楽しく遍路

四国遍路のアルバム

足摺西海岸 38番金剛福寺 迷走 大岐 真念庵 三原村 39番延光寺

2021-07-28 | 四国遍路

 
この記事の末尾へ  アルバムの目次へ 


清水港 
西海岸の朝が明けました。
一昨日は雨、昨日は曇、そして今日は、・・
今は曇り空ですが、昼頃からは本降りの雨、と予報されています。


道路標識
(写っていませんが)唐船島を右手に見る道路標識です。三本の県道が表示され、この他に県道321号も走っています。この地点は足摺岬の、交通の要衝です。
県道27号は、足摺岬の海沿いの道です。西海岸の中の浜→松尾を経て岬の先端、38番金剛福寺に至り、今度は東海岸沿いを走って、以布利に至ります。
今思えば、東ー西両海岸を楽しめるこの道は、この時の私たちに、うってつけの道だったはずです。なのに、どうしたことでしょう。この道を私たちは、選んでいません。
私たちが選んだ道は、左側の標識にある県道347号です。「東まわり岬めぐり」とあるように、東海岸の新改→窪津→津呂を経て、38番金剛福寺に至る道です。38番を打った後、私たちは東海岸を打戻り、大岐海岸の宿に泊まります。


大岐海岸
県道374号を歩いて、東海岸に出てきました。
写真の白い建物は、(今日の宿がある)大岐海岸の建物です。写真撮影地点からおよそ5キロの所にあります。撮影地点から38番までは約11キロですから、11*2+5=27キロ が、今日、これから私たちが歩くべき、距離となります。
なお、上掲写真の県道348号は、足摺岬の山間部を走って岬先端に至る車用の道です。途中に金剛福寺奥の院跡や石鎚神社があって、魅力的な道なのですが、私たちはまだ、金剛福寺の本寺にもお参りできていません。私がこの道を歩くのは、これより12年後のこととなります。金剛福寺奥の院跡や唐人駄馬を訪ねていますので、よろしければご覧ください。→(H27秋 4)


窪津港
窪津港は、38番金剛福寺から9キロほどの地点です。
写真奥の工事は、崖上に通じる県道27号の建設工事です。それにともなう擁壁工事も、行われています。
足摺岬の道は、基本的に海岸段丘上を通っているようです。それに対して室戸岬は、海岸段丘の下を通る、海沿いの道が基本でした。


強風
上手く撮れませんでしたが、幟が東風に激しくはためいています。
県道374号では、この風を正面から受けることになり、大いに難儀させられました。374号が風の道となっていたのです。


足摺岬方向 
崖上から撮った、足摺岬の方向です。しかしまだ岬の先端は見えていません。見えているのは津呂の辺りでしょうか。
見えているといえば、トンビが、たまたま写り込んでいました。写真中央から右上方向の所に、浮かんでいます。たいていトンビは下から眺めあげるものなのですが、同じくらいの高さに浮かぶトンビを、私は初めて見ました。


足摺岬へ
とうとう来ました! マメです。右足の小指。放置できません。
北さんに止まってもらい、手当てしました。やがて雨が降り始めます。雨のなかでは手当が困難です。時間をとって、丁寧な手当てを心がけました。
これはホント、丁寧にやっておいてよかったです。


窪津小学校
この記事を書くため窪津小学校のHPを開いたら、次の様に記されていました。
・・窪津小学校143年の歴史に幕を下ろしました。
  休校式典にはたくさんの卒業生、地域、関係者の皆さまに ご出席いただき
  ありがとうございました。
  *窪津小学校のホームページは平成28年3月末で閉鎖します。
私たちが歩いた13年後の平成28年、窪津小学校は閉校していました。


善根宿
近くにお住まいの方の善意で維持されています。畳が三畳、飲み屋の小上がりのように、縦に敷かれています。横に並べるより、格段に使い勝手がいいでしょう。起きて半畳寝て一畳。遍路には一畳もあれば十分です。その他、いろり、流し、トイレなど、必要な一式があり、一夜の宿としては十分以上と思われました。「野宿、自炊 けっこうです」と記されています。


足摺岬へ
ヘアピンカーブを曲がると、前方に大きな荷物の若い二人が、立ち話をしていました。いずれも野宿遍路らしく、見れば内一人は、添え蚯蚓で出会った彼でした。
近寄って行くと再会を喜んでくれ、・・たった今、お二人のことを話していたんですよ、・・と言って話に迎え入れてくれました。二人はもうここで、1時間も立ち話しているのだとのことでした。何をそんなに話していたのでしょう?


