楽しく遍路

四国遍路のアルバム

45番岩屋寺 三坂峠 46番浄瑠璃寺

2024-09-04 | 四国遍路

 
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  このアルバムは、平成22年の遍路アルバムを、リライトしたものです。
  そのため、令和6年の現状とは異なる、写真や記事内容が含まれています。
  その点、ご注意ください。

 平成22年(2010)7月15日 第五日目のつづき

岩屋寺への移動
前号は、上黒岩岩陰遺跡を見学し、タクシーで45番岩屋寺へ移動するところで終わりました。
今号は、岩屋寺にお参りするところから始まります。その後は、ふたたびバスで国道33号に戻り、そこからは歩いて三坂峠を登ります。目的地は峠の上の宿・桃李庵です。


岩屋寺
岩屋寺で、東京からおいでの青梅さんと出会いました。区切り遍路5日目にして、始めて出会った歩き遍路さんです。彼もまた話に「飢えて」いたらしく、互いに引き寄せられるように、挨拶を交わしていました。
青梅さんがお杖を二本持っておられるので、事情を尋ねると、
・・一番から歩いて来たのですが、途中、足を痛めてしまいました。なんとかならないかと整形外科を訪ねてみましたが、「この状態でまだ歩くつもりですか」とあきれられるばかり。


岩屋寺
・・もう駄目かと断念しかかったのですが、知り合った先達さんに相談すると、「お杖を両手に持ちなさい」と勧められ、試しにやってみたのです。
・・そしたら、うれしいことに、なんとか歩けるんです。
なるほど、ダブルストックがロングトレイルに効果的であるように、お杖も二本にすればよい、ということでしょう。二本にすれば、脚や腰にかかる負担が軽減されるばかりでなく、バランスもとりやすくなり、推力も得られます。


岩屋
加えてお杖には、ストックにはない有り難さがあります。
私たち遍路にとって、お杖はお大師さんです。おそらく青梅さんは、・・お大師さんに両側から支えられている・・との思いから、歩く勇気と新たな元気を、奮い起こすことができたのです。
青梅さんは、素晴らしい助言をいただいたのだと思います。むろんだからと言って、「お杖二本」が常態化してよい、と言うのではありません。四国遍路の基本は、やはり、・・お杖片手に、お大師さんに語りかけながら歩く・・なのでしょうから。


大師堂
連日の雨の中、青梅さんは過酷な遍路旅をつづけてこられました。
しかし、雨には上がってほしいけれど、上がれば上がったで、今度は炎帝が、青梅さんを焼くことになります。梅雨明けは、もう間もなくなのです。(実際、これより2日後の7月17日、梅雨が明けました)。
この後も過酷な日々がつづくのは、確実です。青梅さんの無事な結願を、心から願いました。


下山
さて、お参りを終え、お別れです。青梅さんが下山しました。今夜は久万の宿に泊まるとのことでした。
私はバス時間がまだなので、すこしゆっくりしました。
脚を痛めている青梅さんが歩いて、たかだか疲れている程度の私がバス利用とは、ちょっと恥ずかしくも思いましたが、計画してあったこととて、勘弁したもらいました。


二本のお杖
青梅さんの二本のお杖です。
バスが青梅さんを追い抜くとき最後尾から手を振ると、青梅さんも二本のお杖を振り上げて、応えてくれました。一期一会。忘れられない出会いです。


直瀬川
さて、岩屋寺の記事が青梅さんとの出会い話に終始し、岩屋寺の縁起などにふれることができませんでした。これらについては、→(H16春6) →(H28秋4) に少々記してありますので、こちらをご覧いただければ幸いです。


高野口
バスで河合の「高野口」にやってきました。
高野口で下車したのは、当初は、ここから「千本峠越えの道」を行く計画だったからです。今夜の宿・桃李庵さんの、・・千本峠は、雨の後は特に、止めた方がよい・・との助言を受け入れ、断念したのでしたが、せめて遠望だけでもしてみたいと考え、下車したのでした。
なお、この道は、『えひめの記憶』を読んで知りました。河合から千本峠を越え、高野→槻之沢(けやきの沢)とたどって、土佐街道(松山道)の仰西→高殿(後述)へと出る道です。


大宝寺口
ただし、下車はしたものの、残念ながら収穫はありませんでした。
どこが千本峠かもわからぬまま、県道12号(西條-久万線)を下ってゆくと、大宝寺口の標識がありました。朝歩いた参道に直交する道です。
思えば朝から、大宝寺と岩屋寺がつくる大信仰空間の外周を、乗り物利用ではありましたが、回ってきたのでした。たまにはこんな一日もあってよい、そんなことを思い、気を取り直しました。


千本峠・高野への入口・平成28年撮影
(先のことになりますが)私はこの6年後、平成28年(2016)、千本峠→高野への入口を確認。登ろうとしましたが、またもや、土地の人の・・止めときな、もう何年も台風で崩れ・・との忠告を受け、断念することになります。→(H28秋 4)


皇太神宮
土佐街道(松山道)に出たので右折すると、久万伊勢大神宮がありました。扁額は「皇太神宮」となっています。どうやら御師(おし)(伊勢神宮の場合は、おんし)の滞在所から興った神社のようです。
愛媛県神社庁のHPは、次の様に記しています。
・・明治初年神宮教の久万山布教所となり、同15年あらためて伊勢より天照皇大神、豊受大神の分霊を勧請した。同32年9月本教の解散によって、神宮奉斎会久万支部として発足し、昭和21年神宮奉斎会は解散。同27年宗教法人久万伊勢大神宮として新発足した。
 

千本峠?
未練たらしく、千本峠かとも思える辺りを、撮ってみました。


国道33号
土佐街道(松山道)は、すぐに国道33号に合流しました。土佐街道が国道33号に吸収された、とでもいいましょうか。これからは33号を歩いて、三坂峠を越えます。
写真の看板「一里木」は、遍路宿です。青梅さんがお世話になるようでした。私の宿・桃李庵は、三坂峠の上にあります。


採石場
山が削られています。まだ現役の採石場です。予定通りに千本峠越えの道を歩いていたら、私はこの採石場の下に降りてきたと思われます。
この山はまた、大除城(おおよけ城)という山城が在ったことでも知られています。その築城期は不分明ですが、中世、河野氏が一条氏の侵攻に備え築城したとの考えが、もっとも有力のようです。松山への入口に城を構えたわけです。
とすると、この一条氏は、三代・基房の一条氏でしょうか。幡多に根拠を置く一条氏は、基房の時、版図を最大に広げ、伊予南部へも侵入する勢いを示しています。豊後国・大友氏と連携してのことでした。


仰西(こうさい)渠
江戸中期、元禄(1688-1704)の頃、この辺の農民は農業用水の不足に苦しんでいたそうです。いえ、水そのものは久万川を流れているのですが、取水がむずかしく、困っていたのです。
久万川の支流で西明神を流れる天丸川を堰き止めて取水し、数十本の樋をつないで水を引いていたのですが、洪水があれば堰が壊されたり、樋が流されたりしていたようです。その度に作り直さなければならず、その作業は大きな負担になっていたといいます。


暗渠
この窮状を打開せんと立ち上がったのが、山之内彦左衛門光実(仰西)でした。商人だったとのことですが、姓、諱をもつところから察して、由緒ある豪商であったと思われます。馬具を商っていたともいいます。
彦左衛門は、樋をつなぐのではなく、河床の安山岩を掘削して、恒久的な用水路を通すことを考えました。私財を投じて人夫を雇用し、自らも鑿と槌を手に、働いたとのことです。人夫へは、砕いた岩一升と引き換えに、米一升を与えたといいます。野中兼山の「計量場」に通じる手法です。→(H27秋2)


水路
その規模は『えひめの記憶』によると、・・長さ57メートル(うち12メートルは暗渠)幅2.2メートル、深さ1.5メートルで、上手は川水を取り入れ下手は田の用水路に結び、入野村久万町村25町歩の水川を養っている。・・とのことです。
工事期間は3年。その間の散財で、さしもの豪商も倒産していたといいます。


仰西渠之碑
山之内彦左衛門は、若い頃から大宝寺に出向いて法話を聞くなど、信仰心が深く、また商売の傍ら、土木工事に関心を持ち、工法、見積もりなどを学んでいたといいます。
そんな彼なればこそ、と言えましょうか。彼は「仰西渠」の他にも、三坂峠の「鍋割の険」(後述)や、(前号で記した久万落合の)「切石」の改修。また久万町に法然寺を建立するなど、いくつもの、今で言う「公共事業」を手掛けています。
なお彦左衛門は、今は「仰西」と呼ばれるのが普通ですが、「仰西」は、彦左衛門晩年の、念仏行者としての号です。


高殿宮バス停
高殿(こうどの)にやって来ました。高殿神社が在るところですが、高野口から始まる「千本峠越えの道」の終点でもあります。なお、バス停の名は高殿宮(こうどの宮)となっていますが、「高殿神社」が、現在の正式名です。


高殿神社(こうどの神社)
祭神は、高御産巣日神(たかみむすひ神)です。天御中主神(あめのみなかぬし神)、神皇産霊神(かみむすひ神)と共に、「造化三神」とされています。
この神は、・・(今はアマテラスが最高神とされているが)元々はタカミムスヒが最高神だったのではないかという説もあり(立正大学「造化三神とアマテラス」)・・と言われるなど、実に興味深い神ではあります。因みに、・・苔のむすまで・・の「むす」は、「たかみむすひ」「かみむすひ」の「むす」から来ています。
当神社へは、「明神右京」なる人物が、日向の高千穂から勧請したと伝わりますが、この「明神右京」は、44番大宝寺の縁起にも登場する人物です。寺-社の信仰上のつながりがうかがえます。


拝殿
寺-社のつながりを見るため、霊場会のHPから、大宝寺の縁起を引用させてもらいました。
・・飛鳥時代になって大宝元年のこと、安芸(広島)からきた明神右京、隼人という兄弟の狩人が、菅草のなかにあった十一面観音像を見つけ、草庵を結んでこの尊像を祀った。ときの文武天皇(在位697〜707)はこの奏上を聞き、さっそく勅命を出して寺院を建立、元号にちなんで「大寶寺」と号し、創建された。
なお、明神兄弟が菅草の中で見つけたという十一面観音像は、大和朝廷の時代、百済から聖僧が携えて渡来、この山中に安置したものだった、と伝わります。


工事中
国道33号線三坂峠のトンネル工事です。開通後は「三坂第一トンネル」となります。
トンネル建設の経緯を調べてみると、この写真撮影時点で、トンネル自体は貫通しているようですが、ご覧のように、まだ供用はされていません。
後のことになりますが、「三坂道路」は、平成24年(2012)、全線開通し、国道33号の名を引き継ぎました。「三坂道路」開通で取り残された形の、旧33号の区間は、440号と名前が変わっています。ただし、その前身を懐かしみ、「旧33号」と呼ぶ方が多いようですが。


桃李庵へ
三坂道路との分岐点を過ぎて100㍍余歩くと、桃李庵の案内がありました。ここを右に入ります。桃李庵は、車遍路にも歩き遍路にも、好都合の位置に在ると思われます。



右に入って行きます。


宿 
この頃、桃李庵は、オープンしてまだ間もなく、まだ「協会地図」にも記載されていませんでした。
むろん道案内はしっかりしており、迷うことなく着くことができました。


宿
訪うと、ご夫婦で迎えてくださいました。入浴後、ビールを頼むと、またお二人で運んでくださいます。恐縮。しかし、暖かくてうれしい。
ビールを飲んでいる間、ご主人が話し相手になってくれました。
宿の名前の由来、どんな宿にして行きたいか、千本峠道の話、裏山に道をつけて国道33号(440号)につないだ話、菅直人さんが泊まった話などなど、しかし一番うれしかったのは、宿泊した鯖大師さんの一行に気仙沼さん →(H20秋3) が加わっていて、それをご主人が覚えていてくれたことでした。思わぬ所での気仙沼さんとの「再会」に、私はすっかりうれしくなり、すぐ電話を掛けたりしたものでした。

  平成22年(2010)7月16日 第六日目

お接待
お接待に、ペットボトルのお茶を凍らせて、持たせてくれました。
右のビニール袋は、お楽しみ袋になっていて、各種取り合わせていました。(何が入っていたかは、メモがなくなり、残念ながら今はわかりません)。



ご夫婦とお別れし、出発です。
宿の裏山を越えます。



昨晩話題となった鯖大師さんの遍路札が掛かっていました。


国道33号
国道33号(三坂道路が開通している今は、この道は国道440号になっています)に降りてきました。
次掲の六部堂の、少し手前です。


六部堂
先に「千本峠越えの道」を『えひめの記憶』の記述から知ったと記しましたが、実は『えひめの記憶』は、もう一本、久万から三坂峠に出る道を紹介しています。「六部堂越えの道」です。コースの概略は、・・河合から有枝川を遡り→明杖(あかづえ)→六部堂越え→川之内→急坂を下り、国道33号の六部堂に至る。・・となっています。
(遍路は、今はほとんど通らないようですが)山歩きの人たちはよく歩いているらしく、「ヤマップ」「ヤマレコ」などには、山行記がいくつも紹介されています。国土地理院の地図で、地名を追うことが出来るので、私もいつか歩いて見たいとは思っています。もちろん、その前に「千本峠」を越えなければならないのですが。


あじさい
「六部」は六十六部の略で、六十六部廻国聖を指しています。法華経を書写し、全国六十六の霊場に納めて歩く、廻国の宗教者です。
この辺が「六部堂」という地名で呼ばれるのは、江戸時代、六十六部廻国供養塔が当所に建てられたことに発する、とも言われています。ただし、その「六十六部廻国供養塔」が誰を供養しているのか、誰によって建てられたかなどについては、(私には)わかっていません。おそらくは大きな不幸があり、その供養にと何方かが全国を廻国。その結願を記念して建てられたものと想像しますが、根拠はありません。
なお、この辺で六部の活動が活発であった背景には、大宝寺の存在があったと思われます。大宝寺は、法華経を奉納する全国六十六納経所の一でもあったそうです。


茶堂風の休憩所
屋根の傾斜や桟の様子から、当地では冬季に積雪があることがうかがわれます。
  三坂越えれば 吹雪がかかり 戻りゃ つま子が泣きかかる
三坂峠の降雪は、昔の馬子唄にもうたわれているくらいですが、にもかかわらず、これを中央の官僚さんたちがなかなか理解してくれず、上京した三坂道路建設陳情団の人たちは苦労したのだそうです。『えひめの記憶』が、そんな苦労話を採録しています。 


三坂峠
三坂峠のバス停です。標高710㍍。久万高原町と松山市の境になっています。
このJR四国バスは、松山-久万高原を結んでいたと記憶します。前号に記した上黒岩遺跡に行くバスは、久万高原-面河を結ぶバスで、JR四国バスト伊予鉄バスの二便が走っていました。
なお、松山から面河への直通便は、横河原を経由するバス便があったと記憶します。(最新の情報をご確認ください)。


境界
これより松山市です。


旧道へ
町境から、旧道へ入ります。
(昨日歩いた)久万の街から峠までの区間では、旧土佐街道の松山道は、ほとんどが国道33号に取り込まれ、消滅していました。しかし、今日歩く峠-松山平野では、旧道が長く残っているのです。
写真奧に・・通行できません・・の看板が見えますが、支柱部分には・・歩行者は通行可能です・・との但し書きがあります。


通行可
こんな大きな看板もありました。


松山方向
三坂峠から見る松山方向です。


旧道
昨日岩屋寺で別れた青梅さんが思い出されました。
今頃どこら辺を歩かれているでしょう。三坂峠の麓、「一里木」さんに泊まられたようですから、もう仰西渠は過ぎているでしょうか。


鍋割り坂
(前述の)山之内仰西さんが改修してくれた、「鍋割坂」です。おかげさまで、楽に歩くことができます。
なお「鍋割坂」の名は、・・自炊用の鍋を背負って歩いていたお遍路さんが足を滑らせ、その鍋を割ってしまったことからくる・・とのことです。そんな難所だったということでしょう。たしかに、此所は急坂です。


四阿
この四阿は、石鎚信仰の一ノ王子社があった場所に建てられている、とのことです。
石鎚山山頂に至るまで、点々と在ったはずの王子社ですが、残念ながら今は、その在った場所さえ不明となっているそうです。→(H28秋5)


前方
だいぶ降りてきました。 上掲写真と比べてみてください。


段々畑
景色が開けてくると、段々畑が目に入りました。
・・本当は止めたいんよ。だけんど、止めたら、たちまちジャングルじゃろ。道なんか、のーなってしまう。
・・猪、ハクビシン、最近では猿も出てくるようになり、手に負えんが、ここは、引いたらいかんのよ。
前回→(H16春7)、こんな話をしてくれた老農夫は、今、どうしているのでしょうか。


電柵(でんさく)
・・脅し銃鳴らしても、50M離れると、ヘーキな顔しよるけんね。もう、どうでも電線を張るしかないんよ。
でんさく(電気牧柵)は、当時で、500Mが10万円、とのことでした。


田圃
前回より耕作面積が減っているように見えました。
・・若いモンは、モー、ヨーヤランと米作りを止め、(山を)降りてしまった。・・とのことでしたが、やはり若いモンは継いでくれなかったようです。


坂本屋
廃屋同然になっていた遍路宿・坂本屋を、奇しくも前回私たちが歩いた平成16年(2004)、土地の人たちが修理し、休憩所として再開したとのことでした。「坂本屋運営委員会」を組織し、会員(当時およそ20名)が交代で旅人をもてなしている、と聞いています。


休憩所
この休憩所は、前回、お世話になったところです。「お遍路さん道の駅」と銘打ち、石の工作物をいろいろと展示していたのですが、なぜでしょうか、今回は荒れている感じです。



へんろ道は左に登ってゆきます。
下り道のなかの上りなので、つい右に進みたくなります。どうせ合流するだろうと思うからです。
実際、私たちは前回、・・もう登りたくない・・気分で、右に進んでしまったのでした。しかし、やはり左が正解です。たしかに合流はするのですが、右に行くと、網掛石は見られません。また距離も長くなります。


道標
分岐の側に道標が建っています。
  三坂峠 4.5キロ 46番浄瑠璃寺4.0キロ
三坂峠と浄瑠璃寺の、中間を少し過ぎた辺りです。



この辺は、榎の集落です。
この道はやがて、久谷川(くたに川)が造る谷筋の道と合流。そこで平地が、また一段と広くなります。
松山平野に近づいているわけです。


天日干し
こうして豆を乾すほどに、天気は良かったのですが、この数時間後、急変します。凶悪な雷雲が三坂峠に湧きたつのです。
その模様は、次号で記します。


網掛け石
弘法大師が巨岩を運んでおられました。
二つの巨岩を網に入れ、それらをオウク(天秤棒)に振り分けて、運んでおられたそうです。ところが、なぜかオウクが折れてしまい、岩の一つは御坂川の下流に流れ、もう一つが、此所に止まりました。その止まったとされるのが、この岩です。


網目
岩の表面には、網の目状の模様が入っています。大師が掛けた網が、石の重さで石に食い込んだ跡と考えられています。
それでこの石は「網掛石」と呼ばれるのですが、実はもう一つ、可愛らしい呼び名があります。上掲写真をもう一度ご覧いただければおわかりと思いますが、それは「くじら石」です。確かにクジラではありませんか。
なお、オウクが折れて飛んだ先は、オウクボ→大久保という地名になって、今に残るそうです(松山市久谷町大久保)。「協力会地図」58-1の国道33号線上には、「大久保坂」などの記載があります。 


あみかけ大師堂    
そばには「あみかけ大師堂」が建っています。


県道207号へ
榎集会所の前を右に入りました。県道207号に出ます。


三坂峠
ふり返ると、三坂峠の山が見えました。
この時はまだ、雷雲の兆しはありません。


里程標  
松山札の辻から四里を示す里程標(レプリカ)です。
青梅さんが泊まった久万の宿「一里木」さんの前には、七里の里程標がありました。あれから3里歩いたわけです。


札の辻 
新しい里程標の下に、昔のそれが残っていました。「松山札の辻」については、→(H24春1)をご覧ください。


丹波バス停
伊予鉄バス丹波線の終点です。
ただし、この路線は令和3年(2021)4月、廃線となったようです。代替交通として「予約制乗り合いタクシー」が運行されているとのこと。
なお、(不確かですが)、丹波線の始まりは昭和19年で、松山市駅-丹波間を走っていたようです。バス開通以前は、松山市駅-森松間(森松は、御坂川が重信川に合流する辺り)に列車(坊ちゃん列車)が走っており、丹波辺に住む人が松山市内に出るには、徒歩、馬車、自転車などで森松まで行き、森松から列車を利用したそうです。


無縁墓
無縁墓とは、普通、・・継承する親族や縁故者などがいなくなった墓・・を言います。ですから、そのような無縁墓には、「○○家墓」などと、かつてその墓を祀り管理していた人たちの、家名や建立者名などが刻まれています。
ところが、この無縁墓には「無縁墓」と刻まれています。この墓は、管理者がいなくなった「無縁墓」ではないのです。おそらくは、ここに供養されている仏(たち)が「無縁仏」である、というのでしょう。それにしても、比較的新しいのは何故でしょうか。


案内
この案内に従わないと、あらぬ方へ行ってしまいます。
板の下部に小さく、「坂本屋運営委員会」と標示されています。前述の旧遍路宿「坂本屋」を運営している人たちが、その活動範囲を広げ、設置してくださったものです。


出口橋
江戸時代中期の浄瑠璃寺に、尭音(ぎょうおん)という住職がおられたそうです。尭音さんは、毎年のように遍路道が雨で流されるのを見て、橋を架けることを発意。托鉢して喜捨を集め、岩屋寺から浄瑠璃寺にかけて、八本の橋を架けてくださったといいます。出口橋は、そのうちの1本とのことです。
尭音さんはまた、山火事で焼失した浄瑠璃寺の、復興に尽力したことでも知られています。


坂本小学校
「出口橋」の「出口」とは、どこからどこへの「出口」であろうか、・・そんなことを考えていたら、「坂本小学校」がありました。
そうか、そうだったのか。突然、分かった気がしました。
「出口」は久万から松山平野への「出口」で、「坂本」は三「坂」峠の「下」(もと)で「坂本」なのではなかろうか。
勝手に合点してしまったのでしたが、はたして本当は、どうなのでしょうか。


大黒座
久谷町の大黒座は、今は町興しの拠点となっています。しかし、様々に転変を経てきました。 
その始まりは大正時代。酒蔵だったそうです。戦後、しばらく芝居小屋として使われた後、昭和38年(1963)までは映画館。しかし、それ以後は使い道とてなく、40余年が経過。だた、その間、壊されることなく維持されたことが幸いし、平成18年(2006)、久谷の町おこしの拠点として修復され、・・今では歌や芝居、落語の上演など、地域の活性化に貢献している。(松山市観光Webサイト)・・とのことです。


松山平野の始まり
松山平野(道後平野)は、重信川と石手川が造った扇状地・沖積平野です。つまり、二本の大河が造った別々の扇状地が、それぞれ面積を広げてやがて合体。松山平野となった、ということのようです。その広がりは、東西20km、南北17kmだと言います。
なお石手川は、今は平野を南西に流れて、海近くで重信川に合流していますが、元は合流しないで西流し、伊予灘に注いでいたそうです。合流は、江戸時代の瀬替えによる、とのことです、


長珍屋
「ちょうちん屋」と読むようです。浄瑠璃寺門前の宿ですが、元の家業が、提灯屋さんだったようです。私はまだお世話になったことがありません。


46番浄瑠璃寺
浄瑠璃寺は、まこと「ご利益の札所」です。
本尊・薬師如来、脇仏・日光月光菩薩、十二神将のご利益の他に、「仏手石」からは知恵や技能のご利益を、「仏足石」からは健脚や交通安全のご利益を、「仏手花判」からは文筆達成のご利益を、「九横封じの石」からは(不治の病、暴力、淫酒、火傷、水難など)九つの大難を避けるご利益を、樹齢約1,000年のイブキビャクシンからは延命、豊作のご利益を、おびんずる様からは痛みの癒やしや子授けのご利益を、その他、一願弁天、燈ぼさつ、もみ大師などなど・・、各種ご利益をいただくことが出来ます。


「説法石」
これは説法石です。・・おかけください。おしゃかさまが説法され、修行されたインドの霊鷲山(りょうじゅせん)の石が埋め込んであります。・・と説明板にあります。
なお、石と言えば、(前述の)お大師さんが担いでいた網掛石の、もう片方の下流に流れた石ですが、その欠片とされる石が、浄瑠璃寺に保管されているのだそうです。残念ながら、私は見落としているのですが、どこにあったのでしょう。


もう片方の網掛石
私が見落とした網掛石の写真を、上の記事を読まれた天恢さんが、送って下さいました。


九横封じの石
同じく天恢さんがくださった九横封じの石の写真です。


本堂
浄瑠璃寺について、どうしても書いておきたいことがあります。それは、浄瑠璃寺の「きれいなトイレ」のことです。
トイレは普通、「不浄」の場として、境内の見えにくい片隅におかれているものですが、この浄瑠璃寺では違います。浄瑠璃寺のトイレは、いつもきれいに掃除されて、正面の石段(この寺には山門がありません)を登った、すぐ左に在るのです。きれいにして、便利なところに置く。もう「ご不浄」などとは言わせない!いいですね。ありがたいことです。


句碑 
石段脇に句碑がありました。
 永き日や 衛門三郎 浄るり寺  子規
ある春の一日、子規は東京に在って、この句を詠んだといいます。


ハス
さて、ご覧いただきまして、ありがとうございました。
雨に降られた遍路でしたが、こんな景色が見られるのも、この時期なればこそのことです。浄瑠璃寺弁天池のハスが、きれいに咲いていました。
次号更新は、10月2日の予定です。松山市内の札所を廻り、帰宅の途につきます。

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大瀬 新田八幡神社 三嶋神社 下坂場峠 鴇田峠 44番大宝寺 上黒岩遺跡

2024-08-07 | 四国遍路
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  このアルバムは、平成22年の遍路アルバムを、リライトしたものです。
  そのため、令和6年の現状とは異なる、写真や記事内容が含まれています。
  その点、ご注意ください。

 平成22年(2010)7月14日  雨 第四日目

宿
今日は久万高原まで歩きます。雨、それもかなり強い雨が予報されていますが、梅雨末期の遍路です。仕方ありません。
最初の目標地は、遍路道が国道380号を行く農祖峠遍路道と、国道379号を行く鴇田峠遍路道に分岐する地点、突合(つきあわせ)です。どちらも44番大宝寺へ行く道ですが、私は今回も、前回と同じ国道379号の鴇田峠遍路道を行きます。未知の道を行きたいとも思いましたが、過去を懐かしむ気持ちの方が勝っているのです。
突合の次は、畦々(うねうね)の三嶋神社を目指します。ここは前回、北さんと大休止したところなのです。


国道379号大洲方向   
宿がある旧道から、国道379号へ降りてきました。写真は、国道379号の大洲方向を、ふり返って写したものです。
写っている橋が、前号で記した、「筏流し橋」です。筏流しの地域興しに連動して、この名がつけられました。
  

バス停兼休憩所
国道379号沿いに、バスの梅津停留所兼休憩所がありました。
・・お寄りんかい 一休み 一休み・・と記されています。
しかし、せっかくのお誘いですが、私は歩きはじめたばかり。ここは通過させていただきます。
なお、停留所名の「梅津」(うめつ)は、集落の名前です。梅津集落の中を通っていた旧道を、新国道がショートカットしたため、集落本体から少し離れたバス停になってしまいました。


梅津トンネル
梅津トンネルは87メートル。平成20年(2008)の開通です。前回ここを通ったときには、なかったトンネルです。
「梅津」の由来は、土地の人によると、・・「梅」は、この辺に梅の木が多かったので「梅」となったんじゃ。「津」はの、「行き詰まった所」じゃったんで「津」なんじゃ。巨岩があって、この先には行けなんだのよ。・・とのことでした。
「行き詰まった所」だから「津」というのは、すこしわかりませんでしたが、・・なんにせよ、そう伝わってとるんじゃから、仕方なかろうが。・・とのことで、了解しました。梅津トンネルは、その巨岩を穿って通したトンネルなのだそうです。


交通標識
380号へ直進せず、379号(左方向)へ進みます。なお国道379号は、突合からは、田渡川沿いの道となっています。代わって小田川沿いに走るのは、国道380号です。


吉野川トンネル
吉野川トンネルは、長さ330メートル。田渡川沿いの蛇行部をショートカットするトンネルです。
「吉野川」とは、なにやら意味ありげな地名ですが、由来については、後述の「新田八幡宮」をご覧ください。


記憶の場所
ここ、思い出した!前回、4人で休憩した所です。
松山さん、北条さんと納札を交換し合ったり、座り込んでアンパンを食べたり、出会ったばかりの若いお坊さんの話をしたり、→(H16春5ここには楽しい記憶がのこっています。


田渡川(たど川)
田渡川は、下坂場峠(後述)辺りを源流とする、小田川の支流です。小田川は肱川の支流ですから、肱川水系ということになります。
遍路道はこの先、下坂場峠を越えるので、その辺までは田渡川と一緒、ということになります。


宮之谷口停留所
少し歩いてみて、わかりました。かなり疲労が溜まっています。
靴の中の「水漬く足」は、フヤケ状態を越え、かなり危険な状態です。スパッツを購入すれば、問題は一挙に解決するのですが、私には便利なものを嫌うという、変な意固地さがあり、購入を躊躇っていたのです。(今は愛用しています。意固地とはいえ、筋金入りではないのです)。


国道379号
うどん屋さんから500メートルほど先に、旧道への分岐があります。
この旧道はおそらく、新田八幡神社の参道でもあるのでしょう。


新田八幡神社
旧道を歩いて、新田八幡神社に着きました。この神社を『えひめの記憶』は、次の様に紹介しています。
・・新田八幡神社は、新田義宗(よしむね)を祀(まつ)る神社です。今から640年ほど前、南北朝の時代(1336~92年)、南朝の忠臣新田義貞(よしさだ)の三男に、義宗がいました。義貞は亡くなり、一族もバラバラになって衰えていった時、再起を図り義宗は四国に逃れ、越智郡の大島や、宇和地方や、大洲、内子方面、小田川の北の方を経て、ここ中田渡に落ち延びてきました。
・・義宗と家来は、岩木(いわき)の森に家を建てたそうです。日がたつにつれて、奈良の吉野にいたころのことが忘れられなくて、中田渡の谷間がその吉野に似ていることから、吉野の千本桜を懐かしんで、東の谷の桜の美しい所を桜原(さくらわら)と名付けました。そして、その谷間と合流して流れる川を吉野川と名前をつけ、自らを慰めていたそうです。


拝殿
・・義宗は、疫病にかかって、山奥のことだから医者も薬もなく、近くに住むおばあさんだけが、看病をしてくれたそうです。ある日、義宗は桜原で川の水を飲もうと下りた時、動けなくなり亡くなったそうです。田渡の人たちは、義宗の遺徳を慕い手厚く葬って、ここに新田武義神社をつくったとの話です。(これが新田八幡神社の始まりのようです)。
・・そのころより、この神社にお参りすると御利益があるということから、旧暦2月の初の卯の日のお祭りを「卯の市」と呼び、卯の刻(午前6時ごろ)参りをするものが多くなってきました。戦前(太平洋戦争前)は縁結びの神様として信仰が厚く、多くの露天商や、いろんな見せ物小屋でにぎわったそうです。戦時中は、武運長久・戦勝祈願のお参りの参拝者も多かったのですが、終戦直後は国を挙げて人心が動揺し、次第にすたれていき、縁日といっても参拝者が少なく寂しい状態になりました。
(なお59番国分寺には、新田義貞の弟、脇屋義介の墓があります。こちらは、義宗のように「神」になることはなく、人として祀られています)。→(H30春6)


日本誕生
境内に陰陽石があります。陰石は、手水場の手水鉢(弘化2年/1845の年号が刻まれている)が、それに見立てられています。
「日本誕生」の文字から、これが伊耶那岐命と伊耶那美命の「国生み」神話に基づいているのは明らかです。ただ(残念ながら私には)それが新田八幡神社ととどう関わるのか、いつからここに置かれ、いかなるメッセージを発しているのかは、わかっていません。


陰石とされる手水鉢 
とまれ、古事記から「国生み」の下りを、書き下し文で記しておきます。
・・その島に天降(あも)りまして、天の御柱を見立て八尋殿を見立て給ひき。ここにその妹伊邪那美の命に「汝が身はいかになれる」と問い給えば、「我が身はなりなりてなりあはざるところ、ひとところあり」と申し給ひき。
・・ここに伊邪那岐の命詔りたまひしく「我が身はなりなりてなりあまれるところ、ひとところあり、かれこの我が身のなりあまれるところを、汝が身のなりあはざるところにさし塞ぎて、国生みなさんと思ふはいかに」と宣り給へば、伊邪那美の命「しか善けん」と申し給ひき。


中田渡橋
この辺は、中田渡地区です。


石仏たち
ここにお住まいなのは、お地蔵さんでしょうか。
石仏さんたちのお住まいは、近頃は簡易住宅風のものが多くなってきていますが、これは岩陰風(後述)の、なかなか居心地の良さそうなお住まいです。


標識
上田渡地区に入ってきました。


落合トンネル
平成4年(1992)開通。長さ103メートル。
帰宅して、グーグルマップを見ていて気づきました。大失敗でした。
このトンネルの右側には旧道が残っており、そこには落合大師堂があったようなのです。私はすいすいとトンネルを抜けてしまい、見逃してしまいました。


落合
落合トンネルを抜け、右方向、県道42号線(久万-中山線)に向かいます。左に進むと砥部町→松山市です。


標識
県道42号の標識が見え、大宝寺が案内されています。



すごい降りになった来ました。大きな雨粒がバチバチと、菅笠やポンチョを叩いています。
民家はないので、小屋型バス停留所をさがすことにし、急ぎました。
ところが、あった!と思ったら、・・先客がいました。


