楽しく遍路

四国遍路のアルバム

拾い遍路①:立江寺 楓(ふう)の木 星の岩屋 ふれあいの里さかもと

2022-08-31 | 四国遍路

 
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 初日(平成19年4月2日)

羽田空港
募る思いは押さえもならず、三ヶ月を経て、ふたたび四国へやってまいりました。ただし、北さんは家事都合で今回はお休み。私単独の遍路行となります。
心配されていた「10キロ膝」は奇跡的に回復しつつあり、私はそれを試してみたくて、しようがないのです。もちろん日程は用心深く4泊と短くし、乗り物の使用も「可」ということにしています。結願を前にした、4日間の拾い歩き。あちらこちらを飛び歩くつもりです。


阿波おどり空港
知らなかったのですが、「徳島空港」は通称で、正式には「徳島飛行場」というのだそうです。民間と海上自衛隊徳島航空隊が共用しているからだそうです。最近では「徳島阿波おどり空港」とも呼ばれていますが、これは愛称です。平成22年(2010)以降、こう呼ばれるようになりました。
ところで、徳島にもう一つ飛行場があったことは、ご存知でしょうか。旧海軍の市場飛行場です。私たちは10番切幡寺から南下し、市場町を経て吉野川を渡りますが、その市場町の、現・市場中学校の辺りが、かつては市場飛行場だったとのことです。ただし、この戦争の痕跡は埋め立てられ、今は姿を消しています。 


掩体壕
空港近辺の戦争遺跡といえば、高知空港の周辺には、巨大な戦争遺跡が残っています。高知空港もまた、旧海軍の航空基地であったからです。
写真は、艦砲射撃や空襲から飛行機を守るための掩体壕です。ここに飛行機を格納したわけです。高知空港周辺には、このような掩体が7基、残っています。→(H26秋5)
「不戦」を誓うべき夏です。ちょっと脱線してみました。


徳島駅
さて、徳島駅です。
立江まで電車で行くため電車待ちをしていると、おばあさんから、一風変わったお接待をいただきました。観光案内所等で集めてきたらしい、徳島案内のパンフレットです。たくさんあって、ズシリと重そうです。正直、ちょっと困りました。
とは言え、・・これ見ると、徳島のことがぜんぶ分かるけんの。荷物になるけど、持って行き。・・と言って差し出されれば、いらない、とも言いがたく、そのお心に感謝して、ありがたくいただきました。
ところで、側に、その様子を複雑な表情でみている、野宿遍路がいました。さっきまで私と話していた人ですが、彼は、私が受け取ったことが不満のようでした。(後述)


地蔵橋
阿南行きに乗り、地蔵橋で途中下車しました。4年前ここでお世話になった方へ、一緒に写した写真を届けたかったからでした。しかし残念。その方は転居して、ここにはもう住んでおられないとのことでした。
やむなく次の電車を待っていると、近所のおじいさんが話しかけてくれました。・・地域格差っていうんですか、ありますねえ。残っとる若い人がかわいそうです。仕事がないんだから、残れとは言えませんよ。・・と話します。この方、Uターンされた方とのことで、地方経済の在り方について、一家言持ってらっしゃるふうでした。


黄砂 
ところが、これも残念。もっと話をうかがいたかったのですが、電車が来てしまいました。今度は牟岐行きです。
乗ると、さきほど徳島駅で会った野宿遍路がいました。
知らぬ仲じゃなし、隣に座ると、彼宣うて曰く、・・はっきり言って、あんなもの、よく受け取りましたね。荷物になるだけじゃないですか。どうせ捨てるんでしょう。私は、はっきり断りましたよ。・・彼は、「あんなもの」を自分に差し出してきたお婆さんと、自分の代わりにそれを受け取った私に、いらだちを感じているようでした。
やや気障ですが、私の応えは、・・私はあの方の気持ちを受け取ったのです。私は、あのパンフ、読みますよ。


19番立江寺
立江寺で思い出すのは、二人連れの女性遍路です。恩山寺で知り合い、立江寺で再会したのでした。共に遍路「初心者」でしたが、何事につけ、私たちより早手回しで、あれこれと教えられたのでした。とりわけ「金子や」さんが休業との情報をいち早くキャッチし、すばやく対応したのは、彼女たちでした。
・・金子やさんは今日は休みだそうですよ。私たちは立江に予約がとれたけど、その宿は私たちで満室だそうです。お二人さん、どうします?・・この知らせを聞いた私たちの慌てぶりは、→(H14春1)をご覧ください。


句碑
境内には、二人と再会したベンチが、あの時のままに在りました。四人で「合評」した句碑も、そのままでした。
  お遍路の 一歩 鈴より はじまりし  君子
この句から思い浮かぶ景色を、それぞれ出し合ったのでした。あの二人、今、どこで何をしているのでしょう。
前回、荷物を預かってもらった立江餅のお店で、一番小さな詰め合わせを買いました。歩きながら食べます。


