ワカキコースケのブログ(仮)

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笑点の山田クンのおかげでフランク・ザッパに近づけたの巻

2022-01-24 21:32:28 | 日記


去年(2021年)は、spotify元年だった。アルバム単位では120枚近く聴いた。
spotifyのどこがどう面白いかという話は、細かくなるので、またいずれ。

ただ、これだけサブスクにハマると、今後はCDやLPなどの現物(最近はフィジカルとも言いますね)が欲しくなくなるのでは……という当初の不安についてはハズレで、配信されていないものを見つけたら、多少値が張っても喜んで買うようになった。
去年、レコード屋さんに落としたお金は結局、この数年で一番多かった。
配信とレコードは、僕の中では敵対するものではなく、むしろ相乗効果を高めてくれる良い関係だ。

120枚近く聴いたなかでも、特に多かったのが、フランク・ザッパ。
ずっと食わず嫌いだったが、そういう存在を試しに聴いてみるのに、spotifyは本当にちょうどいい。

初心者向けとどこのガイドにも書いてあるのを中心に、以下のものを聴いた。

『アブソリュートリー・フリー』(67) ザ・マザーズ・オブ・インヴェンション
『ホット・ラッツ』(69) フランク・ザッパ
『“フィルモアのマザーズ” 1971年6月』(71) ザ・マザーズ
『興奮の一夜』(73) フランク・ザッパ&ザ・マザーズ
『ワン・サイズ・フィッツ・オール』(75) フランク・ザッパ&ザ・マザーズ・オブ・インヴェンション
『シーク・ヤブーティ』(79) フランク・ザッパ





うーん。もしかしたら、ザッパは面白いのかもしれない。
ただでさえ英語のヒアリング能力ゼロなのに、「難解な歌詞」「反体制的」とどこでも書いてあるので、どうにも敷居は高い気分は変わらないのだが、そのくせ、何枚も聴いてしまい、何度も聴いてしまう。
歌詞がわからないのは仕方ないとしても、やはりどうにも、鳴ってる音楽そのものに魅力がある。

それでも、ザッパのふざけたところ(歌詞がわからなくてもそれはわかる)は、なかなかパッとこなかった。
僕が、子どもの時から超が付くほど真面目人間だからだ。下品なネタで露悪的にふざけているものは、好きになれない生理の持ち主なのだ。

ボーイスカウトの活動に熱心だった小学生の時には、地区の優秀スカウト賞を受けた。いまだにこれが、人生最大の名誉。学校でも学級委員、ベルマーク委員、なんでもがんばった。
中学に入っても、教師の言うことはことごとく素直に聞いた。国語の先生から〈新潮文庫の百冊〉を薦められたら、あ=芥川龍之介から読み出し、若い理科の先生にビートルズを教えてもらったら、やはり真剣に聴いた。

順を追っていけば、やがて『長距離選手の孤独』『城』『審判』『車輪の下』を読むことになり、ビートルズから少し遡ってエルヴィス・プレスリー、少しくだってUKパンクを聴くことになる。
こうして文部省推薦少年への道を邁進した挙句、四年制大学には進まず、一度も就職しないで、どこまで肩書なしの若木康輔だけで世の中に通用するか、勝負してみようと決めるに至った。そう考えるのが自然だった。

結果は、ここまでのところ、きれいに完敗です。
あれれ、先生に言われた通り真面目にがんばって、勉強する時間をアルバイトで削られるよりも家賃を滞納するか借りた金を踏み倒す、とストイックな選択までしてきたのに、どうして……? と、ナットクいかない気持ちはいつもある。(ここらへんは、ガルシンの「紅い花」位の感じで読んでください)

そういうわけで人間の質が完全に白樺派に属するため、無頼、前衛、シュール、アナーキズム、ゴシックとかは、全体にこわくて苦手。
フランク・ザッパみたいな、いかにも不良な存在はなおさらだった。しかも、不良のくせに理屈が立って、身体はいたって健康で頑丈なタイプ。それでおいて、下ネタでふざける。一番タチが悪い。

エスタブリッシュへの悪罵、スクエアな社会常識への挑発うんぬん。尖っていてすぐ怒りそうだし、いかにも傲岸不遜でえらそうだし。ついでに言うと、何日も風呂に入ってなさそうだし。
そんなザッパを、まあまあ良い大学に進んでまあまあ良い企業に就職して、まあまあ良い相手と結婚して、一度もやらかしたことのない人が喜んで讃える、その心理が(いまだに)ちょっと呑み込みにくいのも込みで。

