ある「世捨て人」のたわごと

「歌声列車IN房総半島横断鉄道」の夢を見続けている男・・・ 私の残された時間の使い方など

レコード草創期~昭和10年代~昭和20年代の有名歌手一覧

2015年07月02日 | 好きな歌

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<レコード草創期編>

大正期までの流行歌の主な伝播役は大衆の面前で唄う演歌師であった。しかし、昭和3年、日本ビクターと日本コロムビアの2大レコード会社の創立によって、日本の流行歌はレコード時代を迎える。これにより、街頭から演歌師の姿は消えていった。レコード草創期に歌を吹き込んだのは、大正期の浅草オペラなどの舞台で活躍していた歌手、声楽家などである。当然、その歌唱法は声の響きに重点を置いた声楽的なものが多かったが、奥田良三や四家文子など発音や詩の意味にも気を配る声楽家や、二村定一のようにポピュラーソングを歌詞をはっきりと唄う歌手も現れ、後の流行歌の歌唱法に影響を与えている。


藤原義江(1898-1976)

大正6年、沢田正二郎率いる新国劇に入り、戸山英二郎の芸名で舞台をふむ。その後、浅草オペラに身を投じるが、大スター田谷力三の人気の前に目立った存在には成れず、大正9年ヨーロッパに渡る。イタリアで声楽を学び、翌10年、ロンドンでリサイタルを開き、「荒城の月」などの日本歌曲が好評となる。昭和3年、米国ビクターで録音した「出船の港」「鉾をおさめて」「出船」が赤盤として日本に輸入され、「我等のテナー」と呼ばれる。帰国後は、日本人離れした声量と「藤原節」と呼ばれた独特の歌唱法で、当時声楽家にはあまり歌われていなかった日本歌曲を歌いまくり、全国的に流行させる。また、藤原歌劇団を設立し、日本に本格的なオペラを普及させた。


佐藤千夜子(1897-1968)

神田錦町の女子音楽学校を中退後、昭和3年、中山晋平作曲の「波浮の港」を吹き込み、日本のレコード歌手第一号となる。昭和4年には「東京行進曲」「紅屋の娘」「愛して頂戴」など次々とヒットを飛ばす。しかし、「流行歌手」であることに劣等感を抱き、オペラ歌手を目指してイタリアへ渡るが成功せず、5年後に帰国。後輩女性歌手の台頭により、再びスターの地位に即くことはなかった。歌唱は東北なまりがひどく、優れているとは言い難い。


二村定一(1900-1948)

浅草オペラ出身。昭和3年、米国のポピュラーソング「私の青空」「アラビアの唄」をヒットさせ有名になる。歌詞の明瞭な、鼻にかかった独特の歌唱法で、「君恋し」などをヒットさせ、ジャズソングの草分け的存在となる。その後は、弟分であったエノケンと共に舞台で活躍する。しかし、次第に酒の量が増え、かつての美声を失っていく。戦後、再びエノケンに声をかけられ一座に加わるが、公演中に急死。


藤本二三吉(1897-1976)

明治42年、はん子の名で半玉として座敷に出る。大正4年、姉が芸奴置屋を開業したのを機に、日本橋葭町から二三吉の名で出る。芸奴をしながら、東京レコードから「新磯節」「ストトン節」などを出す。昭和3年、ビクターの専属歌手となり、小唄・端唄を吹き込む。4年「三朝小唄」「浪花小唄」、5年「祇園小唄」「唐人お吉小唄」などをヒットさせる。芸者歌手の草分け的存在。 


奥田良三(1903-1993)

東京音楽学校中退後、イタリアへ渡り、ローマのサンタ・チェチリア音楽院を卒業。テノール歌手として、ウィーン国際音楽コンクールで銀賞を得る。声の響きに重点を置くイタリア・ベルカントと歌詞の明瞭なドイツ・リートとを融合させた歌唱法を確立。その透き通るような美しいピアニッシモは多くの聴衆を魅了した。昭和11年から始まった国民歌謡でも、「夜明けの唄」「出せ一億の底力」などを歌う。晩年も、シューベルトの歌を録音するなど、終生、向上心を持ち続けた。


