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8日目 平成21年(2009)4月27日
さかもと
「さかもと」の朝は、快晴です。
今日は別格3番・慈眼寺に登ります。私は二度目、北さんは初めての参拝です。
その後の行程は未定ですが、「さかもと」から横瀬(鶴林寺への登り口がある)までの旧遍路道は、ぜひとも歩いてみたい道です。また櫛渕八幡神社にも、立ち寄ってみたいと考えています。この神社の楓(ふう)の木を、北さんに見て欲しいのです。
二宮金次郎像
元坂本小学校の「校庭」を見下ろす位置に、二宮金次郎像が建っていました。
かつては校門脇に立って、登下校する子供たちの挨拶を、日々、受けていたのでしょう。
拡大
ところで(写真を見て気づいたのですが)、この金次郎像は金属製に見えます。まさか戦中の「金属類供出」を免れたとは思えませんから、おそらく戦後になって造られた、二代目金次郎なのでしょう。
戦時中の「金属類回収令」は、寺の梵鐘までもかっさらっていったといいますから、二宮金次郎像といえども例外ではなかったでしょう。因みに渋谷の忠犬ハチ公像もまた、供出の憂き目に遭っています。今あるハチ公像も、二代目です。
坂本八幡神社
「さかもと」の側に、坂本八幡神社があります。毎年9月23日秋分の日に「七社七鳥居参り」が催行される、珍しい神社です。
写真は、「七鳥居」が建つ石段の、三の鳥居付近です。「さかもと」より若干高い位置にあります。
坂本八幡神社
Wikipediaは「七社七鳥居参り」の項で、坂本八幡を次の様に紹介しています。
・・古くより、川を渡らず、石鳥居を七つくぐり、七つの御社を参拝すれば、中風(脳血管障害など)にならないという言い伝えがあり、坂本八幡神社は、この条件を満たした参詣のできる全国でも数少ない神社である。
写真は、六ノ鳥居、七ノ鳥居、そして本殿です。
坂本八幡神社
(帰途に撮った写真ですが)「さかもと」より下に位置する、一ノ鳥居、二ノ鳥居です。これより七基の鳥居を潜り、鳥居毎にある七社にお参りをする、・・これが「七社七鳥居参り」です。
ひな壇
旧県道16号・徳島-上那賀線を歩いていると、
・・何だこれは? ・・北さんが尋ねました。
これは「雛壇」なのです。
毎年3月、勝浦町が開催する「ビッグひなまつり」に、坂本地区も参加しています。坂本が勝浦町のドン詰まりであることを逆手に、「おひなさまの奥座敷」と銘打って、参加しているのです。写真の竹組は、そのとき用の雛壇なのです。
雛人形
この写真は、「ビッグひなまつり」当日のものです。写真右側に、上掲の雛壇が写っています。→(H19春1)
下の景色
この辺の標高は、130㍍ほどです。
穴禅定や慈眼寺本堂は標高650㍍ですから、これより標高差500㍍余を登ることになります。なお大師堂、納経所は本堂よりも約100㍍低く、標高550㍍に在ります。
敬老会
散髪屋さんの窓に、・・敬老会出席のため休みます。・・の張り紙がありました。昨日、「さかもと」で敬老会が催されたのです。その張り紙が、まだ朝早いので、はがされていません。
「さかもと」は、町民にとっても、「ふれあいの里」であるようです。
山道への登り口
ここから県道を離れ、山道に入ります。
この登り口は、散髪屋さんから20㍍ほど先、右側にあります。散髪屋さんを目印にすれば、見逃すことはないと思います。なお150㍍ほど先には旧坂本トンネルがあるので、もしトンネルが目に入ったら、行きすぎた!ことになります。
山道
この山道を自転車で駆け下ってきた男子中学生がいました。彼らについては、→(H19春2)からご覧ください。坂本地区は、子供たちを「地域の子」として育てようとしています。その姿の一齣を記してみました。
下の景色
標高を上げてゆきます。
遍路道
遍路道が庭先どころか、お宅の縁側をかすめて通っています。
・・なんでこんな所に家を建てたか、不思議に思うじゃろうが、それは必要があってのことよ。
こちらのおじいさんが、こんな話をしてくれたことがありました。→(坂本慈眼寺)
下の景色
ミカン畑が広がっています。坂本は、徳島県の温州みかん発祥の地なのだそうです。
