楽しく遍路

四国遍路のアルバム

尾崎 椎名 「三高」 最御崎寺 室戸乱礁遊歩道

2015-07-02 | 四国遍路

 
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尾崎の朝日
早起きして、尾崎集落の奥にある白髭神社にお参りしようと思ったのですが、未だ暗い中の集落を余所者が彷徨くのも躊躇われ、・・・止めました。
海岸で朝日を待つことにしました。


夫婦岩
室戸岬へ向かいます。同宿の(たまたま同県人だった)人は、奈半利まで歩くと言います。ひたすら津寺まで歩いてみて、見通しがついたら宿を予約する、とのことでした。私は西寺の下の宿を予約し、(出来るだけ)あちこち立ち寄りながら歩きます。特に岬先端部の、海と陸とがせめぎ合う所では、時間をかけ「地球の息吹」に耳を傾けたいと思います。


トンビの目
鵜の目鷹の目鳶の目、いっぱい見ておきたいと思います。


イタドリ
朝散歩のご夫婦と出会いました。イタドリは、炒め煮で食べるそうです。私は皮をむいて、歩きながらかじりました。酸っぱい味が気付けになります。


浜アザミ
写真の浜アザミは、採る人がいないのでしょう、少し育ちすぎています。かき揚げで食べると美味しいのだそうです。


椎名小学校
男の子がひとり、バットを振っていました。春休み中なのです。学校はどこ?と尋ねると、三高小学校と答えてくれました。自宅から歩いて30秒の所に「椎名小学校」があるのですが、2001(H13)休校(後廃校)になってしまいました。通勤のお母さんが車で送ってくれるのだそうです。


捕鯨山見跡
土佐古式捕鯨で使われた、鯨の見張所跡がありました。登ってみました。
写っている集落は、先ほど通過した飛鳥集落です。「椎名小学校」は、飛鳥集落に在ります。椎名集落は見張所の先にあります。
説明板によると、ここは標高約50㍍。風囲い、狼煙をあげた焚き火跡が確認されており、寛永初年(1624)の土佐古式捕鯨発祥から明治末期の終焉まで、使われていたとのことです。


捕鯨山見跡
鯨発見の報が入るや、飛鳥や椎名の浜から何艘もの勢子船や網船が、櫂漕ぐ声を一つに揃え、沖へ沖へ、漕ぎでたことでしょう。勇魚(いさな)との「大勝負」に、命をかけて挑みます。


山見跡から海
私が「古式捕鯨」に触れた最初は、30年も前のことでしょうか、C.W.ニコルさんの「勇魚」でした。「勇魚」は鯨の古名です。
「勇魚」より、・・・鯨を見つけるには早暁がいい。さしのぼる朝日の低い柔らかな光が、噴きあげられたられた潮をとらえ、その脂っこい噴霧の水滴をきらめかせるので、見張所からはかなりの距離でも巨獣を発見できるのである。


椎名集落へ
椎名で、墓参帰郷中の男性と出会いました。お彼岸の期間中だったのです。実家が空き家になっているので、出来るだけ帰って家に風を入れないと・・・、と言います。男性は退職後、Uターンするそうですが、「空き家」の問題はかなり深刻だとの認識を語ってくれました。多くの「空き家」が放置されていて、いずれは「廃屋」になりかねない、というのです。
「空き家」問題は、出羽島、野根、野市でも耳にしました。マスコミの報道もあって、問題意識が高まっているようでした。


みの山
集落の南の山を、男性たちは「みの山」と呼んでいたそうです。あの山に雲がかかると10分経たないうちに雨が降る、男性はそう教わったと言います。
「天気見の山」でしょうかね?と尋ねると、あゝ、きっとそうですね、と賛成してくださいました。