ドシャブリ 
どうやら ノラ君のようです。ささくれだった感じはありませんが、はたして小屋を、私とシェアする気になってくれるでしょうか。
追い出してしまうのは、可愛そうなので、さりげない風を装いながら、しかし安心してもらうため、優しく声をかけながら入ってゆきました。やや警戒して前足を立てましたが、逃げ出すまでには至りません。なんとか成功。シェアが始まりました。


仲よく
一人と一匹が椅子の両端に坐っての、奇妙な時間の始まりです。
カメラを向けたら、ちょっと警戒、耳が後ろに下がりました。犬はうれしいときも耳を後ろに引きますが、今の場合は、緊張させてしまったのでしょう。
しかしこのノラ君、たぶんお遍路さんから優しくされた経験があるのです。私の手がザックにかかると、なにか期待の表情をみせるのは、お遍路さんから、食べ物をもらったことがあるからかもしれません。見知らぬお遍路さんたちの優しい心が、ノラ君を通して、私に回ってきたということでしょう。おかげさまで、素敵な雨宿りができました。ありがとうございました。



雨はまだ降っていますが、歩きはじめました。ノラ君へは、行動食を少し残してあげました。
犬は、おおむね私の友達です。このブログにも、けっこう多くのワンチャンが登場しています。帰り道が心配になるほど遠くまで、一緒に歩いてくれたワンチャン。迷っているとき突然現れて、先導?してくれたワンチャン。一声吠えて、私の到着を宿の人に伝えてくれたワンチャン。見知らぬ私との出会いを、身体をすり寄せて喜んでくれたワンチャンなど。そして、この雨宿りのワンチャンも、忘れられないワンチャンとなりました。


臼杵三嶋神社
前回は、ここで大休憩をとったのでした。日向に白衣や靴下を干し、乾くまで休みました。
こんなに長く休んだら、もう松山さん達には追いつけないだろう、そんな話をしていたら、やがて追いついてしまい、それが「ウサギとカメの記」という、CD作製につながったりしたのでした。
今回も、当初は大休止するつもりでいたのですが、・・


拝殿
この降りです。白衣を乾かすどころではありません。頭を下げ、シャッターを押して通過しました。


やぎ
まだ雨は止んだわけではないのに、ヤギがいました。まさかあの雨の中も、ここにつながれていたとは思えないのですが。だとすれば、とんでもなく可哀相なことでした。ヤギは、雨が苦手なのです。


雨上がりのヤギ
こちらは放し飼いですから、雨降りの間はどこかに避難していたでしょう。
写真は、平成17年(2005)、52番太山寺へ向かう途中、志津川沿いの道で撮ったものです。


上畦々
上畦々に着きました。
道標には、・・左方向 へんろ道 ひわた峠経由 大宝寺・・とあります。
これに従い、左方向へ上ってゆきます。右の直進する道は、これまで歩いてきた、県道42号(久万-中山線)です。


入口
・・鴇田峠遍路道・・と石柱にあります。
うっかりすると、これから鴇田峠への「峠道」が始まると勘違いしそうですが(実は前回の私たちがそうでした)、そうではありません。
石柱は、この道が鴇田峠遍路道という名の、大洲から44番大宝寺へ向かうルート上にあることを示しています。


山道
とはいえ、この道は「峠道」ではあるのです。下坂場峠に登る、「下坂場峠道」です。
ここを通るのはほとんどお遍路さんですから、「下坂場峠遍路道」とも呼べるでしょうが(実際、グーグルマップは、そう呼んでいます)、紛らわしくなるので、やはり「下坂場峠道」としておきましょう。


下坂場峠
とまれ、峠に着きました。下坂場峠(H570)です。石柱の所が標高410㍍ほどですから、約160㍍ほど高度を上げたことになります。
峠に着いたら、そこには、先ほど分かれた県道42号が合流していました。42号は、登坂力の弱い車両でも登れるように、グネグネ蛇行しながら、ここまでやって来たのです。


県道42号
さて、これより峠を下りますが、歩く道は、ふたたび県道42号です。
しかしこの下り道は、ほとんど蛇行していません。(距離はほぼ同じなのに)高度差が50㍍ほどに減っているからです。


道標
県道42号を下り、久万川の支流・二名川(にみょう川)が造る、谷底平野に降りてきました。
鴇田峠まで2.7キロ、大宝寺まで6.4キロKとあります。現在時刻は12:45。大宝寺参拝は明日のつもりなので、急ぐ必要はまったくありません。


宮成バス停
ここは宮成(みやなる)という集落です。標高520㍍ほどです。
地名の由来は、わかりませんでした。次掲の葛城神社と関係があるのかもしれません。


葛城神社
祭神は、一言主命。まことに興味深い神様です。
雄略天皇を恐れ入らせたという古事記(712)の記述。雄略天皇と仲よく狩りをしたという日本書紀(720)の記述。その雄略天皇によって、土佐に流されたという続日本紀(797)の記述。役行者に法力で縛られているという日本霊異記(822)の記述。一言主命が時代を下るにつれ貶められてゆく様は、何を物語っているのでしょうか。
なお、土佐に流された一言主命が鳴無神社にまず居を定め、次いで土佐神社へ遷る譚などについては→(H27春10)→(H27秋1)をご覧ください。


葛城大師堂
葛城神社の隣、道より4㍍ほど高いところに、葛城大師堂がありました。茶堂風の建て方になっていて、板敷きの間があります。


葛城大師堂
軒下をお借りして、昼食をとりました。宿でお願いしたオニギリです。
集落を眺めわたしながらの食事を楽しみました。


鴇田峠へ
二名川を渡り、森田集落に入り、いよいよ鴇田峠へと向かいます。


案内
  右直進 鴇田峠入口 とあります。
ここから鴇田峠への峠道が始まります。正真正銘の「鴇田峠遍路道」ということでしょうか。


由良野
由良野(ゆらの)地区は、元は、(先ほど通過した)森田集落の入会山であったとのことです。森田地区の人たちのための茅場(屋根を葺くための茅を得る)であったり、薪炭林(薪炭材を得る)であったりしたわけです。
戦後になり、集団入植による開墾が試みられましたが成功せず、今は、・・自然と人の相互依存と共生関係の本来の姿を求めて・・「由良野の森」づくりが進められていると言います。
なお由良野には、縄文草創期の「由良野遺跡」があります。それは今回私が訪ねる予定の、「上黒岩遺跡」と同期の遺跡とのこと。次の機会にでも、訪ねてみたいものです。


道標
  へんろ道 
風情のある道標です。アジサイの、少し盛りが過ぎているのも一興。


一服
  お大師さまと一服
この頃の私には喫煙習慣があったので、むろん、一服も二服もさせていただきました。しかし、この看板、今はもう取り払われているのでは?


休憩所
シャレタ休憩所です。



いよいよ鴇田峠への登りにかかります。


道標
鴇田峠まで0.9キロとあります。



前回、松山さんたちの鈴の音が聞こえてきたのは、この辺だったでしょうか。
人が多いところでは、迷惑かもしれないので鳴らさないようにしているが、山の中では鳴らしていると、そんな話を聞いていたので、きっと彼女たちだろうと思ったのでした。よく届く鈴の音でした。



石畳のためでしょうか、道が川になっています。
すでに靴は浸水しているのですが、かといってザブザブ歩く気にはなれません。しっかりした石の頭を拾いながら、捻挫しないように進みます。こんな時、お杖には助けられます。


道標
この辺では、もう松山さんたちに追いついていたと思います。
・・私たちは久万からバスで松山に帰るので、もう会えないかと思ってました。
・・では、バス乗り場までご一緒し、見送りましょう。
こんな話を交わしたのでした。


Iだんじり岩
この岩は「だんじり岩」と呼ばれているとのことです。側に、次の様な説明がありました。
・・この十畳敷きほどの大きな岩は、その昔弘法大師が四国八十八ヵ所巡錫の時、あまりの空腹と疲労のため、自分の修行の足りなさに腹を立て、この岩の上で「だんじり(じだんだ)」を踏んで我慢されたそうです。その時踏んだ「だんじり」の足跡が残っており、それ以来誰言うとなくこの岩を「だんじり岩」と呼ぶようになったそうです。


鴇田峠
「ひわた峠」です。峠の案内板は「ひわだ」と濁らせていましたが、ここは「協会地図」に従い、「ひわた峠」としておきます。
ところで「ひわた峠」は、なぜ「鴇」という字を当てているのでしょう。「鴇」は、鳥のトキの字です。「ヒワ」の字は「鶸」なのですが。


大宝寺へ
44番大宝寺へ4キロ。もうすぐです。
4人で、列を組んで歩いたのでした。北さん-松山さん-北条さん-私、の順でした。



真念さんは『四国遍路道指南』で、この辺の道を、次の様に案内しています。
・・上たど村、過て三嶋明神、○うすぎ村、大師堂○二明村、爰にかつらき明神、行てはしわたり大師堂。過てひわだ坂、此の峠より久万の町、すがう山見ゆ。大洲領、松山領のさかいなり。・・
「上たど村」は上田渡村、「うすぎ村」は臼杵村、「二明村」は、今は二名村と表記、「かつらぎ明神」は、今は葛城神社です。


久万の街
・・此の峠より久万の町、すがう山見ゆ。
(峠から少し下ってでしたが)確かに見えました。菅生山は判別できませんが、久万の町が一望できました。
・・大洲領、松山領のさかいなり。
かつては藩領の境となっていましたが、今は、内子町と久万高原町の境になっています。


新四国88ヵ所
鴇田峠からの下りは、林道と、林道のヘアピンをショートカットする、山道とから成っています。山道には、久万新四国八十八ヵ所の信仰空間が創られています。


国道33号
降りてきました。とは言え、ここは久万高原町です。高原の名の通り、標高は480㍍ほどあります。
谷底平野の背骨でもあるかのように、国道33号が走っています。旧土佐街道(松山街道)をベースとする道で、高知と松山を最短で結ぶ国道です。
この道を北進すれば、三坂峠を経て松山に入るのですが、むろん私たちはその前に、44番、45番を打たなければなりません。


道標
宿に向かいます。


おもご旅館
16:00 おもご旅館着
44番大宝寺のお参りは、明朝に回します。疲れがたまっていることもありますが、それよりも、明日の予定がゆっくりだからです。
明日の行程は。おおざっぱには、次の様に考えています。
44番大宝寺参拝→バスで上黒岩遺跡へ移動→タクシーで45番岩屋寺へ移動→バスで高野口へ移動→三坂峠の宿へ歩く。


床の間
床の間つきの、立派な部屋で夕食です。泊まり客は私一人。
額の書に為書があるので、・・お宅は森さんなのですか?・・と尋ねてみると、
・・そうなんです。この額は、巖谷小波さんが三代前の当主(初代)に贈ったものなんです。・・とのこと。驚きました。



かつて久万が林業で財をなした頃の話など、いろいろの話をして下さいました。
うかがったお話のいちいちは記せませんが、この旅館の歴史は古く、明治初期は、橋長旅館の名で営業していたと言います。おもご旅館と改めたのは大正期とのことでした。(これらのことは、新聞紙上でも伝えられているので、記すことができます)。
・・「富士の間」という、乃木大将もお泊まりになった部屋がありますが、贅を尽くしたお部屋ですよ。ご覧になりますか?・・


欄間
もちろん、見せていただきました。
6畳と4畳半の続き部屋になっていて、写真は、その境にある欄間「富士山」です。これが部屋の名の興りとなっています。富士に松が見えますが、これはサルスベリの細工物です。
初めは、初代当主の隠居部屋として設えたようですが、やがて乃木大将、巌谷小波など、著名人を泊める部屋として、使われるようになったとのことです。


天井
「支輪(しりん)変わり天井」と呼ばれているそうです。黒い部分が見えますが、「黒柿」です。やや白く盛り上がって見えるのは、サルノコシカケだそうです。その他、桑、欅、屋久杉など、超高級材がふんだんに使われています。因みに黒柿とは、ネットで調べると、・・樹齢数百年、白と黒の美しい模様を持った希少な柿の古木です。 ・・とのこと。


屋久杉
ただ残念なことですが、リライト版を書くために調べてみると、この「おもご旅館」、今は閉店となっていました。

 平成22年(2010)7月15日 雨のち晴 第五日目

天気
今日は上黒岩遺跡の見学日です。この遺跡は貴重な複合遺跡で、縄文草創期(約16000-11500年前)から縄文後期(約4400-3200年前)にかけて、1万年ほどもの間、人が住みつづけていたと考えられています。6年前、北さんと訪ねたいと思いながら果たせず、残念に思っていたのでした。
7:00 ゆっくりと朝食し、荷物は宿に預けて大宝寺に参拝します。
9:00過ぎのバスで、遺跡に向かいます。
今日も良い天気とは言えないようですが、上黒岩遺跡から45番岩屋寺へはタクシー。岩屋寺から宿のある久万へは、再びバスを使います。まず問題はないでしょう。


大宝寺へ
手前を久万川が流れています。架かる橋は、総門橋。その奧に見える門が、大宝寺の「総門」です。
小学生の黄傘が咲いています、いいアクセントになってくれました。


ふり返って
久万川方向をふり返って撮りました。
道が軽い下りになっています。


勅使門
勅使橋というそうです。
勅使とは、後白河天皇がご病気平癒祈願に際し、遣わされた勅使です。より詳しくは、→(H16春6) →(H28秋4)をご覧ください。


下乗
ここからはどなたも、たとえ勅使といえども、ご自分の足で歩かねばなりません。


山門
44番は88ヵ所のちょうど真ん中。中札所というそうです。どなたもが此所に来て、結願までの残る日数を計算してみることでしょう。
平成16年(2004)春、私も北さんと当寺に参り、目算してみました。ただし、神ならぬ身の知るよしもなし。その時のデータに「平成17年椎間板ヘルニア手術」は、織り込まれていませんでした。


山門 
さて、これより山門を潜り、本堂、大師堂とお参りを済ませまたのでしたが、なぜでしょうか、その部分の写真がないのです。「椎間板ヘルニア」が平癒したことを感謝し、今回の遍路の安全をお祈りしたのは確かなのですが。
というわけで、やむをえません。お寺の由来などについても、こちらをご覧ください。→(H16春6) →(H28秋4)


バス
お久万大師の隣の、伊予鉄久万営業所で乗車。上黒岩遺跡に向かいます。
写真の行き先表示には、主要停留所しか記されていませんが、「上黒岩遺跡前」という停留所もあります。「御三戸(みみど)」(後述)の三つ手前の停留所です。
なお「伊予落合」は、国道33号に国道380号が落ち合う?地点です。33号は松山から南進し、久万の谷底平野を貫いた後、久万川の流れと共に東へ向きを変えます。その転進点へ、東進してきた380号が合流。380号は33号に役目を譲って、ここで終点となります。


上黒岩遺跡前
到着です。
(現時点でのことは分かりませんが)当時は、JR四国バスと伊予鉄南予バスの二社が、この路線を運行していました。


案内地図
「岩陰文化の里」として、地域の活性化を図ろうとしているようでした。
「岩陰文化」の名は、上黒岩遺跡が「岩陰遺跡」(後述)であることから来ているのでしょう。
「山中家住宅」が記されていますが、これは、宇摩郡別子山村(現・新居浜市)から移築したものだと聞きました。国の重文指定を受けています。


久万川
 ♫川は流れーて どこどこゆくのー  
この水、流れ流れて、土佐湾の太平洋に注ぐのだそうです。
35番清滝寺の辺りで見た、あの清流・仁淀川に、この久万川の水がブレンドされていたなんて、思ってもみないことでした。


久万川
久万川から先、太平洋までの流れは、次の様です。
・・この先(先述の)御三戸で、久万川は面河川に合流し、
・・面河川は、愛媛と高知の県境・柳谷(やなだに)を経て、高知県に入ります。
・・高知県に入った面河川は、仁淀川と名前を変えて東進。
・・伊野町で南に転じて、土佐湾に注ぎます。私たちは、この南進する仁淀川を渡り、清瀧寺に向かったのでした。


旧山中家住宅
四国地方山間部に見られた、典型的な住宅とのことです。建築は、18世紀中期から末期と推定されています。


山中家
茅葺きの分厚さに驚きます。


山中家 
きれいな入母屋です。


岩陰遺跡
上黒岩遺跡は、高さ約20mの石灰岩の断崖を背に、西南に開いた岩陰遺跡です。
「岩陰遺跡」とはニッポニカによると、・・まっすぐに切り立った断崖直下のわずかな広さのくぼみを、天然の住居として利用した古代遺跡・・を言います。そのくぼみの奥行きが深くなると、「岩陰」ではなく、「洞窟遺跡」と呼ぶようですが、上黒岩は、そこまでは深くないのです。


岩陰遺跡
『えひめの記憶』は、この遺跡発見時のことを、次の様に記しています。
 「これは、どうも社会科で習った古い土器のかけららしいよ」
(美川)中央中学校二年生(1年とも)の竹口義照はそう思った。父の渉が自宅左隣の岩陰で田なおしの土をとっていると、おびただしい「川ニナ」にまじって、土器のかけら・動物の骨などが出てきた。昭和三六年の春まだ浅い頃のことである。
義照から学校へ、報告を受けた美川村教委から県教育委員会へ。その依頼を受けた愛大文理学部西田栄教授が来村し、調査の結果、貴重な繩文遺跡であることが確認されたのが、昭和三六年六月四日のことであった。


上黒岩考古館
標高397Mのこの辺には、高地の故でしょう、クリ、ナラ、クヌギ、トチなど、東日本に卓越する落葉広葉樹が野生しており、その若芽や実を好むイノシシ、シカ、ウサギ、ツキノワグマ、それらを捕食するニホンオオカミが棲んでいたと言います。
人間は、これらを採取、捕食して暮らしていたわけですが、補食した動物は、発掘された骨の鑑定から、イノシシ、ニホンジカ、カモシカ、ウサギ、ツキノワグマ、ニホンオオカミ、カワウソ、カワニナなどであったそうです。


ニッポンイヌ
しかし犬は、肉食の対象ではなく、トモダチであったようです。
家犬として飼われていたらしく、この犬は、人と共に埋葬されていたと言います。


発掘当時
(考えるところあり、写真は掲載しませんが)発掘された成人女性の全身骨が、展示されていました。20体ほど出土したうちの、一体だといいます。
身長147センチとのこと。けっして低い方ではなかったろう、と考えられています。なお男性の平均身長は、これにプラス10センチ位であったろう、と推定されています。
人骨がこれほど損傷が少ない状態で残ることができたのは、場所が南面した傾斜地で乾燥していたこと、カルストの石灰分が土壌を中和し、そのため骨のカルシウム分が溶け出すことがなかったこと、などが考えられるそうです。そういえばこの遺跡、四国カルースト台地(石灰岩台地)の西端に位置するのでした。

 
線刻礫(石偶)
次のような説明がされていました。
・・石にいくつもの線を刻み、長い髪や腰蓑(?)乳房などを表現しています。この石は女性を表現したものと考えられており、「女神石」とも呼ばれています。
・・用途については不明な点もありますが、子どもを産むことができる女性の特質や生命力を信仰の対象として、狩猟や採集といった自然の恵み子どもの誕生ないしは安産を願う祭祀の道具として使っていたとする説などが考えられています。
・・近年では、ユーラシア大陸の旧石器時代のヴィーナスとの比較研究が行われ、関連性が指摘されています。


殺傷人骨
(これも写真は掲載しませんが)へら状骨器が刺さった腰骨が展示されています。
一時は「最古の殺傷人骨」として注目された人骨ですが、その後の研究から、次の様なことが判明しているとのことです。
・・この腰骨は女性のものであり、(へら状骨器は)死亡の直前、或いは死後に刺されたものであることが、判明しました。それは何らかの病気で亡くなった女性への、儀礼行為として行われ、死亡の原因となった悪霊?を取り除くためであったのではと推測されます。



遺跡見学を終えた頃、晴れ間が見えてきました。久しぶりの晴れ間です。
ここから岩屋寺まで、バスの路線はありすが、適当な便はありません。仕方なく(というより、そのつもりだったのですが)、タクシーを呼んでもらいました。来てくれたタクシーは、(先述の)高知との県境・柳谷のタクシーでした。

さて、ご覧いただきまして、ありがとうございました。
次号は岩屋寺から、できれば三坂峠を越えた辺りまで、ご覧いただこうと考えています。更新は9月4日を予定しています。
もはや地球温暖化ならぬ沸騰化が、連日の猛暑、天候不順をもたらしています。皆さま、くれぐれも体調管理にお気をつけられ、過ごされますように。

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金山出石寺 大洲 十夜ヶ橋 内子 大瀬の宿

2024-07-10 | 四国遍路

 
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  このアルバムは、平成22年夏の遍路アルバムを、リライトしたものです。
  そのため、令和6年の現状とは異なる、写真や記事内容が含まれています。
  その点、ご注意ください。

  平成22年(2010)7月12日 雨 第二日目のつづき

出石寺着
11:20 空海(弘法大師)像が見えてきました。ようやく出石寺に着きました。
平野駅を7:00に歩きはじめて4時間半。一条兼定寄留地での長滞在、雷様からの避難を含めての時間ですが、ずいぶんかかったものです。


空海像
出石寺の山号が「金山」(きんざん)に改められたのは、大同2年(807)のことだと言います。それまでは、「雲峯山」と称していたそうです。
出石寺を訪れた空海(弘法大師)が、この山に有望な銅鉱脈があることを確認。これは「三国無双の金山」であるとて(当時は、「銅」は「金」と呼ばれていた)、山号を「金山」に改めたと伝わります。(この山で銅が採れるのは本当のことで、事実、明治末から昭和20年まで、三菱鉱山が銅の採掘を行っていたそうです)。


大師像と熊野権現の鳥居
空海(弘法大師)は、またこの時、金山出石寺の守護として、熊野権現を勧請したと伝わります。写真の鳥居が、熊野権現の鳥居です。
「熊野権現」とは、熊野三山に祀られる神々、つまり熊野大神を言います。なかでも、 家都美御子大神(すさのう)、熊野速玉大神(いざなぎ)、熊野夫須美大神(いざなみ)の三神のみを指すときは、熊野三所権現と呼ばれ、その他の神々を加えて、熊野十二所権現となることもあります。「権現」と称されるのは、本地垂迹説の考え方によるからです。


熊野権現 
鳥居の奥に、熊野権現社が見えます。
権現社の側に見える、木に埋もれた小山は、勧請に際し空海(弘法大師)が護摩を修したと伝わる、護摩壇の跡です。今は「護摩山」と呼ばれています。


護摩山(平成28年撮影)
熊野権現の裏にまわると、「護摩山」の標示がありました。小さい方の立て札には、「大同三 弘法大師が護摩供 修法の遺跡」と記されています。
後述しますが、空海は(単に「伝承」されているだけでなく)本当に金山出石寺に登っていた、とする研究があります。護摩山を「遺跡」と称し、護摩を修した年号まで記しているのは、そうした研究が意識されてのことかもしれません。なお大同3年は、西暦では808年です。


護摩山から(平成28年撮影)
熊野権現を背に空海(弘法大師)が、本堂方向を眺めておられます。
この景色が、あるいは1200余年前の実景であったかもしれないと思えば、なにやら心が躍ります。


石段
出石寺の伽藍は、出石山山頂に至る尾根筋に配置されています。
写真の石段が、本堂に至る、最初の石段です。上ると、仁王門があります。
石段を上りながら、お参り前の汗拭き、濡れた靴下絞り、できかかっているマメの応急手当など、あまり人目にさらしたくはない作業を、門の片隅をお借りして、やらせてもらおうと考えました。


仁王門
仁王門をくぐると広場があります。広場の右側に納経所が、それに向かいあう左側に、うどん屋さんや土産物屋さんがあります。
正面には、また石段があり、これを上ると、大師堂がある平面になります。


上からの写真
上から撮った写真です。右に写っている立派な屋根が、仁王門です。
白壁がある棟に納経所があり、それに向かい合う位置の瓦屋根(右下)が、うどん屋さんなどの棟です。
赤い寄進幟が立っている石段を上ると、大師堂になります。


大師堂の段
大師堂がある段に上がってきました。
写真中央の屋根が仁王門です。
右に臥牛像(後述)が見えていますが、この牛の目線の先に、大師堂があります。


臥牛像と大師堂(平成28年撮影)
前述の「空海は本当に出石寺に登ったか」の研究ですが、『えひめの記憶』に、次の様な記述があります。すこし長くなりますが、引用させていただきます。
・・空海24歳(延暦16年、797)の作といわれる『三教指帰』と『聾鼓指帰』によると、18歳で大学に入った空海は、まもなく中退してから24歳までは山岳修行者として近畿・四国の山々をめぐったとみられ、
・・四国については、
 阿国大滝嶽に躋り攀ぢ(のぼりよじ)、土州室戸崎に勤念す(三教指帰) 
とあり、また、
 或るときは金巌(きんげん)に登りて雪に遇いて坎らん(かんらん)たり、
 或るときは石峯(いしみね)に跨り、もって粮(りょう)を絶ちて
 轗軻(かんか)たり (同 共に原漢文)
と書かれている。
・・阿波国大滝嶽は21番札所大龍寺の地であり、土州室戸崎には最御崎寺がある。また、「金巌」の自註(聾鼓指帰)には「加禰能太気」(かねのたけ)、「石峯」の自註には「伊志都知能太気」(いしつちのたけ)とあり、後者は石鎚山をさすことにまちがいないが、前者を「金山」といわれる出石寺とする説があるものの、中央では吉野金峯山のこととされている。

以上、金巌=金山出石寺説の考え方が、わかりやすく説明されていると思い、引用させていただきました。
ただ最後の一文は、正直、私にはわからないところがあります。とりわけ「中央」とは、何を指すのでしょうか。どうやら、私が知らない研究の経緯があると察しました。


大師堂
そう思い、調べていると、次の文に出会いました。大本敬久さん(愛媛県歴史文化博物館専門学芸員/伊予史談会)が書かれた、『三教指帰に見る空海と四国』のまとめ部分です。
・・以上、弘法大師空海の青年期の修行地「金巌」についてその解釈を時代ごとに確認すると、中世以前には具体的な比定地は現れないものの、江戸時代には伊予国(金山出石寺)説が通説化していたことがわかる。そして昭和以降の岩波文庫本や『弘法大師空海全集』の刊行等により金峰山説が登場し、伊予国説が見られなくなってきている。伊予国説は新史料の発見により否定されたわけではなく、解釈の問題で金峰山説が有力とされたという状況であり、この件の実証的研究は今後も追及されるべきといえるだろう。

なるほどと、腑に落ちた感じです。伊予国説が(否定されたわけでもないのに)見られなくなっている、そんな現状を・・出石寺とする説があるものの、中央では吉野金峯山のこととされている。・・と記したのでしょう。
長くなりましたが、以上を以て、「研究」に関する記事を終わります。


臥牛 お手ひきの鹿像
大師堂の向かいに臥牛像があり、その奧に、鹿の像がありました。
鹿は、出石寺縁起に出てくる、作右衛門が追い詰めた(実は導かれた)「お手びきの鹿」の像です。これは、すぐわかりました。
しかし、臥牛はなんでしょう。出石寺といかなる関係があるのか、わかりませんでした。
帰宅後、調べていると、『伊予細見』というHPで、興味深い記事に出会うことが出来ました。『第75回上須戒紀行』という記事です。


臥牛像 お手引き鹿像(平成28年撮影)
・・(大洲市上須戒の)護国寺は明治の初めに当地の庄屋向居家の邸を寺院に改築したもので、今も金山出石寺の隠居所になっている。戦前は、山頂の金山出石寺の僧坊で使う、米、味噌、醤油などの食料や生活物資はこの護国寺から牛の背に乗せて上げていた。荷物を積んで牛のお尻をポンと叩くと、牛は勝手に山道を歩いて、山頂の決められた場所まで上がって行ったという話を聞いたことがある。

思うに、これが臥牛像の由来なのです。どなたか信者さんが、そんな感心な牛の像を造り、奉納したのでしょう。


卯之町の二宮敬作住居跡(平成28年撮影)
なお、護国寺の隣には、江戸時代末期の蘭学者にして医師・二宮敬作の居宅跡があるそうです。二宮敬作は、(シーボルト事件後)シーボルトの娘・楠本イネを養育。日本初の女医(産科医)に育てたことでも知られる人物ですが、私は二宮の居宅跡を、卯之町でも見ています。→(H28春4)
二宮はどのような経緯で、上須戒(かみすがい)にも住んだのでしょうか。


住居跡(平成28年撮影)
二宮が上須戒に住んだ経緯を、『えひめの記憶』は、次の様に記しています。
・・長崎払いとなった二宮敬作は、文政13年(1830年)6月、11年ぶりに故郷の磯崎の土を踏んだ。彼は故郷でしばらく休養した後、かねてから許婚であった喜多郡上須戒村(現大洲市上須戒)の西イワと結婚した。 敬作は、西家で2年半ほど医師を開いたが、敬作の名声を耳にした宇和島藩主伊達宗紀の内命もあって天保4年(1833年)、30歳の時、宇和郡卯之町(現宇和町卯之町)に出て開業した。
察するに、上須戒に移った敬作に、向居家が住まいと開業の場を提供したのではないでしょうか。


本堂
ようやく本堂に着きました。出石山(812㍍)の山頂部に立っています。
こちらに祀られているのは、木彫・千手観音菩薩像です。年に一度、開帳されるとのことです。


供養塔
本堂の側に供養塔が建っていました。
 本尊湧出一千二百年供養塔
と刻まれています。「湧出」とは、当寺のご本尊が、「自然湧出の銅仏」であることによります。


奉納錨(平成28年撮影)
山頂の、たしか佐田岬を眺める方向だったと思いますが、玉垣の角に、錨が奉納されていました。航海安全の祈願に、船乗りたちが担ぎ上げてきたのでしょうか。海での安全を山上の神仏に祈願することは、かつては、普通にみられたことです。
錨は、江戸時代から明治時代にかけて和船で使われた、四爪錨(よつめ・いかり)と呼ばれる錨です。


西方向?
雨天の景色も、それなりにすばらしいのですが、もし晴れた日の景色をご覧になりたいときは、→(H28春6)に数枚、載せていますので、ご覧ください。


南方向?
こちらは南・宇和方向でしょうか。


北東方向
これは、電波塔が見えるので、おそらく、北東方だと思います。


下山
うどん屋さんに入り、甘酒と素うどんをいただきました。
腹を満たし、休憩も取り、これから下山です。時刻は、12:50。
なお余談ですが、私は、・・うどんを食べるなら素うどん、・・と決めております。薄い透き通るようなナルト、できればたっぷりめのワケギ、これに七味を少々。これが、うどんそのものが楽しめる、一番の食べ方です。麺にコシがあることを、固いことと勘違いしているうどん屋さんも多い近頃、こちらは麺も汁もけっこうな、美味しい四国のうどん屋さんでした。


県道248号
県道が見えてきました。
2.5キロほどの下りでしたが、40分ほどかかっています。


標識
県道248号(瀬田八多喜停車場線)です。
標識に上須戒が示されています。前述の、牛の護国寺や二宮敬作住居跡がある所です。
私は右方向、高山に向かいます。


雲の中
天気はわずかに回復傾向を見せています。



県道148号を行きます。



1キロ弱歩くと、往路、登ってきた道への下り口に着きました。ここを下ると、平野に出るわけです。
しかし復路は、別の道を行きます。高山を経て阿蔵から西大洲に降りて、宿まで歩くことにしました。



雨が止んできたようです。しかし、私はまだ、雲の中にいます。


標識
出石寺から、9キロほど歩いてきたようです。時刻は、14:10です。


視界不良
視界不良ですが、なんの不安もありません。



西大洲の街が見えます。今日、始めて見る「下界」の景色です。


集落
高山(たかやま)集落でしょうか。集落名は、北方向にある高山寺山(こうせんじ山・561㍍)に由来するようです。元はお寺があったのかと思い、調べてみましたが、わかりませんでした。



途中、崖の崩落箇所を二箇所、目にしました。最近のものです。一カ所などは、民家のすぐ裏まで迫っていました。


メンヒル
この石は、「メンヒル」だと言います。日本語では「立石」(りっせき)と言うのだとか。
墓標だとも、なにかの記念碑だとも言われていますが、わかってはいないようです。なんらかの思いが込められているのは確かなのですが。
なおこの立石は、正面が真東に向き、その方向には冨士山と神南山があります。そのことに何の意味があるのか、ないのか、それはわかっていませんが。


肱南方向
写真中央に見える橋は、肱川にかかる肱川橋です。橋の右に広がる街部が、前号で記した、大洲城下の「大洲」になります。かつての「大津」です。肱川を境とする呼称では、「肱南」と呼ぶそうです。
拡大すると大洲城も見えるので、拡大してみます、・・次の写真をご覧ください。


肱川橋と大洲城
ピンボケですみませんが、大洲城が写っています。


案山子
思わず話しかけそうになりましたが、案山子でした。


肱北方向
肱北と呼ばれる地域です。肱川橋が架かり、愛媛鉄道(大洲-長浜間)の大洲駅ができたことで、この地域は開けます。
架かっている橋は、五郎大橋です。大橋を右方向に延長した先に、市立喜多小学校が見えています。(白く写った大きめの建物です)。



高山から、阿蔵(あぞう)という区域に入ってきました。


通行止め
「へんろ道 前方路崩落 迂回路」と標示されています。道標に記されているくらいですから、この崩落は、最近のものではありません。


案内
ここからは車道を行くこともできますが、信頼できる道標二本に誘われて、へんろ道を歩きます。



下へ降りてきました。


予讃線
予讃線の下をくぐり、大洲城に向かって歩きます。宿は肱川橋を渡った先にあります。


久米川
久米川です。この川が肱川に合流する所に、大洲城は建っています。
久米川は、今は大洲市を流れる川ですが、江戸時代は、上流部分は宇和島藩、下流部分は大洲藩と、分かれていました。前号で記した平野駅の近くに番所があり、ここが藩境になっていたのです。→(H28春6)