四家文子(1906-1981)

東京音楽学校卒業後、オペラ歌手として活躍。その後、流行歌も歌うようになり、松竹映画の主題歌「銀座の柳」「天国に結ぶ恋」などをヒットさせる。作詞・作曲家と協力し、日本語のイントネーションを考慮した美しい歌の普及に努めた。 


関種子(1907-1990)

東京音楽学校声楽科を卒業。ネトケ・レーヴェに師事する。昭和4年、山田耕筰作曲のオペラ「堕ちたる天女」の主役でデビュー。ソプラノ歌手として、「カルメン」のミカエラ役、「ファウスト」のマルガレータ役などを歌う。流行歌手としても、6年に吹き込んだ「日本橋から」「窓に凭れて」をはじめ、「嘆きの夜曲」「乙女の春」「雨に咲く花」などヒットも数多い。高音域も無理がない柔らかく美しい歌唱は一流オペラ歌手ならでは。戦後は藤原歌劇団で「ラ・ボエーム」のミミ役などを歌い、オペラの舞台で活躍。流行歌とオペラの二つの世界で活躍した希有の存在。


 小林千代子(1910-1976)

東洋音楽学校を卒業。松竹少女歌劇団のプリマ・ドンナとして活躍。昭和6年、「金色仮面」の芸名でコロムビアからレコードデビュー、女性覆面歌手の第一号となる。芸名を小林千代子とし、昭和7年「涙の渡り鳥」をヒットさせる。戦前のヒットとしては、「銃後の花」「人の気も知らないで」などがある。戦後は芸名を小林伸江に代え、小林伸江歌劇団を設立。また、42年「マダム・バタフライ世界コンクール」を創設するなどクラシックの世界で活躍した。


 徳山(1903-1942)

東京音楽学校卒業後、武蔵野音楽学校の講師となるが、歌手に転向。ビクターの専属歌手となり、流行歌とセミクラシックの両方で活躍。昭和6年「侍ニッポン」が、続いて吹き込んだコミックソング「ルンペン節」がヒット。戦時中は、15年「隣組」、16年「戦陣訓の歌」「歩くうた」などを歌うが、17年、37歳で病死。  


児玉好雄(1903-1986)

イタリアに留学し、ミラノ音楽院で学ぶ。オペラを学ぶかたわら、日本の小唄や民謡も研究していた。昭和9年、ビクターの専属となり「無情の夢」を吹き込む。クラシック的でありながら、哀愁を漂わせる独特の節回しでヒットさせる。

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<昭和10年代編>

戦前の流行歌手は、主に音楽学校出身者である。音楽学校で発声の基礎を学んでいるので、歌声はよく通り、かつ、発音の明瞭さに優れている。「歌手の個性=声の個性」という良き時代である。また、女性が歌を勉強するのは困難な時代であり、天性の美声を持った芸者歌手の全盛時代でもある。


藤山一郎(1911-1993)

昭和6年、東京音楽学校在学中に吹き込んだ「キャンプ小唄」「酒は涙か溜め息か」「丘を越えて」などが大ヒット。このアルバイトが学校に知られて、停学処分となる。音楽学校時代に学んだドイツ・リートを基礎にした歌詞の明瞭な明るく瑞々しい歌声で、戦前は古賀政男作曲による「影を慕いて」「東京ラプソディー」「男の純情」、戦後は服部良一作曲による「青い山脈」「丘は花ざかり」、古関裕而作曲による「夢淡き東京」「長崎の鐘」など数多くの曲をヒットさせる。「歌は作詞、作曲、歌唱の三者の関係が正三角形でなければならない」という持論のもと、楷書的な歌唱で歌い続け、流行歌手の地位を向上させた。平成4年、国民栄誉賞を受賞。


淡谷のり子(1907-1999)

