楽しく遍路

四国遍路のアルバム

2回目の遍路 ② 海部 室戸岬 行当岬

2012-11-12 | 四国遍路
     新しいアルバムの目次へ    古いアルバムの目次へ    神々を訪ねて目次へ

2002.3/28 六日目  晴  海部(宿)-東洋大師-法海上人堂・・・野根(宿)

マメは、出来てしまったら、小さなうちに対処しなければなりません。つくづく身にしみて、わかりました。針を刺すのが怖くて、ついつい、大きく育つのを待ってしまったのです。
そしてまた、水はきちんと出し切っておかなければなりません。マメが再発してしまうと、マメの中にマメができた状態になり、水抜きが難しくなります。水を溜めている限り、マメは痛み続けます。

昨晩、マメへの対処を誤ったようです。治りきらないまま、今日、私は歩き始めます。 (続きは下をクリック)

旧土佐東街道

旧土佐東街道です。山道は、コンクリートの道よりも、ずっと脚にやさしいことがわかります。
木々の緑を抜けてくる陽がなんとも美しい。打ち寄せる波の音が下から聞こえてきます。


ふり返ると

国道に戻り、ふり返ると飛行機雲が二筋。徳島まで88㌔と標示されています。国道55号線の区間は、徳島市から高知市の間です。基本的に海沿いを走ります。


水床トンネル・県境

徳島と高知の県境です。徳島県の宍喰(ししくい)から水床(みとこ)トンネルを抜けると、出たところが高知県の甲浦(かんのうら)です。昭和47、トンネルが開通しましたが、それまでは、180㍍ほどの峠を越えたようです。
澄禅さんの「四国遍路日記」に、
・・・鹿喰ノ河ノ西ノ山ギワニ関所在、・・・夫ヨリ坂ヲ越テ神浦ト云所ニ至ル・・・。
  (宍喰の河の西の山際に関所あり、・・・それより坂を越えて甲浦という所に至る)・・・とあります。国境(くにざかい)の関所があり、峠越えで土佐に「入国」しました。
土佐から「出国」する口は、伊予へ入る松尾の番所しかありませんでした。「出国」に当たっては、甲浦で受け取った通行手形(切手)を役人に渡し、土佐滞在期間などが調べられた、とのことです。
「出入国」の管理は厳しく、遍路なら誰でもが「入国」できたのでは、なかったようです。そんなことも関係してでしょう、「(土佐を除いた)三国参り」などということもあったそうです。23番薬王寺(阿波の終わり)と40番観自在寺(伊予の始まり)で、土佐方向に向かって遙拝し、土佐の各寺参拝に代えたとのことです。


さしみ

甲浦の郵便局で北さんが金をおろすことになりました。私は甲浦中学校の手前で、またまた、足の手入れをしながら待ちました。
これまでに何回も、靴を脱いで、靴下を脱いで、治療しているのですが、思わしくありません。こじらせているようです。

郵便局の後、北さんは魚屋を探し、刺身を買ってきてくれました。足のことを忘れて、近くの白浜海岸に出て「宴会」です。
「長次郎」銘のワサビおろしは、北さんが持ってきました。「の」の字を書いてワサビをおろします。箸、皿などは100円ショップで、私が買ってきました。


ミカンのお接待

ややカーブの多い車道を登って行くと、蜜柑売りのおばさんが並んでいました。
通りかかると、一人の方が蜜柑を「お接待」してくださいました。売り物です。それを見た隣の方が、付け足して袋に入れてくださいました。ちょっと重いけど、歩きながら食べえ、と言います。
今回、二度目の蜜柑の「お接待」です。


東洋大師・明徳寺

東洋大師には、弘法大師の「お杖水」伝承があります。大師が杖で突いた所から水が湧き、瀧になって流れ落ちた、と伝わります。
大師に感謝して、そこに寺院を建てたそうです。東洋大師の興りです。むろんご本尊は弘法大師です。


