楽しく遍路

四国遍路のアルバム

井の岬から 入野 四万十川 白皇山 金剛福寺奥院跡 唐人駄馬

2016-02-25 | 四国遍路
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井の岬
井の岬を背後に、・・・


国道56号
国道56号を歩きます。気分爽快。


くろしお鉄道・旧国道
新国道から撮った写真です。国道と鉄道が、ほぼ並行して走っています。奥が土佐くろしお鉄道、手前の橋は旧国道です。


尊良親王御上陸地
土佐は神亀元(724)、配流の制により「遠流の地」とされ、以来、中世に至るもなお「遠流の地」だったようです。
碑は、後醍醐天皇の第一皇子、尊良親王(たかよし親王)が、元弘2(1332)、この地に流されたことを伝えています。
なお「遠流の地」は土佐の他に、伊豆・安房・常陸・佐渡・隠岐がありました。因みに伊予は「中流の地」でした。


足摺岬
「遠流の地」の果てに、まさか「小京都」が誕生することになろうとは、凡百の都人たちには、想像だにできないことでした。
しかし、ひとり関白一条教房は、在地領主として幡多に下向。自領の直接経営を始めました。応仁2(1468)のことでした。


入野
入野で、私たち遍路は国道、鉄道とわかれ、足摺岬へ南下します。


入野松原
自然発生的な松原に、長宗我部時代、補植。現在の入野松原の形が造られたようです。


入野浜
昭和40年代、松食い虫が蔓延し始めます。
30年代までは、松食い虫で枯死した松は早々に伐採され、燃料(薪)として使われていました。松食い虫は焚刑に遭い、あまり増殖できないでいたのですが、(60年安保を経て)日本社会は主エネルギーを石油へと転換。枯死した松は放置されるようになりました。かくて松食い虫は全国に蔓延。入野松原も壊滅的被害を受けたそうです。


井の岬
ふり返ると井の岬が見えます。


上林暁記念館
すみません、今日は入館できません、・・入館を断られてしまいました。明日、マタヨシさんの講演があるので、その準備中なんです、とのことでした。
マタヨシさんは、芥川賞の又吉直樹さんで、町民大学の講師を務めるのだそうです。(高知新聞によると)又吉さんが上林暁ファンだと知った学芸員さんが、2年間、交渉をつづけ、ようやく交渉成立にこぎつけたのが受賞直前だった、とのことです。先見の明でした。


らっきょう畑
・・梢に咲いてゐる花よりも、地に散ってゐる花を美しいとおもふ・・上林暁さんの言葉です。砂浜美術館のポリシーに通じるものがあります。


らっきょう畑
11月には可憐な紫色の花を咲かせます。畑は、まちがいもなく、砂浜美術館の展示作品と思われます。


らっきょう畑
砂の粒子が細かいため、畝立てのときだけ(崩れないように)少量の水を撒きます。その後の水やりは不要とのことです。


らっきょう畑
「大方洗いらっきょう」の名で東京へも出荷しているとか。ぜひ食べてください、とのことでした。出荷は五月の連休の頃です。


蛎瀬(かきせ)橋
橋を渡り、軽い峠を越えて田ノ浦に入ります。


網修理
田ノ浦漁港のちょっと孤独な共同作業です。


四万十川
この川の「四万十」という名称は、今や不動のものとなっています。しかし、かつて「渡川」が正式名称であった時期もあったそうです。
(三原村から宿毛の平田を経て)中村の西で四万十川に注ぐ中筋川は、かつて「向川」という素朴な名で呼ばれておりました。中村の東を南流して四万十川に注ぐ川は、今も素朴に「後川」と呼ばれています。とすると、四万十川も、素朴に「渡川」と呼んだ方が、・・・とも思うのですが、どうでしょうか?


