楽しく遍路

四国遍路のアルバム

津峰山 平等寺 月夜お水大師 鉦打 弥谷観音 目晴大師 薬王寺

2014-11-20 | 四国遍路

 
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勝浦川から中津峯山
前々回の区切り歩きで中津峯山に登りました。山腹にある如意輪寺に参って、そののち、中津峯山を越え、星の岩屋に降りたのでした。その様子は「H25秋 6」に記しました。
写真は、前回、勝浦川大橋から撮ったものです。


金磯から日峰山
前回には、恩山寺の奥の院、金磯弁天に参る途中、日峰山に登りました。「H26春 7」で報告しています。
写真は金磯弁財天近くから 撮ったものです。


阿波橘駅から津峯山
そして今回、平等寺から歩き始める前に、阿波橘の津峯山に登りました。これで「阿波三峰」の全部に登ったことになります。
「阿波三峰」と一括りにされているのは、これらの山が沖行く船にとって、「目当て山」(燈台代わりの山)だったからです。一番標高が高く奥まっている中津峯山を三角形の頂点とし、標高は低いけれど海に近い日峰山と津峰山を残る二点として、その三角形の見え方から自分たちの位置を割り出していたと言います。夜間は、山上で燃やす「神火」が目当てになっていました。「阿波三峰」は、海の人たちによる名づけと思われます。


表参道鳥居
牟岐線阿波橘駅の踏切を渡ると、すぐ津峰神社の表参道です。ただし、この道が「表」となるのは、駅が出来てからのことです。駅の開業は昭和11(1936)です。


津峯道
津峰神社の故地が見能林(みのばやし)にありますから(賀志波比売神社)、当初は見能林からの道が「表」だったでしょう。しかし、よく知られているだけでも阿土合戦による社殿焼失→建て替え、昭和南海地震による社殿倒壊→建て替えなどにより、社殿の場所、向きには変遷がありました。「表」は、その都度、変わったと思われます。


木根道
しかし阿波橘駅からの道も古い道です。駅が出来て道が通ったのではありません。道があるところに駅が出来ました。道標は、荒田野(新野)の佃弥右エ門さんが願主となり、文化12(1815)に建立されています。


拡大
実は津峰神社を訪ねてみて、すっかり「仏教っ気」が抜けていることに気づきました。神仏混淆の様子は、まったくと言っていいほど見られませんでした。
写真の道標は、津峰山で私が見た唯一の「仏教っ気」です。神社への参道を示す道標ですが、「此方 あかだ(た)に くわんおん道」と刻まれているのでしょうか。
山を越えた向こうに「明谷観音」(あかだに観音)という、弘法大師ゆかりの寺がありますので、これを案内しているのかもしれません。あるいは、明谷観音と津峰神社との、混淆時代の関係を示すものなのかもしれません。


道標
道が津峰神社から四方につながっていたこと(の一端)を示す道標です。
  左 桑野道 桑野一里 鉦打三里 日和佐七里    右 長生道(ながいけ道)長生弐十二丁 城山一里半 徳島六里 
この他に見能林への道があり、もちろん阿波橘への道もあるわけです。津峰神社を中心にして、道が十の字に交差しています。


灯火
着きました。
まず目についたのが、高い鉄柱の上についた「灯火」です。津峯の神様が「海上交通」の安全を守る神様であった頃の名残です。かつての常夜灯は既になくなっていました。


ニワトリ
境内にニワトリが放し飼いされていました。神社の由緒にかかわる鶏です。
由緒によると・・・祭神・賀志波比賣大神(かしわひめ大神)は、主として人の寿命を司り給うを以て、危篤の病人と雖も其の親戚、知人、鶏鳴を期し、清水に浴し、至誠をこめて祈願をすれば、寿を延べ給うといゝ、また日に一人の命を助け給うと伝えらる・・・とのことです。
「鶏鳴を期し・・・」に因んだ鶏です。


阿波地鶏弁当
景色を眺めながら食べようと、腹を空かせて登ってきたのですが・・・。
ニワトリたちは人に慣れていて、寄ってきます。どうも食べにくい。結局、下で食べることとなりました。


橘湾 リアス式海岸
「四国遍礼名所図会」に、・・・(平等寺に向かう大根峠から)津峰山南林、丸島一円に見ゆる絶景いわんかたなし・・・とあります。
大根峠から津峯山とリアス式海岸の海が見えたそうです。まさに絶景だったでしょう。阿波橘湾は、今日、「阿波の松島」と呼ばれているとのことです。