 
話題のひとつに、「お接待の車に乗ってもいいのか」があったようです。
(添え蚯蚓の彼ではなく)ここで初めて会った彼は、ある時、体調が悪くて、お接待の車に乗せてもらったのだそうです。そしたら、その後、歯止めがきかなくなって、機会があれば乗せてもらうようになってしまった、と言います。
この人、実はドライバーとの交流を、楽しむことができる人なのです。例えばこんなことを話してくれました。・・土地の人と知り合って、中古車購入の手伝いをし、そのため高知まで引き返し、2泊させてもらい、また足摺に戻ってきたんです。「困ったらいつでも電話しろ。近くの仲間が車で迎えに行くから」と言ってくれました。
いつでも電話しろ、近くの仲間が迎えに行く、・・ある意味、痛快ともいえる交流を楽しみながら旅しているのですが、他方には、乗り物を利用することを「よし」としない自分もいて、困っているわけです。乗り物なしで歩き通している同年配の遍路から、「卑怯者」呼ばわりされたことも、彼を傷つけたようです。



こんな負の意識を引きずっていたからでしょう、(後に聞いた話ですが)彼は88番に着いても、「達成感」を感じることはなかったといいます。相前後して88番に着いた19才の青年が、やはり無感動に発した一言・・こんなものか・・に同調したり、結願した夫婦がみせる感動の様子に、違和感を感じたりもしました。
彼が負の意識から解放されるのは、奇しくも結願後、「車のお接待」をいただいた、車中でのことでした。
彼は言います。・・お世話になった方(風邪で発熱したとき数日滞在させたもらった)がいる5番まで、軽トラのおじさんに拾ってもらい移動中、おじさんは、仏教とは?お遍路とは?人とは?生きるということとは?など、さまざまの話を聞かせてくれました。


照葉樹林
どんな話だったか、細かく知りたいものですが、それはかないません。
とまれ、彼の「腑」に落ちる話であったのは、まちがいありません。彼は、・・話を聞きながら、涙が自然と流れ、止まらなかった・・と言います。おそらくそれは、最後の最後に来て流す、喜びの涙であったのでしょう。
車には乗ったけれど、自分の旅も間違いなく、遍路の旅であった。「おじさん」の話を通してそう得心できた彼は、88番では感じることのなかった達成感を、車中で口にします。・・やれたんだ・・と。
彼は・・心地いい脱力感・・を感じるなか、・・そうだな、おじさんの言うとおり、家に帰ろう・・と、次なる行き先を決めました。
最後に立ち寄った一番札所では、「喜び」は「寂しさ」に転じていたと言います。多くの結願を果たしたお遍路さんが感じる、あの「寂しさ」です。


天狗岬
さて、長々と書いてしまいました。
彼のこの問題が、まさか彼以上に、私(たち)の問題であったとは、この時点では、気づいていませんでした。
この日、私たちは足摺岬で大迷走し(後述)、この問題を突きつけられることになります。


天狗岬から
足摺岬灯台は、ちょうど外装工事中で、足場が組まれていました。


金剛福寺
納経所で濡れた納経帳を出すと、「これはひどい」と叱られました。一昨日の雨で、ザックに水を入れてしまったのです。納経帳をビニル袋で包み忘れており、すっかり濡れてしまいました。
「にじんでしまって、これでは書けませんね」と言うところを、なんとか頼み込んで書いてもらいました。(よい墨のおかげで、実際には、ほとんどにじまなかったのは、幸いでした)。


金剛福寺本堂
どうにか御朱印をいただき、北さんと記念写真を撮りました。私たちは10年前、他の友人二人と足摺岬を旅行していました。その時に撮ったのと同じ所で、撮ったのでした。
寺男さんがシャッターを押してくれるというので、古い写真を見せて、これと同じ構図になるよう頼みました。低かった松が大きく育っていたり、敷石がなくなっていたり、10年間の変化にやや戸惑いましたが、それらはすべて、寺男が解決してくださいました。私たちの「老い」については、どうしようもありませんでしたが。


昼食
昼時とあって、どの食堂にも「呼び込み」がそれぞれ立っています。「お二階、景色がいいですよ」。その店を通り過ぎると、次の店が呼びかけてきます。他店の前の客には呼びかけないという、決め事があるようでした。
たまたま傍にいた添え蚯蚓の彼をさそい、3軒目に入りました。彼は西海岸へ、私たちは打ち戻りますから、もう会うことはありません。北さんの発案による、お別れのお接待です。
彼はライスと焼き肉とウドンを注文。食べながら、・・身体が熱い、力がみなぎってくるようだ・・とのこと。なんと効率のいいこと。お接待の「しがい」がありました。