四万十川
・・中村に 向かう流れは向川・・この川を 渡れば中村 渡川・・中村の 後ろを流れる後川・・


釣り
朝散歩で釣りをしている人に出会いました。四万十大橋よりも上流の地点です。


チヌ
チヌ(黒鯛)が釣れていました。


赤目
四万十川には「赤目」という巨魚も棲んでいるそうです。


5年前に撮った赤目
フラッシュで赤く写るのではなく、もともと赤いのだとのこと。

 
四万十大橋
四万十大橋を渡り、四万十川右岸に出ます。


河口
下田港方向です。
中村は一条氏の時代から港を必要としていました。対明交易の中継港としてだけでなく、一条氏自らも、堺、薩摩、琉球王国、李氏朝鮮、さらには明国との交易に意欲的で、そのための積み出し港を必要としていました。


河口
しかし、渡川(四万十川)は暴れ川で、築港や、その安定的維持には困難が伴いました。
平成22(2010)10月、私は下田から初崎に渡ろうとしたのですが、 渡し船は運航を停止していました。理由を尋ねると、先の台風で川底の砂が移動し、航路を塞いでいるとのことでした。大変なのです。


来し方
さて、申し訳ありません。次なる遍路が近づいており、秋遍路シリーズの完結を急ぐ必要があります。
記述を足摺岬まで、大ジャンプさせてください。スキップしてしまった大岐海岸、以布利、窪津、津呂などにも、記しておきたい事柄はあるのですが、・・・。


足摺岬灯台



足摺岬の夜


  白皇山 金剛福寺奥の院跡 唐人駄馬


金剛福寺
金剛福寺の故地は、現在地の北、5キロほどに在る白皇山(433㍍)です。弘法大師が嵯峨天皇の勅を奉り、現在地に遷したとされています。
この辺のことを四国遍礼霊場記は、、・・・此寺大師以前より有て堂山頭にありしを、勅を奉て大師今の所に堂杜を立、勅願の所となれり。・・・と記しています。


金剛福寺
ただし、おおざっぱですが、大師が遷した金剛福寺は「神仏習合した金剛福寺」であり、今ある金剛福寺は「神仏分離された金剛福寺」です。


白山神社
分離された「神」は、現在、金剛福寺の並びに、「白皇神社」として祀られています。
「白皇神社」に「白山神社」が合祀されたので、鳥居は「白山神社」となっていますが、中には「白皇神社」があります。


白山洞門
白山神社の本宮は、白山洞門の上に、今もあります。


白山神社参道
しかし参拝には危険すぎる場所なので、白皇神社に合祀され、安全にお参りしているわけです。


白皇神社
「白山神社」の鳥居をくぐると、「白皇神社」の社殿が見えます。ここが金剛福寺の奥の院です。


権現堂
金剛福寺境内に「権現堂」があります。「当山総鎮守 権現堂」と刻まれています。「白皇大権現」が祀られていると思われます。「白山大権現」も祀られているでしょうか。
「権現」は仏と習合した神の姿です。(もう元には戻れませんが)、神仏分離がもたらした深い傷を、少しでも癒やそうと努力しているかに見えます。


灘の大岩
足摺半島は「巨岩愛好者」には、それと知られた名所です。私はこれより「白皇大権現」の故地である、白皇神社跡(金剛福寺奥の院跡)を訪ねますが、ここには、愛好者垂涎の巨岩があります。そして次に訪ねる「唐人駄馬」では、まさに「衝撃的」ともいえる巨石群を目にします。



北に向かって、緩やかに登ってゆきます。


下の景色
こんな景色も楽しめます。右奥に沖の島が薄く見えています。


石鎚神社鳥居
白皇神社跡へは、この鳥居をくぐります。石鎚神社の鳥居です。
脇に、「頂上付近の神域への立ち入りを固く禁止します 石鎚神社 石鎚本教足摺岬教会」という「警告」が立っています。