その坂本のミカン業を、昭和56年(1981)、気象災害が襲いました。ほとんどのミカンの木が枯死したといいます。→(H19春1)
道標
左 おくのいん道
「おくのいん」は、20番鶴林寺の奥の院を言います。慈眼寺のことです。
案内
一度町道に上がり、500㍍ほど歩きます。
おへんろさん休憩所
町道を降りると、その先に「おへんろさん休憩所」がありました。
電気も引かれていました。地元の方が管理されているそうでした。
慈眼寺の山
慈眼寺の在る山です。石灰岩の露頭が見えます。
そこに生まれた鍾乳洞。それが「穴禅定」の修行場です。
慈眼寺
別格3番慈眼寺です。
ただし、ここに在るのは、大師堂、不動堂、納経所などで、本堂、穴禅定へは、もっと登らなければなりません。
大師堂・納経所
右に見える納経所で、北さんは穴禅定の申し込みをしました。荷物をロッカーに預け、穴禅定用の「修行白衣」に着替え、ロウソクを受け取って登ります。うまい具合に、待ち時間はほとんどありませんでした。
なお私は、前に一度経験しているので→(H19春2)今回は遠慮させていただきました。
不動堂
穴禅定に向かう北さんへの庇護を、不動明王に願いました。
階段左脇に、赤いテープを巻いた二本の柱が見えますが、これは穴禅定の路幅を示す石柱です。この幅をすり抜けることが出来ない人は、穴禅定は遠慮した方がいいというわけです。北さんは、ゆうゆう合格でした。
1孝行門
本堂と穴禅定への登り口です。
この門の上には、白衣観音像が建っています。
穴禅定前
押しつぶされそうな重量を感じつつ、一列をつくります。
先達さんが先頭で、一番つっかえそうな人が、その後につきます。つっかえた時、先達さんの指示が直に届くよう、用心しているです。それより後ろの人への指示は、伝言で伝えられます。
・・指示は正確に伝えるように。・・との注意があり、緊張が一行にゆきわたりました。
関門
中央の階段を上がり、左側の祓い所に入ります。入洞の前に、手や口を清めるのです。なお、この入口にも通り柱があります。下でのチェックに漏れた人用でしょうか。
話は違いますが、シトー会修道院の食堂入り口にも、このような「通り柱」が立っているそうです。ただし、こちらは飽食の戒めです。お腹がつっかえるほど食べている人は、食堂に入れてくれないのです。
入洞
先達に導かれ、入口に向かいます。
帰着はおよそ2時間後です。このグループはやや人数が多いので、時間がかかるのだといいます。
本堂
外に残った私は、ゆっくりと本堂にお参りします。
おんまか きゃろにきゃ そわか
ここでのお参りは、ご本尊・十一面観音菩薩の御真言を唱えながら、本堂を三回、廻ります。
景色
暗闇の中、穴禅定修行中の北さんをよそに、私は、広がる空、輝く光を楽しんでいます。
境内
お先に下まで降りて、藤棚の下でオニギリを食べることにしました。
無事帰還
北さんが降りてきました。
第一声は、・・身体が硬くなっているのが、わかったよ。・・でした。
それとわかせてくれるような、むずかしい姿勢をとらなければならなかった、ということでしょう。ご苦労様でした。
下り
下山します。
ザックの本体を「さかもと」に預けてあるので、一度立ち寄り、それから旧遍路道を下ります。
下り
軽快な下りです。道標もしっかりとついています。
つつじ
旧県道16号近くまで降りてきました。無粋な擁壁が、花壇になっています。
下り
旧県道16号です。
すぐ先を右に下ると「さかもと」です。
着
帰りました。穴禅定の2時間余を含めて、5時間半の行程でした。
遊山箱
コーヒーをいただきながら、たまたま弁当箱の変遷を話題にしていたら、それを聞いていた「さかもと」の人が、・・こんなのもありますよ。・・と持ってきてくれました。
遊山箱(ゆさんばこ)です。
・・春の節句は学校が休みとなり。男の子も女の子も、連れだって遊びに出ます。レンゲ畑で寝ころんだり、追いかけっこをしたり。
・・その時持って行くのが遊山箱です。右が男の子用、左が女の子用です。
遊山箱
・・いっぱい遊び、お腹が減ると、遊山箱のご馳走を食べます。下段には巻きずし、中段には煮物、上段は寒天などの甘い物が入っているのです。
