楽しく遍路

四国遍路のアルバム

室戸岬で日の出 津照寺 金剛頂寺 奈半利で日の入り 神峯寺 

2022-10-26 | 四国遍路

 
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  四日目(平成19年4月5日)

室戸岬の月
室戸岬の先端で、日の出を見ることにしました。今日の高知市の日の出は、5:49だそうですから、室戸では、それよりもやや早いのでしょうか。
5:00過ぎ、寒さ対策をし、懐中電灯を持って、海岸に出ました。満月が西に沈もうとしています。


3分前
日の出の約3分前です。雲が気にかかるけど、・・。
今でも悔しく思うことがあります。満月に見とれていたからでしょうか、日の出に気を取られていたからでしょうか、私は室戸灯台の灯を、見忘れてしまったのです。これは悔しい。
最御崎寺が「火つ岬」から来ていることは、前号で記しました。ならば現代の「火つ岬」を見忘れてはならんだろう!ある意味、遍路にとって灯台の火は、日の出よりも大切なものだったのです。これも、灯台下暗しが故でしょうか。


日の出
頭がのぞきました。日の出時刻は、太陽の上辺が水平線(地平線)に一致する時刻をいうそうですから、今が室戸岬の、日の出でしょう。
高知市との時間差を確かめようと腕時計を見ましたが、これは失敗でした。自分で時刻を合わせる安腕時計では、この場合、役に立ちません。


日の出
半分くらい。


日の出
もう少しです。


日の出
水平線上に浮かびました。


日の出
浮き上がりました。


日の出
6:00まで見て、宿に入りました。
6:30 朝食。
7:00過 出発。車で廻っているご夫婦と、別れを惜しみました。
今日はリハビリ遍路の最終日なので、思い切って距離を延ばし、奈半利まで30キロ近くを歩くつもりです。リハビリ遍路では、上限を20キロと決めていましたが、いつまでも、それでいいわけはありません。いつかは、この壁は破らなければなりません。それが今日、というわけです。



ある事を思いつきました。実に単純なガンバルための仕掛けです。
・・室戸岬で日の出を拝み、奈半利で日の入りに感謝する、・・これって、いいじゃないか!よし、30キロ頑張って、奈半利で夕陽を見るぞ!・・という仕掛けです。こんなことでガンバル私を、バカな奴とお笑いください。
とまれ、目指せ、奈半利!私はガンバッテいます。天気予報では、やや寒いとのことでしたが、歩いていれば、むしろ暑いくらい。セーターは早々に脱ぎ、やがて手袋もとりました。


行当岬
行当岬。この読みは、ぎょうとうみさき ぎょうとざき ぎょうどうざき ぎょどざき・・など、いろいろです。正しい読みがどれなのか、私にはわかりません。
ただ思うに、・・「行当」は(前号でもふれた)「行道」に由来する・・とのことですから、「とう」や「と」の読みは、その名の由来からはすこし離れた読みということになり、「正しい」読みからは除外されることになります。「とう」や「と」は、「当」の字が使われ始めて以降の読みと考えられるからです。


行当岬から撮った室戸岬
私見では、「道」から来る「どう」または「ど」の読みが、「正しい」読みなのですが、由来など関心ないという方々には、むしろ「当」を「どう」「ど」と読む方が変であって、「正しくない」のかもしれません。
なお「行当」は、大師が修行された「行堂」に由来する、との説もあるようですが、ここでは触れません。


海嘯襲来地點の碑
昭和9年(1934)9月21日、室戸台風が奈半利町と羽根村の境付近に上陸しました。瞬間風速65mを記録する猛烈な台風でした。
この時、高さ10数㍍にも及ぶ海嘯が、3回来襲したといいます。海嘯とは広辞苑によれば、・・満潮が河川を遡る際に、前面が垂直の壁になって、激しく波立ちながら進行する現象・・です。強風による吹き寄せと気圧低下による海面上昇が満潮と重なり、10数㍍もの高さになったのです。(地震に起因するものは海嘯とは言わず、津波といいます)。


水高之跡
室戸中学の校門側には「水高之跡」の石碑があります。室戸台風の海嘯の高さを示しています。この碑の最上部が、潮の高さだったとのことです。


室戸岬港
室戸岬から行当岬の間には、野中兼山の築港になる港が二つあります。
一つは「室戸岬港」(写真)で、室戸岬先端から3キロほどのところにあります。築港当初は「室戸港」でしたが、「室津港」との混同を避けて「津呂港」と名を変え、さらに近年では「室戸岬港」と呼ばれています。
写真は後年、最御崎寺から下山の途中で撮ったもので、室戸岬港のほぼ全景が見えています。奧の岬は、もちろん行当岬です。


室戸岬港
写真は、室戸岬港の、兼山の工事になる部分です。今は室戸岬港の内港になっています。
左の石碑には、・・野中兼山先生開墾之室戸港・・とあります。昭和3(1928)、室戸岬青年団による建立です。
右は、・・紀貫之朝臣泊舟之處・・です。ただし紀貫之が生きた時代は10世紀ですから、この湊は、未だ存在していません。土佐日記には、奈半利を出た貫之の座船が「室津」に10日間、泊舟したことが記されているので、「室津」が在ったことは確かですが、その「室津」が現在の何処であるかは、当時と今の地形や海岸線の違いもあり、論定できていません。