打ち戻り
これより大岐海岸の宿まで、打ち戻ります。
歩きはじめるとすぐ、雨が降り始めました。


善根宿で再会
善根宿で雨宿り休憩をしていると、四万十川河口で同宿した「黄色信号」さんが、やって来ました。さすがパワーウォークの「黄色信号」さんです。というのも、彼は四万十河口で連泊したのです。濡れた衣類を乾かすためでしたが、2日目は中村観光を楽しんだと言います。その彼が、丸1日の遅れを取り返し、ここまで追いついてきたのですから、驚きです。
しかし「黄色信号」さんは自嘲的ともとれる口調で言います、・・私は今年退職の60歳。企業人の癖がまだ抜けず、何でも計画通りにやってしまいます。・・どうしても「遅れ」を取り返さないではいられない自分を、彼は今、見つめているようでした。



大きなミスをしてしまいました。いえ、小さなミスの傷口を広げ、大きくしてしまいました。
「以布利分岐」と黄表紙地図(42-2)にある所で、いつの間にか県道347号へ入り込んでいたのです。ようやく間違っていることに気づいたのは、お恥ずかしい話ですが、西海岸まで、もう半分も来た所でした。(347号は東海岸と西海岸を結ぶ道です)。
もちろん問題は、まちがえたことではありません。間違えても引き返せば、問題はなかったはずなのです。ところが私たちの判断は、ちがいました。「前に進もう」としたのです。
県道347号と並行するように、(昨日歩いた)県道321号が走っているはずだから、それに出ればよい。それが私たちの判断でした。心のどこかで、間違いを認めたくなかったのかもしれません。失敗の後には、人はたいてい意気消沈し、それが冷静さの回復につながるのですが、時として、逆に勇み立ってしまうこともあります。この時の私たちが、そうでした。



間もなく日が暮れました。強い雨は止む気配を見せません。
どこをどう歩いたか、私たちはいつしか、新開地を歩いていました。たぶん、それはグリーンハイツという所だったのでしょう。当時はまだ分譲地が並んでいたり、まだ造成中であったりしたのでした。道を尋ねようにも、人はまだ住んでおらず、工事の人はすでに帰宅しており、もう誰もいません。
ようやく明かりをひとつ見つけたのは、何時頃のことだったでしょうか。小さな商店があり、声をかけると、幸い奥から人が出てきてくれました。道を尋ねると、①ここから大岐海岸までは遠い。歩けば、うんと時間がかかる。②それでも行くなら、当面、体育館を目標にしなさい。体育館は321号沿いにあります。③体育館へは、???のように進みなさい。(???の部分は、言われたときは覚えていましたが、すこし歩くと、もう忘れていました)。


GSでようやく休憩
歩いていると、前方に車が停っているのに気づきました。雨のなか停車ライトをつけ、道の片側に寄せてあります。さっきの店の方の車でした。見かねて出してくださったのでした。通りかかると窓が開いて、「送りましょう」と言ってくださいました。
しかし私たちの答は、(今でも恥ずかしく、また申し訳なく思っているのですが)次の様でした。・・すみません。乗せていただきたいのは山々なのですが、私たちは「車は使わない」と決めてしまったのです。ですから歩かねばなりません。
確かに私たちは「車は使わない」と決めていました。しかしそれは、足弱ゆえの決意であって、このような事態を想定してのことではなかったはずなのです。なのに、・・。
この後、U字溝の蓋の上を歩いていた私たちが、蓋がなくなっていることに気づかず空足を踏み、転倒してしまうのは、お大師さんのお叱りであったのかもしれません。それでも大きな怪我はしないですんだのは、お慈悲だったでしょうか。


翌朝の大岐海岸
どれくらい歩いたでしょうか、私たちは、なんとか車道を見つけました。その道が321号であるなら、右に曲がれば体育館があり、トンネルを抜けると以布利なのです。
しかし、なぜなんでしょう。私たちはまたも間違えてしまいます。山の遭難で、なぜこんな所でと不思議に思われる遭難があるそうですが、私たちの「遭難」もまた、(私たちにさえ)理解不能です。
私たちは、「道なりに」、左方向へ下り始めました。右方向が軽い上りであったので、無意識のうちに、「苦」よりも「楽」をとっていたのかもしれません。
これまでの遅れを取り返すかのように、私たちはガンガンと、間違った方向に歩き進んでいました。ようやく間違いに気づいたのは、今度は西海岸近くまで来たときでした。
ここでも気持ちの切り替えが早かったのは、過剰分泌されたアドレナリンのせいだったでしょうか。すぐさま下ってきた道を黙々と上り返しました。


