楽しく遍路

四国遍路のアルバム

室戸岬 御厨人洞 最御崎寺 津照寺 四十寺

2015-02-19 | 四国遍路

 
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・・・お詫び・・・
3月19日、「日和佐-白沢-牟岐」の内容でブログを更新するつもりでしたが、残念ながら果たすことが出来なくなりました。やや体調がよくなく、この区間、まだ歩いていないからです。天恢さんと「同行三人」を楽しむはずでしたが、・・・天恢さん、ドタキャン、すみませんでした。
幸い順調に回復しているようなので、早ければ4月上旬にも、新しい記事に更新出来る(のではないか)と思います。その節はまたよろしくお願いいたします。


天恢さん撮影
天恢さんから「通行止め」の情報をいただきました(3月5日現在)。白沢から峠を越えて下り、サンラインを渡り、水落方向へ少し歩いた先に崩落個所があります。海崖上の道ですから、当然、片側は断崖絶壁、はるか下に海、です。これを越えるのは極めて危険です。

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青年大師像
初めてこの道を歩いた時のこと、・・・いくつもの「偽」室戸岬に騙されて、室戸岬はこんなにも遠かったのかと、愚かにもようやく気づいた頃、青年大師像が見えてきて、悦びよりも安堵が先立っていたという、なんとも初心な感覚・・・


青年大師
しかし今回は、膝痛のためとはいえ、ふてぶてしくもバスで乗り付け、青年大師にご対面です。
仁王像の紺丹緑紫、大師像の白亜、前に変わらぬ鮮やかさですが、何年かに一度、足場を組んで塗りなおさねばならず、金がかかります。檀家がいない寺の苦しさもあるそうです。
寺名は明星来影寺。大師像開眼は昭和59(1984)。


水掛地蔵
海に向かって、出来るだけ沖に近い陸の先端に、たくさんの地蔵尊像が並んでいます。水掛地蔵だそうです。・・・水を欲しがりつつ海難死した人びとをしのんで、水をかけて供養している、とのことです。
死はいずれ訪れるものですが、天寿を全う「できなかった」人たちの無念を思うと、心が痛みます。



東日本大震災でも多くの方が不意に命を絶たれました。海を見るたび、思い出されます。
辛くも生を得ることはできたけれども、いまだ暮らしを再興する手掛かりもつかめぬまま、無為の時を過ごす他ない方も多いと聞きます。間もなく四年が経とうとしています。


烏帽子岩
室戸沖には「南海トラフ」という、プレートの「沈み込み帯」があるそうです。地球の営みの、小さな一部にすぎないにもかかわらず、幾度となく巨大地震を発生させ、私たちの日常を破壊してきました。そして今なお、来るべき(東)南海地震の震源を秘めています。


ビシャガ岩
しかし皮肉にも、大地を揺るがす破壊の力は、また、大地創成の力でもあると言います。
室戸岬に私は、破壊と創成が荒々しくも顕在化した様を見ています。青年空海もまた見たかもしれない景色を。


弘法大師御修行の地
地形学的に言えば、崖は「海食崖」、その基部にある洞窟は「海食洞」、手前の平面は、(土で覆われていますが)「波食台」というそうです。
「海食崖」とは切り立った崖を言い、海に突き出た陸地の先端部が波に浸食されてできた崖、とのことです。「海食洞」は、海食崖の亀裂など、弱い部分を波が削ってできた洞窟です。「波食台」は、海食崖前面の、磯波で削られて平らになった岩盤を言います。
いずれも海水面で形成された地形ですが、巨大地震によって隆起し、今は海抜10メートルの高さに在ります。


神明窟
空海修行の聖跡としては、双洞窟の向かって右を「神明窟」と呼ぶそうです。洞内に神明宮が祀られています。「神明さん」の御祭神は大日孁貴(おおひるめのむち)。より知られた御名では、天照皇大神です。
室戸岬の先端に天照皇大神が祀られている由縁を、たびたび登場願う五来重さんは、・・皇大神宮は海洋神ですから・・と説明されています。


御厨人窟
双洞窟の左が「御厨人窟」です。案内看板では五所神社が祀られ、祭神は大国主命とされています。
五来さんは、・・ここは食堂でもあり居間でもあります・・と記し、御「厨」人洞の名が、ここで炊事したことに由来する、と説明されています。御祭神は、大師の供をした愛慢菩薩、愛語菩薩とのことです。