・・ぜんぶ食べてしまっても、心配はありません。どこか近くの家に行って頼めばよいのです。その家は喜んで、自慢のご馳走を詰めてくれます。
こんな慣わしが、昭和40年代まででしょうか、つづいていたそうです。
景色
ミカン畑の中を下ります。
道標
手差し お久乃以ん (おくのいん)
慈眼寺は今日では、まずは四国別格二十霊場の第3番札所、と紹介されます。「鶴林寺の奥の院」としての紹介は、「別格」に次いでなされるのが普通です。
しかし四国別格二十霊場が定まったのは、昭和43年(1968)のことでした。「鶴林寺の奥の院」としての期間の方が、「別格3番」よりもはるかに長いのです。この辺の道標はすべて、「おくのいん」となっています。
用品
四国88ヵ所巡拝用品あります。
巡拝用品店がありました。正直、驚きです。この道は巡拝用品店が成り立つほど、多くの遍路が歩いた道だったのです。
無賃宿
遍路○賃宿
またまた驚きです。今度は遍路宿がありました。
拡大
○の字を推定すると、「遍路無賃宿」ではないでしょうか。
不動明王
不動明王が白布をまとっています。
あわせて、四角の白布が献じられており、その片隅には、献じた人の干支と年齢が墨書されています。
不動尊
家内安全など、願いをするとき、新たな白布に着替えてもらい、四角の布を献じるのだそうです。
白布をまとい、いかにも涼しげなお不動さんです。
掃除用具入れ
お不動さんの側に、こんな物入れがありました。
お世話をするための、用具が入っています。
休憩コーナー
与河内(よこうち)農協前
徳島バスのバス停です。徳島駅から(坂本より一つ奧の)黄檗(きはた)までの路線ですが、坂本→黄檗まで行くのは、(リライトの令和5年現在で)平日5本です。
道標
左 自此 灌頂滝江 (ここより 灌頂の滝へ)
この瀧に見える七色の虹を、人は「不動の来迎」と呼ぶそうです。ただ、虹を見られる時間が午前8:00-10:00頃なので、歩きでは、なかなか難しいところがあります。
星越庵
(見落としましたが)庵の前に、延享2年(1745)の標石が在り、次の様に、潅頂の瀧への案内と星越庵の由緒が、記されているそうです。
左 自此 潅頂瀧江 六十三丁余
此堂御本尊大師作地蔵願主大菩薩
為四国遍路念一度供養與河内村星越庵
南無大師遍照金剛願主法師円心造塔
延享二乙丑年三月念一日
波切り不動明王
また不動明王です。
土地のおばあさんが、・・この辺はお不動さんへの信仰が深いところなんです。・・と話してくれました。そういえば慈眼寺にも、不動堂がありました。
なお、「お不動さん」と親しまれる不動明王は、大日如来の化身とも言われています。
道
横瀬(よこせ)に近づいてきました。
水遣り
坂本川と道路の間の土地を有効利用し、畑にしています。
水遣りをしていたおばあさんが、お不動さんの話などをしてくれました。
鍛冶屋さん
覗いていたら親方が出てこられて、お話がうかがえるばかりか、鍛冶場まで見せてもらうことが出来ました。
・・ウチは、まあ、いわゆる「野鍛冶」ですね。包丁なども作っているから「生活鍛冶」でもありますが。
・・私で四代目(だったと思う)になります。幸い息子が相槌を打っているので、跡を継いでくれるとは思うのですが。
・・でも、原材料が枯渇しているのは、悩みですね。継いでくれても、原材料がなくてはねえ。
鍛冶屋さん
西部劇では、鍛冶屋さんはたいてい、銃を持つ勇気がない、臆病な男として登場させられています。真っ黒になって働く格好良くない男が、鍛冶屋= blacksmith です。
しかし日本では違います。今では歌われることもない唱歌「村の鍛冶屋」の二節は、次のようです。
♫あるじは名高い いっこくものよ
早起き早寝の やまい知らず
鉄より堅いと 自慢の腕で
打ち出す刃物に 心こもる
草取り名人
親方は、・・野鍛冶の世界は厳しい。・・と言います。
・・鈍った腕では、たちまち愛想をつかされますからね。いいものを打っていれば、遠方からでも買いに来てくれますが、だめなら、隣の家の人が何里も先の鍛冶屋へ、買いに行ったりするんですから。これが野鍛冶の世界ですよ。