翌朝の大岐海岸
見覚えのあるトンネル(以布利第一第二トンネル)に着いたときは、思わずトンネル内に座り込んでいました。
さすがにこれ以降は、迷うことなく歩けましたが、宿に着いたのは、それは遅い時刻でした。
宿の方は心配されて、玄関で待っていてくれました。二回、車で探してくれたそうでした。にもかかわらず、いやな顔ひとつ見せず、よかった、よかったと言って、風呂や食事の準備をして下さいました。あの時は本当にありがとうございました。そして、申し訳ありませんでした。私たちはあれ以降、宿への遅着を強く戒めています。
車を出してくださったお店のご主人にも、謝らなければなりません。遍路は、人様のご厚意をいただいてこそ、歩けるものです。人様のご厚意を無にして憚らない遍路は、遍路ではありません。こんな当たり前のことが、私(たち)にはわかっていませんでした。
足摺岬で会った野宿の遍路さん。お元気ですか。あなたの問題をもっと親身になって考えていれば、U字溝に落ちることはなかったし、西海岸まで二度も、歩くことはなかったでしょう。せっかく貴方が、チャンスをくださっていたのに・・。


翌朝の大岐海岸
以上、長くなりましたが、「夜間 雨中の大迷走」の顛末でした。参考にしていただけるところも多少はあるかと思い、恥ずかしながら記してみました。


翌朝
今日も雨です。真念庵に参り、市野瀬川沿いの道(県道346号→46号)を歩いて、三原村に宿をとります。NPO法人「いきいきみはら会」が運営する宿です。


道標
距離は短めですが、昨夜の疲れが、残念ながらまだとれていません。床についたのは12:00を過ぎていました。


五味橋の分岐
左方向は、下ノ加江川沿いの道(県道21号)です。グネグネと蛇行しながら、三原村に入ります。
この道は、いつか通りたい道ですが、令和3年の現在、まだ通れていません。


真念庵へ
左に、市野瀬川沿いの道(県道21号)が見えています。


コスモスの道
コスモスがきれいでした。


五味天満宮
「五味」(ごみ)は、大きな川に小さな川が流れ込む、合流部を指す地名、なんだそうです。「流れ込み」の「こみ」が転じて、「ごみ」になったと考えられています。
五味天満宮の少し上流で、下ノ加江川に市野瀬川が流れ「込み」、さらにその上流で市野瀬川に市野々川が流れ「込み」ます。短い流れの中で3本が合流する五味は洪水の危険地帯で、過去、何回も洪水被害に遭っています。


洪水記念碑
下ノ加江川に市野々川が合流する辺りに、洪水記念碑が建っています。
大正9年(1920)8月15日・・雷電激烈天地震動 同夜洪水俄ニ至リ・・甚大な被害をもたらしました。このことを後世に伝えんと、昭和3年に建立したものです。碑の建立まで要した長い年月が、被害の大きさを物語ってもいます。
この洪水については、上掲・五味天満宮の社頭にも、記念碑が建っています。こちらはについては、→(H24秋遍路①)をご覧ください。


野宿テント
雨の日は、こうして休むのもいいですね。


ドライブイン
伊豆田トンネルを抜けた先にあるドライブインです。ウリンボがいた所です。


真念庵
澄禅さんが「四国遍路日記」に、・・然レバ荷俵ヲ一ノ瀬(市野瀬)ニ置テ足摺山ヘ往也・・と書き残しています。
荷物を市野瀬に置いて38番金剛福寺を打ち、打ち戻ってきて荷物を受け取り、38番延光寺へ向かったのでしょう。
真念さんは、遍路のこのようなやり方を重々心得ているので、ここ市野瀬に真念庵を建てたのです。


真念庵
真念さんは「四国遍路道指南」に、次の様に記しています。
・・市野瀬村、さが浦より是まで八里。此村に真念庵といふ大師堂、遍路に宿やどかす。これよりあしずりへ七里。但さゝやまへかけるときハ、此庵に荷物をおき、あしずりよりもどる。月さんへかけるときハ、荷物もち行。初遍路はさゝやまへかけるといひつたふ。


真念庵
初遍路では「さゝやま」へ掛けると伝わるそうです。2巡目では「月さん」ということでしょう。言うまでもなく「さゝやま」は篠山神社、「月さん」は月山神社です。
私はいずれも、(順は違っていますが)二度ずつ参拝していますので、その様子を下記よりご覧ください。
  篠山神社 →(H24秋遍路③) →(H24秋遍路④)
  月山神社 →(H27秋5)  →(H24秋遍路)


道案内
道案内に従って、県道46号を進みます。


お接待
休憩を取りたいと思いながら歩いていると、民家がありました。屋根つきの駐車場で、おばあさんがなにか作業をされていたのでお願いし、少し雨宿りさせていただきました。
オバアさんが家に引っ込むと、代わりに小さな男の子が出てきました。・・お兄ちゃんは学校に行ったけど、ボクは(雨のため保育園に行けなくて)お留守番しているの。お兄ちゃんが捕ってくれた沢ガニと遊んでいるんだ。お兄ちゃんは捕るの上手なんだ。・・おじさんたち、もうすぐ、いいものが出てくるよ・・
何が出てくるの?と尋ねると、カキ!カキ!とのことです。そこへお婆さんが、お接待の柿をお盆に載せて、「もう、おしゃべりで・・」と、でも如何にも可愛いといった様子で、出てこられました。