音楽学校在学中は「十年に一人のソプラノ」と言われ、クラシック歌手を志すが、生活のために流行歌の世界に入り、昭和5年、「久慈浜音頭」でデビュー。昭和12年、服部良一作曲による「別れのブルース」が戦地で歌われヒットする。さらに、「雨のブルース」「東京ブルース」などがヒットし、ブルースの女王と呼ばれる。戦時下にあっても軍に反発し、「これが私の戦闘服」と言ってドレスを着続けた。歌唱は共鳴を上手く使った無理のない発声法で、特に高音は安定感がある。


楠木繁夫(1904-1956)

東京音楽学校を中退し、昭和5年、秋田登の名前で歌手デビュー。レコード会社、芸名を何度も変えた後、テイチクで古賀政男と出会い「白い椿の唄」「緑の地平線」「女の階級」などを、持ち前の透明感のある美しい歌声でヒットさせた。歌手の三原純子と結婚するが、戦後はヒット曲に恵まれず、また、病弱の妻の身を悲観して、昭和31年、自宅の物置小屋で自殺。


小唄勝太郎(1904-1974)

昭和4年、新潟から上京し芸者となる。5年、オデオンレコードから「佐渡おけさ」でデビュー。ビクターに移籍後、8年に「島の娘」が大ヒット。その後も「東京音頭」「さくら音頭」など一連の「ハァ小唄」が次々とヒット。戦時中も、「明日はお立ちか」をその哀調ある美声で歌いヒットさせている。  


市丸(1906-1997)

浅間温泉のお座敷芸者時代から「うぐいす芸者」と呼ばる。清元、宮園節、小唄など邦楽を身に付け、昭和6年、歌謡界にデビュー。昭和8年、中山晋平作曲「天竜下れば」が大ヒット。戦後は服部良一作曲「三味線ブギ」がヒット。ブギのメロディーを邦楽的な歌唱法で歌い、独自の世界を切り開く。


赤坂小梅(1906-1992)

16歳のときに小倉で梅若の名で芸者となる。昭和4年、ビクターで「小倉節」を吹き込む。昭和8年、コロムビアから「ほんとにそうなら」でデビューし、これが大ヒット。切々とした歌い方で、「そんなお方があったなら」「ゆるしてね」などを続けてヒットさせる。他に「白頭山節」「黒田節」などの民謡も吹き込んでいる。  


松島詩子(1905-1996)

音楽教師から歌手に転身。昭和7年、コロムビアから柳井はるみの芸名で「ラッキーセブンの唄」でデビュー。10年、テイチクで吹き込んだ古賀政男作曲の「夕べ仄かに」がヒット。キングレコード移籍後、12年に「マロニエの木陰」が大ヒット。クラシック的な正統派の歌唱で、舞台でもオペレッタの公演を行っている。 


中野忠晴(1909-1970)

武蔵野音楽学校卒業後、昭和7年、コロムビアから「夜霧の港」でデビュー。9年、コロムビア・リズム・ボーイズと吹き込んだ「山の人気者」が大ヒット。10年「小さな喫茶店」、13年「バンジョーで唄えば」などのジャズ・ソングを、鼻にかかった明るい歌声で歌い、ヒットさせる。戦後は作曲家として、若原一郎の「おーい中村君」、三橋美智也の「赤い夕陽の故郷」「達者でナ」などを作曲する。


松平晃(1911-1961)

東京音楽学校在学中、アルバイトでレコーディングするが、学校に知られ退学。昭和8年、コロムビアからデビュー。「ポスト藤山一郎」として期待される。深みのある甘美な歌声で、「サーカスの唄」「急げ幌馬車」のような哀愁漂う曲調から「花言葉の唄」のような叙情歌調の曲までヒットは多い。  


東海林太郎(1898-1972)

満鉄の職員であったが、クラシック歌手への夢を捨て切れず、34歳で歌手に転身。昭和9年、「赤城の子守唄」が大ヒット。その後も、「国境の町」「旅笠道中」「むらさき小唄」「野崎小唄」などをヒットさせ、日本調の歌では他の追随を許さなかった。戦時歌謡では「麦と兵隊」などが有名。ロイド眼鏡に燕尾服、直立不動で歌うスタイルは、テレビ時代になっても変えなかった。口を大きく開け、全身で発声する歌声には独特の哀調がある。