室津港
もう一つの港は、室津港です。津照寺のすぐ下にあります。この港には兼山の他に、最蔵坊(小笠原一学)や一木権兵衛がかかわっていますが、これについては、→(H27春6)→(H14春2)をご覧ください。
どうやら兼山は、二つの港(室戸湊と室津湊)を、互いに補完し合う一つの湊として構想していたようです。二つの港の港口が互いに逆向きであるのが、その証です。波風がいずれの方向から襲い来ても、どちらかの湊に安全に避難できるように、港口の向きを違えているのです。
写真は、室津港の東内港で、兼山たちが築港した部分は、今は東内港の更に奧の内港となっています。なお室津港の俯瞰は、後掲写真「下の景色」をご覧ください。


兼山の内港
写真は、今は室津港の内港になっている、兼山達の工事になる部分です。
ところで、住宅の建つ位置が海面に比して、とても高いことにお気づきでしょうか。港を囲む道路と住宅の間に、石段が必要なほどの高度差があります。


室津港内港
これは、度重なる地震によって、地面が隆起したことによるのだそうです。
地面が隆起すると内港の水深は浅くなりますから、港として使用し続けるためには、その都度、海底を掘り下げねばなりません。かき出した海底の土砂を隆起した地面に積みあげてゆけば、高度差はつこうというものです。かくて周りの宅地面は、こんなに高くなってしまいました。
写真の「線路」は、船を陸揚げして船底を修理する・・フジツボを取って塗料を塗る・・などのためのものでしょう。


ボート
室津新港に、ちょっと変わったボートが陸揚げされていました。長さ6メートルほどのものが、他にも3艘、置いてありました。
聞けば10月、子供たちのボート漕ぎ競争が、室津港で催されるのだそうでした。(令和4年の現在にも催されているかどうかは、確認できていません)。
船体はペーロンにも似て縦長ですが、よく見ると櫓杭用の横木が6ヵ所ほど付いているようです。もしかすると6丁櫓の船なのかも知れません。とするとペーロンは櫂で漕ぎますから、ペーロンではないことになります。


25番津照寺
津照寺は東寺-西寺の間にある寺ですが、その興りは、東寺-西寺とは異なっています。そのことを『四国遍路の寺』(五来重)がとても分かりやすく説明しているので、引用させてもらいます。
・・東寺と西寺の間に津照寺(津寺)があります。津照寺は『今昔物語集』に出てくる寺ですから、かなり古い寺です。ところが、それを飛び越えて西寺と東寺が結んでいました。もちろん、このころは24番、26番などという番号はありません。津照寺は古いお寺ですが、25番として仲間入りしてくるのはおそらく室町時代です。ここはむしろ海上安全ということで、漁民の祈願寺であったに違いありません。


津照寺
・・津照寺の位置は行ってみたらすぐわかります。室戸の市中、港のすぐ上の小丘上にあります。・・海岸にあるこういうものは港にとっては必須です。遠くに出ていて自分の港に帰るときに目印がなければなりません。それから、漁をする場合に、漁場を決める目当山が必要です。・・目当の山の中でも、とくに自分の帰るべき港の山は曇っていても見えなければなりませんから、なるべく高い方がいいのです。そういうところに海の神をまつります。


魚屋さん
室津川手前に魚屋さんがあります。4年前、北さんと二人で買った鰹のタタキの美味かったこと。
そこで再び立ち寄り、思い出話をしながらタタキを求めたところ、奥さんがこうおっしゃいました。・・お遍路さん、それならその時の味を大切にしていただいて、今回はお求めにならない方がいいと思います。
なぜかと言えば、・・あの頃は藁で焼いてましたけど、今は藁が手に入らなくなったんです。刈り入れの時、藁はコンバインで粉砕しますからね。だから仕方なく、段ボールで燻すんです。
そういえば近頃は、ビニール製の注連縄をかけた神社をよく見かけます。コンバインは、藁のみならず「藁の文化」をも、粉砕しようとしています。


干物
魚屋さんの干物です。天日が旨味を引き出してくれるのでしょう。
写っている川が室津川です。下流の橋を渡ったところに砂浜があり、4年前にはそこで鰹のタタキを食べたのでした。


頭上の敵
ただしそんな時、時々は空を見上げることが必要です。写真は4年前のものです。ふと気づくと、トンビたちが頭上に集結して舞っていました。タタキを狙っているのです。
近頃のトンビは人が手にしているものさえ、奪うようになっています。この時も、1羽が急降下してきたのでした。そこはすかさず金剛杖を差し上げれば、トンビはお大師さんの威を畏れてか、急旋回して退散しました。


室戸は沸いた
宿の女将さんが言うように、たしかに「室戸は沸いた」のでしょう。室戸高校の出場を祝うポスターが、まだ残っていました。
ところで、なんとも「なつかしい」というか、珍しいですね。タバコの銘柄宣伝ポスターが写っています。因みにタバコ自販機の深夜稼働が禁止されたのが平成8年(1996)。たばこ銘柄広告などへの規制が強化されたのが平成16年(2004)。成人識別のためのICカードが導入されたのが、この遍路の翌年・平成20年(2008)でした。


