ある「世捨て人」のたわごと

「歌声列車IN房総半島横断鉄道」の夢を見続けている男・・・ 私の残された時間の使い方など

主な日本語訳聖書

2015年05月29日 | 好きな歌

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統合版(口語訳+文語訳) 聖書

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口語訳「聖書」(1954/1955年版)

2005年末に口語訳聖書(新約1954年/旧約1955年)の著作権保護期間が終了したのを受けて 掲載しています。 古い版を元にしているため、後の版で修正の行われた差別的な用語が含まれていることを おことわりしておきます。
DAISY版は、視覚障害者向けの録音図書の規格に準拠したものです。
epub版/kindle版は、まだ試作品です。
音声版口語訳聖書(galatea talk版)は、統合版にほぼ同等の機能があるので、廃止しました。
縦書き版は、InternetExplorerでは、機能しません。

大正改訳「新約聖書」(1950年版)

文語訳(大正改訳)新約聖書の初版は1917年ですが、本サイトでは1950年版を底本としています。
2009年2月23日にルビに関して大量の修正を行いました。 以前のPDF版/DAISY版をご利用の方は最新版を再ダウンロードされることを強くお勧めします。
音声版文語訳聖書(galatea talk版)は、統合版にほぼ同等の機能があるので、廃止しました。

明治訳「舊約聖書」(1953年版)

文語訳(明治元訳)舊約聖書の初版は1887年ですが、本サイトでは1953年版を底本としています。

明治訳「新約聖書」(1904年版)

ばべるばいぶる様のデータを使用しました
明治37年版を基本に、明治14年版との差異も含めて掲載しています。

ラゲ訳「我主イエズスキリストの新約聖書」(1910年版)

フランシスコ会訳 原文校訂による口語訳

著作権の消滅している一部分だけです。

聖公会続編(1934年版)

ばべるばいぶる様のデータを使用しました

ヘボン訳「新約聖書」(1873年版)


文語訳聖書(ぶんごやくせいしょ)は、文語体に訳された聖書

明治時代、キリスト教諸派の働きにより、さまざまな日本語訳聖書が文語体で編まれ、宣教に用いられた。

口語文を唱導する言文一致運動が起こるなど、日本語の書きことばが大きく揺れ動いていた時代ではあったが、第二次世界大戦ののちまで、外国語の和訳には文語文を用いるのが常だったのである。

文語訳聖書


新世界訳聖書(しんせかいやくせいしょ)は、エホバの証人で構成された匿名の「新世界訳聖書翻訳委員会」によって翻訳された英訳聖書。ならびに、これを元に、同委員会の監督の下に他の諸言語に翻訳された聖書。本書を書店で販売していないため、エホバの証人に直接注文する必要がある。

本書が登場するまで、英語圏のエホバの証人は、長年にわたりジェームズ王欽定訳アメリカ標準訳を主に使用してきた。また日本のエホバの証人は日本聖書協会文語訳聖書口語訳聖書を主に使用してきた。

しかし、本書の刊行以降、エホバの証人が集会で使用する聖書はほぼ世界的に、本書へと統一されるようになってきている。

とはいえ、個人研究では本書以外の翻訳の使用も推奨している。実際、英語版の研究ツールであるJW Libraryには本書以外もふくめ6種の翻訳聖書から選ぶことができる。『生きた英語による聖書』、『アメリカ標準訳』、『ジェームズ王欽定訳』などである。

本書を翻訳するにあたり、ヘブライ・アラム語聖書を翻訳する底本としてルドルフ・キッテルの『ビブリア・ヘブライカ』第7版から第9版(1951年 - 1955年)の校訂本文が使用された。さらに『ビブリア・ヘブライカ・シュトゥットガルテンシア』(1977年版)、死海写本、他の言語に翻訳された数多くの初期の訳本も参考にされている。また、クリスチャン・ギリシャ語聖書については、主にウェストコットとホートによる『ギリシャ語原語による新約聖書1881年版を使用、これについても数多くの初期の訳本が参考にされた。

英語版は1950年から1960年にかけて分冊で発表され、1961年には1冊にまとめられて出版された。最新は2013年改訂版。

日本語版は1973年にギリシャ語聖書(新約聖書)の分冊が発行され、1982年にはヘブライ語聖書(旧約聖書)の部分も含めた全巻が発行された。最新は1985年版。

エホバの証人は本書を「正確で読みやすい翻訳聖書」であると評している。一方、キリスト教会側は、三位一体論にかかわる箇所を中心としてエホバの証人の教理に沿った恣意的な訳文が見られるとし、「エホバの証人の教理に合わせて改竄された偽物の聖書」であり「日本語としても全くひどいもの」と指摘する。