遊び相手の沢ガニ
それから9年後の平成24年(2012)のことです。
私は再び、この道を通りました。ちょうどこのお宅の前をが通りかかったとき、おばあさんが家から出てこられたのには、驚きました。一瞬、お大師さんが会わせてくださった、との思いが過ぎったものでした。
9年前のことをお話しすると、・・あの子はもう中学一年です。相変わらずのおしゃべりで・・。近頃は休みの度に、友達と足摺へ釣りに行ってます。きょうも、それでいないのです。・・とのことでした。どんな大人になっているのでしょうか。


右方向へ
道路標識に「成山」とあります。ここからが三原村です。


狼内(おおかみうち)
狼内の地名由来は、・・古くは「おおかめうち」とも呼ばれ、「山間の沢になって入り込んだ地形を意味する大川目」に由来すると言われる。・・とのことです。なるほど狼内を中心に、北に二本、南に二本、西に一本の道がついています。「入り組んだ地形」であるわけです。「沢」は、長谷川の沢でしょうか。


クロネコ
道を尋ねたくても、なかなか人が見つかりません。見つかっても、正直、道を教えるのは下手です。土地の人は、「行き方」など考えることなく、行くことができるのです。急に「行き方」を尋ねられても、なかなか即答できるものではありません。それに近頃は、田舎の人は歩きません。たいてい車で行ってしまいます。
このドライバーさんは、これまで何人かに尋ねても分からなかった「行き方」を、実に丁寧に、わかりやすく教えてくれました。さすが、プロです。


真念法師道標
・・右遍路みち 左大ミつ(大水)のときハ このみちよし・・
右へとると、地蔵峠を経て中筋川沿いの道に出ます。この道を川沿いに下れば宿毛の平田で、延光寺はもうすぐです。「四国遍路道指南」には、「つねには」この道を行く、と記されています。ただし中筋川が大水の時は、左に進み、三原村を経て平田に出る方がよい、というのです。
私たちは今回、大水ではありませんが、左に進みます。


天満宮
真念石の傍に天満宮があります。
明治の神仏分離・廃仏毀釈策は、神道にも大なたを振るい、この村(をがた村)でも、村内の神社が整理統合されました。この天満宮には、かつて村内にあった、八幡宮の他七社が合祭されたと伝わっています。鳥居の前に二組の狛犬が立っていますが、内一組の狛犬は、おそらく統合された他の神社の社前を護っていたものでしょう。前々号では新・浦ノ内小学校の「二人二宮金次郎」をご紹介しましたが、これに似た経緯があったのかもしれません。


遠かった道標
この道路標識は「歩きの距離感」を以てしては、理解できません。完全に車用の標識だからです。車の人でも、土地を知らない人は、難しいかもしれません。
右方向は、三原村の中心部を抜けた後、隣接する宿毛市の、平田に至る道を教えています。しかし三原村の部分については、記されていません。私たちが平田方向に右折し、無事宿にたどり着けたのは、ひとえにクロネコのドライバーさんのおかげでした。
直進方向の表示は、さらに難解です。そもそも下ノ加江からやって来た私たちが、なぜ再び下ノ加江に至るのでしょう。こちらも中間の説明がスッポリ抜けています。おそらく46号で宿毛の小筑紫に出、321号に乗り換えると、ふたたび出発点の下ノ加江に至ることができる、ということでしょう。


宮の川トンネル
平成10年(1998)竣工。長さ270メートル。
竣工するまでは山越えするか、3キロほど迂回せねばなりませんでした。


三原村唯一の信号
たまたま居合わせた土地の人が、・・これ、いらないんだけどね、三原の子は信号も知らんのか、なんて言われちゃあ可愛そうだから・・と、なぜここに信号があるかを、説明してくれました。


いきいきみはら会
他には客がいないということで、部屋を二部屋とも使わせてもらいました。一部屋に濡れた衣類などを吊せるだけ吊し、もう一部屋を寝室としました。
夕食後、責任者の方にお願いして、NPOや「いきいきみはら会」の運営について、レクチャーを受けました。1時間以上にわたっての熱心なお話は、実践的かつ深い内容で、いい勉強になりました。
当時の「いきいきみはら会」の活動内容は、だいたい次の様でした。・・高齢者の通院の介添え 医師の健康相談 国体支援ボランティア(花壇へのラベル貼り) 農業の高齢者支援 高齢者の家屋等の改修工事支援 資源の有効活用(間伐材、竹材の利用) お遍路さんとの交流 陶芸教室(多年層対象) 婦人部の手芸教室 高校生の音楽部の演奏(日色ともえさんが出演したことがあるという) などなど多岐にわたっています。