拝殿
古事記によれば、(伊邪那美命たち鬼女に追われて)黄泉の国から逃げ帰った伊弉諾命は、「竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘の小門(をど)のアワキ原」で禊をします。この時、左の御目を洗うと天照大御神が、次に右の御目を洗うと月読命が、次に御鼻を洗うと素戔鳴命がお生まれになったと言います。


本殿 覆い屋
当地では、阿波橘こそが「竺紫の日向の橘」であると(も)考えられていますから、とすると、津峰神社のご祭神、賀志波比賣大神(かしわひめ大神)は、天照大御神に他ならない、ということに(も)なります。  
前述の「鶏鳴を期し」は、「天の岩戸開き事件」で果たした「鶏鳴」の役割を想起させます。鶏は天照大御神の神使です。また「日に一人の命を助け給う」は、・・・伊弉冉命が「あなたがこんなことをされるなら、私はあなたの国の人間を一日に千人を殺しましょう」と言うと、それに答えて伊弉諾命が「あなたがそうなさるなら、私は日に千五百人の子どもが生まれるようにしよう」と言い返した、・・・場面との類似を思わせます。


神明窟
海食洞が180㍍の山の上にあります。50万年前の地殻変動によるものと推定されるそうです。津峰山には、このような洞がいくつかあります。神明洞は斎戒場として使われていたとのことです。


新野へ
下山して、平等寺に近い新野駅に向かいました。阿波橘駅では、慈眼寺で看板を見た「清酒 津乃峰」を探してみましたが、残念、見つかりませんでした。


平等寺着
今夜は平等寺傍の宿に泊まります。
宿はいっぱいでした。数日前の台風で徳島市内に足止めされた人たちの波が、ここに押し寄せていたのです。二日間の足止めで、みなさんすっかり打ち解けておられ、互いに名前で呼び合っていました。


平等寺の朝
平等寺に立って、埋もれていた昔の記憶がよみがえりました。
中学生の頃でしたか、ともかく半世紀以上も前、宇治の平等院について教わり、(その頃は四国に住んでいましたから)「ほら、なんじゃー」(それって、どういうこと?)と思ったのでした。権力者が建てた豪奢な寺院と「平等」が、私の中でつながらなかったのです。他方では「神の前での平等」を標榜しながら平気で人種差別している国を、民主主義国家の模範のように感じてもいた、幼いころの話です。キング牧師を知って目のウロコガすこし薄くなるまでには、まだ数年を要するのでした。



平等院鳳凰堂の建立は11Cですが、それに先立つ10C、阿弥陀聖とも市聖(いちのひじり)とも呼ばれた僧がいました。空也上人です。「貴賤を問わない」称名念仏の布教を展開しました。いわゆる「鎌倉新仏教」の萌芽と言えましょう。
空也上人の業績は法然上人に引き継がれ、さらに親鸞聖人にも引き継がれるのですが、13C、空也上人を「わが先達」として敬慕する一遍上人が登場しました。伊予河野一族の出の人で、遊行上人とも呼ばれました。「信、不信をえらばず、浄、不浄をきらわず」念仏の札を配り、差別なき仏の救済を伝えたと言われます。
仏教は、ようやく私にも受け入れやすい姿を見せてきました。



一遍上人に従う人たちは、平生を臨終の「時」と心得て念仏することから、「時衆」と呼ばれていました。半僧半俗の実践的宗教者・聖で、その自由な布教は画期的でした。
「時衆」は、胸に鉦をつるして叩き打ち、念仏を唱え歩いたことから「鉦打」とも呼ばれました。(関西では鉢叩、茶筅などとも呼ばれます)。抑揚をつけたリズミカルな念仏は、庶民に親しみやすかったことでしょう。



平等寺から少し歩いた先、福井町に「鉦打」という土地があります。時衆(鉦打)が住んでいた土地かもしれません。
だとすると、これは誇りある地名です。仏の慈悲は「信、不信をえらばず、浄、不浄をきらわず」遍く平等に与えられると、(政治・宗教権力から弾圧、蔑視を受けつつも)声高く叫んだ誇りある人たちの地、ということになります。
平等寺と鉦打、どのように関わっていたのでしょうか。いろいろと想像を広げながらお参りしたのでした。
  平等に へだてのなきと聞く時は あら頼もしき仏とぞみる   平等寺御詠歌