藩境の番所跡(平成28年撮影)
そのため両藩の領民間で、「水争い」がよく起きていたといいます。
こんな話が伝わっているそうです。
・・上流の宇和島藩が水を分けてくれないことに、下流の大洲藩は腹を立て、藩境に堰を築いてしまったのだそうです。
・・堰き止められた久米川の水は、当然、行き所を失い、宇和島藩内に溢れたといいます。これが大洲藩の狙いでした。
・・困った宇和島藩は、これからは水を分けることを約束。堰を解いてもらい、洪水から逃れることができたのだそうです。


大洲城
大洲城が間近に見えてきました。奥の山は、冨士山です。


鉄砲町
城下町らしい町名です。
喫茶店があったので、入ってコーヒーをいただきました。前号で「少年式」のことを記しましたが、それは、ここで仕入れた話でした。


宿着
10時間弱の歩きでした。普通よりは3-4時間は長くかかっているでしょう。
ポンチョを脱いでタオルで水を落とし、杖を洗って玄関に入りました。
さて、どうしたものか、おろしたザックはどこに置いたらいいのか、どうやって靴を脱ごうか、靴下もここで脱がないと、・・しかし、なにも困ることはありませんでした。宿の若夫婦が、すべてを心得ていてくれました。



天気予報です。明日も雨のようです。それも、梅雨末期の激しい降りのようです。
北さんが心配して、電話を入れてくれました。

  平成22年(2010)7月13日 雨 第三日目

歩きはじめ
6:45 宿発。今日の歩きは、20キロ余です。ほとんどは、国道56号を歩きます。内子町に入る手前のへんろ道以外はアスファルト道なので、足を傷めなければと心配です。
宿は、懐かしの(後述)、大瀬の「民宿来楽苦」を予約しています。


国道56号
ジョイフルでコーヒーを飲みました。ここもまた、思い出の場所だからです。
6年前、(北さんと)ここでコーヒーを飲んだことがきっかけで、二人の女性遍路と知りあえたのです。北条さんと松山さんでした。お二人とは、民宿来樂苦でも同宿し、翌日は久万高原まで、相前後しながら歩いたのでした。翌年、私たちが松山を通過する時には、宿まで、差し入れ持参で「激励」にも来ていただけました。ここは、そんなおつきあいが始まった所なのです。


赤橋の絵
歩道に沿って、小学生の絵が展示されていました。どれも「印象派」で、素晴らしい絵ですが、長浜小学校の「赤橋」は、とりわけ心引かれる絵でした。


赤橋(平成18年撮影)
「赤橋」とは、肱川河口に架かる開閉式の鉄橋で、昭和10年(1935)の完成です。開閉式であるところに、かつての肱川水運の隆盛がうかがわれます。
なお赤橋が架かる現・大洲市の長浜は、土佐を脱藩した坂本龍馬が、ここから船に乗り、下関に逃れたことでも知られています。


十夜ヶ橋永徳寺
国道56号と松山自動車道に囲まれて、十夜ヶ橋永徳寺はあります。
十夜ヶ橋の謂われはよく知られており、私自身も記したことがあるので→(H28秋1)略しますが、その謂われから発して、十夜ヶ橋では珍しく、遍路の野宿が認められています。


大師堂
リライト版であるから書けることですが、令和6年5月4日の『オンライン読売新聞 ゆかりの地を訪ねて』で、十夜ヶ橋永徳寺の三好円暁住職は、次の様に話しています。
・・今でも週に2、3人は野宿をし、屋根のある通夜堂にはほぼ毎日お遍路さんが泊まられます。


本堂納経所
これもまたリライトである故の記事ですが、平成30年(2018)の西日本豪雨で、都谷川が氾濫。十夜ヶ橋永徳寺は、甚大な被害を受けました。特に本堂は傾き、解体のやむなきに至ったと言います。


都谷川(とや川)
その豪雨からまもなく6年。令和6年6月、新しい本堂が完成したとのことです。
令和6年(2024)5月10日、南海放送は、次の様に報じています。
・・県産のヒノキやケヤキが使われた本堂は、基礎をおよそ2メートルかさ上げするなどの対策がとられています。・・(次なる水害に備え)中二階に避難者を受け入れるスペースが設けられています。


お大師さま
洪水の時には、この部分も水没していたのでしょう。
棲みついていた鯉たちは、どこにいったのでしょう。瀧をも登る魚ですから、なんとかやり過ごしたとは思いますが。



下の道は国道56号、上の道は松山自動車道です。
56号を歩き、やがて新谷の街に入ります。昔の風情を今に残す街です。江戸時代は、大洲藩の支藩・新谷1万石が支配する街でした。→(H28秋2)


神南酒造
古い造り酒屋、神南酒造です。残念ながら、今は廃業しているとのことです。


神南山
前号でもご覧いただきました。少彦名命の神奈備山である、神南山です。


国道56号
国道に「イノシシ危険」の標識が立っています。


内子町
内子町に入ります。しかし古くからの内子の街は、まだすこし先になります。


分岐
国道56号から離れて、左の道に入ります。


分岐点
古い石柱は、徳右衛門道標です。
  是〆菅生山迄九里 左へんろちかみち
  内之子六日市大師講中


谷戸へ
徳右衛門道標の「左 へんろちかみち」が、この道です。
この道は、谷戸へ入って行く道です。



ゆるやかに谷戸の道を上ってゆきます。今日、唯一の土の道です。
右には、棚田が開けています。


棚田
地面の柔らかさを足裏が感じています。苗の青を、目が楽しんでいます。
この道を上りきると、そこは運動公園になっていて、ここから内子の、古くからの街への下りとなります。


野球場
ここもまた、懐かしの場所です。松山さん、北条さん、北さんと、ここで休憩。野球を見ながら、栄養補給をしたのでした。


溜め池
古くからの溜め池で、駄馬池というそうです。道を挟んで、お大師さんの「思案堂」があります。→(H28秋2)


南京はぜ通り
予讃線の下をくぐり、内子の街に入ります。
なぜ「はぜ通り」ではなく「南京はぜ通り」であるのか。本来なら蝋を採る「はぜの木」を植えたいところなのでしょうが、やはり「かぶれ」が心配なのでしょう。「南京はぜ」ならかぶれません。
内子はローソクの原料・櫨蝋(はぜろう)作りで栄えました。しかしその需要は、電灯の普及と共に、大正末期で無くなってしまいました。その後、内子は、今度は製糸の街に変貌。ふたたび活気を取り戻します。


薬屋
そして、今は観光の街として盛況のようです。本途、古い街並みを残しておいて、良かったと思います。
薬屋の様子を再現しています。薬箪笥やケースが整然と並ぶ様は、まさに薬種屋です。
因みに、看板の「六神丸」は、強心薬で動悸、息切れ、気付けに効果をあらわすとのこと。
「 五龍圓」は、 下痢、消化不良による下痢、食あたりなど。
「健胃散」は、これは読んで字の如し。
「沃度丸」ヨード丸と読むようですが、薬効の方はわかりません。



国道56号から分かれ、国道379号に入ります。奥に見える高架道は、松山自動車道です。


小田川
小田川は、近自然河川工法(多自然型河川工法)により、その景観の良さを失うことなく、改修工事されています。


道の駅
国道56号と379号の分岐点に、道の駅があります。
昼食をとり、明日まで保ちそうな行動食を購入しました。



この絵は、おそらくどなたの記憶にも残っていることでしょう。前回(6年前に)見たときは、もっと鮮明だったのですが。


6年前の絵
前回の絵です。6年の歳月が思われます。


小田川
数日来の雨で、水量が増えています。


バス停
右の小屋はバス停です。(令和の今はどうかわかりませんが)便は少ないけれど、上畦々(かみうねうね)まで、バスが走っていました。
バス停の小屋は、遍路の休憩所としても、提供されていました。中には、4人ほどが横並びに座れる、椅子がありました。


お店
「協力会地図」にも記載されているお店です。食糧調達に便利であるだけでなく、現在地確認の目印にもなってくれます。


長岡山トンネル
平成27年(2015)の開通。 長さ392㍍とのことです。
小田川の蛇行に沿って走る道のヘアピン部を、トンネルを穿って切り離しました。ショートカット道ができたわけです。


休憩所
開いてみると、清潔な布団が重ねてありました。
壁に「二泊しかお宿はできません」とあるのは、長逗留してしまう人がいるからでしょうか。


桝木橋
車は、橋を渡って直進。
歩きの人は、左の道を進みます。距離的には、ほとんど変わりません。


登山口
石鎚神社登山口、とあります。できれば登ってみたいと思い、その所在を調べてみましたが、わかりませんでした。


あずまや
道路沿いにあって、誰でもが立ち寄れるこの四阿は、「茶堂」です。一面に祭壇が設えられているのも、茶堂の特徴です。茶堂については、→(H16春5)→(H28春4)をご覧ください。


灯森三島神社
灯森三島神社(とぼしがもり三島神社)は、永禄11年(1569)、曽根城主・曽根宣高(のぶたか)が大山積神、 雷公神、高龗神を、大三島・大山祇神社から勧請して、神殿を建立したことに創まる、とのことです。その時に作られた御系図は、幅30センチ、長さ3メートルの巻物で、街の有形文化財とされていると言います。
なお、この社殿に残る彫刻は美事で、「長州大工」の手になるものです。「長州大工」については、枯雑草さんの「 長州大工の心と技 その1-7」を、ぜひご覧ください。灯森三島神社は、「その4」に載っています。


大瀬
内子町大瀬地区です。大江健三郎さんの生家があります。
大江さんが生まれた昭和10年(1935)当時は、まだ(内子町ではなく)大瀬村で、この辺は「成留屋」(なるや)と呼ばれていたそうです。少年時代の大江さんにとっては、ここが全世界・・僕が育った「谷間の村」・・でした。
大江さんは、ここで経験した閉塞感を、とりわけ初期作品に、色濃く反映させています。


大瀬小学校
説明板によると、この学校は、・・明治7年(1874)に大成小学校として新築、開校しました。明治時代中期、成留屋尋常小学校となりましたが、昭和16年(1941)大瀬国民学校を経て、昭和22年(1947)から今の名前になりました。・・とのことです。
健三郎少年は、昭和16年(1941)、大瀬国民学校に初の国民学校1年生として入学。昭和21年(1946)、最後の国民学校卒業生として、卒業しました。
「少国民」たるべく期待されて入学したものの、5年生の夏には敗戦。以後は「すみぬりの教科書」で学んで、卒業したわけです。次に入学したのは、6-3制が発足したばかりの新制中学・大瀬中学校でした。


大瀬中学(平成28年撮影)
大瀬中卒業後は、内子高校に進学。1年後、松山東高校に転校しています。松山東高での伊丹十三さんとの出会いは、よく知られています。
松山東高への転校は、イジメが原因だったと言われていますが、はたしてそれは、どうでしょうか。思うに、大江さんは「無法の輩」と戦い、負けたのです。それは、イジメられた、とは言いません。彼が一年生の時に創った詩を読んで、ますますその感を深くしています。


仏石
小田川の急流が、仏様の横顔を削り出したのだそうです。
下の写真を参考に、お顔を見つけ出して下さい。


仏石
たどれますでしょうか。


曽我十郎
曾我兄弟の敵討ちなどについては、→(H16春5)をご覧ください。


休憩所
『えひめの記憶』に次の様な記述があります。・・宇和町の四十三番明石寺から久万町の四十四番大宝寺に至る遍路道は、約70kmあり札所間の距離が県内では最も長い区間である。その途中に内子町大瀬の中心集落である成留屋(なるや)地区がある。遍路道沿いということもあり、この地区に町並み整備事業の一環として、地域のコミュニティ施設としての機能と遍路休憩所の機能を持つ休憩所の建設が計画された。
この計画によって建設された一軒が、上掲「あずまや」の茶堂です。この道には他にも、何軒もの休憩所が設けられていることは、今号でもご覧いただきました。


案内
千人大師堂200メートル、楽水大師堂(らくみず大師堂)1300メートル、と記されています。
私が宿泊予定の民宿来楽苦は、楽水大師堂のすこし先です。


千人大師堂
ここの始まりは、お接待所だったそうです。千人のお遍路さんを宿泊させたのを機に、大師堂を建てたのだといいます。故に千人大師堂となった今も、ここには多くの遍路が、宿泊してゆきます。



現在時刻は16:40。
宿まで、あと1キロほどですから、ちょうどいい到着となるでしょう。


分岐
きっと間違える人がたくさんいたのでしょう。大きな看板を建ててくれました。


民宿いかだや
「川登筏の里交流センター いかだや」が見えます。その名の通り、此所は「筏流し」による、地域興しのセンターです。小田川→肱川→長浜への、筏によるかつての木材運搬を再現。人を呼ぼうというのでしょう。
また此所は、宿泊施設にもなっており、もちろん遍路も泊まることができます。むしろ多くの遍路に泊まって欲しいようです。前回ここを歩いたとき(平成17年/2005)は、オープン直前でしたが、次に来たら泊まってや、などと言われたものでした。


筏流し橋
「いかだや」の数キロ上流に、「筏流し橋」が架かっています。前回歩いた時はまだ架かっていませんでしたが、その3年後、平成20年(2008)に架橋されたのだそうです。
察するに、「筏流し」による地域興しは、息長く続いているようです。


楽水大師堂(らくみず)
ここに湧く「水」を、弘法大師は「楽しんだ」といいます。それで「楽水」大師堂なんだそうです。建物は昭和56(1981)に再建され、比較的新しいのですが、大師像は、寛政元年(1789)の作だといいます。
天明9年(1789)が1月早々に改元され、始まったのが、寛政元年でした。幕政が田沼意次から松平定信へと移った、そんな時代の大師像です。


今夜の宿「来楽苦(きらく)」
6年前、お世話になった宿です。大洲で行き会った北条さん、松山さん、そして北さんが一緒でした。あの頃、私は「お亥の子さん」の歌に関心を持っており、そのことを話すと、北条さん、松山さん、ご主人の三人が歌って下さったのでした。楽しい一夜でした。


夕食
今夜は一人。ご主人が相手をしてくれました。
6年前の宿帳を出してくれたのでめくってみると、4人の名前が(当然のことではありますが)今も並んでありました。
 ♫お亥子さんという人は  いちで たわらを踏ん張って にで にっこり笑うて・・

さて、ご覧いただきまして、ありがとうございました。
なんとか字数制限(30000字)に引っかかることなく、大瀬の宿まで、たどり着くことができました。次号では三坂峠は越えたいものと、考えております。御期待ください。更新予定は、8月7日です。

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大洲見学 一条兼定仮寓の地 金山出石寺へ

2024-06-12 | 四国遍路

 
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  このアルバムは、平成22年夏の遍路アルバムを、リライトしたものです。
  そのため、令和6年の現状とは異なる、写真や記事内容が含まれています。
  その点、ご注意ください。

  平成22年(2010)7月11日 1日目

大洲駅
今治へ友人の法事に出かけ、その帰途、供養も兼ねて、大洲-松山間を歩くことにしました。
ただし51番石手寺に向けて歩きはじめるのは、明後日からです。今日は大洲城付近を見学して大洲に泊り、明日も、金山出石寺に登って、大洲に連泊します。


駅前大鳥居
駅前に、大鳥居が建っています。梁瀬山(大洲市菅田町大竹)に鎮座する、少彦名神社の鳥居です。 
少彦名命は、松山で大国主命と別れて単独で南下。大洲の開拓に働らいていましたが、ある日、肱川を渡ろうとして急流にのまれ、亡くなられてしまいました。民人は、少彦名命の亡骸を川から取りあげ、壺に収めて梁瀬山に埋葬。社を建てて、命の御霊を祀って来たと言います。それが少彦名神社です。


扁額
むろん少彦名命は神様ですから、「亡くなられた」とは言え、死んでしまったのではありません。この世から『常世の国』へ神去られた、と解すべきなのでしょう。「亡骸」は、命がこの世に残された「現し身」ということでしょうか。
とまれ、神様の亡骸を祀るなんて、珍しい神社ではあります。

 
宮ヶ瀬
なお大洲の菅田町には、もう一社、同名の少彦名神社があります。
こちらは、少彦名命の居館跡に建てられたとされる、少彦名神社です。隣接して『宮ヶ瀬公園』があるので、少彦名命がのまれたという肱川の急流・宮ヶ瀬は、この神社近くだったと思われます。


神南山 
また大洲には、少彦名命の神南備山(かんなび山)・・神が鎮座する山・・もあります。その山が神南山(かんなん山)と呼ばれているのは、おそらく「かんなび」の転訛なのでしょう。私たちは神南山を、大洲から内子に向かうとき、右手に望むことが出来ます。晴れていれば、710㍍と507㍍の、二つのピークが見えるはずです。その two peaks が神南山です。
少彦名命については、→(H28秋7)もご覧ください。


政権交代1年
駅前の、ここは民主党の選挙事務所なのでしょうか?
実はこの日は、参院選の投票日だったのです。1年前(平成21年/2009)の9月、民主党政権が誕生して以来、初の国政選挙でした。
結果は、民主党の大敗でした。改選議員の当選数では、民主党は第2党に落ちています。
ところで、ポスターの顔が小沢一郎さんなのは、どうしたわけだったのでしょうか。この時点では、小沢さんはもう代表ではありませんでした。


宿 
今夜の宿「ときわ旅館」です。荷物を預け、長く楽しみにしてきた(後述)、大洲城の見学に出かけました。


渡場
肱川橋の北詰一帯は、『渡し場』という地名で呼ばれているようです。かつて此所に、渡し舟の乗り場があったのです。
『えひめの記憶』は、この渡しが『油屋下渡し』と呼ばれる渡しで、・・大洲町と中村側を結んでいた、・・と記しています。他にも・・城下(しろした)渡し、桝形渡し、柚木下渡し・・などがあったのだそうです。


地図
・・大洲町と中村側・・については、地図をご覧ください。『大洲』と『中村』が大字名として、肱川の右岸(肱北)と左岸(肱南)に残っています。
『大洲』なる区域が肱川右岸(肱北)にまで広がるのは、大正2年(1913)に肱川橋が架かり、それを受けて愛媛鉄道(大洲-長浜間)の大洲駅が、肱北に出来てからのことでした。それかあらぬか、『四国遍路道指南』には、・・大ず城下、諸事調物よき所なり。町はづれに大川有、舟わたし。・・と記しています。油屋下渡しは「大洲の町はずれ」にあった、というのです。


肱川
『えひめの記憶』は、『油屋下渡し』のその後についても、記しています。
・・その後、肱川に橋をかける夢の実現を願う人々は、明治6年(1873年)になると、油屋下渡しに13隻の川舟を杭でつないで横に並べ、洪水になると容易に取り外しのできるように板を並べた簡単な浮き橋を考案した。この橋は遠望すると形が亀の首をさしのべたように見えるところから一般に浮亀橋(うきき橋)と言い、肱川橋が開通するまでの間、交通上の重要な役割を果たしていた。しかし、大正2年(1913年)に肱川橋が完成すると、遍路はこの新しい橋を渡るようになった。
因みに、浮亀橋には通行料がかかり、1銭5厘を払ったようです。江戸期の渡し船は、1文だったとか。


4代目肱川橋
写真の橋は、大正期の肱川橋から数えて4代目の、肱川橋です。昭和42年(1967)に架けられました。
ただし、(リライト版なので書けることですが)この橋は令和の今日、もうその姿を見ることは出来ません。令和4年(2022)、5代目肱川橋に架け替わっているのです。


工事中の5代目肱川橋
写真は、平成28年(2016)に撮った、工事中の5代目肱川は市です。着工は平成21年(32009)と言いますから、ずいぶん時間をかけて工事しています。


「なげ」 
川に突き出ている石積みは、「なげ」と呼ばれるもので、上掲地図でも、矢印の箇所に示されています。
『えひめの記憶』は、「なげ」について、次の様な証言を採録しています。
・・もし渡場の「なげ」がなければ、臥龍の淵から大きく蛇行する水流が対岸(右岸)の河原を侵食し、その結果、城山直下の淵は大量の土砂によって埋め尽くされるだろうから、渡場の「芯なげ」は水防とともに、大洲城の下の淵を深くし(次掲写真参照)、肱川側からの攻撃に対して守りを固める、極めて重要な役割を果たした。


大洲城
私と大洲城との出会いは、平成15年(2003)春のことでした。北さんを含む友人たち四人との観光旅行中、メンバーの一人の伝手で、工事中の天守内部を見学することが出来たのです。
・・遍路で大洲に来たときには、もう完成しているだろうな。
・・あいつらに写真を送ってやろう。悔しがることだろうぜ。
北さんと、こんな会話を交わしていたのでしたが、・・


工事幕のなかの天守
その一年後、大洲にやって来た北さんと私は、たった4日の違いで、大洲城天守の「幕落とし」・・天守が姿を現す、その瞬間・・を見はぐってしまったのでした。
その悔しさは一入だっただけに、完工なった大洲城天守の姿には、感慨深いものがありました。写真を撮って、北さんはじめ、あの時の仲間たちに送ってあげたのは、むろんのことです。


工事中の天守 
戦後復元された木造天守としては、4重4階は日本初。高さ19.15㍍は、日本一を誇る、とのことです。
古い史料を研究し、最大限、昔通りの復元をめざしたと言います。


水門
肱川橋を渡り、水門を潜って、川沿いの道に出ました。
肱川は、洪水が起こりやすい川とされていますが、なるほどと思わせる、大きな水門です。


新伝流発祥の地
新伝流は、元和3年( 1617)頃、大洲藩士加藤主馬光尚が、・・水辺の柳が流れにそって動いているのを観て、深く悟り創案した・・という、古式泳法の一流派です。大洲藩の武術として受け継がれ、やがて松山藩にも伝えられ、全国に広まったといいます。
因みに、私が子供の頃に泳いでいたのは、抜き手、横泳ぎ、背泳ぎ(泳ぎ疲れると、この姿勢で浮かんでいた)、立ち泳ぎ、もぐり(お尻をピョコンとあげて、深く潜ってゆく)・・などでした。バタ足は、ほとんどした覚えがありません。


冨士山
ふり返ると、冨士山が見えます。富士山(ふじさん)ではありません。冨士山(とみす山・319㍍)です。
また、この山が如法寺山とも呼ばれるのは、大洲藩加藤家の菩提寺・如法寺があるからです。山頂には巨石文化の痕跡がみられるなど、興味深い山です。→(H24秋7)


宿
昔懐かしい宿屋がありました。映画・寅さんシリーズ「寅次郎と殿様」のロケ地になったとのことです。殿様役は、なんと嵐寛寿郎(アラカン)。マドンナは 真野響子でした。
この宿、そのレトロ感が若者やガイジンサンにも人気で、盛況しているのだと言います。


東洋城旧宅
『東洋城』とは物々しい俳号ですが、実は、本名「豊次郎」のモジリでしかありません。『鷹羽狩行』が何のことはない、「高橋行雄」のモジリであるのと同じです。流行りだったのでしょう。
東洋城は、宇和島藩城代家老の血筋の人で、若い頃、夏目金之助に英語を習い、その縁で子規に師事したといいます。子規の没後、虚子と対立することになりますが、この頃開いた東洋城の句会には、飯田蛇笏や久保田万太郎らが参加していたそうです。
追記:鷹羽狩行さんの訃報に接したのは、今号更新の前日でした。記事を書き直すか、少し迷いましたが、鷹羽さんの愛すべきお人柄を表すエピソードとして、そのまま残すことにしました。ご冥福をお祈りいたします。


大洲城
大洲城は、鎌倉末期、伊予国司・宇都宮豊房の築城に始まるといいます。蛇行する肱川に久米川が流れ込む地形を上手く使った平山城です。その基礎となった山の名から、地蔵ヶ岳城とも呼ばれています。 
近世に入り、小早川隆景(秀吉の「四国攻め」で伊予を制圧した) 、戸田勝隆 (秀吉子飼い)、藤堂高虎 (築城の名手 )、 脇坂安治(賤ヶ岳 七本槍)ら、錚々たる連中が相次いで入城。慌ただしく城主が替わりましたが、元和3年(1617)、大坂夏の陣の功により、加藤貞泰が米子から転封。この加藤氏が、明治まで大洲を支配することとなります。
→(H28秋2)


大洲城
『大洲』は、元は「大津」だったと言います。「津」は「湊」を意味しますから、この場合は、肱川の「川湊」を意味したのでしょう。肱川が物流の導線であったことをうかがわる名前です。
『大津』が『大洲』と改められたのは、一説には、脇坂氏が淡路国「洲本」から入封したことに由来する、とも言いますが、これは、疑問視する向きが多いようです。大方の見方は、加藤氏の時代に、「大」きな「州」の上にできた街なので『大洲』となった、というものです。


大洲城のつばめ
つばめが人の家に巣をつくるのは、カラスなどの天敵から子供を守るためだといいます。むろん、その前提として、人間は自分たちに害を加えないという、人への信頼があります。
しかし人は、つばめの信頼に応えているでしょうか。
 ♫柳青める日 ツバメが銀座を飛ぶ日
かつては、あの銀座でさえ、つばめが飛び交っていたのですが。


中江藤樹像
中江藤樹の像がありました。大洲は、近江聖人と称えられる中江藤樹が、少年時代から青年時代にかけてを過ごした土地なのです。藤樹はまた、大洲藩の飛び地であった北条で暮らした時期もあり、北条の柳原には、「中江藤樹先生立志之地」の碑が建っています。たまたま出会った北条の人が、・・戦前、北条の小学生は、修学旅行で大洲に行った。・・と話してくれました。旧藩の繋がりで行ったというより、中江藤樹先生の繋がりで行った、とのことでした。中江藤樹先生への篤い敬愛の心がうかがわれます。


中江藤樹先生立志之地の碑(北条柳原)
また、大洲城の南に在る県立大洲高校は、自分たちの学校が「中江藤樹邸址(ていし)校」であることを誇りにしています。校地が藤樹の邸跡と重なることから、そう呼んでいるのだそうです。戦後の一時期、その呼び名は忌避されましたが、1950頃から再び口に上るようになったと言います。→(H24春2)


鵜飼い  
大洲城から肱川橋を渡り返してくると、観光鵜飼いを見ることが出来ました。
側で観ていた4-5才くらいの、人なつっこい男の子が私に話しかけてきました。
・・ネェ、ナンデ ヒイ モエトランノー?
はて?問いの意味が分からないまま、・・なんでやろうねぇ・・などとごまかしていると、お母さんが通訳してくれました。
・・この子、夜の鵜飼いしか見たことがないんです。夜の鵜飼いは、火を燃やしているじゃないですか。


鵜飼い
聞けば、今年から昼の鵜飼いが始まったのだそうです。
次掲のポスターをご覧ください。6月-9月の毎週日曜日と、8月のお盆期間中、昼の鵜飼いが催されるとあります。


鵜飼いポスター
なかなかに鋭い子でした。


ででむし 
 でで虫の 出番の雨を 待ちゐたり 安井和子(俳誌のサロン 歳時記より
でで虫登場。ついに雨が降り始めました。この子は大歓迎なのでしょうが、明日に出石寺登山を控えた私には、出来れば降ってほしくない雨です。
風が強くで、傘では防げないのでポンチョを付けました。天気は下り坂。宿へ向かいます。


やど 
訪うと、すぐ宿の人が、新聞紙のボール玉が入った箱を持って、出てきてくれました。濡れた靴に詰めて乾かすためのボール玉です。ありがたく使わせていただきました。お風呂も沸いているとのこと。すぐ入らせてもらいました。
この宿には、連泊します。明日、軽装で金山出石寺に登るためです。

  平成22年(2010)7月12日 雨 第二日目

天気予報 
厳しい天気が予想されています。後で知ることになるのですが、この日、・・愛媛県では一時、時間雨量50ミリ前後の激しい雨が降り、夏目漱石ゆかりの木造2階建て「愚陀佛庵」が土砂崩れで全壊した。(『気象人』HPより)・・とのことです。
この激しい降りは、やがて私も身を以て知ることとなります。私の所には、ご丁寧にも、雷様(市川雷蔵さんではありません)も、お出でくださったのでした。
下欄の選挙結果は、民44、自51、公9、共3、社2、国0、み10、無2、残0、と表示されています。


駅前 
当初予定では宿から歩くつもりでしたが、雨の影響を考え、平野駅まで電車で行くことにしました。
ズルしてしまったと、やや気持ちが落ちこんでいましたが、今では、正解だったと思っています。


電車 
距離的には5Kほど短縮されると思われます。


Aコープ 
7:00 ポンチョと、百円ショップで買ったビニルのズボン、さらに折りたたみ傘をさし、平野駅を歩きはじめました。傘をさすのは、カメラを濡らしたくないためです。
この店のことは、宿でおそわっていました。食糧調達に便利なお店でした。


 
県道234号(大洲-保内線)を進みます。
今日私がゆく道は、「地蔵越え」と呼ばれているコースです。平野駅から出石寺まで、約8.7キロあります。
途中、「キリシタン大名 一条兼定仮寓の地」なる所があるとのことで、これは大いに楽しみにしています。「一条兼定」とは、むろん、前シリーズ(平成21年冬)にもたびたび登場した、幡多一条氏の第四代当主・一条兼定です。またまたこんなところで再会できるとは、思わぬ喜びです。


ひらじはし 
兼定が当地に仮寓したことは、『伊予温故録』(明治27年/1894刊)なる本にも、記されているそうです。
・・天正初、一条兼定、当域に二三年(にさん年)寄寓あり。
ここに言う「当域」は、文脈から「平地」(大洲市平野町平地)を指しますから、つまり「ひらじはし」(平地橋)が架かっているこの界隈は、もうすでに一条兼定に所縁の地である、ということのようです。


 
なおも県道234号を進みます。
上掲写真の鉄橋は、JR予讃線の鉄橋でした。大きな建物は、平野小学校の体育館でしょうか。


交通標識 
久米川と沼田川の合流点です。
この地点と次掲写真の分岐点の間には、地蔵堂や大安寺という、普段なら見過ごすことはない、興味深いところがあるのですが、天候が心配で、今回は通過することにしました。これらについては、→(H28春6)をご覧ください。


分岐 
沼田川に架かる橋の手前で、道が分岐しています。左が県道234号で、右は、234号の迂回路になっている道です。従って、右に進むと、やがてふたたび234号に合流することになります。
迷っていると、ガードレールに右方向へのシール(次掲写真)が貼ってありました。


矢印 
矢印に従いました。


道標 
迂回路状の道が234号に復する少し手前に、山道(林道)に入ることを促す、道標が立っていました。
なるほど、この道は、引き返すより進む方が、見つけやすいのです。それで右方向を指示したのでしょう。


山道 
山道の様相が強くなってきました。時刻は、7:25です。


ダム 
桑坂川砂防ダムです。通過は7:40でした。


竹林 
竹林のざわつきが、映画『蜘蛛巣城』(黒澤明)の名シーンを思い出させます。先ほどから遠雷も聞こえており、何やら心乱される気分です。


竹の道 
稲光と雷鳴の間をカウントすると、5秒くらいあります。これを基準として、雷雲の動きを考えることにしました。


分岐 
7:50 いよいよ林道から山道に入ります。宿「ときわ」のご主人によると、この先、草に隠れた細い路があるので注意が必要、とのことです。
そのご注意の含意するところは、ひとつは、道を失わないようにとのご注意。もう一つは、ハメ(マムシ)が隠れているかもしれない、とのご注意です。ヤツは、雨が嫌いじゃないらしい。


ペンシル型道標 
要所要所にペンシル型の道標が立っていて、とても助かりました。
そのことを宿に帰って話すと、ご主人が、・・あれ、私が建てたんです。・・とのことでした。


案内 
この頃はまだスパッツを持っていなかったので、いまや私の靴の中は、洗濯機状態です。一歩毎に、靴下は脱水-吸水を繰り返しています。
着衣は、雨には濡れていませんが、汗で内側からグッショリです。


停滞
雷様が近づいてきました。5秒より早く雷音が聞こえる回数が増えてきました。
30分ほど停滞することにし、ザックを担いだまま座り込みました。


 
幸い雷様は遠ざかりつつあり、雨も小止みです。
登りを再開します。


一条兼定寄寓地跡(H28春撮影)
8:35 「一条兼定仮寓の地」に着きました。集落を見下ろす、やや広い平坦な場所に、平地郷土史愛好会による案内板「キリシタン大名 一条兼定仮寓の地」が建ち、日蓮宗の題目塔が二基、石積みの台座に置かれた妙見堂、石板に覆われた、教会を模したかのような小祠、ヤマモモの樹、何基もの墓石、・・などがあります。


一条兼定寄寓地跡(H28春撮影)
天正2年(1574)、幡多一条氏の第4代当主・兼定は、中村を捨て、岳父・大友宗麟の豊後臼杵に逃れました。長宗我部元親に追われたとも、家臣団のクーデターから逃れたとも言われますが、おそらくは、そのどちらも正しいのでしょう。クーデターは元親の陰謀であったとの説もあるくらいに、兼定をとりまく状況は、混乱、錯綜、切迫していたと思われます。


寄寓地跡からの景色(H28春撮影)
とまれ、そんな状況下、兼定は豊後に移り、キリスト教に入信。唯一絶対神に、その身をゆだねました。天正3年(1575)のことです。霊名ドン・パウロ。
兼定がこの地に寄寓するようになるのは、これ以降のことです。


