い屋根をのせた古い家もあれば、ちょいと洒落た昭和の家もあり、旧街道の趣を残しています。
阿波から伊予に抜ける街道であることから、伊予街道と呼ばれていました。


馬路谷川
境目峠の辺を源流とする、馬路谷川(うまじたに川)です。佐野を貫流しています。
吉野川の支流で、吉野川が北流から東流に転じる手前、・・池田大橋が架かる辺りで・・吉野川に合流しています。


馬路谷川
馬路谷川が造った谷を利して、かつては伊予街道が通っていましたが、今は、国道192号と徳島自動車道が取って代わっています。
なお「馬路谷川」は、佐野の辺だけの呼び名なのかもしれません。国土地理院地図では、「馬路川」となっています。「馬路」は、もう少し下流の地域名です。


雲辺寺山方向
佐野は、雲辺寺山の南山嶺に位置しています。しかし佐野から雲辺寺を見ることは、出来ません。雲辺寺は、尾根筋に並ぶ右端の鉄塔から、さらに林道を3キロほど歩いたところに在ります。


雲辺寺へ
雲辺寺登坂口にむかって歩きます。とりあえずの目標は、「右端の鉄塔」です。


雲辺寺へ
道標は、よく整備されています。加えて宿では夕食時、念入りな道案内もいただけました。
だから、まず迷うことはないと思われましたが、・・
後の話になりますが、それでも迷った方がいました。私たちは知らない土地を歩いているのだと、痛感します。


選挙
参院選の前でした。
なんと「徳島県及び高知県選挙区」ですと!一票の格差問題とは別に、問題がありはしませんか。


青色寺遠望
大屋根の建物は、青色寺(せいしょく寺)という、珍しい名前のお寺です。
境内の由緒看板に、創立は慶長3(1598)で、公費(藩費)で建立された、とあります。つまり青色寺は、慶長3、徳島藩が定めた、駅路寺の一だったと考えられます。


青色寺
駅路寺には真言八ヶ寺が選ばれ、藩内の主要街道に配置されていました。青色寺は伊予街道に置かれた駅路寺でした。
四国遍礼名所図会には、次のように記載されています。
・・(青色寺は)国守より辺路人の為に建堂なり。山の麓にあり・・。


寺名碑
青色寺は、私が訪ねた、5番目の駅路寺です。これまで訪ねた駅路寺は、・・
 瑞運寺(撫養街道 上坂に在る、現在の六番札所安楽寺)  →二巡目の阿波路2
 長谷寺(撫養街道 鳴門に在る「ちょうこく」寺 )  →H23秋6  
 打越寺(土佐街道 山河内に在る)  →H26秋3
 円頓寺(土佐街道 穴喰に在る、現在の大日寺)  →H26秋4


佐野神社
佐野の鎮守として祀られています。
明治11(1878)、佐野の妙見神社に、馬路の境宮神社を合祀し、佐野神社としたようです。明治の廃仏毀釈では、寺だけでなく、神社にも統廃合の手が入っています。


登り口へ
左に入ります。写っていませんが、道標はしっかりとついています。


道標
徳右衛門道標です。左に上がる道は、民家の私道です。
  是より雲辺寺まで(以下埋没)



前を行くのは、同宿だった方です。今夜の泊まりは観音寺だそうで、早足に歩いています。
私は大興寺のすこし先までですから、急ぎません。



ここからが、本格的な登りになります。
以下の写真でもおわかりになると思いますが、しばらくは、擁壁がしっかりとつき、路面も簡易舗装されています。
おかげさまで楽に登れるのですが、思うに、かつてこの辺は、険しい山坂だったでしょう。



四国遍礼名所図会に、・・是より雲辺寺迄伍拾町なり。廿丁ばかりの間は甚だけわし・・とあります。
「是より」は、「青色寺より」を意味します。駅路寺の青色寺が起点です。
へんろ道は、左に切れ上がってゆきます。



ふたたび上がります。


徳島自動車道
徳島自動車道の下をくぐります。


徳島自動車道
徳島自動車道を下に見ながら進みます。


上がる
またまた上がります。雲辺寺3.5キロ、とあります。


山道
ここから土の道です。


放棄
放置自転車がありました。舗装の道が切れ、押し上げることが出来なくなったのでしょうか。



この道には、多くの地蔵丁石が残っています。



これはその一つ、四十二丁石です。



空が見えてきました。もうすぐ林道と思われます。


林道へ
林道に出ました。
この地点の標高は665㍍です。佐野小学校が243㍍でしたから、420㍍ほど登ってきたわけです。
そして、雲辺寺の標高は910㍍ですから、さらに245㍍ほど登ることいなります。ただし3キロほど歩くなかでの245㍍ですから、それほど苦にはなりません。


鉄塔
林道に上がって左方(曼陀峠方向)を見ると、鉄塔が建っています。前述の「右端の鉄塔」が、これです。


林道
雲辺寺は、林道を上がって右方向に進みます。


道標
ガスってきました。前方は伐採林です。皆伐しています。


山門跡
ここは、かつての山門の跡です。かつては、この道が雲辺寺参拝の主導線でした。


旧山門  
H19(2007)に撮った、旧山門です。


二丁
二丁の地蔵丁石です。


夫婦杉
雲辺寺には「三大巨木」があるのだそうです。これはその一、夫婦杉です。


雲辺寺
雲辺寺に着きました。左上に上がることは出来ますが、それでは山門から入ることにならないので、道なりに直進します。


新山門へ
この坂を上がると広場になり、新山門があります。
右の建物は信徒会館です。


山門
新山門です。佐野方面から登ってきた人には、やや遠回りとなりましたが、ロープウェイや車で上がってきた人には、便利な位置に在ります。
乗り物利用の方の中には、足が弱っている方など、いらっしゃるでしょうから、これでいいのだと思います。ただ、山門の向こうの石段は、ちょっと厳しそうですが。


大師堂
石段を上がると、正面に大師堂があります。導線が変わった関係で、こうなったのでしょう。
本堂と間違えてしまう人がいたのでしょうか、ここは大師堂ですよ、と大書されています。


本堂
雲辺寺のご本尊は千手観音菩薩。脇に不動明王と毘沙門天を配しています。
堂内がカラフルにライトアップされているのには、ちょっと驚きましたが、驚く方が古いのかもしれません。


おねがい札
雲辺寺には茄子がいっぱい。写真は、茄子の「おねがい札」です。他にも「お願いなす」の椅子やお守り、「なすたんぷ」(なす+スタンプ)などもあります。
「親の意見と茄子の花は千に一つも無駄はない」とか。「お願いなす」にハズレは、千に一つもありません。


銀杏
三大巨木の大師乳銀杏(大師ちち銀杏)です。粉ミルクなどはない時代に、お母さんの乳の出の良し悪しは、赤ちゃんの生死にかかわる問題でした。
三大巨木のもう一つは、三位一体の霊木(カシ・ハンノ木、カエデの木が一体化したもの)です。これは、展望台へ行く途中、確かに見たのですが、撮り忘れています。


釈迦入滅
讃岐は涅槃の道場です。その最初の札所に、釈迦入滅=大般涅槃(大はつねはん)の場面が再現されています。
釈迦が般涅槃(完全なる涅槃)に入ろうとするのを、多くの弟子達が見守っています。


五百羅漢
五百羅漢が居並んでいます。


毘沙門天像
展望台に行きました。塔の上には、大きな毘沙門天像が立っています。


らせん階段
入場は無料です。上がってみました。


石鎚方向
四国遍礼霊場記に、・・堂宇雲につヽめり。雲辺の名 むべときこゆ・・とあります。
まさにそのとおり、辺りは雲につつまれていました。せっかくの石鎚も見えません。晴れていれば、今治までも見えるそうですが。


県境
寂本さんは四国遍礼霊場記に、・・西は与州直下に見、北は中国の諸州一望し、東南は讃阿土の三州めぐれり。其蟠根(ばんこん)四国にわたり、むかしは四国坊とて四ヶ寺ありとかや。今は此一寺にて、阿州の城主より造立し給いぬれど、讃州の札所に古来属せり。・・と記しています。
雲辺寺は、所在地は徳島県三好市池田町白地(はくち)ですが、存在としては、讃岐の札所とされ、讃岐の関所寺となっています。


下山
67番大興寺に向けて下山します。一人でこの中に消えてゆくのは、ちょっと不安・・


道標
道標で「小松尾寺」が案内されています。小松尾寺とは、私たちが大興寺として知る寺です。
昭和末までは小松尾寺の名で呼ばれていたといいますが、今でも地元の方は、たいていが「小松尾さん」と呼んでいます。



四国遍礼霊場記(寂本)に、・・豊田郡小松尾の邑に寺がある故に、小松尾寺ともよび、山号とするかし。・・とあります。


下り道
少し降りると、階段状に切られた道にかわります。これが長くつづきます。
ベンチで休んでいると、上から鈴の音が聞こえてきました。昨晩、同宿だった方です。聞けば、道に迷ったのだそうでした。
どこで迷ったのです?と尋ねると、うーん、それがわからんのよ、やっぱり疲れているのかなあ、とのこと。


下り口
山道が終わりました。
これからは、県道240号=粟井-観音寺線を下ります。大興寺まで、およそ5キロです。


県道240号
この辺が粟井です。


ねぎ坊主
   巡礼を 見送りゐるは 葱坊主   青柳志解樹
ちょいと見送り坊主の数が多すぎる気が、しないでもありませんが。


白藤大師堂
鍵がかかっていて、入ることは出来ませんでした。ただ、地区が管理しておられるので、お願いすれば、開けていただけるようです。
野宿の方たちがお世話になる話も、耳にしています。


地蔵さんの道
県道240号は、お地蔵さんの道といってもいいくらい、お地蔵さんが立っています。


地蔵さんの道
その多くは地蔵丁石です。


岩鍋池
岩鍋池です。室町後期、大永7(1527)の築堤だそうです。
ここでは、寛永7(1630)、この池の改修を仕切った西島八兵衛について、記しておきます。西島八兵衛は、かの満濃池をよみがえらせた人物として、私たちが識っていてもよい人物です。


満濃池
満濃池は空海による改修後も決壊を繰り返し、鎌倉、戦国時代には、もはや改修は放棄され、廃池となっていました。干上がった池跡に人が住みはじめ、その名も「池内村」という村が、出来ていたといいます。
西島八兵衛は、その満濃池を400余年ぶりに改修。よみがえらせることに成功しました。


岩鍋池
西島の業績を、三重県津市のHPは、次のように記しています。・・大小95カ所に及ぶため池の修築や新築、川の付け替え、堤防の建設、新田の開発などを行い、生駒藩(高松藩)領内の荒廃地を美田によみがえらせた。
津市と西島八兵衛の関わりは次のようです。・・生駒藩主・生駒高俊は幼君であったため、外祖父である津幡の藤堂高虎により、後見されていました。西島八兵衛は、高虎が後見のため生駒高松藩に派遣した、家臣団の一人だったのです。そんな縁で津市のHPで取りあげられています。実は、やがて高虎の家臣団と譜代家臣団の軋轢が「生駒騒動」を惹起し、生駒家は改易となるのですが、それはまた別の話。


小松尾寺道標
  右 こまつお寺
  すぐ こんぴら道
  左 かんおん寺
「すぐ」は、(真っ直ぐ)の意です。


休憩所
休憩所を建てたいと願う人と、鏝絵の技術を伝える左官さんとの出遭いが、こんな素敵な休憩所を実現させました。


こてえ
代表的な鏝絵の画題・技術が紹介されています。
野ざらしにもかかわらず、ほとんど作品に損傷が見られません。漆喰の雨風にたいする強さがわかります。



右の古い道標は、小松尾寺を案内しています。左の平成の道標は、雲辺寺をを案内する面が見えています。
道の左側に見えるのは、蓮池です。


七宝山系遠景
蓮池越しに、観音寺の七宝山が見えました。
「七宝山」は、一つの頂を指す場合もありますが、稲積山、志保山、七宝山、妙見山などの山系を言うこともあります。
弘法大師が七つの宝を埋めたという「七宝山」が、いづれの七宝山を指すかはわかりませんが、68番神恵院、69番観音寺、70番本山寺、本山寺奥院の妙音寺、麓の檀家寺・総持寺など、近辺いくつもの寺が、山号を七宝山と号していることを思うとき、後者ではないかと、私には思われます。さて、どうでしょうか。 →H25初夏③