全文→新世界訳聖書

新世界訳聖書 音声(mp3)付き

 


以下は真理子の日曜学校からの転用です。

聖書とは

1.聖書とは
 キリスト教の聖典です。「聖書はスキだけどキリスト教はキライ」と公言してはばからない真理子も、聖書がキリスト教の聖典であることは否定しません。
 もっともキリスト教自体が、当初は「ユダヤ教系新宗教」としてスタートしたので、ユダヤ教の聖典としての聖書(旧約聖書)をそっくりそのまま継承し、さらにキリスト教独自の文書(新約聖書)を追加する形で構成されています。旧約聖書の部分は(後述のように文書の配列が違いますしキリスト教の教派によって文書の増減はありますが)ユダヤ教と共通なので、「聖書」というとユダヤ教の聖典、つまり旧約聖書の部分のみを指す可能性もあります。逆に現在のキリスト教の礼拝など宗教活動では、8割がたは新約聖書の部分のみ(残りの2割の大方も詩篇のみ)で事足りてしまうので、新約聖書のみ、または新約聖書+詩篇を抜き出してハンディに薄っぺらくした本も多数出版されています。
 しかし現在は、修飾語句を一切つけない単純な「聖書」という言葉で言い表す場合は、旧約聖書と新約聖書の両方を含んだ形の、キリスト教の聖典だけをさすのが一般的ですので、真理子日曜学校でもそのように呼ぶことといたします。


2.本当にキリスト教だけの聖典なの?
 上項の最後の部分のうち、聖書をキリスト教の聖典だけをさす、とした部分は、もう少し説明が必要かもしれませんわね。
 少々聖書にお詳しい方は、「ユダヤ教では旧約聖書の部分を聖典にしているのだから、『聖書』はキリスト教だけの聖典ではないし、イスラム教も旧約聖書および新約の福音書までは聖典的価値を認めている」と反論するかもしれません。
 逆に「キリスト教系新宗教、たとえばモルモン教やエホバの証人や統一教会などは既存のキリスト教教派からは異端扱いされており、キリスト教とは認められていない。だが彼らも聖書を聖典としているのだから、聖書をキリスト教だけの聖典とするわけにはいかない」という反論があがるかもしれません。
 この両方の立場について、真理子の考えを書いておきましょう。


3.イスラム教の場合
 まずイスラム教のほうからいきましょう。イスラム教は「改良ユダヤ教」「改良キリスト教」的な一面があって、旧約聖書を母胎としてできた宗教ですし、イエスを預言者の一人と認めていますから、イエスをキリストだの神の子だのとみなしている部分を除けば、新約聖書、特に福音書のあたりは聖典的価値があることになります。しかし、少なくともいまのイスラム教では旧約や福音書をそのままの形で聖典として読んだりすることはありません。クルアーン(コーラン)に再構成された形で読んでいるわけです。たとえばクルアーンには創世記のヨセフ物語をまるごと取り入れた章があるくらいなんで、聖書の話はイスラム教徒にも馴染み深いものです。しかしそれらの聖書由来の話はあくまでイスラム教的な脚色が加えられてクルアーンに取り入れられた形で受容されているわけであり、彼らは聖書をそのまま読んでいるわけではありません。ですからイスラム教は、クルアーンができた時点で聖書とは関係が切れたといえます。