寄寓地跡からの景色(H28春撮影)
兼定の平地寄寓は、大きくは「渡川の戦」の前と後、2回に分かれます。(そう私は考えています)。
1回目は、来たるべき渡川の戦(天正3年/1575)に備えての寄寓でした。その様子を案内板は、次の様に記しています。
・・長宗我部元親に追われ豊後大友宗麟の許に在った頃、(兼定は)一時当地平地村梶屋谷城に仮寓したという。其処で彼はキリシタン修行と旧領奪還の陣立てに専念し、・・。


寄寓地跡唐の景色(H28春撮影)
また『伊予の隠れキリシタン』(小沼大八著)は、次の様に記しています。
・・追放先の豊後で受洗した兼定が、土佐の有力者たちからの誘いもあり、自分の領地をキリスト教宣撫の理想郷とすべく、ついに立ち上がる決意を固めたことは先の述べた。けれども、何しろ相手は難敵、長宗我部勢である。大友勢だけが手勢ではいかにも心許ない。かれには是が非でも、伊予の土豪たちを味方につける必要があったのである。けれども、そんな工作をするにも、かれには伊予に足場が必要だった。してみれば、へんぴな山城だったにもかかわらず、兼定が平地の高森城(案内板にある、梶屋谷城の別名)に身を寄せたのは、そんな理由ではなかったか。・・


日蓮宗題目塔
しかし、この1回目の寄寓は、長期間にわたるものではありませんでした。
 兼定が豊後に移ったのが、天正2年(1574)
 キリスト教入信が、天正3年(1575)
 渡川の戦が、同・天正3年(1575)
この年表が正しいかぎり、この時期の兼定には、長期間の寄寓・・例えば『伊予温故録』が記すような、・・二三年の寄寓・・などは、出来ることではありませんでした。寄寓は、せいぜい数ヶ月の長さだったはずです。


日蓮宗題目塔 
ただし、それは寄寓がなかったことは、意味しません。兼定は(中村ではなく)宇和島で兵を上げ、中村に向かって進軍していますが、このことを可能とするには、平地寄寓は欠かせませんでした。
戦の結果は、兼定方の大敗でした。案内板は次の様に記しています、・・天正3年、一時は旧領奪還に成功したが、(略)、渡川の会戦に敗れ、南予地方処々に潜行後、天正10年宇和海の孤島戸島に隠棲中、旧臣の一人に暗殺された。
兼定軍は大敗し、ここに幡多一条氏は、事実上、絶えてしまします。


教会?(H28春撮影)
すでにお分かりと思います。2回目の平地寄寓は、渡川の会戦に敗れた後、・・南予地方処々に潜行・・しているときでのことでした。処々の一箇所が、『平地』だったのです。
おそらく2回目の寄寓では、兼定は出来るだけ長く、一箇所に留まろうとしたでしょう。・・二三年の寄寓・・は、この時のことだったと思われます。


教会?(H28春撮影)
一説には、当地にはキリスト教会が建っていたとも伝わります。その伝承は、彼が此所で信仰一途の日々を送っていたことを、伝えているのかもしれません。彼が播いたキリスト教の種子が、ここに花咲き、教会となっていたのです。
それかあらぬか、この写真をご覧ください。見えにくいですが、ドーム状の屋根の上には、十字架らしきものが見えています。在りし日の教会の姿でしょうか。


出土した青銅製キリスト像(『伊予の隠れキリシタン』より
当地にキリスト教の信徒がいた、確かな証拠があります。高さ30センチほどの、青銅製のキリスト像です。安政の頃、土地の農夫が掘り出したものを宇和島藩が保管。維新後、元宇和島藩医が譲り受けたことにより、世に知られるようになったと言います。
元藩医は、以下のような箱書きを残しています。・・安政年中 宇和嶋領 保内郷平地村 通称切支丹畑ヨリ 里人掘出セル物也 此ノ畑ハ 当時教会堂如キ物ノ有リシ所也シナラン 明治十年十月 東京伊達家邸中ニ於テ 割愛ヲ受ク 谷世範・・


妙見堂
この小祠は、かつてこの地にあった、キリスト教信仰の名残です。妙見堂ですが、一見して、扉のモチーフが「十字」であるとわかります。(次掲写真をごらんください)破風にも「十字」が、すかし彫りされています。
この小祠は昭和30年に再建されたものですが、施工の宮大工は、・・旧態どおりに作った・・と述べているそうです。察するに、明治のキリスト教解禁の時、江戸時代から伝わるキリスト教信仰の話を基に、このような様式が作られ、これまで受け継がれてきたのではないでしょうか。


破風の十字
小祠の中には、むろん妙見菩薩像が収められているのですが、その像は、同じ妙見菩薩像でもキリスト教との縁が深いと言われる、「能勢妙見菩薩像」です。
この事実を『伊予の隠れキリシタン』は、次の様に説明しています。
・・この地に土着したキリシタン信仰が時代を経るにつれて、(日蓮宗の)妙見信仰と習合した姿なのだろう。


能勢妙見菩薩像
またWikipediaには、次の様な解説がありました。
・・能勢がキリシタン大名の高山右近の領地であったことと、キリシタンの多い土地に日蓮宗の僧侶が送り込まれたことから、隠れキリシタンは日蓮宗系の妙見菩薩像(いわゆる能勢妙見)を天帝(デウス)に見立てたともみられている。
思うに、北極星を神格化した妙見菩薩は、本地垂迹説では天之御中主命の本地仏とされる仏(神)です。その点で、天帝(デウス)に結びつけやすかったのではないでしょうか。


矢筈紅十字
写真は、能勢妙見菩薩像が立つ台座です。台座に掘られた矢筈十字は、能勢氏の家紋であり、また日蓮宗霊場・能勢妙見山の寺紋でもあります。
台座の前に置かれた奉納札には、この小祠が昭和30年に建立されたものであること。制作費が4300円であったこと。寄進者名、制作者名、寄付者名などが記されています。なお寄進者は、その姓から、後述の墓に関係する方と思われます。


大樹 
木柱に、・・大洲市指定 梶ヤ谷のヤマモモ・・とあります。
案内板には、・・胸高幹周は2.8m、樹高が12m、地上から2.5mの付近で幹が4つに分岐していますが、根回りは石垣を補修した際に1mほど埋められたため、本来の根回りの大きさはわかっていません。・・とあります。推定樹齢は250年ですから、残念ながら、一条兼定お手植えの、とはまいりません。兼定は16世紀の人です。時代が合いません。


墓地 
文政、明和、安永などの墓石が、隣り合って並んでいるので、いつの時期かに改葬したと思われます。
此所に眠る人たちと、かつてのキリスト教信仰との関わりが、気になるところです。


 
さて、長滞在になってしまいましたが、出石寺へ向けて歩きます。


ヌタバ 
イノシシのお風呂は、お湯タップリです。


道標 
雷様以外、誰一人として会うことのない道で、心強い案内です。


丁石 
三十二丁、とあります。距離的に合わないので、長い年月かけて、どこか上からずり落ちてきたのかもしれません。


分岐 I
10:10 出石寺山道入口です。
これより先、出石寺までの約3Kの道は、歩きの人なら、どこからアクセスした方てもかならず通る道です。


石門 
撮影時は、全く気づいていませんでしたが、この巨石には像が刻まれているようです。
さながら門番ででもあるかのように、何者かが立っています。


 
もうすぐ到着ともなれば、金山出石寺(きんざん・しゅっせきじ)について、ふれておかねばなりません。
山号「金山」は、弘法大師が「三国無双の金山」なりと賛嘆されたことに由来するといいます。ただし「金」は、「銅」を意味します。中国の青銅器に刻まれた文字を「金文」というように、「金」は、かつては、「銅」を意味していました。
この山では、実際、明治末から昭和20年まで、三菱鉱業が経営する出石山(いずしやま)鉱山が操業していたのだと言います。


新四国28番
縁起では、作右衛門という猟師が鹿を追いつめ、まさに射んとした時、天智鳴動、光明赫赫、鹿の立つ岩が真二つに割れ、金色燦然たる千手観世音菩薩像が、地中から湧き出たのだといいます。
この奇瑞を目撃した作右衛門は、猟師を止め、「道教」と名乗って仏道に入ったそうです。そして、出石寺を開基したと伝わります。作右衛門の道教が、千手観世音菩薩を御本尊として、出石寺を開いたのだそうです。


新四国29番
さて、話はまったく違いますが、 愛媛県に「少年式」なる通過儀礼があることをご存知でしょうか。かつての元服に相当するもので、14才(中2)の少年・少女が対象だといいます。
少年式当日、少年・少女には課題が課せられます。大洲の少年・少女に課せられるのは、「金山出石寺への徒歩参拝」です。(課題は地方によって異なり、例えば八幡浜では、佐田岬の先端・三崎までの往復が課せられるそうです)。


新四国石柱
そこで、リライト版の強みを活かして、令和の今日、「少年式」はどうなっているのだろうか、調べてみました。
”少年式 大洲市 出石寺” で検索すると、うれしいではありませんか、大洲南中学と平野中学の記事に出会うことが出来ました。「少年式」は「少年の日」に名を変え、課題は単独行ではなく、親子連れに変わっていましたが、出石寺徒歩参拝は、きっちり、残っていました。


道標
大洲南中学の記事です。
・・2023年11月1日 2年生の少年の日を祝う会の記念行事として出石寺登山が行われました。生徒たちは、各グループで協力して、苦しいときはお互いに励ましあいながら、目的地にたどり着くことができました。



地元中の地元・平野中学の記事は、こうです。
・・2年生親子行事「少年の日記念出石寺登山」は、12月9日(土)に実施する予定です。登山はしんどいけれど、出石寺から見える景色や達成感は何物にも代えられないと思います。体調を整えて、みんなで出石寺を目指しましょう!
ガンバレ!少年、少女たち!


片目地蔵
江戸時代のことです。秀厳さんという出石寺の住職さんは、ご本尊の千手観世音菩薩を、どうしても拝見したくなりました。というのもご本尊・千手観世音菩薩像は、弘法大師がお定めになった秘仏で、50年に一度しか開帳されません。なのに指折り数えてみるに、自分は生涯、拝見できそうもないのです。
ある日のこと、どうしても我慢できなくなた秀厳さんは、お姿を拝見することにしました。しかし、ご縁日以外の日に拝見すると、その目は見えなくなると言われているので、片目で拝したのだそうです。
そして、・・言い伝え通り、秀厳さんの片目は、見えなくなってしましました。


片目地蔵(平成28年撮影)
秀厳さんが亡くなられたとき、供養のお地蔵さまが作られました。片目の秀厳さんですから、地蔵さんも片目です。それで秀厳さんの地蔵さんは、『一眼(いちがん)地蔵』と呼ばれはじめたのでしたが、・・
やがて、・・これはひょっとしたら、『一願(いちがん)地蔵』ではないか、・・という噂が、立ちはじめたのだそうです。秀厳さんの『一眼地蔵』に願をかけると、『一願』が叶うからなのです。
どうやら秀厳さんの見えなくなった「一眼」には、秘仏・千手観世音菩薩が、しっかりと焼き付けられているらしいのです。であるなら、掛けた願はかならずや、その千手で受けとめて戴けるとて、以来、「片目地蔵」さんに願掛けをする人は、後を絶たないのだと言います。


千体地蔵壇
平成元年の日付の、出石寺からの「お願い」看板がたっていました。
『片目地蔵』との関わりなのでしょうか、この地に地蔵像を断りなく奉納してゆく人が増え、出石寺は、困っているのだそうです。
そこでお寺は「千体地蔵」を発願。祭壇を作って下さいました。
これからは、寺に断って、ここに祀るよう呼びかけています。


到着
弘法大師像が見えてきました。なにに向かって、立っておられるのでしょうか。
玉垣に囲まれた、聖域中の聖域に、いよいよ入ってゆきます。


あじさい
アジサイには雨が似合います。雨の日に来てよかった!

ご覧いただきまして、ありがとうございました。
本文中、特に「兼定寄寓の地」の記事で、平成28年撮影の写真を多用しています。平成22年の遍路では多くの撮影が失敗し、写真が不足してしまったからです。傘を差していたために片手撮りになってしまい、ピンボケてしまったのです。その割りに書きたいことは多く、やむなく別の遍路の写真を使いました。
更新が遅れたのは、誘われて、ちょっと長めの旅行に出かけたからでした。帰宅してから間に合わせるつもりでしたが、疲れが出てしまって、やりきれませんでした。この分では、秋の遍路が案じられます。
次回の更新は、7月10日の予定です。

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コメント (2)
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浦ノ内湾 宇佐 竜の渡し 竜坂 36番青龍寺 塚地峠 35番清滝寺

2024-05-08 | 四国遍路

 
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  このアルバムは、平成21年の遍路アルバムを、リライトしたものです。
  そのため、令和6年の現状とは異なる、写真や記事内容が含まれています。
  その点、ご注意ください。

  平成21年(2009)12月23日 第7日目

気風
民宿「なずな」の朝は、気嵐がきれいでした。


気嵐 
気嵐(けあらし)は・・冷たい空気が温かな水面の上にある時、川や海、湖などから蒸発する水蒸気や、水面に近いところの空気が冷やされることによって発生する・・のだそうです。
よって、陽が昇るとともに、だんだん消えてゆきます。


あさひ
今日は今回遍路の7日目です。
宇佐まで歩き、宇佐大橋を渡り、竜坂を経て青竜寺に参ります。その後、塚地峠を越え、高岡の宿に泊まる予定です。
明日は清滝寺にお参りして、その後下山して帰途につくので、丸一日歩くのは、今日が終わりとなります。


浦ノ内湾
雪で始まった今回の遍路でしたが、最終日は穏やかな天候に恵まれました。
幸い体調もいいし、楽しい一日としたいものです。


いかだ
釣り筏かと思ったら、高知県水産試験所の施設でした。どうやら筏の下が生け簀になっているようです。


水産試験所
すぐ先に、その建物がありました。高知県水産試験所の他に、高知県栽培漁業センター、高知県中央漁業指導所、高知県海洋漁業センターなども入っています。


イカスミ
察するに、ここでイカが釣り上げられたようです。イカは忍法墨隠れを試みましたが、事ここに至っては、もはや得意技も役に立たなかった、ということでしょうか。
浦ノ内湾では、チヌ、マダイ、キス、アオリイカなどが釣れるとのことです。


巡航船の乗り場  
  埋立市営巡航船待合室
須崎市の市営巡航船待合所です。「埋立」は、この辺の地名です。文字通り、埋め立てて生まれた、土地なのでしょう。
巡航船は、湾口の埋立から各所に寄りながら、湾奥の横浪まで運行しています。登下校の時間帯には、スクールバスならぬスクールボートとなり、小中学生が乗り込みます。


巡航船運行図
『四国遍路道指南』に、次の様な記事があります。
・・いのしりより横なミ船にてもよし。うさよりのかち道ハなんじょゆへ、舟おゆるしのよし申伝ふ。
井尻から横浪まで舟で行くことを、お大師さんがお許しになっている、・・つまり、この巡航船航路は、お大師さん公認の、立派なへんろ道だというのです。
しかし、いくら徒道が難所だからとはいえ、難所は他にもあることだし、どうして此所だけ?と思わないでもありません。むろんそれには、(後述しますが)訳がありました。


浦ノ内湾
(ご記憶でしょうか)前号の「摺木バス停」の記事で、・・バス停の時刻表がはがれている・・と書きました。
その事情が判明しました。バス路線は廃線になっていたのです。
上図の下部に、・・高知高陵交通(株)が運行していた路線バス 宇佐-須崎-久礼-矢井賀間は、平成21年(2009)4月1日より廃止になりました。・・と記されています。私が歩く8ヶ月前に、廃線になっていたのでした。


休憩所
この休憩所は、地図上では、須崎市と土佐市の市境線上にあります。
休憩所がいずれに属するかわかりませんが、とまれ、ここから土佐市に入ります。


内部
・・お遍路さん休憩所(宿泊可)・・の張り紙があり、みかんの側には、・・地元のみかんです。無農薬で味がよいです。どうぞ。・・の置き手紙がありました。
今朝早く、どなたかが掃除され、みかんも付け足してくださったようです。ありがとうございます。


汐浜荘
汐浜荘です。平成15年の秋に、私は(北さんと)お世話になました。女将さんから戴いた懐かしい思い出については、→(H15秋1)からご覧ください。
なお、令和6年現在、汐浜荘は休業中となっています。


県立海洋高校
平成11年(1999)、高知県立室戸岬水産高等学校、高知県立高岡高等学校宇佐分校、高知県立清水高等学校漁業科を統合し、高知県立海洋高等学校が設立されました。県の東部、西部、中部に分散して在った、海洋系の高等学校が統合されたわけです。むろん統合したことの利点はあるでしょう。しかし地方の中の地方が、また一段とさみしくなりました。


宇佐大橋
宇佐大橋です。昭和48年(1973)に架橋された大橋で、浦ノ内湾の湾口(宇佐-井尻)を結んでいます。長さは、645㍍とのこと。
橋は、横浪半島を縦断する横浪スカイラインの、東の入口となっていますが、私たち遍路にとっては、36番青龍寺への道ということになります。


渡し場跡から
橋が架橋されるまでは、もちろん渡し舟で渡りました。「竜の渡し」と呼ばれた、お大師さん所縁の渡し舟です。
その謂われや、渡しを担ってきた人たちについては、後述の「丹生神社」の記事をご覧ください。


渡し場跡から
かつての「竜の渡し場」は、今はお年寄りたちの憩いの場ともなっているようです。横並びに椅子が並んでいます。
いつでしたか、やはり同じように横並びに並んだお年寄りたちがいたので、・・なにをしているのですか・・と尋ねると、・・海を見よる・・との応えが返ってきました。なにを話すでなくても、一緒にいることが大切なのでしょう。


落書き
遍路からはちょっと逸れますが、
・・ままのバカー・・
なんとも可愛い落書きがありました。口に出せないので、書いたのでしょう。
バカーと伸ばしているところに、この子の叫びが、聞こえるようです。


宇佐大橋
宇佐大橋には、この時期の橋としては立派すぎるとも思われる、歩道が付いていました。幅が広く、しかも車道からガードレールで分離されています。
これは、きっと、36番青龍寺へ向かう私たち歩き遍路への、ありがたい配慮でもあるにちがいありません。(ただ、高いところが恐い私としては、欄干がもう少し高くて、外側に開いていなければ、もっと嬉しいのですが・・。自転車の人は、歩行者より目線が高いので、なおさらでは?)


あんない
宇佐大橋を渡ると、道が左右に分かれます。
左が横浪スカイラインの道で、これまで「協力会地図」が、「へんろ道」として示してきた道です。
「旧遍路道」という右方向への表示は、井尻集落から登る「竜坂」(旧遍路道)への案内です。「竜坂」は、「竜の渡し」につづく山道で、かつては、この道こそが36番青龍寺に至る「へんろ道」であったわけです。


案内の拡大
・・急な坂道です。約30分 体力と時間のある方はどうぞ・・
この案内に誘われて、私も(体力の自信はありませんが)竜坂を歩かせてもらうことにしました。
途中出会った集落の方は、どなたもが、・・いい道ですよ。歩いてください。・・と声をかけてくださいました。きっと皆さんが力を合わせ、復旧させた道なのでしょう。


鳥居の扁額
扁額に「丹生神社」とあります。
見た瞬間、ちょっとした驚きに近いものを感じていました。社名の「丹生」から推知して、この神社の祭神は、高野山の丹生都比売神社(にうつひめ神社)から勧請されている、とわかるからです。ご存知のように、丹生都比売神社の祭神・丹生都比売大神は、弘法大師・空海と深い関わりをもつことで知られています。
私は丹生神社の縁起を、ぜひとも知りたいと思いました。そこにはきっと弘法大師・空海つながりで、青龍寺の創建譚もまた、記されているにちがいないのです。


丹生神社
しかし丹生神社縁起を、私は長く知ることができませんでした。ようやく縁起を記した記事に出会えたのは数日前、このリライト版を書くために、ネットを再検索していたときのことでした。
大蔵達雄さんという方がネット上に掲載された、『散歩びより … 丹生神社 青龍寺』という記事に出会えたのです。そこには、大蔵さんが高知の図書館で閲覧された、「宇佐町史」(昭和12年 宇佐保勝会刊)からの抜粋と思われる、一文『丹生神社』が掲載されていました。


津波避難所
以下、その記事をご覧ください。
・・丹生神社の神社帖には以下のように記されている。弘法大使が青龍寺を開基する時、その守り神として高野山麓の丹生大明神を勧進した。そして、(高野山に接する)天野の丹生神社の八人衆に擬して、弘法大師の従者の中から八人が永代の(井尻の)丹生神社の宮仕にされ、八人衆の生活の資として渡守と横浪三里乗り合を渡世とさせた。・・
念のため補足すれば、ここで言う「天野の丹生神社」は、丹生都比売神社を指しています。丹生都比売神社になぞらえて、(青龍寺の守り神である)丹生神社にも八人衆を置いて宮仕とし、その人たちの暮らしが成り立つよう、竜の渡しと横波三里の乗り合を渡世とさせた、というのです。


井尻集落へ
井尻の集落を抜けてゆきます。
この辺の海抜は10㍍未満なので、万一、津波に襲われたときは、丹生神社へ避難するようです(前掲写真)。
ただし、実は丹生神社の海抜も、さほど高くはありません。にもかかわらず避難所に指定されているのは、境内から、中世の山城・井尻城跡(標高115㍍)に登ることができるからです。その道に避難所が設けられています。なお「神社-山城」の形は、13番大日寺(阿波一宮-一宮城)でも見た形です。→(H26春6)


登り口
井尻集落を抜けようとするところに、写真のような標識がありました。
竜坂への登り口ですが、まだまだ軽い登りです。写真には写っていませんが、左側は集落の墓地になっています。


登り口
この簡易舗装は、長くはつづきません。


丁石I
二十一丁石がありました。丁石は、古い道の証です。青龍寺まで、今で言えば、2.3キロほどでしょうか。



沢筋のところが、やや通りにくくなっていました。ただ、赤いリボンも含めて、案内はしっかりとついており、迷う心配はありません。この箇所以外は、まったく問題なく歩くことができました。


これはマズイ
きつい作業の中で、ついウッカリしてしまったのでしょうが、これはマズイと思いました。



さて、「丹生」について、記しておきます。
まず、読みです。どうやら、神名に使われたときの「丹生」は、(知るかぎり)「にう明神」ですが、社名に使われた場合は、かならずしも「にう」ではないようです。
多くは「にう神社」ですが、他に「にゅう神社」「にぶ神社」などもあり、井尻の「丹生神社」は、「たんしょう神社」あるいは「たんじょう神社」と読むようです。なお、「丹生」を冠する神社は、全国に180社ほどもあると言われています。


案内
「丹生」は、「丹」を「生」む所を言いますが、では「丹」とは何でしょうか。
丹生都比売神社のHPからお借りすると、次の様になります。
・・丹生都比売大神のお名前にある「丹」とは、辰砂(朱砂)の鉱石より採取される赤い顔料をあらわします。古来この丹には魔を退ける力があるとされ、貴ばれてきました。現在でも、神社仏閣を赤く塗り(丹塗り)、お祝い事に赤を用いるのは、この丹に由来します。丹生都比売大神は、この丹をつかさどり、その力であらゆる災厄を祓う女神です。・・



「辰砂」は、今日の用語で言うと硫化水銀なのだそうです。水銀と硫黄の化合物と言えばよいでしょうか。
赤い結晶をしていることから、朱の顔料が採取され、また水銀の原料、薬の材料にも使われました。薬名に反魂丹、仁丹などと、「丹」が付がことがあるのは、そのためでしょう。


宇佐大橋
竜坂からの景色です。浦ノ内湾の湾口部は、あたかも川のように狭くなっています。
『四国遍礼名所図会』に・・猪の尻川(入海也、渡し舟四もん宛)・・と記されているのは、この筆者の目にも、川のように見えていたからでしょうか。
また澄禅さんの『四国遍路日記』には、・・是ヨリ三里 入江ノ 川ノ様ナル所ヲ 舟ニテ往也・・などの記事もあります。横波三里の枝湾が、川のようだと記しています。


竜の一本松
「竜の一本松」の説明がありました。
・・土地の人は「竜の一本松は桧か杉か」と言い続けてきました。この松は、松の木としてはとてつもない巨木で 実話として中学生が両手をつないで計ると、なんと六人分もあったそうです。台風で折れた枝そのものも、巨木だったそうです。
まるで桧か杉かと見まごうような、松の巨木がここに立っており、それを「竜の一本松」と呼んでいたそうです。


枯れ枝
一本松の枯れ枝でしょうか。普通の松の、幹なりの大きさがあります。


  
景色を楽しみながら歩きます。



下りに入りました。「竜の一本松」のところが、峠だったようです。


へんろ墓
日向国那珂郡小内海邑(現・宮崎市小内海)の代右衛門さんが、ここで亡くなりました。立派な墓を建ててもらえたのは、おそらく行き倒れも覚悟し、銭をなにがしか、持ち歩いていたからでしょう。
それにしても遍路墓の多いこと。残る石墓だけでも、これほどもあるのですから、今や跡形もなくなった土饅頭の墓を加えれば、どれほどの数だったでしょうか。亡くなった当人の無念はむろんですが、それを葬る土地の人たちのご苦労も、察せられるというものです。


丁石
九丁目 とあります。 


出口
竜坂の降り口です。降りて来た所を、ふり返って撮りました。


下の道
前方を写すと、このような景色になります。「協力会地図」にある、三陽荘、酔虎から入ってきた所です。



写真を撮ったり景色を楽しんだりしながら来たので、宇佐大橋からここまで、1時間10分ほどもかけてしまいました。ちょっと失敗でした。
普通に歩けば、案内標識にあったように30分、ややゆっくり目なら50分、といったところでしょうか。よい道です。ぜひ歩かれて、お楽しみ下さい。


蟹ヶ池
蟹ヶ池は「ベッコウトンボ及びその生息地」として、昭和57年(1982)、土佐市の天然記念物に指定されたそうです。しかし残念ながら、・・保護に取り組んだにもかかわらず、数年後には生息が確認されなくなり、当該指定は適当ではない状況となった。・・とのことです。
つまり、「ベッコウトンボ及びその生息地」としての天然物指定は、現在、解除されているということです。


蟹ヶ池
しかし、蟹ヶ池が県下でも最大級の湿地であること、サクラダテ、コウホネ等、希少価値を有する湿地植物が多いこと、生息するトンボの種類も多いこと、渡り鳥の飛来地となっていることなどを理由として、平成9年(1997)、今度は湿地としての蟹ヶ池が、天然記念物として指定されたといいます。
また蟹ヶ池で忘れてならないのは、高知大学などによる、近年の研究調査の結果です。なんと蟹ヶ池は、過去数千年にも及ぶ巨大津波の堆積物を、その底に沈め残しているというのです。これは大発見です。文字なき時代の「歴史」が、ここに記述されています。



カメラを持ち歩いている人なら、誰もがここで一枚、撮りたくなるのではないでしょうか。そんな景色です。


道標
  従是五社迄十三里
36番青龍寺から打ち戻り、37番五社へ向かう人への道標です。五社は、明治の神仏分離で岩本寺が37番札所となる前に、37番札所だったところです。
右面には、文化甲戌 初春 施主 井ノ尻浦 升市屋喜三平  とあります。 文化甲戌(きのえいぬ・こうじゅつ)は、 文化11年(1814)に当たるそうです。
左面は、三十六番 青龍寺 となっています。


山門
「 青龍寺の歴史・由来」を、四国八十八ケ所霊場会のHPから、転載させていただきました。ご覧ください。
以下は、その書き出し部分です。社名こそ出てきませんが、(前述の)『丹生神社縁起』の記述と、その内容はほぼ重なっています。
・・青龍寺を遍路するときは、「宇佐の大橋」を渡る。昭和48年に橋が開通するまでは、浦ノ内湾の湾口約400mを船で渡った。弘法大師も青龍寺を創建するさいに、この湾を船で渡っていた。お供をした8人を残している。その子孫が「竜の渡し」というこの渡し船を、近年まで代々守り続けてきたと伝えられている。・・


青龍寺の恵果堂
続けて「 青龍寺の歴史・由来」は、唐国にある「青龍寺」が和国にも建立される、経緯を記しています。
・・弘法大師が唐に渡り、長安の青龍寺で密教を学び、恵果和尚から真言の秘法を授かって真言第八祖となられ、帰朝したのは大同元年(806)であった。縁起では、大師はその恩に報いるため日本に寺院を建立しようと、東の空に向かって独鈷杵を投げ、有縁の勝地が選ばれるようにと祈願した。独鈷杵は紫雲に包まれて空高く飛び去った。・・
写真は、36番札所の「青龍寺」にある、恵果堂です。弘法大師・空海の恩師、恵果和尚を祀っています。


本堂
続いて、青龍寺の山号が「独鈷山」となった由縁です。
・・帰朝後、大師がこの地で巡教の旅をしているときに、独鈷杵はいまの奥の院の山の老松にあると感得して、ときの嵯峨天皇(在位809〜23)に奏上した。大師は弘仁6年、この地に堂宇を建て、石造の不動明王像を安置し、寺名を恩師に因み青龍寺、山号は遙か異国の地から放った「独鈷」を名のっている。・・
ところで弘法大師・空海は、独鈷のみならず三鈷杵をも、唐の地から投じたようです。その三鈷杵は高野山に落ちたとされ、そこには金剛峯寺が建っています。


土佐神社の礫石
何かを投じた先に神社や寺を定めたという譚は、よくある譚です。近場の例では、浦ノ内湾奧の鳴無神社から一言主命が大石を投じ、その落ちた先に土佐神社が建った、というのがあります。
写真は、一言主命が投じて土佐神社の地に落ちたという大石です。礫石と呼ばれています。


石段
長い石段を下り、35番清瀧寺へ向かいます。
なお青龍寺奥の院については、 →(H20春4)をご覧ください。



帰途は竜坂を通らず、海沿いの道を行くことにしました。


宇佐湾
しばらく座って、海を眺めていました。海なし県の埼玉ですごしているからでしょうか、海の側に来ると、こうしていたくなります。波の寄せる音が、とても気持ちよく聞こえてきました。


標識
宇佐町の「井尻」は、(いのしり)と読みます。しかしそれを知らずに、(いじり)などと読んでしまう人が、多いのかもしれません。
なるほど、井と尻の間に「ノ」を入れたら、読み間違うことはありません。


塚地峠へ
宇佐大橋を渡り、宇佐の住宅地を北方向へ抜けます。


萩谷川
萩谷川の改修工事がされていました。この川は、河口部が宇佐町の住宅地を流れているので、ひとたび氾濫すると、大きな被害をもたらします。
水源は、土佐市高岡地区(清滝寺側)と宇佐地区(青龍寺側)を隔てる、標高 300mほどの山域にあります。この山域を越えるのが、これから歩く塚地峠遍路道(青龍寺道)です。なお、この山域は波介山展望公園(はげやま展望公園) となっていて、絶好の景色が楽しめる、ハイキングコースなどが整備されています。(後述)


安政地震
地震・津波の恐さを忘れてはならぬと、ご先祖が碑を残してくれました。
円柱の碑体には、安政地震・津波の様子が、詳細に刻まれています。また、この碑が建つ場所は、安政津波の最高到達点だとのことです。津波は塚地峠遍路道の登り口近くまで来たのだと、この碑は教えているのです。
  天災は忘れた頃にやってくる。
との警句を発したのは、高知出身の寺田寅彦さんですが、思うにこの警句は、寺田さんの耳に届いた、ご先祖さんたちの声であったのかもしれません。


みかんのお接待
ちょうどミカンの収穫期とあって、ミカンのお接待がいっぱいです。どなたかにお裾分けをとも考えましたが、ほとんど人に出会うことがありません。たまに出会っても、・・私もいっぱい頂いて・・との応えです。どうやら持ち帰って、家族と共に戴くことになりそうです。


峠へ
峠への登りに入ります。
尚、この峠を越えた記録は、→(H15秋1)→(H20春4)→(H27春12)にも記しています。ご覧ください。


磨崖仏
峠道の宇佐側には、線刻の磨崖仏が残っています。この道が古くからの、修行の道であることの痕跡です。



・・こんにちは。
・・こんにちは。
挨拶を交わしてすれ違いました。なにかを思索しつつ歩いている、そんな感じの方でした。



高度を上げてゆきます。峠道の最高高度は、標高190㍍です。



峠の辺りでは木が伐採され、宇佐の海をながめ下ろすことが出来ます。
手前が宇佐の街並み。奧が、青龍寺が在る竜岬です。



さて、峠からの景色もすばらしいのですが、もっとすばらしい景色を楽しんでみては、いかがでしょうか。
峠から20分ほどの登りで、大峠展望台に行くことが出来ます。


大峠から高岡方向
展望台から見た高岡方向です。清滝寺がある方向です。


大峠から宇佐方向
こちらは、青龍寺が在る宇佐方向。この展望台からは、両方向の景色を望むことができます。


石鎚神社跡
もう少し足を延ばせば、茶臼山も楽しむことが出来ます。私は平成27年、ハイキンググループへの飛び入り参加で、訪ねてみました。所要時間は約二時間でした。→(H27春12)
写真は、茶臼山の石鎚神社跡です。見えにくいですが、鳥居の先の岩には、鎖がついています。


下り
峠から降りてきました。


休憩所
下ったところに、塚地休憩所があります。野宿の方への配慮でしょうか、寝具がおいてあります。


石材店
清瀧寺へ向かいます。この辺の道沿いには、石材屋さんが多く見られます。


波介川
仁淀川の支流である、波介川(はげ川)です。仁淀川との間に逆流防止水門が付くまでは、仁淀川の水量が増えると、その分が波介川に逆流し、波介川は度々、氾濫していたのだそうです。


