うざね博士のブログ

緑の仕事を営むかたわら、赤裸々、かつ言いたい放題のうざね博士の日記。ユニークなH・Pも開設。

昔、住んでいたアパートを訪ねた。

2019年12月23日 05時15分44秒 | 俳句・短歌、またはエッセイ
 先日、昔、住んでいたアパートを訪ねた。千葉県内の市川で樹木医の研修会があり、その帰途に町内の空き地に車を止めて歩きまわる。わたしが20代半ば、アルバイト生活の頃はまるで人生のどん底だった。今のJR市川駅前のロータリーにあり、崩れかけていた小屋のような不動産屋に紹介された家賃7,000円のアパートの一階の奥まった一室である。木造モルタル造り。全く陽は差さず、一部の畳や根太が見えるほど床が腐っていた。都市ガス水道付き共同トイレ(汲み取り式)の6畳間である。部屋数は一階二階で12室、入口を入ると管理人を兼ねた品田さんという旦那がNTT勤めの家族がいて、わたしの隣はいつも室外に聞こえるほどの奇妙な独り言を言うおばさんがいる。千葉に多い野菜の行商(かつぎ屋?)を生業にしていると聞いた。斜向かいには仕事に就いているかどうかわからないが、何か商売にでも失敗した50代と思われる男の独身者がいる。隣家には金属工芸品の製作加工を主人が個人で行う家庭があった。この家は賑やかで笑いの絶えない家であった。

           

           

           
 わたしは、大学の夜学に通っていた埼玉県川口市内の自動車部品のピストンリング会社を一年で退職する。その会社は70人の新入社員の中で2番目の成績で入社、わが故郷の高校ではテストケースと言われた。そのあとはまだ向学心に燃えていたわたしは、昼間の大学に再入学するべく報知新聞の求人欄で亀戸の新聞販売店に入り新聞配達をする。その後はその新聞販売店の住み込みをやめ、都営地下鉄新宿線の工事現場で働く。
 当時のトンネル工事は都内下町の幹線道路下であり、まだ推進工法は一般化されておらず開削方式で道路の上部は覆工板を設置し、掘削作業部分の地下部を鋼矢板で山留めしていた。その中の長い地下階段を下りて行き、暗い空間に照明ランプがともる中でスコップと一輪車で掘削する土方稼業である。そして人夫となったわたしは、流れ者のように現場が変わるたびに江東区亀戸や世田谷区弦巻の飯場に移り住んだ。まだその時のわたしは、大学に在籍中であったか、やめていたのか・・・。
           
 このアパートには6年間住んでいたが、土木作業員、青果市場、亜鉛メッキ会社、日本通運の引っ越しや駅での作業、最後には家賃を10箇月分貯めてしまって、これはなんとかしなければという思いで今度は正社員採用としてガードマンになる。追って、溜めていた国民年金保険料の一括払い。そこで、あちこちの警備現場を回る。そのうちに都内の神田須田町に会社があったその警備会社も倒産する。
 わたしが生涯に初めて電話を引いたのもこの頃だ。駅へのルートに、市川駅前のダイエーで初めて自転車を購入したが、その頃には物を所有するという不思議な感覚を味わったものだが、間もなく盗難に遭ってしまう。ないない尽くしの貧乏生活であった。
 アパートの入口の外部のスペースにすき間があり、そこにあり合わせの植木鉢に、近くの江戸川べりから土を持ってきて小型の西瓜(こだま)苗を植えて、行灯(アンドン)仕立てにし、見事に実を付けたのには感激いっぱいであった。観葉植物のアビス(オオタニワタリ)の胞子による繁殖については、その後に団地に住み始めて室内で成功する。わたしにとって、多分このことが植物を扱う造園の道に進む契機になったことだろうと思う。
その後、千葉市内の団地を申し込み当たり初秋に引っ越しする。わたしは28歳、新しく知り合った彼女と住む結婚目的であった。
 社会復帰という思いで振り返るとわたしの人生には二度の落後者の時代があったように思う。この時はまだ一回目である。
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