「ながれこ」の記憶
・・・何というんでしょうかね、アワビを小さくしたようなやつ、僕らは「ながれこ」と呼んでいたんですが、(今はどうなっているか知りませんが)4月1日には、あの辺の石をひっくり返して採ったものでした。美味しかったですよ。
「ながれこ」は「とこぶし」の呼び名のようです。
訂正:天恢さんからご指摘をいただいて、「ながれも」を「ながれこ」と改めました。号末のコメントをご覧ください。天恢さんの説明があります。


滋賀丸遭難者慰霊碑
平成14(2002)に建てられた室戸ライオンズクラブの案内板によると、・・・昭和19(1944)、沖合1500㍍を航行中の滋賀丸(900トン)がアメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没、(詳細不明のまま30年が過ぎたが)極力調査した結果、37名の遭難者が確認されている、とのことです。
別の資料によると、滋賀丸(約740総トン)が沖合1500㍍で米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没。乗員、乗客計190名のうち約150名が犠牲となった、と言います。
滋賀丸は軍艦ではありませんでしたが、攻撃を受けました。数字に違いがあるのは、日本軍部が被害の隠蔽を図り、被害事実の確認が出来なかったためです。戦争は始まってしまったら、「何でもあり」です。決して始めてはなりません。


室戸岬
前方に見える岬が一つになりました。室戸岬近し。


北明神
北明神とは、どのような「神さま」でしょうか。尋ねてみようと人を探したのですが、見つかりませんでした。
狛犬が珍しく、「村中」の文字は素朴です。


日神社
読みは「にち・じんじゃ」でしょうか。こちらの「神さま」も、よくわかりませんが、ウバメガシの巨木を見れば、土地に根付いた「神さま」であるのは確か、とわかります。


三高小学校
一説では、明治の町村大合併の目的の一つに、小学校の設置・管理を任せることができる町村規模の確保、があったと言います。義務教育普及のためです。
昭和の大合併では、6-3制で中学が義務化されましたので、中学校を設置・管理できる市町村規模が求められました。
そして平成の大合併では、(逆行して)小中高等学校の大々的統廃合が図られました。
統廃合は地方では、昭和の高度成長期には、すでに始まっています。高度成長は、都会が地方を簒奪して、成ったからです。しかし平成に入り、大都市による中小都市の簒奪が進行するに至り、中小都市は追い込まれるように周辺町村との合併を進め、そのなかで学校統廃合が大規模に進みました。室戸市にある小中高等学校数(分校を含む)は、かつては31校でしたが、2011(H23)の調査では、14校に激減しています。なお室戸市の「消滅可能性」(2010年から30年間での20〜39歳の女性人口の予想減少率)は83.4です。


三高小掲示板
さっきバットを振っていた男子が通っている学校です。
天恢さんが教えてくれたのですが、学校名の「三高」(みたか)は、「三津+高岡」=「三高」です。三津と高岡の中間に「三高小学校」を建てたのです。(前号のコメントで触れた)「中をとる」という、私の好きなやり方です。


杉尾神社
祭神は大国主命のようですが、よくわかりません。三高小掲示板の菜の花畑は、杉尾神社前の休耕田を利用しています。


青年大師像
青年大師像が見えてきました。この辺からから最御崎寺までについては、 「H26秋」 に少し詳しく書いています。よろしければ、こちらもご覧ください。


防御
同じ室戸岬でも高岡辺りの風雨は、一段と厳しいのでしょう。分厚いコンクリート壁で防御したお宅が目につきます。


室戸岬
「室戸岬」の文字が出てきました。


虚子句碑
    竜巻に 添うて虹立つ 室戸崎   虚子 
虚子には、同じ場で創られたであろう、もう一句があります。
    竜巻も 消ゆれば虹も 消えにけり 虚子


烏帽子岩
烏帽子岩と名のつく岩は、あちらこちらにありますが、これぞ烏帽子岩、です。一目で烏帽子と分かります。


御厨人洞
4500年-2800年前、波が洞窟を造りだしました。その後、巨大地震で隆起し、現在は海面から10メートルほどの高さになっています。波が寄せてくることは、通常は、ありません。
しかし1200年前、空海さんの頃は、洞窟はもっと海面に近く、波は空海さんの目線に寄せていたと思われます。海面は洞窟の2㍍下だった、という研究もあります。