用石
用石(もちいし)と読むようです。地名の由来を探してみたのですが、わかりませんでした。
石材屋さんとの関連や、近くの高石町との関連なども疑ってみたのですが。


茂兵衛道標
  青龍寺一里半余  259度目為供養  施主 中務茂兵衛義教
茂兵衛さんは、生まれは幕末の弘化年間(1844-48)ですが、明治から大正にかけてを生きた方です。生涯に、四国遍路巡拝度数・280度、建立した道標・230余基を成し遂げたとのこと。
「中務」は「中司」とも書き、読みは「なかつか」「なかつかさ」「なかづかさ」などがあるようですが、どうやら正式には「なかつかさ」のようです。また、明治・大正の人でありながら諱を持っていて、その読みは、おそらくは「よしのり」なのでしょうが、「ぎきょう」とも読むようです。


宿
白石旅館さんにお世話になりました。泊り客は、また、私一人でした。話し相手がほしい気もしていたのですが。
というのも、道中、たまたま気づいたのですが、今日は、私が初めて「お大師さんの道」を歩いた、「記念日」なのです。平成13年(2001)の今日、12月23日、私は初めて、(北さんと)「お大師さんの道」を歩いたのでした。
3泊4日の短い遍路でしたが、疲労で発熱する中、マメで痛む足で歩いた、印象に残る遍路でした。あれから8年。よくつづいています。

  平成21年(2009)12月24日 第8日目


宿に荷物を預け、35番清滝寺に参ります。


清滝寺へ
  四國第三十五番霊場醫王山清滝寺
  平城天皇第三皇子真如法親王御遺蹟地
「真如」について、四国八十八箇所霊場会の『清瀧寺の歴史・由来』に、次のような記述があります。
・・寺伝では、平城天皇(在位806〜09)の第三皇子が弘法大師の夢のお告げで出家し、真如と名のった。真如はこの寺を訪ね、息災増益を祈願して、逆修の五輪塔を建立、後に入唐している。大師十大弟子の1人である。


参道
ただし歴史本では、
・・第51代平城天皇(へいぜい天皇)の第三皇子は高岳(たかおか)親王といったが,「平城太上天皇の変」(大同5年/810)により皇太子を廃され、出家して真如と号した。・・となっています。清滝寺との関わりはわかりません。あるいは「高岳」と「高岡」が同音であることに発しているのでしょうか。
なお「法親王」は、出家した後続の呼称です。また「平城太上天皇の変」は、ある程度年配の方は、「薬子の変」の名でご存知の事件です。


山門
清滝寺は、明治4年(1871)、「廃仏毀釈」により廃寺となりましたが、明治13年(1880)には再興されています。
この仁王門は、明治33年(1900)の建立です。その天井画はよく知られています。


石段
仁王門から、長い石段を上ります。


本堂
山の中腹に切り土して造った広い平地に、本堂、大師堂、その間に本尊・薬師如来像が、横並びに並んでいます。


大師堂 
それらは、いずれも南面して、高岡、宇佐、そして太平洋を望んでいます。


景色
南方向の景色です。一番奥に、太平洋が光って見えています。



お参りを終え、下山します。


ふれあい
清滝寺にお参りしたときは、ここ「ふぃれあい」で食事をとるのが恒例となっています。今回も寄せてもらいました。
障害者自立支援活動の一環として営業されていましたが、残念ながら、このリライト時点では、営業は止めているようです。コロナの影響があったのかもしれません。


帰途へ
これよりバスで高知駅に向かいます。
高知駅からは、リムジンバスで高知龍馬空港へ。


富士山
そこからは飛行機です。

さて、ご覧いただきまして、ありがとうございました。平成21年冬の土佐路シリーズは、今号を以て、終わりとなりました。
次号からは、伊予路(大洲から松山)のシリーズを考えています。更新は6月5日の予定です。
この春、皆さまは、四国を歩かれたでしょうか。私は残念ながら、果たせませんでした。秋を期することとなるようです。

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焼坂峠へんろ道 安和 仏坂不動尊 宇佐

2024-04-10 | 四国遍路

 
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 このアルバムは、平成21年の遍路アルバムを、リライトしたものです。
 そのため、令和6年の現状とは異なる、写真や記事内容が含まれています。
 その点、ご注意ください。

  平成21年(2009)12月21日 第5日目のつづき

焼坂遍路道へ
そえみみず遍路道から長沢川に沿って下り、焼坂遍路道への分岐にやって来ました。国道56号から、左の道に入って行きます。


案内
  左 焼坂峠 とあります。
さて、焼坂峠遍路道は高知自動車道の工事で、どう変わろうとしているのでしょうか。そえみみず遍路道は、入り口部分の尾根筋が、さながら「巨大な切通し」のごとくに、大きくV字型に切り裂かれていました。



土佐くろしお鉄道沿いの道を進みます。


高架下
線路を潜ると、その先が工事現場です。
工事期間は、残るところ3ヶ月。平成22年(2010)3月25日までだそうです。
なお、リライト版の強みで先のことを書き加えれば、開通は、この約1年後の平成23年(2011)3月5日となります。


工事現場
すっかり様変わりしています。雑草の一本すらもないのが、不気味です。
「根刮ぎ」自然が改変された、ということでしょうか。


簡易遍路道
簡易階段の遍路道です。そえみみず遍路道のように、ここにも擬木の階段がつくのかもしれません。


トンネル
トンネルの口です。完工後は、焼坂第一トンネルとなります。


完工後の焼坂第一トンネル
平成27年に撮った、完工後の焼坂第一トンネルです。焼坂峠の下を抜けて行きます。長さは、2040㍍。


旧遍路道へ
ここからが、古くからの焼坂遍路道となります。
澄禅さんが『四国遍路日記』に、・・土佐無双ノ大坂也・・と記している坂です。


山道
   左道 登る 焼坂峠
登りにかかります。焼坂峠の標高は、228㍍です。


山道
今では少なくなった照葉樹の遍路道です。


景色
北方向には、幾重にも山が重なります。


切り通し
焼坂峠の切り通しです。
峠は中土佐町と須崎市の境になっているので、中土佐町を歩いてきた私は、これより須崎市に入ることになります。


標高
標高は、(撮影が悪くて)118㍍に見えますが、228㍍です。


安和
下に見える街は、須崎市安和。写っているケーブルは、ヨンデン(四国電力)の高圧電線です。


注意
ヨンデンからの、高圧電線注意です。


迂回路
迂回の指示がありました。
  へんろ道迂回路 あと1.3キロで、下の写真の場所に到着します。
ただし、これは順打ちをしている方への指示です。私は今は逆に歩いているので、「下の写真の場所」は、(それとは知らず)すでに通過しています。


林道
自分が今どこを歩いているのか、わからなくなってしまいました。今歩いているところが迂回路なのか、いつもの遍路道なのか、そんなこともわからず歩いていました。ただルートから逸れていないことだけは、ていねいな案内のおかげで、わかっていたのですが。


土佐くろしお鉄道
下に、くろしお鉄道の線路が見えました。ということは、焼坂遍路道も終盤に差し掛かっているということです。


降り口
降りてきました。


工事
ふたたび工事現場が現れます。


降り口
どうやら焼坂峠遍路道は、その両端・・登り口と降り口・・が切りとられているようです。


土佐くろしお鉄道
土佐くろしお鉄道の線路脇を歩いています。峠の上から眺めた道です。


保育園
記憶に残る保育園です。前回、焼坂峠へ向かう私たちに、親切に道を教えて下さった方がいて、その方が保育園を目印にするよう教えてくれたのでした。
こんな、なんということもない一齣が、なぜか懐かしく思い出されます。


安和トンネル
国道56号を進むと、安和トンネルに出ました。昭和42年(1967)の開通で、長さは245㍍です。
この辺はトンネルが連続する地帯です。安和トンネルを潜ると、その先には久保宇津トンネルがあり、さらに角谷トンネルへとつづきます。安和トンネルの手前には、(私は峠を越えたので潜りませんでしたが)焼坂トンネルもありました。
思うに、トンネルがない時代のこの辺は、峠越えに峠越えがつづく、旅人泣かせの道だったのです。


久保宇津トンネル
久保宇津トンネルです。長さは130㍍。開通は、安和トンネルと同じで、昭和42年(1967)です。
因みに、次の角谷トンネルも、同じ昭和42年(1967)の開通なので、どうやらこの三本のトンネルは、一括して工事がなされたようです。ただし焼坂トンネルだけは、それよりなんと29年も遅い、平成6年(1994)です。なぜだったのでしょう。その必要は、大いに感じていたはずなのですが。


角谷トンネル
前述の通り、角谷トンネルの開通は昭和42年(1967)。長さは420㍍です。
  かどや やけざか そえみみず
このトンネルの上には、かつては「やけざか そえみみず」と並んで恐れられた、「かどや」という大坂が通っていました。ただし、「やけざか そえみみず」とは異なって「かどや」は、今は藪に埋もれています。


地図
2013年・第10版第1刷からいただいた地図です。
やや左寄りの、赤い点線で表示されているのが、焼坂へんろ道です。右下には角谷トンネルが示されています。そのすぐ左には、名前は記されていませんが、久保宇津トンネルが見えます。もちろん焼坂トンネルも見えます。
焼坂へんろ道や角谷トンネルに、まとわりつくように走っている白線は、旧56号です。等高線をなぞるように、徐々に高度を上げながら、峠を越える道です。


須崎湾方向
旧56号の原型は、おそらくは「馬車道」だったでしょう。
馬車道は、物流が盛んになり、人力の歩荷では間に合わなくなった頃に登場した、馬車による峠越えの道です。馬の力には限りがありますから、斜度は緩やかになっています。その分、ダラダラと長い道になるのは、仕方のないことだったでしょう。トンネル掘削の技術が、まだ未熟であった頃の話です、


民宿ひかり
今日の宿「民宿ひかり」は、二度目の宿泊です。前回お会いできたおばあさんと子供たちには、今回は会えませんでした。
宿泊客は、今夜も遍路は私一人。他に10人ほどの工事関係の人たちが泊まっていました。みなさん礼儀正しく、食事が終わると、さっと自室に引き上げてゆきました。

  平成21年(2009)12月22日 第6日目

朝焼け
宿の名前「ひかり」は、この景色に由来するのでしょうか。


日の出
今日は、仏坂を越え、浦の内湾の海沿いの道を歩きます。宿は、青龍寺の7Kほど手前にある、民宿「なずな」を予定しています。
外海が見られる横浪スカイラインもいいし→(H20春4)、巡航船で行くのもいい(アルバムは準備中)。けれど6年前に歩いた海沿いの道は、忘れられない。もう一度歩きたいと思いました。→(H15秋1


気嵐の新荘川
川面に気嵐を漂わせる新荘川です。今日は、とりわけきれいです。
絶滅前のニホンカワウソが、最後に目撃されたのが、この新荘川だったと言います。昭和54年(1979)のことだったそうです。それより13年後、平成4年(1992)、ニホンカワウソの体毛が発見された、とも言われますが、これははたして、どうだったでしょうか。


須崎中学
新荘川を渡り、須崎中学を左に見ながら進みます。
リライト版の強みで、これより5年後の平成26年(2014)、須崎中学を襲った「廃校の危機」について、記しておきます。
同年、須崎市の「須崎市小中学校統合計画」が、・・市内5校の中学校を 現在の朝ケ丘中学校に統合する。・・ことを決めるのです。つまり、須崎中学は廃校となり、朝ケ丘中学に統合されることが、一旦、決まったのです。


須崎中の文化祭(平成15年/2003撮影)
ただし、この方針は令和4年(2022)、・・須崎中学校は、適正配置計画の基準を満たしているため、当面の間継続する。・・と、一部改訂されました。そのためリライト時点の令和6年(2024)も、同中学は存続しています。
とはいえ、・・生徒数が60人未満となる状態が連続して3年以上続くことが見込まれる学校は、統合を行う。・・との決定はまだ生きていますから、危機を脱したわけではありません。ガンバレ、須崎!須崎中!なお令和5年度の生徒数は、119名だそうです。がんばっています。


トンネル
トンネルの口が、二つ見えました。須崎はトンネルの街です。
右がE56(高知自動車道)の新須崎トンネル。左が、国道56号のかわうそトンネルです。なぜネーミングの発想が、こんなにも異なるのかわかりませんが、とまれ、開通はいずれも平成19年(2007)。比較的新しいトンネルです。
写真だけ撮って、通過します。


須崎隧道
今度は、須崎隧道です。こちらの開通は早く、昭和29年(1954)です。長さは115㍍。
写真でもお分かりのように、人や自転車がこれを抜けるのは、かなり危険です。


歩行者用トンネル
そこで須崎隧道には、「須崎歩行者用トンネル」が造られました。開通は、まことに遅まきながらの昭和62年(1987)。長さは145㍍です。


無量山観音寺
聖徳太子の四天王寺創建に加わった唐土の工人や仏師たちが、帰国途上、嵐に遭って遭難し、須崎の浦に漂着したのだそうです。観音寺は、この工人達が無事帰国を祈願して、正観音菩薩像を安置し祀ったことに発すると言います。
里俗に「三度栗大師」とも呼ばれるのは、弘法大師に栗を所望された童子が、(大師は一個だけ望んだのに)採った栗の全部を差し出した譚に発します。それに感じた大師は、童子が採りやすいよう木を枝垂れにし、年に三度実るよう祈願したというのです。
なお別格5番大善寺は、通過しました。→(H15秋1)をご覧ください。


水門
大間の潮止め水門です。
これより須崎港の最奥部を歩き、仏坂と浦ノ内湾沿いの道の分岐に向かいます。


須崎港
沢山の釣り船が係留されています。タモが写っているので、釣り船だと思います。


須崎港
須崎港には、住友大阪セメントの高知工場があります。たぶん、その煙でしょう。


須崎湾
須崎湾はリアス海岸です。穏やかで、しかも水深が深く、大型船の停泊も可能です。


河口
湾奥に二本の川が流れ込んでいます。
右が、押岡川の河口です。押岡川沿いの道(県道23号)を行くと、鳥坂峠(トンネル)を越え、浦ノ内湾の最奥部に出ます。約7.2キロの行程です。
左は桜川河口です。この川沿いの道(県道314号)は、仏坂と呼ばれる道になります。岩不動(岩乃不動尊)があるからです。さらに進むと、やはり浦ノ内湾(横浪)に出ます。行程は、約10.4キロになります。


桜川に架かる橋 
さて、私は仏坂・岩不動の道を行くのですが、ここで大失敗に気がつきました。不覚なことに、昼食の準備を忘れていたのです。私が歩きたい仏坂道には、コンビニなどはありません。


コンビニ
幸い、鳥坂峠(トンネル)の道にコンビニが在ることを知り、やってきました。
コンビニまで片道2キロ。引き返せば往復4キロ。一時間前後のロスとなります。ならば、このまま直進してしまおうかとも、考えたのでしたが、・・


住友大阪セメントのプラント
しかし、今日の行程は20キロほどで、かなり余裕があります。それに「楽」よりも「苦」をとった方が、気分もいいし。・・やはり引き返すことにしました。
「楽」に流れなかったことが、うれしかったからでしょうか、往路では目に入らなかった景色が、復路では入ってくるようになりました。カメラを向ける余裕も、生まれてきました。


へんろ道 
これ、見た覚えがある!
懐かしい看板です。1年前にこの道を歩いたとき、しばらくここで立ち止まり、この楽しい看板を眺めていたのでした。
  おへんろさんが行く道 県道23号 老人と子供と美人の多い地区
  車は徐行 徐行 最徐行


平成20年(2008)の写真 
1年前に撮った写真です。土砂降りの雨が上がった後のことでした。→(H20春4)


仏坂へ
さて、ここからが仕切り直しです。
分岐点に戻りました。これより 桜川左岸を、仏坂へ向かいます。


峠へ
桜川左岸の道・県道314号です。


川と雲
ワンちゃんと二匹のネコちゃんを従えた、女性と出会いました。
ワンちゃんはリードでつながれていますが、ネコちゃんはつながれておらず、女性とワンちゃんの前後を、尻尾をピンと立てて歩いています。尻尾を立てるのは、ネコちゃんの喜びの表現です。


お接待
・・家がすぐそこなので、お茶でもどうぞ、・・と誘っていただきました。陽当たりのよい庭先で、小一時間も話し合ったでしょうか。
・・現金がなければ生活できない、そんな世の中はおかしいですよ。
・・ミカン食べてください。私が作っている、無農薬栽培のミカンです。まあ、虫もつきますが、虫も生きなきゃいけないんだし、仕方ないですよ。
・・岩不動の住職さんは、お話好きです。話しかけてください。
そんこんなを話し合ったのでした。



ワンチャンが、しきりと私に寄ってきます。遊んで欲しいのです。
ネコチャンがまた散歩に行ってしまい、寂しかったのかもしれません。


お接待
別れ際に、女性は不動明王真言を大声で唱え、私の旅の安全を祈ってくださいました。
写真は、お接待の無農薬ミカンです。ありがとうございました。


仏坂へ
仏坂の登り口へ、県道314号を進みます。


貯蔵庫
記録も記憶も曖昧で申し訳ないのですが、ミョウガだったかショウガだったかの、貯蔵庫なのだそうです。須崎はどちらも産するので、わからなくなりました。
防空壕の跡を利用したのかと尋ねると、いや、貯蔵庫として新しく掘った、と答えてくれました。


県道314号
おばあさんと立ち話をしました。
・・この家は日当たりがよくなく、ヒヤイのだけれど、兄さんにもらった土地だし、それに、ここに住んでいればお遍路さんとも話が出来るし、それで住んでいるのです。
・・満州から引きあげてみれば南海地震。その後、チリ津波もあったしねえ。
波乱の人生を語ってくれました。


仏坂へ
  佛坂不動尊 光明峯寺 ここから1K
これなら、道の間違えようもありません。


ヤマガラ
歩いていると、小鳥が肩先をかすめて飛びました。人に親和性を持つ鳥の飛び方です。
しまった、ヒマワリの種を忘れた! 後悔しながら、それでも道端に座り掌を差し出してみると、・・なんというサービス精神でしょう。掌に乗ってくれました。
むろんエサが置かれていないので、すぐ飛び立ってしまいましたが、そのとき掌に感じた小鳥の体重は、忘れられない感触です。
ヤマガラは、掌から去った後、しばらく側の手すりに留まっていました。”だましたな!”とでも言っているのでしょうか。


岩不動へ
この道は、車も通れます。しかし、出遭うことはありませんでした。


告示
・・是ヨリ奧光明峯寺ハ 遙カ昔弘法大師空海修行ノ砌 当山ニテ紫雲を感得号泣シ コレオ大岩ニ刻ム コレ当山本尊岩之不動明王ナリ 右ノ如ク当山ハ紫雲垂レル神仏習合ノ霊山ニテ 真心オシテ礼拝修行セバ 速カニ神仏オ顕現シテ 至福ニ至ル霊山ユエ 当山境内ニテノ山菜山芋及ビ植物採集オ禁ジマス 当山住職英心合掌


光明峯寺山門
6年前に北さんと訪れたとき、季節は春でした。
なんとも穏やかな空間に、ただ身を置いているだけで癒やされていた、・・そんな心地よい記憶があります。


境内 
光明峯寺は、「岩不動さん」と人口に膾炙しています。弘法大師御作とされる、岩之不動明王が祀られているからです。


岩之不動明王
不動堂です。前回は扉が開いていて、お姿を直に拝むことが出来たのですが、今は、しっかりと閉まっています。
訪れた時間帯がよくなかったのでしょうか。



青龍寺に向けて歩きはじめました。
しかし、いきなり厳しい坂です。順打ちならば、この坂を下るのですが、今、私は逆に歩いているので、登らなければなりません。


坂の上
ようよう登ってきました。


案内
順打ちの人用に、案内が立っています。



これより今日の宿までは、7-8キロです。急ぐ必要はありません。


宇佐へ
県道23号です。鳥坂峠(トンネル)の道に合流しました。これより浦ノ内湾沿いに、宇佐方向へ向かいます。


石柱
仏坂への入口を案内しています。


休憩所
入口近くの休憩所です。生け花が心を和ませてくれます。


横浪小学校
横浪小学校です。前掲の須崎中学のところでも記したのと同じ事情で、これより5年後の平成26年(2014)、横浪小学校は廃校となります。


新・浦ノ内小学校(平成27年/2015撮影)
平成26年(2014)に誕生した、新・浦ノ内小学校です。横浪小学校を増改築して、新・浦ノ内小学校に生まれ変っています。
横浪小学校は校名を失いましたが校舎を残し、旧浦ノ内小学校は校舎を失いましたが(後述)、校名を残しました。アイコの智恵です。
校門の両側に立つ「二人二宮金次郎像」は、それぞれの旧校に立っていたものでしょう。


かさまつはし
東分川に架かる、笠松橋です。東分川は、このすぐ先で奥浦川と合流。浦ノ内湾に注ぎます。


鳴無神社遙拝所
鳴無神社(おとなし神社)の遙拝所です。湾の対岸に赤い鳥居の鳴無神社が見えます。→(H27春10)→(H27秋1)


浦ノ内湾
湾口から湾奥まで三里(約12キロ)。リアス海岸の入江が続く枝湾は、正式には浦ノ内湾ですが、横浪三里(よこなみ三里)との雅称を持ちます。


浦ノ内湾
穏やかな海を眺めながらの歩きとなります。飽きることのない景色です。ハマチ,ノリの養殖が盛んで、浮かぶ筏からは、チヌ、マダイ、キス、アオリイカ等が釣れるといいます。


摺木(するぎ)バス停
このバス停の山側に、浦ノ内立目摺木(浦ノ内たちめ・するぎ)という集落があります。この集落のためのバス停でしょう。
ただ、時刻の時刻表の表示は、はがされていました。(後になって、廃線になっていたことがわかります)。


宇佐へ
県道23号を宇佐へ進みます。



近頃珍しい、放し飼いの飼い犬です。それとも脱走したのでしょうか。
人は嫌いではないらしく、吠えたり咬んだりの危うさは、まったくありませんでした。それどころか、しばらくは付いてきてくれました。「案内犬」ではなかったようです。


農業
この辺りは、ポンカンの産地です。


お接待
ポンカンをお接待にいただきました。前にいただいたミカンと合わせて、私のザックは柑橘類でいっぱいです。


狩猟禁止
猟銃の散弾がポンカンの実の中に入り、保管中にコンテナ内で腐る被害が多発しているのだそうです。
そのため、ポンカンの収穫が終わる時期(12月31日)まで、この地区での猟は禁止されています。


浦ノ内隧道
昭和30年(1955)の開通。長さは、255㍍です。 


休憩所
お遍路さん専用の休憩所だそうです。なぜでしょうか、船を屋根に担いでいます。
船体の CHEERFULは、我が田に水を引いて、どうぞ「楽しく遍路」をつづけてくださいとのメッセージ、と解しましたが如何でしょうか。



室内には魔除け札が貼ってありました。
「伯州三徳山」とあるので、国宝・投入堂がある、伯耆国・三徳山三佛寺のお札でしょう。


鳴瀧八幡宮
人皇65代花山院(かざん院)が京から勧請したと伝わる、鳴瀧八幡宮です。花山院廟が、この神社から少し山側に入ったところにあることから、このような伝承がうまれたのでしょう。
ただ私見では、浦ノ内湾での豊漁を祈願して、地元民たちが祀ったと考えました。
八幡(やはた)は、「多くの旗」の意。この場合、旗は「大漁旗」で、八幡さまは、豊漁をもたらす神様なのです。(旗が「戦旗」と解され「武神」とされてしまったのは、八幡さまの不幸です)。


黒潮牧場
高知競馬場を走るハルウララが、一躍、全国に知れ渡ったのは、平成15年(2003)のことでした。私は北さんと、その頃、ここを歩いています。
負ければ負けるほど高まる人気。その単勝馬券は、「絶対に当たらない」ことから、交通安全のお守りになったというのですから、負けるが勝ちのお手本のような馬でした。あの馬、いまはどうしているでしょうか。
黒潮牧場は、(HPによれば)・・種牡馬、繁殖牝馬、競走馬としての役目を終えた馬達が、幸福な余生を送るための牧場・・なのだそうです。


釣り筏
写真中央に、屋根付きの筏が写っています。たぶん釣り筏なのでしょう。
夏には納涼の宴会、秋には月見の宴なども、いいのではないでしょうか。


浦ノ内小学校
浦ノ内小学校です。6年前のことが、懐かしく思い出されました。
平成15年(2003)秋、私は校門前の無人スタンドで、あけびの実を50円で買って食べたのでした。スタンドは、子供たちが総合学習の一環として、「経営」しているものでした。


校舎跡(平成27年撮影)
これより更に5年後、まさか校舎が取り壊され、更地に帰っているなどは、考えてもみないことでした。浦ノ内小学校は、今は旧横浪小学校の地に、その名を残しています。


船の家
船を屋根に乗せた休憩所があったかと思えば、今度は、平屋を船が乗せています。
どんな使い方をするのでしょうか。階段が付いているので、船としては、もう使われていないのだと思いますが。


宿
民宿なずな、が今日の宿です。
名前の「なずな」は、「せり・なずな・ごぎょう・はこべら・ほとけのざ・すずな・すずしろ」の「なずな」なのでしょう。「ペンペン草」というと、少しイメージが悪くなりますが、花言葉は、I offer you my all. (私のすべてをあなたに捧げます)です。
泊まり客は、この時季ですから仕方ありませんが、またも私一人でした。女将さんが、しばらく話し相手になってくださいました。


足跡
さて終わりに、令和6年現在での、浦ノ内湾をめぐる、私の足跡を整理しておきます。それぞれの内容については、「目次」からご覧ください。
 平成15年(2003)秋  青龍寺から浦ノ内湾沿いに仏坂→安和へ
 平成20年(2008)春  青龍寺から横浪スカイライン→安和へ
 平成20年(2008)初夏 青龍寺から巡航船で鳴無神社→安和へ(準備中)
 平成21年(2009)冬  安和から仏坂を経て青龍寺へ(本号)
 平成27年(2015)秋  青龍寺から浦ノ内湾沿いに仏坂→安和へ

ご覧いただきまして、ありがとうございました。
一月往ぬる 二月逃げる 三月去る、とはよく言ったもので、早くも令和6年・2024年も、第二コーナーにさしかかっています。
皆さま、一日一日を大切にお過ごしくださいますように。次号更新は、5月8日 の予定です。

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中村の寺社や史跡の見学 添え蚯蚓遍路道 焼坂峠 へ

2024-03-13 | 四国遍路

 
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 このアルバムは、平成21年の遍路アルバムを、リライトしたものです。
 そのため、令和6年の現状とは異なる、写真や記事内容が含まれています。
 その点、ご注意ください。

  平成21年(2009)12月19日 第3日目のつづき

中村駅
13:30 中村着
入野駅から電車で来ました。中村での見学時間を取るためです。
見学の細かな計画はありません。ただ、石見寺(いしみ寺)と中村城の二ヵ所は、外さないことにしています。どちらも中村を俯瞰できる場所です。
宿は、駅近くの「民宿中村」(新館)に予約しました。


まちバス
案内所で「まちバス」というサービスが始まったと聞きました。市内の主要観光地には「まちバス」のバス停があり、そこから「まちバスセンター」に電話するとバスがやって来て、次に自分が行きたい所、どこでも希望の観光地(バス停)まで運んでくれるのだといいます。
運賃は200円でした。バスを走らせるということは、基本、グループの観光客が対象ですが、一人旅であっても来てくれるとのことでした。


ジャコ天
早速まちバスに電話。石見寺へ連れて行ってくれるよう、頼みました。
案内所前のバス停で待っていると、側に宇和島のジャコ天屋さんがあったので、揚げたてを買いました。1つ多いようなので尋ねると、「お遍路さんやから」といいます。お接待してくださったのです。若い店員さんでした。オーナーさん、叱らないでください。
食べているうちにバスが来てしまいましたが、乗客は私一人なので、車内で食べることが許されました。


石見寺(いしみ寺)参道
安並運動公園まで「まちバス」で運んでもらいました。(写す角度が悪くて見えにくいのですが)信号の後方に、右に上る道が付いていて、それが石見寺への参道になっています。
なお、この参道は車も通れますが、すれ違いが出来ません。ご覧の信号は、そのための参道専用信号です。


石見寺参道
登りにかかります。
石見寺は薬師如来を本尊として祀る、真言宗のお寺です。中村の艮(うしとら・北東)に在り、 中村の鬼門を護っています。小京都・中村の、言わば比叡山延暦寺に相当するお寺です。
創建は大同年間(806ー810年)、弘法大師の開山とのこと。


景色
かつては四国八十八ケ所霊場・39番札所だったとも言います。
札所でなくなったのは、一條氏が城下に遍路(他国者)が入ることをが嫌ったからだ、とのことです。そのため札所を返上。代わって39番となったのが、当時は石見寺の末寺であった、現・39番の延光寺だと言います。
次の写真をご覧ください。


元・石見寺
後のことになりますが、平成28年(2016)、私は石見寺を再訪し、石見寺山に張り巡らされた、四国八十八ヵ所の写し霊場を廻りました。この写真は、写し霊場の第39番延光寺・薬師如来像です。台座には、・・第39番延光寺 元石見寺・・と刻まれています。
なお本ブログには、その時の、石見寺山の写真が1枚も掲載されていません。この機会に数枚、ご紹介させてください。


写し霊場の遍路道
写し霊場の遍路道は、石見寺山の山頂にも通じています。
石仏は、24番最御崎寺です。


山頂
山頂(411㍍㍍)には、見晴台もあります。


石見寺山山頂からの景色
見晴台からの景色です。渡川(四万十川)に向川(中筋川)が流れ込んでいる様が見えます。太平洋も望めます。


石段
閑話休題。
参道を登ってゆくと、石見寺の境内が見えてきました。しかし、ここからは入らず「正門」から入ってほしい旨、表示があります。
それはもっともなことである、ということで、ちょっと膝に痛みを感じている身には辛いのですが、手すりの助けも借りながら、「正門」から上ります。


境内
応仁2年(1468)、摂政関白太政大臣・一條兼良(かねら)は、長男・教房(のりふさ)をして、家領・幡多ノ多荘に下向させました。
前号「海の王迎」でも記したように、土佐は流刑のなかでも最も重罪とされる、「遠流の地」です。その土佐の西端の地に、兼良は、関白氏長者をも務めた長男を、送り込みました。
さて、兼良のその「心」は、那辺にあったのでしょうか。


本堂
兼良の「心」は、史家がいろいろと言及しているところですが、素人の大胆さで大雑把にまとめれば、次の様になりましょうか。
・その前年に起きた、応仁の乱の戦乱を避け、一條氏の本流を温存しようとした。(応仁の乱は、京都を主戦場としていました)。
・併せて、荘園を直接経営し、収入増を図ろうとした。「遠流の地」とは言え、それは都から見たらの話。その実、幡多が海に向けて開かれた、豊かな土地であることを、兼良は知っていた。


後川
幡多は実際、海路で阿波へも堺へも薩摩へもつながり、さらには琉球へもつながる土地でした。
Wikipediaは、土佐一條氏の対外交易についても触れ、次の様に記しています。
・・土佐一條氏はその地理的条件を生かして、海上交通や対外貿易にも関与したと考えられている。(中略)琉球や朝鮮との私貿易が行われていた可能性が高く、更に勘合貿易以外の交易路を用いた明との貿易や東南アジア方面との貿易の可能性も指摘されている。(後略)
とまれ、これにより、「土佐一條氏」が創まることとなります。


中村城
ところで「土佐一條氏」なる呼称ですが、これについて、私はいささかの疑問を感じています。やはり「幡多一條氏」が正しい、私はそう思うのですが、どうでしょうか。
往古、土佐と幡多は、文化・経済を異にする、別々のクニとされていました。すなわち東の都佐国と西の波多国です。
この基本構図は、一條氏が中村を築いた頃にも変わっていませんでしたから、中村を築いた一條氏は、やはり「土佐一條氏」ではなく、「幡多一條氏」と呼称すべきではないか、・・と、まあ、愚考するのですが、いかがなものでしょう。


後川
幡多と土佐の融合がはじまるのは、天正3年(1575)の、「渡川の戦い」以降のことです。言わば「土佐の長宗我部氏」が「幡多の一條氏」を破り、幡多は土佐の一部となってゆくのでした。皮肉なことですが、長宗我部の遠征軍が進んだ戦の道が、次には、文化・経済を通わせ合う道ともなるのです。
長宗我部が滅びた後は山内氏が土佐中村藩を立藩。これを支配して、幡多の土佐化は進みます。
なお、土佐と幡多を隔てる、最大の地形上の障壁は、窪川台地だったと言います。なるほど!体験的に私は、納得します。皆さまは、いかがでしょうか。


県立中村中高等学校
石見寺から後川橋を渡り、一條教房墓に向かいます。
途中、高知県立中村中学校・高等学校がありました。一貫校としての開設は平成14年(2002)ですが、その母体の一つである県立中村高等学校の設立は、遠く明治33年(1900)にまでさかのぼります。前号「大方あかつき館」で記した上林暁さんも、卒業生なのだそうです。(もう一つの母体である、県立中村女子高等学校については後述)


一條教房墓
教房は、幡多繁栄の基を築いた人です。「幡多一條氏の祖」と崇められています。
しかし、その功績の割りに、この墓が「貧相」にみえるのは、なぜでしょうか。
どうやらこの墓は、祀られていた寺(妙華寺)が、江戸時代、廃寺になってしまい、その存在が、長い間、忘れ去られていたそうなのです。そのことを惜しんだ地元の人たちが再興しましたが、今は、民家の間を少し入った、目立たぬ所に在ります。墓域も、さほど広くありません。


玉姫墓
教房を祖とする「幡多一條氏」は、初代・房家、二代・房冬、三代・房基とつながれ、前述の「渡川の戦い」を機に、四代・兼定で滅びます。
この墓は、二代・房冬に嫁した、伏見宮邦高親王の王女・玉姫の墓とされています。三代・房基(後述)の母です。
さて、時刻は、16:30を過ぎました。残る中村見学は明日とし、宿へ向かいます。


宿
駅近くの宿です。遍路の宿泊者は、いませんでした。
明日は午前中、中村見学をし、電車で窪川まで引き返します。
その後の行程は、次の様です。
 →添え蚯蚓遍路道→焼坂峠→安和→佛坂→宇佐→龍坂→36番青龍寺
 →塚地峠→清滝寺→帰宅

  平成21年(2009)12月20日 第4日目

不破八幡宮鳥居
宿に荷物を預け、新四万十大橋の東詰にある、不破八幡宮にやって来ました。
四万十川左岸を走るサイクリングロードを歩いて北上。中村城跡(郷土史料館)に登ります。途中、いくつかの寺社や史跡にも立ち寄るつもりです。


不破八幡宮
不破八幡は、教房が石清水八幡を勧請し、幡多郡の総鎮守としたのが興りとされています。一條氏が守護神として崇め、その後の支配者たち、長宗我部氏、中村藩山内氏からも、篤く信仰されました。
秋の大祭では、「神様の結婚式」という珍しい神事が行われるそうです。
四万十川下流に在る一宮神社(幡多一宮)の女神が乗る神輿と、不破八幡宮の男神の神輿との、「お見合い」神事です。一時横行した略奪婚への戒めが興りとされています。


幡多一宮神社(平成22年撮影)
また「お見合い」では歳占いが行われるそうです。一宮神社のいずれの女神が選ばれるかにより、その年がどんな歳になるか、占われたといいます。
例えば、椎名御前が選ばれると、今年は雨が多い年になる。なぜなら、この女神の頭にはビス(はげ)があり、これを隠す為に雨を降らせて笠を被るからだ、といった具合です。その他、徳益御前なら、得が増すので今年は豊年。鉾名御前なら、鉾は武器なので、喧嘩が多い歳になる、などと占うそうです。→(H22秋1)


相撲
神社ではよく、土俵を見かけます。
相撲が、神事として発祥したからでしょう。神前で執り行われ、天下泰平・子孫繁栄・五穀豊穣などを祈ったといいます。また勝敗の結果から、占いも行われていたようです。


大楠
ご神木の大楠です。
樹齢は約550年と言いますから、教房が下向した応仁2年(1468)頃、植えられたことになります。



サイクリングロードで、犬と散歩中の女性に出会いました。犬を散歩させているのではなく、犬と散歩を楽しんでいるいう、そんな感じの方でした。
いろいろと話ながら、一緒に歩きました。


四万十川に架かる橋
女性は、・・なんでこんなに橋を架けましたかねえ。・・とおっしゃいます。たしかに橋は多いのです。写真には写りませんでしたが、この手前にも、もう一本、新・四万十大橋があります。
一番奥が通称「赤鉄橋」(四万十大橋)。その手前が「土佐くろしお鉄道」の宿毛線鉄橋。一番手前が「渡川大橋」です。


土佐くろしお鉄道 宿毛線鉄橋 
強い風が吹くときは、ちょっと恐い感じです。


しまうま
・・この遊び心、楽しいですね。・・と、散歩の女性に話すと、女性はペイントよりも重機そのものが気に入らなかったらしく、反論が返ってきました。
・・この辺には自然の遊水池があったのですけど、埋め立てられて、宅地になってしまいました。残念です。住宅用の空き地なんて、他にいくらでもありますがな!