急坂
大興寺は丘の上にあります。山門は、この坂を上り、向こう側に下った所にあります。
上から境内に入ることは、出来るには出来ますが、脇から入り込む形になります。


門前畑
岡を下りてくると、田圃が広がっています。山門前の田圃は、昔さながらの景色と思われます。


山門
田圃に向かって、山門が建っています。
浄めの川を渡り、山門を潜ります。


仁王 阿
仁王像は四国で一番大きい仁王像だとのこと。


仁王 吽
運慶の作ともいわれています。


榧(かや)
・・弘法大師四国修行の砌、榧の種子、植えられたと伝えられている。・・と説明がついています。
樹高は20㍍。樹齢は、当然、1200年余となります。



大楠です。こちらの樹齢は、700年と推定されています。


石段
山門から入り、石段を上ります。


本堂
本堂は、寛保元年(1741年)に再建されたものだそうです。


伝教大師 大師堂
大興寺はかつて、真言宗と天台宗、二教の修行道場として栄えていたそうです。
そんな歴史を伝えて、本堂に向かって右には、天台宗第三祖智顗(ちぎ)を祀る大師堂が、・・


弘法大師 大師堂
向かって左には、弘法大師を祀る大師堂があります。


熊野三所権現
弘法大師堂の隣には、熊野三所権現が祀られています。大興寺が別当寺でした。
ただし、神仏分離された今では、熊野三所権現と大興寺は、境内が仕切られています。

ご覧いただきまして、ありがとうございました。
次号では、砥石観音から68番神恵院、69番観音寺へと進みます。更新は11月20日の予定です。

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三角寺から 平山 椿堂 境目峠 池田町佐野

2019-09-25 | 四国遍路

 
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前号からの続きでご覧いただいている方には、申し訳ありません。千枚通本坊・延命寺から、いきなり三角寺までジャンプすることになりました。
ジャンプして飛ばしてしまった部分については、→H24春 ⑧ に、ある程度記しています。よろしければご覧いただきたいと思います。また、できるだけ早くに機会を見つけ、まとめ直してみようとも考えています。


三角寺へ四丁  
三角寺まで、あと四丁です。快適な登りでした。
しかし、その快適さからは想像もつきませんが、澄禅さんは「四国遍路日記」に、次のように記しています。
・・此三角寺ハ与州第一ノ大坂大難所ナリ・・


石段
”与州第一ノ大坂大難所”の故でしょうか、それとも伊予国最後の札所だからでしょうか、(48番西林寺や60番横峰寺の他に)三角寺もまた、伊予の関所寺とされています。関所寺とは、邪心を持つ者を阻んで先に進ませない、関門となる札所で、四国の各国に一ヶ寺あるとされています。
さて、これより関所寺に入りますが、山門に至る石段は、その覚悟のほどを問うているかのように、急です。


鐘楼門 仁王門
 ♫ 通りゃんせ 通りゃんせ
    ♫こわいながらも 通りゃんせ 通りゃんせ


境内
山門をくぐると見えてくる、この境内が、私は好きです。
写真は春・四月の景色で、左奥が本堂、手前が大師堂です。右端の軒は薬師堂だと思います。
なお大師堂は、かつては、この三角寺境内には在りませんでした。四国遍礼霊場記の三角寺図にも描かれてはおらず、今日、大師堂が在る位置には、弥勒堂が描かれています。


旧三角寺大師堂
では、どこに在ったのか。
写真は三角寺奥院・仙龍寺の本堂です。弘法大師を本尊としています。かつては仙龍寺を以て、三角寺大師堂としていました。三角寺と仙龍寺は、札所として一体であったようです。


境内
こちらは秋の景色。左は延命地蔵菩薩。右が大師堂です。
澄禅さんはまた「四国遍路日記」に、・・前庭ノ紅葉無類ノ名木也・・と記しています。前庭がどこを指すのかはわかりませんが、とまれ三角寺の紅葉は、広く知られていたようです。


桜の大枝
本堂へ向かう道に、山桜の大枝がかぶさっています。
この桜は、一茶が句に詠んだ桜だといわれ、樹齢は300年とも400年ともされています。


一茶句碑
  是でこそ 登りかひあり 山桜   一茶
なんと見事な山桜であることよ。・・与州第一ノ大坂大難所・・を登るのは苦労だったが、苦労のしがいがあったというものだ、というような心でしょうか。


四季桜
こちらは、桜は桜でも、「四季桜」です。
秋に撮った写真ですが、桜が花を咲かせています。木の葉色づく中、花を咲かせる「四季桜」です。下に咲くピンクの花は、ヒマラヤ雪の下。


三角池
四国遍礼名所図会に、・・此寺大師十一面の尊像を作り本尊とす。大師の三角の護摩壇有故に三角寺と号す・・とあります。
写真は、三角寺の寺名の由来となった三角の護摩壇の跡で、今は池となり、中之島に弁財天が祀られています。


落書き
讃岐国の男性二人が、(讃岐→阿波→土佐→伊予と周り)三角寺で結願したのでしょう。その悦びを大師堂の壁に、墨書して残しました。
  サヌキ ( 男 姓名 )
  ( 男 姓名 )  拝
  明治廿七年 四月十一日 参ル
  四国巡拝致志候
( 姓 名 )も、堂々と書き記されていますが、念のため伏せ字とします。


駐車場 
石段下の駐車場には、かつては遍路宿や商店が在ったようです。写真奥の民家も、かつては遍路宿だったかもしれません。
駐車場を右に進み、次なる目的地、椿堂に向かいます。椿堂から境目峠を越え、峠を下りた先の宿に泊めてもらいます。


椿堂へ
三角寺-平山間は、今回は近道を行くことにしました。
近道とは別に、駐車場を左方向へ進んで三角寺口まで降り、そこから平山へ登り返す道もあります。私はこの方が好きなのですが、出発前、やや体調を崩していたことを考慮し、近道を選びました。
三角寺口経由の道を逆三角形の下2辺に喩えれば、近道は、上の一辺に当たります。もちろん辺は、直線ではありませんが。


奥の院へ 
H24春、奥院仙龍寺に参ったとき、私は三角寺境内の本殿奥から奥院道に入りましたが、ここにも奥院道への入り口がありました。
道標は古く、川之江市が建てたものです。合併で川之江市から四国中央市になったのが H16(2004)ですから、それ以前のものということになります。というわけで、その頃には在った市民の森は、今は在りません。



平山に向けて進みます。
この道を走る車はほとんどなく、今回、私はスクーターに乗った人に出会っただけでした。峠の家に住んでおられる方のようでした。


分岐
分岐する道は、おそらく、掘切峠に通じる道でしょう。
掘切峠からさらに東進すると水ケ峯地蔵に、南進すると市仲を経て、奥の院に至ります。ただし古い車道ですので九十九折れになっており、長距離は覚悟しなければなりません。
私はもちろん、左の道を進みます。


案内看板
看板は古くなっていますが、奥の二枚は水ケ峯地蔵を、手前の一枚は、奥の院仙龍寺を案内しています。
仙龍寺の文字は消えてしまっていますが、厄除大師、虫除大師の文字が残っています。大師は厄除と虫除五穀豊穣の護摩修行を行った後、ご自身の姿を像に刻んだと言われています。人は、その御自作の像を厄除大師、虫除大師と呼び、仙龍寺のご本尊として祀りました。このお大師さんが、かつて、三角寺のお大師さんでもあったわけです。


水ケ峯地蔵
私は水ケ峯地蔵の近くまで行ったことがあります。急用で急ぎ帰宅しなければならず、手前で引き返したのですが、写真は、その時に写したものです。よろしければ、→H24春 ⑧ をご覧ください。



一巡目、この辺を歩いたときのことです。「寂しさ」のような感情に、とらわれ始めたのを覚えています。
伊予の最終札所を過ぎ、結願が現実のものとして見えてきたとき、結願するのはうれしいけれど、終わってしまうのはさみしい、という感情がわいてきたのでした。
それからの一歩一歩は、これまでの無意識に繰り返してきた一歩一歩とは違い、なにやら愛おしさを感じるような、それであったと記憶しています。


水場
こんな体験を宿で話してみたら、何人かの人が、自分にも覚えがあると応えてくれました。
・・それまでは、歩けばその分、疲れていたんですけど、三角寺を過ぎたあたりからは、むろん疲れはするけれど、心地よかったですね。さあ来いと、お大師さんに呼ばれているような、そんな気がして。


椿堂へ
写っていませんが、手前に、右方向への分岐があります。前記の九十九折れの道につながる分岐です。


嶋屋跡 お小屋倉跡
石柱の左面に、「旅籠屋 島屋跡」とあります。
えひめの記憶に、次のような記述があります。・・平山集落は交通の要所として、かつては宿屋・居酒屋・うどん屋などが建ち並んで、ごく小規模ながら宿場町の形態をなしていた。その平山で最も大きな宿屋が嶋(しま)屋だった・・。
右面にある「お小屋倉」は、土佐藩の施設でした。


茶屋跡
土佐街道の急坂を、石柱から1400㍍ほど登ったところに、土佐藩の「茶屋」がありました。参勤交代の、土佐の殿様の休憩所ですが、これは常設ではなく、殿様がお通りの時のみ、臨時に組み立てていたのだそうです。その木材や用具などを格納していたのが、「お小屋」です。
茶屋の側には、きれいな湧水があったとのことです。


土佐街道
えひめの記憶をふたたび引用させていただきます。・・遍路道と土佐街道は嶋屋の跡地前で分岐する。ここを過ぎてそのまま東に向かうのが遍路道であり、土佐街道はここで南に方向を変え、急峻な平山坂を上って水ヶ峰に達し、さらに新宮村を経て土佐へ達する。
*水ヶ峰とは、前述の水ヶ峰地蔵がある所で、その名からもわかるように、大師の「お杖水」が湧くところです。ただ最近は、ゴミ処理場が近くに出来たことから、お水をいただきに来る人は少ない、とのことです。



「急峻な平山坂」です。


平山バス停
せとうちバスのバス停です。三島駅前と新宮(高知県との県境の町)をつなぐ路線です。前記の九十九折れの道は掘切峠を越えましたが、このバス路線は峠を越えず、掘切トンネルを抜けます。便数は多くはありません。
右に見える、椿堂 常福寺を案内する看板に従い、進みます。案内看板のすぐ先に、半田休憩所があります。


下へ
ヘアピン道をショートカットするため、下に降ります。


沢沿いの道
しばらく沢沿いの道を歩いた後、ヘアピンを終えた元の道に復帰します。


丸金常夜灯
○に金、すなわち金毘羅さんへの信心を表明する常夜灯です。
下部には、読みにくいですが、「へんろ道」の文字が刻まれています。


棚田
横川の集落を抜けると、左の谷側に美しい棚田が見えてきます。
最下部を、先ほどの沢が、川となって流れています。


高知自動車道をくぐる
高知自動車道の下をくぐります。
日帰りで高知に行けるようになりました。土佐街道の厳しさを思うとき、隔世の感があります。


棚田
なお棚田がつづいています。沢(川)も見えます。
この沢は下流の川滝で、金生川に流れ込みます。つまり、この沢は金生川の支流であるわけです。


川滝
川滝の街です。中段右寄りに椿堂 常福寺が見えます。白い塀に囲まれています。走っている大きな道は、西条市と徳島市をつなぐ、国道192号です。
へんろ道の所々に、中央構造線・川滝断層の案内があります。断層の露頭が見られるというのです。これも(ぜひお許しをいただいて)次回、見てみたいと思っています。


秋葉神社
秋葉神社が町を見下ろすように鎮座しています。秋葉大権現は、火伏の神さまです。
災厄から街をお守りくださいと願って、静岡の本社から勧請したとのことです。


椿堂山門
大師は椿のお杖を地に突き立て、猖獗をきわめる熱病を、大地に封じ込めました。やがて椿のお杖は大地に根づき、大樹となって花を咲かせたといいます。
人々はこれを「お杖椿」とよび、此所に社を建て、これを椿堂と呼びました。


本堂  
邦治山 不動院 椿堂 常福寺
本尊は、椿堂の本尊が延命地蔵菩薩。常福寺の本尊が火伏不動明王。


火伏不動尊  
火伏不動尊は、核廃絶の願いを込めて、非核不動尊とも呼ばれています。


道標
椿堂から少し下った角に、茂兵衛道標が立っていました。
実に読みづらい状況になっていますが、雲辺寺と箸蔵寺を案内しているようです。
四国遍礼霊場記に、・・金毘羅は順礼の数にあらずといへども、当州の壮観名望の霊区なれば、遍礼の人当山に往詣せずとうふ事なし・・とあります。箸蔵寺は、その金毘羅の奥の院ですから、多くの遍路がお参りしたことでしょう。