弘法の瀧

2㍍ほどの瀧ですが、枯れたことはないといいます。

元は「野根大師」と呼ばれましたが、昭和34(1959)、甲浦町と野根町が合併し、「東洋町」が発足したことに因み、「東洋大師」となったそうです。
ただ、澄禅さんの「四国遍路日記」に出てくる「野根の大師」とは、位置的に違っていると思えます。
・・・是(=大河)ヲ渡リテ 野根ノ大師堂トテ 辺路屋在リ・・・(大河を渡ると野根の大師堂がある)、と記されていますが、・・・
「大河」が野根川を指しているとすると、現在と位置関係が合いません。東洋大師は野根川を渡る手前に在ります。「大河」が相間川を指しているなら、位置関係は合いますが、相間川を「大河」と呼んだでしょうか、疑問はあります。私が知らない、なんらかの変遷があったのかもしれません。


東洋大師の通夜堂

難所に挑む遍路たちには、ひとときの休憩の場が必要です。また、満潮になれば、海沿いの道は通れなくなります。引き潮を待つ間、身体を休めることになります。遍路たちは、当大師堂での休憩を名付けて、「野根の昼寝」と呼んだそうです。
東洋大師には通夜堂があります。「野根の昼寝」を引き継いだものと思われます。室内は(ご覧のように)落ち着いた雰囲気に設えられており、申し出れば、シャワー、洗濯機、乾燥機が無料でお借りできる、とも聞きました。 


東洋大師での「お接待」

開かれた信仰の場です。住職にお目にかかれましたが、気さくで、話題豊富な方でした。


室戸へ

私たちの今夜の宿が、野根大橋の先にあります。宿に荷物を預かってもらい、可能な限り先まで歩いておくことにしました。
帰途は、16:00過ぎの甲浦行バスを利用する考えでした。途中出会った逆打ちの女性遍路が、自由乗車区間だと教えてくれました。どこでも、手をあげれば停まってくれる、そう思っていました。


室戸方向

今でも思い出します。歩いても歩いても、次々と岬が現れてきたのでした。あれこそが室戸岬?いや、違った。これもあれもが「偽・室戸岬」。
本物の室戸岬は、そんなことを考えなくなったとき、ふいにやって来たのでした。しかし、それは、まだまだ先の話です。


法海上人堂

お母さんに子供たち数人が率いられて、お参りに来ました。ちょっと’逸れた’感じの子たちですが、一番年長は中学3年くらいの男の子でした。みんな、お母さんに合わせて合掌しました。お母さんが言います、「私の子供たちは、今はこんなにしています。髪も黄色です。どうか、お導きください」。
導かれいでか、そう思って見ていました。いい子たちでした。

法海上人堂の前に座ってバスを待ちました。バスが来たので手を挙げると、停まってくれました。
やがて運転手さんが、バス停以外の停車は違反になるので、と話し出しました。運転手によっては停まらないことがある、とのことでした。自由「乗車」区間ではなかったのです。ご迷惑をおかけしました。日暮れて宿に(重い足を引きながら)着くところでした。



恩山寺で知り合ったお二人と同宿でした。薬王寺でマメに苦しんでいた方は、「もう楽になった」と、トントン階段を上がって行きます。うらやましいかぎりです。
明日の荒天を予想した彼女たちは、18㌔ほど先の、尾崎の宿を予約しました。「ここ数日のご縁がありながら、黙っていることはできない・・・」、というわけで、わざわざ部屋までやって来て、伝えてくれました。

「洗濯のお接待」をいただきました。昨夜は、洗濯機は回しましたが、乾かすことができず、ほとんど濡れたままの洗濯物を抱えていたのです。懐かしい物干し台があって、風を感じながら干しました。

数年後、この宿は廃業しました。やれるまではやる、と女将さんは話されていたのでしたが。

  
3/29 七日目  曇のち強い風雨  法海上人堂-仏海庵-御厨人-室戸岬(宿)