ディック・ミネ(1908-1991)

大学時代にジャズバンドを結成。昭和9年、「ダイナ」「黒い瞳」などをヒットさせ、ジャズ歌手として認められる。その後、「人生の並木路」「旅姿三人男」などの日本調から「或る雨の午后」などのタンゴ調まで多くの歌をヒットさせる。深みのあるバスの歌声で、戦後も、22年の「夜霧のブルース」「長崎エレジー」などのヒット曲がある。


渡辺はま子(1910-1999)

武蔵野音楽学校卒業後、昭和8年、ポリドールからでデビュー。昭和11年、「忘れちゃいやヨ」が大ヒット。しかし、厳格な家に育った渡辺が苦心の末に吹き込んだ甘い歌い方が、「婦女の嬌態を眼前に見る如き官能的歌唱」と発売禁止になる。その後、「支那の夜」「蘇州夜曲」「何日君再来」などの大陸物をヒットさせる。正統派の力強いソプラノの歌声は、歌謡界にあっては異彩を放った。  


松原操(ミス・コロムビア)(1911-1984)

東京音楽学校を卒業後、昭和8年、コロムビアから覆面歌手ミス・コロムビアの名で「浮草の唄」でデビュー。同年「十九の春」、9年「並木の雨」とヒットを続ける。13年、松竹映画「愛染かつら」の主題歌「旅の夜風」を霧島昇とのデュエットで吹き込む。翌14年、霧島昇と結婚。くせのない正統的な歌唱と澄んだ歌声で、戦後も霧島昇とのデュエットで「目ン無い千鳥」「三百六十五夜」をヒットさせる。  


林伊佐緒(1912-1995)

明大在学中に国立音楽院ピアノ科で学ぶ。昭和9年、日東レコードから歌手としてデビュー。昭和14年には、陸軍省と講談社が詞と曲を募集した「出征兵士を送る歌」で作曲家としてもデビュー。歌手としての初ヒットは、新橋みどりとのデュエットで歌った「若しも月給が上がったら」。力強い正攻法の歌唱で、戦後は「ダンスパーティーの夜」「真室川ブギ」「高原の宿」などを自らの作曲でヒットさせる。また、三橋美智也の「リンゴ村から」、春日八郎の「長崎の女」など作曲家としてもヒット曲を出し、歌手と作曲家の二足の草鞋で活躍。


豆千代(1912-2004)

作曲家・江口夜詩に認められ、昭和9年、コロムビアからデビュー。11年、松平晃とのデュエットで歌った「夕日は落ちて」が大ヒット。美人芸者歌手として活躍する。他にヒット曲は「朝霧夜霧」「月に浮かれて」などがある。  


美ち奴(1917-1997)

昭和9年、キングレコードから「桜ばやし」でレコード・デビュー。テイチク移籍後の昭和11年、杉狂児とのデュエットによる同名の映画主題歌「うちの女房にゃ髭がある」がヒット。また、ソロで歌ったこの映画のもう一つの主題歌「あゝそれなのに」もヒットさせる。金属的な響きをもった独特の歌声で、他に「軍国の母」「吉良の仁吉」などのヒットがある。


小野巡(1910-2009)

東京淀橋署に勤務する警察官であったが、銭湯で歌っているところを作曲家・細田義勝にスカウトされる。昭和10年、ビクターから「祖国の護り」でデビュー。芸名の「巡」は「巡査」から一字とってつけたものである。11年、「守護兵ぶし」がヒット。テイチク移籍後、13年「涯なき泥濘」「音信はないか」を吹き込む。独学ならではの軽い歌い回しと甘い歌声で戦時歌謡を歌い、人気を博した。


上原敏(1908-1944)

専修大在学中は、野球部でエースピッチャーとして活躍。また、声楽をテノール歌手の大和田愛羅に学ぶ。昭和11年、ポリドールから歌手デビュー。翌12年、「妻恋道中」「流転」「上海だより」がヒット。鼻にかかった甘い歌声、軽く語りかけるような歌唱法で、日本調の歌では東海林太郎に迫る活躍ぶり。南方派遣軍に召集され、昭和19年、ニューギニアで戦病死。遺骨は未だ祖国に帰っていない。