白水の井戸
平等寺の山号は「白水山」です。大師のお杖水が、当初、乳のような白い水であったことに因むそうです。
雨はいつ、どの程度降るかわかりません。だから絶えず湧きつづける水は貴重です。貴重な湧水を「お大師さんの水」として大切にしました。
水は生活や農耕に必要なだけでなく、穢れを落とす力を持つと信じられてきましたので、「お大師さんの水」はまた、病を癒すと信じられています。霊水です。


手水
平等寺を訪ねる楽しみのひとつが手水です。やがて色づくのでしょうね。


手水


手水


手水


桑野川
澄禅さんは・・・(平等寺の)前に大河あり。折節雨天にて、帯を濡らすほどの洪水なり・・・と記しています。歩いて渡ったのです。
真稔さんは・・・荒田野川、常水に橋有。水出にて橋落わたる。甚だ冷。・・・こちらも歩いて渡りました。常ならば橋があるのだが、水が出て橋が落ちてしまった。歩いて渡ったが、はなはだ冷たかった、のだそうです。
澄禅さんが言う「大河」、真稔さんが言う「荒田野川」は、今日では、桑野川と呼ばれています。


景色
ちょっと話がそれますが、「帰らざる河 」というハリウッド映画がありました。マリリンが演技者として開眼したと言われる作品です。
アメリカ中部の川はミシシッピ川を中心に、基本的に北から南に流れていますから、西武開拓者たちは何本もの川を渡って西へと進みました。川は、もう立ち戻ることのない川なので、「帰らざる河」( River of No Return)というわけです。


景色
さて、こちら阿波の川は、基本的には西から東に流れています。ですから山の尾根筋も、(川が山を削りますので)基本的には西から東に走り、東端で海に落ち込んでいます。それが岬です。
遍路は南に進みますから、何本もの川を渡らねばなりません。平等寺までの大きな川だけでも、吉野川、鮎喰川、園瀬川、勝浦川、那賀川・・・がありました。渡河は、流れを渡るだけではありません。川が造りだした段丘や谷を降り、ふたたび登り、山に分け入ることを含みます。


景色
山で道が行き止まることがあります。そうなると海に降りるほかありません。しかし海沿いの道も、やがては岬に阻まれ、再び道を見つけて山に登ることになります。難儀な話です。
その様子を澄禅さんは、・・・宿を立ちて海辺の波打ちきわを通り行く。山へ登りては汀へ下り、山へ登りては汀へ下りする所也。是を大師の賤女のぬきなん機(はたもの)にたとへ給ふ也。其の故は、をりてはうみ、をりてはうみと云ふ證句也。此の如き六ヶしき難所を往きて又川を三瀬渡りて、日和佐の薬王寺に至る。是迄七里也。・・・と記しています。
「其の故は、をりてはうみ・・・」は、「そのココロは、織りては=降りては、倦み=海・・・」でしょうか。


月夜お水庵の逆杉
大師はこの地で薬師如来と不動明王の像を刻みましたが、材料とした杉を後世に残すため、枝を地に挿しておいたそうです。その枝が根づいて、今日の大杉になったのだと言います。
大師によって生命力が付与される話ですが、「枝」ではなく、「杖」を挿すこともあります。月夜お水庵の杉は、枝が一度下がってから上に伸びてゆくので「逆杉」と呼ばれていますが、このような杉の場合、「杖を上下逆さに挿したので枝が一度下がり・・・」と、その訳が説明されることが多いのです。


月夜お水庵 大師堂
言い伝えは類型化されつつ分化してゆきます。真稔さんは・・・月夜村、此の名子細あり。たづねらるべし。・・・と記していますが、「月夜村」の名の興りも、いくつかに分化して伝わっているようです。
ともあれ、この地で一夜を過ごされた大師が闇夜に月を招きよせられた、がエッセンスです。


お大師さんの水
大師がお杖で地を突くと水があふれ出た、と伝わります。この場面で「杖」が登場しますから、逆杉では、「枝」なんでしょう。
残念ながら、この水は枯れてしまいましたが、平等寺の白水に続く霊水との出会いです。明日は阿部(あぶ)のお水大師に参ります。


筍畑
少し荒れているようですが、旬の時期を外れているからでしょうか。孟宗竹の筍は四月前後が旬です。
以前、三月末にここを歩いた時は、収穫前で、イノシシ対策の犬がつながれていて、それはワンワンワンワンと吠え続けていました。手入れ中の女性に尋ねると、夜も犬をつないでいるのだそうでした。収穫直前の今こそが、イノシシとの勝負時、ということでした。