写真は、私が(平成26年に)購入した「草取り名人」です。先が尖っているのは、親方の工夫です。草を根こそぎ抜くことが出来ます。それに、狭い溝などに生えた草も取れるのです。だから「名人」です。
合流
左の大きな川が勝浦川。右から合流するのが坂本川です。旧遍路道は、基本的にこの坂本川に沿っています。
橋の柱
上に架かる橋は、横瀬大橋です。
鶴林寺
適当なところまでバスを利用することにし、バス待ち時間中、うまい具合に見つかった喫茶店に入りました。
ご主人に、・・ここから鶴林寺は見えますか・・と尋ねると、外に出て、教えてくれました。
ちょっと見にくいですが、一番奥の山の右寄りに、二本アンテナが立っています。そこが鶴林寺なのだそうです。
景色
ご主人に「はな・はるフェスタ」で阿波踊りを見たことを話すと、・・うーん、阿波踊りねぇ・・と、やや複雑な表情です。
・・阿波踊りはね、もともとは盆踊りなんですよ。だけど残念ながら、あの阿波踊りは、もう盆踊りじゃないですね。盆踊りで、あんなド派手な衣装を着ます?列を組んだりもしませんでしょ。阿波踊りは全国化して、盆踊りではなくなりました。
櫛渕八幡神社鳥居
バスを降り、櫛渕の八幡神社に寄りました。楓(ふう)の木を見るためです。
楓(ふう)と呼ばれる木は、公園木などとして、けっこう植わっています。私の住まい近くでは、浦和の桜草公園や北浦和公園などにも、植わっています。
しかし櫛渕八幡神社の楓(ふう)は、それらとは違う楓(ふう)なのです。
楓(ふう)
公園などで見かける楓(ふう)が北アメリカ原産で、「アメリカ楓」と呼ばれるのに対し、櫛渕八幡の楓(ふう)は、中国原産です。
どちらも楓(ふう)とは呼ばれていますが、外見的にも、はっきりと違っています。
アメリカ楓は、葉が5-7裂、ボロボロとはがれやすい樹皮をしていますが、中国原産・櫛渕八幡の楓(ふう)は、葉は3裂、ゴツゴツした樹皮をしています。
楓の実
中国原産の楓(ふう)の、日本への渡来は、江戸時代、吉宗(1716-45在職)の時、中国の清朝皇帝から贈られたのが最初、と言われています。楓(かえで)と書いて「ふう」と読むのは、中国名・楓香樹(ふうこうじゅ)に由来すると思われます。
宮廷に植えられていた貴木だとのことで、江戸城、日光東照宮、上野寛永寺(徳川家の菩提寺)などに植えられたそうです。
中国原産の楓の葉
さて問題は、そんな貴木ともいえる楓(ふう)が、なぜ此所・立江に植わっているのか、なのですが、これについては、少し調べてみた結果を、→(H19春1)に記してみましたので、よろしければご覧ください。江戸城などに植えられた楓(ふう)のその後についても、記しています。
大楠
楓(ふう)のことばかりを記しましたが、櫛渕八幡には、楓(ふう)に並ぶの名木が、もう一本あります。鳥居の左側に立つ、大楠です。樹齢700年といいます。
何年か前に大枝の一本が枯れかかったらしく、大きな「切除痕」が見えますが、にもかかわらず道にまでせり出して、今も元気に育っています。
地神様
境内に地神様が祀られていました。
五角柱の地神様は、田圃の脇や神社の境内の隅の方に、ポツンと立っているものが多いのですが、櫛渕八幡の地神様は、きちんとした「構え」の中に立っておられます。
しかも石柱には神名だけでなく、その御神徳までが添えられています。
地神様
農業祖神 天照大神
五穀護神 大己貴命
地神
五穀祖神 少名彦命
土御祖神 埴安媛命
地神様
(土御祖神 埴安媛命)
五穀祖神 倉稲魂命
鮒の里
ご主人とお会いするなり(挨拶もなく)楓(ふう)の話になりました。この間、貴重な情報をいただいていたのです。
また「あせんだ越え」の情報もいただきました。私は平成26年春、この道を歩くことになります。→(坂本慈眼寺)
9日目 平成21年(2009)4月28日
徳島駅前
立江から徳島に移り、今日は「信仰 健康 観光」の観光です。
宿の近くからバスで、徳島駅に向かいました。朝だから混んでいるかと心配したら、女将さん曰く、・・ガラガラよ。・・確かにガラガラでした。
大雄山興源寺(こうげんじ)
大雄山興源寺(こうげんじ)は、徳島藩主蜂須賀家の墓所です。
蜂須賀家の墓所はもう一ヵ所、眉山・万年山にもあるのですが、こちらは時間の都合で行けませんでした。