無料休憩所
次号の内容とも重なりますが、柏島の黒潮実感センターで、三原村の話が出てきました。
柏島では、間伐材で魚礁を作っているというので、同様に間伐材の有効利用を考えている、三原村の人たちのことを話したら、なんと・・ハイ、その間伐材、三原村からもらいました・・と返ってきました。
さらに話を続けてゆくと、大月へんろみち保存会主催の月岡祐紀子さんの演奏会に、黒潮実感センターのスタッフがかかわっていることがわかったり、・・私たちは、この人たちの「元気のつながり」に、大いに刺激を受けたのでした。


船ヶ峠
ようやっと晴れました。
今日は県道21号を歩いて、まず中筋川ダムへ。さらに宿毛市平田の中心部へ下ってゆきます。
下れば、39番延光寺はすぐです。延光寺を打った後は、宿毛駅近くの宿に泊まり、明日帰宅します。


新しい住宅地く  
新しい住宅地が拓かれているかと思えば、・・


牧場
すこし先には牧場があります。
ところで、私たちが泊めてもらった「いきいきみはら会」の宿ですが、今は閉じられていることを、ご存知でしょうか。それに代わって新しく開設されたのが「清水川荘」で、この牧場近くに在ります。


宿毛へ
三原村から宿毛市平田に入ります。


梅ノ木トンネル 
昭和61年(1986)竣工。中筋川ダム建設にともない、中筋川沿いの古くからの道(遍路道でもあった)はつけ替えられ、新しく車用の道として再生されました。新道は「技術」に物言わせて、山なにするものぞ、これをぶち抜いて通っています。梅ノ木トンネルの先には、もう一本、黒川トンネルもあります。


梅ノ木トンネル 
これにより、三原村-宿毛市間の往来は格段と便利になりました。三原村は120㍍ほどの高地にあって、これを囲む土佐清水市、宿毛市、四万十市(旧中村市)との間に、それぞれ往来の道を持っていますが、中でもこの三原-宿毛区間が、最も(車用として)よく整備されているでしょう。
三原村は平成の大合併でも踏みとどまり、今も「村」として残っていますが、合併相手として最も考えられたのは宿毛市、次に(境は接していませんが)大月町だったといいます。昭和の大合併なら、間違いなく中村市だったでしょうから、それはひとえに、この道路整備のおかげだったと言えるでしょう。ただし、平成の大合併後に各地で聞いた「止めときゃよかった」を思うとき、合併に踏み切らない三原村は、賢明なのかもしれません。


中筋川ダム  
ダム湖は蛍湖と命名されています。かつてこの辺は蛍の名所だったと言います。ダム建設後も蛍が見られますようにと、願いを込めての命名です。
間伐材を有効利用する考え方は、洪水期、ダム湖に流れ込んだ流木にも及びます。流れ込んだ流木や葦は堆肥化され、有機肥料として再利用されるそうです。


平田
中筋川ダムから下ると平田の中心地です。
中筋川沿いの快適な遍路道を歩きます。


平田
可愛い子たちが散歩していました。


平田駅
土佐くろしお鉄道宿毛線の駅です。平成9年(1997)の開設。特急が止まります。


右折
まもなく39番延光寺です。


延光寺
赤亀山 寺山院 延光寺に着きました。土佐最後の札所です。


延光寺本堂
延光寺の本尊は、薬師如来。 "目治し薬師" と呼ばれ、信仰をあつめています。


赤亀
山号・赤亀山(しゃっき山)の興りを伝える像です。
・・ある日のこと、寺の池に居た赤亀が、姿を消したそうです。やがて帰ってきましたが、亀は甲羅に銅鐘を背負っておりました。有り難い鐘にちがいない。人たちはこの鐘を寺に据え、それまでの山号・亀鶴山を「赤亀山」に改めたと言います。
龍宮譚です。延命寺は海とつながるお寺です。


逆の人
延命寺を発ち、宿毛に向かいます。


夕日
宿毛に着きました。通りの向こうに陽が沈もうとしています。
即決断。北さんが、携帯でタクシーを呼びました。土佐清水のリターンマッチです。夕日が見える港、片島港へ行ってもらいました。


片島港
江戸の敵を長崎で、ではありませんが、清水で見ることができなかった夕日を、宿毛で見ることが出来ました。ダルマ夕日は見られませんでしたが。


片島港の月
反対の空には、月も出ています。十三夜の月です。
思えば、今回の遍路で初めて月を見たのは、宇佐でした。あれから六反地や土佐清水でも月を眺め、そしてこれが今回の最後の月です。明日、帰ります。


片島港子供たち
暗くなってもまだ遊んでいる子供たちを見て、ちょっと嬉しくなりました。
でも、ちょっと寂しいのは、彼らが方言を話さないことです。
・・おじさんたち、どこから来たの?
・・埼玉だよ。
・・あっ、僕、知ってるよ。
私らの子供時代は、方言しか知らなかったものですが、近頃の田舎の子は、「標準語」を話します。方言、聞きたいんだけどな。
なお、この日は金曜日でした。前にも記したことがありますが、この前年、平成14年(2002)4月、日本の公立学校(小中高とも)は、完全週休二日制に移行していました。だから、明日は「休み」だったのです。