小窟 求聞持窟?
石碑の後ろに隠れて見えませんが、御厨人窟の向かって左に、もう一つ小さな窟があります。
従来は、これが(大師が求聞持法を修した)求聞持窟であり、一夜建立の岩屋だとされていましたが、今は否定的のようです。だから、その前に石碑を建てて、見えなくしてしまったのかも知れません。


小窟
御厨人洞の納経所の方は、こんな話をしてくれました。
・・あの小さな窟はお大師さんとは関係ありません。どなたかが来て何かされている(何かを祀っている)ようですが、近頃は来ていませんし・・。
そういえば、中にはゴミのようなものがありました。


登り口
では、求聞持窟はどこにあるのでしょうか。
もう一つ考えられるのが、現在、一夜建立の岩屋だとされ、最御崎寺の奥の院となっている洞窟です。最御崎寺への登り口から少し坂を登ったところにあります。


一夜建立の岩屋
しかしこの岩屋は、側の由緒看板によると・・空海(弘法大師)が一夜で建立したと伝えられる岩屋で、寺伝では、空海が唐からお持ち帰りになった石像(如意輪観音像)が安置されていた場所である。・・とのことです。もし、この岩屋が求聞持窟であるならば、虚空蔵菩薩が祀られているはずなのですが、如意輪観音となると、・・もう、私などにはわかりません。


一夜建立の岩屋
なお、困ったときの五来重さん頼みで「四国遍路の寺」をひもとけば、五来さんは上掲の小窟を求聞持窟とお考えのようです。


捻岩(ねじり岩)
一夜建立の岩屋から少し登った所に、女人禁制にかかわる「捻岩」があります。
由緒看板によると、・・空海(弘法大師)がご修行のとき、その身を案じられて室戸を訪れた御母堂様が山に登りかけると、にわかに曇り暴風雨となったので空海がこの岩を捻じってその中に避難させたと伝えられています。・・
これより先は、たとえ大師の母上であろうとも、女人が登れば神仏の怒りにふれる、つまり女人禁制という諭しでしょう。


尾崎から夫婦岩
さて、この後の私の実際の行程は、バスで尾崎(おさき)まで戻って一泊し、翌日、ふたたびバスで室戸まで来るのですが、煩雑なので、ブログ上では、このまま最御崎寺へ進むことといたします。
なお前号のコメントでも記しましたが、バスで進んだ区間、私は(義務感からではなく、歩きたいので)歩き直すつもりでいます。その時、また写真を撮るでしょうから、岬西側の様子なども含め、ご報告できればと考えています。・・この区切り歩きでは冒頭で天恢さんと接近遭遇しそうです。楽しみです。


24番最御崎寺
海抜160余㍍、海成段丘の上に在ります。
地元の人はもれなく、東寺(ひがしでら)と呼ぶようです。26番金剛頂寺の西寺(にしでら)と組になっています。なお東寺-西寺の中間に、津照寺の津寺(つでら)があります。


鐘石
叩くと鐘のような音を発し、その音は冥土まで届く、とのことです。元は水掛地蔵さんの所に在ったと言います。


不喰芋(くわず芋)
・・若きお大師さんが老婆に芋を乞うたところ、老婆は芋を惜しんだか、「この芋は食べられない」と嘘をついてしまいました。すると嘘が本当になってしまい、老婆が作る芋は食べられなくなった、ということです。以来、その芋は「不喰芋」とか「石芋」と呼ばれるようになりました。・・しかし、お大師さんの御慈悲でしょうか、不喰芋には胃腸薬としての薬効があるそうです。
私は数年前、西寺で芋のお接待を受けました。喰えるおいしい芋でした。山下が芋の産地なのです。東寺の不喰芋、西寺の美味い芋、おもしろいですね。なお不喰芋の葉は、上掲・一夜建立の岩屋の写真にも写っています。


若宮八幡
最御崎寺の鎮守として控えておられます。若宮八幡は、八幡さん(応仁天皇)の子神(仁徳天皇)を祀っていることもありますが、この若宮八幡は応仁天皇を祀るようです。