この辺を通る旧土佐街道には、(今もかろうじて一部が残っているようですが)、「月夜坂」という坂があり、続いて「鉦打坂」という難所坂があったそうです。鉦打坂沿いの、現国道55号線の北側に当たる所には、旅人のための薬師堂、大師堂が建ち、病に倒れた者のための養生所もあったと言います。
それらの由来について記した看板が、現在、薬師堂、大師堂が遷されている55号線脇に立っていました。貴重なものです。やや見えにくくなっていますので、全文をここに転載しておきます。

  鉦打坂薬師堂由来
右側に安置する薬師堂は、新国道北側の旧土佐街道副いに鎮座されていたもので、平成2年福井治水ダム建設工事により裂股に仮安置し、平成7年3月17日現在地に遷座されたものであります。
御堂の裏の山道は過去の歴史に名高い「土佐街道」で、街道随一の難所鉦打坂が延々と続いており、その昔これを越える旅人(特に四国八十八ヶ所巡礼)が険しい山道に行き暮れて病に倒れる者少なからず、里人講中の人々甚く哀れに思い、相計って養生所を建て手当てを盡し、不幸病没者は懇ろに弔い供養塔を建立、のち享保4年(1717)衆生の病苦を救い、無明の病疾を癒すという「薬師瑠璃光如来」を灌頂祈願したのが始まりと伝えられております。
  宿からん行方も見えず久方の天の河原の行き暮れの秋
時代は移り明治となって新しい国道が敷設され、曽ての土佐街道は通行人も途絶え、従って講中以外の参詣者もなく、寂しい佇まいとなっておりましたが、霊験灼かな衆生済度の念の然らしめるものか、この度参詣至便、而も往時の由緒深き現在地に遷座、再び衆生の前に御影を現わし給う。
 「願わくば無辺の慈悲により、除病、厄難を消除し、息災延命の御加護を成し給え」



  鉦打大師堂由来
左側に安置する大師堂は、宗祖弘法大師を祀る「鉦打坂のお大師さん」と諸人に親しまれ衆生の篤い信仰を集めていたもので、福井活水ダム建設工事により裂股に仮安置し、平成7年3月17日現在地に遷座されたものであります。
大師が四国霊場開祖遍歴の砌、第二十二番平等寺より月夜坂を越え土佐街道の現在地附近を通り、姥目崖を下り渓流を渡って七分蛇、怪猫の住むという弥谷渓谷に足を留められ、此処を奥の院修験の場と定め、厳しい修行の末、霊験受得、三界萬霊森羅万象全ての自然界と自分の身と心が一体と感じ念ずる即身成仏を唱え、如意輪穴観音、七不思議の霊跡を遺す。傍らの碑に示すとおり、
  一、不二地蔵    二、ゆるぎ石    三、笠地蔵     四、御硯り石
  五、四寸通し    六、日天月天    七、胎内くぐり
その他種々他樣の石仏を祀るのが秘境弥谷観音で、同行二人の誓願をたて、八十八の遺跡によせて利益を成し給うた内の一つである。
後世に至り里人斉しく大師の偉大な御遺徳を偲び、御跡を崇め、弘化2年(1845)御堂を建てて弥谷観音の前堂として灌頂し、その恩徳を礼賛し奉ったのが起源と伝えられております。
 「願わくば無明長夜の闇路を照らし 二仏中間の我等を導き給え」
南無大師遍照金剛
 平成七年三月吉日
  鉦打講中
   代表 原田 宏 記す


福井川に新橋架橋
福井川を渡り国道55号線に出ます。新橋が架橋工事中でした。次に来た時には出来ているでしょう。
福井川は、かつては「さかせ川」と呼ばれていたようです。真稔さんは・・・さかせ川、此河の蜷貝とがりなし、大師加地し給ふなり。・・・と記しています。
大師のお加地で、この川の「にな貝」は「とがり」がとれたというのです。この話はよく知られていたらしく、「四国遍礼名所図会」でも紹介されています。


鉦打坂薬師堂
55号線に出たところに、前述の鉦打薬師堂と鉦打大師堂があります。うっかり見過ごしてしまいそうですが、ぜひ立ち寄って、養生所まで建てた鉦打講中の存在に思いを馳せてみてはいかがでしょう。
由来看板が半分写っています。左に(弥谷観音の前堂と位置付けられる)大師堂があるのですが、撮影に失敗していました。