塩まさる(1908-2003)

鉄道省に入り、千葉鉄道管理局に勤務するかたわら、音楽サークルを作り、全国の駅を歌って回る。昭和12年、キングレコードのテストに合格し、同年「軍国子守唄」がヒット。戦時下の14年には、戦死した息子を思う母の心を唄った「九段の母」をヒットさせる。豊かな低音の歌声とパンチの効いた歌唱は90歳を越えても健在であった。晩年は現役最長老歌手として、「昭和の万葉集」と称しながら、亡くなった歌手仲間のヒット曲を歌い続けた。  


伊藤久男(1910-1983)

帝国音楽学校でピアノを学ぶ。昭和8年、コロンビアの専属歌手となる。初めはヒットに恵まれなかったが、昭和15年、「高原の旅愁」がヒット。戦時体制下では、「暁に祈る」「熱砂の誓い」など軍事歌謡のヒットも多い。持ち前の声量で、「イヨマンテの夜」などを豪快に歌い上げ、大ヒットさせる一方で、「あざみの歌」「山のけむり」といった叙情歌調でも哀愁漂う味わい深い歌唱を見せる。  


灰田勝彦(1911-1982)

ハワイ・ホノルル生まれ。立教大学在学中に兄・晴彦が作ったバンドの専属歌手となる。昭和11年、ビクターから「ハワイのセレナーデ」でデビュー。15年、「燦めく星座」が大ヒット。甘いマスクで女性に人気があり、ブロマイドの売上では、俳優・上原謙、長谷川一夫等を押さえてトップであった。甘い美声と若々しさで、戦時中は「森の小径」「新雪」「鈴懸の径」、戦後は「東京の屋根の下」「アルプスの牧場」などの青春歌謡を数多くヒットさせている。  


霧島昇(1914-1984)

東洋音楽学校卒業後、浅草のレビュー小屋などで歌う。昭和11年、エヂソンレコードにスカウトされデビュー。コロムビア移籍後、ミス・コロムビア(松原操)とのデュエットで歌った、松竹映画「愛染かつら」の主題歌「旅の夜風」が大ヒット。後に妻となる松原操とのコンビでは他に「一杯のコーヒーから」「三百六十五夜」などのヒットがある。甘く切ない歌声と真摯な歌唱態度で、「誰か故郷を想わざる」「胸の振子」などヒットさせ、戦前・戦後の歌謡界を支えた。


二葉あき子(1915-2011)

東京音楽学校卒業後、昭和11年、コロムビアの専属歌手となる。昭和14年、松竹大船映画「春雷」の主題歌「古き花園」が大ヒット。戦時中は、「なつかしの歌声」「春よいずこ」「新妻鏡」など藤山一郎、霧島昇等とのデュエットで数多くのヒット飛ばす。戦前はかなり音域が高く、ソプラノに近い歌声であったが、戦後は音域が低くなり、本格派アルト歌手として活躍。「夜のプラットホーム」「フランチェスカの鐘」「恋の曼珠沙華」「さようならルンバ」などブルースからルンバまで様々なリズムを歌いこなし実力を見せる。晩年も懐メロ番組などに登場し、元気な歌声を披露していたが、平成15年に現役引退を表明した。

由利あけみ(1913- )

東京音楽学校を卒業。女学校の教師をしていたが歌手に転向し、昭和11年「夜のセレナーデ」でデビュー。ビクター移籍後の14年、熱海の温泉PRのために限定発売した「熱海ブルース」がヒット、続いて発売した「長崎物語」もヒットした。声楽で鍛えたアルトの歌声をセーブし、やや気だるい感じで歌う歌唱には独特の情緒がある。14年には、ビゼー歌劇「カルメン」の主役でオペラ・デビューも果たす。


藤原亮子(1917-1974)