万年山墓所は、明和3年(1766)十代藩主・重喜が造営したもので、以降十三代までは万年山墓所に埋葬され、興源寺には遺髪が埋葬されているといいます。万年山の墓が「埋め墓」で、興源寺の墓を「拝み墓」とした、と考えられます。
なお仏式の興源寺墓所に対し、万年山墓所は、儒式であるとのことです。十代藩主・重喜が儒学に傾倒していたことによるそうです。いつか訪ねてみたいものです。
藩祖家政墓
藩祖・蜂須賀家政の墓です。
なお、おそらく蜂須賀家では我々に最もなじみ深いであろう、家祖・蜂須賀正勝(蜂須賀小六)の墓は、なぜか万年山に在るのだそうです。少年時代の秀吉・日吉丸との矢作橋での出会いなどなど、様々に語られる人物です。
二代目藩主墓
二代目藩主・蜂須賀忠英(ただてる)の墓です。
他にも、何枚もの墓の写真がありますが、ここでは割愛します。
徳島城石垣
徳島城を訪ねました。
徳島城は、天正14年(1586)、蜂須賀家政が完成させた平山城です。秀吉によって阿波に封ぜられた家政は、最初、その居城を(13番大日寺側の)「一宮城」に定めましたが、→(H26春6)どうやらその段階で家政は、一宮城が既に古い時代の城であることを、識っていたようです。
これからの城は、戦のためだけでなく、国経営(政治)の中心としても機能しなければならないのです。それには「城下町の形成」が欠かせません。一宮城は、戦城としては難攻不落ですが、城下町の形成には不向きだったのです。
景色
家政は即、徳島城の築城にかかってします。完成は、ほぼ1年半後でした。早い完成と言えます。おそらく、次なる九州(島津氏)攻め遂行のため、四国の安定が急がれていたのでしょう。
秀吉は、最も信頼する戦国大名の一人・蜂須賀家政を阿波に置き、土佐一国に封じ込めた長宗我部への押さえとしたのです。家政は美事、その期待に応えたと言えます。
石垣
ただし蜂須賀は、やがて温故の豊臣を裏切ります。関ヶ原でも大坂の陣でも、徳川方に与するのです。
その功績で蜂須賀は、秀吉からもらった阿波国を、引きつづき家康によっても安堵され、その阿波支配は明治維新まで続くことになるのですが、・・
枯れ木
反して長宗我部は、・・
かつての敵方・豊臣方に与したのですが、結果は悲惨でした。当主・盛親とその子は刑死し(武士としての名誉ある死は与えられなかった)、長宗我部氏の嫡流は絶えてしまいます。
本丸跡
本丸跡は広場になっていて、年配のおばさん、おじさん達が、健康ダンスをやっていました。
モラエス饅頭
モラエス(ヴェンセスラウ・デ・モラエス)は、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)と同時代の人で、ポルトガルの海軍軍人、外交官、そして作家でした。
ハーンほどは知られていませんが、欧米社会へ日本を紹介した功績は、ハーンと同等以上に高かったとも言われています。
外交官を引退後、大正2年(1913)から徳島に移住。昭和4年(1929)、徳島で没しました。眉山の上に、モラエス記念館があります。
追記:天恢さんからのご指摘です。・・『眉山山頂に1976年開設の顕彰施設・モラエス館があったが、老朽化で2015年に閉館』だそうですが、資料は阿波おどり会館、徳島大学、徳島駅などに分散してあるようです。
河畔
新町川沿いに歩き、船巡りの乗り場に向かいました。撫養航路(むや)が復活したと耳にし、これに乗ってみようと思ったのです。
川伝いに鳴門・撫養まで行って帰ってくるというのですから、途中、吉野川も横断することになります。これはもう乗らない手はないのです。
図書館
河畔に、こんなものがありました。「みんなの公園図書館」です。
開けると、大人向けの本、子供向けの本が並んでいました。好きな本を取り出して、側のベンチで読んでは返すのだそうです。
遊覧船
係の人に訊いてみると、撫養航路は、往復4時間なのだそうでした。
残念!これでは、あきらめるほかありません。飛行機はもう予約しています。やむなく、一周25分の「ひょうたん島コース」で妥協することにしました。徳島市の中心部が乗っかっている中洲を「ひょうたん島」と呼んでおり、これを船で一周するコースです。