もう、あきまへん
女性はまた、四万十川に棲むという巨魚・「赤目」についても話してくれました。
赤目はマンガ「釣り吉三平」で一躍有名になり、私さえも知っていたのですが、今はあまり見られないと言います。代わって外来種のブルーギルが増えているのだそうでした。
・・ボラの大軍が赤目を怖がって、ピョンピョン跳ねながら逃げるんですよ。それは壮観でした。前はよー見られたもんですが。


四万十川橋(通称赤鉄橋)
大正4年、降り続いた雨で四万十川が増水。渡し船の転覆事故が起きました。乗っていた中村高等女学校の、生徒たち十一名が遭難死するという、悲惨な事故でした。
赤鉄橋の建設は、この事故がきっかけだったと言います。橋は、昭和21年(1946)、南海地震で倒壊しましたが、昭和23年(1948)、復旧しています。
なお中村高女は、戦後、県立中村女子高等学校となり、現在は前述の、県立中村中学校高等学校に吸収されています。


須賀神社(通称 祇園さん)
この神社は、明治の神仏分離、廃仏毀釈政策に翻弄されたようです。その様子が、側の案内板に記されていました。
・・(前略)明治元年(1968)の神仏分離令によって牛頭天王は祇園社に、八大龍王は海津見神社(わだつみ神社)に改名されました。さらに廃仏毀釈の際に祇園社は須賀神社と改称されました。祭神は須賀神社が須佐之男命・櫛稲田姫(くしいなだ姫)、海津見神社が海津見神。(後略)


案内板
牛頭天王が祇園社に改名されたのは、牛頭天王が祇園精舎の守護神であるからです。この神を祀った社や地域は、よく「祇園」と呼ばれています。なお牛頭天王は素戔嗚尊と同体視される神で、薬師如来が本地仏とされていました。
八大龍王は、八体の龍王(龍族の王)の総称です。古来、龍は水神として信仰されていますが、仏教では、仏法の守護神、観音菩薩の守護神とされています。


中村のマンホール
マンホールには、藤があしらわれています。おそらく一條家の家紋である「一條藤」なのでしょう。
「なかむらし」と記されていますから、平成17年(2005)よりも前のマンホールです。同年、中村市は西土佐村と合併。四万十市となっています。


中村貝塚
昭和40年(1965)、高知県幡多総合庁舎の新築工事現場で発見されました。
縄文晩期(およそ2500年ほど前)の貝塚で、海で採れる貝殻が多いといいます。つまり、当時の海岸線は、この辺まで来ていたということです。また発掘された土器には、瀬戸内地方や九州と同じものが多く見られると言います。中村が九州と中筋川でつながっていたこと、中筋川は’九州に向かう川’とて、向川と呼ばれていたことは、前にも記したことがあります。
なお後述しますが、出土品は、この後に訪ねる予定の、幡多郷土資料館に展示されています。


幸徳秋水墓
中村生まれで、本名は幸徳傳次郎。因みにこの人も、中村高校(旧制中学)の卒業生です。
平成12年(2000)、中村市議会は幸徳秋水の名誉を回復すべく、次の様な決議を採択しています。
・・幸徳秋水はこの90余年の間、いわゆる大逆事件の首謀者として暗い影を負い続けてきたが、幸徳秋水を始めとする関係者に対し、20世紀最後の年に当たり、我々の義務として正しい理解によってこれを評価し、名誉の回復を諮るべきである。よって中村市議会は郷土の先覚者である幸徳秋水の偉業を讃え顕彰することを決議する。  平成12年12月19日


正福寺跡
次の様な説明があります。
・・鎌倉時代初期の承元2年(1208)、法然上人が土佐に流罪となったので、中村では寺を設けて待ったが、上人は讃岐に留まりました。その時設けた寺は龍珠山正福寺と呼ばれ、浄土宗京都知恩院の末寺とされています。(後略)
結局、法然上人が中村に来ることはなかったのですが、入るべき寺が用意されていたとは、さすがです。そう言えば、これより少し手前には、法然寺という寺がありました。この寺は元は真言宗でしたが、法然上人土佐配流を知って改宗。寺名も法然寺と改めた、とのことです。なお、讃岐の法然寺については、→(H23秋1)をご覧ください。


地震碑
昭和21年(1946)12月21日4時19分。昭和南海地震が起きました。
前にも記したことがありますが、私はこの地震を覚えています。母が、寝ている私に被さるようにして、タンスを押さえていました。その姿を見て私は、また眠ってしまったのでしたが。
その後、長い間、私はあれが昭和南海地震とよばれる大地震だったことを、知りませんでした。体験と知識がつながったのは、恥ずかしながら大学1年の頃でした。


中村城跡三の丸跡
中村城は、渡川(四万十川)と後川を外堀代わりにした、 平山城です。築城者が為松氏であることから、別名、為松城とも呼ばれるそうです。現在、城山一帯が「為松公園」とされているのも、そのためです。
為松氏はこの地に盤踞していた豪族ですが、一條氏が中村に入って以降は一條氏に従い、家老として仕えたと言います。


石積み
一條氏滅亡後の中村城の帰趨をたどっておくと、
 天正3年 (1575) 渡川の戦で一條氏が滅亡。長宗我部氏の支配下にはいる。
 慶長5年 (1600) 関ヶ原の戦で長宗我部氏が滅亡。
           山内一豊に土佐一国が与えられる。
 慶長6年 (1601) 一豊の弟・康豊が、20,000石で土佐中村藩を立藩。
 元和元年(1615) 一国一城令により廃城となる。



最初にこれを見たときは、「上げ舟」の展示かと思いました。「上げ舟」は関東平野ではよく見られます。常時は納屋などに吊り下げられていて、いざ出水となると、下ろして避難に使うのです。
しかし、よく見ると二挺櫓です。推力を必要とする舟で底が平らな川舟は、渡り舟!です。おそらく渡川や後川で使われていた、渡り舟なのでしょう。


幡多郷土資料館
郷土資料館は、三重四階の望楼型天守になっています。国宝・犬山城を模しており、最上部の物見櫓部には入母屋屋根が乗り、ぐるりと廻廊・高覧も設えられています。三階部の唐破風も美事です。上からは、360°、絶景を楽しむことが出来ます。
なお郷土資料館は、今は「四万十市郷土博物館」となっていますが、私が訪問した平成21年(2009)は、まだ「幡多郷土博物館」だったと記憶します。


天守からの景色
天守から見た、小京都・中村です。
この写真では見えませんが、街は京都を模して、碁盤の目に区画されています。中村の西を流れる渡川(四万十川)は桂川に、東を流れる後川は、鴨川に擬せられているとのことです。


天守からの景色
後川の上流方向です。鴨川に見立てられた後川の左岸には、「東山」という地名が、今も残っています。この辺りの景色は、→(H28春1)をご覧ください。野中兼山が後川に築いた、麻生堰を見に行ったときのものです。


中村貝塚出土品I
前述のように、中村貝塚出土品が展示されていました。


七星剣
一條神社に伝えられる、七星剣(しちせいけん)のレプリカです。
北斗七星が象嵌されています。北斗七星は、恒常不変の位=天帝を象徴する星。すなわち七星剣は、天帝のみが持つ、破邪、鎮護の剣なのです。


七星剣
材質分析の結果、5C、朝鮮半島で作られたと見られています。
四天王寺、東大寺、法隆寺、正倉院などにのみ伝えられている剣が、幡多にありました。


一條房基の墓
この墓も、街中にあります。墓域を住宅が徐々に浸食していったのでしょう。
房基は、二代・房冬と(前述の)玉姫の子で、三代を継ぎました。知勇に優れた人とされ、実際、高岡郡を支配下に組み込んだり、伊予南部への進出を図るなど、一條氏の勢力を拡大しましたが、戦いに疲れたか、28才で自害しました。(暗殺説もあるようです)。


一條神社
案内板は一條神社の興りを、次の様に記しています。
・・当神社は文明12年(1480)一條家の御廟所として先祖をお祀りしていたことに始まり、慶長12年(1607)一條家遺臣等土地庄屋と相企り一條家の徳を仰ぎ祠を建て霊をお祀り申していたのを、文久2年(1862)にいたり時の幡多郡奉行、中村目代、大庄屋が一体となって一條家の威徳を顕彰し、幡多郡民の総鎮守の神として崇め奉るため社殿の造営一大祭典の執行を幡多郡民に命じた。・・


拝殿
つまり年表化すると、次の様になります。
  応仁2年  (1468)幡多一條氏の祖・教房が下向。
  文明12年 (1480)一條家の御廟所として始まる。
  天正3年   (1575)一條氏、渡川の戦いで滅亡する。
  慶長12年 (1607)一條家遺臣ら、御所跡に祠を建て、霊をお祀りする。
  文久2年  (1862)総鎮守として社殿が造営さる。


境内
祭神は、次の様に記されています。
 若藤男命(わかふじお命) 若藤女命(わかふじめ命)
一條教房並に子孫房家、房冬、房基、兼定、内政及び其の連枝の霊
若藤男命・若藤女命は、教房の父母・一條兼良夫妻の神名です。「内政」は、長宗我部元親に敗れた兼定の嫡男です。幡多一條氏の五代目当主とされていますが、当主としての実質には、疑問が持たれています。


案内板
なお五代目当主・内政には、政親という嫡男がいたとの説があり、その場合、政親は一條氏六代目を襲ったとされています。
この政親が一條神社に祀られていないのは、この人物の実在を確定できる史料がほとんどないからでしょう。さらに、もし実在したとしても、彼はもはや一條氏の人物であるよりは、長宗我部氏の人物と見られていました。政親の「親」は、外祖父・元親からもらい受けた、と考えられるからです。養育も、長宗我部家臣によってなされたとされています。


繁華街
天神橋商店街です。「天神」の名は、一條神社の境内社・天神社から来ているのだと思います。
案内板によると、・・一條氏が京都五条天神を天神山(現市役所)に勧請したと伝えられ、後に藩政時代、山内氏の崇敬篤く、菅原道真公を合祭。昭和27年(1952)、天神山より現在地へ移転したとのことです。祭神は少彦名命と菅原道真公です。


日曜市
日曜市が開かれていました。
前に高知市で見た日曜市→(H14春2)ほどではありませんが、まあまあの人出です。ただ残念ながらこの日曜市は、10年後の平成31年(2019)、44年の歴史に幕を下ろすことになります。


太平寺 
宿への帰途、太平寺に立ち寄りました。
一條氏の3代・房基は、この寺を非常の時の避難場所とすべく、城塞化しました。(撮影に失敗したのですが)石段の両側に、ほんのわずかですが、石垣が写っているのが、ご覧になれますでしょうか。


銃眼
境内の塀に設けられた矢狭間です。塀が折れ曲がっていることにより、「横矢」(矢や鉄砲を敵の側面から撃つこと)が可能となっています。


車窓から
宿で荷物を受け取り、電車に乗りました。窪川まで、1泊2日かけて歩いたところを、たった1時間で引き返します。
黄色い屋根の建物は、たぶん昨日泊まった、民宿白浜です。


岩本寺
窪川に来た以上、岩本寺にはお参りしなければなりません。ふたたび岩本寺を訪れました。
宿は、ちょっと奮発して、美馬旅館を予約しました。春野で知り合った郵便屋さんからおそわった宿です。この郵便屋さんは、お遍路さんなのです。配達中、遍路を見かけると声をかけるのだと言います。


コーヒー
郵便屋さんに教わった、コーヒーの店「淳」に入りました。
岩本寺山門を出て真っ直ぐに歩くと、1~2分のところに在ります。分からなければ、ツタが這っている喫茶店はどこ?と尋ねると、たいてい教えてくれるのだそうです。


三菱ダイヤトーン
ちょっと値打ちもののスピーカーがありました。Mitsubishi と記されているだけで、ダイヤのマークは付いていません。角が直角ではなく、丸まっているのも嬉しい。
いい音を出していますが、マスターによると、「今は少し調子が悪い」とのことでした。コーヒーをお代わりして、久しぶりにゆったりとした時間を過ごしました。


美馬旅館
オフシーズンだからでしょうか、私が占めた部屋は、この二階の全部でした。
風趣ある風呂を楽しみ、食事を楽しみました。箸袋の「一期一会 遍路旅」の文字通りに、同宿の方との会話も、楽しむことが出来ました。


室内
明日は一番電車で影野まで戻り、逆打ちの形で「そえみみず」と「焼坂峠」を越えます。
朝食は、電車に間に合いそうもないので、オニギリを作ってもらうことにしました。

  平成21年(2009)12月21日 第5日目

天気予報
今日も寒いようです。


オニギリ
これは朝食です。


影野駅
影野に着きました。ここを通過したのは4日前です。


けしき
ここからは道を逆にたどります。すこし国道56号を歩き、休憩所の先で右に入ります。


案内
矢印の逆方向に歩くのは、やはり戸惑いがあります。



雪が解け残っています。道は凍ってカチカチです。
この辺の標高は、もう250㍍を超えています。


けしき
寒いけれど、いい気持ちです。
この辺を床鍋と言います。「床鍋」の地名由来には、弘法大師の「独鈷なげ」の転訛であるという説と、この地を開拓した人たちが、出身地の床鍋村を懐かしんで「床鍋」とした、との説があります。


交通標識
「そえみみず遍路道」の入口です。
国道56号を横切った後、ふり返って撮ったので、(つまり北から南方向に向いて撮ったので)、
  左方向 高知 須崎  右方向 宇和島 四万十市(旧中村)
となっています。


人生即遍路
 人生即遍路 山頭火
私が天恢さんに・・人生の晩年がこんなに忙しいものとは、知りませんでした。・・と書き送ったら、天恢さんが、次の様に返してくれました。
・・それは実感できます。山本周五郎さんが座右の銘とされていた「苦しみつつ なお働け 安住を求めるな この世は巡礼である」を共有しましょう。
もちろん私への「督励」として書いてくださったのですが、にもかかわらず愚痴れば、核家族化がはじまって半世紀余。今日日、楽隠居は望めないのですね。凡百の年寄りには住みにくい世の中です。まっ、それを含めてj人生即遍路なのですが。



昔、旅人たちは「かどや やけざか そえみみず」(角谷 焼坂 添え蚯蚓)と、この辺の難所を記憶し、それを恐れ、用心し、越えて行ったと言います。
むろん昔ほどには厳しくはないのでしょうが、私は今日、そのうちの二つ、焼坂と添え蚯蚓を越える予定です。なお角谷は、今はトンネルになっており、かつての道は、藪の中に韜晦しているようです。



高知自動車道の建設で、添え蚯蚓遍路道や焼坂遍路道は、どう変わろうとしているのでしょうか。
前々号でも記しましたが、その変わり様を見てみたいことが、中村から引き返すことにした、狙いの一つでした。



オーイ!呼ぶ声が聞こえました。道が違うと言います。細い路を斜めに切れ上がるところを見過ごし、2メートルほど行き過ぎたところでした。
私が正しい道を進むかどうか、じっと見ていてくれて、案の定間違えたので、すかさず声をかけてくださったのです。


青龍寺へ
この道標は、逆打ち用のものです。裏側は順打ち用で、岩本寺となっていました。ありがたい道標です。


照葉樹林
暗くなってきました。照葉樹林が陽を遮っているのです。


照葉樹林
突然、人と出会いました。イノシシの罠を仕掛けているので、様子を見に来たのだといいます。
血抜きのためのナイフを下げていたりします。
見せてもらいたかったのですが、罠まではまだ遠いとのことで断念しました。


久礼湾
景色を見ながら、立ち話しました。
指さして、あれがクレだといいます。・・えっ、ああ土佐久礼ですね、・・と応じると、
・・他所の人にはクレは呉じゃろうが、わしらにはクレは久礼よ。
・・久礼も大きゅうなったけん。近頃は大正市場に、観光バスが着くわい。まあ、わしらは恥ずかしゅうて行けんようになったけんど。・・と返してくれました。
写真の、二つの小さな島は、 双名島だそうです。


休憩
照葉樹に覆われた路をゆきます。
6年前のことが、いろいろ思い出されました。・・ここでバナナとちらし寿司を半分食べた。・・ここでリストラに遭った青年と出会った。・・彼とは足摺岬まで相前後して歩いたのだった・・などなど。→(H15秋2)


道標
  岩本寺へ16K お大師様が見守っておられます。頑張って下さい! 


休憩
たしかに、クライマーズ・ハイならぬ、ウォーカーズ・ハイになっていることがあります。要注意です。


階段
ここからが、高知自動車道の工事現場です。
長い擬木の階段を下ります。


整備された道
公園の遊歩道といった感じの道です。


工事
巨大な切り通し、とでも言えましょうか。山がVの字み切り崩されています。


高速道
「巨大切り通し」の斜面に急階段がつけられおり、これを下って、高速道の下まで降ります。
降りたら高速道の下をくぐって、今度は、反対側斜面に取りつけられたの階段を上ります。
出会った夫婦遍路がこの階段を、「ヒザ殺し」と呼んでいました。そして、・・ヒザは死ぬ前に笑うんだよね、・・と、ちょっとブラックなジョークを付け加えました。


擬木の階段
天然木は朽ちてゆきますが、擬木は朽ちません。経済的には擬木の方が優れているのでしょう。
しかし朽ちない擬木は土に馴染まず、やがては土から露出してきます。とても歩きにくくなります。補修が大変なのは、よくわかりますが、出来れば天然木でやってほしかったのですが、・・。


休憩所
長い階段の途中に、休憩所がありました。
高速道を眼下に眺めながらの休憩となるのでしょう。


階段
下から眺めた上げた写真です。左に休憩所が写っています。


降り口 
私には「降り口」ですが、順に歩く人にとっては「登り口」です。
手すり、擁壁が新しくなっていました。


平成15年(2003)の写真
6年前は、このような状態でした。


平成27年(2015)の写真
案内板に次の様な一文があります。
・・中世以前からの幡多路への通り道であった往還・添蚯蚓も、明治25年(1892)、大坂谷から七子峠に越す道が開通してからは廃道となりました。しかしこの添蚯蚓は近年、貴重さ先人の足跡を残す遍路道として見直されようとしています。
添蚯蚓へんろ道が標高400㍍の尾根道であるのに比べ、大坂遍路道は、終盤の険しさはあるものの谷間の道なので、おおよそは平坦です。となれば、人・物の流れがそちらに移るのも、自然の成り行きだったのでしょう。


添蚯蚓遍路道の復旧、保全にかかわってきた人たち
廃道となった道を誰が何時、復活させたのかは記していませんが、調べてみると、「へんろ道保存協力会」HPの「沿革」に、
・・2008年(平成20年)高知県中土佐町長より「旧へんろ道(土佐往還そえみみず遍路道)」の復元で感謝状を授与される。・・とありました。
復元時期は、表彰された平成20年よりも前・・現に(前掲写真にあるように)私は平成15年に歩いています。・・ですが、復元の主体が「へんろ道保存協力会」であったのは確かでしょう。


高知自動車道
  コンクリートから人へ
工事現場を見ながら、こんな文句が思い浮かんでいました。(これより3ヶ月前の)平成21年(2009)9月に発足した、民主党政権のキャッチフレーズです。国交大臣は就任早々、八ッ場ダム(やんばダム・群馬県)の建設凍結を発表。世間の関心が大型工事の行方に、大いに向けられていた頃でした。
(前述の)犬と散歩していた女性が示した”重機”への反応も、あるいは、こうした流れの中でのことだったかもしれません。


八ッ場ダム完成図・平成15年(2003)撮影
凍結の発表を聞いたときの、私の感想は、・・これでは、せっかくの「コンクリートから人へ」が、台無しになる。・・でした。
拙速だと思いました。「コンクリートから人へ」に、私は大賛成でしたが、それは拙速にダム建設を凍結することでは、実現しないのです。
・・民主党政権は、田中康夫さんの失敗から学んでいない。
私は、そう考え、忸怩たる思いでいました。


ダム反対・平成15年(2003)撮影
田中さんの失敗とは、彼が長野県知事として実行しようとした、「脱ダム宣言」(平成13年/2001)の失敗です。
田中さんが決めた県営浅川ダムの建設中止は、平成19年(2007)には早くも、次の長野県知事・村井仁さんにより、撤回されていたのです。明らかに失敗していたのです。


ダムに沈んだ吾妻峡
こんな直近の失敗例があるにもかかわらず、それから学ぼうとせず、同じ轍を踏もうとしている、・・私はそう感じ、大いに危惧を抱いていたのでした。
案の定(と言えば僭越ですが)「コンクリートから人へ」は頓挫しました。その後、曲折はありましあが、令和2年(2020)、八ッ場ダムは完成。運用が開始されています。浅川ダムの完成は、平成29年(2017)だったようです、


休憩所
長沢川沿いに下ると、休憩所がありました。1年前、平成20年春に歩いた時、休ませてもらった所です。
私の前日に、四元奈生美さんがここで休憩していたのでした。→(H20春4)当時、彼女の四国遍路の様子を写した「四元奈生美の四国遍路に行ってきマッシュ!」が、NHK・BS「街道てくてく旅」で放映されていたのです。


国道6号へ
これより国道56号を1キロほど歩いて、次なる坂・焼坂遍路道へと向かいます。この道もまた、高知自動車道の影響を受けているはずです。

さて、ご覧いただきまして、ありがとうございました。
次号では、焼坂遍路道から仏坂遍路道を経て宇佐に向かい、龍坂を越えて青龍寺に参ります。更新は4月10日の予定です。
遍路の季節がやってきました。今年、私は四国を歩くことができるのでしょうか。もう2019年12月以来、4年半、四国を歩けていません。

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37番岩本寺から 片坂 熊井隧道 土佐佐賀 浮鞭 入野

2024-02-14 | 四国遍路

 
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   このアルバムは、平成21年の遍路アルバムを、リライトしたものです。
   そのため、令和6年の現状とは異なる、写真や記事内容が含まれています。
   その点、ご注意ください。

  平成21年(2009)12月18日 第2日目のつづき


雪が降り始めました、着ているポンチョがゴワゴワに固まっています。
予報では雪はやがて止み、風が強くなるとのことです。


国道56号
岩本寺から国道56号を5キロほど歩くと、「峰の上」(標高260㍍)です。ここから古い遍路道、・・片坂遍路道→市野瀬遍路道・・に入ります。
今日では、大きくヘアピンカーブする国道56号の、ショートカット道と勘違いされかねない道ですが、もちろん昔は、こちらの方が幹線で、岩本寺から足摺・金剛福寺に向かう遍路たちも、この道を歩いたのでした。『四国遍礼名所図会』には、・・(この道に)高岡郡・幡多郡の境標木(しるしぎ)有り・・と、標木の存在が記されています。幹線であればこそ、標木があったのです。


ヘアピン
写真は、平成15年(2003)、北さんと私が(旧遍路道ではなく)国道のヘアピン道を歩いたとき撮ったものです。雨が激しく、山道は危険だと考え、そうしたのですが、その長さにはうんざりさせられたものでした。苦い思い出です。後に、相前後して歩いていた女性から、・・山道を歩きましたけど、別になんてこともありませんでしたよ、・・と聞かされ、徒労感がいや増したのを覚えています。(岩本寺の手前では道に迷ったので)この日二度目の遠回りでした。(実は私達はこの後、この日3度目の遠回りをすることになりますが、そのことは、神ならぬ身の、知るよしもありません)。→(H15秋2)
なお、国道を歩けば4キロのところを、山道なら、1.7㌔に短縮することができます。


ヨンデン資材置き場
山道への登り口は、ヨンデン資材置き場の奧です。
出会った人が、・・ヒヤイねえ・・と声をかけてくれました。寒い中の温かい言葉です。予報通りに雪は止みましたが風が強くなっており、ずいぶん体温を奪われていたのです。


焼却場
ヨンデンとは、四国電力のこと。土地の人は四国電力を、そう呼んでいます。


山道
山道に入ると、木が風を遮ってくれるので、助かります。
上りは、けっこう厳しい径ですが、さほど長くはつづきませんでした。最高点(四万十町と黒潮町の境の地点)の標高はH280㍍なので、峰の上の260㍍から、20㍍高度を上げるだけです。


片坂遍路道
片坂遍路道は、基本、窪川台地からの下り道です。そのことを『四国遍礼名所図会』(元禄10年/1697刊)は、次の様に書いています。
・・上り壱丁斗りにして下り十丁余、是ハ昨日とふりし添身見ず坂半里上りしに下り五丁斗りゆへ爰ニてもどし・・。
片坂は、上りが一丁なのに下りは十丁と長い。これは、昨日歩いた添え蚯蚓坂の、上りが半里と長かったのに下りが五丁と短かったこととの相殺なのだ、というのです。


片坂遍路道
また、澄禅さんは『四国遍礼日記』(承応2年/1653)に、
・・窪川ヲ立テ片坂ト云山ヲ越テ行。是ハ東ヨリ西エイツ上ルトモ不覚シテ峠ニ至ル。下ル事ハツルベクダシ也。中々急坂也。・・と記しています。
上ったとの覚えがないうちに峠に着いて、そこから釣瓶落としのような、下りがはじまったとのことです。「片坂」という呼び名は、(上りが少なく)ほとんどが下り坂であることから、来ているのかもしれません。


片坂第二トンネル
片坂第二トンネルが下に見えました。道は国道56号です。6年前、北さんと私が歩いた道です。
見えているのは第二トンネルですが、この前後に、第一トンネル、第三トンネルがあります。いずれも、昭和46年(1971)竣工のトンネルです。
なお、今は町境の「標木」がなく、気づかなかったのですが、私はいつの間にか、四万十町から黒潮町へ、町境を越えていたようです。トンネルが見えるこの地点は、すでに黒潮町です。


市野瀬道へ
一度国道56号まで降りて、ふたたび市野瀬道に入ります。


市野瀬道
「釣瓶落とし」の片鱗がうかがわれます。しかし現代の「釣瓶落とし」は、手すり付きです。おかげさまで、安全に通過することができます。


下り
降りてゆきます。


国道へ
下に市野瀬が見えてきました。市野瀬の標高はH100㍍なので、前述の最高点280㍍から、約180㍍降りてきたことになります。
休憩所があるはずなので、一休みさせていただくつもりです。その後は、国道56号を写真奧の方向に、高度を徐々に下げながら、歩きます。
次の目標地は、市野瀬から9.1キロ先の、伊尾木です。


遍路墓
行き倒れたお遍路さんの墓でしょう。国道沿いに俗名 長吉さんの墓がありました。
かつては旧遍路道の脇に建っていたものを、国道工事の時、移動させ祀り直したものと思われます。
おそらく国道のこの部分には、下に古い遍路道が埋まっているのでしょう。


強風
ババババッ! ババババッ!
強風です。旗が音を立ててふるえています。


休憩
風は強いし地面は濡れているしで、休憩する場所がなかなか見つかりません。
幸い小屋型のバス停があったので、休ませてもらいました。ときどきドドーンと、小屋が風で鳴ります。


荷稲(かいな)駅入口
ここで、土佐くろしお鉄道と合流しました。
これで一安心です。いよいよとなったら、電車に乗るという手があります。ただし運転休止の恐れが、なきにしもあらずですが。


スクールバス乗り場
スクールバスが必要になったのは、小中学校の統廃合が進んだからです。
ある調査によると、平成9年(1997)から平成29年(2017)の20年間で、統廃合された全国の公立小学校は5823校、公立中学校は1739校だそうです。これ以前のデータが見つからなかったのですが、本ブログで取りあげた廃校は、前号に記した仁井田中学の昭和45年(1970)のように、いずれも昭和期でしたから、統廃合はもっと早くから始まっていたのです。
高度成長期に都会が繁栄した、その分だけ田舎は衰退し、多くの小中学校が統廃合の憂き目に遭ったのです。


下宇和中学跡の碑
(H28春4)に記した下宇和中学は、昭和40(1965)の廃校でした。
昭和22年(1947)、・・村人すべて精魂を こめてぞ築き育てたる(同中学校歌)・・学校が、わずか18年で、その歴史を閉じたのでした。
なお令和6年(2024)の現在、黒潮町佐賀地区の公立小学校は、拳ノ川小学校、佐賀小学校の2校、中学校は、佐賀中学の一校のみです。「協会地図」には伊与喜小学校が記されていますが、同小は、令和4年度末で休校となっています。事実上の廃校でしょう。明治6年開校の小学校でしたが、残念なことです。


身代地蔵
代われるものなら代わってやりたいと、心底、思うことがあります。そんな叶わぬ願いを、大慈悲の心もて、代行してくださるのが身代わり地蔵さんです。
代受苦(だいじゅく)・・仏や菩薩が、慈悲の心から、衆生の苦しみを代わりに受けることをいう、・・の德相を顕す地蔵菩薩。それが身代わり地蔵です。苦しむ人に代って、その仕事や苦難を引き受けてくださいます。病む人に代わって汗を流して働き、苦痛を訴える人に代わって、痛みに耐えてくださいます。



開けた場所に出て、風が一層強まりました。
奧の交通情報板には、・・夜間 早朝 凍結の恐れ スリップ注意・・とあります。
予報では、今夜からまた雪とのことです。


U字溝  
たいていU字溝の上は水平になっていて歩きやすいのですが、ここでは斜めに施工されています。初めて見ました。


黒潮町
黒潮町不破原(ふばはら)とあります。伊与喜まで、あと1キロもありません。


城跡  
おや?と思い撮ってみました。
町名は伊与喜、駅名も伊与喜駅、学校も伊与喜小学校なので、「いよき」は「伊与喜」と思っていたのですが、ここには伊与「木」城跡、とあります。
変だなと思い地図を調べると、伊尾「木」川もありました。(その支流に伊与「喜」川があるのは面倒ですが)。


伊与喜の表示
どうやら、古くは伊与木が使われていたのだが、比較的最近、伊与木は伊与喜に改められたと思われます。しかし長く親しまれた川の名や城の名は、そのままに「伊与木」を残しているのでしょう。
そう考えれば、伊与「木」川に架かる橋が伊与「喜」橋であるのも、理解できます。この橋は、昭和45年頃に架けられたようです。
なお、より拘れば、伊「与」木も、かつては、伊「與」木だったでしょう。


案内
・・遍路道 左折・・とあります。ここから山道に入ります。熊井隧道がある道です。国道のルートが逸れたおかげ?で、取り残されるようにして残ってくれました。
思い出しても悔しいのは、6年前、北さんと私はこの案内を見落として、その日3度目となる、遠回りをしてしまったことです。見落としたのは、もう暗くなっていた(16:50)からですが、今にして思えば、見落としに気づいて引き返すチャンスは、何回もあったのです。