天狗岩
御厨人洞納経所の上の岩を天狗岩というそうです。天狗に似ているからだそうです。


水掛地蔵
海難死された人たちを供養しています。喉の渇きを癒やしてもらおうと、水をかけてあげるのだそうです。


登り口
乱礁遊歩道の写真は、末尾でご覧いただきます。


一夜建立の窟
22番最御崎寺の奥の院です。大きな葉は「喰わず芋」の葉。


山頭火句碑
「即」は「=」ではないのですね。「遍路即人生」と入れ替えると、大いに意味が違ってしまいます。そんな人もいないではない?


捻り岩
18番恩山寺では、大師は女人解禁の祈願を成就し、母君を迎えましたが、最御崎寺では、母君は暴風雨を避けてここに避難されました。
大師の母君を通して、「女性」への扱いが説明されます。


岩見重太郎の塚
岩見重太郎こと薄田隼人の塚、とのことです。私は岩見重太郎を知っています。仇討ち話、狒々退治の話、大坂の陣での活躍話、塙団右衛門も出てくる、後藤又兵衛も出てくる、・・・子供時代のヒーローのひとりでした。


最御崎寺
「火つ岬」寺。五来重さんの文をお借りすると、・・・岬で火を焚くことも辺路修行者の一つの修行形態です。そこにお寺ができると、つねに火が焚かれます。


行当岬
・・・室戸岬には西寺(金剛頂寺)と東寺(最御崎寺)という二つのお寺がある・・・西寺と東寺の間をめぐったり往復するのが中行道です。
「行当岬」が「行道」から来ているのは間違いないことです。


灯台
現代の「火=灯」。辺路修行者が岬で焚く「火」を、海人は目当てにしていました。今は灯台の「灯」を目当てにしています。
毎年11月1日に近い日曜日、室戸岬灯台まつりが開催されるそうです。その前日には、灯台内部の夜間一般公開もあるとか。見たいものです。


  乱 礁 遊 歩 道

遊歩道へ
国道から左に降りて、乱礁遊歩道を歩きます。


新しい大地
大地創世の最前線。深海から隆起してきて、ようやく’日の目’を見た最新の大地です。


新しい大地
地学などを勉強している人には、たまらない魅力なんでしょうね。私は案内板を読むのがやっと。残念です。


弘法大師行水の池
岩の下部に窪みがあります。これを「ノッチ」(波食窪)というのだそうです。波で削られた窪みです。窪みの壁面には、波打ち際にしか棲まないヤッコカンザシの殻(棲管)が、群体として付着しているそうです。
棲管は、炭素14年代測定の結果では、2700年-1000年前のものと考えられるそうです。


ノッチ
行当岬で見つけたノッチです。


ヤッコカンザシの棲管
なんとか撮影できました。


ビシャゴ岩
1400万年前、マグマが地層に貫入して固まった岩。マグマは水平に貫入して固まりましたが、その後の地殻変動で隆起しつつ、70~80°回転、今は地上で垂直に立っている、のだそうです。


ポットホール
岩石の割れ目や窪みに入り込んだ小石が、波の渦に巻かれて岩を削り、ご覧のような穴ができた、のだそうです。
地殻の隆起とともに、海中で形成されたポットホールが、地上に現れました。 「おう穴」とか「かめ穴」などとも呼ばれるそうです。


タフォニ
岩の表面に多数の穴があいています。岩に海水が付着し、海水の水分が蒸発し、塩類が結晶として残り、・・・穴があいたのだそうです。よくわかりませんが、ともかく長い年月をかけて開いた穴です。