立江寺
懐かしい思い出のあんなこんなに浸りながら、タクシーを呼びました。今回の目玉の一つ、楓(ふう)の木がある、櫛渕八幡神社に向かうためです。ここで時間をとりたいと思い、タクシーの利用を決めたのでした。


大楠
櫛渕八幡神社でまず目につくのが、樹齢700年ともいわれる大楠です。鳥居に向かって右側に立っています。
お目当ての楓(ふう)の木は、鳥居を挟んで左側に立っています。日本では「楓」は(かえで)と読みますが、楓(ふう)は、楓(かえで)とは異なる木です。中国・台湾原産のマンサク科の落葉高木で、中国名を「楓香樹」(ふうこうじゅ)というそうです。因みに楓(かえで)は、ムクロジ科(旧カエデ科)に属するとのこと。


櫛渕八幡の楓(ふう)の木
楓(ふう)の日本への渡来は、江戸時代、吉宗(1716-45在職)の時、中国の清朝皇帝から贈られ、江戸城、日光東照宮、上野寛永寺(徳川家の菩提寺)に植えられたのが最初、と言われています。
江戸城のものは、今も皇居に、巨木となって残っています。そのことは、NHKが平成19年3月に放送した「ハイビジョン特集 皇居・吹上御苑の四季」で、私も確認しています。日光のものは、幕末までには枯死していたとみられていますが、昭和57年(1982)、昭和天皇が皇居(江戸城)の楓(ふう)の種子を贈って植え直し、今は大きく育っているそうです。


楓の葉
私は栃木県の宇都宮城趾公園で、楓(ふう)の木の幼木を見ましたが(残念!写真が見つからない)、その種子は、日光の再生・楓(ふう)の木から採れたものだ、とのことでした。皇居の楓(ふう)の孫になります。
上野寛永寺の楓(ふう)がどうなったかは、(私には)分っていませんが、おそらく戊辰戦争を生き抜くことは出来なかったでしょう。その後、再生されたという話も聞いていません。


清泉女子大の楓(ふう)の木
また楓(ふう)は、清泉女子大学(品川区東五反田)でも見ることが出来ます。
品川経済新聞のHPに、・・同大学の「フウの木」は1716年~1735年ごろ、日本に初めて渡来した台湾フウで、(中略)推定の樹齢は約250年近くだという。この種の木は都内でも珍しく、品川区の天然記念物に指定されている。・・とあることから察するに、この木も、吉宗に届いたうちの一本であった可能性があります。因みに清泉女子大学は、旧仙台藩伊達家の下屋敷跡にあります。ただし吉宗と伊達家の間に、楓(ふう)を贈り贈られる深い関係があったとは、私は知りません。


櫛渕八幡の楓(ふう)
さて、そんな貴木とも珍木ともされる木が、どのような経緯で此所、櫛渕八幡に植えられたのでしょうか。
次のメール文は、小松島市役所文化課からいただいたものです。なんとか手がかりを得たくて出した、私の問い合わせへの返信です。
・・フウの木は中国・台湾に自生する落葉高木で、櫛渕八幡神社のフウは大正の初め頃に地区の住民で組織する「敬義の会」の井上安衛、坂東茂らが植えたものです。現存する我が国のフウとしては有数の大木です。(昭和29年、県の天然記念物に指定と記されています)。


農場記念
楓(ふう)の木の側に、「大正5年1月 農場新設記念」と刻まれた石柱があります。おそらく楓(ふう)は大正5年1月に、農場新設記念として植樹されたものなのでしょう。そして、上のメールの「大正の初め頃」に当る年号が、「大正5年」なのでしょう。


楓の読み
文化課からのメールにある「敬義の会」については、近隣のお年寄りから、次の様な話を聞くことが出来ました。
・・よう分からんけど「敬義の会」は、まだ続いとるみたいですよ。「敬義」は、この辺りの人の、昔からの生き方を言う言葉じゃとか、聞いたことがあります。
しかし残念。意気込んで「敬貴の会」会員をさがしてみたのですが、お目にかかることはできませんでした。


立江小学校の楓(ふう)
さらに聴き取りをしていると、次の様な情報にも接することが出来ました。
・・19番立江寺の近くのお年寄りが子供の頃に聞いた話ですが、櫛渕の遍路道沿いにお住まいの○○さんのご先祖が台湾に行っていた頃、立江町に楓(ふう)を持ち帰り、立江尋常小学校と櫛渕八幡神社に植えたということでした。
そこで早速、立江尋常小学校(現・立江小学校)を訪ねてみると、ありました!上掲写真が、立江小学校の楓(ふう)です。
この情報には信憑性がありそうです。私は、○○さんのご先祖が「敬義の会」にかかわっていた可能性を考えてみました。お会いできれば、楓(ふう)のみならず、「敬義の会」についても、もっと分かるかもしれません。


櫛渕の集落
しかし残念。時間切れです。これ以上の「調査」(というほどのものではありませんが)は、機会を改めるほかありません。次なる目的地、星の岩屋(星谷寺)へ向かうことにします。
櫛渕集落の皆さま、「調査」のためとはいえ、見知らぬ男が集落の中をうろつき、ピンポンまで押して、申し訳ないことでした。遍路姿であったことで、かろうじて許していただけたのだと思います。お大師さんに感謝です。