熊井坂
熊井隧道がある道です。この道は、明治38年(1905)に開通し、昭和14年(1939)まで、県道として使われていたといいます。


熊井隧道
レンガは佐賀港から、小学生なども加わって、一個1銭で運んだそうです。小学生の稼ぎが自分のものとはならず、生活費として消えたことは、想像に難くありません。


熊井隧道
レンガは、イギリス積という積み方で積まれています。
扁額は右書きで、「人代天工」のようです。・・人、 天に代わりて工む(たくむ)・・とでも読めましょうか。「和魂」が「洋才」を取り込んだ姿、と言えましょうか。


出口
坑口はレンガ積みですが、内部壁は石積みのようです。
側の説明板に、・・トンネルというものは入口は大きいが、出口は小さいものじゃのう・・と言った人がいた、とありました。この人がもし北斎の「尾州不二見原」を見たら、・・富士山が入るとは、大きな樽じゃのう・・と言ったかもしれませんね。


線路
土佐くろしお鉄道の線路です。このすこし先に、土佐佐賀駅があります。


電車
うまい具合に電車がやって来ました。
入るトンネルは、熊井トンネルです。



海抜280㍍から、ゼロ㍍まで降りてきました。伊尾木川の河口部から鹿島が浦を眺めます。中央の小山は鹿島です。


前回の宿
民宿さかうえさんです。6年前、たいへんお世話になった宿です。
残念ながら今は閉店されています。


鹿島が浦
左手に海を見ながら歩きます。ここから今日の宿・民宿白浜さんまで、3キロ弱です。


海岸線
海の景色を堪能しながら、緩やかに上ります。鹿島が浦が、その全貌を見せてきました。
時刻は16:00。ゆっくり歩いても大丈夫です。



宿の前には国道56号、後ろには土佐くろしお鉄道が走っています。しかし騒音などは、まったくにになりません。
明日の朝は、この窓から朝日が見られることでしょう。楽しみです。

  平成21年(2009)12月19日 第三日目 

雪の朝
朝、起きると雪でした。すぐテレビで予報を見ると、・・雪は早い時期に止むが、気温は上がらない、・・とのことでした。予定では、24キロほどを歩いて中村を見学。中村に泊まることになっていますが、はたしてどうでしょうか。
この天候では、中村見学の時間が、とれなくなってしまうかも知れません。様子を見て、どこぞから電車利用を考えた方がいいかもしれません。


光芒
太陽光がきれいです。
薄明光線、レンブラント光線、ヤコブの梯子、天使の梯子など、いろいろに呼ばれますが、ここでは「光芒」としておきます。 


太陽
6:30 一階の食堂で朝食ですが、なかなか落ち着きません。というのも、この宿は東向きで、しかも海に面していますから、太陽が雲間から出る度に光が射し込み、その時は室内が光にあふれ、まぶしいばかりになるのです。
そうなると私は我慢できず、食事中にもかかわらず外に出て、景色を楽しんでしまいます。この写真は、食事中、船がいい位置に来るまで待って撮った一枚です。女将さん、すみませんでした。


歩きはじめ
7:00 歩き始めました。誰の足跡もない道を行きます。


日付
日付を入れておきました。
この手の落書きなら自然消滅するので許される、と思って書いたのですが、帰宅して写真を見て驚きました。その日付が間違っているではありませんか。
・・’09.10.19・・と記しています。正しくは、10ではなく、12です。後から来た人はこれを見て、どう思ったことでしょう。まさに旅の恥を「書き」捨ててしまいました。


気嵐 
上手く撮れなかったのが残念ですが、気嵐(けあらし)が海から立ち上り、海を這っているのです。
気嵐とは、・・夜間に陸地で冷やされた空気が、(相対的に)暖かな海面に流れ込み、水蒸気を冷やすことで霧を生み出す現象・・だそうです。初めて見る景色でした。


花に雪
右はマンリョウでしょうか。左は山茶花のようです。雪を被って、柄にもなく風情を感じています。


峠越え
井の岬の峠越えです。岬廻りの様子については、→(H22秋1)をご覧ください。


凍結
木の下を通ると、(陽で氷結が緩んだのでしょう)樹上から氷が落ちてきました。


井の岬トンネル
竣工は昭和44年(1969)。長さ315㍍です。
トンネルを抜けない、昔の遍路道ははっきりしませんが、→(H27秋3)で、すこしふれてみました。


伊田トンネル
竣工は昭和43年(1968)。長さ172㍍です。
今回初めてのお遍路さんに出会いました。逆打ちの人で、車道の反対側を歩いており、互いに黙礼してすれ違いました。


伊田観音寺
伊田トンネルを過ぎると、お寺が在りました。伊田観音寺。真言宗のお寺です。
調べてみると、黒潮町の広報誌「アーカイブ伊田 NO4」に、次のような記事が載っていました。
・・観音寺には、元の松山寺にあった本尊・地蔵菩薩と薬師如来が安置されており、松山寺の後身の寺院となった。以前は毎月地域の有志20人ほどが集まり、御詠歌を詠ったり、無縁仏のお地蔵さんの前掛けを丁寧に洗ったりしていた。(後略)


松山寺跡
・・黒潮消防署の横を海側に向かうと、その左側に松山寺跡の石碑がある。松山寺は、明治初年ごろ、廃仏毀釈の政策により廃寺となった。その後大正の時代に、四国37番札所である岩本寺の弟子僧が何度か再興に努めてくれたりもしたが、かなわなかった。→(h22秋1)



寒さで、境内の手水の水が凍っていました。


伊田小学校
観音寺の向かい側に、伊田小学校があります。明治6年(1873)開校の学校です。
私がここを通過した平成21年(2009)の児童数は、22名でした。校舎規模から考えて、最も多い時期には、2-300名は在籍していたと思われます。
なお同校は、平成26年(2014)、休校となって140年の歴史に幕を閉じています。その時の在籍数は、9名でした。


朝鮮国女の墓
有田焼、 唐津焼、高取焼、萩焼・・これらを伝えたのが、(秀吉の「朝鮮征伐」で)朝鮮国から連れて来られた陶工たちであることは、よく知られています。
看板にある「朝鮮国女」も、陶工たちと同様に、朝鮮国から連れ来られた人で、幡多地方に、新しい機織り技術を伝えたと言われています。


朝鮮国女の墓
朝鮮国女は、大方町上川口から出兵した小谷与十小郎が連行、連れ帰ったとされています。没後、小谷家が代々、供養してきたとのことです。
墓の場所は、元々の所からは移されているそうですが、今も小谷家の墓地内にあります。


朝鮮国女墓
遍路道に戻ろうと歩いていたら、おばあさんがやって来ました。話がある風なので立ち止まると、・・どこへ行くん?・・とおっしゃいます。道に迷ったのではないかと思い、追いかけて来てくださったのでした。
朝鮮国女のお墓にお参りしてきたと話すと、・・ありがとうございました。私、小谷です。・・とおっしゃいます。


線路下のベンチ
下川口駅下の陽の当たる「ベンチ」で、当地へ嫁入りして来た頃の話などなど、しばらくお話をきかせてもらいました。ただ小谷家が供養するに至る経緯は、残念ながら、あまり伝わっていないとのことでした。前述の小谷与十小郎云々についても、よくはわからないといいます。
なお、私はこの翌年、おばあさんのお孫さんと、偶然出会うことになります。そして、おばあさん思いのお孫さんは、私とおばあさんの再会を、取り持ってくださったのです。それについては、→(H22秋1)をご覧ください。供養に至る経緯についても、書き加えています。


新しい看板
写真は、天恢さんがグーグルのストリートビューで発見したという(コメント参照)、「朝鮮国女の墓」の新しい案内立て看板です。たしかに「むくげの花の少女」の文字とハングル文字が加わっています。
『むくげの花の少女: 朝鮮国女の墓』は、黒潮町の植野雅枝さんが平成9年(1997)に出した絵本で、英語版、韓国語版も発刊されているそうです。日本では平成23年(2011)、学校推薦図書に指定されたとのこと。寡聞にも私は、それを知りませんでした。天恢さん、ありがとうございました。
また『咲くや むくげの花―朝鮮少女の想い継いで』は、元毎日新聞記者の大澤重人さんの著作で、日本と朝鮮、日本人と朝鮮人の関わり合いの歴史を、自らの差別意識を踏まえながらたどった労作です。私はまだ読んでいません。なお「むくげ」は、韓国の国花です。


足摺岬
足摺岬が見えてきました。写真の左の部分です。
先端の金剛福寺まで、まだ50Kほどありますが、室戸岬を歩きはじめた頃は、もう永遠に見えないのではないかと思っていたのです。それを思えば、♫思えば遠くへ 来たもんだ・・と、ルンルンです。


海の王迎駅
「海の王迎」(うみのおうむかえ)の「王」とは、後醍醐天皇の皇子である尊良親王(たかよし親王・たかなが親王)を言います。元弘の変で(流刑の中でももっとも重い)遠流に処され、この地に流されてきたのです。この地から言えば「迎えた」ことになるので、「王迎」なのでしょう。「海の」は、船で来たことを意味するのでしょうか。
なお親王は、建武新政府の成立によって帰京。東国管領として、新田義貞とともに足利尊氏と戦います。が、闘い利あらず。やがて自刃に追い込まれます。


憲法九条
憲法九条は、戦後78年間、私達をからくも戦争から遠ざけてくれました。
しかし、今や満身創痍です。
これからも私たちの国が戦争をしない国であるために、憲法九条は守りたい。私はそう思います。
戦争に正義の戦争はありません。戦争は正義たり得ないのです。いかに理屈をあげつらおうと、戦争は悪です。


浮津海岸
浮津海岸です。遠浅の海岸で、夏には、海水浴場として賑わうと言います。
「浮津」の名は、かつて存在した浮津村・・吹上川(ふきあげ川)左岸の、東西に延びる海岸段丘上にあった漁村(日本歴史地名大系)・・の村名を継承した地名です。今は、浮津村の西隣にあった鞭村と併せて、「浮鞭」(うきぶち)という大字になっています。
なお「浮津」は、広辞苑によると・・「浮」は天上にあるの意で、天の川にあるという船つき場・・を意味すると言います。
   天の川 浮津の波音 騒くなり 我が待つ君し 舟出すらしも  山上憶良


タカクラ・テルの碑
へんろ小屋22号大方の側に、作家にして政治家、タカクラ・テルさんの碑がありました。生家が、この奧にあります。
「タカクラ・テル」は、自称です。本名は高倉輝豊、のち改名して高倉 輝。国語国字改革を推進する立場からの、自称と思われます。


厄神社
鳥居の先、少し上がったところに祠があります。
この神社は、中村街道沿いに建てられている、と考えるべきなのでしょうか、それとも海沿いに建てられたとするべきなのでしょうか。どのような厄祓いを願って建てられたものか、どなたかに尋ねてみたかったのですが、かないませんでした。
なお、所在地は前述の「浮鞭」ですが、あえて言えば、浮鞭の中の浮津寄りといえましょうか。


井の岬
ふり返ると井ノ岬が見えました。
この岬は、足摺岬に入ってからも長くみえつづけて、歩いた距離を自覚させてくれました。


月見ケ浜橋
吹上川に架かる橋は、月見ケ浜橋です。この辺の浜を月見ケ浜と呼ぶことから、付いた名のようです。
なお、この橋は帰途、電車の車窓からも見ることが出来ました。数秒で過ぎてしまいましたが。


吹上川の河口
橋の上から撮った写真です。


入野松原
若い松が多いのは、 おそらく松食い虫で一度、滅んだからでしょう。
昭和30年代の燃料革命がもたらした里山の荒廃は、松食い虫被害の爆発的拡大を、許してしまいました。それまでも被害がないではなかったのですが、喰われた松はすぐ伐採され、燃料として燃やされていたのです。だから被害はほとんど拡大しませんでした。便利は不便の始まりとは言いますが、まことにその通りではありました。


入野松原
前回ここを歩いたときは、大雨でした。
その雨で納経帳を濡らしてしまったという、苦い思い出が蘇りました。


海岸
手前に、板を渡しただけのベンチがあって、それに腰掛けて休みました。地面はまだ濡れているのですが、板は、もう乾いているのです。
沖でサーファーが二人、波に乗ろうと苦労していました。声が聞こえないので、パントマイムを見ているかのようでした。しばらく見ていました。


加茂八幡宮
土佐の歴史や地理、故実を記録した『南路志』に、要旨、次の様な記事があるそうです。
・・宝永4年(1707)、大地震で津波が押し寄せた。しかし加茂八幡宮の社殿は、流されはしたものの波の上に浮き、津波が引いたときには、元の場所に戻って建っていた、というのです。
主祭神・別雷命をはじめとする、加茂八幡宮が祀る神々の、神威を誇る譚です。


安政津波の碑
その譚に因んででしょうか、境内には安政津波の碑が残されています。上の写真では、社殿の向かって右に見えています。
碑文は、風化が進み、ほとんど読みとれなくなっていますが、側の説明板で、その全文を知ることができます。


安政津波の碑拡大
碑文は、前述の神威譚とは異なり、惨憺たる被害の記録です。その一部を記すと、次の様です。
・・忽大震動 瓦屋茅屋共崩家と成 満眼に全家なし 気埃濛々として 暗西東人倶に 後先を争ふて山頂に登 山上より両川を窺見るに 西蛎瀬川東吹上川漲り 潮正溢る 是即海嘯也 最初潮頭緩々として進 第二第三相追至 第四潮勢最猛大にして 実に胆を冷す 家の漂流する事 数を覚ず 通計に海嘯七度進退す・・


大方あかつき館
幡多郡出身の作家、上林暁(かんばやし あかつき)さんを記念する文学館です。
6年前に訪れたときは、砂浜美術館の「潮風のキルト展」が、雨のため会場を「あかつき館」に移して、開催されていました。入れてもらって、ずいぶん楽しませてもらったものでした。


あかつき館での結婚式
ですが今回は、生憎といっては申し訳ないのですが、結婚式が行われており、私は入館できませんでした。
なお、私は平成27年(2015)秋にも、あかつき館を訪れますが、この時も入館できておりません。
・・明日、マタヨシさんの講演があるので、その準備中なんです。すみませんが、入館をお断りしています。・・とのことでした。


入野松原の道
マタヨシさんとは、芥川賞受賞の又吉直樹さんです。(高知新聞によると)又吉さんが上林暁ファンだと知った学芸員さんが、2年間、交渉をつづけ、ようやく交渉成立にこぎつけたのだそうです。ところがその直後(7月)に受賞が決まり、あかつき館は、受賞ホヤホヤの又吉直樹講演会を催行できるという、幸運に恵まれました。であってみれば、準備に力も入ろうというもので、入館お断りも仕方のないことだったというわけです。
なお「大方あかつき館」の「大方」(おおがた)は、昭和18年(1943)、入野村など三か村が合併して発足した、「大方村」(おおがた村)に由来しています。本来は、この辺の遠浅海岸に発生した広大な潟、すなわち「大潟」(おおがた)と記したのではないでしょうか。


徳右衛門道標  
  (大師像)こ連より 足摺山江 十一里
足摺山には、「あしずり」と、ふりがながふられています。


願人
右面には、
 願人 豫州 朝倉上村 徳右衛門
とあります。
ただしこの道標は、再建されたもののようです。撮影時は気づきませんでしたが、どうやら下に置かれたいくつかの石が、折損した元の道標と思われます。この写真右下の石は、徳右衛門道標の特徴である、かまぼこ形の頭頂部を見せています。


防風林としての入野松原
入野松原が、防風林となって住宅地を守っています。
ブログ『松原盛衰』によると、・・入野松原は元来大潟の海中に出来た砂洲の上に,自然生の松が萌えそれが成長して松原になったものである。・・とのことです。遠浅の海に砂州が生まれ、砂州の内側の潟が埋め立てられると、砂州は砂丘となった。その砂丘に松が自生し、松原となった、・・ということでしょうか。


防風林としての入野松原
入野松原の始まりについては、異説もあります。
・・この松原は、長宗我部元親の家臣谷忠兵衛が罪人に防風林として植林させたのが起こりである、・・というものです。
しかし、『土佐物語』なる書物には、・・一条兼定との「渡川の戦い」(天正3年/1575)に勝利した元親は、その凱旋の帰途、入野の浜で休息。入野松原の景観を、「無双の景地」と称讃した、・・との記述があるそうです。
とすると、谷忠兵衛が植林したとの説は、怪しくなってしまいます。今では、谷忠兵衛は「植林」したのではなく、「補植」したのだろう、との説が有力のようです。


入野駅
さて、時刻は12:30です。
これから歩くと中村に着くのは15:30から16:00頃となり、宿には早く入れるものの、中村見学の時間はほとんど取れません。
そこで入野駅から、拾い歩きの気楽さで、電車を使うことにしました。電車なら13:30頃には中村に着き、ある程度の見学をすることができます。

というわけで、今日の午後から明日の午前にかけて、私は中村見学をするのですが、これを今号に含めると、字数制限に引っかかってしまいます。
中途半端ですが、中村見学は次号のお楽しみとさせていただきます。更新予定は3月13日です。
早くも1月は往んでしまい、2月は逃げようとしています。本当に早いですね。3月が去らぬうちに四国へと願っていますが、どうなりますでしょうか。

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コメント (2)
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土佐久礼 大坂遍路道 元37番高岡神社 37番岩本寺

2024-01-17 | 四国遍路

 
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 このアルバムは、平成21年の遍路アルバムを、リライトしたものです。
 そのため、令和6年の現状とは異なる、写真や記事内容が含まれています。
 その点、ご注意ください。
 
  平成21年(2009)12月17日  第一日目

出発
光を通さない積雲が、その影を海に落とすなか、
搭乗機は、伊豆大島(写真中央)を左下に見ながら、西に方向を転じました。
冬遍路への出発です。
行く先は、南国とされる高知。しかし予報は、強い寒気団の襲来を告げています。厳しい遍路となるかもしれません


アンパンマン列車
  ボク、アンパンマン!
子ども達に大人気のアンパンマンは、高知生まれ「やなせ たかし」さんの作品です。
土佐久礼まで、アンパンマン列車に乗って行きます。


土佐久礼駅
現在の気温は5℃とのことです。これから山間部に入るので、もっと下がると思われます。少し高い山は、すでにうっすらと雪化粧しています。
行動食に大正市場で「ちらし寿司」を、とも思いましたが、高知駅で買ったパンで我慢することにしました。寿司は、たぶん寒さで強ばってしまい、食べにくいと思いました。


津波
高知県沖の南海トラフで想定されている巨大地震は、かならず大津波をともないます。寸刻を争って避難しなければなりませんが、地震に痛めつけられた人たちに、避難先はどんなにか遠いことでしょう。「その日」の来ないことを祈りたい気持ちですが、専門家は、・・30年以内に発生する確率は80-90%・・と予測しています。つまり、ほぼ確実に「その日」は来る、ということです。

追記:本号更新前の令和6年1月1日、「能登半島地震」が発生しました。M7.6の巨大地震です。地震、津波、そして火災も発生しました。備えては、いたのでしょう。しかし被害は甚大です。余震、雨、雪、寒さの中、断水、停電がつづき、土砂崩れや地面の陥没などが、救助を阻んでいます。痛めつけられた人たちが、その後も、二重三重に痛めつけられています。


大坂越えへ
今回の行程です。土佐久礼から中村まで歩き、引き返してきます。
往路:土佐久礼→大坂峠遍路道→元37番高岡神社37番岩本寺
   →片坂、市野瀬遍路道→土佐佐賀→入野松原→中村・石見寺
復路:中村→(電車)→窪川→添え蚯蚓遍路道→焼坂峠→安和→佛坂
   →宇佐→龍坂→36番青龍寺→塚地峠→清滝寺→帰宅


土讃線
当初は、清滝寺から宿毛までの、順歩きを考えていました。それが中村まで行って戻ってくることに変わったのは、土佐久礼からの道をどうするか、迷いはじめたのがきっかけでした。まだ歩いていない大坂遍路道も歩いてみたいし、高知自動車道の工事で添え蚯蚓や焼坂遍路道がどう変わっているのかも見てみたいのです。
写真の川は、大坂遍路道の大坂谷川河口近く。奧の鉄橋は土讃線です。


休憩所
いろいろと迷った末にたどり着いたのが、なんということはない、引き返してきて両方を歩くという、上掲の往復案だったというわけです。
しかしこの案、瓢箪から駒でした。仕上げてみると、けっこうワクワクする案となりました。訪れる寺社、歩く道、共に魅力いっぱいです。なかでも大坂越え、中村見物、龍坂は初めてなので、とても楽しみです。


桜並木
大坂谷川に沿った道をすすみます。春には堤防の桜がきれいに咲くのでしょう。
道は、峠越えの道とは思えないほど平坦です。しかしこの道は、仮初めにも「大坂」を名乗る道。このままではすまないのです。


七子峠へ
七子峠(ななこ峠)は、大坂遍路道にある峠です。
地図によると、この道は平坦のまま山に突き当たり、そこから七子峠(H287㍍)への急登が始まります。
現在地の標高は、およそ18㍍ほどですから、標高差約270㍍を一挙にのぼることになります。


黒竹
この辺は黒竹(くろちく)の自生地なのだそうです。
しなやかで曲がりが良いため、かつては釣り竿に多く使われていましたが、グラスファイバー更にはカーボン繊維が登場するに至っては、もはや勝負にはなりません。しかし今でも、内装装飾、熊手や茶筅などの工芸品になどには、貴重な材料として使われているとのことです。


景色
屋根にネットが張られています。太平洋からの風を、まともに受けるのでしょう。
干し柿が美味しそうです。


高知自動車道
大坂谷にかかる高知自動車道の橋は、まだつながっていませんでした。これがつながって、中土佐IC-四万十IC:間が開通するのは、この2年後の平成23年(2011)12月です。
完成時には、久礼坂トンネル(画面右方向)と大坂谷トンネル(左方向)をむすぶ橋となります。


七子峠へ
上方に見えるガードレールは、旧国道56号のものでしょう。とすると七子峠は、あの左上方にあると思われます。
なお新国道56号では、あの部分はトンネルになっているようです。


山道
これより七子峠への、山道に入ります。
道標には「七子峠1.0キロ」とあります。1キロ歩く間に、270㍍ほど高度を上げるということは、平均斜度25度くらいということでしょうか。


山道
強い繁殖力をもつ竹ですが、この径には進出できていません。
径の固さが、竹の進出を阻んでいるのです。年月かけて、無数の人が歩き固めた、固さです。


山道
急坂ですが、九十九折りになっているので、さほど苦しくはありません。



空が見えてきました。峠が近いのです。
案外楽に着いたと思っていたら、・・


階段
やはり楽はさせてくれません。フィニッシュの部分が、階段になっていました。それも最大傾斜線上に作られたような、急角度で段差が大きい階段です。上るにせよ下るにせよ、気をつけないと膝を痛めてしまいそうです。
写真では、ほとんど水平に見えますが、実際は、けっこう急なのです。


階段
全部が全部、こんなではありませんが、急で長くて段差が大きい階段です。


旧国道56号
上がってきました。これより旧国道56号を、5.5キロほど歩きます。新国道56号にほぼ並行した道です。


道標
12月中旬のこの時期、やはり歩き遍路は少ないようです。土佐久礼からここまで、一人の遍路にも会っていません。
掛かっているのは、数珠の落とし物でしょうか。



理論的には、標高が100メートル上がる毎に1℃、気温が下がるのだそうです。とすると、この辺は標高280メートルほどですから、平地より2-3℃低いということになります。つまり土佐久礼駅では5℃でしたから、今、この辺は2-3℃だということです。



厚手のジャンパーを着て歩いて、ちょうどいいくらいでした。
ホカホカしてくると、汗をかかないよう、ちょっとの間だけ休んで、身体を冷やしました。寒いとき、汗は大敵です。


あまんどさま
四国遍路で行き倒れた「あまんどさま」の霊を慰めんと、「あまんどさま」のお墓に、地蔵菩薩が祀られました。
地蔵菩薩像は、「あまんどさま」の徳を慕う安芸の国人たちが、安芸から運んできたと伝わります。
なお「あまんどさま」は、尼様を意味する、この地方の方言だそうです。


道しるべ
岩本寺10キロ、とあります。しかし時刻は、すでに15:30。冬の日没は早いので、もはや今日中に岩本寺に着くことはできません。
ただし、これは想定内のことです。
この先3.2Kにある土讃線仁井田駅で電車に乗り、窪川で泊まります。明朝、また電車で引き返し、高岡神社経由で、岩本寺に参るのです。


国道56号
日没が迫り、気温が一段と下がりました。風花が舞い始め、下校中の小学生達が雪だ雪だと喜んでいます。 
土地の人は、・・今日の寒さは年に二度しかない寒さだ・・と話してくれました。「二度しかない」は、三度はないが二度はある、という意味だそうです。聞けば、この方は農業をされているそうでした。経験から識ったことだ、と言います。きっと確かなことなのでしょう。
写真の右に、私が降りてきた山が写っています。


雪椿
掃除が行き届いた遍路小屋でした。「四阿 雪椿」の名は、この地に伝わる「お雪と順安」の恋物語に因んでいます。



お雪は、この辺の地頭の娘。順安は、影野・西本寺の若僧だとのことです。二人の仲を妬む者たちがいて、その恋は邪魔されますが、転変の後に成就。後、二人は幸せに暮らしたと言います。
写真は、順安と雪の墓です。
  池内喜左衛門 同人妻雪 墓 
とあります。「池内喜左衛門」は、順安の還俗名です。地頭職を嗣いでいます


雪椿
墓の側に、樹齢300年という椿の木が立っています。お雪、順安を偲んで、里人が植えたとのことです。
一説には、順安恋しさのあまり床についてしまったお雪を、里人が慰めようとして植えたもの、とも伝わります。


四万十合衆国
窪川州、大正州、檮原州、東津野州、大野見州から成る、「四万十源流合衆国」が建国されたようです。
中村を中心とする、下流域に対抗してのことでしょうか。そう言えば、四万十町と四万十市、どちらも「四万十」を譲らなかったようですね。
なお、五州のうち、東津野州、大野見州は四万十川の上流域。窪川州、大正州、檮原州は、中流域と言えましょうか。


六十余社
全国六十余州の一宮を集めた神社、それが六十余社です。
かつて六部(六十六部)たちは、おそらく10年近くもかけて、全国廻国巡礼を成し遂げたのですが、それが、たった1日一回の参拝でかなえられるというのですから、これは有り難い神社です。


六十余社
手軽すぎて、かえって有り難みがなくなるのではなどと御心配の向きは、浅草寺の「四万六千日」を考えてみてください。
一日一回の参拝で、46000/365=126.03ですから、126年分の功徳が戴けるのです。それでも有り難みが薄まるどころか、逆に大人気なのですから、ご心配は無用です。
信仰が民衆化する過程は、救済の簡略化、速成化の過程でもあるのでしょう。


交通標識
四万十市(旧中村)まで、54キロと表示されています。54キロは車用の表示ですが、この距離は、おそらく歩き遍路が歩く距離と、ほぼ同じ距離でしょう。というのも、これからの遍路道は、ほとんどが国道56号だからです。
因みに鉄道を計算してみると、影野から窪川までの土讃線が8.3キロ、窪川から中村までの土佐くろしお鉄道が43.0キロで、計51.3でした。


仁井田中の碑 
    ここに 仁井田中 ありき
  人みな戦後の混乱に戸惑う中 少年らめげず ここ茶堂山に集い
  元青年学校々舎にて 二部授業にも甘んじ
   時にリスや小鳥と興じ かつ師を敬し 厚き友情を結びて
  楽しき青春の日々を過ごせり。
  母校創立六十周年に当り ここ新校舎への校門脇に碑を建つ。
      撰文 一期生を代表して  山崎 博司
      揮毫 最後の分室主任   町田 精一郎
    平成十八年 陽春 仁井田中学校一期生建立


仁井田中学校 校歌
碑文理解のお手伝いとして、碑建立の背景を二点、記しておきたいと思います。
1.・・人みな戦後の混乱に戸惑う中 少年らめげず・・の背景
この碑を建立した仁井田中学一期生は、11歳までは、いわゆる「軍国主義教育」を受けてきた人たちです。仁井田中学の創立は昭和22年(1947)ですから、その一期生(13歳)たちは、11歳で敗戦を迎えました。
実のところは、・・戸惑う・・どころの事態ではなかったと思います。あたかも白が黒に変わるような、大激変の時代だったのです。・・少年らめげず・・とは、「生きようとした」ことの、抑えた表現なのでしょう。


仁井田川
2.・・母校創立六十周年に当り・・の背景
碑を建立した平成18年(2006)には、開校六〇周年とは言い条、既に仁井田中は存在していませんでした。仁井田中は、昭和45年(1970)には、他の町内各中学校と統合され、廃校となっているのです。・・新校舎・・は、正しくは、・・かつての新校舎・・でしょう。
碑の建立は、廃校後36年も経ったときのことでした。この時、一期生たちは72歳になっていました。(現在、仁井田中跡はコンビニになっており、碑は、その駐車場に建っています)。


土讃線仁井田駅
土讃線仁井田駅です。17:14の窪川行きがあります。
30分以上待ち時間があるとわかったので、駅前で四万十交通バスの発車時刻も調べてみました。すると(電車より1分早い)17:13発の窪川行きがありました。
それを知ったときの私の気持ちは、正直、えっ、なんで? でした。何で時刻を、もっと大きくずらさないのだろう。ずらしてくれていれば、もしかしたら私は、待ち時間なく窪川に行けたかもしれないのです。


ホーム
追記:上の記事について、天恢さんから次の様なご指摘をいただきました。
・・窪川駅から仁井田駅までは一駅で距離は4.5kmですが、窪川駅を発車したバスは途中4つのバス停を経て仁井田駅に着きます。点々とする集落を経由して乗客を駅から駅へ運びます。
出勤・登校や家路を急ぐ乗客が待たずに列車やバスに乗れるように、上りも下りも、おそらく列車の発着時間に合わせてのバス時刻と思われます。例えば主要駅では特急列車の到着を待って、発車後に普通列車が出発するなど・・・。
答えは、「いつも利用する地元の利用者を優先するダイヤで、たまに利用するお遍路さんのためのダイヤではない」ということです。

実は私も、このことは考えました。でも、それならなぜバスを先に出してしまうのだろう、と思ってしまったのです。
しかし、よくよく考えてみれば、おっしゃるとおりですね。これは電車とバスを接続させた、地元民のためのダイヤなのでしょう。


窪川駅
すっかり暗くなってしまいました。
明朝の電車とバスの時刻を調べて、宿に向かいます。
宿は、窪川駅近くの民宿「村の家」です。


村の家
・・わかりにくかったでしょう。亡くなる前に主人が、もう廃業するようにと言って、看板や案内を全部、取り払ってしまったんです。入口の硝子だけは残ったのですけど。
それでもご主人の意に反して、もう三年間も宿を続けているのは、・・宿をやっていると話も出来るしナ。・・だからだそうです。


うつぼの刺身
今日が区切り歩きの初日だと知らず、女将さんは「うつぼ」の刺身を準備してくれました。もうカツオは食べ飽きている、と慮ってくださったのです。
・・それならカツオにすればよかったかな。・・とのことですが、いえいえ、私、ウツボは大好きです。癖のないほのかな甘味、弾力のある食感。それに、カツオはこれからいくらでも食べられます。お心遣い、ありがとうございました。


行火
今一番注意していることは、・・コロバレン・・だそうです。転倒で骨折したことがあるのだといいます。
確かに高齢者の転倒は、アッと思ったときはもう転倒しているのです。私も経験がありますが、まるで受け身が取れていませんでした。
食後、部屋に上がると、布団が敷かれていました。暖房は、懐かしいアンカです。・・自分で敷きましたのに。・・と話すと、・・今日は客が一人じゃから大丈夫よ。それに、多いときは応援を頼むしな。・・とのことでした。

  平成21年(2009)12月18日 第2日目

予報
6:00 朝食
何時でもいいでよ、というので甘えてしまいましたが、6:00に朝食は、破格のサービスです。
外はまだ真っ暗。しかも寒い。申し訳ないことでした。


水鉄砲
これが何に使用されるものか、若い方は、まずご存知ないでしょう。過渡期に使用されたもので、都会で暮らしていた方は、お年寄りでもご存じない方が多いでしょう。
この宿でも、もう使われていなかったのですが、まだ仕舞われず残っていたので、写させていただきました。


窪川駅
おかげさまで、7:04窪川発に間に合いました。
始発なので、電車はもう入線しています。寒いので早速入れてもらい、席に着きました。
ひとつ具合の悪いことに気がつきました。どうやら私の存在は、日常の乗車秩序を乱しているらしいのです。まだ空席があるにもかかわらず、数人の男子高校生が立っていました。どうやら私が座っている席は、いつもは、彼らが座る席らしいのです。空席がまだあるのに、彼らがそこに座らないのは、そこには、これから来る誰かが座ることを知っているからなのです。
困りましたが、今さら席を空けても、彼らがそこに座るとは思えないので、私は座ったままでいたのですが、悪いことをしてしまいました。



雪が降ってきました。 雪波浪注意報が出ていますが、しばらくは傘で対応します。


案内
仁井田駅から1.6Kほど歩くと高岡神社への分岐に出ました。「協力会地図」に「大鳥居」と記されている地点です。案内があり、高岡神社と岩本寺への方向と距離が示されています。
*この道標に記された7.0Kや7.2Kの距離は、(現在は訂正されていると思いますが)誤りだったと思います。此所は、岩本寺までは4.2キロ、高岡神社までは3.5キロの地点でした。