決定的だったのは、ハタチ過ぎた時。
食わず嫌いではいけない、1枚ぐらいは……と、デビュー作で代表作の『フリーク・アウト!』(66)を買って聴いた。フリークという言葉を選ぶのがカッコイイと思っていやがる時点で、中央線沿線に好んで住んでいるクリエイター志望な連中のセンスと同じ異臭を感じ、不安な予感はあったのだが、それ以上だった。

音が悪い。
音質が、楽曲や演奏のレベルが、ではなくて。むしろ、そういうのは凄く高くてびっくりしたのだ。
そのうえで、世の中の秩序を壊すことを心から望んでいるし、それで後悔など一切しなさそうな精神の人間 ― 本当の解体業者が出している音だった。
その堂々とした悪意にやられて、急に悪寒に襲われ、知恵熱が出て数日寝込んでしまった。

今でも『フリーク・アウト!』のCDは、棚から引っ張り出して聴く気になれない。あの時の体調の悪さがまざまざと蘇ってくるので。
悪い音のレコードを聴いて高熱が出た経験は、これとソニック・ユース『Goo』(90)の2枚だけだ。

以上、ほとんどイチャモンでした。
ともかく、こうした印象が、spotifyのおかげでずいぶん変わってきたのだった。

今年(2022年)に入っても、まずよく聴いたのがザッパの『アポストロフィ』(74)だった。
これが、去年聴いた初心者向けと言われる数枚よりさらにとっつきやすい。セールスも好評で、ディスコグラフィーのなかでも例外的なヒットアルバムだったそうだ。

以下は、当時ワーナー・パイオニアから出ていた日本盤での収録曲タイトル。

「恐怖の黄色い雪」
「ナヌークからそいつを奪う」
「聖アルフォンゾの朝食はパンケーキ」
「オブリヴィオン神父」
「コズミック・デブリー」
「エクセントリフュガル・フォーツ」
「アポストロフィ」
「リーマスおじさん」
「くさい足」

「恐怖の黄色い雪」の原題は、「Don't Eat the Yellow Snow」。
イエロー・スノウとはきっと、環境汚染する物質や産業汚染水か何かの隠語に違いない。ザッパはきっと、とぼけたノベルティ・ソングの体を借りて、大企業の行き過ぎた商業主義を手厳しく批判しているのだ、と思った。
そう思うことで、ザッパの存在を理解しようとした。

ところが、歌詞の大意は、

エスキモー(イヌイット)になった夢を見た
そしたら母さん吹雪のなかでこう言った
ナヌークや ハスキーの通ったあとには気をつけな
黄色い雪を食べちゃいけないよ

だった。そうなると、道産子なので、冬の「黄色い雪」が比喩でもなんでもなく、見たまんまなのがイヤでもわかる。僕も学校の帰りなどにパンツを下げて、何百回も「黄色い雪」を作った。
で、歌は、密猟者とナヌークがケンカして、その「黄色い雪」を顔面にこすりつけてやった、と続く。

アルバムだけでなくこの曲もシングル・ヒットしたのは、ラジオをきっかけに、コミックソングの文脈で面白がられたからだそうだ。
日本でいうと、ハニー・ナイツの「オーチンチン」(69)が、小学生の間でさえ「チンチンの歌なので放送禁止になった」と伝説的うわさになった(今思えば、あれが人生で初めて認識したカルト曲)のと事情は近いだろう。あるいは、ザ・モップスの「月光仮面」(71)が、ニューロックの諧謔精神は一切関係なしに、子どもでも笑えるオモシロソングだったのとも。

他に聴いてきたアルバムもそうだが、ザッパはとにかく、音が緻密だ。
バンドを組んだりメンバーを変えたりするたび、バカテクの人達をオーディションで厳選した逸話は、聴いていて納得できるとして、ヘンなタイミングでヘンな笛が鳴ったり、急にコロコロ転調したりも、セッションしているうちにハプニングを取り込んでいったのではなく、決め打ちで、必然的にやっている。
そのことが、とっつきやすい『アポストロフィ』だと、さらによくわかる。タイトル曲から「リーマスおじさん」の流れは、相当にいい。

部屋にあるほぼ唯一のザッパ関係の文献、レコードコレクターズの1994年3月号を開いてみると(当時は毎月欠かさず買っていたので、食わず嫌いの最中のザッパの追悼特集でもかまわなかった)、とにかく練習の虫、録音の虫で、リハーサルは念密にやったという。

ここらへんは、少年時代のザッパが傾倒したというエドガー・ヴァレーズをCDで聴いて、ずいぶん理解できるようになった。50年代の録音を2018年にまとめた3枚組のうち、バラの1枚を中古で買っただけではあるが。