烏帽子岩
班レイ岩という岩石でできているそうです。深海から隆起し、地上に出てきました。ビシャゴ岩と同様に、地殻変動の中で直立し、烏帽子のようになりました。


波食台
土佐日記の碑は「波食台」に建っています。「岩畳」です。御厨人洞の駐車場は、土を除けると波食台(岩畳)だといいます。


あこう
締めつけるように岩をしっかりと抱た様子は、まさに「タコの木」です。


タービタイト
・・・地震などをきっかけとして、砂や泥が混ざりながら海底の斜面を流れくだり、より深い海底に運ばれる。重い砂が先につもり、軽い砂が跡につもる。これにより砂と泥がくりかえすタービダイトという地層が形成された、のだそうです。
なかなか実感できませんが、1600万年前に深海でできたものが地上に現れ、私たちが見ているというわけです。


室津のすずり屋さん
さて突然ですが、四国遍礼名所図会に、硯を売る店の絵が載っています。「名物すずり」の札がかかり、・・・室津町にあり 遍路、旅人立ちよりて国への土産とす、と詞書があります。「図会」に掲載された、唯一の土産物屋の絵です。
どこかに硯屋さんはないだろうか、津照寺近くの土産店、三店で尋ねてみましたが、(いずれも私ほどのお年寄りでしたが)「硯という話は聞いてません」とのことでした。絵は東寺と津寺の間に挿入されており、「室津町にあり」とありますので、在ったとすればこの辺だと思われるのですが。


タービタイト
ところで、なぜ硯屋さんの話かといえば、硯の材料になっていたのが、タービダイトだというわけです。その堅さが、硯に向いているのだそうです。・・・行当岬の「硯ケ浦」については、次回、触れたいと思います。


目洗い池
弘法大師がこの池の水を加持し、衆生の眼疾を治した、と伝わるそうです。涸れることがないそうです。


子授け岩
上に石を投げて落ちてこないと子が授かるのだそうです。
子供の頃、鳥居の笠木には小石が満載でした。うまく小石を乗せることが出来ると願いが叶うのでした。その代わり、すでに載っている他の石を落としてしまうとバチが当たる、とも言われており、落としてしまったときは、それは慌てたものでした。
子授け石には危険がありませんから、今でも残っていますが、鳥居への石載せは、見られなくなりました。