片島港帆船
きれいな帆船が停泊していました。聞けば「観光用の帆船」なのだそうでした。日が暮れると、電飾がつきました。
横浜の氷川丸のようなものなのかな?結局、わからず終いです。


最終点
宿毛駅近くの、ガソリンスタンドがある交差点を、今回の最終地点としました。
この先、松尾峠を越えれば、伊予路です。峠には「従是西伊豫國宇和島藩支配地」「従是東土佐國」の標識が建っているとのこと。楽しみです。


宿毛駅
駅前の椅子で休憩していると、土地の人がやって来て、話が始まりました。
話は「お接待」のことに及び、・・わしも昔はお接待させてもらいよったが、近頃は、お遍路さんも変わってきたんじゃろか。気持ちようお接待できんようになってな、止めてしもたんよ・・と、残念そうに話しました。思い当たることがないではない私たちは、黙って聞いておりました。
  ○○県はお接待が少ない。 ××県はよかったぜ。 △△を差し出すなんて、ちょっと失礼だよ。乞食じゃないんだ。
こんな遍路同士の会話を耳にしたことがある方、いらっしゃいませんか。


車窓から赤鉄橋
10:44発 南風16号に乗車。
宿毛から高知まで、9日間かけて歩いたところを、たった1時間半で走り抜けます。ちょっと悔しいので、次回の行き帰りは「路線バスの旅」にしようか、などと話しましたが、これはちょっと無理のようです。


安楽寺へ
高知駅に着き、昼食にうどんを食べ、(若干早いのですが)遍路の衣装を解き、ロッカーに荷物を預けました。
足摺岬の「彼」ではありませんが、心地よい脱力感の中、ブラブラと安楽寺に向かいました。


30番奥の院安楽寺
安楽寺は、現30番札所の善楽寺が廃寺となっていた一時期、30番札所でした。また次の一時期には、善楽寺と30番札所を争い、巡拝する遍路を、いずれで御朱印をいただくべきか、悩ませてもいました。
今は、30番札所善楽寺の奥の院と位置づけられ、ひっそりとしています。


奥の院
寺名・安楽寺は、筑紫にある菅原道真の菩提寺・安楽寺に因んだものだそうです。
土佐・潮江に配流された道真の長子・高視が、太宰府の父の死を悼んで、現在、潮江天満宮が在る地に、潮江天満宮と共に建てたのが始まりと言います。


納経帳
明治43年「三十番安楽寺」の納経帳です。
 右のページ  四国第三十番  奉納経 無量寿佛 安楽寺
 左のページ  四国第三十一番 奉納  文殊菩薩 五台山 
  

空港改名
高松駅から空港に向かいます。
バスには「高知龍馬空港」の名が書かれていますが、正式には、これより一週間後の11月15日(平成15年)に改名されました。

さて、ご覧いただきまして、ありがとうございました。
私たちは帰宅後すぐ、次回遍路の予定を2/25-3/2(平成16年)と決めました。行程は、足摺岬から月山神社を経て、今回の終点である宿毛に出、それから伊予路に入ります。当初は宿毛から、すぐ伊予路に進むつもりでしたが、白山洞門は見落としたし、竜串の「見残し海岸」も見残しているし、月山神社はなんとも魅力的だし、やっぱり西海岸をもう一度トライしようよ、ということになったのでした。
そういうわけで次号は、ふたたび足摺岬から始まります。更新予定は8月25日です。

 この記事のトップへ アルバムの目次へ 

コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 四万十川渡し船 伊豆田トン... | トップ | 足摺岬 白山洞門 松尾 竜串 ... »

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
♫お祭りすんで 日が暮れて~ いくら泣いても あとの祭りよ~ (天恢)
2021-08-09 10:35:59
 長~い長~い厳しい暑い夏が過ぎていきます。 やっとオリンピックが閉会しました。 歯止めの掛からないコロナ感染爆発でのオリンピック祭典でしたが、言わんこっちゃない首都圏では新規感染者数が過去最多を更新する日々が続き、それが全国に再拡大する怖い傾向。 どうなることやら?