ミャオ族の盧笙柱(長江文明の探求より)
帰宅後、たまたま読んでいた「長江文明の探求」(梅原猛・安田喜憲共著)に、楓(ふう)がなぜ貴木とされるのか、にふれた記述がありました。
・・中国、城頭山遺跡から多数のフウの木が出土している。しかし城頭山近辺にはフウの木はあまり無かったことが、花粉分析で分かっている。なのになぜ、城頭山の人たちはフウの木にこだわったのだろうか。フウは乾燥すると堅いが、生木では柔らかく細工しやすいのだという。それは日本の縄文時代、栗の木が多用された状況に似ている。
・・しかし、細工しやすい、だけがこだわりの理由ではないだろう。フウの木に執着する何かがあったと思われる。


盧笙柱(長江文明の探求より)
・・その執着を示す例が、広西壮族自治区苗族(ミャオ族)に見られる。彼らはフウの木への崇拝を持っている。村の広場に、フウの木で作られた盧笙柱(ろしょうばしら)が立ち、正月、春分、秋分の祭には男女が着飾って、柱を囲んで踊るのだという。柱の下には水牛の角、あるいは角を模した木彫りが置かれ、柱の上には東(太陽)を向いた鳥の飾りが付いている。


楓(ふう)の幹
東(太陽)を向いた鳥といえば、これはもう八咫烏を想起しないではいられません。苗族(ミャオ族)の盧笙柱の風習が、日本にやって来たのでしょうか。来たとすれば、それはどのようにして?朝鮮半島では、「ソッテ」なるものが見られるそうです。それは村の人口や境、村の中などに立てられた、長い棒(あるいは石柱)で、その頂上には、鳥の形をしたものが置かれているといいます。あるいはこれが、日本に渡ってくる直前の、八咫烏の姿なのでしょうか。
とまれ、櫛渕八幡の楓(ふう)から辿り始めて、苗族の「生命の樹」=楓(ふう)にまで行きつくなんて、これは、ちょっとしたロマンではないですか。楓(ふう)の木は、やっぱり「気になる木」です。


萱原バス停
さて、楓(ふう)のこと、長々と書いてしまいました。実はまだ書きたいことはあるのですが、遍路に戻ることにします。
萱原バス停の広場にはロープが張られて、入れないようになっていました。4年前には、ここはオープンスペースで、ゴミと一緒に、数匹の子犬が捨てられていたりしたのでした。犬たちは幼くして、早くも人への警戒心をもち始めており、エサを見せても、なかなか近づいてきませんでした。投げ与えたら食べましたが、「悲しい警戒心」ではありました。


子犬たち
むろん、もういませんでした。誰かに拾われていれば、今は立派な成犬でしょう。


萱原の丁字路
県道22号(阿南勝浦線)に突き当たりました。左折 太龍寺、右折 鶴林寺、が表示されています。しかし此所には、
   左折 取星寺(しゅしょう寺)  右折 星の岩屋(星谷寺) 
こんな表示もあってよいと、私は思います。というのも、この道は「星」にかかわる二つの霊場・・取星寺と星の岩屋・・を結ぶ道でもあるからです。この道を寂本さんは四国遍礼霊場記に、次の様に記しています。
・・立江より三十町ばかりわきに、いはわき村(岩脇村)いふに取星寺(しゅせう寺)あり、・・此所(取星寺)より二十町ほど隔て、星谷といふに星の岩屋あり。
星の岩屋と取星寺の関わりについては、後述します。


景色
寂本さんが記す、立江寺から取星寺へ出る道は、近年、地元の方たちによって「あせんだ越」の道として修復されています。よい道なので、ぜひ歩いて見てください。
取星寺から那珂川沿いの276号に降り、上流方向に歩くと、上掲写真の萱原交差点に出ます。→(坂本・・立江)


景色
徳島の桜は、満開に近い状態でした。
ガードレールに、スプレー道標があります。私の感性には合わない道標ですが、そのことを自転車で廻っている人に話すと、・・でも、あれは見つけやすくて、いいですよ。私らには、小さなシールはなかなか見えませんから。・・とのことでした。
なるほどと合点はいったのですが、それでもスプレーは止めた方がいい・・と思う私なのでした。


花壇
沼江婦人会、とあります。沼江(ぬえ)に入りました。


お接待
沼江大師の所で、「お接待させてください」と言いながら近づいてくる女性がいました。気の利いた袋に入ったティシューを、どうぞと差し出してくれました。


お接待のティッシュー
!!! 戴いて、すぐ思い出しました。私はこの方から4年前にも、ティシューを戴いたのでした。
そのことを話して、再会を喜び合いました。この方、平成9年(1997)からティシューのお接待を始めて、約10年で8000袋以上を配った、とのことでした。
その節は、ありがとうございました。お元気でしょうか。