東洋音楽学校在学中からソプラノ歌手・原信子に師事、オペラに出演する。昭和12年、ビクターから「泣いて居る」でデビュー。温かみのあるアルトの歌声は聴く者に安心感を与える。歌唱がオーソドックスであったせいか、ソロによるヒット曲があまりないが、小畑実との「湯島の白梅」「勘太郎月夜唄」や竹山逸郎との「誰か夢なき」「月よりの使者」など男性歌手とのデュエットで数多くのヒットを出している。  


鶴田六郎(1916-1997)

日本大学在学中、歌っているところを作曲家・細田義勝にスカウトされる。昭和13年、ビクターから「晴れの土俵」でデビュー。続いて出した細田の作曲による「カタカナ忠義」がヒット。テイチク移籍後、15年には「誉れの馬車」を吹き込む。また、戦後はコロムビアに移籍し、「港の恋唄」などをヒットさせた。ラフなスタイルと軽妙な歌い口で人気を得た。

三原純子(1920-1958)

作曲家の長谷川堅二に師事し、昭和14年に「帰らう帰らう漢口へ」でタイヘイからデビュー。コロムビアに移籍後、17年「南から南から」を明るく爽やかに歌い大ヒット。戦後はあまりヒット曲に恵まれず、さらには胸の病気を患い故郷の岐阜で療養生活に入る。31年には夫・楠木繁夫が自殺、その2年後の33年に亡くなった。


小笠原美都子(1920- )

昭和15年、テイチクからデビュー。翌16年、東海林太郎とのデュエットによる「琵琶湖哀歌」がヒット。続いて吹き込んだ「十三夜」は発売当時あまりヒットしなかったが、戦後になって「のど自慢」などで良く歌われるようになった。清らかな歌声と繊細な表現に秀でた歌唱で、他に東海林太郎と歌った「九段のさくら」などのヒットがある。55年には日朝音楽芸術交流会会長に就任。57年、北朝鮮での国際音楽祭に出席するなど、日本と北朝鮮との音楽交流に尽力している。

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<昭和20年代編>

歌手の歌唱法も多様化し、それは戦後歌謡界の男性歌手・四天王の歌唱に代表される。明るい朗々とした歌声のオカッパル(岡晴夫)、切々と語りかける歌唱のバタヤン(田端義夫)、正統派で甘い歌声の近江俊郎、ささやくようなクルーン唱法の小畑実である。この中で、岡と田端の歌唱は現代演歌の原形とも言える。また、戦前にブルースをヒットさせた服部良一がブギのメロディーを作曲し、それらを笠置シヅ子が歌いヒットさせた。現在の歌謡界の主流とも言えるポップスはここに始まる。


岡晴夫(1916-1970)

昭和14年、親友の作曲家上原げんととのコンビでデビュー。「上海の花売り娘」「港シャンソン」をヒットさせる。鼻にかかった癖のある歌唱法のため、戦時中はヒットに恵まれなかったが、戦後はその明るい朗々とした歌声で、昭和21年「東京の花売り娘」、21年「啼くな小鳩よ」、23年「憧れのハワイ航路」と大ヒットを連発。雑誌「平凡」の人気歌手投票でも、25年から3年連続して第1位と、空前のオカッパル・ブームとなる。死後、大阪のオカッパル・ファンを中心に「岡晴夫を偲ぶ会」が生まれた。


近江俊郎(1918-1992)

武蔵野音楽学校中退後、昭和11年、タイヘイからデビュー。戦前は芸名、レコード会社を次々と変えるがヒット曲に恵まれなかった。昭和21年、奈良光枝とのデュエットで吹き込んだ「悲しき竹笛」がヒット。その後も「山小舎の灯」「黒いパイプ」「思い出は雲に似て」などラジオ歌謡でヒットを飛ばす。低音にやや響きがないが、高音は美しいヴィブラートがかかった甘い歌声で、23年には「湯の町エレジー」が空前の大ヒットとなる。晩年は、テレビの歌番組のコメンテーターとして有名。


田端義夫(1919- )