歓喜天
歓喜自在天は仏法の守護神です。


津呂 行当岬
歩いてゆく先です。膝をなんとかごまかしながら歩きます。


降りてきた道
海成段丘に車道を「取り付けた」という感じです。


津呂の港
津呂港は「掘り込み式」という工事手法が採られたそうです。岩礁の中に窪地を見つけ、そこを掘り下げて港にしますが、堤防を築き、内側の海水を抜いて掘ったと言います。難工事ではあっても、室戸岬の手前に、どうしても風待ち湊が必要と考えたようです。
野中兼山の工事ですが、兼山は室戸岬に、津呂、室津、佐喜浜の三港を整備しています。これらの港は、捕鯨、鰹漁の基地としても活用されることにもなります。


石碑
紀貫之、野中兼山の碑が建っています。



このような道が私は好きです。


水高の跡
昭和南海地震による海嘯の高さを示しています。室戸岬中学校の校庭にありますが、学校は閉校されていました。
・・昭和南海地震は、私の記憶に残る地震です。


まいごの井戸
由緒看板によると、「まいご」は「梅香」(ばいこう)の転だと言います。
紀貫之は室津で10日間の風待ちを強いられましたが、その時、井戸の側に老梅が生い茂っていたことから、「梅香の井戸」と名付けたそうです。「ばいこう」が「まいご」に転じたのだそうです。


室津港
前述しましたが、野中兼山の手になる港です。


26番津照寺
津寺(つでら)と親しまれ呼ばれています。地元の方が、・・しんしょうじ?そう言われてもピンと来ん、やっぱり「つでら」じゃ、・・とおっしゃいました。
大同2(807)、空海さんが海の安全と大漁を祈願して開創したと伝わるそうです。ご本尊は楫取地蔵菩薩。
・・土佐初代藩主山内一豊公が室戸の沖で暴風雨に遭い難儀されておりました。すると何処からともなく大僧が現れ、船の楫を取り、御船を室津の港に導いてくださいました。・・無事入港の報告に津寺へ参詣してみると、なんと本尊地蔵菩薩の御体が濡れておりました。・・一豊公は大僧が本尊地蔵菩薩であったと知って、ますます尊崇の念を高め、以来、ご本尊を「楫取」地蔵菩薩とお呼びするようになったと言います。


津照寺
「楫取」(かじとり)地蔵さんは、また音の一致から、「火事取り」(かじとり)地蔵さんとも言われるそうです。「今昔物語」に登場する話は次の様です。
・・本堂が火難に遭った時、ご本尊の地蔵菩薩が大僧の姿に身を変えて(これは上記の話と同じです)村人に知らせ、おかげで様で火難を逃れることができました。以来、ご本尊は「火事取り」地蔵と呼ばれています。・・


四十寺へ
津寺近くの宿に荷物を預け、四十寺へ向かいます。室津川を遡りますが、この地点までは202号線を歩きました。
この地点は、へんろみち保存協力会の地図で「芸東ブロック工業」とある地点です。


四十寺へ
室戸高校の裏(グランド側)を通って四十寺山の麓まで来ます。
協力会の地図10版で「町田建設」とある地点です。今は「町田建設」はありません。


四十寺山の山容
山容が見えてきました。写真左から右方向へ歩きます。いちばん高いところが四十寺山頂です。
40余の寺院が建っていたので四十寺山と呼ぶとか?ちょっと想像がつきません。


登り口
尾根筋まで、斜めに切れ上がってゆきます。



登る人が少ないのでしょう、蜘蛛の巣が多く、お杖に大活躍していただきました。驚いたのは、帰途、すでに住まい再建中のクモがいたことです。



迷う心配はありません。へんろみち保存協力会の道標が立っています。


植林
緑の募金の助成で、室戸桜、つつじを植樹しています。室戸市報によると、「四十寺山 桜美人の会」(さくらびとの会)が中心となって繁茂する草を刈り、雑木を伐採した後、植えたのだそうです。おかげさまで、快適に登れるようになりました。
室戸桜は山桜と大島桜との交配種だそうで、五枚の花びらの先端に小さな突起があると言います。大島桜の花びらは先端が割れていますので、突起は山桜の形状を継いでいるのでしょう。・・何年後かに、見に来たいものです。


景色
室戸高校が見えます。甲子園春の選抜に出場したのは平成19(2007)のことでした。八強に残る頑張りに室戸は湧いたのでした。
私はこの年の春、甲子園は終わっていましたが、室戸岬を訪ねています。