順番としては、ロックンロール小僧がバンドを組んで、次第に複雑な音楽を指向するようになった、のではない。
もともとドラムを叩き、レコードもせっせと買う子どもだったらしいが、一番最初の、意識的な音楽との出会いは、ヴァレーズの現代音楽。
オーケストラにサイレンや汽笛の音を混ぜる(原題の都会で作曲するのに、そういう音の存在を無視し、管弦楽器だけで成立させることに嘘を感じた)音楽に蒙を啓かれて、作曲を学び、スコアを書くようになった。ギターを弾きだしたのはその後、という、かなりロック・ミュージシャンらしくないバックボーンなのだ。

初心者のフランク・ザッパ入門体験レポートとしては、まずはここまで書けば十分だろう。
ずっと食わず嫌いだったのは、単に僕の理解の容量が少なかったから。なにしろ現代音楽からコミックソングまでを領分とする、相当に大した御仁なのは認識できた。天才・異能を讃える言葉は巷にもうあふれているので、僕が足すまでもない。

ただ、もう一越え近づきたい距離が、まだある。ああ、だからザッパはここまでやるんだね!と自分なりに腑に落ちるピースが足りない。

例えば、「ロベール・ブレッソンはプロの俳優を一切使わなかった」ことを、自己のイメージに忠実だった孤高の映画作家の大きな特長として紹介することなら、僕でもできる。でも、「なんで?」というところが、自分なりにストンと腹に来ていなければ、わざわざ喜んで書きたくはない。そういう感じ。
それで、ザッパのことはなんとなくもう頭の隅に移動させて、このブログでは、機動戦士ガンダムのことを書いたりしていた。

しかし、頭の隅でほうっておくと、勝手にほうっておかれた同士が磁力でくっつくことがある。
昼間の、空いている電車の座席に座ってボンヤリしていた時、ああ、ザッパが面白い今ならスパイク・ジョーンズを楽しめたかもしれないのに、失敗したな、と急に思った。

スパイク・ジョーンズといっても、オシャレ映像界の番長ではなくて、〈冗談音楽〉のほうのスパイク・ジョーンズ。
この人の、サイレンやクラクションを楽器に混ぜたり、演奏しながら楽器が壊れていったり、音が外れてズッこけたりするギャグは、コミックバンドのハシリとなった。
初期のクレージー・キャッツやザ・ドリフターズなどの模範として、小林信彦の『日本の喜劇人』などでずいぶん名前が出てくるので、張り切って輸入盤を買ったのだが、金がない時に買い取りに出してしまった。

なんというか、スパイク・ジョーンズも現代音楽の大衆版であり、ザッパもコミックバンドのリーダーだった、そういう切り口を往還させていれば、もっと面白く聴けて、手放すこともなかったなあ……と惜しく思ったのだった。

音がズッこけるギャグは、音、リズムが外れると違和感があることが共通の土台にあって初めて成立する。
これを具体的に教えてくれたのは、山田隆夫だった。『笑点』の、あの座布団運びの山田クン。

数年前、『桂歌丸 大喜利人生 笑点メンバーが語る不屈の芸人魂』(2018 ぴあ)という本に参加して、数人のメンバーの取材・構成を担当した。

そのひとりが山田隆夫さん。「歌丸師匠の思い出を語ってもらうのが優先だから、スピルバーグの映画に出たことがあるみたいな話になってもすぐ戻そう」と編集者と前相談して臨んだのだが、スピルバーグの映画に出たことがあるみたいな話を上機嫌でどんどんしてくるので、止められなかった。

いろいろ伺ったなかで印象的だったのが、(今ではほぼやらなくなったが)メンバーが山田クンの悪口を言うと、いつのまにか近づいて、後ろから突き飛ばす笑い。あれが自分のバンド、ずうとるびの経験を活かしたものだという話だった。

「誰かが僕を悪く言う。突き飛ばす。このあいだの間が延びちゃうともう面白くないんだよね。山田の悪口を誰か言った、トン、トン、トン、ドーン(突き飛ばす)とリズムに合うから、お客さんもドッとなるの」

「そういうリズムを大事にしたギャグはやっぱり、バンドマンの感覚だろうね。僕はテレビの『ザ・モンキーズ』が大好きで、それでずうとるびを組んだぐらいだから。それに、何枚も重なった座布団の上に悠然と座っている師匠より、座布団運びのほうがよく動けて突き飛ばすことができる。その瞬間に力関係が逆転する笑いは、チャップリンをお手本にしました」