あじさい
箸蔵寺は、神仏習合の寺としても知られています。 →(H21秋 1)



金生川(きんせいがわ)に架かる橋を渡り、国道192号へ出ます。右が上流です。
(前述の)沢の合流点は、もう少し下流です。



国道192号です。
雲辺寺への道は、大きくは三本あります。
まず一本は、この道を上り、七田橋バス停から曼陀峠を越えて、雲辺寺に入る道です。曼陀峠で愛媛県から出、その後は徳島県と香川県の境を歩きます。
二本目は、この道を上がり、境目トンネルを抜けて徳島県三好市池田町佐野に出、雲辺寺に登ります。



三本目は、池田町佐野に出るのは二本目と同じですが、トンネルを抜けず、境目峠を越えます。
私はこの道を行きます。


休憩所
前方に休憩所・しんきん庵法皇が見えます。


峠入り口
境目峠への入り口です。バス停名は「七田」です。


道標
雲辺寺と箸蔵寺が案内されています。


道標
この道標も、雲辺寺と箸蔵寺を案内しています。



山道になりました。


旧国道へ
上がってきたところは、旧国道192号です。
佐野に向かうには、右方向に進みます。左方向に進むと、ヘアピンカーブを繰り返しながら、境目トンネル入り口付近に降りてゆきます。
木製の椅子は、上がってきたお遍路さん用の椅子です。近くの方が作って下さいました。ザックを背負ったまま座れるように、工夫されています。


県境
愛媛県と徳島県の境目です。


県境
県境を示す石柱が立っています。
  従是東 徳島県三好郡


国道192号の標識
石柱の後ろに、古い交通標識が立っていました。
オニギリ型ですから国道を表しています。よく見ると192という数字が読みとれます。まさしくこの道は、かつての国道192号です。



ここは、もう徳島県です。停めてある車も徳島ナンバーになっています。


道標 
直進は佐野への道です。左方向は、曼陀峠に至る道で、七田橋バス停から上がってきた道に合流します。
私は直進します。


国道
下に、現在の国道192号が見えてきました。


トンネル出口
ふり返ると、境目トンネルの出口が見えます。


佐野へ
国道192号に降り、しばらく歩いて、佐野集落へ入ります。


旧佐野小学校
宿はすぐ近くですが、まだ早い時間なので、しばらくここで時間待ちさせてもらいました。
佐野小学校は、H24(2012)休校になり、その後そのまま、廃校となりました。創設は、明治7(1874)。最も早い時期に出来た小学校の一つです。


雲辺寺方向
佐野から見た雲辺寺方向です。
一番右の鉄塔まで山道を登り、林道を3キロほど歩くと雲辺寺です。
明日、登ります。

ご覧いただきまして、ありがとうございました。
次号は、雲辺寺から大興寺を予定しています。更新は10月23日の予定です。

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コメント (4)

西條・室川から旧街道を 新居浜・喜光地 関ノ戸を経て 千枚通本坊・延命寺へ

2019-08-28 | 四国遍路

 
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上室川橋
室川に架かる上室川橋です。遍路道はここから、旧国道(さぬき街道)に入ります。
現・国道11号は300㍍ほど下流を走っており、川には室川橋が架かっています。


室川
室川について、えひめの記憶に次のような記述があります。
・・今から数十万年も前、加茂川・中山川・室川などの河川は、北に開いた湾の海底に土砂を運びました。その遠浅の上に干拓が行われたわけです。この三つの川の集まりこそ、この地方の被圧地下水の構造をつくり、豊富な水量の涵養に大きく貢献していると私は考えております。
*「被圧地下水」は、圧力がかかった地下水の溜まりで、管を通すと、それだけで地下水が自噴します。


西条駅近くの湧水池
西条は、「水の都」と呼ばれるほど、豊かな地下水に恵まれた街です。湧水池や、「うちぬき」と呼ばれる自噴井は、西条の景色となっています。
加茂川・中山川・室川などが造った扇状地は、予讃線、国道11号が走る辺りに扇端があり、湧水池や自噴井は、その辺に分布しています。写真は西条駅近くにある湧水池です。手前に自噴井「うちぬき」があります。


飯岡郵便局
上室川橋を渡った先は、飯岡地区です。飯岡郵便局があります。


西原の大地蔵
郵便局の向かいに、地蔵堂があります。「西原の大地蔵」です。当所の字(あざ)が西条市飯岡西原であることから、「西原の・・」と呼ばれています。
地蔵像は、飯岡の念仏講中が宮島参りの帰途、広島に立ち寄って購入。持ち帰ったものだそうで、「大地蔵」と呼ばれるのは、その際、よほど重かったからでもあるでしょう。


地蔵堂
えひめの記憶に、興味深い記事があります。
・・旧地蔵堂の裏は物置になっていて、葬式道具が納められ、組内に不幸があれば、組中で助け合い子どもも加わって野辺の送りをしていた。
また昭和初期までは春の行事としてお遍路さんのお接待をお堂の前でしていた。お祭りの時は、青年団の素人芝居、時に浪曲などの催しがあって、親類知人を招待し、楽しくにぎやかであった。


お接待堂跡
さらに進むと、こんぴら道標(大門まで17里)が建ち、六地蔵さんが並び、大師堂が建つ一角があります。ここにはかつて、接待堂もあったそうです。
銅板の由来書に、次のようにあります。
・・江戸時代の中頃(1780年代)・・信仰篤き地元の先人たちが浄財を持ち寄り、旅人のひとときの憩いの場所・休息の場所として接待堂を建立し・・側に、旅人が無事結願されることを願い、また行く旅先での安全を祈って六地蔵を、またお大師さんの休憩の場所として、お大師堂を建立した・・


社日宮 八街命
六地蔵、大師堂の向かい側には、社日様と八街命(やちまた命)の小祠が建っています。右が社日様、左が八街命です。
八街は、道が八方に分かれ、迷いやすい所をいいますから、その名を冠した神は、旅人の安全を守る道祖神でしょう。社日様については、たびたび記してきましたので、略します。


くみじ
懐かしいものがありました。所により呼び名は違いますが、この辺では「くみじ」と呼ぶそうです。土地の人に尋ねると、・・字はわからんが、「汲み路」じゃろか、・・とのことでした。
まだ上水道が通っていない頃、家々は水路に沿って並び、各家は「くみじ」から、飲用水など生活用水を得ていました。


くみじ
その利用は、下流の住民への配慮がなされねばならず、厳しく管理されていたといいます。汚水は「吸い込み」と呼ばれる穴を掘り、かならず、そこに捨てました。
・・子供の頃、水道の魚が捕りたくて、つい入ったら、そりゃあ、ひどい目に怒られたんよ。そりゃまあ、そうじゃわいね、飲み水じゃけんね。水争いもあったそうじゃし。・・土地の人の思い出話です。


 
あるお宅の前に菊の鉢がずらり、並んでいました。
これを見て思い出しました。


大輪
以前、秋に歩いた時、見事に咲いた菊を見たのでした。


堂の本の地蔵屋敷
堂の本の地蔵屋敷、と表示されています。
かつて地蔵尊を祀る「屋敷」があり、そこは、お接待の場として使われていたようです。古く、延宝9(1618)建立の記録があるといいます。


道標
側に徳右衛門道標が建っています。
   是より 三角寺マデ 八里・・


祖父崎池
地蔵屋敷の側に、溜め池があります。祖父崎池です。
水面の浮き葉は、ハナジュンサイだそうです。夏、黄色い花を咲かせます。


合流
旧国道と現国道が合流します。
あまり楽しい道ではありませんが、コンビニがあるので、水などの補給には便利です。


国道11号
国道歩きの途中、行政区が西条から新居浜に変わります。
新居浜市大生院(おおじょういん)にある石鈇山正法寺については、 →H30秋4 をご覧ください。


旧街道
国道を2キロほど歩くと、ふたたび道が分かれます。もちろん旧街道を行きます。


祇園社
旧街道に入ると早速、祇園社がありました。
説明看板から引用させていただきます。・・昔、この辺りに一枚のお札が落ちていました。拾い見ると祇園神社のお札でした。その当時、この部落一帯に疫病が流行していて、住民は大変困っていました。住民達はこれを神のお告げだと思い、祇園神社を建立して篤く信仰しました。疫病は治まり、その後も流行ることはなかったそうです。昭和12年(1937)6月に当地知名人・古老が発起人となり、この地の守り神として、祇園神社と彫り込んだ石燈を建立して崇め奉りました。


遍路道標
岸ノ下地区の商店がある角に、遍路道標が建っています。
  是より西 前神寺へ・・
      東 三角寺へ・・
えひめの記憶によると、この辺にはかつて、遍路もよく利用した数軒の宿屋が集まっていた、とのことです。


岸ノ下地蔵堂
さらに進むと、消えかかっていて読みにくいのですが、岸ノ下地蔵堂があります。新居浜八八ヶ所の47番だそうです。
右に、一字一石塔が見えています。


一字一石塔
   天下泰平 国土安全  奉納大乗妙典一字一石塔
と刻まれています。一字一石塔とは、大乗妙典の経文を、小石ひとつに一字づつ書き写して地中に埋め、その上に建てた塔をいいます。
この塔は萩生の酒造会社が、先祖、とりわけ天正の陣(秀吉の四国征伐)を戦った飯尾駿河守義雄を弔い、建立したといわれています。


こんぴら道標
一字一石塔の側のこんぴら道標は、ブロック塀で見えなくなってしまいました。
この前に見た道標が十七里でしたから、たぶん、大門まで十六里、でしょう。


休憩所
一字一石塔の向かいに、休憩所があります。オーナーさんの愛読書なんでしょうか、広い分野の本が、図書館のように並んでいます。
えひめの記憶によると、一字一石塔の西隣りの小さな空き地に、かつて接待のための茶堂があった、とのことですので、この休憩所は、もしかすると茶堂の記憶を継いで、ここに在るのかもしれません。


農学校跡
新居農学校は郡立として、明治34(1901)に設立され、大正9(1920)、現在の新居浜商業高校の地に移されました。
新居浜商業高校は、その沿革をHPで見ると、昭和35(1960)、旧県立農村建設青年隊舎を校舎として設立された、とあります。新居農学校は昭和30年代まで、農村建設青年隊に姿をかえ、存続していたようです。
なお近隣では、新居郡の西隣、宇摩郡にも明治34に、東隣の周桑郡には明治37に、それぞれ農学校が設立されています。


中萩小学校
へんろみち保存協力会の黄表紙地図68-1が、ここ中萩小学校で終わり、遍路道は次の段に移ります。
小学校の手前、萩生(はぎゅう)の北の坊と南の坊は、行ってみたいと思いながら行けないでいる寺です。次回こそは、初日の半日を使って、お参りするつもりです。


喜光地商店街
喜光地(きこうじ)は地名です。喜光寺から来ているといいます。かつて喜光寺という寺があったそうです。
喜光地商店街は、讃岐街道に形成された両側街です。新居浜-別子銅山間の物資輸送路(あかがねの道)と交差するという地の利を得て、古くから栄えてきました。


商店街
今は、ご覧のように、閉じた店も多いのですが、喜光地商栄会は頑張っているようです。
その様子を、次のブログからどうぞ。
  →まちづくり喜光地のブログ


ふれあい広場
ふれあい広場を中心に、夜市・稲荷市、また日曜市など、イベントも催され、賑わっています。


道標
商店街もそろそろ抜けようとする辺り、駐車場の一角に、道標がまとめられています。(実はこれらの道標を私は見過ごしていたのですが、天恢さんのご教示を得て、後に写真を撮ることが出来ました)。
右端と左端に、遍路道標があります。
右から二本目は金毘羅道標で、「こんぴら大門まで十五里」を示しています。
左から二本目は、「土佐国三宝山へ これより十二里」と読めます。三宝山は、どうやら山を挟んだ向こう、土佐郡土佐町にある、三宝山高峰神社を指しているようです。あるいは三宝山地福寺かもしれませんが、いずれにしても喜光地からの距離は、直線距離で30キロほどです。山道ならば12里(48キロ)といったところでしょうか?