四十寺
四十寺山が最御崎寺の故地であるのは間違いないことでしょう。現在地に遷ったのは寛徳年間(1044-45)、平安中期の後期、だろうと言われています。
四十寺の本尊は十一面観音菩薩、脇侍は 薬師如来 地蔵菩薩。


室戸山大権現
近寄って見ようとすると、何かが目の前を過ぎました。瞬間的には木の枝だと思いました。ドサッと音がしたので見ると、足元からあたふたと青大将が逃げてゆきました。あやつは身体が大きいからでしょうか、ときどき木から落ちてしまうようです。60年ぶりに目撃した、あやつの「失敗した」姿でした。


室戸山大権現
祠内には「室戸山大権現」が、新しく祀られていました。そのため(と言えば申し訳ないですが)、たぶん権現様だと思われる古い石板が、後ろに隠れて見えなくなってしまいました。
右上の文字は「宝暦」でしょうか。宝暦は18世紀半ばの年号です。


鎮守神
鎮守神も祀られています。室戸の地を鎮めてくださいます。後ろの石は鎮め石でしょうか。


室戸岬
この景色を見るために登ってきました。雑木を伐採して、この景色を私に見せてくださったのは、土地のボランティアさんたちのようです。とても感謝しています。
この景色を見るとき、ここが最御崎寺の故地であると合点できます。私は次回、金剛頂寺の奥の院とされる池山神社に、できれば参るつもりです。池山神社は四十寺と同じく、室津川を遡った処に在ります。金剛頂寺からは、元川を遡った処、となります。


室津港
今日は室津泊まりです。

さて、次回更新ですが、本来なら3/12なのですが、あいにく?区切り歩きとぶつかってしまいました。本文でも記しましたが、阿波路の歩き直しです。(天恢さんとの同行が実現する見通しです)。
そんなわけで次回更新は3月19日とさせていただきます。内容は、ふたたび阿波に戻って、白沢峠-牟岐-出羽島、の予定です。まだ歩いていないので、変更はあるかもしれませんが・・。

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高知空港近くの掩体


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四たび巡り来て・・・ (天恢)
2015-02-20 09:15:24
 今回も「室戸岬 御厨人洞 最御崎寺 津照寺 四十寺」の道中記を楽しく読ませていただきました。 とくに室戸への道を初めて歩かれた方は楽しさとはほど遠い厳しい修行であったと思いだされたことでしょう。 
 天恢にとっても室戸は雨や風に縁のあるところで、ここの道中はたびたび泣かされました。 でも、苦しみの数だけ喜びがあるようで、最御崎寺からのスカイラインの絵になるヘアピンカーブ、深くえぐれた石積の室戸港を見てびっくり仰天したり、この築港の難工事を指揮した土佐藩家老の野中兼山との出会いは、その後の遍路を続ける楽しさのきっかけとなりました。
 
 さてさて今回は手前勝手となりますが、前回のコメントでの呼び掛けや本文にもありました「楽しく遍路」さんと天恢との同行三人の春遍路が実現できそうなことです。 日和佐から牟岐までの一日一泊の旅となりますが、「楽しく遍路」さんの丁寧な遍路を少しでも学べたらと願っております。
余談となりますが、この話がまとまった直後の2月6日に牟岐で直下型の震度5の地震がありました。 四国では地震は頻繁に発生するようで、このブログの「H26春 その4  川島橋附近 藤井寺 焼山寺道」でも、鍋岩の宿で夜中に瀬戸内海中心にM6.1地震があったとあります。 「四国は地震の巣なんですね」に現実味があります。 きっとお大師さまから遍路にあたって「浮かれるな!」とカツを入れられたような気がします。 
 それと天恢は今回の春遍路で、昨年暮れに記録的な大雪が四国の山間部を襲い、遭難死された高越寺ご住職と寺男の方のご冥福を祈るため高越寺・高越山にもお参りするつもりです。 本文冒頭にあった地震、津波によって天寿を全う「できなかった」人たちの無念の思いと合わせて、天恢の耳には何故か「♪海ゆかば・・・ ♪山ゆかば・・・」が聞こえてくるのです。 ただ天恢も加齢とともに「無理はもうすまい、引き返す勇気はいつも持っていたい」と自覚しております。 4年目の3月11日は伊予灘の海を見ながらの犠牲になられた方々の菩提を弔う鎮魂となりそうです。
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天寿を全うできる幸せを (楽しく遍路)
2015-02-21 16:39:56
天恢さん こんにちは
そして、補足をありがとうございます。
・・地震、津波によって天寿を全う「できなかった」人たちの無念の思いと合わせて、天恢の耳には何故か「海ゆかば・・・山ゆかば・・・」が聞こえてくるのです。・・
おっしゃる通り、天寿を全うできなかった人たちの中でもとりわけ無念なのは、「戦争死」により人生を中断された人たちでしょう。戦争は100%人災だからです。100%人為によって避けうるものだからです。
人生を中断された彼や彼女らの無念を思うとき、今日の「戦争馴れ」した言辞の横行は、まことに残念であり、申し訳ないことです。・・それとも、こんなことを書く私は「ノホホンと平和ボケ」しているのでしょうか。