昭和14年、「島の舟唄」でデビュー。戦前は「大利根月夜」「梅と兵隊」などがヒット。切々と心に訴えかけるような歌唱法で、戦後は「かえり船」「玄海ブルース」「ふるさとの燈台」などをヒットさせる。その後、しばらく低迷するが、昭和37年、南の島唄「島育ち」を世に送り出しカムバック。50年には、「十九の春」がヒット。ぼろぼろのギターをかかえた独特のスタイルで、今もなお現役歌手として活躍中。


笠置シヅ子(1914-1985)

昭和2年、13歳で大阪松竹歌劇部(OSK)から三笠シヅ子でデビュー。崇仁親王の三笠宮家創立により、芸名を笠置シヅ子に変える。昭和22年、服部良一作曲による「東京ブギウギ」を歌い、一躍スター歌手となる。ステージを所狭しと動き回り、ダイナミックな踊りと歌唱で一世を風靡した。「ジャングルブギ」「ヘイヘイブギ」「買物ブギ」などをヒットさせ「ブギの女王」と呼ばれる。昭和30年以降は歌手を引退し、女優業やテレビの歌番組のコメンテーターなどの仕事をしていたが、決して歌うことはなかった。


李香蘭(山口淑子)(1920- )

満州に生まれ、奉天女子商業学校在学中に声楽を学ぶ。昭和13年、満州映画「蜜月快車」で映画デビュー。声楽で鍛えたリリカルで美しく澄み渡ったソプラノの歌声と美しい容姿で人気を集めた。14年、長谷川一夫と共演し、東宝映画「白欄の歌」「シナの夜」に出演。15年、映画「熱砂の誓い」に主演し、主題歌「紅い睡蓮」を歌い、ヒットさせる。戦後は、山口淑子の名でビクターから「夜来香」を出し、大ヒットさせた。その他、渡辺はま子が吹き込んだ「シナの夜」「蘇州夜曲」などの大陸物もレパートリーとなっている。


小畑実(1923-1979)

日本高等音楽学校に学んだ後、昭和16年にデビュー。昭和17年、藤原亮子とのデュエットで「湯島の白梅」が、翌18年には「勘太郎月夜唄」がヒット。朝鮮生まれのため発音にやや難があるものの、ささやきかけるような甘いクルーン唱法で、戦後は「長崎のザボン売り」「薔薇を召しませ」「小判鮫の唄」「星影の小径」と次々ヒットを飛ばし、岡、近江、田端の3大スターに肉迫。32年に引退するが、44年再び歌謡界に復帰。54年、ゴルフ場で急死。


暁テル子(1921-1962)

松竹少女歌劇団に入り、昭和8年、暁照子の名でデビュー。少女歌劇卒業後は、東宝や松竹の舞台で活躍。昭和26年、ビクターから「ミネソタの卵売り」「東京シューシャインボーイ」を発売。軽快な曲調と明るい歌声がマッチして大ヒットとなる。


菊池章子(1924-2002)

昭和14年、少女歌手としてコロムビアからデビュー。18年、映画「湖畔の別れ]の主題歌「湖畔の乙女」がヒット。テイチク移籍後の22年、東京日日新聞へのある女性の投稿記事をもとに作られた「星の流れに」を歌い、これが大ヒットとなる。情感を込めた切々とした歌い方で、26年には「岸壁の母」をヒットさせる。  


奈良光枝(1923-1977)

昭和15年、コロムビアから「南京花轎子」でデビュー。18年、藤山一郎とのデュエットで「青い牧場」を歌う。21年、大映映画「或る夜の接吻」に主演、近江俊郎と歌った映画主題歌「悲しき竹笛」が大ヒット。24年には「青い山脈」を藤山一郎とのデュエットで、また、26年にはソロで「赤い靴のタンゴ」をヒットさせる。当時の流行歌手としては珍しい清純派美人で、甘く美しい歌声で多くのヒット曲を歌った。


並木路子(1921-2001)

昭和10年、松竹少女歌劇団に入る。昭和20年、松竹映画「そよかぜ」の主役に抜擢される。その挿入歌として歌った「リンゴの唄」でレコードデビュー。その明るい歌声は、戦後の沈んだ人々の心に勇気と希望を与えた。その後も「森の水車」「可愛いスイートピー」など明るい曲調の唄を歌う。  