 
水利記念碑 
道脇に、水利記念碑が建っていました。
・・當高庭地部落は古来より水利の便悪く、干魃に悩み、部落民一同、常に用水に苦しみたるも、各位の熱意により水源地を当地に設置し、部落民の宝庫として子孫に伝ふ。茲に碑を建て、永久に之を記念す。昭和26年3月
水源地の設置とは、地下水汲み上げ用の、ポンプの設置を意味するのでしょう。ようやく水源を得た喜び、成し遂げたことへの誇り、それまでの苦労が、しみじみと伝わってきます。
そういえば新居農学校の写真にも、背景にポンプ室が写っています。


国領川
その地下水の供給源となっていたのが、国領川です。上流から肥沃な土砂を運んで新居浜平野を造り、山間部に降った雨を伏流水として地下に貯めました。
水を吸い込みやすい地質なので、元々、地表の水量は多くなかったのですが、上流に鹿森ダム(昭和37竣工)ができたことにより、今はほとんど水無川になっています。


国領橋
国領川は、新居浜を分ける縦軸です。橋を渡った先が川東地区(住宅・田園地帯)、手前が川西地区(中心街)です。
横軸にあたるのは、予讃線です。予讃線付近から南側を、上部地区と呼びます。
なお上部地区のさらに南は、別子山地区です。



通学途中の小学生が見えます。船木小学校の子供達です。


観音像
やがて旧道は、またまた国道11号に吸収されます。
すぐ、右側に交通安全祈願の観音像が見えてきます。観音像の先には、坂之下大師堂があります。


坂之下大師堂
坂之下大師堂には、親不孝息子の譚が伝わっています。
・・親不孝の息子にバチが当たり、五右衛門風呂の底板がお尻にくっついてしまいました。お大師さんのご利益をいただいて、底板をとってもらおうと、息子は四国88カ所巡拝に出かけました。
・・そして、ここ20番に来たところで、お大師さんの許しを得ることができ、底板がとれたといいます。しばらく前までは、その底板が奉納されていたのだとか。
坂之下大師堂は新四国88ヶ所の20番です。


国道11号
長い登りです。


金毘羅道標
こんぴら道標です。
  こんぴら大門まで 十四里
喜光地商店街にあったのが、十五里でした。



峠に着きました。峠が関ノ戸と呼ばれているのは、ここに関所があったからのようです。
峠は、かつては新居郡と宇摩郡の郡境。今は新居浜市と四国中央市の市境です。


旧道へ
峠を越えるとすぐ、旧道への分岐があります。現国道から離れます。


関川
やがて川を渡ります。その名は、(前述の)「関」に因んで、関川です。


弘法の館
関川に架かる橋(熊谷橋)を渡った先に、弘法の館があります。休憩所です。中は、整理整頓、清掃が行き届いていました。
トイレは、右に見える民家(おそらくご自宅)に寄せて、建ててあります。さりげないお心遣いを感じます。


熊谷地蔵堂
熊谷地蔵堂です。遠く鎌倉室町時代より、広く人々が無事平安延命長寿を祈願してきた、とのことです。


熊谷地蔵尊
・・大水害の時も、熊谷地蔵尊が自ら御身をもって人々をお救いくださり、常に事故無く私たちを御護り下さる、霊験灼かな地蔵尊・・と刻まれています。


関川の戦い
関川河原で水鉄砲合戦をするのだそうです。ここが古戦場というのでは、ないようです。


関川小学校 校門の桜
樹齢は百年を超えるという桜で、「校門の桜」と呼ばれているそうです。
校内へは、たまたま居合わせた方のお許しを得て入りましたが、門は(かつてどの学校でもそうであったように)広く開かれていました。うれしくなる景色でした。


道標
関川小学校のすこし先に、道標が建っていました。 


道標
 中に大きく、金毘羅へ拾三里
 右に    前神寺へ六里
 左に    三角寺へ五里
 下に    當村 深川幸治清薫建之 



雨が似合うアジサイの道ですが、今年の四国地方は梅雨入りが、なんと6月26日でした。
中旬に歩いた私は、6月というのに、一度も雨具を使いませんでした。


三度栗大師堂
三度栗伝説は各地に伝わっており、ここはその一つです。
弘法大師は、子供たちから栗をもらったお礼に、この辺りの栗の木を三度栗にしてくださいました。年に三度実を結ぶ栗です。
栗は食糧として、また木材資源として、古くから人々の生活に欠かせないものでした。三内丸山縄文遺跡で大規模な栗栽培の跡が発見されていることは、よく知られています。


三度栗大師堂
三度栗大師堂は三度栗山地蔵院といいます。大師堂ですが、地蔵菩薩を祀っています。


予讃線 
国道11号を横断し、関川の支流に架かる木之川橋をわたります。
渡るとすぐ、予讃線の踏切です。


道標
 左 上野を経て 角野 松山道
私が歩いてきた道です。角野は、国領川の左岸にあります。


道標
 右 北野を経て 多喜浜 新居浜 西条
今日の県道138号・新居浜-土居線に相当する道でしょう。多喜浜で壬生川新居浜野田線・県道13号につながります。


県道138号
私は半分迷い気味に、この道を歩いたことがあります。


安養寺
その時に訪ねた安養寺をご覧ください。
阿島川(あしま川)沿いにある真言宗のお寺です。


安養寺
興味深いのは、新居浜八十八か所の札所番号の付き方です。安養寺は2番札所で、その境内に在る大師堂が1番札所になっています。
札所番号から察するに、大師堂が大師聖跡に建ったのが、そもそもの創まりのようです。その後、大師堂を中心に、安養寺が建ちました。寺の創建は、約350年前だといいます。


安養寺
大師堂に伝わる譚を、境内の「護摩池大師霊水功徳記」からご紹介します。
・・当所護摩池大師は宗祖大師廻国修行の砌、里人悪龍の水害に悩めるを哀れみて、護摩秘法を修してこれを封じられ、里人等水害の難を救われし霊跡にして、この聖跡に自ら清水沸きて尽きず。
・・のちの人この清水万病に功験ありとして、四隣より来って汲み皈り(帰り)服する風習、今日に及べり。


写し霊場と大師堂
というわけで、ここのお大師さんは護摩池大師、または地名から阿島大師、と呼ばれています。


大師堂
「寺」と「堂」の関係を語るかのように、両者は、同じ境内に在りながらも、離れています。



閑話休題。話は旧街道に戻ります。
浦山川に架かる、ときわ橋を渡り、・・


踏切
予讃線を越えると、・・


延命寺
延命寺の角です。


延命寺
歌碑や道標を集め、並べています。
是よりこんぴら大門へ十三里、の道標もあります。


延命寺
延命寺は別格二十霊場では、十二番になっています。


道標
かつては「いざり松」また「千枚通し本坊」の名で通っていたようです。
その名の由来を、延命寺公式サイトは、次のように記しています。
・・イザリ松 千枚通本坊は、弘法大師四国御巡錫の際、当寺にて一人のイザリ、松の辺りに有りしを憐れみ給いて、千枚通し霊符を創札され、一枚をイザリにさずけ給いしに、微妙の霊験によりたちまち全快したれば、・・


橋川
・・(イザリは)大師に誦従し、遂に得度を受け法忍と僧名されたり。之より千枚通しの名、我国内外に高く、其の当時の千枚通し今に寺宝として現存す。


誓松  
大師お手植えの松とされ、大松に育っていましたが、昭和47(1972)、残念ながら枯死したとのことです。
いざり松は、また誓松とも呼ばれます。一切衆生を救わんとの、大師の御誓願から来る呼び名でしょうか。
「四国遍礼名所図会」には、・・誓の松(道の左 接待店次にあり、名木結構なり)・・とあります。


藩領境界石標
誓松の側に領界石が建っています。
  従是西 西条領
江戸時代の宇摩郡は、幕府領(天領)と藩領が入り組んでいました。例えば、三角寺村は幕府領で、松山藩の預地でした。延命寺がある土居村は西条藩領で、三島村は今治藩領といった具合でした。
そんなわけで、この先でも思わぬ所で、従是西 西条領の石標に出会います。


藩領境界石標
小林集会所前に石標が立っていました。これより東・・と、これより西・・の二本が立っています。


藩領境界石標
すこし先の寒川郵便局側にも、これより西・・、が立っています。藩領が複雑に入り組んでいることがわかります。

さて、ご覧いただきまして、ありがとうございました。
できれば三角寺までは書き進めたかったのですが、三島までも届きませんでした。
次号は、場合によっては三島までをスキップし、三角寺への登りからはじめることになるかもしれません。
更新は9月25日の予定です。

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氷見御旅所 千人塚 一宮神社 伊曽乃橋 地蔵庵 王至森寺 法性大権現

2019-07-31 | 四国遍路

 
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案内板
石岡神社 の (→H31春 1) 氷見御旅所が案内されています。
秋の例大祭では、石岡(いわおか)の神が幾台ものダンジリに供奉され、御旅所に渡ってこられます。


氷見御旅所
御旅所ではダンジリの「かきくらべ」が奉納されます。御神幸を、いっそう楽しんでいただくためです。
西条ダンジリは石岡神社に始まるといわれますから、その誇りもあってのことでしょう、石岡ダンジリの「かきくらべ」は、他にも増して、力が入っているそうです。
 *「かきくらべ」の「かく」は「舁く」で、「舁き比べ」です。


氷見御旅所
ふだんの御旅所では、お年寄りがゲートボールに興じたりしています。地図上では、新御堂(しみど)公園と表記されています。
「新御堂」は地名ですが、おそらく上掲写真右端に見える、御堂に由来すると思われます。
なお残念ながら、看板に記されたクロマツは、(七本残っているとありますが)全部枯死してしまったそうです。


地名 大久保
御旅所から旧さぬき街道を東進すると、すぐ「大久保」に入ります。


大久保四郎兵衛の祠
大久保に、大久保(の)四郎兵衛を祀る小祠があります。
・・大久保四郎兵衛は天正の陣の際、この地の防衛に当たったが、敵の軍勢を防ぎきれず、高尾城まで後退した。城では石や木材を集めて攻め上る敵に投げ落とし、少数の兵で大軍を防いだ知勇の将である。・・と案内されています。


たごり地蔵
反対の面には、・・ぜんそくの持病があった彼は、地元で、たごりの神様と崇められるようになり、堂内に赤い頭巾と衣を身につけた地蔵さんとして、今でも大切に祀られている。天正十三年(1585)、高尾城にて討死。享年四十五才。・・とあります。
 *たごり地蔵の「たごり」は、「たごる」=「咳をする」、から来ているのでしょう。


千人塚へ
さらに東進すると、千人塚・野々市ケ原古戦場への道標が立っています。天正の陣の古戦場です。
天正の陣は、秀吉の四国平定軍(小早川隆景率いる毛利軍)と、金子備後守元宅(もといえ)率いる地元軍との戦いでした。万対千の戦いで、地元軍に勝ち目はないと思われ、実際、当初は降伏論が優勢だったと言います。
にもかかわらず徹底抗戦したのは、「意地」だったのかもしれません。総大将・金子元宅は、・・昨日は長宗我部に手を下げ、今日は小早川に腰を折り、他人に後ろ指をさされんことは心苦しきなり、・・と言って、諸将に徹底抗戦を説いたといいます。


田圃
衆寡敵せず。敗色濃厚となる中、地元勢は残存兵力を高尾城に集結。いよいよ抗しきれぬと見るや城に火を放ち、退路を断って、野々市ヶ原に打って出ました。
最後の玉砕戦を挑んだ、と言えるでしょう。ご覧いただいた四郎兵衛の祠や、これからご覧いただく供養塔などは、いずれも、高尾城あるいは野々市ヶ原で討死した将兵を弔うものです。この道のこの辺は、天正の陣最大の激戦を戦った地元軍の、供養の道ともなっています。


地蔵庵浄光寺
道標の先に浄光寺があります。
浄光寺は、野々市原で討ち死にした江渕城主・塩出善五郎を供養して、享保11(1726)、建立されたそうです。本尊は地蔵尊で、善五郎の子孫が江戸から、背負い持ち帰ったと伝わります。
なお浄光寺は、明治30(1897)、善五郎の子孫・塩出家から、野々市集落に移管されています。「私」の先祖供養が、野々市集落という「公」に共有されました。


忠魂碑
浄光寺の角には、日清、日露、大東亜戦争、それぞれの忠魂碑が建っています。
手前が日清戦争の碑で、だんだん大きくなって、一番奥が大東亜戦争の碑です。
「私の死」に向ける視点が一元化されてゆく、その様が見えるようです。



道標に従って、南方向(山の方向)に曲がり、千人塚に向かいます。


漆喰塀
漆喰塀の家がありました。(H30秋 4)の土居構で見た、漆喰塀の断面がよくわかります。


千人塚史跡公園
千人塚周辺は、今は公園として整備され、塚や碑やが建っています。


千人塚
千人塚は首塚です。この地で秀吉軍の大将・小早川隆景による首実検が行われ、首級がここに葬られました。
首実検とは、討ち取った敵の首級を総大将自らが検分し、その真偽を定め、戦働きへの論功行賞を行うことをいいます。主従関係確認のための重要な儀式で、勝利の儀式でもあります。