看板は比較的新しいので、最近までは、頂上まで行くことができたと思われます。ともかく、行けるところまで行ってみます。



緩やかな登り道です。道標もしっかりしています。


樫の木
樹齢は500年ほどだそうです。
・・豊かな広葉樹林が多くの命を育てているのよ・・宿のお母さんから聞いた話として、枯雑草さんが紹介してくださいました。お母さんは娘の頃、白皇山山麓で木の実を拾っていたとのことです。
椎とは違って、樫や楢はのドングリは、アク抜きをしなければなりません。おそらく縄文の頃から伝わる生活の知恵を、お母さんもまた伝承されていたのです。


石積み
敷地は、大きくは四段になっており、一段目と二段目に住居が、三段目に拝殿が、四段目に神殿があったようです。


石積み
二段目から写した写真です。上に神体石が見えています。


手水鉢
一段目に大きな手水鉢があります。


井戸の跡
手水鉢の側に井戸の跡があります。水は今もしみだしています。


神体石
視えない神を視ようとするとき、神はこのような姿をとるのでしょう。


神体石
ここ(山の中腹)が「奥」の院となるのは、金剛福寺が下(現在地)に降りてきて以降のことです。それ以前は、ここは「奥」ではなく、「奥」は、もっと上(頂上)にありました。



かつての「奥」(頂上)に向かって、さらに登ります。ここからは、すこし急になりますが、長くはつづきません。


巨石
神域めいてきました。


石鎚神社
石鎚神社です。結界が張られています。これより上が、「警告」が言う「頂上付近の神域」に当たるのでしょう。・・・この先には行けません。


巨石
すぐ先に巨石群が見えています。残念、まことに残念です。この先こそが「奥の院中の奥の院」です。
頂上からは海が見えるでしょう。やがて補陀落渡海を生むに至る原風景が、そこには在るはずです。
・・・やむをえず、来た道を下ります。


唐人駄馬へ
鳥居から1キロほど歩くと、左に入る道があります。この道は松尾、あるいは「西臼はえ」に至る道です。下で遍路道に交わります。



道の所々で海が見えます。沖の島方向です。


唐人石
唐人駄馬? なぜ「唐人」なのか、その地名由来はわかりません。
「駄馬」は、馬が駆けるような平地をいうのでしょうから、「唐人駄馬」は、「とうじん」にかかわる、開けた場所、ということになります。そこに在る巨石が「唐人石」です。


唐人石
唐人駄馬は、縄文早期に始まる複合遺跡なのだそうです。7000年前の「けつ状耳飾り」(環に切れ目がある耳飾り)から、有史時代の須恵器片に至るまで、さまざまの石器、土器片が出土しているといいます。


唐人石
約6000年前の縄文前期、海岸線は今より10-15メートル高く、・・・人々は南向きの斜面丘陵に続くこの地に住居を定め、海辺に魚貝を獲り、山野に猟をしたことであろう。巨大な花崗岩が積み重なる岩群は、その下に幾つもの空間をつくり出しているが、これは自然が原始の人々に与えたビルであり、もの見の塔であり、城塞でもあったのではなかろうか。・・・説明板は記しています。


唐人石
陽に照らされた花崗岩の、白く輝く巨石群は、航海人たちの「目当」であったと言われています。
一説には、太古、南の海から黒潮に乗ってやってきた人たちが、巨石を「目当」に上陸。日本人の先祖の一部となったとのことです。「唐人」(外から来た人)の名の興りかもしれません。


唐人石
しかし若者たちにとっては、「遺跡」や「目当」よりも、「パワースポット」とか「ミステリースポット」としての知名度の方が高いようです。お定まりの天体観測所説などもあります。


唐人石
来訪者の多くは若者でした。狭い通路ですれ違うので、つい声を掛け合うことになりますが、皆さん神妙に応対してくれました。


唐人石
祭壇である可能性が考えられています。前の二つの岩には、人手による移動の形跡が見られるそうです。


唐人石
カミソリ石は自然石です。加工の跡はないとのことです。


ストーンサークル広場
ここには世界最大級のストーンサークル(祭祀の場?)が在ったとされています。公園化工事のとき、そうとは知らないブルの運転手が、邪魔な石だとばかり、壊してしまったのだとか。・・あとの祭だ~。