平等津橋
ローマ字表記によれば、「平等津」で「ならし」と読むようです。
私はこのような読み方を知らないので、「平等津」の文字は音を表しているのではなく、なんらかの謂われに基づいて、「ならし」と読ませているのだろうと思います。「注連縄」を「しめ縄」と読ませるなどが、その例です。「奥様」を「まじょ」と読ませるは、違うか・・。


奈良師海岸
試しに国土地理院地図を見ていると、この辺には「奈良師」(ならし)という地名があり、(平等津橋が架かる)「奈良師川」が流れています。高知東部交通のバス停の名も「奈良師」が使われており、この辺の海岸も「奈良師海岸」です。
古く、土佐日記をひもとけば、・・(紀貫之の座舟が)奈良志津(ならしづ)より室津に来ぬ。・・等と記されており、「し」の字こそ違え、「奈良・・」と記され、「平等津」ではありません。
この件、どなたかご教示願えないでしょうか。なぜ「平等津」が「ならし」でしょうか。


道標
西寺、即ち金剛頂寺への道が案内されています。
 嵯峨天皇 淳和天皇 勅願所 
 第二十六番霊場 西寺
前回は西寺から不動岩に降りましたが、今回は登った道を降りて、海沿いを歩いてみるつもりです。そこで近くの民宿に荷物を預かってもらえないかと尋ねたところ、快く受け入れてくださいました。


川村与惣太の墓
説明看板に次の様にありました。
・・川村与惣太は「土佐一覧記」の筆者で貞佳または与三太と号し、享保5年(1720)元浦の郷士の生まれで、儒学者の戸浦良照に学び、西寺別当職を52才で辞した。明和9年(1772)から土佐一国、東は甲浦から西は宿毛松尾坂まで巡遊し、地名・故事を詠んだ三年間の行脚の記録として、「土佐一覧記」を完成する。天明7年(1787)正月13日、六十七才で没する。 室戸市教育委員会
前述の「ならし」のこと、「土佐一覧記」に載っていはせぬかと調べてみましたが、残念、見つかりませんでした。



二十六番金剛頂寺へ、少しずつ高度を上げてゆきます。
お年寄り夫婦に追いつくと、・・わしらにゃ、ムリじゃ、・・と言いながら、それでも五月などを愛でながら、ゆっくりと歩きつづけていました。・・駄目なら引き返して、タクシーで上げてもらいます。・・と話しておられましたが、どうだったでしょう。


下の景色
行当岬からの景色です。奥に室戸岬が、中程に室津港が見えています。津寺が在る所です。
海に沿って走る橋脚の道は、国道55号です。早苗の田圃、海、岬、本当にきれいな景色です。あのお二人が、せめてここまで来られれますように。
ずっと眺めていたかったのですが、残念なことに、さきほどから大きな蜂が、羽音を立てて威嚇飛行をしています。どうやら奴の防空識別圏内に入っているらしいのです。やむを得ず、早々に撮影して歩き始めました。あのお二人、やっぱり来ない方がいいかな。


金剛頂寺山門
正直、この札所では「不快」な思いをしてしまいました。そもそもは私の未熟の故なので恥ずかしいのですが、あえて記しておくことにしました。
納経所に向かっていると、バスツアーのアルバイトさんが大量の納経帳を抱え、私を追い抜いてゆきました。私はその日の遍路メモに、・・あの時、私は不快を感じた。納経所に行くと、案の定だった。・・と記しています。納経所では一人の僧が、山積みの納経帳を前にしていました。
結局、終わるまで待たされました。(待たされた、これが私の気分でした)。待っている間に納経帳を出して台に置いたら、・・終わってからにしなさい・・と叱られました。「待たされている」と感じている私の気持ちが、伝わっていたのかもしれません。彼の気持ちも急いていたのでしょう。


本堂
一度その場を離れよう、とは思ったのですが、その時はもう私の後ろに何人かが並んでおり、せっかく取った順番を捨てるのも、惜しいと思われたのでした。結局、そこで待ち続け、不毛なイライラを(互いに?)募らせることになったのでした。
ようやく団体分が終わり、私の番となりました。アルバイトさんが私に挨拶をし、走り去りました。そこで納経帳を開いて出すと、その何が気に入らなかったかはわかませんが、なにごとかを尖った口調で言っていました。内容は聞き取れませんでした。
一番いやだったのは、納経帳を投げ返してきたことでした。反射的に300円を投げ返したくなりましたが、そこは我慢。コインを三本指で押さえ、ズイと前に押し出していました。すごく惨めな気持ちになっていました。
つまらぬことを書いてしまいました。金剛頂寺(西寺)については、こちらをご覧ください。→(H27春6) →(H19春)拾い遍路②


お接待所
土地の人たちが高校の文化祭のように、張り切って呼び込みをしていました。お接待所です。
・・うちの「よさこい金時」(ふかし芋)は、(東寺の不喰芋とちがって)食べられるよ、美味しいよ、・・とのことです。
楽しかるべきお接待でしたが、心はざらついていました。