生子山城主の碑
  生子山城主 松木三河守安村公之碑
碑文(裏)によると、昭和9年(1934)7月17日、安村公の子孫が、公の戦没350年の忌辰(命日)に當り、建立したとのことです。
安村の討死は、野々市ケ原とも川之江仏殿城 (→H24秋遍路) とも言われていますが、7月17日が命日ということは、ここでは野々市ヶ原討死説をとっています。仏殿城だと、命日は8月5日になると思います。


千人塚 四百年祭碑
  天正の陣 野々市原古戦場  千人塚四百年祭
天正の陣が天正13(1585)。その400年後の昭和59(1984)、四百年祭が行われました。


400年祭供養塔
  天正之陣 四百年忌 戦没 殉死 被災 諸霊追善供養塔
高尾城を捨てるにあたって、もはや戦えぬ負傷兵、婦女子の多くが自決したといいます。こういうことを指して、「殉死」と言っているのでしょう。


阿弥陀堂
阿弥陀堂は、平安時代末期の創建と考えられています。
平成6(1994)建て替えの際、「吉祥寺末庵 蓮花院阿弥陀如来堂再建」と記された、嘉永5(1852)の棟札が見つかったそうです。


今井玄蕃頭祠
阿弥陀寺の傍に、今井玄蕃頭の祠があります。
今井玄蕃頭(げんばのかみ)は、剣山城城主・黒川美濃守道博旗下の武将で、この人もまた、野々市ヶ原で討死しました。剣山城の黒川氏については、 →H30春 8 でふれています。



今井玄蕃祠の奥に見える藤棚(ノダフジ)です。
藤といえば、氷見御旅所傍の民家にも、見事な藤棚があります。


こんぴら道標
旧さぬき街道ですので、こんぴら道標が建っています。
  こんぴら大門迄 十九里


丹民部守神社
丹民部守越智清光は、(遠隔地の)久万鄕笠松城城主でしたが、祖母が横山城主・近藤家の出身であった縁で金子方に与し、高峠城に入城しました。
横山城は、高峠城の、加茂川を挟んだ対岸にある山城です。今はその下を、松山自動車道の横山トンネルがぬけています。


丹民部守神社・民部さん
丹民部守は野々市ケ原の玉砕戦で、敵将・吹上六郎と組み合ったまま落馬。あろうことか、自分の家来に討たれたと言われています。民部は「吃音」だったため名乗りが遅れ、家来が我が主と気づかず、刺してしまったようなのです。また落馬は、足の負傷を押して出陣したため、踏ん張りがきかなかったからだといわれています。


丹民部の墓・民部塚
そんなことがあって、丹民部は死後、吃音や足弱の神様として、信仰されています。
なお、民部は家来によって討たれたのではなく、吹上六郎と差し違えたのだ、との説もあります。が、この場合でも、民部神への信仰には、変わりはありません。


一宮へ
丹民部守神社からすこし引き返して南方向へ上がってゆきます。一宮神社に向かうためです。
農作業の方に出会うことが出来たので道を確認すると、・・その道を左に曲がり、すぐ右に曲がって上ると、その先が「一宮さん」です。・・とのことでした。
「一宮さん」と呼ばれているのですか、と尋ねると、・・ええ、私らはそう呼んどりますが、と答えてくださいました。
写真右は、一宮神社 参道改修記念碑 です。


一宮神社
・・大三島の神さまを勧請しているのでしょうか?
・・さあ、そのへんは、わかりませんが。
さて、この神社の一宮神社という社名は、どこから来ているのでしょうか。


拝殿
西条市の観光物産協会HPは、この神社について、次のような記事を載せています。
・・(この神社は)古代より橘郷を代表する郷社で、大山祗神他一神を祀り、橘新宮神社と結びついていた。その後大山祗神は大三島に遷り、臍の緒の神のみを祀る村社となるが、その後は不明。


奥殿
ある時期、・・大山祇神他1神を祀っていた、・・とHPは記しています。この記述に拠れば当神社は、大山祇神社の分社として、一宮神社と呼ばれているのかもしれません。
しかしHPはまた、・・その後大山祗神は大三島に遷り・・とも記しています。大山祇神がお還りになったので、この神社は・・臍の緒の神のみを祀る村社・・となった、というのです。


折敷に縮三文字
では、もう大山祇神は祀られていないのかというと、奥殿の棟には今も、大山祇神社の社紋・折敷三文字がついています。
おそらく私が知らない経緯があるのだと思います。いつか調べてみたいと思います。なお一宮神社は新居浜にも、もう一社あります。


石岡神社の杜 
一度、旧街道まで降りて、石鎚神社へ向かいます。
下っていると、石岡神社の社叢が見えました。見事な社叢です。


石鎚神社
石鎚神社については、前に記したことがあります。→H24春遍路 6 →H30秋 4
茶臼山の石鎚神社や、 樋山地の石鎚神社についても、よろしければご覧ください。 →H27春 12 →H26春 その5


日野駒吉像
前神寺についても、前に記しました。石鎚神社と同じ号です。
ここでは、参道に建つ日野駒吉さんの像にだけ、ふれておきます。
日野駒吉さんは明治生まれ。昭和26(1951)に亡くなるまで、生涯を大師信仰にかけた方です。(H30秋 3)でふれた、横峰寺道に立つ舟形地蔵丁石のほとんどは、日野さんが建てたものだそうです。


日野駒吉像台座
日野駒吉さんは、「寿し駒」の通り名で呼ばれていました。「寿し駒」は、日野さんが営んでいた、すし屋さんの屋号です。
墓石には「真徳院篤信居士」と、台座には「日野篤信居士参拝記念」と刻まれています。いずれにも含まれる「篤信」は、字のごとく、信仰が篤いことをいいます。篤信の生涯を送られたということです。



前神寺を過ぎると、次の当面の目標は、伊曽乃橋です。加茂川に架かる橋です。


高峠
高峠が見えてきました。
山上に高峠城があり、この城が細川氏の付家老・石川氏の居城であったことは、 →H30秋4で記しました。
天正の陣では、総大将・金子元宅が入城。この城で総指揮をとっています。(前述した)徹底抗戦の衆議は、高峠城でなされました。


水路
田植え期でもあり、水量が増えています。


水路
水はもちろん、加茂川からの取水です。加茂川は、石鎚山脈岩黒山に水源をもっています。


土居構
右手に土居構が見えてきました。土居構は、高峠城主・石川氏の、平時の館でした。


土居構
奥が正門につづく道、手前は脇門につづく道です。


土居構
石積みがきれいに残っています。


登り道
土居構の前の道です。この道を南に上ると、(前号でお伝えした)真導寺、保国寺、伊曽乃神社に至ります。


八堂山
八堂山が見えてきました。この山沿いを加茂川が流れています。


加茂川へ
加茂川の堤防に上る坂です。


八堂山 加茂川
伊曽乃神社の例大祭フィナーレでは、向こう側の土手に80台ものダンジリが並び、宮入りする神輿を見送るそうです。
宮入りを阻もうと、河原に降りてくるダンジリもあるそうです。神輿を囲み、もみ合うそうですが、その景色は西条市民の、次なる祭を待つ心情に重なるのだといいます。今日が終われば、次の祭まで365日。祭好きの西条市民の、カウントダウンが始まるわけです。
なお河原に降りてくるのは、神戸地区(かんべ)のダンジリに限られているそうです。神戸は、伊曽乃神社が鎮座する地区です。


伊曽乃橋
伊曽乃橋はメロディー橋とも呼ばれるそうです。欄干をバチでたたきながら歩くと、「ふるさと」が奏でられます。
伊曽乃橋は昭和58(1983)、架け替えられましたが、その前は、一銭橋とよばれる木製の、手すりもない橋だったそうです。橋の渡り賃が一銭だったことからついたと思われます。



武丈公園を抜け、山沿いの道を行きます。


山沿いの道
この辺では、山沿いの道に平行するように、旧讃岐街道が走っています。現在は国道11号となり、車が多い道ですが、実はこちらの方が、遍路道としては古い道です。
常夜灯など、石造物も残っているとのことですから、いつか歩いてみたいと思っています。


大木
ただ、やはり車は苦手で、ついついこの道を歩いてしまうのですが。


雨水
土佐漆喰で見られる、水切り瓦のような働きをするのでしょうか。


地蔵庵
・・地蔵原地蔵庵はその昔、弘法大師が四国巡錫の砌、この地にて一夜で地蔵尊を石刻安置されたと伝えられています。霊験灼にして、爾来参詣者が跡を絶たず、人々は宇堂を建設し、いつの頃からか、この地を地蔵原と呼ぶようになった・・とのことです。


案内
道前病院と王至森寺が案内されています。
道前病院の「道前」は、道前平野の道前で、松山の道後平野の道後と対になっている地名です。道前-道後をつなぐ桜三里については、何回か記してきました。
道前平野の中心都市は西条市で、加茂川、中山川、大明神川など、お馴染みの川が造る平野です。西部の中山川流域を周桑平野、東部の加茂川流域を西条平野と、わけて呼ぶことが多いようです。


王至森寺
王至森寺(おしもり寺)は、・・舒明天皇(7C前半)が道後への行幸の途中、暴風雨に遭い、森の中の寺で難を避けられたところから、王至森寺といわれるようになった、・・との伝説があるそうです。
  ご詠歌: ありがたや たつあらなみを しづめつつ み船導く 森のともしび


キンモクセイ
境内のキンモクセイは、モクセイとしては珍しい巨木で、昭和2(1927)、国の天然記念物に指定されたそうです。
高さ16メートル、根回り4メートル。開花時には、4キロ四方に香が広がるといいます。


山門
扁額「法性山」は、小松藩三代藩主・一柳直卿(なおあきら)の筆になるといいます。広く知られた能筆家で、前号で記した仏心寺の扁額も、直卿の筆でした。


大師堂
大師堂への石段です。王至森寺は真言宗真言宗御室派の寺で、本尊は大日如来です。


境内
大師堂から見た境内です。左の大きな建物が本堂。


鳥居
大師堂への石段と平行して、法性大権現への参道があります。


神社へ
これが最後の石段。75段あります。後述しますが、きれいに掃き清められています。


拝殿
法性大権現は、大威徳明王とも呼ばれ、そのお姿は六足六面六手。多くの場合、水牛に乗っています。泥田をものともせず歩く水牛に乗って、大威徳明王は、どこへでも来てくださるわけです。
六足は六波羅蜜を歩み続ける決意を、六面は六道の隅々までを見通す願力を、六手は(その手に武器をもて)法を守護する力を、表しています。


清掃
参道を一人、拝殿から下まで、掃き清めている方がいました。氏子さん(79才)だそうで、月一回、半日かけて掃くのだといいます。
凹みに入った落ち葉を掃き出すには、箒は少し減っている方がよく、そのため新しい箒を使い初めるときは、すこし先を切るのだといいます。


へんろ道標
さて、ご覧いただきまして、ありがとうございました。
次号も、引き続き伊予路を東進します。三角寺までカバーできるでしょうか?
更新予定は、8月28日です。暑さ厳しき折柄、くれぐれもご自愛下さい。

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コメント (3)

伊予小松 氷見の街 篤山遺跡など 63番吉祥寺 石岡神社

2019-07-03 | 四国遍路

 
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茂兵衛道標
初日の半日を使って、小松から氷見の街を歩いてみました。
写真は、珍しい中務茂兵衛道標です。小松駅西側の、一本松踏切側にあります。
鳥居の柱を再利用したらしい円柱道標で、しかも上にお大師さんの座像が乗っかっています。


茂兵衛道標
宝寿寺と香園寺の方向を、指差しで案内しています。
ただし、この「宝寿寺」は、一之宮神社の南に隣接して在った頃の宝寿寺です。讃予線(当初は予讃線ではなかった)敷設に障るとして、宝寿寺が現在地に遷されたのは、大正10(1921)のことでしたから(H30秋 2)、道標が建立された明治34(1901)には、まだ宝寿寺は、一之宮神社の南隣に在ったわけです。


茂兵衛道標
江戸期まで一之宮神社の別当寺であった宝寿寺は、明治初期、神仏分離→廃仏毀釈で廃寺となりました。
しかし明治10(1877)、神社の南隣に寺地を得て再興。
その後、大正10(1921)、現在地に遷されるという経緯をたどりました。それにしても札所を移動させてまで線路を通すとは。讃予線建設熱の高さが、わかろうというものです。