ローソン
遍路道は勝浦川沿いの県道16号にぶつかりました。ローソンの角を左折し、勝浦川の上流方向へ歩きます。
4年前は、朝方、歩き遍路の一群に入って歩いていましたから、この店は、昼食や行動食やを求める遍路で、いっぱいでした。今回は、時間がずれているからでしょう、遍路は私一人です。


勝浦川
奥に見える潜水橋=星谷橋で勝浦川を渡り、そこから3K程登ると「星の岩屋」(星谷寺)です。
黄砂が、ますます酷くなってきました。景色がかすんでいます。


親子へんろ
前を行く男の子(小五くらい)と、そのお父さん遍路は、地蔵橋駅で会った人たちでした。
男の子に、「ボク、マメは大丈夫?」と尋ねると、お父さんが、「私が両足にできているんですよ」と話していたものでした。さて今は、どんな調子でしょうか。
「頑張ってますね」と声をかけると、お父さんは初対面と思ったらしく、地蔵橋で聞いた話も繰り返しながら、・・乗り物も利用しながら一番から歩いてきました。両足にマメができましてねえ、いえ、息子は大丈夫なんですが、私がね。でも「金子や」に宿をとったので、もうすぐです。がんばります。なっ!・・とのことでした。おしまいの「なっ!」は、息子さんに向けた風でありながら、実は自分向けだったかもしれません。


岩屋まんじゅう
「岩屋まんじゅう」という菓子舗があったので、立ち寄りました。
「一個だけですが、ください」というと、お接待します、とのことでした。「いえ、これは商品ですから」と辞退したのですが、結局、お接待を受けることとなりました。一個だけ買う人なんかいないから、値段の付けようもなかったのでしょう。申し訳ないことをしてしまいました。


仕出川
勝浦川支流の仕出川(しで川)です。が、すぐ先に合流点はあり、もうほとんど勝浦川のようなものです。
欄干に、洒落た「星の岩屋」の案内がかかっています。


道標
勝浦川を渡ります。古い道標には、
  四国霊場 岩屋奥の院
  弘法大師行場 不動の瀧  と刻まれています。
その上の木製の矢印は、星の岩屋 2900m と表示しています。


道標
このベンチで休ませてもらい、お接待の岩屋まんじゅうをいただきました。栗が入った、ほどよい甘さのお饅頭でした。
休憩の度に靴を脱ぐようになったのは、この頃からでした。マメが酷かった頃は、脱ぎたくても脱げなかったものでしたが、私の足も椎間板ヘルニアとの闘いを経て、ワンランクUpしたのでしょうか。


星谷
この写真を撮ったときのことは、よく覚えています。荷物を担ぎ上げるか、下のどこかに預かってもらい空身で登るか、迷っていたときでした。この高さを見て、すこしビビっていたのです。
結局は担ぎ上げたのですが、集落を抜け、民家がなくなるまで、ずっと迷っていたのでした。私はやはり、苦より楽をとりたい人間のようです。


つちのこ生息地
平野という里に「つちのこ」が生息している、と書いてあります。
地元の人に、「いるんですか?」と、やや真面目な感じで尋ねると、「うー、そういう話もあるなあ」とのことでした。
「話が、あるんですね」と笑いながら返すと、「でもね、土の児神社があるんですよ。神社まであるんだからねえ、いるんでしょう」と返ってきました。地元民としては、まんざら作り話でもないんですぞ、と反論しておく必要があったのでしょう。そのウソ、ホントで押し通せばいいのに。



札所への車の道と歩き道は、たいていは別々に通っています。接するとしても、所々で$状に交差するのみです。
しかし星の岩屋への道は、歩きの道と車の道がだいたい一致しています。道はご覧のように、軽トラ一台の幅で、簡易舗装されいます。むろん車の通行は少ないですから、危険を感じることはありません。


道標
星の岩屋について「勝浦郡村誌」に、次の様な一文があるそうです。
・・弘法大師、悪星を祈って落とせしかば、本村の山中、岩穴にこもる。よって星谷と称す。
昔、悪星があって、人々に災禍をなしていたので、弘法大師が法力でこの悪星を地上にひきおろし、岩穴に封じ込めた。以来、岩穴がある谷は、星谷(ほしたに)と呼ばれるようになった、というような意味でしょうか。
ところで、写真の道標にある「流れ星伝説」ですが、これはどのような伝説なのでしょうか。「勝浦郡村誌」が伝える、「悪星」を封じ込めた伝説をいうのでしょうか。私は違うような気がしています。法力で引き下ろされた「悪星」は、ふつう「流れ星」とはいわないと思います。
  

落ち椿
「流れ星伝説」は、おそらく寂本さんが『四国遍礼霊場記』に書き残した、「大師鈎召(こうちょう)の星」の伝説を指しているのでしょう。
寂本さんは、次の様に記しています。
・・此寺(取星寺)に大師鈎召(こうちょう)の星といふ物あり。厨子にいれ、蓮華座に安ず、
・・此所(取星寺)より二十町ほど隔て、星谷といふに星の岩屋あり。・・此岩上に取星寺の星降れりといひ伝えたり。・・星隕て(おちて)石となる事、もろこしにもむかしよりいひ、