シール
荷物を預かってもらった民宿でコーヒーを飲んでいると、善通寺の方が入ってきました。道標シールを自費でつくって、張りながら歩いているそうです。確かにこのシール、見た覚えがあります。
おかげさまで迷わず歩けますと礼を言っていると、宿のおばあさんも出てきて、一緒に、他のタイプのシールや「同行二人」と書いたサラシの布などを見せてもらいました。


交通標識   
11:40 民宿発。岬の先端周りの道を歩きました。
この辺り、もう少し丹念に歩いておけばよかったと後悔しています。



また前方に、何本もの岬が見えてきました。修行の道場たる、土佐路の厳しさを思わせる景色ではあります。
一番手前の岬は、羽根岬でしょうか。



12:25 キラメッセ室戸着。昼食。大きな鯨の模型があります。
  ♫言うたちいかんちゃ おらんくの池にゃ
    潮吹く魚が 泳ぎよる よさこい よさこい
「南国土佐を後にして」は、昭和34年(1959)、ペギー葉山さんのシングルがリリースされ、全国的に知られるようになりました。しかしその元歌は古く、中国大陸に出兵した陸軍朝倉歩兵236連隊(高知県出身者で構成され、「鯨部隊」と呼ばれていた)で、自然発生的に歌い始められたものだと言われています。南国土佐を後にした兵士達が、故郷を偲びつつ戦地で歌った歌だったわけです。
12:55 出発。ここから奈半利まで、16Kはあります。今のペースでは18:00を過ぎてしまい、夕陽に間に合いません。


鯉幟
速度を上げて歩いていると、案の定、左足小指のマメが潰れました。裂けたときの鋭い痛みは、鈍い痛みとは違って、なかなか麻痺しません。すぐ道端で処理しました。
歩き始めはゆっくり。少しずつ速度を早めます。・・大丈夫。歩けました。いえ、むしろマメが出来てからの私の歩きは、(前号でも記しましたが)けっこう速いのです。


枇杷
ビワに袋掛けがされています。遠くから見ると、白い花が咲いているようです。
左には藤が咲いています。


国道55号
13:41 吉良川東の川通過。海沿いを走るのは国道55号です。
東ノ川を渡ると吉良川の街です。吉良川の街を出るときは、西ノ川を渡ります。


吉良川の街
時間を掛けて散策したい街です。
ですが、急がなければなりません。街については、よろしければ、こちらをご覧ください。→(H27春7)
13:52 吉良川西の川通過
14:09 吉良川の出口着。公衆トイレが在る所。ここにて休憩。こまめに休みをとり、その度に靴を脱いで足を解放します。
14:20 同発


鯨のマンホール
この町の消火栓はクジラのマークです。
なんだかんだと言われますが、この国の人は、鯨が好きです。


石ぐろ
よくぞここまでカドが取れたものです。
どこかでも記しましたが、「ぐろ」は、何かを積んだものを意味するようです。ですから、石を積んだものは「石ぐろ」です。「石ぐろ漁」というと、川に石を積んで、そこに潜り込んだウナギを獲る漁です。


室戸高校
また室戸高校の看板です。久々の公立高校の出場が、室戸のみならず高知を、そして全国に散った高知出身者達を、沸かせたようです。
加えて、弱小と思われていた公立室戸高校が、なんとまあ強豪・報徳学園を破り宇部商業を破り、八強に残ったとあっては、これは沸騰ずにはいられなかったでしょう。


牧場
15:30 中山峠入り口の牧場休憩
お年寄りに、羽根岬の中山峠に入る道を尋ねると、細かく教えてくれました。・・(今は、車で海沿いの国道を行くが)昔はワシらも、奈半利に出るには、越えたものじゃ。・・と言います。


来し方
奥が室戸岬。手前が行頭岬です。ずいぶん歩きました。
うれしいのは、10キロ膝がいまだ頑張ってくれていることです。


中山峠
中山峠は開墾されています。
虎杖(いたどり)採集のおじさんと出会いました。のんびりと歩いて来ます。収穫ですね、と話しかけると、ウンウン。
奈半利まで行くと話すと、・・峠を下りたら、あとは4Kだから、6時には着けるだろう・・と教えてくれました。
そのとたん、私は思いました。6時では夕日に間にあわない。(実は日の入りは6:30だったのですが、私は間に合わないと思っていました)。


「不両舌」
急ごうと思い歩き始めようとしたとき、おじさんから声がかかりました。・・これからずっと88番まで、通して歩くのか。・・
今でも思い出すのですが、その時、私は自分のことだけを考えていたのでした。・・ここで自分の歩き方を話し始めると長くなる、・・私は思わず、ハイと答えて歩きはじめておりました。(むろん私は通し歩きではありません)。
写真の掛け札を見たのは、その直後でした。ガーン、殴られた思いがしました。「不両舌」(二枚舌はいけない)と書いてあります。お大師さんはお見通しなのでした。なお、この写真は後年、撮ったものです。探しながら歩いたらまだ残っていたので、戒めとして撮影しました。


加郷領
峠を下りた所は、加郷領といいます。地名由来などについては→(H14冬1)→(H27春7)をご覧ください。
16:10 峠下りる
16:19 弘法大師霊場跡
16:30 同発
17:00 休憩
17:05 同発