室戸岬灯台
ご覧いただきまして、ありがとうございました。次回更新は、7月23日の予定です。またよろしく御願いします。

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2 コメント

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土佐のグルメ (天恢)
2015-07-03 13:14:49
 『尾崎~室戸乱礁遊歩道』の道中を楽しく読ませていただきました。 今回は冒頭から飲兵衛には堪えられない酒の肴が続出しました。
 「イタドリ」はそのままでも、炒めても、煮ても、てんぷらでも美味しくいただけるそうで、地元の人たちはこんな立派な旬の食材が食べれるのですから羨ましい限りです。 「浜アザミ」は、室戸あたりでは早春の訪れを告げる野草として大変親しまれ、珍重されているそうで、食べ方としては、茎から根にかけての部分を天ぷらやお浸しにするのが室戸では一般的のようです。 「ながれも」は、全国的には「トコブシ(床臥・常節)」と呼ばれる旨い貝ですが、高知や徳島などでは「ながれこ」と呼ばれ、岩の表面を流れるように這う様子から「流れ子」と呼ばれるようになったといわれています。 
 そして、締めは古式捕鯨発祥の室戸ですからナンタッテ「鯨」です。 鯨肉でも一番美味の部位はオノミ(尾の身) - 尾びれの付け根の霜降り肉で、これを刺身で食べるのが最高です。 天恢がこれを最後に食べたのは40年程昔のことで、ミンククジラでは霜降り程度が弱く、厳密にはほとんど存在しないとのこと。 古来より「鯨」との関わりの深かった日本人にとって、食文化が異なる欧米系の人たちとの付き合いで狭まることは寂しいものがあります。
 このところの梅雨空宜しく、コメントも湿りがちですが、飛鳥・椎名の「捕鯨山見跡」については、楽しく遍路さんの古い遍路アルバム集・「室戸佐喜浜・・・須崎 H20.6」にもあって、わずか7年の歳月の流れの中で、時代は「地方の過疎化・荒廃化」へと確実に進んでいるように思えます。小中学校の統廃合化、だんだん増えてくる深刻な「空き家」の問題、住む人が少なくなれば、ホンの200年前の「室津のすずり屋さん」の存在も忘れ去られ、貴重な地方文化の伝承もままならないものがあります。
 それと、もう一つ心配なことは、「御厨人洞」は空海さんが修行した頃に比べて2mから10mと随分隆起しているようです。 土佐の沖合にある南海トラフでは約100~200年の間隔で蓄積されたひずみを解放する大地震が発生しており、私が生れて間もない頃の昭和東南海地震(1944年)、昭和南海地震(1946年)がこれに当たるそうです。 人生100年も夢ではない時代ですが、身勝手ながら次の大地震との遭遇だけは避けたいと願っております。
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食べたい 見たくない (楽しく遍路)
2015-07-04 15:24:30
天恢さん ありがとうございます。
なるほど、美味しいものが並んでいたのですね。気づいていませんでした。毎回、内容を上手にまとめていただき、ありがたく思っています。私はどちらかというと、食べないで飲む方なので、飲兵衛でグルメの天恢さんはうらやましいです。
「とこぶし」「ながれも」のこと、訂正ありがとうございます。帰省中の男性は「ながれこ」と呼んでいたのでした。そう書いたつもりでいたのですが。・・・本文、訂正させていただきました。

子供時代、私は瀬戸内海沿いに住んでいましたから、魚は、けっこうぜいたくに食べていました。隣近所に魚屋さんがあり、生きのいい魚が並んでいたのを覚えています。いつでしたか、高潮で床下浸水したとき、並んでいた魚が我が家に逃げてきました。(この話を素直に信じてくれた人は、いまだいませんが、本当の話です)。タコが逃走をはかるなどは珍しくはなく、何回も見たことがあります。(この話は数人、信じてくれた人がいます)。
そんなわけで、魚は食べていましたが、肉類は不足していたようです。東京に住み始めて、初めて食べた「鯨定食」は、(確か60円程でしたが)牛肉代わりに思われ、おいしかったです。毎日のように食べていました。東京の魚が、当時、あまり美味くなかったこともありますが、なにより「鯨」は美味しかったのです。
大晦日の紅白歌合戦で、南極捕鯨船団からの「白組がんばれ」などという電報が読み上げられると、幼い私は鳥肌が立つほどに感激していました。南極捕鯨船団の活躍を通して、私は「日本復活」を感じていたのでしょう。軍国少年ならぬ、平和日本の愛国少年として、はるばる南極の遠くにまで日本の船団が出かけていることが嬉しく、なかでも捕獲数世界一は、なんとも誇らしかったのです。私は食べる前から、鯨が好きだったのです。
実は、鯨定食を食べ始めた頃には、日本の復興の道筋に疑問を抱く年齢には達していたのですが、鯨の味は別物だったようです。
鯨定食、オノミ、また食べてみたいものですが、当分はお預けのようですね。どうも、そんな情勢です。日本は「調査捕鯨」を名目にして、小規模ながら事実上の捕鯨を実施してきました。ここに反捕鯨国は、「ごまかし」を感じとっています。だから日本の主張は信用されません。

昭和南海地震の時、(と、あとになってからわかったのですが)、四国の瀬戸内海側で眠っていた私は、目を覚ましました。母が私に被さるようにタンスを押さえていたのを覚えています。私はタンスの下で寝ていたのです。
目を覚ましていたのは、ほんの数秒だったろうと思います。にもかかわらず記憶に残っているのは、その数秒間が強烈だったからでしょう。私も身勝手ながら、次の大地震(と次の戦争)は見たくありません。
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