民間の研究会に参加をする。
今回は、活動型の学習が大きなテーマであった。
私のような特別支援学校の教師としては、普通一般の学校現場のことにはすっかり疎くなっているから、こういう研究会に行くと、ええっ世の中はこんな風になっているのかあ、と、驚くことばかりなのであった。
活動型の学習というのは、学校現場では昔から実践されているのであるが、今回の研究会で提示されているのは、「ワークショップ型」とか「ファシリテーション」とか、在来の学校現場にはなかったもの。近年のビジネスの世界で有効性があるものを、教育の世界に持ってきたということなのだろう。だから、出自が現場発じゃあないから、そのまま持ち込んでも、現場には異質なものと感じられることだろう。例えば、ファシリテーションの技法を学ぶ講座での説明のなかにあった、「自由度が高い」というキーワード。こんなもの、私のような最先端の教育活動に疎くなっている教師には、もう、びっくりしてしまうキーワードだ。どれくらい「自由度が高い」のかというと、議論に参加するのもしないのも自由だという。あるいは、ある議論を抜けて、ほかの議論に参加するのも自由だという。恐らく、このような「自由度が高い」という活動の考え方は、こういう技法を使って議論するうえで、根底にあるものに違いないだろう。しかし、ここまで、自由度が高くなると、それはもはや学校教育の範疇に収まらなくなるはずである。
もし、こうした活動を根底にある思想ごとそっくりそのまま学校現場に持ち込もうという提案なのであれば、それは、これまでの日本でおこなわれてきた学級単位での学習形態を解体してしまうくらいの壮大で野心的な提案なのであるが、もちろん、そこまでの思惑があるわけではない。だから、実際に学校現場に持ち込まれるとすれば、これまでの活動型の学習を改良する形で、現場に浸透していくものと思われる。それに、そういう穏便な形での実践の方が、浸透しやすいだろうとも思う。
だから今回の研究会の各種提案というのは、こうした学校の外側にある有効性が高いと思われる活動を、現場に持ち込んでみたらいいことがあるよという提案ととらえるべきであろう。そして、今回、参加した教師が教室に持ち帰って、徐々にこうした活動の実践が蓄積されていくことで、現場に緩やかな形で新しい活動型の学習が浸透していくのだろうと思った。
こうした「ワークショップ型」とか「ファシリテーション」の活動というのは、新しい活動型の学習であるとともに、それなりの議論の作法というか、コミュニケーションスキルを身に付けることも強く要請するものであろう。逆説的な言い方をすれば、それだけ不自由度の高い活動であるということである。そして、教師のなかには、そうしたスキルの獲得が苦手な教師というのは一定数いるわけで、そうした教師は、今後はキツくなるのだろうなあとも思った。今回、参加した教師の皆さんが、積極的に議論に参加していたのをみて、今回の参加者のようなワークショップ型やファシリテーションに親和性の高い教師ばかりであれば、こういう手法はあっという間に浸透するかと思うが、そんな教師だけで現場は構成されていないわけであるから、現実はかなり時間がかかるだろうとも思った。
ただし、こうした活動型の学習形態というのは、時代の要請であることは間違いないから、時間がかかるけれど、じんわりと浸透していくだろうとは思った。それは、産業用語を使っていえば「情報社会の第2段階」の学校教育という、時代の要請である。
また、特別支援教育との関連で言えば、議論した内容を模造紙やホワイトボードにどんどん書いていくというやり方は、聾学校では大いに有効であるに違いない。もしかしたら、爆発的に浸透するかもしれないという可能性を持っているとも感じた。
今回は、活動型の学習が大きなテーマであった。
私のような特別支援学校の教師としては、普通一般の学校現場のことにはすっかり疎くなっているから、こういう研究会に行くと、ええっ世の中はこんな風になっているのかあ、と、驚くことばかりなのであった。
活動型の学習というのは、学校現場では昔から実践されているのであるが、今回の研究会で提示されているのは、「ワークショップ型」とか「ファシリテーション」とか、在来の学校現場にはなかったもの。近年のビジネスの世界で有効性があるものを、教育の世界に持ってきたということなのだろう。だから、出自が現場発じゃあないから、そのまま持ち込んでも、現場には異質なものと感じられることだろう。例えば、ファシリテーションの技法を学ぶ講座での説明のなかにあった、「自由度が高い」というキーワード。こんなもの、私のような最先端の教育活動に疎くなっている教師には、もう、びっくりしてしまうキーワードだ。どれくらい「自由度が高い」のかというと、議論に参加するのもしないのも自由だという。あるいは、ある議論を抜けて、ほかの議論に参加するのも自由だという。恐らく、このような「自由度が高い」という活動の考え方は、こういう技法を使って議論するうえで、根底にあるものに違いないだろう。しかし、ここまで、自由度が高くなると、それはもはや学校教育の範疇に収まらなくなるはずである。
もし、こうした活動を根底にある思想ごとそっくりそのまま学校現場に持ち込もうという提案なのであれば、それは、これまでの日本でおこなわれてきた学級単位での学習形態を解体してしまうくらいの壮大で野心的な提案なのであるが、もちろん、そこまでの思惑があるわけではない。だから、実際に学校現場に持ち込まれるとすれば、これまでの活動型の学習を改良する形で、現場に浸透していくものと思われる。それに、そういう穏便な形での実践の方が、浸透しやすいだろうとも思う。
だから今回の研究会の各種提案というのは、こうした学校の外側にある有効性が高いと思われる活動を、現場に持ち込んでみたらいいことがあるよという提案ととらえるべきであろう。そして、今回、参加した教師が教室に持ち帰って、徐々にこうした活動の実践が蓄積されていくことで、現場に緩やかな形で新しい活動型の学習が浸透していくのだろうと思った。
こうした「ワークショップ型」とか「ファシリテーション」の活動というのは、新しい活動型の学習であるとともに、それなりの議論の作法というか、コミュニケーションスキルを身に付けることも強く要請するものであろう。逆説的な言い方をすれば、それだけ不自由度の高い活動であるということである。そして、教師のなかには、そうしたスキルの獲得が苦手な教師というのは一定数いるわけで、そうした教師は、今後はキツくなるのだろうなあとも思った。今回、参加した教師の皆さんが、積極的に議論に参加していたのをみて、今回の参加者のようなワークショップ型やファシリテーションに親和性の高い教師ばかりであれば、こういう手法はあっという間に浸透するかと思うが、そんな教師だけで現場は構成されていないわけであるから、現実はかなり時間がかかるだろうとも思った。
ただし、こうした活動型の学習形態というのは、時代の要請であることは間違いないから、時間がかかるけれど、じんわりと浸透していくだろうとは思った。それは、産業用語を使っていえば「情報社会の第2段階」の学校教育という、時代の要請である。
また、特別支援教育との関連で言えば、議論した内容を模造紙やホワイトボードにどんどん書いていくというやり方は、聾学校では大いに有効であるに違いない。もしかしたら、爆発的に浸透するかもしれないという可能性を持っているとも感じた。