4.ユダヤ教の場合
 次にユダヤ教。たしかにユダヤ教の聖書はキリスト教の旧約聖書と、書の順序を除けば同じです。正教会やカトリックや聖公会の旧約聖書にはプラスアルファの内容がありますが、プロテスタントの場合はまったく同じです。だいたいヘブライ語旧約聖書の一番信頼できる本はキリスト教団体であるドイツ聖書協会が出しているBHS(Biblia Hebraica Stuttgartensia)ですし、この本は順序までユダヤ教式です。いま旧約聖書を翻訳しようとすればたいていこの本を底本にして、書の順序をキリスト教式に改めて出版するのが普通です。日本の新共同訳もそうです。その意味では、「ユダヤ教の聖書=キリスト教の旧約聖書」です。
 が、ユダヤ教ではこの本を正式には「聖書」と呼びません。ヨーロッパ人のバイブルという呼び方にあわせて、ジューイッシュ・バイブルという言い方もしないわけではありませんが、それは正式なものではありません。正式には「律法、預言者、諸書」(トーラー・ナビイーム・ヴ・ケトゥビーム)またこの3語の頭文字をつなげて「タナッハ」と呼ぶのです。また最後の「諸書」は「その他」という意味ですから省略して「律法と預言者」という言い方もあります。マタイ7:12「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」(新共同訳)というのがまさにこれです。直訳しちゃっているので意味が通じにくいですが、「これこそ(旧約)聖書(の教えの真髄)だ」と言っているのです。
 そんなわけで、正式に「聖書」という言い方をしたら、それはユダヤ教のタナッハのことにはならず、やっぱりキリスト教の聖書のことになるのです。


5.キリスト教系新宗教の場合
 もう一つの「キリスト教系新宗教でも聖書を聖典としているじゃないか」という反論。こちらは「だから聖書はキリスト教だけの聖典ではない」という議論にではなく、むしろ「この聖書は異端の連中が使っている聖書だから読むな」という議論になることがほとんどです。

具体的には

  • 新世界訳聖書はエホバの証人の異端聖書だから読むな
  • 新改訳聖書やNIVはコチコチの福音派が読んでる聖書だから読むな
  • 新共同訳は悪魔の手先である自由主義神学にまみれた訳だから読むな

などという議論を、聖書やキリスト教関係の掲示板・コミュニティでけっこう頻繁に目にするからです。
 いろいろな場で書いていますが、真理子の立場をここでも言明しておきます。聖書ヲタではあってもキリスト教の信仰をこれっぽっちも持っていない真理子にとっては、正統だの異端だのという議論は何の意味も持ちません。自らをキリスト教と考える宗教団体はすべてキリスト教、ないしキリスト教系宗教です。このようにキリスト教を非常に広くとらえる立場からすれば、聖書は一応「キリスト教の聖典」ということができるでしょう。
 キリスト教系新宗教の中には社会的にかなり不道徳なふるまいをしているところがあるのは事実であり、それはそれで糾弾すべきことであり、「正統な」キリスト教団体がそういう不道徳な新宗教と同一視されてしまってとても困っているということはあるでしょう。しかし、それであればそういう不道徳な新宗教は、徹底的に「社会的に不道徳な行為」をこそ糾弾すべきなのです。教義の点で批判しても、非キリスト者にとっては単なる内輪もめにしか見えません。
 キリスト教団体の中でも福音派が考える「異端」の基準については、たとえば尾形守『異端見分けハンドブック』(プレイズ出版)があります。キリスト教系の新宗教 @ Wikipediaなどでも引き合いに出されているので読んでみましたが、第一部第一章の「異端の見分け方」の中でローマ・カトリックまで異端扱いしている部分があり(p.14)、辟易してしまいました。福音派にとってはローマ・カトリックは倒すべき最大の偽キリスト、サタンだという話を聞いたことがありますが、本当だったんですね。ま、「聖書は誤りがあるからこそすばらしい」という真理子にとっては、聖書無謬説を信仰の場のみならず事実を論ずる場でさえも掲げる思考停止のおバカな奴こそ、倒すべき最大の偽キリスト、サタン、異端ですわ。あらま、ジョークがきつかったかしら? ともあれ正統だ異端だということは真理子にとってはまったく意味のないことです。
 一方、聖書としての新世界訳は旧約39書新約27書を完訳した立派な翻訳です。もちろん個々の部分の訳の当否はいろいろあるでしょうし、実際に「正統」キリスト教の立場からの批判もあるのですが、それを言ったら、福音派にとっては新共同訳や口語訳は唾棄すべき自由主義神学によって汚された訳でしかないわけですし、聖書学者にとっては福音派御用達の新改訳聖書は訳の当否を批判する気も起きない(田川建三『書物としての新約聖書』p.695)ようなものでしかないわけです。
 そういう正統だの異端だのという議論のしかたは、結局は自分のところの聖書こそ正しく他は邪悪という結論にしかならず、聖書そのものを愛する真理子にとっては邪魔でしかありません。ですから真理子日曜学校ではそのような議論のしかたを厳しく排除していきたいと思います。福音派嫌いの真理子も、新改訳やNIVは愛すべき聖書の一つだと思ってますわよん。



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