陽が傾いてきました。
めいっぱいの早さで30分歩き5分休む、を続けました。5分の間に靴を脱いで、わずかに足を休めます。膝は、今は問題ないので、あえて触りません。


製材
この辺りは林業の盛んなところです。
昔、「鉢巻落とし」というヒノキの銘木があったそうです。あまりの美事さに見上げて、頭の鉢巻が落ちるほどだ、ということから来た名前だそうです。ただし、これは今夜の宿、山本旅館の女将さんから聞く話で、写真撮影時点では、まだ知らないことでした。


宿
17:35 ようやく山本旅館に着きました。
夕日を見たいと言うと、ご主人が日没時間を新聞で調べてくれました。「高知市で18:30だが、奈半利はそれより早いのか遅いのか、ワシャ知らん」といいます。たぶん5分くらい早いのでしょう。
ともかく行ってみます、と出かけました。こんなことなら、なぜ中山峠のおじさんにもっときちんと対応しなかったのか、後悔の念にかられました。


夕陽
海岸に出ました。宿から20分ほどでした。
「だるま夕日は土地のワシらでも、なかなか、よう見られんのよ」と散歩の人が言います。


夕陽
ダルマではないけれど、きれいな夕日です。中山峠での「両舌」を謝り、にもかかわらず無事歩き通せたことに感謝しました。


夕陽
18:20 もうすぐ日没です。水平線上に雲がありますから、雲に隠れるを以て、日没とします。


夕陽
沈みます。


夕陽
沈みました。
急いで旅館に帰りました。いろいろと手順を狂わせてしまい、申し訳ないことでした。
すぐ入浴。夕食。


宿にて
・・ビールはアサヒしかないんよ。昔はキリンでなきゃ、ビールじゃないみたいだったが、おかしなもんよ。・・と女将さん。
こんな話から始まり22:00近くまで、(具体的には記しませんが)人生の重たい一齣一齣を聞かせてもらいました。戦中から戦後にかけての話は、帰宅後ワープロに納めたところ、A43枚に及びました。
写真は女将さんが描いた油絵です。あんな波瀾万丈の人生のどこで、こんな絵を描くことができたのでしょう。


宿にて
ずっと気づかずにいましたが、この絵とほぼ同じ構図の写真を、私は撮っていました。
後にご覧いただく「しんまち橋からの景色」がそれです。どうか見比べてみてください。

  五日目(平成19年4月6日

出発
朝食、7:00。
7:40発。
女将さんが角まで送ってくれました。しばらく歩いて振り返ると、また手を振ってくれました。
なお山本旅館はこの数年後、営業を終えました。おつかれさまでした。ありがとうございました。


高札場
「高札場」と題して、次の様な説明があります。
・・高札場 野根山街道はここの高札場を起点として、野根山連山を尾根伝いに、東洋町野根を結ぶ延々50キロ余で、養老2年(718)にはすでに利用されていた、歴史と伝説に富んだ自然遊歩道である。
高札場というより、野根山街道の説明になっています。読みようによっては、高札場を起点にして街道が築かれたとも、とれないではありませんが、もちろん事実は逆です。街道は(説明にもあるように)養老の古くから在りました。その人通りを利して、高札場が置かれたのです。


奈半利川
かつて奈半利川沿いに、森林鉄道(魚梁瀬森林鉄道奈半利川線)が走っていたのをご存知でしょうか。流域に産する魚梁瀬杉(やなせ杉)や、宿の女将さんが言う「鉢巻き落とし(檜)」などの銘木を、土佐湾まで運び降ろすための鉄道でした。
その鉄道が廃線となったのは、昭和39年(1964)のことのようです。輸入材(外材)に押されて林業そのものが衰退したためでもありますが、おそらく根本の原因は、伐採のしすぎではなかったでしょうか。現在、魚梁瀬杉の天然林は、魚梁瀬地区の千本山に残るのみだといいます。林業における資源の枯渇は、野中兼山が輪伐制を採用するなど、土佐にあっても、古くから懸念されていたことなのですが。
なお魚梁瀬森林鉄道には、奈半利川線の他に、これから渡る安田川沿いを走った、安田川線がありました。


国道と後免-奈半利線の交差
上を走るのが奈半利線、下が国道55号線です。
すぐ側に「二十三士の墓」があります。


二十三士墓
元治元年(1864)7月、清岡道之助をはじめとする二十三士が北川村野根山に集結。獄中の土佐勤王党・武市瑞山以下、その同志達の釈放を求める嘆願書を、土佐藩庁に提出しました。しかし藩はこれを「徒党強訴」とみなして二十三士を捕縛。奈半利川河原で斬首したといいます。
これらの墓は大正2年(1913)、道之助の妻・静が私財を投じて建立したものだそうです。静は、明治24年(1891)、清岡道之助以下が新政府により贈位、顕彰されたのを機に、墓標を整備しますが、大正2年、改めて建立し直したようです。



 至誠はならず 野根山に
 秋風むせぶ 奈半利川
 死して護国の神たらむ
 嗚呼 忠魂は二十三
とあります。この碑は、明治24年(1891)、清岡道之助以下二十三士が新政府により贈位された(名誉回復された)ことを受け、明治30年(1897)、建立されたとのことです。「至誠」「護国の神」「忠魂」などの語句は二十三士を、あたかも日清戦争の戦士であるかに思わせます。これより日露戦争に向かわんとする、当時の日本の世相をよく表しています。