生名の辺り
「大師鈎召の星」とは、どのような星なのでしょうか。
まず、「鈎召」は、「本尊」を召請するための「法」を修すること、を云うそうですから、「大師鈎召」は、・・大師が「本尊」をどなたか召請するため、何かの「法」を修する、・・という意味になります。
次に、五来重さんが「四国遍路の寺」で言う、・・求聞持法が成就したとき、虚空蔵菩薩のお使いとして、明星天子が飛来する・・を援用させていただいて「大師鈎召の星」を解すると、・・大師が虚空蔵菩薩を召請するために求聞持法を修し、これが成就したとき、虚空蔵菩薩のお使いとして、明星天子が飛来してきた。その明星天子が「大師鈎召の星」である、・・ということになります。
以上、・・道標にある「流れ星伝説」は、寂本さんが云う「大師鈎召の星」の伝説を指す、・・と私が考える由縁でした。


大滝嶽の大師像
弘法大師ご自身(空海)は、明星が飛来してきたときのことを、次の様に記しています。『三教指帰』(空海)の序文の一節です。
・・阿国 大滝嶽に躋り (のぼり)攀ぢ(よじ) 土州室戸崎に勤念す。谷響を惜しまず。明星来影す。


ミカン畑  
ミカン農家の人が話してくれました。
・・ここは星の谷というけどな、わしらミカン農家には、黄金の谷じゃったんよ。ミカンが黄金色に輝く谷じゃった。南向きの斜面は、日当たりが良く水はけもええ、ミカンには絶好の土地じゃけんな。
・・しかし、ええことは、続かん。穫れすぎてもいかんのじゃわい。値が下がってしもてな、正直、もうやっていくのがキツイわい。
後述しますが、私は「ふれあいの里さかもと」でも、同様の事情を耳にすることになります。


星の岩屋
阿波勝浦八景 星の岩屋 とあります。


洗心の瀧 
駐車場近くに、洗心の瀧があります。ただし残念ですが、この時、水は流れていませんでした。濡れて黒く見えるところが、瀧です。
とまれ、星の岩屋の最奥部に入るにあたり、今一度、心を洗えよ、というのでしょう。


巨木
杉の巨木が、山門に立つ仁王様のようです。


星の岩屋
この岩屋が星の岩屋と呼ばれるのは、ここが求聞持法の行場だからです。前述のように、求聞持法が成就すると「星降り」があるので、星の岩屋と呼ばれます。
寂本さんは、この岩上に降った星が(唐土にも伝わっているように)石(隕石?)となったので、取星寺に移して祀っている、と記しています。


岩屋内部
・・三間四方もありなん。岩窟の口半斗(なかばばかり)に数𠀋の滝あり。・・「四国遍礼霊場記」の一文です。
「数丈の滝」とは、不動の瀧と呼ばれている滝のことでしょう。この滝は、岩屋の中からこれを見るとき、瀧の裏から見ることになるので、その場合は、「裏見の瀧」と呼ばれています。


裏見の滝
この写真は、後年、水が流れているときに撮った、裏見の滝です。


星の岩屋
外から見た星の岩屋です。本来ならここに、次の写真のように、不動の瀧が落ちているのですが、・・。


不動の瀧
後年、水が流れているとき撮った、不動の瀧です。瀧の落ちるところに、行場が造られているのがわかります。


不動明王像
星の岩屋の部分を拡大してみると、不動の滝の右に、不動明王が刻まれているのが見えます。



下山していると、ワンちゃんがオズオズと、しかし我慢しきれず、近寄ってきました。交流を求めているのです。
お近づきの印に「お手」と「お座り」を命じてあげると、それが嬉しいらしく、いそいそと従ってくれました。
このワンチャン、下の里まで随行してくれ、どうやらそこが彼のテリトリー限界らしく、お別れしました。このワンチャンの話は、夕食のテーブルを賑わすことになります。


ふれあいの里 さかもと
下山し、「さかもと」からの迎えを頼もうと(まだ携帯を持っていなかったので)公衆電話を探しましたが、これがなかなか見つからない。ようやく勝浦町役場で見つけ、頼むことができました。
横瀬橋で拾ってもらい、坂本まで運んでもらたわけですが、この間には、穴禅定でしられる別格3番慈眼寺への旧道が残っています。出来れば歩いてみたい道でしたが、歩けば宿着が遅くなってしまうので、今回はあきらめました。→(H26坂本・・立江)このアルバムには、後年歩いた横瀬-坂本間の記録が含まれています。


二宮金次郎像 
「ふれあいの里 さかもと」は、写真でもお分かりのように、元坂本小学校(平成11年廃校)を改装。平成14年(2002)3月3日、お雛様の日にオープンしました。「 阿波勝浦 元祖ビッグひな祭」に合わせて、坂本地区を「お雛様の奥座敷」として登場させるのが、「ふれあいの里さかもと」の顔見せ企画だったようです。この企画は3年後に「坂本おひな街道」へと昇格。今日にまで続いています。