天恢さんは夜間バス利用なので無理なのですが、高知空港利用の方々、空港近くに貴重な戦争遺跡が残っているのはご存知でしょうか。
高知空港は戦中、帝国海軍航空隊が使っており、土佐湾に米軍上陸の可能性が考えられたからでしょうか、敵機の攻撃や艦砲射撃から航空機を守るための掩体が空港近くに造られ、掩体群として残っています。写真を本文の末尾に載せておきますので、ご覧下さい。

天恢さん、・・日和佐から牟岐までの一日一泊・・ぜひ実現させましょう。
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こんにちは (枯雑草)
2015-02-21 19:17:45
楽しく遍路さん。室戸周辺の旅、楽しく拝見しました。
楽しく遍路さんも天恢さんもおっしゃるように、四国の道の傍には様々な天災や人災の爪跡・・それは現在も進行しつつあるものを含めて・・鮮烈に残されています。そういうものにセンシブルでありたいと願っております。
次回は、同行三人が実現しそうなのですね。楽しみにさせていただきます。
白沢から峠越えで牟岐に行く道、いい道です。
池山神社にも行かれるとか。初めてですか・・河内からはひどい急坂ですから元川に沿った奥郷からの道でしょうか。楽しく遍路さんのこと、抜かりはないと思いますが、私は5年前、下りで遭難しかかった道。道の状態を確認してからお入りになりますよう・・
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気をつけて楽しみます (楽しく遍路)
2015-02-22 12:04:24
枯雑草さん ありがとうございます。
・・白沢から峠越えで牟岐に行く道、いい道です。
お墨付きをいただいたようで、期待が倍加してきました。安全であり、なおかつ何かが感じられる道なのでしょう。峠には「ケダノタオ」という呼び名があるそうですね(日和佐の峠道 阿波学会研究紀要)。土地のどなたかとお会いできて、話をうかがうことが出来たりすれば、それはもう最高なんですが。天恢さんが“運”を呼んでくださるかも・・。

・・(池山神社)道の状況を確認してからお入りになりますよう。
「もののけ姫」の神の森(枯雑草の巡礼日記 三巡目 第2回 その5)を私も見たい一心で、“できればお参りしたい”と記しましたが、実はまだ大いに迷っています。このような時は、最終的には、安全側に身を寄せるのが私のだいたいの行動パターンですが、最後まで迷わないと諦めきれないタチでもあります。まだ時間がありますので、もうすこし粘ってみることにします。
加齢とともにバランス感覚に自信がなくなり、高所恐怖が嵩じています。躓きも多くなっています。前回は左足を滑らせて、心ならずも右膝で地球にニードロップ攻撃を加えてしまいました。地球からの反撃は大きかったです。
お互い(と言っていいのでしょうか?)、そして天恢さんも? 気をつけることといたしましょう。
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お大師様に感謝! (天恢)
2015-02-25 15:36:45
いつも、どこかで枯雑草さんに挨拶したいと願っておりましたが、天恢も加齢のせいでしょうか? ついつい反応が鈍くなって失礼しておりました。 それともう少し「枯雑草の巡礼日記」を読んでからコメントしなければつじつまが合わなくなりそうな気持でいました。 これからも遍路のこといろいろ教えてください。
 来週は「楽しく遍路」さんと同行三人が実現できそうですが、運とか、お金とか、出世などとは縁のない人生を送ってまいりましたので、たぶん呼び寄せは期待に添えそうもありません。
 ただ、元気に遍路を続けていればこうした楽しい出会いが待っているんですね!
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