五社街道
元37番札所・高岡神社は、
 ●大日本根子彦太迩命
 (おおやまとねこひこふとに命)を祀る    「一の宮・東大宮」
 ●磯城細姫命
 (しきのくわしひめ命)を祀る        「二の宮・今大神宮」
 ●大山祇命(おおやまずみ命)
  吉備彦狭嶋命(きびのひこさしま命)を祀る  「三の宮・中ノ宮」
 ●伊予二名洲小千命
 (いよのふたなしまおち命)を祀る      「四のみ宮・今宮」
 ●伊予天狭貫命
 (いよのあまさぬき命)を祀る        「五の宮・森ノ宮」
の五社から成っていることから、「五社さま」とも呼ばれています。あるいは「五社さま」の方が、より人口に膾炙されているでしょうか。


朝の光
天恢さんに倣って、この部分をストリートビューで歩いてみました。
ところが、写真の、この景色がどこにも見えないのです。前掲・五社街道の写真を撮ってから、3分後の写真なのですが・・。
山が消えたはずはないので、たぶん樹木などで隠されてしまったと思われます。
追記:天恢さんが今号へのコメントで、『見えぬけれども あるんだよ』と教えてくださいました。鳥になって鳥瞰すれば、すなわち航空写真で見れば、一目瞭然。朝の光が刺す東の方向に、それらしき山があることがわかりました。
 


前掲写真につづいて、この景色も見つかりませんでした。朝の光の写真を撮って、4分後の撮影です。
写っている川が仁井田川なのは、まず間違いないでしょう。地図でみると、仁井田川はこの辺で大きく蛇行し、道の左側に接近しています。
追記:同様に鳥瞰すれば、この川は、まちがいなく仁井田川です。そして架かる橋は、土讃線の鉄橋でした。ありがとうございました。


計量場
思いがけなく、野中兼山の遺跡に出会うことが出来ました。「計量場」です。
四万十川に築いた取水堰が再三にわたり決壊していることを知った野中兼山は、四万十川からの取水を断念し、仁淀川に堰を築くことにしました。
しかしこの工事も難航します。固い岩盤があり、掘削が進まないのです。
そこで兼山が採った策が、今で言う「出来高払い」だったそうです。つまり人夫が掘った岩盤を計量して、その多寡でその人夫の賃金を決めることにしたのです。結果、工事は大いに進捗したと言います。
なお、この看板は健在で、ストリートビューにも写っていました。


ねねざき橋
ねねざき橋は、仁井田川にかかる橋です。「ねねざき」は、根々崎と書きます。この辺の地名です。
川は、左から右方向に流れています。ほぼ東進していると言えましょう。


仁井田川
橋から眺めた仁井田川の西方向、つまり上流方向です。


仁井田川
橋から眺めた東方向、つまり下流方向です。川は、この先500㍍ほど東に流れて、四万十川に合流します。(合流点を見たかったのですが、果たせませんでした)。


四万十川
道の右側に、四万十川が見えてきました。
源流部・高岡郡東津野村の不入山(いらず山・H1336m)から南下してきた四万十川は、この辺りから西進を始めます。固い岩盤に阻まれて、西へ方向を転じるのです。画面では、右から左方向へ流れています。なお、四万十川のこの部分には、既に仁井田川の水が混じっています。


四万十川
四万十川を西に転じる岩盤が、(前述の)兼山の工事を阻んでいた岩盤と同じであるのは、お察しの通りです。


案内
  高岡神社 500メートル
  岩本寺  2.4キロ
とあります。
右下の自然石の道標は、拡大すると、次の様になります。


昔の道標
  手差し 三十七ばん
      五社三丁
3丁は約327㍍ですから、現代道標の500㍍とは違いがありますが、その辺はまあ、計測の仕方に問題があったのか、道標が元の場所から移されているのか、・・なのでしょう。


五社大橋
四万十川にかかる五社大橋です。真っ正面の400㍍先に、五社こと高岡神社が見えています。


渡川
川の名前が四万十川ではなく、「渡川」(わたり川)となっています。四万十川が渡川と呼ばれていた頃の名残でしょう。
「渡川」が「四万十川」に、正式に名称変更されたのは、平成 6 年(1994)のことです。そのきっかけをつくったのが、昭和58年(1983)に放送された NHK 特集『土佐四万十川~清流と魚と人と~』であったことは、よく知られています。そのなかで“日本最後の清流”と紹介され、一躍、四万十川の名が知れ渡ったのです。この番組は、私も観ています。「最後の」は、ちょっと言い過ぎだと思いましたが、確かに清流だと思いました。


四国遍礼霊場記の五社図
四国遍礼霊場記(元禄2年/1689)に載っている、五社図です。
五社の前に大河が流れています。「仁井田川」と記されていますが、この川は、どう見ても現代では四万十川・渡川です。
江戸を流れる大河が、所により大川と呼ばれたり、隅田川、淺草川、戸田川、荒川などでもあったと同様に、四万十川・渡川も、ここでは仁井田川と呼ばれていたのでしょう。現代とは違って川の名は、所により、その呼び名は違っていたのです、


四万十川下流方向
「渡川」という呼び名も、かつては下流域の中村辺りで主として使われていた、ローカルな呼び名だった、私はそう考えています。
その呼び名の由来は、いろいろに説明されていますが、おそらく、・・中村への行き帰りに「(渡り舟で)渡る」ので「渡川」と呼ばれた、・・とする説が正しいでしょう。そう考えると、中村を流れる他の二本の川が、「向川」、「後川」である訳も、よく理解できるからです。これらの川は、どれもが、中村を中心とする呼び名になっているのです。


上流方向
「向川」(現・中筋川)は、・・九州に関心を向ける中村・一条氏が、九州方面に「向かう」とき使った水路なので「向川」。
「後川」は、・・九州の反対方向、つまり中村の「後ろ」を流れているから「後川」、というわけです。まことにシンプルな命名ではありますが、土地や山川の呼び名なんて、深い意味もなくつけられたものが、多いのではないでしょうか。
なお、「四万十」の由来には、四万余りの支流をもっているからとか、アイヌ語の「シ・マムタ」(はなはだ美しい)からきたなど諸説がありますが、定説はないようです。


中の宮
高岡神社の興りを、Wikipediaは、次のように記しています。
・・伝承によれば、大和時代の6世紀頃、伊予の豪族・河野氏の一派が一族の争いから当地に逃れ、この地の土豪と共に土地を開墾し安住の地と定めた。ここに祖神を祀り仁井田大明神とし、この地の総鎮守とした。


今宮
・・平安時代初期の天長3年(826年)四国を巡錫していた空海(弘法大師)が境内に福円満寺を創建したと言われる。空海は神社を5社に分社して五社大明神とし、神仏習合の神宮寺としたと伝えられている。


元の37番
福円満寺に代わって岩本寺が五社の別当となるのは、17C後半、福円満寺の勢いが、衰え始めてからのことだと言います。それまでは福円満寺から足摺岬への途次、遍路たちが泊まる宿坊であった岩本坊が、福円満寺を後継する岩本寺として興された、ということのようです。『四国遍路道指南』(貞享4年/1687)には、すでに・・別当岩本寺くぼ川に居・・と記されています。
岩本寺は、明治期の神仏分離・廃仏毀釈により、明治4年(1871)、廃寺となりましたが、明治22年(1889)になって再興されています。


祭神
今宮に御祭神の御名が記されていました。「伊豫二名洲 小千命」(いよの ふたなのしま おち命)です。
この御名を翻訳すれば、「愛媛県越智郡に鎮座まします神様」となるでしょうか。越智郡とは、今の今治辺りです。はるか土佐まで、故郷の神を護持しつつ、流れてきたと見えます。
なお、私は焼山寺道でも、河野氏の一流が造った集落の跡・「樋山地・敷地」を見ています。→(H26春5)海の民が山の民に変じ、暮らしていました。


注連縄
高岡神社を発ち、岩本寺に向かいます。
注連縄を飾っている家がありいました。これは、はずし忘れているのではありません。
聞けば、この辺では厄除けとして、大晦日まで、飾り続けるのだそうです。大晦日に取り外して祓えで燃やし、新しい注連縄を取りつけて、新年を迎えるのです。
ところで、近年、注連縄を飾らない家が増えています。この風習、どうなるのでしょうか。


37番札所岩本寺
岩本寺は、五仏をご本尊として祀っています。岩本寺が、五社大明神・福円満寺を嗣ぐ寺だからです。山号を藤井山五智院とする所以も、ここにあります。(「藤井山」は、寺名を藤井寺と称した時期があることに由来します)。


本堂
ご本尊の五仏は、五社に祭神として祀られている五神の、本地仏とされていた仏たちです。
具体的には、
  不動明王   一の宮・東大宮の大日本根子彦太迩尊
  観世音菩薩  二の宮・今大神宮の磯城細姫命
  阿弥陀如来  三の宮・中の宮の大山祇命・吉備彦狭嶋命
  薬師如来今宮 四の宮・今宮の伊予二名洲小千命
  地蔵菩薩   五の宮・森の宮の伊予天狭貫尊


天井絵
格天井の一枡一枡に、アマチュア画家たちが画法もテーマも自由に描いた絵が、はめこまれています。
中にはマリリンモンローの絵もあるとかで、今回こそ探そうと頑張ってみましたが、首が痛くなって止めました。


歓喜天堂
今日、歓喜天の法要が行われるそうです。供物の大根と酒がならんでいます。
なぜ大根か?大根の白が清浄を表すなど、いろいろ言われています。
建物は木造、円形です。円形は、歓喜天の修法と関わっているそうですが、私にはわかりません。
歓喜天像を拝みたいとも思いましたが、ゲスな期待があることに気づき、止めにしました。


道しるべ
道しるべです。側に立て札があり、
  八十八ケ所道標  明治四十五年頃、近郷の遊子が建立した道しるべである。
  その志を大切に後世に伝えたい。    合掌
  平成四年九月吉日
と記されています。
ここでは略させていただきますが、境内には他にも、多くの道標などが保存されています。


国道56号
先へ進みます。 一段と寒さがきつくなってきました。
岩本寺の標高は210㍍でした。国道56号で一番高い「峰ノ上」は、259㍍です。



雪です。着ているポンチョが、ゴワゴワに固まっています。
遍路中の雪は、二度目です。最初は、8年前の平成13年12月25日、初めての遍路の3日目、焼山寺への登りでのことでした。初遍路での雪に、北さんと二人で、やたらはしゃいでいた記憶があります。
しかし、今回は一人です。その気にもなれません。予報では、雪はやがて止み、風が強くなるとのことです。冷たい風でしょう。

さて、令和6年の第1号をご覧いただきまして、ありがとうございました。
中途半端なところで切れてしまいましたが、次号に回させてください。更新は2月14日を予定しています。
  能登半島地震で亡くなられた方々の、ご冥福をお祈りいたします。
  また、被害に遭われた方々に、一日も早く、
  かつての日常が戻ってきますように。    合掌 

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「さかもと」 慈眼寺 旧遍路道 横瀬 櫛渕八幡神社 立江 徳島

2023-12-13 | 四国遍路

 
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 8日目 平成21年(2009)4月27日

さかもと
「さかもと」の朝は、快晴です。
今日は別格3番・慈眼寺に登ります。私は二度目、北さんは初めての参拝です。
その後の行程は未定ですが、「さかもと」から横瀬(鶴林寺への登り口がある)までの旧遍路道は、ぜひとも歩いてみたい道です。また櫛渕八幡神社にも、立ち寄ってみたいと考えています。この神社の楓(ふう)の木を、北さんに見て欲しいのです。


二宮金次郎像
元坂本小学校の「校庭」を見下ろす位置に、二宮金次郎像が建っていました。
かつては校門脇に立って、登下校する子供たちの挨拶を、日々、受けていたのでしょう。


拡大
ところで(写真を見て気づいたのですが)、この金次郎像は金属製に見えます。まさか戦中の「金属類供出」を免れたとは思えませんから、おそらく戦後になって造られた、二代目金次郎なのでしょう。
戦時中の「金属類回収令」は、寺の梵鐘までもかっさらっていったといいますから、二宮金次郎像といえども例外ではなかったでしょう。因みに渋谷の忠犬ハチ公像もまた、供出の憂き目に遭っています。今あるハチ公像も、二代目です。

 
坂本八幡神社
「さかもと」の側に、坂本八幡神社があります。毎年9月23日秋分の日に「七社七鳥居参り」が催行される、珍しい神社です。
写真は、「七鳥居」が建つ石段の、三の鳥居付近です。「さかもと」より若干高い位置にあります。


坂本八幡神社
Wikipediaは「七社七鳥居参り」の項で、坂本八幡を次の様に紹介しています。
・・古くより、川を渡らず、石鳥居を七つくぐり、七つの御社を参拝すれば、中風(脳血管障害など)にならないという言い伝えがあり、坂本八幡神社は、この条件を満たした参詣のできる全国でも数少ない神社である。
写真は、六ノ鳥居、七ノ鳥居、そして本殿です。


坂本八幡神社
(帰途に撮った写真ですが)「さかもと」より下に位置する、一ノ鳥居、二ノ鳥居です。これより七基の鳥居を潜り、鳥居毎にある七社にお参りをする、・・これが「七社七鳥居参り」です。


ひな壇
旧県道16号・徳島-上那賀線を歩いていると、
・・何だこれは? ・・北さんが尋ねました。
これは「雛壇」なのです。
毎年3月、勝浦町が開催する「ビッグひなまつり」に、坂本地区も参加しています。坂本が勝浦町のドン詰まりであることを逆手に、「おひなさまの奥座敷」と銘打って、参加しているのです。写真の竹組は、そのとき用の雛壇なのです。

 
雛人形
この写真は、「ビッグひなまつり」当日のものです。写真右側に、上掲の雛壇が写っています。→(H19春1)


下の景色
この辺の標高は、130㍍ほどです。
穴禅定や慈眼寺本堂は標高650㍍ですから、これより標高差500㍍余を登ることになります。なお大師堂、納経所は本堂よりも約100㍍低く、標高550㍍に在ります。


敬老会  
散髪屋さんの窓に、・・敬老会出席のため休みます。・・の張り紙がありました。昨日、「さかもと」で敬老会が催されたのです。その張り紙が、まだ朝早いので、はがされていません。
「さかもと」は、町民にとっても、「ふれあいの里」であるようです。


山道への登り口
ここから県道を離れ、山道に入ります。
この登り口は、散髪屋さんから20㍍ほど先、右側にあります。散髪屋さんを目印にすれば、見逃すことはないと思います。なお150㍍ほど先には旧坂本トンネルがあるので、もしトンネルが目に入ったら、行きすぎた!ことになります。


山道
この山道を自転車で駆け下ってきた男子中学生がいました。彼らについては、→(H19春2)からご覧ください。坂本地区は、子供たちを「地域の子」として育てようとしています。その姿の一齣を記してみました。


下の景色
標高を上げてゆきます。


遍路道
遍路道が庭先どころか、お宅の縁側をかすめて通っています。
・・なんでこんな所に家を建てたか、不思議に思うじゃろうが、それは必要があってのことよ。
こちらのおじいさんが、こんな話をしてくれたことがありました。→(坂本慈眼寺)


下の景色
ミカン畑が広がっています。坂本は、徳島県の温州みかん発祥の地なのだそうです。
その坂本のミカン業を、昭和56年(1981)、気象災害が襲いました。ほとんどのミカンの木が枯死したといいます。→(H19春1)


道標
  左 おくのいん道
「おくのいん」は、20番鶴林寺の奥の院を言います。慈眼寺のことです。


案内 
一度町道に上がり、500㍍ほど歩きます。


おへんろさん休憩所
町道を降りると、その先に「おへんろさん休憩所」がありました。
電気も引かれていました。地元の方が管理されているそうでした。


慈眼寺の山
慈眼寺の在る山です。石灰岩の露頭が見えます。
そこに生まれた鍾乳洞。それが「穴禅定」の修行場です。


慈眼寺
別格3番慈眼寺です。
ただし、ここに在るのは、大師堂、不動堂、納経所などで、本堂、穴禅定へは、もっと登らなければなりません。


大師堂・納経所
右に見える納経所で、北さんは穴禅定の申し込みをしました。荷物をロッカーに預け、穴禅定用の「修行白衣」に着替え、ロウソクを受け取って登ります。うまい具合に、待ち時間はほとんどありませんでした。
なお私は、前に一度経験しているので→(H19春2)今回は遠慮させていただきました。


不動堂
穴禅定に向かう北さんへの庇護を、不動明王に願いました。
階段左脇に、赤いテープを巻いた二本の柱が見えますが、これは穴禅定の路幅を示す石柱です。この幅をすり抜けることが出来ない人は、穴禅定は遠慮した方がいいというわけです。北さんは、ゆうゆう合格でした。


孝行門
本堂と穴禅定への登り口です。
この門の上には、白衣観音像が建っています。


穴禅定前
押しつぶされそうな重量を感じつつ、一列をつくります。
先達さんが先頭で、一番つっかえそうな人が、その後につきます。つっかえた時、先達さんの指示が直に届くよう、用心しているです。それより後ろの人への指示は、伝言で伝えられます。
・・指示は正確に伝えるように。・・との注意があり、緊張が一行にゆきわたりました。


関門
中央の階段を上がり、左側の祓い所に入ります。入洞の前に、手や口を清めるのです。なお、この入口にも通り柱があります。下でのチェックに漏れた人用でしょうか。
話は違いますが、シトー会修道院の食堂入り口にも、このような「通り柱」が立っているそうです。ただし、こちらは飽食の戒めです。お腹がつっかえるほど食べている人は、食堂に入れてくれないのです。


入洞
先達に導かれ、入口に向かいます。
帰着はおよそ2時間後です。このグループはやや人数が多いので、時間がかかるのだといいます。


本堂
外に残った私は、ゆっくりと本堂にお参りします。
 おんまか きゃろにきゃ そわか
ここでのお参りは、ご本尊・十一面観音菩薩の御真言を唱えながら、本堂を三回、廻ります。


景色
暗闇の中、穴禅定修行中の北さんをよそに、私は、広がる空、輝く光を楽しんでいます。


境内
お先に下まで降りて、藤棚の下でオニギリを食べることにしました。


無事帰還 
北さんが降りてきました。
第一声は、・・身体が硬くなっているのが、わかったよ。・・でした。
それとわかせてくれるような、むずかしい姿勢をとらなければならなかった、ということでしょう。ご苦労様でした。


下り
下山します。
ザックの本体を「さかもと」に預けてあるので、一度立ち寄り、それから旧遍路道を下ります。


下り
軽快な下りです。道標もしっかりとついています。


つつじ 
旧県道16号近くまで降りてきました。無粋な擁壁が、花壇になっています。


下り
旧県道16号です。
すぐ先を右に下ると「さかもと」です。



帰りました。穴禅定の2時間余を含めて、5時間半の行程でした。


遊山箱
コーヒーをいただきながら、たまたま弁当箱の変遷を話題にしていたら、それを聞いていた「さかもと」の人が、・・こんなのもありますよ。・・と持ってきてくれました。
遊山箱(ゆさんばこ)です。
・・春の節句は学校が休みとなり。男の子も女の子も、連れだって遊びに出ます。レンゲ畑で寝ころんだり、追いかけっこをしたり。
・・その時持って行くのが遊山箱です。右が男の子用、左が女の子用です。


遊山箱
・・いっぱい遊び、お腹が減ると、遊山箱のご馳走を食べます。下段には巻きずし、中段には煮物、上段は寒天などの甘い物が入っているのです。
・・ぜんぶ食べてしまっても、心配はありません。どこか近くの家に行って頼めばよいのです。その家は喜んで、自慢のご馳走を詰めてくれます。
こんな慣わしが、昭和40年代まででしょうか、つづいていたそうです。


景色
ミカン畑の中を下ります。


道標
  手差し お久乃以ん (おくのいん)
慈眼寺は今日では、まずは四国別格二十霊場の第3番札所、と紹介されます。「鶴林寺の奥の院」としての紹介は、「別格」に次いでなされるのが普通です。
しかし四国別格二十霊場が定まったのは、昭和43年(1968)のことでした。「鶴林寺の奥の院」としての期間の方が、「別格3番」よりもはるかに長いのです。この辺の道標はすべて、「おくのいん」となっています。


用品
  四国88ヵ所巡拝用品あります。
巡拝用品店がありました。正直、驚きです。この道は巡拝用品店が成り立つほど、多くの遍路が歩いた道だったのです。


無賃宿
  遍路○賃宿
またまた驚きです。今度は遍路宿がありました。


拡大
○の字を推定すると、「遍路無賃宿」ではないでしょうか。


不動明王
不動明王が白布をまとっています。
あわせて、四角の白布が献じられており、その片隅には、献じた人の干支と年齢が墨書されています。


不動尊
家内安全など、願いをするとき、新たな白布に着替えてもらい、四角の布を献じるのだそうです。
白布をまとい、いかにも涼しげなお不動さんです。


掃除用具入れ
お不動さんの側に、こんな物入れがありました。
お世話をするための、用具が入っています。


休憩コーナー
  与河内(よこうち)農協前
徳島バスのバス停です。徳島駅から(坂本より一つ奧の)黄檗(きはた)までの路線ですが、坂本→黄檗まで行くのは、(リライトの令和5年現在で)平日5本です。


道標
  左 自此 灌頂滝江 (ここより 灌頂の滝へ)
この瀧に見える七色の虹を、人は「不動の来迎」と呼ぶそうです。ただ、虹を見られる時間が午前8:00-10:00頃なので、歩きでは、なかなか難しいところがあります。


星越庵
(見落としましたが)庵の前に、延享2年(1745)の標石が在り、次の様に、潅頂の瀧への案内と星越庵の由緒が、記されているそうです。
   左 自此 潅頂瀧江 六十三丁余
  此堂御本尊大師作地蔵願主大菩薩
  為四国遍路念一度供養與河内村星越庵
  南無大師遍照金剛願主法師円心造塔
  延享二乙丑年三月念一日


波切り不動明王
また不動明王です。
土地のおばあさんが、・・この辺はお不動さんへの信仰が深いところなんです。・・と話してくれました。そういえば慈眼寺にも、不動堂がありました。
なお、「お不動さん」と親しまれる不動明王は、大日如来の化身とも言われています。



横瀬(よこせ)に近づいてきました。


水遣り
坂本川と道路の間の土地を有効利用し、畑にしています。
水遣りをしていたおばあさんが、お不動さんの話などをしてくれました。


鍛冶屋さん
覗いていたら親方が出てこられて、お話がうかがえるばかりか、鍛冶場まで見せてもらうことが出来ました。
・・ウチは、まあ、いわゆる「野鍛冶」ですね。包丁なども作っているから「生活鍛冶」でもありますが。
・・私で四代目(だったと思う)になります。幸い息子が相槌を打っているので、跡を継いでくれるとは思うのですが。
・・でも、原材料が枯渇しているのは、悩みですね。継いでくれても、原材料がなくてはねえ。


鍛冶屋さん
西部劇では、鍛冶屋さんはたいてい、銃を持つ勇気がない、臆病な男として登場させられています。真っ黒になって働く格好良くない男が、鍛冶屋= blacksmith です。
しかし日本では違います。今では歌われることもない唱歌「村の鍛冶屋」の二節は、次のようです。
 ♫あるじは名高い いっこくものよ 
   早起き早寝の やまい知らず 
  鉄より堅いと 自慢の腕で 
   打ち出す刃物に 心こもる


草取り名人
親方は、・・野鍛冶の世界は厳しい。・・と言います。
・・鈍った腕では、たちまち愛想をつかされますからね。いいものを打っていれば、遠方からでも買いに来てくれますが、だめなら、隣の家の人が何里も先の鍛冶屋へ、買いに行ったりするんですから。これが野鍛冶の世界ですよ。
写真は、私が(平成26年に)購入した「草取り名人」です。先が尖っているのは、親方の工夫です。草を根こそぎ抜くことが出来ます。それに、狭い溝などに生えた草も取れるのです。だから「名人」です。


合流
左の大きな川が勝浦川。右から合流するのが坂本川です。旧遍路道は、基本的にこの坂本川に沿っています。


橋の柱
上に架かる橋は、横瀬大橋です。


鶴林寺
適当なところまでバスを利用することにし、バス待ち時間中、うまい具合に見つかった喫茶店に入りました。
ご主人に、・・ここから鶴林寺は見えますか・・と尋ねると、外に出て、教えてくれました。
ちょっと見にくいですが、一番奥の山の右寄りに、二本アンテナが立っています。そこが鶴林寺なのだそうです。


景色
ご主人に「はな・はるフェスタ」で阿波踊りを見たことを話すと、・・うーん、阿波踊りねぇ・・と、やや複雑な表情です。
・・阿波踊りはね、もともとは盆踊りなんですよ。だけど残念ながら、あの阿波踊りは、もう盆踊りじゃないですね。盆踊りで、あんなド派手な衣装を着ます?列を組んだりもしませんでしょ。阿波踊りは全国化して、盆踊りではなくなりました。


櫛渕八幡神社鳥居
バスを降り、櫛渕の八幡神社に寄りました。楓(ふう)の木を見るためです。
楓(ふう)と呼ばれる木は、公園木などとして、けっこう植わっています。私の住まい近くでは、浦和の桜草公園や北浦和公園などにも、植わっています。
しかし櫛渕八幡神社の楓(ふう)は、それらとは違う楓(ふう)なのです。


楓(ふう)
公園などで見かける楓(ふう)が北アメリカ原産で、「アメリカ楓」と呼ばれるのに対し、櫛渕八幡の楓(ふう)は、中国原産です。
どちらも楓(ふう)とは呼ばれていますが、外見的にも、はっきりと違っています。
アメリカ楓は、葉が5-7裂、ボロボロとはがれやすい樹皮をしていますが、中国原産・櫛渕八幡の楓(ふう)は、葉は3裂、ゴツゴツした樹皮をしています。


楓の実
中国原産の楓(ふう)の、日本への渡来は、江戸時代、吉宗(1716-45在職)の時、中国の清朝皇帝から贈られたのが最初、と言われています。楓(かえで)と書いて「ふう」と読むのは、中国名・楓香樹(ふうこうじゅ)に由来すると思われます。
宮廷に植えられていた貴木だとのことで、江戸城、日光東照宮、上野寛永寺(徳川家の菩提寺)などに植えられたそうです。


中国原産の楓の葉
さて問題は、そんな貴木ともいえる楓(ふう)が、なぜ此所・立江に植わっているのか、なのですが、これについては、少し調べてみた結果を、→(H19春1)に記してみましたので、よろしければご覧ください。江戸城などに植えられた楓(ふう)のその後についても、記しています。


大楠
楓(ふう)のことばかりを記しましたが、櫛渕八幡には、楓(ふう)に並ぶの名木が、もう一本あります。鳥居の左側に立つ、大楠です。樹齢700年といいます。
何年か前に大枝の一本が枯れかかったらしく、大きな「切除痕」が見えますが、にもかかわらず道にまでせり出して、今も元気に育っています。


地神様
境内に地神様が祀られていました。
五角柱の地神様は、田圃の脇や神社の境内の隅の方に、ポツンと立っているものが多いのですが、櫛渕八幡の地神様は、きちんとした「構え」の中に立っておられます。
しかも石柱には神名だけでなく、その御神徳までが添えられています。


地神様
  農業祖神 天照大神
  五穀護神 大己貴命


地神
  五穀祖神 少名彦命 
  土御祖神 埴安媛命


地神様
  (土御祖神 埴安媛命) 
  五穀祖神 倉稲魂命


鮒の里
ご主人とお会いするなり(挨拶もなく)楓(ふう)の話になりました。この間、貴重な情報をいただいていたのです。
また「あせんだ越え」の情報もいただきました。私は平成26年春、この道を歩くことになります。→(坂本慈眼寺)

 9日目 平成21年(2009)4月28日

徳島駅前
立江から徳島に移り、今日は「信仰 健康 観光」の観光です。
宿の近くからバスで、徳島駅に向かいました。朝だから混んでいるかと心配したら、女将さん曰く、・・ガラガラよ。・・確かにガラガラでした。


大雄山興源寺(こうげんじ)
大雄山興源寺(こうげんじ)は、徳島藩主蜂須賀家の墓所です。
蜂須賀家の墓所はもう一ヵ所、眉山・万年山にもあるのですが、こちらは時間の都合で行けませんでした。
万年山墓所は、明和3年(1766)十代藩主・重喜が造営したもので、以降十三代までは万年山墓所に埋葬され、興源寺には遺髪が埋葬されているといいます。万年山の墓が「埋め墓」で、興源寺の墓を「拝み墓」とした、と考えられます。
なお仏式の興源寺墓所に対し、万年山墓所は、儒式であるとのことです。十代藩主・重喜が儒学に傾倒していたことによるそうです。いつか訪ねてみたいものです。


藩祖家政墓
藩祖・蜂須賀家政の墓です。
なお、おそらく蜂須賀家では我々に最もなじみ深いであろう、家祖・蜂須賀正勝(蜂須賀小六)の墓は、なぜか万年山に在るのだそうです。少年時代の秀吉・日吉丸との矢作橋での出会いなどなど、様々に語られる人物です。


二代目藩主墓
二代目藩主・蜂須賀忠英(ただてる)の墓です。
他にも、何枚もの墓の写真がありますが、ここでは割愛します。


徳島城石垣
徳島城を訪ねました。
徳島城は、天正14年(1586)、蜂須賀家政が完成させた平山城です。秀吉によって阿波に封ぜられた家政は、最初、その居城を(13番大日寺側の)「一宮城」に定めましたが、→(H26春6)どうやらその段階で家政は、一宮城が既に古い時代の城であることを、識っていたようです。
これからの城は、戦のためだけでなく、国経営(政治)の中心としても機能しなければならないのです。それには「城下町の形成」が欠かせません。一宮城は、戦城としては難攻不落ですが、城下町の形成には不向きだったのです。


景色
家政は即、徳島城の築城にかかってします。完成は、ほぼ1年半後でした。早い完成と言えます。おそらく、次なる九州(島津氏)攻め遂行のため、四国の安定が急がれていたのでしょう。
秀吉は、最も信頼する戦国大名の一人・蜂須賀家政を阿波に置き、土佐一国に封じ込めた長宗我部への押さえとしたのです。家政は美事、その期待に応えたと言えます。


石垣
ただし蜂須賀は、やがて温故の豊臣を裏切ります。関ヶ原でも大坂の陣でも、徳川方に与するのです。
その功績で蜂須賀は、秀吉からもらった阿波国を、引きつづき家康によっても安堵され、その阿波支配は明治維新まで続くことになるのですが、・・


枯れ木 
反して長宗我部は、・・
かつての敵方・豊臣方に与したのですが、結果は悲惨でした。当主・盛親とその子は刑死し(武士としての名誉ある死は与えられなかった)、長宗我部氏の嫡流は絶えてしまいます。


本丸跡
本丸跡は広場になっていて、年配のおばさん、おじさん達が、健康ダンスをやっていました。


モラエス饅頭
モラエス(ヴェンセスラウ・デ・モラエス)は、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)と同時代の人で、ポルトガルの海軍軍人、外交官、そして作家でした。
ハーンほどは知られていませんが、欧米社会へ日本を紹介した功績は、ハーンと同等以上に高かったとも言われています。
外交官を引退後、大正2年(1913)から徳島に移住。昭和4年(1929)、徳島で没しました。眉山の上に、モラエス記念館があります。
追記:天恢さんからのご指摘です。・・『眉山山頂に1976年開設の顕彰施設・モラエス館があったが、老朽化で2015年に閉館』だそうですが、資料は阿波おどり会館、徳島大学、徳島駅などに分散してあるようです。


河畔
新町川沿いに歩き、船巡りの乗り場に向かいました。撫養航路(むや)が復活したと耳にし、これに乗ってみようと思ったのです。
川伝いに鳴門・撫養まで行って帰ってくるというのですから、途中、吉野川も横断することになります。これはもう乗らない手はないのです。


図書館
河畔に、こんなものがありました。「みんなの公園図書館」です。
開けると、大人向けの本、子供向けの本が並んでいました。好きな本を取り出して、側のベンチで読んでは返すのだそうです。


遊覧船
係の人に訊いてみると、撫養航路は、往復4時間なのだそうでした。
残念!これでは、あきらめるほかありません。飛行機はもう予約しています。やむなく、一周25分の「ひょうたん島コース」で妥協することにしました。徳島市の中心部が乗っかっている中洲を「ひょうたん島」と呼んでおり、これを船で一周するコースです。


さんばし
「新町川を守る会」(NPO)が運営しており、運賃は無料です。ただし保険料として100円を払います。船は、地元企業の応援も得て、購入したのだそうです。


新町川
かつて新町川の汚染は、ひどかったといいます。
・・時間をかけて、きれいにしてきたんですわ。こうして(観光客に)見られよる思たら、よう汚さんじゃろ、そないにも思てなあ、やっとるんですわ。


カキ
この辺は汽水域で、両岸にはカキが付着しています。



この辺の小型船舶用泊地を、「ケンチョピア」というのだそうです。県庁(ケンチョ)近くの桟橋(ピアー)ということのようです。
奥に眉山(びざん)が見えています。


流政之
(五剣山の号でもご紹介しましたが)流 政之(ながれ・まさゆき)さんの作品、「ICCHORA(イッチョラ)」が見えました。
瀬戸内寂聴さんの文化勲章受賞を記念して、制作したものだそうです。庵治石を鳥居型に組んでいます。


帰りのバス
さて、いよいよ帰宅です。
 ♫この旅終えて 街に帰ろう・・
何はともあれ「結願」をはたすことができました。おまけの「観光」もすることができました。
お大師さま、四国の人たち、ありがとうございました。
飛行機は最終便を予約したので、帰宅は、23:00ころでしょう。


空から
というわけで、平成21年(2009)春の結願遍路シリーズは、今号をもって終わりとなります。
長々とご覧いただきまして、ありがとうございました。
次号からは、同年冬に歩いた土佐路のリライト版を、ご覧いただきます。更新予定は、年末年始を挟むので、いつもより一週遅れの1月17日とします。
すこし早いですが、皆さま、どうか良いお年をお迎えください。

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