小松小学校
小松小学校は、旧藩校・養正館の流れを汲む、「一番学校」を前身とするそうです。(H30秋 1)でもふれましたが、明治5(1872)、学制発布を受けて設立された学校です。
その後、養正学舎など、いくつかの改称を経て、明治23(180)、小松尋常小学校となり、小松小学校に至っています。
校地は、当初は養正館の跡地に在りましたが、昭和11(1936)、現在地に移転しています。


小松小学校の近藤篤山像
小松小学校校門脇に、近藤篤山先生(とくざん先生)の肖像が在ります。後述しますが近藤篤山は、藩校を養正館(ようせい館)として再生した、江戸期の儒者です。
像には、「伊豫聖人 近藤篤山先生肖像」のプレートがあるのみですが、察するに、子たちに「孝養」の大切を教えているのでしょうか。



小松小学校から、古い道を通って、西方向に向かいます。


西の地蔵
讃岐街道沿いに、地蔵堂がありました。
この地蔵について、えひめの記憶は次のように記しています。
・・(地蔵は)、享保8(1723)に天然痘が流行した際、町人町の人々が藩の許可を得て、悪病の侵入から小松の町を守ってもらうことを祈願して建立したものです。
小松の街を守っていただくべく、お地蔵さんは、街の四方、東西南北に建立されました。それらは今も全部、残っており、写真は、西の方角を守ってくださる地蔵さんです。


西の地蔵
・・「お地蔵さん」が建立された場所を地形図上に示してみると、現在の小松町の中心街の領域とほぼ変わらないことが分かる。
現在の小松町は広い範囲にわたっていますが、藩政時代の「小松」は狭く、現在の小松町の中心街のみを指していました。その範囲を守るべく、町人たちは地蔵菩薩を建立し、結界を張ったわけです。


小松川橋
小松の西を限ったのが、小松川でした。
写真は、小松川に架かる小松川橋です。(H30秋 3)でもご覧いただきましたが、この橋を渡り香園寺に参ったのでした。


墳墓入り口
橋の傍に「篤山先生墳墓」の案内があります。
この道を入ると、(写真を撮り忘れたのですが)、前方に県立小松高校が見えてきます。丘の上に建っています。
   小松の芽立ち さはやかに
   道前の野は展けたり
   若人集ふ この岡や
   名も養正と 呼ばれつつ
この丘を小松高生は、「養正ケ丘」(ようせいケ丘)と呼んでいます。小松高校もまた、近藤篤山が築いた藩校・養正館の流れを汲む学校であるようです。
なお私たちは遍路として、小松高校が一時期、子安高校と呼ばれていたことを、知っておきたいと思います。小松高校は養正館とは別に、子安大師=香園寺とも、深いかかわりを持っていました。


篤山近藤先生墳墓
篤山先生墳墓は、養正ケ丘の中腹、小松高校通学路の脇に在ります。
案内してくださった処の人が、・・実はこの方との話に夢中で、写真を撮りはぐったのですが・・いろいろ話してくれました。
・・小松高校は、ええ学校よ。受験勉強もするけど、「養正チャレンジ」いう勉強(探求活動)もしとるんよ。それに、県立で夏の甲子園にも出たし。文武両道よ。
・・夜8時頃、部活の子らがねえ、この道を帰るんよ。今どきの子じゃけん、懐中電灯じゃなく、ケータイで道を照らしてな。皆、挨拶してくれるよ、ハッハッハッ。


近藤篤山墳墓
墓地には、養正館教授を継いだ篤山の長男・近藤南海、次男・近藤簣山(きざん)など、篤山に連なる方々の墓も見えます。ただし(後掲しますが)、ご両親の墓は、ここにはありません。


顕彰碑
近藤篤山は江戸後期の朱子学者であり教育者。「徳行天下第一」と評され、「伊予聖人」と尊称されたといいます。
藩校である養正館の門戸を、藩士のみならず農家や商家の子弟にも開いたことは、特筆すべき功績であったと思います。
写真は、墓地の脇に立つ、篤山顕彰碑です。「昌平」などの文字が見えます。養正館を昌平黌式に整えたことに、かかわるのでしょうか。


仏心寺へ
養正ケ丘を下り、小松川沿いに仏心寺に向かいます。
案内してくださった処の人たちが、遠くになるまで見送ってくださり、”そっちじゃない、川沿い川沿い!”などと、声を送ってくださいました。
因みに、この方々は私と同い年でした。”健闘”を誓い合って、お別れしました。


ハグロトンボ
川沿いの道を、ハグロトンボがヒラヒラと飛んでいました。
近頃はトンボ自体が珍しくなっていますが、中でもハグロは、久しぶりに目にしました。これはオスのようです。


仏心寺
小松藩2代目藩主・一柳直冶が、慶安3(1650)、一柳家の菩提寺として建立したとのことです。
慶安3年は、初代藩主・直頼の、七回忌の年でした。


山門
山門は四脚門です。藩政時代は小松陣屋の城門でした。明治に入って、仏心寺に移築したと言われます。やはり惜しんだものと思われます。
保存を願って移築した同様の例は、今治城の城門を54番延命寺に移築したなど、けっこう多くあります。


扁額
山門にかかる扁額は、三代藩主・一柳直卿(なおあきら)の揮毫になる、真筆だそうです。直卿は書家として知られていたといいます。


本堂
仏心寺には「ちんちゅう狸」の譚が伝わっているそうです。
・・剣道好きの狸がいて、夜な夜な本堂に入り込んでは、練習していました。誰もいないはずの本堂から聞こえてくる音に、すっかり小僧さん達は怯えていたといいます。
和尚さんが一計を案じ、道場代わりの小屋を建ててやると、「ちんちゅう狸」はそっちが気に入ったらしく、本堂での稽古はピタリと止んだのだそうです。
ただそれだけの、なんてことない譚ですが、なんとも可愛い狸の譚ではあります。


沙羅双樹
境内の沙羅双樹(対になった沙羅の樹)です。
・・釈迦がインドのクシナガラ城外で入滅したとき、その床の四辺にはえていた沙羅双樹のうち、各一本は入滅を悲しんで枯れ、別の各一本は枯れず、花を咲かせつづけたと言われています。


供待ち
「供待ち」が残っています。仏心寺は藩主家菩提寺でしたから、お供が待っている所(供待ち)が必要でした。


御霊屋門
境内から墓地につづく門を、御霊屋門(みたまや門)というそうです。藩主家墓所に通じる道に建っていたものを、明治に入り、仏心寺に移したといいます。
藩主家の御紋が鴨居に抜かれています。


仏心寺橋
山門を出ると、小松川に仏心寺橋が架かっています。
渡った先が、行き止まりであるかに見えるけれど、・・


枡形
実は、道が鈎の手に折れているのでした。
小松の街は小松藩陣屋を中心とする、いわば城下町でしたから、当然、外敵への備えとして、道は通り抜けにくくなっています。この道は、菩提寺と小松陣屋を結ぶ道ですから、なおさらです。


一直線の道
小松の街に初めて、障害のない一直線の道が通じたのは、大正15(1926)のことでした。小松橋の竣工とともに、旧国道11号(讃岐街道)が通ったのでした。
大正末期、おそらく国鉄小松駅開業を大きな契機として、小松の街は激変したようです。


常磐神社
その様子を簡単な年表で示してみます。
  大正10(1921) 宝寿寺移転
  大正12(1923) 国鉄予讃本線開通、伊予小松駅設置
  大正13(1924) 常磐神社を創建。
  大正15(1926) 小松橋竣工。初めての一直線の道(旧国道11号)が小松を貫通。
写真は、大正13に創建された、常磐神社です。えひめの記憶によると、・・小松の各所に奉齋されていた夷子社、天満宮、金刀比羅社、飯積社、荒神社を合祀して、・・創建されたといいます。有り体に言えば、開発の邪魔になるので「まとめた」ということでしょうか?


伊予小松教会
常磐神社の隣にある伊予小松教会について、えひめの記憶が次のような記事を載せています。ぜひ知っておきたい話なので、そのまま転載させていただきます。
・・小松においては、町民の有志が集まり「善道会」なる団体を組織し、各戸の軒々に「善道会員の章」なる木札を掲げ、キリスト教の集会ごとに罵言・乱暴、石を投げ込み、ために鮮血を流すものもあり、また、信者の家(中水真則)に火をつけ、危うく焼失するところ、家人これを知って未然に防いだということもあった。
・・しかして、投げ込まれた大中小の石は数百を超えたが、これを敷石として小松教会は教会堂を建築した。これはキリスト教史上、有名な話となっている。


本禅寺
小松駅前通を南に進むと本禅寺があります。浄土宗の寺です。


篤山両親墓
ここに篤山の父母が眠っています。左が父、右が母とのことです。
墓石は、篤山墳墓のものと同じ、屋根型をしています。わかりませんが、儒式なのでしょうか?


近藤篤山邸
本禅寺の道を挟んだ側に近藤篤山邸があります。
が、私が訪ねたときは、残念ながら開いていませんでした。


近藤篤山生誕の地
なお篤山先生生誕の地は、この先、土居町の遍路道沿いにあります。


集会所 神輿倉
進路を東に変え、旧小松藩の藩政の中心・陣屋跡に向かいます。
集会所と神輿倉が見えてきました。


旧藩集会所
「旧藩集会所」とあります。「旧藩」は地名です。この辺が、旧藩の中心中の中心だったということでしょう。


陣屋跡
小松藩の陣屋跡です。


陣屋見取り図
小松藩は明治までつづきましたから、この陣屋も、初代藩主・直頼が築いたものが、基本的には残っていたはずです。
明治に入って壊されましたが、その時、陣屋門などいくつかは、仏心寺などに移されています。


養正館跡
篤山が築いた養正館が、ここに在りました。


藩境
旧藩を東に少し行くと、小松と氷見の境となる道があります。つまり小松藩と西条藩の境でもありました。
右が西条藩領、左が小松藩領でした。写真奥に小さく、常夜灯と藩領境界石標が写っています。


常夜灯 藩領境界石標
常夜灯と領境界石標です。


藩領境界石標
是従東 西条領 とあります。
今は小松も氷見も西条ですから問題はありませんが、この石標は、かつての小松藩領に立っています。本来は道の反対側に立っているべき石標ですが、道路を拡幅したとき、こちら側に移したのでしょう。詳細が、手前の石柱に刻まれています。


東の地蔵
小松藩領に入ってくる’悪しきもの’を見張るように、東の地蔵さんが立っています。おそらくこの地蔵さんは移されていないでしょう。


大庄屋高橋家
小松から氷見に入り東進すると、大庄屋高橋家があります。大屋根に櫓がついています。
高橋家は江戸時代、19カ村を取り仕切る大庄屋でした。先祖は、氷見高尾城主・高橋美濃守政輝ともいわれています。天正の陣(秀吉の「四国征伐」)で討ち死にしたと伝えられる武将です。(後に再び登場します)。
なお、高橋美濃守に高尾城籠城を命じたのが、トンカカハンに唄われる金子の殿こと金子備後守元宅でした。(H30春 8)郷土軍の総大将です。


高橋家
さて、高橋家の塀沿いに道を下ると、・・


真宗の寺
浄土真宗の覚法寺があり、その門前に米穀屋さんがあり、小さな公園があり、そこから少し入ると、・・


柴之井
柴之井(しばのい)があります。水大師さん、お加持水、長寿水などとも親しみ呼ばれているとのこと。
野菜を洗ったり洗濯したり、また井戸端会議をしたり、日常的に生活上の水場として使われていたようです。
霊場記に、・・(宝珠)寺を去ること一町ばかり上に、柴井と号し名泉あり。大師加持し玉ひ清華沸き溢る。村民大いに利とす。・・とあります。


安政の道標
柴之井から63番吉祥寺へ向かうと、安政の道標がありました。
「左 へんろ」と見えます。反対側には「逆 へんろ」と刻まれています。


吉祥寺山門
63番札所吉祥寺のご本尊は、札所で唯一、毘沙聞天です。寺名の吉祥は、毘沙聞天の妃神とされる、吉祥天に因んでいるのでしょう。
左右の象は、浄水を金瓶に汲んで吉祥天に浴びせるという、天の象かもしれません。


本堂
吉祥寺の興りは、寺伝では次のようです。
・・弘仁年間(810-823)、光を放つ檜を見つけた大師は、毘沙聞・吉祥天・善賦師童子(ぜんにし童子)の像を刻み出し、小祠に安置。ここに吉祥寺は始まる、とのことです。善賦師童子は毘沙聞と吉祥天の子とされています。