 さて、今回は前回と合せて、平成15年に歩かれた「四万十川渡し船~足摺岬~38番金剛福寺 ~宿毛」までのリライト版です。 2回分をまとめてコメントできるよう時間的な配慮をいただきながら、コロナとオリンピックと暑さを言い訳に、纏まらず投稿が遅れました。 
 天恢はこれまで区切りで15回ほど遍路しましたが、一番歩いたのは足摺岬にある38番金剛福寺への道です。 1回目が中村駅からバスで38番への往復でしたが、 2回目が四万十大橋から久百々、東海岸、88番を経て西海岸、竜串、月山、宿毛へ。 3回目が久百々から38番を打戻しで、三原、宿毛、札掛から篠山へ。 4回目が久百々から西海岸、38番を経て、足摺スカイライン、竜串、月山へ・・・。 いつも、ここには懐かしい思い出が詰まっています。
 それで、誰でも何度も四国遍路が出来るものではありません。 もし、一度しか足摺岬を回ることが出来ないなら、岩本寺から38番を経て、延光寺までのベストコースを考えてみました。 天恢なら、往路は渡し船が運行していたら、田ノ浦から下田へ、真稔庵、久百々、以布利を経て、東海岸に入り、38番。 復路は西海岸に入り、竜串、月山神社、大月、宿毛を経て延光寺までを歩くコースをお勧めします。
 はっきり言って、渡し船に乗らず、三原村のコースなら全日程で2日間ほど短縮できます。 しかし、遍路日程は速さを競うものではありません。 過疎地の方には申し訳ないのですが、高速道路が走ってない幡多地区は室戸岬と並んで最高の遍路コースです。 このコースなら、広々とゆったりした四万十川河口、御大師様が見残した竜串の海岸、大月神社への遍路道に掛けられた大月小学校生徒さんの励ましへんろ札に元気をいただきます。

 さてさて、今回のタイトル「♫お祭りすんで 日が暮れて~ いくら泣いても あとの祭りよ~」は、70年近く前に発売された美空ひばりさん歌った「お祭りマンボ」の一節です。 楽しく遍路さんも「ソーレ ソレソレ お祭りだー」のタイトルでコメントされたことがあります。
 天恢の真夏の夜の夢に、バッハ会長に似たおじさんが現れて、「♪お客を入れろ 金まいておくれ ワッショイ ワッショイ ワッショイ ワッショイ ソーレ ソレソレ お祭りだ~」と、喚き散らすのです。 そこに「ねじり鉢巻 揃いの浴衣」の菅さんに似たおじさんや小池さんに似たおばさんたちが「安全・安心」、「ワクチン、ワクチン」と囃し立てるという悪夢でした。 どうやらワクチンも万全ではないことが周知してきました。 浮かれ過ぎた後には、あとの祭りで、『国破れて 五輪あり』、トホホとならないように・・・。
返信する
♫ あの娘の声が 呼んでいるよな 足摺岬 (楽しく遍路)
2021-08-12 16:16:53
今日の埼玉県は、31度の真夏日です。しかし、真夏日とは言え、猛暑日に慣れた身体は、やや涼しさを感じていたりします。
とは言え九州の方では、9号10号が過ぎた後、息つく暇もなく、今度は梅雨末期並みの大雨が降っているそうです。この雨は明日には、東日本にもやってくるとのことですが、日本国中、どうかどうか、大きな被害がありませんように。

さて、困ったものです。今回はコロナのことは書かないつもりで書き始めたら、「温暖化」で始まってしまいました。本来の季節感では、秋立つとはいえ、まだまだ・・などと書き始めたがっているのですが、温暖化はそれを許してくれません。

・・・田ノ浦から下田へ、真稔庵、久百々、以布利を経て、東海岸に入り、38番。 復路は西海岸に入り、竜串、月山神社、大月、宿毛を経て延光寺までを歩く・・・は、天恢さんお勧めのコースですが、北さんと私は、ご丁寧にもこれを、2回の区切り歩きに分けて歩いています。
まず、今号でご覧いただきましたように、東海岸から38番へ→打ち戻って、→真念庵→三原村経由で宿毛、と歩きました。ちょこっとだけ西海岸を覗いたため、それが引き金になって「迷走」したりしたのですが、それは、さておかせていただきます。
次に、次号でご覧いただきますが、38番から西海岸を歩き、→竜串→月山神社→宿毛、と歩きました。
この頃の私たちは、なんとか一巡したいとのみ願っていて、自分たちに二巡目があるなどのことは、欠片も考えておりませんでした。ですから、二度と訪れることはない足摺岬の西海岸は、ちょこっとではなく、ゆっくりと歩いておきたかったのです。そんな思いの延長で、一日かけて訪れた柏島の様子は、次々号でご覧いただきます。

なんだかコメント返しというより、「予告」になってしまいました。
そこで、ごめんなさい。予告ついでに、もうひとつ。
次号もまた二回分を同時、または一週間置いての更新、とすることを考えています。つまり、
  ・38番から月山神社
  ・月山神社→柏島→宿毛→伊予路
ちょっと大変ですが、ステイホームし、がんばってみます。
天恢さん、皆さま、なにかと、ご用心ください。
返信する

コメントを投稿