お雛様の奥座敷
平成21年(2009)3月に撮った写真です。坂本の元みかん長者さんが、坂本おひな街道の終点で、豪華なお雛様を公開していました。文字通り「おひな様の奥座敷」です。
そこに至る家々でも、おひな様が飾られているので、地域ぐるみの参加といえましょう。「さかもと」の、単なる宿泊施設ではない姿が、見えるようです。


内部 
ロビーにアルバムが数冊、置いてありました。開いてみると、卒業生の集合写真が、昭和12年から卒業年度順に整理されて、貼ってありました。ずっと撮影を担当してきた写真屋さんからの、寄贈だそうでした。昭和20年の写真が欠けていたのは、敗戦の混乱によるものでしょうか。
アルバムをめくりながら、「××ちゃんだ」などと懐かしんでいた方々に、「さかもと」は皆さんにとって、どんな場所ですかと尋ねると、・・心の古里がこうして残ってくれるのは嬉しい・・との応えがかえってきました。「さかもと」は、まずは地元の人たちのための、「ふれあいの里」たらんとしているようでした。


ロビーの展示
「四国遍礼霊場記」(寂本)に、次の様な一文があります。・・星谷より行て坂本と云村あり、此一村は霜ふらずといふ。むかし大師此所に宿し玉ふ夜、霜いたくふり、此里人常に寒苦に堪えがたしと愁えるを、大師聞しめし加持し玉ひしより、此里霜を見ずとなん。
そんな土地柄の坂本は、温州蜜柑の産地として栄えていましたが、(星谷でも聞いたように)蜜柑の市場価格が低迷するなか、専業農家が(専業ではやりくりできなくなって)兼業へと転じてゆき、ついには高齢化も手伝って、廃業する農家も出るなど、地域は活力を失い始めました。


椎茸作り
なかでも昭和56年(1981)の寒波は、大打撃だったといいます。暖かくなり、蜜柑の木が水を吸い上げ始めた頃、異例の寒波に襲われたのでした。吸い上げた水が木の中で凍り、木の多くが枯死したのだそうです。
坂本は、それでも立ち直ろうとしたのだといいます。しかし衰勢の挽回は、難しかったようです。それから18年後の平成11年(1999)には、地域がその未来を託す、坂本小学校が閉鎖されるに至ります。廃校の現実を前に、地域の人たちに見えるのは、先細るだけの先行きでした。
「ふれあいの里さかもと」のオープンは、そんな沈滞の中でのことでした。閉校後3年を経ていましたが、(見方にも拠るでしょうが)私は素早い立ち上がりだったと思っています。・・みんな、 ほんのちょっとずつだけ 元気をわけてくれ・・元気玉は、打てるまでには、時間がかかるものなのです。


新聞記事
新聞の切り抜きが置いてありました。オープンから2年後の、平成16年(2004)11月の記事で、「さかもと」の活動が大きく取り上げられています。
・・かつてのミカンの里を紅葉の里に-。勝浦町は勝浦温州ミカン発祥の地・坂本地区で、耕作放棄などのために荒れている元ミカン園にモミジを植樹し紅葉の里として売り出す。28日に、オイスカ徳島県支局(事務局・四国電力徳島支局内)と共催で同地区の2000平方㍍にモミジ300本を植える。徐々に植樹場所を増やしていき、坂本の農村体験型滞在施設「ふれあいの里さかもと」を中心に、名所として整備する。


新聞記事
さらに上掲より2年後の、平成18年(2006)10月14日の記事です。紅葉山づくりが着々と進んでいる様子が、報じられています。
・・同町(勝浦町)は徳島市中心部から約30分。若年層の流出が激しく、3人に1人が65才以上の町だ。50年前は約1万人だった人口も現在約6400人。同会(坂本やすらぎの森を育てる会)は紅葉の名所づくりを機に若者を呼び寄せようと、町外からも広くボランティア参加を呼びかけ、山の手入れや遊歩道の整備を進める方針だ。廃校小学校校舎を改装した宿泊施設として人気を集めている「ふれあいの里さかもと」ともタイアップしていくという。



次は、帰宅後に私が書いた遍路メモです。
・・ミカン畑の木を、一本一万円で販売しているそうだ。手入れなどに年一度は来られる人を対象としているが、必ずしも来られなくてもいいらしい。年30K(35K?)の収穫を保証するという。この事業は、儲けというよりは、畑を荒らさないことが当面のねらいだとのこと。
荒れたミカン園を紅葉山に変える活動に並行して、残るミカン園をミカン園として維持する活動も行われていたのです。


バーベキューハウス
このリライト版を書くために「さかもと」のHPを見ていると、こんな記事を見つけました。嬉しい記事でした。
・・ Be a fruits-owner.「ふれあいの里さかもと」では、果樹(温州みかん等)の年間オーナーを募集しています 。
果樹のオーナー制、まだしっかりと続いていました。