福聚閣
その後の吉祥寺について、四国遍礼霊場記(寂本)は、次のように記しています。
・・当寺、むかしは今の地より東南にあたり十五町ばかりをさりて山中にあり。堂塔輪奐(りんかん)として梵風(ぼんぷう)を究む。
 *輪奐は、建築物が広大でりっぱなこと。 梵風は、大般若経の転読がおこす風。


題 巡りゆく思い
現在地より南東の地にて、吉祥寺は栄えていましたが、
・・天正十三年毛利氏当初、高尾城を攻めるの時、軍士此寺に乱入し火を放ち、此時本堂一宇相残り、仏具典籍一物を存せず燬撤す。
秀吉軍(具体的には毛利氏の小早川軍)は、高橋美濃守(大庄屋高橋家の先祖とも言われる)が籠もる高尾城を攻め、そのとき、同じ山中にあった吉祥寺にも火を放ちました。寺は本堂のみを残して焼失。仏具典籍は破壊されてしまいました。


成就石
・・それより今の地に本尊を移し奉る。
本尊は助け出されて、(霊場記には記されていませんが)麓の大師堂に移され、祀られていたようです。
現在地に吉祥寺が再建され、本尊を迎え奉ったのは、万治2(1659)になってのことといいます。


寺の下
吉祥寺から北に下ると、「寺の下集会所」があります。「寺の下」は、この辺の地名です。
「寺」はもちろん、吉祥寺を指しており、この地域が吉祥寺を中心に構成されていることがわかります。


徳右衛門道標
吉祥寺の北側に徳右衛門道標があります。
  これより前神寺へ二十丁
次の札所、前神寺を案内しています。


茂兵衛道標
やはり北側の角に、茂兵衛道標があります。
右面の指差しは宝寿寺、左面は吉祥寺方向を指しています。
北側に在るこれら二基の道標は、いずれも今では、遍路が目にすることの少ない道標です。


苗代
6月中旬から下旬にかけてが、この辺の田植えの時季です。
多くの場合、麦を取りいれ、この時季に、田植えをします。刈り入れは10月頃のようです。麦ではなく、ホーレンソウなどとの二毛作もあるようです。
写真奥に吉祥寺本堂の大屋根が見えています。



植えたばかりの田です。ちょっと寂しいのは、田圃に虫たちがいないこと。いないから、ツバメの姿も見えません。水面すれすれに飛ぶツバメを、よく見たものでしたが。


天恢さんが見た、伊予桜井駅のツバメ
天恢さんのコメントにある、伊予桜井駅で撮ったツバメ夫婦の巣作りです。
ツバメは、カラスなどを近寄らせないよう、ギリギリ人間に接近して、子育てをします。人間の怖さを利用して、子を天敵から守るのです。
しかし近頃、人はツバメが近寄るのを嫌います。写真でも以前の巣が払われています。こういうことは、昔はしなかったものです。なにせツバメの巣は、家運隆盛の印でしたから。


石岡神社鳥居
吉祥寺が別当を務めていたという、石岡神社(いわおか神社)を訪ねてみました。
「いわおか」は「祝いケ岡」の転だと言われています。新羅征伐から凱旋し、応神天皇を無事出産した神功皇后は、その帰途、当地にて天神地祇の奉祀をおこないました。そのことから当地は「祝いケ岡」と呼ばれるようになり、それがやがて「いわおか」に転じたのだと言います。
応神天皇(誉田別尊)など諸神を祀ることから、江戸末期までは、石岡八幡宮と呼ばれたそうです。


石岡神社参道
石岡神社の社叢は見事です。
またまた天正の陣の話ですが、この辺一帯に火がかけられたとき、社叢は延焼を食い止めるに役立ったと言います。多くの耐火樹が含まれているのでしょう。


石岡神社の社叢
遠方から見た石岡神社の社叢です。


石岡神社
石岡神社は西条ダンジリ発祥の神社といわれ、西条祭のなかでも石岡神社大祭は、伊曽乃神社の祭りに次ぐ、大きな祭だとされています。
・・享保19(1734)のこと。石岡神社の宮司が河内の誉田八幡宮と応神天皇陵を奉拝した折、同宮のダンジリを見て帰り、吉祥寺住職の協力で竹のダンジリを作ったのが、西条氷見ダンジリの始まりである。その後、小松西条へと広がった。(境内の由緒書より)
宮司と住職が協力し合っているのが、面白いですね。


参道
一週間という短い時間での更新作業でした。そのため、やや手抜きの感もあります。ご容赦ください。
次の更新は、7月31日の予定です。氷見から東進します。

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二巡目の阿波路 (2) 地蔵寺から安楽寺 十楽寺 熊谷寺 法輪寺 切幡寺 善入寺島

2019-05-15 | 四国遍路

 
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地蔵寺
第2日目(平成20年10/22)晴のち雨
今日は、地蔵寺から切幡寺へ撫養街道を上り、切幡寺から吉野川河岸段丘を下って吉野川を越え、11番藤井寺近くの宿まで、27Kほどを歩きます。
ふつうに歩けば16:00頃には着けると思うのですが、さて、私たちの場合はどうでしょうか。私たちは二人とも、明るいうちには着けないだろうとの予感をもっています。あちらに引っかかり、こちらに引っかかりして、なかなか進まないからです。なかでも善入寺島・・吉野川の川中島・・では、遅々として進まないでしょう。


通学
上板町を歩いていると、神宅小学校の子供達が通学していました。
神宅小学校は、上板町神宅(かんやけ)字 喜来(きらい)という、なんとも目出度い所にある学校です。


御輿台
御輿台がありました。プレートには読みにくいですが、・・御輿台 平成二年度 葦稲葉・殿宮神社 祭礼記念・・とあります。 
おばあさんに尋ねると、・・昔は人が担いだが、今はね、人がおらんで、車で運んできたりするんよ、・・と話してくれました。


御輿台
平成3(1991)、御輿台ができた翌年、バブル経済が崩壊。日本は就職氷河期をむかえました。地方の若者は(希望に満ちてではなく、食うための仕事を求めて)都会に出ましたから、御輿の担ぎ手が、なかなかいないわけです。
この御輿台は、おそらく最後の御輿台でしょう。この後、御輿台が造られることは、もうなかったと思われます。


葦稲葉・殿宮神社
葦稲葉神社と殿宮神社の拝殿です。向かって右に殿宮神社(とのみや神社)の扁額が、左に葦稲葉神社(あしいなば神社)の扁額がかかっています。
拝殿は一つですが、奥殿は分かれており、殿宮神社は素盞嗚命、葦稲葉神社は葦稻葉神(倉稻魂命)と鹿江比売神(草野姫命)を祀っています。


神社御造営記念碑
  殿宮神社 葦稲葉神社 御造営記念碑
・・葦稲葉神社は葦稲葉大明神と号し、倉稻魂命、鹿江比売命を、殿宮神社は素盞嗚をそれぞれ主祭神として奉祀せり。神宅の地名も亦 当神社と由緒浅からぬもの有り。この三社大明神 特に式外社とす・・とあります。


殿宮神社扁額
殿宮神社と葦稲葉神社の二社を、「三社大明神」と呼んでいるのは、葦稲葉神社を、鹿江比賣神社(かえひめ神社)を合祀した神社と考えているからです。二社でも、元をたどれば三社なので、三社大明神となります。
神宅の地名由緒については、いまだ定論がないからでしょうか、「当神社と由緒浅からぬもの有り」と記すにとどめています。


地神さま
神社の境内に五角柱の石塔があります。「地神(じしん)さま」ですが、私は「社日(しゃにち)さま」と呼んでいました。
五角の各面に、農耕にかかわる神の名が刻まれています。
  天照大神(太陽の神)。
  大己貴命(おおなむち命・大国主命の別名で、国造りの神)
  少彦名命(すくなひこな命・大己貴命を助けて国造りをした神。穀物の神)
  埴安媛命(はにやすひめ命・ 土に宿る神)
  倉稲魂命(うかのみたま命・五穀をつかさどる神)


地神さま
地神さまは、春の社日に山から下りてこられ、秋の社日に、豊作を見とどけた上で、山に帰られます。
社日とは、春分、秋分の日に一番近い戌の日をいい、したがって、年に春秋の二回あるわけです。


別格一番大山寺へ
鹿江比売命を祀る葦稲葉神社があったので、近くに大山祇神社があるかもしれない、・・なんて考えながら歩いていました。鹿江比売命は大山祇命の妃神なので、妃神の近くに夫神がいらっしゃるかもしれないと思ったのです。
そしたら別格一番大山寺登り口がありました。同じ「大山」なので、ちょっとびっくりでした。


別格一番大山寺へ
ただし大山寺は、「おおやま寺」ではなく、「たいさん寺」と読みます。
前述の神宅小学校校歌には、・・窓のむこうの 空高く 大山(おおやま)さんが そびえてる・・という一節があるので、地元では「おおやまさん」との呼び名もあるようです。これに従うと大山寺は「おおやまでら」ですが、大山祇神社との関係は意味しません。


鶏頭
鶏頭はアジア、アフリカの熱帯地方原産と推定されているそうです。
日本へは奈良時代に、中国を経由して渡来したとのこと。もうすっかり、日本の景色に溶け込んでいます。私の好きな花です。


六番安楽寺
蜂須賀・徳島藩には、駅路寺という制度がありました。真言宗の8ヶ寺が駅路寺として指定され、旅人・遍路に宿泊の便を供していたのです。安楽寺は、その駅路寺の一つでした。
ただし、旅人の’ため’に設けられた駅路寺制度が、同時に旅人情報の収集、監視など、治安維持のためのものでもあったことは、記しておかねばなりません。こういうことは幕藩体制下、むしろ公然と行われたことでした。


安楽寺多宝塔
安楽寺には立派な宿坊があります。最大収容350名とのことです。素泊まりも受け入れてもらえます。さすが駅路寺400年の伝統を継ぐ宿坊です。
写真を撮り忘れましたが、宿坊の玄関には、○に卍(蜂須賀家の家紋)入りの提灯が掲げられています。安楽寺がかつて駅路寺であったこと、そして今も、その伝統を継いでいることの証です。


安楽寺宿坊
宿坊写真が手に入りましたので、追加掲載させていただきます。上掲記事を読まれた天恢さんが、送ってくださった写真です。
玄関の両脇に、○に卍の提灯が写っています。


安楽寺本堂
四国遍礼霊場記(寂本)には、・・もとは安楽寺といひしを、太守より寺費を付けられ瑞運寺と改むとなり。・・とあります。
一時期、寺名は瑞運寺でしたが、その後、再び安楽寺に改められたようです。「太守」は、蜂須賀氏をいうのでしょう。



安楽寺で若い野宿遍路に出会いました。30数日で結願し、大窪寺で出会った自転車遍路から、不要になった自転車をもらい、ここまで乗ってきたのだといいます。
結願して思ったことは?との問いに、・・ああ、終わった、でした、・・と答えてくれました。何かと浮かんでくるのは、これから、なのでしょう。
靴は一足ですんだそうですが、底を見せてもらうと、ほとんど引っかかりはないほどにすり減っていました。
ご苦労様でした。


七番十楽寺
安楽寺や十楽寺の山門は、「竜宮門」と呼ばれています。(私たちが絵本で識る)竜宮に似ているので、そう呼んでいます。
似ているのは、似せて造ったからではなく、それぞれが同時代の建築物をモデルとしたからです。山門は中国の明朝建築を模して造られ、竜宮も、明朝建築にモデルを求めて絵本に描かれました。よって結果として、両者は似ているわけです。



七番から八番へ向かう辺りに、「御所」という土地があります。写真を撮り忘れましたが、「御所」を冠した公共施設、たとえば御所小学校とか、御所郵便局などがありました。
御所の地名は、この辺に土御門上皇の行在所 (配流先の仮宮)があったことに由来するのだそうです。土御門上皇は承久の乱(1221)で、自ら配流されることを望み、初め土佐に配流され、後に阿波に移されました。


上皇の「火葬場」
撫養街道の阿波神社には、上皇の「火葬場」があります。


サトウキビ畑
阿波といえば藍が有名でしたが、阿波和三盆もまた、よく知られていました。讃岐和三盆と競争する中、品質を高め、藩財政を支える主要産業として成長しました。
私たちはH13(2001)の初めての遍路で、幸運にも老夫婦が続ける和三盆の作業所を畑の中に見つけ、和三盆を食べさせてもらったり、サトウキビをいただいたりしたのでした。


サトウキビ
二巡目の遍路では、あの作業所をなんとか見つけたいと探したのでしたが、見つかりませんでした。その後も見つかっていません。あの家内工業的な和三盆造りは、もう見られないのかもしれません。