曇天

天気予報は、「強風波浪注意報が発令されています。南東の風が強く吹くでしょう。昼過ぎから強く、ところにより雷をともなうでしょう。降水確率は、午前70%。午後90%」でした。「南東の風」は、私たちを直撃します。

法海上人堂までは、昨日歩いているので、バスで行きます。
少し走ると、恩山寺のお二人が、「完全武装」で歩いていました。バスが追い抜きます。車内から手を振りましたが、気づきませんでした。一期一会。


淀ヶ磯

澄禅さんの「四国遍路日記」に
・・・彼ノ音ニ聞土州飛石・ハネ石ト云所ニ掛ル。此道ハ難所ニテ三里カ間ニハ宿モ無シ・・・
  (かの音に聞く土州 飛び石・はね石 という所にかかる。この道は難所にて、三里が間には宿もなし) とあります、
「飛び石・はね石という所」は、「野根ごろごろ」とは別の場所なのでしょうか、同じ場所の異称でしょうか。一方は「石が飛び跳ね」で、他方は「石がごろごろ」です。いずれにせよ、長く続く一連の難所です。遍路たちは、山道が行き詰まれば海沿いを行き、海が詰まれば山を行きました。


仏海庵

仏海さんは伊予北条の生まれだそうです。宝暦10(1760)、仏海庵を興して、淀ヶ磯難渋の遍路を救い、衆生教化に尽くした、といいます。
本来なら、靴を脱いで手当てするところですが、雨ではそれも難しい。
右足裏の「湧泉」の辺にできたマメが、ズン、ズンと痛みます。「湧泉」とは、生命の源となる力が湧き水のように溢れ出るところだとか。そんなところを傷つけては、痛いはずです。
ゆっくり歩くと、反って痛みを感じてしまいます。次を踏み出す意思が萎えます。対策はただ一つ、ウォ-カーズ・ハイ!です。速く歩くこと、そして麻痺させること、です。


れんがの灯籠

魅力的な灯籠がありました。止まらず、歩きながらシャッターを押しました。後で知りましたが、佐喜浜八幡のレンガ灯籠です。
6年後(H20)再訪し、ゆっくりと見ました。そのアルバムをご覧ください。 (→佐喜浜八幡宮


源内槍掛けの松

松は昭和6(1931)に倒れ、今はありません。
石碑に、「明治31年生 73歳の同士 槍掛けの松跡に碑を建つ (連名) 」と刻まれています。計算すると、松が倒れた年、(この年は柳条湖事件が起きた年ですが)、建立者たちは33才でした。それから40年後、昭和46(1971)、73歳になって、この碑を建てました。

「天正の戦雲に当たり、此地に奮戦せし豪将勇士の冥福を祈り」建てたものだそうです。「天正の戦雲」とは、天正3(1575)、「佐喜浜城主の大野家源内貞義が、長宗我部元親の阿波侵攻の道を開くのを阻むため戦った佐喜浜合戦」を指しています。源内が打たれた後、佐喜浜勢は総崩れとなり、老人子供に至るまで、殺戮されたといいます。元親を(天恢さんの表現をお借りすると)「四国の歴史史上で最高のワル」とする説の、数多ある論拠のひとつです。


佐喜浜漁港

佐喜浜合戦の前年、天正2(1574)、元親は、室戸から野根にかけての武士らを挑発、決起させ、滅ぼしています。四国制覇に向け、まず土佐の制圧に掛かりました。
戦国時代は、いよいよ、ラストステージに入っていたのです。佐喜浜合戦と同年の1575(ただし年号は元亀4)は、武田信玄の没年です。これより信長が台頭してきます。そんな時代の話です。


尾崎の宿

恩山寺で知り合ったお二人が泊まる宿です。たぶん12:00過ぎには着くでしょう。風雨が強くなるのは昼過ぎですから、とても良い判断をしたのだと思います。たいしたものです。・・・私たちは、雨にも負けず、風にも負けず、そしてマメにも負けず、室戸岬へ進みます。
前方を歩いている二人はご夫婦です。この方たちと、室戸岬まで、相前後することになります。