さんばし
「新町川を守る会」(NPO)が運営しており、運賃は無料です。ただし保険料として100円を払います。船は、地元企業の応援も得て、購入したのだそうです。
新町川
かつて新町川の汚染は、ひどかったといいます。
・・時間をかけて、きれいにしてきたんですわ。こうして(観光客に)見られよる思たら、よう汚さんじゃろ、そないにも思てなあ、やっとるんですわ。
カキ
この辺は汽水域で、両岸にはカキが付着しています。
川
この辺の小型船舶用泊地を、「ケンチョピア」というのだそうです。県庁(ケンチョ)近くの桟橋(ピアー)ということのようです。
奥に眉山(びざん)が見えています。
流政之
(五剣山の号でもご紹介しましたが)流 政之(ながれ・まさゆき)さんの作品、「ICCHORA(イッチョラ)」が見えました。
瀬戸内寂聴さんの文化勲章受賞を記念して、制作したものだそうです。庵治石を鳥居型に組んでいます。
帰りのバス
さて、いよいよ帰宅です。
♫この旅終えて 街に帰ろう・・
何はともあれ「結願」をはたすことができました。おまけの「観光」もすることができました。
お大師さま、四国の人たち、ありがとうございました。
飛行機は最終便を予約したので、帰宅は、23:00ころでしょう。
空から
というわけで、平成21年(2009)春の結願遍路シリーズは、今号をもって終わりとなります。
長々とご覧いただきまして、ありがとうございました。
次号からは、同年冬に歩いた土佐路のリライト版を、ご覧いただきます。更新予定は、年末年始を挟むので、いつもより一週遅れの1月17日とします。
すこし早いですが、皆さま、どうか良いお年をお迎えください。
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天恢はこの秋に傘寿を迎えて、否が応でも終活のときを迎えました。 日本では65歳以上を高齢者、そのうち65~74歳を『前期』、75歳以上は『後期』と定義して医療にあたっていますが、こんなに高齢者が増えてくると深刻で、若い世代の負担減のため、『前期』はもっと働け、『後期』は早めに『末期』を迎えるようにとの誘導があるかも・・・。
さて、今回も「楽しく遍路」さんが 平成21年秋に歩かれたシリーズ最後の「さかもと 慈眼寺~徳島」までをコメントすることにします。 やはり、結願後に、ここまでやれたのは「若さ」と「好奇心」と「ゆとり」からでしょうか?
ブログにあった 『「さかもと」から横瀬(鶴林寺への登り口がある)までの旧遍路道は、ぜひとも歩いてみたい道です』 に惹かれて、ブログに掲載された全写真をGoogleマップのストリートビューや航空写真モードを駆使して追跡してみました。 実は信じられないことですが、当時の景観はもちろん建造物はそれなりに現存していました。
この旧遍路道は、 ①道標 手差し お久乃以ん (おくのいん)あたりからスタートします。 ②巡拝用品店と ③無賃宿ですが、どちらも廃業で、探すのに苦労しましたが、建物は現存していました。 ④白布をまとった不動明王、 ⑤与河内(よこうち)農協前の休憩コーナー、 ⑥波切り不動明王、 ⑦道標と星越庵 この庵は遍路道から奥まったところにあって見落とすところでした。 ⑧(横瀬に近づく)道、⑨水遣り、 ⑩鍛冶屋さん(大久保鍛冶屋としてグーグル地図にも載っています)、⑪合流(勝浦川と坂本川) で、ブログに『旧遍路道は、基本的に この坂本川に沿っています』 とのことで終点になります。
オマケになりますが、横瀬大橋を渡られ、棚野でのバス待ち時間中に入った喫茶店は「オレンジ」? ご主人に鶴林寺の所在を尋ねられています。 こうして、まだまだブログは続きます。 暇つぶしと思われますが、グーグル地図での追跡は楽しいものです。 もう撮影時から15年近く経っていますから当時の佇まいはすっかり悪い方へ変容しています。 家並みは何とか残っていますが、新しい建造物が出現すると確認が難しくなります。 また、意外に役だったのは電柱で、これは現在の「お不動様」で地図検索では不動の位置づけです。