牧場
牧場を撮りたかったのではありません。
撮りたかったのは、点々とある大きな石の露出です。足摺岬周辺の森には、唐人駄馬の他にも、幾つもの巨石群が隠れているそうなんです。


下の景色
巨石群に別れを告げ、道を下りました。松尾の家々が見えます。


遍路道
遍路道に復帰しました。中浜を経て、清水、竜串、月山神社へと向かいます。

ご覧いただき、ありがとうございました。
更新予定は3月24日です。四週間後の更新となります。

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4 コメント

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♬ 名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実一つ… (天恢)
2016-02-28 10:25:10
 「1月は行く、2月は逃げる・・・」ということで、過ゆく歳月の早さを年齢と共に感じさせられます。 今回も「井の岬~唐人駄馬」を楽しく読ませていただきました。
 さて、タイトルの「♬ 名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実一つ…」ですが、民俗学者・柳田國男の伊良湖岬(愛知県)での逸話を元に島崎藤村が作詞し、現在も歌い継がれている名曲「椰子の実」です。 天恢が入野松原から広々とした入野浜に入り、はるか沖合に目をやるとナント黒くて丸い椰子の実がゴロゴロ波のまにまに漂っていました。 この椰子の実の正体はじっと大波を待つサーファーたちでした。 高知の遍路道沿いにある宍喰・生見と入野松原・田野浦は絶好のサーフィンポイントだそうで県外ナンバーの車が沢山駐車していました。 サーファーたちは「ゴミは残してもお金は残さない」と地元では不評のようですが、「枯れ木も山のにぎわい」で過疎化阻止と大目に見ることにしましょう。 
 ここ黒潮町は、「私たちの町には美術館がありません。美しい砂浜が美術館です」と、豊かな自然と、そこに暮らす人びとの営みをありのままの風景を売りとするユニークな町ですが、この砂浜で、Tシャツアート展、潮風のキルト展、漂流物展などを1990年頃から開催しているそうです。 「楽しく遍路」さんが見られた「らっきょう畑」も砂浜美術館の展示作品になりそうですから一度はゆっくり訪れたいところです。

 さてさて、今回ブログの最高場面ですが、37番岩本寺→38番金剛福寺→39番延光寺の長い遍路道には風光明媚な幡多地区ですから見所・名所は沢山在ります。 多くのお遍路さんの目には留まらないようですが、足摺岬は巨岩がゴロゴロしていて、その中にあってパワースポット「唐人駄馬」に圧倒されました。 この「唐人駄馬」は遍路地図にも記載はありませんし、このブログで初めて知ったしだいで、足摺観光のご本家である岬や金剛福寺を凌ぐ人気スポットのようですね?
 今や観光には欠かせない霊的な力が満ちた?「パワースポット」ですが、天恢の故郷近くの宮地嶽神社(福岡県)は、最近『嵐』の出演するJALのCMで参道が「光の道」と視聴者が感動して、パワースポットの神社として大勢の人が押し寄せているそうです。 どうも「パワースポット」とか「ミステリースポット」の現象がこうも増えてくると「信仰」と「観光」は切っても切れない関係になって、聖地巡礼の遍路のあり方も影響が出そうです。
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黒瀬川流れる岸辺・・ (楽しく遍路)
2016-02-29 12:23:35
毎回、ありがとうございます。励ましをいただきつつ、ブログを続けています。