標識
55号線で最初に見る交通標識です。室戸まで96キロ!たいていの歩き遍路が記憶に残している交通標識でしょう。


笠地蔵
弥谷の下りにかかる所に、「笠地蔵」がありました。弘法大師が残した七不思議の一だそうです。


日天月天
やはり七不思議の一です。


揺るぎ石
七不思議の一です。真稔さんによれば・・・坂下り口、右手、森の中・・・にあるというのですが、現在の弥谷観音は福井治水ダム建設の関連工事として再興されたもので、かつての姿とは異なっていると思われます。


本堂境内
延暦12(793年)、弘法大師が19歳の時、岩肌を削り如意輪観音を現出させたのが弥谷観音の興りと伝わるようです。大師は満願の日に七不思議を残して立ち去ったと言われます。


本堂
弥谷は、鉦打大師堂由来によれば、・・・七分蛇、怪猫が棲む・・・とのことです。今日からは想像もできません。
「七分蛇」に噛まれたら、1日に七分(約2.1㌢)ずつ傷口が腐ってゆき、ゆっくりと死に至ります。生殺しに(されるのではなく)する、恐ろしい蛇です。


由岐へ
国道55号線を渡り、由岐へと歩を進めます。
大きな「決断」をしなければならない時が迫っています。枯雑草さんが「平成24年秋 その2」で報告されている、「貝谷峠→松坂峠」を歩くかどうかの「決断」です。
まあ、この時点で迷っているということは、ほぼ結論は出ているのですが・・・。つまり、ヒヨル。


貝谷への道
左が由岐峠を越える道です。これは問題ない道です。
右に入ると、貝谷集落から→貝谷峠→松阪峠→田井に出る旧土佐街道です。忘れられて眠っている道で、石造物もたくさんあり、魅力いっぱいの道と聞いています。しかし、厳しい道なのだそうです。
未練たらしくしばらく立ち止まった後、結局、左へ進みました。


見張り遍路
ゴミ不法投棄の見張りにお遍路さんが動員されました。交通安全のお遍路さんもいました。


カニ横断
6月から9月にかけて、月夜、アカテガニたちが産卵のため、海や河口に向かうそうです。その時、車道を横断するので注意してほしいとのことです。
背高泡立草が、その名の通りに背を伸ばすのも、もうすぐです。


犠牲者



下って、また上ります。
下った所を左に入ると由岐の街です。街歩きは明日のこととして、今日は直進します。


田井の浜
海岸に出てきました。


田井の浜
牟岐線が走っています。


白鳥神社
田井遺跡から目晴大師へ向かう途中、白鳥神社(しろとり神社)がありました。本宮は讃岐の引田にあります。「H23秋 七回忌遍路④」をご覧ください。  


田井遺跡
残念ながら鍵がかかっており、入れませんでした。
説明の看板によると、5000年前、縄文中期の遺跡で、石器を作る工房の跡だということです。注目すべきは、石器素材が北九州、瀬戸内海、東海で産出されたものだということです。つまりは、そういう海上交易路があったということです。


田井地蔵庵
案内板によると・・・(田井地蔵庵は)もとは東谷の土佐街道沿いにあったが、貞享3(1686)、真福寺の僧海宥により中興開基。本尊は縦42センチ、横23センチ、厚さ10センチの砂岩の地蔵菩薩立像(美和町指定文化財)。造立起源不詳。本尊の胸元に十字が刻まれており、隠れキリシタン資料として貴重。寺宝として「京室町住出羽大掾宗味作貞享三丙寅天七月廿一」の銘のある叩鉦がある。境内に六地蔵、庚申塔、回国供養塔、目晴大師堂、行栄句碑など。・・・とあります。


田井地蔵庵
十字が刻まれた仏像を、隠し持っていたのではなく、寺の本尊として祀り、拝み続けてきたというのです。こういう例は珍しいと思います。胸元に刻まれているのですから、かなり大っぴらでもあります。寺は街道沿いの、まさに人目につく所にあります。どのようにして残すことができたのでしょう。
これはちょっと面白い寺に来たものです。それに寺宝の「叩鉦」。形状や使われ方はわかりませんが、前述の「鉦打」を想起しないでもありません。


目晴大師
田井地蔵堂境内にある目晴大師堂です。旧土佐街道の、松坂峠からの降り口にありましたが、写真奥に見える日和佐道の建設が始まる関係で、平成14(2002)、ここに遷されたそうです。
四国遍礼名所図会は・・・松坂峰 此所より由岐海のこじまに立じま一円に見ゆる絶景いわんかたなし。坂を下り麓に大師堂、鯛村(田井村)浜辺といふあり・・・と記しています。「坂を下り麓に大師堂」、この大師堂が目晴大師堂だと思います。