夫婦岩

夫婦岩近くの食堂で大休止、昼食としました。ようやく靴を脱ぎましたが、他のお客さんもいることとて、あまりみっともないことはできません。
前を歩いていたご夫婦と一緒になりました。


椎名漁港

風はいよいよ強く吹き、「室戸岬」を実感させてくれます。風圧でしばらく立ち止まったりします。菅笠が浮いて首つり状態になったり、風が当たって、杖の操作も難しくなります。
この風は南東の風ですから、東海岸を歩く私たちには、厳しいのです。西海岸に回り込めば、ずいぶん和らぐはずです。実際、津照寺の辺でお婆さんから、岬の東と西では違う、という話をうかがいました。

(つまらない話ですが)、時代劇映画に出てくる旅烏は、頭を垂れて、三度笠を前に傾け気味に歩いています。いかにも世を憚かっている風で、カッコいいのですが、どうやら、風を避ける様でもあったんですね、発見でした。


海洋深層水

14:00過ぎ、大休止しました。コーヒーをお願いすると、「わたしとこは、みな、海洋深層水で・・・」とのことでした。室戸の海は急に深くなっているので、海洋深層水を汲み上げやすいのだそうです。
自然循環の破壊ではないかと、私は心配でした。海の底までかき回すのは、止めた方がいい、そんな気がしていました。
心配は今日、シェールオイル、メタンハイドレード、レアーメタルなど、海底資源の発見で、ますます募っています。日本は「資源大国」であるなどと、あまり浮かれないことが大切です。何事にも「ほど」というものがあることは、分かっていたいものです。


青年大師

青年太師像が視界に入りました。19歳の大師だそうです。


御厨人(みくろど)

まもなく御蔵戸(みくろど)に着きました。今回の目的地に着いた、と言えます。けれど口に出たのは、「着いたんだ」、そんな言葉でしかありませんでした。
ドードーと海が鳴っています。海と陸とがせめぎ合う、その地点に私は立っています。
海が圧倒してきます。私の依って立つ地が、危ういものと思われてきました。空は、己の卑小さを知れとばかりに、雲を溜め、低くみに降りてきています。
この地に立ち、空と海に対峙し、挑み、ついには空と海を同化し、空と海を己が名として取り込んだ、その人の「大きさ」は、「とてつもない大きさ」、としか理解できません。
・・・ 土州 室戸崎に勤念す。谷響きを惜しまず。明星来影す。・・・


夫婦連れ

夫婦遍路の奥さんがやって来ました。座っていた社務所前の椅子を少し譲りました。
奥さんの弁です。・・・この雨風は、主人の人生そのものでしてねえ。もう、安心して見ていられないんです。大手術がうまくいって、そのお礼にと出かけて来たんですが、心配でねえ。私は、いざというときの、救急車の電話係なんですよ。まあ、もう長い間、こんな夫婦なんで、これでいいんですけど・・・。
なるほど、ご主人はこの後、虚子の句碑前で、じっと立って、動こうとしませんでした。
お二人の今夜の宿は、最御崎寺の宿坊です。もう少し登らねばなりません。あれから10年後の今、いかがお過ごしですか。


宿の投句ポスト

宿の廊下にも部屋にも、句の短冊がいっぱい架けてありました。女将さんに作者を尋ねたところ、「私です」とのことでした。私たちも、その頃、少々かじっていましたので、夕食後は、ミニ句会となりました。マメの痛みは、アルコールの中に溶けてゆきました。

波の音か、風の音か、ドードーという音に、何回か目覚めました。
   
 3/30 八日目  晴  24番最御崎寺-25番津照寺-26番金剛頂寺-行当岬・・・高知市内




寝過ごすところでした。宿の前、道を挟んだところが、岬の最先端です。
なんとか日の出に間に合いました。今日は快晴です。




東映映画のオープニングみたいな、波しぶきの瞬間があるのですが、シャッターチャンスをつかめません。

私たちの脚力では、室戸岬に着くのは7日目、と考えていました。実際、7日目に着くことができました。
しかし、実は、ここまでの行程に当てていた日数は8日、でした。1日、「「遊びの日」を入れていたのです。つまり、今、1日余っていることになります。これをどうするか、まだ決まっておりません。