藤村は一個の椰子の実から「名も知らぬ遠き島」を想い、詩を書きました。柳田国男は一個の椰子の実を
「漂着物」と観じ、研究の対象を広げました。「漂着物学」の始まりです。
私が漂着物学について知ったのは2003年でした。初めて入野を歩き、砂浜美術館でボランティアとして働く青年から教わったのでした。漂着物学会は2001年、発足した小さな学会です。柳田国男の着想を継いでいます。
曰く、・・漂着物は、民俗学や歴史学、地理学、生物地理学、生態学、海洋学、環境科学、環境教育など、さまざまな学問分野に関係しており、それらを横断的にあるいは学際的に研究するのが漂着物学です。・・なお、その機関誌名は「どんぶらこ」だとか。

黒瀬川は土佐沖を流れる大河。川幅およそ200キロ、深さは千メートルにもなんなんとすると言います。その岸辺には、さまざまのものが漂着します。大きな桃は流れてきませんが、死んだ鯨は流れてきます。砂浜に埋めた後、骨格を取り出し、美術館の展示作品としたそうです。むろん生きた潮吹く鯨も、随時、気の向くままに特別展示作品としてやってきます。小さいものではライターや貝殻。ブライアンの手紙も流れ着きました。テキサスに住む少年が瓶に封じ込めた手紙です。手紙を書いたときブライアンは11才、砂浜美術館員が拾ったときは16才になっていたと言います。この話は中学の英語の教科書で扱われました。

島国は、海に閉ざされた国なのか、それとも海に囲まれて、四方に開けた国なのか、・・土佐を遠流の地と定めた都人たちが前者と考えていたのは、まちがいないでしょう。
しかし四面環海、この列島は、黒潮、親潮、対馬海流、リマン海流など、海の道(それも動く道)に恵まれています。黒潮に乗ってきた人たちと、リマン海流に乗ってきた人たちが、この列島のどこかで邂逅、助け合って暮らすようになったなんて、考えるとわくわくします。
あの島を国有化するとか、この島を埋め立てるとか、こっち島には国の旗を立てるとか、・・・「国」とは、やっかいなものですね。
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広葉樹林 (枯雑草)
2016-02-29 19:29:43
いつも楽しく拝見しています。
それと、コメントに書かれた潮のおくりもののお話、こちらもおもしろうございました。
さて、白皇山、私は8年前に行きましたが、神石や結界の注連縄もその時は見なかったように思います。山頂の大石の上に石鎚神社の小社があり(残念ながら樹木に遮られ展望はありません)、その少し下に倉庫風の建物(写真に撮られている)、ここが白皇山、真言修験寺の跡かと思っておりました。
宿の「旅路」に戻り、お母さんから聞いた話。娘の頃白皇山山麓で木の実を拾っていたこと、豊かな広葉樹林が多くの命を育てているのよ・・という話。
そんなことを想い出していました。ほんとに羨むような広葉樹林でした。
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笠置峠が楽しみ (楽しく遍路)
2016-03-01 12:42:12
枯雑草さん ありがとうございます。
・・・豊かな広葉樹林が多くの命を育てているのよ・・というお話。
そんなような話を私も書きたくて、樫の木の写真をアップロードしたのでしたが、記さずじまいでした。いまさら書きこんでも、お母さんの言葉に勝るはずはなく、そっくり写真の所に転載させてください。

やはり上まで行けたのですね。金剛福寺の奥の院(跡)を訪ねようとして、「石鎚神社 石鎚本教足摺岬教会」 に阻まれるというのは、なんとも残念ですが、いきさつはあるのでしょう。
倉庫風の建物、てっきり石鎚神社と決めてかかっていましたが、実は中を覗いたわけではなく(密閉されていました)、確かではありません。側に「新築世話人」の石碑が建っていて、昭和16年の年号が刻まれていましたが、なんの新築かは、わかりませんでした。

枯雑草さん、私は近々、宿毛から歩こうと考えていますが、平成26年、枯雑草さんが歩かれた笠置峠越えを、とても楽しみにしているのです。お稲さんや二宮敬作さんらに、私も会いたいと願っています。会えるでしょうか。
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