ある「世捨て人」のたわごと

「歌声列車IN房総半島横断鉄道」の夢を見続けている男・・・ 私の残された時間の使い方など

二村定一(ふたむら ていいち)の代表曲・・・1928(昭和3年)「アラビアの唄」

2013年12月06日 | 好きな歌
 

連続再生・・・YouTube「いちうたグループ」オリジナル・イメージソング

 「ユーアイ久樂部」に入居されている女性(90歳を越しておられるだろう)は、歌が好きである。

たでたでがきつなどもお好きだ。
 
 
 
車椅子で食堂に来られるが、そのときに口にされるのが
二村定一(ふたむら ていいち)が唄った代表曲「アラビヤの唄1928(昭和3年)だ。
 
 
  
アラビアの唄
作曲:Fred Fisher、日本語詞:堀内敬三
唄:二村定一・天野喜久代
 
 

砂漠に陽が落ちて 夜となるころ
恋人よ なつかしい 歌を歌おうよ
あのさびしい調べに 今日も涙流そう
恋人よ アラビヤの 歌を歌おうよ 

       (間奏) 

あのさびしい調べに 今日も涙流そう
恋人よ アラビヤの 歌を歌おうよ
              歌を歌おうよ

YouTube二村定一と藤山一郎/アラビアの唄
公開日: 2012/04/13
昭和初期ジャズ・ソングを人気を博した二村定一と藤山一郎です。藤山は慶応普通部時代­から二村のピアノ伴奏をしていました。この二人については『私の青空 ジャズ・ソングと軽喜劇黄金時代』(菊池清麿・著)に記されています。

 

たまたま、テツはH. Riderr Haggrd ヘンリー・ライダー・ハガードの作品の中の数編を読むことに挑戦している。

主たる場所(地域)がアラビアなので、この曲にも興味が沸いてくる。
NHKラジオ「ロシア語講座」でも、挿入されていたので懐かしい。

 アラビヤの唄 - wiki

以下はアラビヤの唄: 二木紘三のうた物語からの出典である。

アラビアの唄
作曲:Fred Fisher、日本語詞:堀内敬三
唄:二村定一・天野喜久代

 原曲はアメリカのポピュラーソングで、作曲者はフレッド・フィッシャー。

 フィッシャーはドイツ・ケルンの出身で、1900年に家族とともにアメリカに移民しました。最初のヒット曲"If the Man in the Moon were a Coon" のあと、"Come Josephine in my Flying Machine"、"Dardanella", "Chicago" など数多くのヒット曲を世に送り出しました。そのうちのいくつかは、今も演奏されています。

 ところが、『アラビヤの唄』(原題は"Sing me a Song of Araby")は、アメリカではほとんど顧みられず、日本でだけ、昭和初期に大ヒットしました。
 日本人に受けた一因は、ヘ長調が途中でニ短調に変わる部分にあるのではないかと思います。短調の哀調が日本人の心情にアピールしたようです。

 NHKの依頼によって堀内敬三が日本語詞をつけ、昭和3年(1928)、NHK東京放送局(JOAK)から放送されました。
 歌ったのは浅草オペラの二村定一(ふたむら・ていいち)。これが大評判になり、同年、日蓄、コロムビア、ビクターでレコード化されました。

 日蓄がニッポノホンのレーベルで出した『アラビヤの唄』(唄:二村定一・天野喜久代)は、日本最初のジャズレコードでした。A面は『青空 (My Blue Heaven)』で、『アラビヤの唄』はB面でした(ビクター版では『アラビの唄』)。
 翌昭和4年(1929)には、マキノプロダクションが同タイトルで映画化しました。

(二木紘三) 

 


 二村定一研究

このページは二村定一のファン向けのものです。二村定一って誰?って言う人は、お帰り下さい。
 我ながら喧嘩売ってるような書き出しですね。

 岡田則夫(「レココレ」99年8月p.109)によると、

 二村定一は明治33年6月13日、山口県下関市に生まれる。本名・林貞一。大阪の薬学校をでてから音楽への道に入ったという変わり種。大正末期、浅草オペラが終演しつつあった頃、根岸歌劇団に入ってオペラ役者になり活躍。その頃からニッポノホンにお伽歌劇、ジャズをたくさん入れている。戦後、エノケンの劇団に復帰したが、昭和23年9月12日に病死した。

 付け加えると、「君恋し」「アラビアの歌」「洒落男」を歌った「ジャズ」歌手です。

 これで興味を惹かれなかった方は、ご退場願いま~す。

続きは 二村定一研究をご覧下さい。

 

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