由岐の海
次の峠(苫越)に向けて歩きます。海が少しづつ下に見えてきます。


木岐トンネル
苫越にできた木岐トンネルです。
ここで私は大失敗をします。うっかりトンネルを抜けてしまったのです。本当はトンネルの手前を左に入り、迂回するべきだったのです。


木岐小学校
トンネルを抜けると右手に木岐小学校があります。
「おへんろさーん 気をつけて がんばってくださーい」 誰かがセーノなどと合図したのでしょうか、声を合わせて励ましの声を送ってくれました。私はすっかり嬉しくなって、「ありがとー」などと応えながら、調子よくトントン坂を下ったのでした。



きれいな海です。


木岐の街
大失敗に気づいたのは木岐の街を過ぎた所で土地の女性からお接待をいただき、話をしていた時でした。
ハッと気づいて「苫越はもう過ぎましたよね」と尋ねると、「過ぎたよ、トンネルがあったろう、あそこ」との応え。
トンネルを迂回した道に、「一里松」の跡と「従是薬王寺二里」の徳右エ門道標があるのです。これを見逃したのです。思わず「引き返します」と口に出していました。戴いたアイスキャンデーをかじり、アドレナリンをちょっと多めに分泌させながら、来た道を引き返しました。


苫越の旧道を示す案内
「土佐街道 苫越登り口 一里松跡と薬王寺二里の道しるべ この上30メーートル」とあります。苫越ではこれを見ようと、楽しみにしていたのです。


苫越道
登ると、道が見えてきました。斜面を削り道を造っているのがわかります。四国遍礼名所図会は・・・苫越坂 小坂也、九曲・・・と記しています。大きな坂ではないのです。


シダ
ところが、すぐ、繁茂したシダに阻まれました。道は見えており、杖で探ることもできそうですが、私は憶病なのです。七分蛇はいないでしょうが、マムシはいるかもしれません。あきらめました。しかし無駄だったとは思っていません。


蛭子神社
木岐まで戻ると、漁港に蛭子神社がありました。日々の生業に結び付いた信仰です。ちょいと物を置かせてもらったりもして・・・。
威勢がいい漁師の柏手が聞こえてくるようです。うれしくなります。徳右エ門道標は見られませんでしたが、これで満足です。


安政地震の碑
安政地震はマグニチュード8.4と推定されるそうです。木岐での津波は4丈余(12㍍余)と言います。
・・・油断なきよう あらかた記しおく・・と刻まれているそうです。天災は忘れたころにやってくるから、忘れぬよう石に刻んで残したのでしょう。それでも忘れているのですが。
私は明日、阿部お水大師の帰りに、わが国で最古の地震津波の碑と言われる「康暦の碑」を見に行く予定です。これは約650年も前の地震津波碑です。


俳句の小径
峠道が「俳句の小径」になっています。各年度の入選作が記された木柱が並んでいます。程よい間隔なので、歩きの邪魔には、あまりなりません。
   みちのくの 悲しみ祈る へんろ道
私が選んだ特選です。神戸の方の句です。


峠の地蔵さん
山座峠の地蔵さんです。
かつて峠の向こうは、「異界」とも言うべき所。守護神・地蔵は不可欠です。


恵比寿浜
前にも引用しましたが、澄禅さんは・・・山へ登りては汀へ下り、山へ登りては汀へ下りする・・・と記しています。また海に降りてきました。
恵比寿橋の方に廻ってみました。


恵比寿浜
今日は瀬戸内海のように波静かです。おそらく風向きによっては、大波が寄せるのでしょう。


恵比寿洞
ここまで来るのがやっとでした。



いい天気だったのですが、雨雲です。パラパラと降りましたが、「恋人岬」の休憩所に避難させていただきました。
「恋人岬」は、波切不動さんが海に向かってにらみを利かせている所です。恋人たちも、少々落ち着かないでしょうね。



この坂を降りると、日和佐の街です。


薬王寺
澄禅さんは、・・・六ヶしき難所を往きて又川を三瀬渡りて、日和佐の薬王寺に至る。是迄七里也。・・・と記していますが、これが最後の川、日和佐川です。
瑜祗塔(ゆぎ塔)は薬王寺のシンボルタワーになりました。