夕食
夕食時、猛烈な犬好きの人がいました。ついつい私が萱原や星の岩屋にいた犬の話をしたら、もう話が止まらなくなってしました。彼は三巡目の人で、(恥ずかしながら)廻りながら犬の写真を撮りためている、のだそうでした。いけないとは思いながら、お近づきの印としてソーセージを持ち歩き、犬がいたら片っ端から(ソーセージで釣って)仲良くなるのだといいます。
私の友人にも、そんな人がいて、通勤帰りに仲良くなったワンチャンを、ついには散歩に連れ出すまでになってしまった話をすると、彼の喜ぶまいことか。そうですか、分かります、その気持ち!私、明日会うワンがいるんです。あの子は、きっと私を覚えていますよ!その嬉しそうな笑顔は、根っからの犬好きであることを語る笑顔でした。


仙遊寺の犬
その彼が目の色を変えたのは、私が58番仙遊寺で犬に会った話をしたときでした。エッ、その子、犬塚伝説の子孫ですかね。あゝ、いたのですか。知らなかった!その子、栄福寺の鐘が鳴ったら、そっちに行くのでしょうか。もう可愛そうな目には遭わせたくないですね。
夕食時には、できれば明日お参りする、慈眼寺の情報を集めたかったのですが、私もけっこう犬好きなもので、こんな話を楽しんでしまいました。お接待でいただいたパンフは、気になりつつも、読めませんでした。また一日持ち歩き、明晩こそは読むことにします。

ご覧いただきまして、ありがとうございました。
楓(ふう)のこと、星の岩屋のこと、「ふれあいの里さかもと」のことなど、ちょっと入れ込みすぎて、更新が間に合わなくなってしまいました。
次号では、別格3番慈眼寺での穴禅定、室戸岬の朝日と夕日などを取り上げるつもりです。更新は9月28日の予定です。

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天恢の一期一会の四国遍路 第6回 (天恢)
2022-09-19 20:13:57
 やはり第7波は予想以上に手強かった、ワクチン頼みのコロナとの共存も難しく、感染者の野放が常態化し、海外からも大挙押し寄せて来ると、もう次の第8波を心配しなければなりません。 感染の波が収束するのはいつのことやら・・・。

 このシリーズも早いもので6回目、「やってりゃそのうち何とか・・・」のつもりでしたが、なかなか展望が開けません。 こうなったら 『そのうちなんとか なるだろう 』を心の支えにして、見えないゴールを目指すことにしましょう。 
さて、今回は「JR四国完乗」です。 天恢も四国遍路を16年間で16回目を目指していますが、結願というゴールは2度だけです。 理由あって、一気に歩き通す「通し打ち」が出来ず、「区切り打ち」を重ねながら遍路をしてきました。 途中での打ち切りは、その終点が次の起点となります。 交通機関利用しながら出発点への移動も多く、気がついたらJR四国もかなりの区間を乗車していました。 それで、「完乗」を思い立ったのです。
 まっ、あの「JR全線完乗」に比べればカワイイものですが、それでも札所や遍路道と全く関わらない箇所が相当あって、完乗達成まで12年を要しました。 完乗なんて、「カネとヒマ」さえあれば誰でも出来ると簡単と思われがちですが、終盤になればなるほど厳しいものがあります。 遍路も然り。 更に「JR全線完乗」のチャレンジャー達は「命」と「人生」のすべてを賭けたに違いないです。

 さてさて、JR四国の愛乗者の一人としてその特徴とPRを書かせていただきます。
JR四国では、Suicaなどの交通系電子マネーが使えませんから不便です。 電車の本数は少なく、特に、早朝は、県庁所在地への上りはあっても下りは極端に少ないです。 利用者は通学に利用する高校生が主で、「特急列車でらくらく通学しよう!」と呼びかけていました。
 何たって、JR四国の最大の魅力はローカル性と車窓風景です。 先ず、瀬戸内海が見る各駅停車に乗ると、駅の列車発着時のメロディ=「駅メロ」に、あの小柳ルミ子が歌った「瀬戸の花嫁」がたくさんの駅で採用されています。
 そして、最高の気分に浸るのが車窓から見る四国の素晴らしい景観です。 初めて土讃線に乗って、祖谷口から小歩危、大歩危辺りを通過した時、次は絶対ここを歩きたいとの衝動に駆り立てられました。 もう一つは、遍路道沿いにはありませんが、37番岩本寺のある窪川から宇和島までの予土線で、雄大な四万十川の流れを列車の窓から眺める絶景はイチオシです。 
 マダマダ 跨線橋から見るターミナル駅・宇和島駅、車窓からの愛ある伊予灘線の「長浜大橋」や目の前が海の「下棚駅」など、JR四国には見所ある風情がたくさんあります。