本が一冊も手元にないので、文中そのままではないが、見事な分析にカンゲキしたので、よく覚えている。

そう、この山田クンの話をテコにすれば、ザッパが少し近づくのだ。
ドリフのリーダー・いかりや長介が、『8時だヨ!全員集合』のコントを練るのに毎週相当な時間をかけていたことはもはや神話的常識で、最近でもフジテレビのドラマ『志村けんとドリフの大爆笑物語』で描かれていたばかりだが、認識するうえで大事なのは、ギャグの内容と、こさえ、練る時間に直接の相関関係はないということだ。

大人でもクスリとなる、ウィットに富んだギャグだと時間がかかる。子どもがゲラゲラ笑うベタなギャクだと手早く済む。そうではないし、むしろ、逆の場合が多いのではないか。

くだらないことでも、思いついた以上は動いて形にしてみる。その場合、そのギャグが高尚か幼稚かどうかより、基準となる実感は、外すと気持ち悪い、なのではないか。
その意味においては、加藤茶の「うんこちんちん」と、フランク・ザッパの「Don't Eat the Yellow Snow」はちゃんと同じ地平にあるのではないか。

まあまあよくできたラブソングやメッセージソングを、そこそこの演奏力でやって愛される連中がこんなにも、こんなにも多いのならば。俺は緻密なアレンジの譜面を作り、リハーサルを徹底的にやったうえで、ハスキー犬のしょんべんの歌を披露してやろう。誰にとっても、なんにもプラスにならないその歌に、リスナーをじっくり引き込ませてやろう。

そのおふざけこそが、フランク・ザッパの真面目さ、音楽に対する誠実さの発露だったと解釈できるとすれば、食わず嫌いは解消できるどころか、僕はこの人が、かなり好きかもしれない。

「ワカキコースケのDIG!聴くメンタリー」というのを、細々と続けている。
ある時、プロデューサー・大澤一生の事務所でイベントの前打ち合わせをした。ちょうど、売出し中だった映画批評家の某氏がいて、立ち会うことになった。

その場で、僕と大澤の意見が割れた。
開催が2月の頭になったので、入場のアトラクションでは節分にちなんだことをしよう。その場合、僕が鬼の面を被って登場するのか、それとも僕が豆を入場者に配り歩くか、どっちが良いかが、なかなか決まらなかった。
お互い平行線で言い合っていると、批評家氏が呆れたように笑った。

「どっちだっていいですよ」

それは、そうなのである。どっちでもいい。今となっては、鬼か豆をまく側か、どっちが僕の考えで大澤の考えだったかも覚えていない。第一、いつも大してウケるわけでもない。むしろよくスベる。まったく本質的な話ではない。ないのだが、その夜遅くか翌日、次の段取りを決める大澤氏との電話で、僕はこう言った。

「打ち合わせの場に批評家や評論家を同席させるのは、今後一切やめてくれよねッ」

僕が大澤に怒気を含んだ物言いをしたのは、これ一度きりだと思う。
いつもは僕の十倍理が立つ大澤も、この時は何も言い返さなかった。

さて、フランク・ザッパとはもう関係ない話をオマケに書いておくと、『笑点』の2022年1月23日放送回は、面白かったですね。
新メンバー・桂宮治が、初めて大喜利に加わった回。

最初に遠慮をしてしまうと、噛み合うまでに長引く。誰もがわかっていて、そうそう誰でも越せないハードルに宮治がいきなり噛みつき、しがみつき、光速でそれを察したメンバーが宮治をいじり出す。
毎週見ているわけではないが、メンバー同士がスイングする時としない時はある程度わかる。宮治を馴染ませながら盛り上げていく1月23日放送回は、まさに音楽的だった。

ガムシャラに答え続け、隣の好楽をダシにする「手」をさっそく使った宮治に、司会の昇太がすかさず「使えるものは何でも使っていいからね」と声をかけた時は、ちょっと泣けた。

僕は『笑点』を、〈日本のザ・ローリング・ストーンズ〉だと思っている。
メンバーを交代しながら新陳代謝していく怪物めいた長寿のありかたに共通項を感じているのだが、ブライアン(談志)はもちろん、ミック(先代円楽)やキース(歌丸)がいない後でも続いている点では、今後はストーンズのほうが『笑点』を参考にしてほしい、と思うほどだ。

そしてこの、記念的な新メンバー登場回で、あれだけ「山田クビ」「あ、まだいる」などとリストラネタでおなじみだった山田クンが、「不動の座布団運び」と紹介されたのだった。
「みなさん、元気ですか~。1・2・3、ヤマ・ダーッ」とほとんどどうしようもない小ギャグも含めて、僕は嬉しかった。

 


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