本堂
ご本尊は薬師如来ですが、二体、おわすそうです。一体は、文治4(1188)、堂宇が火災に遭った時、奥の院・玉厨子山泰仙寺へ、自ら飛んで逃れていた薬師如来さまです。もう一体は、堂宇再建時に新しく掘られた薬師如来さまです。逃れていたご本尊が再建後、ふたたび飛んでお帰りになったので、二体となりました。
帰ってこられた薬師如来様は、新しい如来さまに遠慮されたのでしょうか、「後ろ向きに」厨子にお入りになり、扉を閉じてしまわれたのだそうです。以後、こちらのご本尊は秘仏となり、「後向き薬師」と呼ばれるようになったそうです。


本堂の後
「後向き薬師」を「前」から拝もうと、本堂の後ろに回って見ましたが、この扉も閉ざされていました。お賽銭箱はありましたが。


肺大師
お大師さんのご利益は実に多様です。○○大師。
お大師さんとお地蔵さんが、○○の多様さにおいては双璧でしょうか。

立島
中央の小さな島が立島です。立島と薬王寺と、薬王寺奥の院泰仙寺は、東西の一直線上に並んでいるのだと聞きました。確かに地図で見るとそのように見えます。
それはともかく、今回の区切り歩きのメーンは「泰仙寺」です。初めてのお参りです。次々回、報告いたします。

ご覧いただき有難うございました。次回は牟岐線の福井駅から阿部のお水大師→東由岐の「康暦の碑」→由宇の「九州型板碑」を訪ねて歩きます。
更新は12月11日の予定です。
このペースで更新しますと、次々回は平成27年元旦の更新ということになります。どうしたものでしょうか。

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4 コメント

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一遍さんのように 軽くなろう (天恢)
2014-11-21 21:23:45
 今回は「阿波三峰」の津峰山へ登られ、これで足掛け2年3回の遍路で中津峰山、日峰山と全山登頂で、まことにおめでとうございます。 「目当て山」としての「阿波三峰」の存在と三峰で焚く火が、夜の航海者達によって三点観測されていたという「先人の智慧」を海人になったつもりで、また天恢のロマンがひろがりました。
 さて、今回の平等寺から月夜お水大師、鉦打、弥谷観音、目晴大師を回られ薬王寺までの道中ですが、平等寺から薬王寺には一般的には①途中から海側を歩く由岐コース、②ひたすら山側の最短の国道55号線コース、その他に③貝谷峠→松阪峠→田井に出る旧土佐街道コースや④阿波福井駅から阿部御水大師へのコースもあるようですが、③④はやはり整備されてない厳しい道のようですから止めて良かったと思います。
天恢にとって、平等寺は四国遍路を始めた8年前に、この22番札所平等寺を訪れ、もし2巡目の遍路が許されるなら、「利益救済」(恵みと救い)を「平等」にとの願いから、「平等寺」と名づけられたこの札所から発願したい・・・。 その願いが4年前に実現した思いで多い札所なんです。