 終わりに、もし、この秋に遍路ができたら、昨年暮れに開業した線路と道路の両方を走れるDMV(デュアル・モード・ビークル)に乗って海部駅から室戸岬へ。 岩本寺のマリリン・モンローに4回目の再会を果たして予土線に乗れたら・・・。
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Unknown (Unknown)
2022-09-24 16:53:49
楽しいニュースといえば、大谷君が○勝したとか○本ホームランを打ったとか、そんなことしか(と言っては大谷君には大変失礼ですが)ないのが現状です。
コロナの感染状況は、踊る阿呆達が四人に一人も感染したとか、入国制限撤廃とか言われており、おそらく第7波の沈静化は望めず、高止まりするか第八波が始まるかと予想します。ウクライナでは住民投票という茶番。所謂「親露派」の人たち以外は逃げ出すか拘束されるか殺害されるかした土地で、住民の意思を尊重すると宣うなんて、恥知らずのやり口には腹が立ちます。そしてまた、今度は15号です。驚くのは、木曜日に発生して、土日にはもう関東に影響が出ているという、その早さです。私の常識では、台風の発生場所はフィリピン東方沖ですが、この15号は室戸沖の生まれで、だから、発生後間を置かず、やってきたのです。室戸沖の海水温は、熱低を台風に変えるほど高いようです。なるほど、14号が日本に近づくにつれ猛烈化したわけが分かります。
この話題、続ければ切りがありません。

さて、楽しいことを「夢想」しましょう。
・・この秋に遍路ができたら、昨年暮れに開業した線路と道路の両方を走れるDMV(デュアル・モード・ビークル)に乗って海部駅から室戸岬へ。・・とのこと。超いいね!に一票。大賛成です。私も乗りたい、いや、乗らずばなりません。阿佐線の東線が、DMVという形ではあれ、ともかく室戸までたどり着いたのですから、この際、ご祝儀乗車くらいは、しませんと。

それにしても戦前からの夢を実現してしまう徳島人、高知人達のねばりは、大したものです。
あと、残るは西線ですね。頑張ってほしいと思います。平成14年7月1日に「ごめん・なはり線」が開通して以来(天恢さん、自慢ではありませんが北さんと私は、同年12月、早くもこれに乗っているのですよ)、その先が延びていません。多少時間がかかってもいいから(どうせ長年、待ったのですから)、こちらはDMVではなく、ぜひ、鉄路を延ばしてほしいと願っています。全線開通の暁には、天恢さん、ぜひ一緒に乗りましょう。

阿佐線の東線と西線が室戸でドッキングすれば、四国の海沿いで鉄道が走らないのは、足摺岬のみとなります。
しかし足摺岬の鉄道は室戸岬とは異なり、その先端でドッキングというわけには、地形的にもゆかないようです。既存の予土線には、足摺方面に延伸する発想はみとめられません。むしろ幡多地方を切り捨てて伊予につながったのが予土線です。せっかく中村まで進んだ土佐くろしお鉄道も、宿毛方向に進んで、そこで止まりました。

では足摺岬の交通は、どうなるのでしょうか。
そもそも足摺岬には、鉄道を敷くという発想は、ないのかもしれません。北さんと土佐清水を歩いていたとき、(いくら探しても写真が見つからないのですが)「高知の西部にも空港を!」と書いた、大きな柱看板を見つけました。室戸の「マイレール阿佐東線」とは対照的ではありませんか。
また同じ土佐清水では、大きな港湾施設「あしずり港」を目にしました。大型フェリーが着岸できる港です。
どうやら高知西武・足摺は、室戸とは異なる路線を進もうとしているようだと、二人で話し合ったのを覚えています。つまり鉄道はこれ以上延伸させず、空港やフェリー港から、路線バスや団体バス、あるいは自家用車やレンタカーで移動してもらうこととし、そのための道路網の整備を急ぐ、というわけです。

足摺岬を二度目に歩いた時、また三度目に歩いた時、車道の整備が前の回よりも進んでいる様子に、驚いた記憶があります。道路網の整備は、室戸岬を大きく凌いでいる印象をうけたものでした。天恢さんは、そんな覚えはありませんか。

さてさて、長くなってしまいました。そろそろ締めくくることとして、終わりに書く予定であったことを数点、略記します。
① 幸か不幸か(私は幸だと思っている)、足摺に空港は誘致されておらず、あしずり港のフェリー就航も、うまく進んでいるとは言えません。しかし、それを補うように四国内の高速道路ネットワークが充実。長距離バス利用者や高速利用のオーナードライバーが増加しました。域内の道路網を整備したおかげで、足摺は、けっこう賑わっています。空港なしでも、ちゃんとやっていけるのではないでしょうか。
② 私は所謂「乗り鉄」ではありませんが、阿佐線の他に、予土線を走る新幹線(もどき)や、土讃線坪尻駅、新改駅のスイッチバックにも、いつか乗って(見て)みたいと思っています。
③ 札所・宝寿寺を移転させてまで予讃線(たぶん当時は讃予線だった)を通した地元の人たちは、鉄道に何を期待していたのでしょうか、いつかまとめて考えてみたいものです。
④ 次号は丁度、海部-室戸となりますので、阿佐線へのラブコール、再び、ここでも読んでいただくことになります。あしからず。
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