さてさて、今回のタイトルは「♪もういくつねると お正月 お正月には~」ですが、昔は誰もが歌った童謡「お正月」です。 現在を生きる子ども達は、どんな気持ちでお正月を迎えるのでしょうか? コロナは終息に至らず、何やかやで四国にも行けませんでした。 無理を言って「楽しく遍路」さんをお誘いして、忘年会のつもりで群馬の温泉へ出掛けました。 飲み放題付きのバイキングでしたが、飲み足らず部屋飲みまでしました。 これはもう今年最高の飲み会となりました。
新年は辰年、皆さまもどうぞ良いお年をお迎えください。
ぜひ、来年も誘ってください。
さて、・・結願後に、ここまでやれたのは「若さ」と「好奇心」と「ゆとり」からでしょうか? ・・について、少しコメントさせてください。
まず「若さ」ですが、私はこの時68歳で、おっしゃるとおり、まだ「若さ」がありました。(あったと思っています)。
思い出してみれば、60代から70代前半にかけての私には、そもそも自分が老人であるとか高齢者であるとかの、しっかりとした自覚はありませんでした。幸いにして運動能力に急激な落ち込みがなく、頭もまあまあ働いていたおかげで、ついつい「画期」を認識せず、壮年期の気分を長く引きずったのだと思います。
・・赤いチャンチャンコを着て好々爺を演じるなど、まっぴらごめん・・などと高言したのは、その頃のはずかしい記憶です。
(細かくは略させてもらいますが)その「若さ」は、けっして人に誇れるような「若さ」ではなく、「バカさ」と言い換えてもいいような、酷いものでした。今でも入る穴を探したいくらいです。
ただ、そんな「若さ」ではあっても、おかげで四国遍路を発心することができたのだと思えば、その「若さ」は本当に「有り難い」ものであったのです。
・・元気に歩けて、お幸せですね。私も歩きたかったのだけど、
道中、こんな言葉をいただくたびに、私は我が身の幸せを思い、無駄遣いしてしまった「若さ」を惜しんでいます。以上、これからはそういうことのないよう、自戒しつつ記しました。
「好奇心」 これにかんすることは、そのほとんどを、北さんから教わりました。北さんの動きを見て、倣ったのです。
おかげで私は今、「楽しく遍路」をすることができています。北さんには本当に、感謝です。
その要諦は、
見過ごさないこと、
だと思いました。
好奇の目は、誰しも同じように持っています。しかし、たいていの人は、なんだろう?と疑問を持ちながらも、そのまま見過ごしてしまいます。そのため、好奇の心は満たされることはなく、したがって好奇心が膨らんでゆくこともありません。やがて好奇の目を失うことにも、つながりかねません。
しかし北さんは違いました。
・・何だ、あれは?・・何かを見つけると北さんは、それが少々遠くであっても、厭うことなくそれに近づき、前から後ろからそれを眺め、触り、必要なら人を探して尋ねます。
私はと言えば、行程を気にして先を急ぎたがるのですが、北さんはそうはしませんでした。遍路を始めた頃のアルバムに、連日のように記されている宿着の遅れは、そのほとんどが、寄り道や地元の人との立ち話が原因なのでした。
むろん宿に迷惑をかけているとは承知していますから、なんとか策を講じようとしましたが、好奇心を抑えることは、策の内には入っていませんでした。私達が知らず知らずに取りはじめた策は、あまり先を急がず、一日の歩く距離を短くすることでした。
「ゆとり」は、
残念ながらこれは、・・ある・・とは言えません。
私たちの道中は、基本的には、鵜の目鷹の目です。その意味で、せかせかしています。
もしそんな道中であっても、「ゆとりある遍路」と言えるなら、忙しい「ゆとり」ですが、・・ある・・ということになるのでしょうか。
だらだらと長くなってしまいました。天恢さんの「ストリートビューで歩く遍路道」についても書きたかったのですが、別の機会に譲ります。
でも、ちょっとだけ書くと、
そのうち「アバターで歩く88ヵ所」が実現するのでは、・・などと考えるのですが、どうでしょうか。「写し霊場」や「お砂踏み」のネット版です。
私のアバターと天恢さんのアバターが室戸岬で同宿。一献酌み交わすなど、面白いではありませんか。今では恐くて登れない石鎚の天狗だって、アバターなら平気の平左。身を乗り出して下をのぞくことだって、出来ます。