 そして、今回のブログを読み終えて強く心惹かれたのは「一遍上人」です。 楽しく遍路さんの文中に「・・・空也上人の業績は法然上人に引き継がれ、さらに親鸞聖人にも引き継がれるのですが、13C、空也上人を「わが先達」として敬慕する一遍上人が登場しました。伊予河野一族の出の人で、遊行上人とも呼ばれました。「信、不信をえらばず、浄、不浄をきらわず」念仏の札を配り、差別なき仏の救済を伝えたと言われます」にあたるところです。 有難や、目から鱗が落ちて空也と一遍と法然と親鸞の関わりが一変で理解できました。 
 88ヶ所札所でも、49番浄土寺は空也上人のゆかりの寺として、50番繁多寺は一遍上人が学問を修めた寺として知られています。 また四国には空海と一遍という二人の偉大な宗教家が生まれています。 空海がたくさんの文書や書や寺仏を残したのに対し、一遍は何もかも捨てた「無」の人です。 
 そういう一遍は51歳で亡くなるまで生涯旅を続け、念仏勧進をいのちとし、破れ衣を着て、「はねばはね、踊れば踊れ」といって、踊り念仏をひろめたそうです。 一見楽しそうですが、「衣装を求かざるは畜生道の業なり。食物をむさぼりもとむるは餓鬼道の業なり、住所をかまふるは地獄道の業なり。しかれば、三悪道をはなれんと欲せば、衣食住をはなるべきなり」と、一遍の言葉には厳しいものがあります。
 野宿しながら、人さまの供養で生き、衣装も最低限のもので遊行(布教)を続けた一遍は、遍路で譬えれば、遊び半分でいい加減な天恢のと違って、その対極に位置する理想的な大先達の遍路です。 ここに遍路を志す者として強く惹かれるのでしょう。
 終わりに、遍路された方なら札所のどこかで「念ずれば花ひらく」の碑を見掛けられたと思いますが、詩人・坂村真民さんは、
『軽くなろう 軽くなろう 重いものはみんな捨てて 軽くなろう
何一つ身につけず 念仏となえて 歩き回った 一遍さんのように 軽くなろう』 と詩っています。 そんな一遍さんに比べて、遍路する時の天恢のリュックの重さはどうだろうか?  これじゃ重過ぎて念仏踊はとうてい無理で、救われません。 先ずは今の自分の衣食住をどのように減らしてくか? そんな反省を大いにしながら、これからの人生、遍路を考えていきたいです。
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こんにちは (枯雑草)
2014-11-21 22:28:00
格調の高いコメントの後で、この落差・・お許しください。
周到な調査の基づいた目的を持った行き先決定、いつものことながら、感心させていただいております。私の行き当りばったりとはえらい違い・・
阿千田越の峠下で旧土佐街道の標石「つのミネ六十丁」は覚えていますが、私は行きませんでした。
貝谷峠、松坂峠は行かれなくて良かったと思います。私はことのき鋸鎌持ちでしたから。
鉦打の旧土佐街道にも徳右衛門さんがありました。私はこの時は、ここも苫越もあること自体知りませんでした。鉦打の道は通行可と思います。苫越も小田坂峠(旧土佐街道)もその南の山越道も通り抜け不能だと思います。10年くらい前までは通れたようですが、残念なことですね。
木岐小学校の「おへんろさーん・・」は私の時も・・感激しました。
さて、私の日記の次回。宮本常一が通った道(おそらく)を辿って東之川へ行くことができました。見ていただければうれしく思います。
では、失礼します。

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軽くなろう (楽しく遍路)
2014-11-22 17:28:30
天恢さん コメントありがとうございます。
天恢さんの遍路が「遊び半分」なら、“楽しく遍路”の私は、さしずめ「遊び全部」ということになります。
しかし私の場合、遊びは必ずしも「楽しく」にはつながらないらしく、古希を数年越えた今、我が「屈託の袋」は、むしろ重くなっているのを感じています。この「重さ」を楽しむ境地は、ありやなしや?
軽くなろう 軽くなろう 重いものはみんな捨てて 軽くなろう
何一つ身につけず 念仏となえて 歩き回った 一遍さんのように 軽くなろう
そんな時、いい詩を紹介していただきました。屈託の袋を気球に変えて、空を飛んでみたいものです。天国は、しばらくは勘弁していただきたいですが・・・。

初めての遍路から14年が過ぎました。前回の区切りで気づいたのですが、白衣の腰のあたり、「遍照」の「照」のあたりが擦れて、透き通っていました。すぐ破れてしまうでしょう。若者のジーパンなら価値があるのでしょうが、白衣はそうも参りません。次回は新調しなければなりません。
平等寺を発願寺とするというような発想はまったく持てず、まことに素直というか単純に、一番で装束などすべてを整えたのでしたが、二着目は、どこか別の所を考えてみます。
アクセスの関係で一番以外から歩き始める人は多くいますが、・・・「利益救済」(恵みと救い)を「平等」にとの願いから、「平等寺」と名づけられたこの札所から発願・・・する方には初めて出会いました。
今後とも素敵なコメント、よろしくお願いします。
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東之川 楽しみです (楽しく遍路)
2014-11-22 17:30:13


枯雑草さん、コメントありがとうございます。
何回か記したことがありますが、枯雑草さんの遍路は、そしてその日記であるブログは、私が目標としているところです。今回の区切り歩きも、やがて報告いたしますが、枯雑草さんの後追いを何か所かでしています。貝谷峠-松坂峠のように、追いたくても追えなかった所もあるのですが。

阿千田越に「つのミネ六十丁」の道標が在ったとのこと、私は気づきませんでした。いや、気付いていても、読もうとしなかったのでしょう。反省です。

東之川の報告、ぜひ拝見、拝読、させてください。これは楽しみです。
私は高校の頃、石鎚-瓶ヶ森-笹ヶ峰と縦走したことがあります。死ぬ思いでしたが。その時だと思いますが、東之川という地名には記憶があります。
おそらく宮本常一さんとなれば、天恢さんも大いに楽しみにされることでしょう。
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