岡御殿
土佐の殿様が野根山峠越えで参勤交代されるとき、ここが宿舎になったそうです。


しんまち橋からの景色  
遠景の山といい、中景の橋といい、前掲の油絵に描かれた景色とそっくりだと思うのですが、どうでしょうか。あの油絵、きっと女将さんは、ここから描いたのです。比較しやすいよう、下に再掲しておきます。


女将さんの風景画
こうして比べてみると、女将さんは遠近法をきちんと学んでおられるようです。そういえば画面にひび割れもまったく見られません。ペインティングオイルの使用量が、適量だからです。


製材所
兼山の輪伐法では、杉檜等を樹齢50年~60年で伐採したようです。現代の基準で言えば、1ヘクタールあたりに3000本ほどの苗木を植林し、3~4回の間伐を経て、50年~60年で伐採したのだといいます。おかげで丸坊主の山は、土佐では見られなかったとか。
なお兼山は、薪炭林にも輪伐制を適用していたそうです。


安田川
‘安田川’をネットで検索すると、鮎の記事がズラリ、並んで出てきます。
この川にはダムがなく、水質はよく、急流が多く、良質の苔もあり、アユやアマゴの生育にとって、絶好の環境が整っているのだそうです。そんなわけで、この川のアユは美味で、「清流めぐり利き鮎会」では2回のグランプリを取っています。
なお、安田川のアユを書いた以上、野根川のアユが美味いことも書いておかねば不公平です。なんとなれば、私が会った野根の人は、・・安田川のアユは美味いけど、野根川のアユも、負けずに美味い・・と、ちゃんと安田川を褒めることを忘れていなかったからです。


門付け
門付けをするお遍路さんがいました。
この方は昨晩、奈半利駅で泊まったそうです。初めは宿に泊まっていたが、いつしか野宿となりました、と言います。「いつしか」というのが、スゴイと思いました。
なかなか(経を)読ませてくれず、「お通り」などと言われてしまいます、と言いますが、非難している風はありません。わずかばかりを、喜捨させていただきました。


土佐鶴酒造
土佐鶴酒造です。この隣に工場があります。見た限りでは、醸造所というよりは「工場」といった感じでした。安田川流域が造る良水を利用しているのでしょう。
山本旅館の女将さんは、こちらが贔屓です。安芸には菊水、佐川には司牡丹があるが、やっぱり土地じゃけんね、と言います。
なお私に関しては、太平洋側を歩いているときは佐川の司牡丹、瀬戸内海側の時は川之江の梅錦、北条の雪雀がお好みです。


水切りと鏝絵
水切り瓦は、雨から漆喰の白壁を保護するためのものです。その在ると無いとでは、白壁の寿命が10年以上も異なると言います。
また水切りは、(卯建にも見られることですが)その家の冨を象徴するものでもあり、勢いその本数や装飾性が競われることになります。このお宅では、本数が多いだけでなく、戸袋に鏝絵までが施されています。鏝絵の下部は、なまこ塀風の仕立てです。


登り口
神峯寺への登り口です。
お参りの後、近くの唐浜駅から帰途につくので、また同じ道を下りてくることになります。
そこで、どこか荷物を預かってくださる家を探したのですが見つからず(事前情報では預かってくれる店があるとのことだった)、とうとうここまで来てしまいました。
・・出がけでなきゃ、ワシが預かってやるけどなあ、・・と言ってくれるバイクのおじさんはいたのですが、結局、少し道から逸れたところに荷物を隠し、登ることにしました。


羽根岬
写真奥に羽根岬が見えます。昨日越えた中山峠がある岬です。
土佐日記で筆者は、
  まことにて 名に聞くところ羽ならば 飛ぶがごとくに 都へもがな
と帰心を詠っています。手前の街は、安田です。



桜が、イマイチです。しかし、この暖かさで、一挙に咲くのでしょう。
手前のオブジェは、高知大学教授・舩木直人さんの作(平成11年)です。神峯寺への遍路道を特徴づけています。


ふり返ると
だいぶ登ってきました。
もうすぐです。


神社と寺
五来重さんは・・札所を識るには奥の院へ行け・・と繰り返し話されます。しかし、訪ねたくて訪ねられないでいる方も、多いのではないでしょうか。多くの場合、奥の院は遠い山の中にあるからです。
そんな方に、此所はお勧めです。奥の院がすぐ上の近場に在って、しかも札所の原初の姿が、けっこううかがい知れるからです。
左が神峯寺の山門で、右が神峯寺の奥の院・神峯神社の鳥居です。私は神社に、先にお詣りしました。→(H27春7)


本堂
この写真からは分かりづらいですが、本堂は正面に唐破風、その後ろに千鳥破風を構えた、神社風の造りになっています。奥の院・神峯神社の本殿と造りが似ているのですが(おそらく似せて造ったのでしょう)、このときは気づきませんでした。神仏分離・廃仏毀釈により、神峯寺は明治初期、廃寺となり、27番札所はご本尊と共に金剛頂寺に移されていましたが、明治20年(1887)、再興されました。