津村謙(1923-1961)

昭和18年、テイチクからデビュー。戦後、キングレコードに移籍し、23年、「流れの旅路」が初ヒット。27年、「上海帰りのリル」が大ヒットし、スターダムに駆け上がる。流行歌手では数少ないテノールであり、その透明感のある高音の美声は「ビロードの歌声」と言われた。その後も「待ちましょう」「あなたと共に」などをヒットさせるが、昭和36年、自宅車庫の車内で、一酸化炭素中毒により事故死。  


岡本敦郎(1924-2012)

武蔵野音楽学校を卒業後、昭和21年、コロムビアから「朝はどこから」でデビュー。清潔感に溢れた明るく伸びのある歌声で、25年、「白い花の咲く頃」、26年には「リラの花咲く頃」「あこがれの郵便馬車」、29年には「高原列車は行く」と叙情歌調の曲を次々ヒットさせる。ジャズ、ブルースからお座敷ソングと刺激的な流行歌が多くなった時代に、オーソドックスな歌唱で叙情歌ものを歌い、異彩を放つ。一線を退いた後は、音楽教師としても活躍。


竹山逸郎(1918-1984)

サラリーマンとして働くかたわら日本合唱団で歌っていたところをビクターにスカウトされる。昭和22年、「泪の乾杯」が大ヒット。同年、藤原亮子とのデュエットで吹き込んだ「誰か夢なき」もヒットしスター歌手となる。高音に安定感を欠くが、豊かな低音の歌声で、23年には「異国の丘」、24年には「月よりの使者」をなどをヒットさせる。  


平野愛子(1919-1981)

大村能章の日本歌謡学院で学ぶ。昭和21年、ビクターの新人歌手コンクールに優勝し、22年、「お妙子守唄」でデビュー。次に出した「港が見える丘」が大ヒット。23年には「君待てども」をヒットさせる。ウェットな歌声に気怠い歌い方で、ブルースタッチの曲を官能的に歌い、「若きブルースの女王」と呼ばれた。  


榎本美佐江(1924-1998)

昭和21年、テイチクから「貴方にはわからない」でデビュー。24年、ビクターに移籍し「お俊恋唄」をヒットさせる。戦前に小笠原美都子が吹き込んだ「十三夜」を独特のビブラートがかかった美声で歌い再ヒットさせる。31年にプロ野球の金田正一と結婚し引退するが、38年に離婚してカムバックする。


久保幸江(1924-2010)

コロムビアの新人歌手募集に応募し、昭和23年、「千鳥なぜ啼く」でデビュー。24年、楠木繁夫とのデュエットで「トンコ節」を吹き込む。初めはあまりヒットしなかったが、26年に加藤雅夫とのデュエットで再吹き込みしたところ爆発的にヒットした。続いて出した「ヤットン節」もヒット、芸者スタイルで一連の「お座敷ソング」を明るく歌い上げた。  


三条町子(1925- )

大村能章の日本歌謡学院で学び、昭和23年、キングレコードから「泪のブルース」でデビュー。張りのある歌声と個性的な歌い回しで、24年「かりそめの恋」がヒットする。他に「東京悲歌」「恋の火の鳥」などのヒットがある。  


神楽坂はん子(1931-1995)

東京・神楽坂で芸者をしていたが、西条八十、古賀政男の二人にその美声と不思議な色気が気に入られ、昭和27年、「こんな私じゃなかったに」でデビュー。「テネシーワルツ」の日本盤として、西条・古賀コンビで作った「ゲイシャワルツ」が大ヒット。戦後初の芸者歌手として、「見ないで頂戴お月さま」「こんなベッピン見たことない」と一連のお座敷ソングをヒットさせるが、30年、突然引退。  


川田正子(1934-2006)

8歳の時に音羽ゆりかご会に入り、妹の川田孝子と共に童謡歌手として活躍する。「里の秋」「みかんの花咲く丘」「とんがり帽子」などを歌いヒットさせる。その後、武蔵野音大に進み、昭和30年に卒業。澄んだ歌声と癖のない叙情的な歌唱で童謡を歌い続けていた。





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