売り地
歩いていて、売り地、売り家の看板が多いのに気づきました。
おりしもサブプライム破綻に端を発したリーマンショックの激震が、世界を揺さぶっている最中でした。しばらくは売れないだろうな、などと話し合ったのを覚えています。


三木武夫像
佐藤栄作後継をあらそった三角大中福の「三」、三木武夫さんは、阿波市土成町吉田(つまりこの辺)の生まれです。なお因みに阿波市土成町は、かつての板野郡御所村です。
北さん曰く・・三木武夫に「先生」がついていないのは、睦子夫人が、「先生」はよしてよ、などと言ったからじゃないか。文字は、弟子とされている海部俊樹さんだろうな。
三木さんはハト派イメージの政治家で、ライバル・後藤田正晴さんは「ゴートーだ」などとヒール役にまわされていました。後藤田さん、けっこう筋の通った政治家だったと、私は思っているのですが。後継の息子さんは知りませんが。


運動会
幼稚園で運動会が開かれていました。
かつては幼小中高校とも、正門は常時開かれていたものでした。ましてや運動会ともなれば、地域住民に向けて全開されていたものです。
しかし残念ながら、殺傷、破壊、盗撮、窃盗などを含む、校内侵入事件が多発するなか、今や門は閉ざされ、関係者以外の立ち入りは禁じられています。私たちが入場を許されたのは、遍路姿のおかげでした。
因みに池田小学校事件の発生は、これより7年前、平成13(2001)のことでした。


足洗い場
タイルの足形が、なんとも可愛らしく、写しました。
ふだんの庭遊びは裸足なのでしょう。いいことです。足裏に地面を感じる心地よさは、私たちもよく知っています。


道標
この頃、NHK‐BSで、「四元奈生美の四国遍路に行ってきマッシュ!」が放映されていました。「マッシュ」は「スマッシュ」から来ており、四元さんが元卓球選手であることに因みます。
薄くなった遍路標識の塗り直しは、たしか四元さんの番組でも紹介されました。
なお、「徳さん(徳光和夫さん)のお遍路さん 四国八十八カ所 心の旅」は、これより4年後のH24(2012)の放映です。


道標
この頃、五鈷杵をモチーフにした道標を多く見かけていました。電柱やガードレールなどに黒スプレーで吹き付けたもので、その安直なやり方に、私はとても違和感を覚えていたのでした。
写真は、不法投棄された自動車に吹き付けた「遍路道標」です。やはりこの人達の感覚はおかしかった。


多宝塔
八番熊谷寺(くまだに寺)の多宝塔です。
昭和55(1979)の修理記念碑に、・・熊谷寺多宝塔は、宝永3年建立であり、四国地方最古の歴史を誇ります。・・とあります。


熊谷寺
地形を上手く利用した伽藍配置が、私は好きです。弁天様を祀る熊谷池も印象的です。
四国遍礼霊場記(寂本)には、・・境清幽にして、谷ふかく、水涼し。南海一望に入。・・とあります。


熊谷寺
ただ、スピーカーから流れるご詠歌は、ありがたいような、ありがたくないような。どちらかと言えば、ありがたくないですね。肉声ならば大歓迎ですが、文明の利器というのはどうも。


仁王門
貞享4(1687)の建立。徳島県指定有形文化財だそうです。
その大きさには圧倒されます。・・桁行9㍍、梁間5㍍、高さ13メートル。江戸期の山門としては四国随一の規模を誇る・・とのことです。


仁王門
一巡目も二巡目も、歩いているうちいつの間にか、境内に入ってしまいました。
二巡目こそ、山門から入り山門から出るつもりでしたが、果たせませんでした。では三巡目はどうだったか。
首尾は H26春 その2 をご覧ください。


九番 田中法輪寺へ
田圃の中に1ヶ所、杜が見えます。法輪寺です。
四国遍礼名所図会に、・・当寺(法輪寺)田野はさめり。田中法輪寺といふ。・・とあります。
四国遍礼霊場記にも、・・此地山とほく、田野はさめり。・・と同様の記述があります。
・・山とほく、田野はさめり・・かつての景色に通じるところのある、今日の景色です。  


山門
とはいえ田中法輪寺も、四国八十八ヶ所霊場会のHPによると、・・古くは「白蛇山法林寺」と称され、現在の地より北4キロほど山間の「法地ヶ渓」にあって、壮大な伽藍を誇っていたと伝えられる。・・とのことで、山間の法林寺であったようです。
法林寺跡地には、・・礎石や焼土がのこっており、これは天正10年(1582)の戦乱のさいに長宗我部元親による兵火で焼失した遺跡である。・・そうです。
なお四国八十八ヶ所霊場会のHPは、最近新しく作り替えられています。ここでは宝寿寺の記事は除かれ、代わって第62番としては、「礼拝所」が紹介されています。


川端龍子作 第九番法輪寺
川端龍子さんの「第九番 法輪寺」の絵が、納経所にありました。
許可を得て撮らせていただきました。・・山とほく、田野はさめり・・の景色が描かれています。


川端龍子作 第九番法輪寺
これは天恢さんからいただいた写真です。
上掲写真と同時期、同じ場所で描いたものと思われます。川端さんは田中の法輪寺がお好きだった、と聞いています。
  十月の 櫻たまはる 札所かな
「十月の櫻」が季語。冬桜。


本堂九番
この辺りから雨になりました。雨具を着けていないと濡れてしまう、そんな降りです。
雨を避けるつもりもあって、法輪寺側の店で「たらいウドン」を食べました。


たらいうどん
実は私は、「たらいうどん」はチェーン店の名前かと思っていました。「たらいうどん」の看板がいっぱいあったからです。
そのことを話したら、隣で食べていた野宿遍路が、・・私もそう思ってました!と口を挟んで大笑い。これじゃ、まるで月極(げっきょく)駐車場チェーンだねと、ふたたび大笑いでした。
ウドンの下に写っているのは、お接待でいただいたヨモギ餅と蒸しパンです。これを見たウドン屋の女将さん曰く、・・これ美味しいのよ。私、これを売っている店、知ってる。和三盆を使ってるの。・・



雨で水たまりが出来ています。けっこうな降りでした。
・・どうせ降るなら、もっと早く降り始めてくれれば、・・
雨の中に立つ熊谷寺仁王門が見られたのですが、残念です。あの仁王門、雨中に在って、もっとも魅力的だとは思いませんか。


お相撲さん
かつての門前町がしのばれる道を歩くと、石段下に巡拝用品店があります。写真は、その店の看板です。
お店の屋号が「相撲屋」なので、お相撲さんの看板というわけです。代々、草相撲の世話役をしてきたことから、相撲屋の屋号がついたのだそうです。


十番切幡寺
新しい山門が建っています。歩きの人は山門を抜け、333段の石段を上がります。
車の人は、山門の右側を迂回すれば、向こう側に駐車することができます。そこから石段を上がるか、さらに車で本堂近くまで上がるかは、足の調子次第、ということでしょうか。


石段
石段の途中に、かなり足が弱っているらしいおじいさんが、いらっしゃいました。一段一段、長い休みをとりながら、上っています。
付き添いの息子さんは、上まで車で行こうと話したそうですが、おじいさんは、どうしても自分の足で上りたいと、聞き入れなかったそうです。おじいさんには、なんとしてもお大師さんに伝えたい「思い」があるようです。そのことを息子さんもわかっているので、手伝っているのでした。


本堂
九番までの寺名は、聞けばそれなりに納得できるものでした。しかし「切幡」の寺名由来は?これは知らないとわかりません。
四国遍礼霊場記によれば、・・大師初めてここにいたり給ふ時、天より五色の幡一流降り、山の半腹にして其幡ふたつにちぎれて、上は西の方へ飛ゆき、行衛しらず、下は此山に落ちける。怪異の事なれば、是を伝んとて、大師寺を立切幡寺と名づけ玉ふとなん。・・だそうです。
また他に、機織り娘が大師に、衣服を繕うための布を差しだしたという、由来話も伝わっているそうです。


スーパーで
スーパーの一隅で、土地の人たちとの雑談が始まりました。
・・橋下さん(当時の大阪府知事)は、わしゃあ、よーやっとると思うよ。
・・ただ幼稚園の芋掘り、あれはイカンかったぞ。
・・そう、あれはやりすぎよ。
・・うん、やりすぎた。
この会話、もうわからない人がほとんどなんでしょうね。それにしても、この地元スーパー、いまも頑張っていてほしい。


吉野川堤防
吉野川堤防の階段です。切幡寺から約3K、長い下りをおりてきました。


振り返り見た景色
堤防の上から切幡寺方向をながめ返してみました。前景の山と後景の山が重なっている辺りに、切幡寺があるのだと思います。


振り返り見た景色
天恢さんからいただいた写真です。ほとんど同じ構図ですが、画面中央部の山腹に、切幡寺が見えています。
・・誰もが何となく振り返ってみたくなるところかも知れません。・・と添え書きがありました。


吉野川
潜水橋(大野島橋)を渡った先が、日本最大の川中島・善入寺島(ぜんにゅうじ島)です。
善入寺島を歩き、向こう側に架かる潜水橋(川島橋)を渡ると、対岸の堤防があり、そこが吉野川市です。


向こうの山
吉野川市は平成16(2004)、鴨島町、川島町、山川町、美郷村が合併し発足しました。
新市名を募集したところ、もっとも多かったのが「麻植市」(おえ市)で、「吉野川市」は二番目だったのだそうです。
なぜ麻植市が落とされたか、わからぬでもありませんが、それにしても残念だなあ。「麻植」は、前号でも記しましたが、天富命(あめのとみ命)、忌部氏、大麻比古神社などに由来する、由緒ある地名です。
なお、吉野川北岸は、阿波市です。


潜水橋
徳島では潜水橋(潜り橋)と、高知では沈下橋と呼んでいます。


流れ
吉野川の流れは善入寺島にぶつかって二つに分かれます。
写真は吉野川左岸寄りの流れです。写真右が善入寺島になります。


残そう善入寺島
藤井寺まで6.5キロ 結願と旅の安全をお祈りします。・・とあります。



善入寺島は、かつては粟島(あわ島)とよばれ、それは阿波の語源であるともいわれています。


寺跡
善入寺島に住む人は、今はいませんが、かつては(大正時代の吉野川改修工事までは)、約3000人が住んでいたそうです。学校や寺社もあったといいます。
それらについては 下の各号に記しましたので、よろしければ、ご覧ください。
  H26春 その4     川島橋附近 藤井寺 焼山寺道 
  続  高越山       高越寺 高越神社 忌部氏遺跡の「石」
  H26春 その3      高越山 忌部氏の里 鴨島
  H26春 その2      安楽寺から市場町 善入寺 高越山 



善入寺島の大きさを思わせる、長い一直線の道です。


洪水
3年前、H17年の大雨では善入寺島が冠水。その水位は、電柱に見える横線の辺りまでだったといいます。むろん畑は全滅しました。
・・大きな石に埋まることがなく、ガラばかりだったのは、不幸中の幸いだったよ。それに洪水は、悪いことばかりじゃないのよ。栄養たっぷりの土を上から運んでくるからな。


川島橋
藍は’土地枯らし’といわれ、連作が難しい作物とされていました。その藍の連作を可能としたのが洪水であったとは、知らないことでした。


上流
吉野川右岸側の流れです。上流方向を撮っています


下流
下流方向です。


渡し舟
これより3日前の10/19(日)、この船を使って昔の「渡し舟路」が復元されたのだそうです。その時の船頭さんのひとりが話してくれました。


吉野川市
対岸に着きました。堤防を上がります。


川島橋
善入寺島と吉野川右岸を結ぶ、川島橋です。この橋を渡ってきました。


休憩所
堤防の上に遍路休憩所があり、側で、バイクで廻っている方が泊まる準備をしていました。テント泊のようでした。
休憩所内には、フカフカに乾いた布団も用意されていました。

さて、暗くなりました。急がねばなりません。
タクシーを呼ぶつもりでいると、先ほどの船頭さん夫妻が、宿まで送ってくださるといいます。甘えてしまいました。


天気予報
明日の焼山寺越えは、雨のようです。
7年前の焼山寺越えは雪でした。因みにこれより6年後の、単独での焼山寺越えは大雨で、最後の急坂では、道はまるで沢でした。さすが「遍路転がし」。易々とは通してくれません。

ご覧いただきましてありがとうございました。
次回更新予定は、6月26日 です。二巡目の遍路 阿波路(3)として、遍路転がしでの出会いなどをお伝えしたいと思います。

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