菅直人筆
境内のうどん屋さんに入ると、「体感 菅直人」が目に入りました。菅さんが求められて書いたとのこと。
隣には「み仏に 我が道問えば 蝉しぐれ 命限りに 鳴いてはかなし  第64代防衛庁長官・中谷元」もありました。この方は、高知の出身です。


うどん屋さん
食べていると、顔が真っ赤に日焼けした、青年遍路がやってきました。春とはいえ、高知の日差しは強いのです。朝早出して金剛頂寺から来たとのことです。今日中に安芸まで行きたいとのことですから、すごい脚力です。
しかし、・・もう、たまらん、・・と言います。頭にタオルを巻いて、ここまで来たが、この暑さには降参、とのことでした。この食堂では遍路用品も売っていて、彼は菅笠を求めにきたのでした。手早く買って、うん、これはいい、と言って元気に出てゆきました。


下山
菅さんは、あの大騒ぎされた夏遍路の後は、まったく一人で歩いているのだそうです。このうどん屋さんへも、一人で来たと言います。ある宿では、・・自分で電話かけてきて、独りでやって来ましたよ、偉ぶることもなく(むしろ控え目で)、いい方でした、と話してくれました。
遍路道では誰もが同じ。社会的地位など関係ない。ここでは裸の菅直人。そう決めているのでしょう。だから、うどん屋の壁にも、第○代内閣総理大臣、などとは書かないのです。
下に写っているビニールハウスは、ナスでした。


鳥居
降りてきました。やや不安に駆られながら荷物の隠し場所に行ったら、よかったー、ありました。もうこんなことは、しない方がいいと思いました。歩いていても、気が気ではありません。
これから帰宅です。ここから500Mほどの唐浜駅へ向かいます。


唐浜(とうのはま)駅
ホームに上がると、電車待ちしている人がいました。聞けば、札幌から来た人でした。
・・先祖が徳島の出なので、今年、決意してやってきました。本当は歩きたいのですが、今のペースでは予定日までに結願できそうもなくて、・・かといって札幌からそう度々は来られませんしね。仕方なく電車に乗ることにしました。
あるいは彼のご先祖は、明治初期、北海道の分領支配にかかわって、徳島から移住した人だったのかもしれません。


電車来る
車中でも話は続きました。
・・よく「遠くから来たね」と言われますが、もっと遠い、旭川の人に会いましたよ。
ピンと来た私がいろいろ尋ねてみると、その方はどうやら、(前号でも記しましたが)室戸の休憩所に、次の様な伝言を残した方でした。・・4/4 7:20 ロッジ尾崎発。9:40着 空と海の路を歩く・・この後も空と海の道を歩くのだ。北海道旭川から来ました。(氏名) 59才
・・その方、私も会いましたよ。世の中、広いようで狭いですね。今度会ったら、無事結願を祈っていると伝えてください。私はこの後帰宅するので、もうお会いできませんが。
さて、この伝言、旭川の方に伝わりましたでしょうか。私はなんとなく、伝わっているような気がしています。


へんろ石饅頭
札幌の方は野市駅で下車し、大日寺に向かいました。
私は御免駅で下車し、「へんろ石饅頭」(明治25年創業)を買いに行きました。
アンコたっぷりですが、ほどよく甘みが抑えられています。何の飾りっ気もない饅頭ですが、土産にも喜ばれました。


帰り
とうとう終わりましたが、終わりを惜しむ気になれたことを、今は喜んでいます。
多くの人との出会いがありました。「楽しい遍路」でした。リハビリ目的も達成されたと思います。(たった1日だけにせよ)膝が30キロの歩きに耐えてくれたのは、うれしい収穫です。
機中で、私は早くも次回遍路の計画を、あれこれと練り始めていました。それはもちろん、宇多津から歩き継ぐ、結願への区切り歩きです。

というわけで、次回からは結願シリーズをご覧いただくはずだったのですが、そうは問屋が・・、が世の常です。
今度は北さんに、家を空けられない事情が発生。結願は先送りとなりました。ずっと一緒に歩いてきたのです。結願は、やはり一緒にしたいと思いました。北さんもそのつもりで、私を待っていてくれたのでした。
しかし、とは言え、その間を温和しく待っていられるほど、私は殊勝ではありません。待ちきれない私は、また単独で、あちこちを拾い歩きすることとなります。

そんなわけで、次号からは平成20年(2008)5月に歩いた、神峯寺-土佐久礼シリーズをご覧いただくことになります。更新は11月23日の予定です。 
長々とご覧いただきまして、ありがとうございました。                           

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天恢の一期一会の四国遍路 第8回 (天恢)
2022-11-05 09:25:22
第7波と次の第8波の間隙を縫って、「ちょっと四国の風にふれる」つもりで16回目の遍路?へ出掛けました。 コロナだけには負けたくない、何しろ後がない人生で、「やめたら終わり」になるからここは頑張るしかありません。