中岡慎太郎像

岬の先端部に中岡慎太郎の像が建っています。桂浜の坂本竜馬像と向き合っているのだそうです。
方や海援隊、方や陸援隊。方や郷士の息子、方や安芸の大庄屋の息子。ともに歴史の流れに身を投じます。そして、京・近江屋で襲われ、命を失います。


24番最御崎寺

宿に荷物を預けて、最御崎寺(東寺)へ登りました。久しぶりの山登りです。足が悦んだのか、マメが好転に向かっていました。これなら大丈夫かも。


室戸岬燈台

こんなに背が低いとは、思っていませんでした。この位置から燈台を見られるのは、珍しいと思います。

最御崎(ほつみさき)は、五来重さんによると、本来は「火つ御崎」だそうです。海に向かって聖火を焚く古代信仰、修行に因む寺号だといいます。


25番津照寺へ

荷物を受け取って津照寺(津寺)に向けて出発しました。しかし、すぐ、コーヒー店があり、入ってしまいました。行程には余裕があります。
奥に、行当岬が見えます。本来は「行道岬」だった、とも言われます。


津呂

「紀貫之朝臣泊舟之處」の碑がありました。
・・・10日、けふは この那波の泊にとまりぬ。11日、暁に船を出して 諸津をおふ。人皆 まだねたれば・・・
「那波」は、「なは→奈半」でしょう。奈半利に泊まって、翌早朝、「諸津」を目指した、とあります。「諸津」は「むろつ→室津」でしょう。
ここは津呂漁港ですが、まあ、この辺が、貫之が言う「諸津」と思われるようです。

隣に、「野中兼山先生開鑿之室戸港」の碑があります。兼山は二代藩主に国家老として仕えた、土佐南学の実践者です。三代藩主になって失脚し、一族は幽閉のなかで滅びます。兼山関連の写真のいくつかを紹介しておきます。土佐に、兼山の鍬が入らない所はない、といわれます。 (→柏島兼山堤) (→新川落とし)(→兼山神社) (→手結港)


海嘯襲来

「昭和九年海嘯襲来」の下は埋まっていますが、「・・・地點」と続いているようです。
(第1)室戸台風が昭和9(1934)、室戸岬に上陸して四国を縦断、その後、近畿→北陸→東北と、最悪コースをたどって、甚大な被害を残しました。(昭和36に、ふたたび室戸に台風が上陸し、これを第2室戸台風としました)。
この辺は、とりわけ、「海嘯」による被害が甚大だったようです。「海嘯」とは、この場合、「風津波」を指しているようです。南からの暴風による吹寄せ、台風中心の低圧、満潮などの影響が重なって起きる津波、です。風津波は、地震津波とは違います。


水高之碑

室戸岬中学の、校門を入ったところに「水高之碑」があります。海嘯=風津波の水位の高さを示す碑です。碑の、一番高いところまで水が来ました。来るべき南海地震による地震津波は、より高い水位が想定されています。


室津港

なんとも穏やかな景色。内港には波ひとつなく、底まで澄んでいます。
桜の下、おじいさんとおばあさんが座っていました。ご夫婦では、ないような気がします。幼なじみかな? 年寄り同士が、なにか話しているような、ただ座っているだけのような、・・・静かに時間が過ぎてゆきます。


25番津照寺

津照寺は、「津」に在るからでしょう、津寺と通称されています。台風に備えてでしょう、コンクリート造りのお寺です。
この高さなら、津波にも大丈夫。なにかあったら、お寺に逃げろ、だそうです。
歩いていて気づきますが、お寺や神社は総じて、その土地その土地の、一番安全そうなところに建っているようです。