さて、8回目のタイトルは、今回の旅報告を兼ねた 「今、四国は?」 です。 四国へのアクセスは寝台車による往復で、正味7日間の行程で札所に4ヶ所、 特に今回は、これまで行きたくても行けなかった名所・名勝も多く、高松城、栗林公園、眉山、日和佐城、世界ジオパーク認定の室戸岬、「耕して天に至る」と形容される段々畑で知られる遊子水荷浦の段畑を初めて訪れ。 阿波おどり会館、桂浜、県立牧野植物園、伊予松山城は再訪でした。 他に世界初のDMV(Dual Mode Vehicle)への初乗車、窪川から宇和島までの車窓から雄大な四万十川の流れ眺める予土線への再乗車もあって、実に思い出多い心に残る旅となりました。

さてさて、気になるのが現在の四国と遍路の状況です。 晴天に恵まれた7日間で四国を一周して、それぞれの県庁所在地の雰囲気も垣間見ることができました。 観光としては、週末の道後温泉や松山城は賑わいを取り戻しつつありました。 オマケに国の「旅行支援」もあって、徳島県と高知県は宿泊料4割引、地域限定クーポンまでいただきました。 
一方、オフシーズンでもない遍路は、主要な駅周辺ではお遍路さんをちょっと見掛けましたが、札所は何処も閑散としていて、団体客の少なさが目立ちました。 電車やバスの車窓からも遍路道をチェックしましたが、お遍路さんの姿を見つけることはできませんでした。 残念ながら、宿でも歩き遍路さんとの同宿はありませんでした。

今回の「楽しく遍路」のブログにあった 『室戸岬で日の出を拝み、奈半利で日の入りに感謝する』 ですが、天恢もそんな気持ちで健脚を誇った時代がありました。 コロナ渦が3年も続いて、思うようにトレーニングもやれません。 もうすぐ80歳を迎えるとなれば、気力・体力がめっきり衰え、疲れも出やすく、遍路はもう無理かも? それでも、来年のことを言うと鬼に笑われそうですが、今年歩けなかった足摺、幡多地区だけでも歩きたい、この夢が実現できるように「春」を待つことにしましょう。
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Unknown (楽しく遍路)
2022-11-07 11:58:30
天恢さん、コメントありがとうございました。
「下げ止まり」していたコロナが、ここ数日、第8波への胎動を見せはじめました。もう遍路は控えるべきかもしれませんね。今、改めてその「間隙」を縫った天恢さんの、(お歳にも似合わぬ)素早い動きに、感服しています。天恢さんは、まだまだ捨てたものではないですよ。来年以降も頑張って、鬼を泣かせてやってください。

とまれ、16回目の遍路、お疲れ様でした。かなりの強行軍だったようですが、その分、収穫も多かったことでしょう。ちょっと羨ましいとさえ思いながら、私はまたまた「行きたい所リスト」に数個所を付け加えます。

まず水荷浦の段畑は、ぜひ私も行ってみたい所です。出来るものなら何日か泊まり込んで、昔の話、今の話を聞いてみたい、そんな気さえしています。水荷浦の地名は、水桶をあの段畑に担ぎ上げたことに由来するのだそうですね。そんな過酷さの中から生み出されてきた千枚田の美しさ。いつか私も見たいものです。

予土線。これも、いつかきっと乗ります。できれば新幹線型に乗りたいな。トロッコ型でもいいか。
予土線に乗れば、高徳線と土讃線は一度だけだけれど乗ったし、予讃線も乗りましたから、JR四国の路線でまだ乗っていないのは、未完の阿佐線だけになります。
といったところで天恢さん、DMVの乗り心地は如何でしたか。ボンネットバスが鉄道の線路を、それも高架の線路を走っている姿は、きっと絵になるでしょうね。見たいなあ。世界で唯一、阿佐東線でしか見られない景色。

それから牧野植物園。遍路として園内を歩かせてもらいながら、素通りしているのは、申し訳ない限りです。
来年NHKで、牧野博士を主人公にした朝ドラが始まるそうで、できるならその前に見学しておきたいものですが、これは無理でしょうね。朝ドラを先に拝見することにしましょうか。徳島の美波町に敬意を表して「ウエルかめ」も見たことですし。
「ウエルかめ」は、もう10年以上も前の放送で、ご存じない方もいらっしゃるかもしれませんが、このドラマの主人公は、美波町の遍路宿の娘さんなんです。言ってみれば、親戚の娘のようなもの。遍路中も土地の人たちから、何回も市長を薦められましたしね。これは義理でも見なければなりませんでした。

その他、このコメント欄でも前に書きましたが、休館日に訪ねてしまった苦い思い出の大塚美術館、龍馬脱藩の道、モネの庭、大心劇場・・。すでに天恢さんが訪れていて私はまだの所が、いくつもあります。
コロナ退散を祈りつつ、少なくとも計画だけは、温めていたいと思います。

観光地に賑わいが戻りつつある、・・そんな報道を聞いて、なんとなく遍路も戻りつつあるような気になっていましたが、そうでもなかったのですね。
それどころか、札所が何処も閑散としていて、7日間の宿に同宿なしなんて、通常なら、この時期、考えられないことです。コロナの上に諸物価の値上がりがありますから、なおさらなのでしょう。
世界のあちらからもこちらからも、尖ったニュースばかりが聞こえてくる、そんなときだからこそ、遍路道を歩き、心を丸めなければならないのですが。
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