海岸での宴

昼食です。津照寺側の魚屋さんで刺身を買いました。カツオのタタキとタコ。すぐ近くの浜で食べました。カツオは、いぶしが上手で、最高の味と香でした。
稲藁でいぶすんですよ、と話してくれたのでしたが、6年後、美味しかったので、また食べに来ました、と話したら、ちょっと困った顔をされて、近頃は稲藁が手に入らなくて、仕方なく、段ボールでいぶすんです、だから美味しいかどうか、とのことでした。
稲刈り時、トラクターが稲藁を裁断してしまうんだそうです。


とんびに狙われた

ふと見上げると、たくさんのトンビが頭上を旋回しておりました。映画「鳥」(ヒッチコック)のようでした。私たちの昼食を狙っているのです。やがて、急降下してくるトンビもいて、「お杖」で警告を発しました。
私たちの食事が終わると、いなくなりました。どうやら、食べ残しを捨てて行く人などもいて、トンビたちは味を占めているようです。


金剛頂寺へ

参道入り口にある民宿「うらしま」さんに荷物を預かってもらいました。そんなチエを、早くも付けていたのでした。
帰途、お礼代わりに、軽い食事をお願いしました。

登りの途中に見た景色は忘れられません。田植え直後の水田、人家、海、岬、全部が、絵のようです。奥が室戸岬です。


26番金剛頂寺

金剛頂寺は、最御崎寺の東寺に対して、西寺と通称されています。東西合わせて、金胎両界を表象していると云います。
山門の脇で、地元の方々から「お接待」に預かりました。ふかし芋とお茶です。お茶請けの漬け物も美味しかった。




明日にも田植えです。早苗が苗代から取り出されています。


終点

16:20 行当岬バス停を、今回の区切り遍路の終点としました。
これからバスで高知市内に向かいます。
高知の城下へ来てみいや  じんばも ばんばも よう踊る・・・鳴子両手によう踊る・・・。

はりまや橋に着いたときは、もう暗くなっていました。
格安切符の店で、明日の航空券を買いました。明日は高知観光をして、帰ります。室戸の宿の女将さんから、大切なのは「信仰-健康-観光」です、と教わりました。早速、実行に移します。


3/31 晴  高知城 


のみの市

今日は日曜日です。高知城追手前通には「フリーマーケット」が立っていました。free ではなく、flea(蚤) です。
高知近郊から農家や商家や職人さんらが、「見世」を出しています。とりわけ目についたのが「打刃物」でした。
「土佐打刃物」です。農業や林業が盛んとなり、そのための刃物の需要が増したのでした。高品質で知られています。私たちが話したのは、香美から来た職人さんでした。


高知城

「H24春遍路 ④」でも触れましたが 、近世城郭は、大きくは三度、受難します。1度目は、元和元年(1615)の、一国一城令です。これにより本城以外の支城が廃棄されました。2度目が、明治6(1873)の、明治政府による廃城令です。3度目は米軍による空襲です。
高知城は、廃城令も米軍の空襲も逃れました。唯一、本丸の建物が完全に残っている城です。明治の廃城令をクリヤーしたとは、さすが土佐藩(高知藩)ならでは、でしょうか。


天守から

城内は桜満開。花見客でいっぱい。花吹雪の中で、思わず、舞ってしまいました。すばらしいエンディングでした。

続きの遍路は、同年(2002)の12月20日~26日でした。もちろん北さんと一緒で、行当岬から歩き継ぎました。
この歩きもウェブ上にありませんので、いつか機会を得て、紹介させていただきます。

 いざ 四国へ 張り切っている    山盗歌

さて、本日、(11月12日ですが)、これより高知に向かって出発します。
10日間ほどの予定で、土佐路から伊予路を歩くつもりです。次回、その報告ができれば、と願っています。
更新予定は、12月3日です。
 
     新しいアルバムの目次へ    古いアルバムの目次へ    神々を訪ねて目次へ
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 2回目の遍路 ① 阿波国分寺 ... | トップ | H24 秋遍路① 真念庵から地蔵... »

コメントを投稿