ある「世捨て人」のたわごと

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異端  ウィキペディア(3)・・・イスラーム教・バラモン教・ヒンズー教・仏教・儒教・正統と異端

2015年09月17日 | 好きな歌

イスラームにおける異端

イスラームの場合、正統 / 異端の語は、教義について用いられるというよりも、実践的な行為を指して用いられている。すなわち orthos (正しい)+ doxa(教義)といった表現ではなくて、orthos(正しい) + praxis(行為) といった構成の表現が用いられている。

9~10世紀におけるハディースの蒐集と四法学派の成立によってスンナの内容が確立すると、そうしたスンナと対立する新奇な行為は「ビドア」として排斥されるようになった。だが、後には、それはhasanah(良いもの)とsayyiah(悪いもの)に分けられ、前者は共同体の承認をえて受け入れられていった。

バラモン教・ヒンズー教における異端

インドには伝統的にはぐくまれた哲学・思想・宗教の体系があり、それはダルシャナなどの名称で呼ばれている[5]が、正統バラモンは、そしたダルシャナを、ヴェーダ聖典の権威を認めるか否かを基準として区分し、認める思想を サンスクリット: आस्तिक(Āstika、 アースティカ)つまり「正統派」と呼び、ヴェーダに権威を認めない思想を「(नास्तिक nāstika ナースティカ」つまり「異端派」と呼んだ。

正統バラモンたちからアースティカの代表格と見なされたのは六派哲学で、その中でもヴェーダ聖典解釈と密接な関係があるミーマーンサーヴェーダーンタを正統の中の正統とする傾向がある。

それに対し、ナースティカと見なされたのは、チャールヴァーカ(=唯物論者)、仏教徒ジャイナ教徒だった[5]。古典期においてはバラモンたちは彼らをナースティカとして異端視する傾向が強かった[5]。だが、その後には異なった考え方を可能な限り取り込んでしまおうとする包括主義が見られるようになり、それはヒンズー教へと継承され一大特徴となっていった。

仏教における異端

仏教においては内道外道という言葉・概念が用いられている。内道がブッダの教えであり、外道がブッダの教えから外れたものである。外道はしばしば具体的に特定されつつ「六師外道」と呼ばれている。これはブッダと同時代の諸思想の中でも特に主だったものを指している。

日本の仏教において見られた 正統/異端 的な対立としては、たとえば浄土真宗(特に一向宗)における「異安心」の排斥、禅宗の中での流派間での正統/異端の対立、日蓮宗の中での対立 などがあった。

儒教における異端

呼称の節でも説明したように、儒者は、儒教以外の思想、つまりなどを指して「異端」と呼んでいた。

論語に次のような表現がある

子曰。攻乎異端。斯害也已

「子曰く、異端を 攻むるは、斯れ害のみ」と読め、自分の考えと異なった考えを攻(責)めているようでは、かえって自分を害することになる、という意味ともされるが、 具体的な意味は不明[5]ともされる。この一文の解釈は註釈者によって相違があり、一つではなく、朱子は『論語註釈』の中で「正統から外れたものを学ぶことは、害にしかならない」と解釈したという。

だが上記の表現は『孟子』『荀子』にも見えず、後漢ごろまでこれは注意をひかなかったらしいという。

儒教に対して仏教道教を異端として特定しつつ排斥するような主張が、いったい誰に始まるのか不詳だという。ただ、韓愈の『進学解』には「異端を拒絶し仏老を退ける」との表現はある。

学問における正統と異端

学問の世界でも 正統 / 異端 と同様の区別や論争は存在している。

自然哲学においては17世紀の段階では、ほぼ全員の人々は、物というのは直接にぶつからないと互いに影響しあわない、とする考え方で世界を理解し、それを正統なものとしていた。ニュートンが『自然哲学の数学的諸原理』(1687年)において万有引力という新たな考え方を提唱した時には、ライプニッツ(およびライプニッツ一派の人々)は、その考え方を「オカルト」という言葉で呼びつつ排斥しようとし、大陸側とイギリス側、ドーバー海峡を挟んで論争となった。その後も数十年間、大陸側の学者たちは「物は直接ぶつからない限り互いに影響しない」とする考え方を正統なものとし、「離れていても影響する」という考え方を異質な考え方として排斥しつづけた。

西欧では学問、すなわち知の探求は一般的にラテン語等でphilosophia、philosophie(フィロソフィア、「知を愛すること」の意)などと呼ばれていて大学における各学問の呼称もフィロソフィアであった。学問の世界ではフィロソフィアが正統なものであった。だが(おおよそ18世紀後半から19世紀半ばにかけて徐々に)そうしたフィロソフィーの中からある種の(独特の)傾向の知識があると考える人たちが増え、そのような知識を探求する人の数の増加も反映し1833年にはウィリアム・ヒューウェルが「scientist サイエンティスト」という語を造語し、自分たちをそう呼ぶことが提案された。だがそれがすぐに定着したわけではなく、その時代、大学という制度で地位が認められ社会的にも認められている学者たちは scientiaを正統的でない知識と見なしており、scientistたちの社会的な地位は概して低かった。学者たちは(現代から見れば、scientistと呼ばれるような内容の活動をしている人ですら)他人から「scientist」と呼ばれることは嫌がり「philosophe 哲学者」と呼ばれることのほうを好んだと指摘されている。scientistたちは、人々から正統性が認められるには長い年月がかかった。

このように社会から正統性を認められるのに苦労していたscientiaの側からも、すでに1830年代あたりから、pseudo-scientia(疑似科学)という呼称で、正統的でないそれを呼び分けるようなことが行われるようになった。

ポジティヴィズムという、ひたすら自分の五感で直接的に知覚できることだけを重視しようとする思想が学問の世界で隆盛を極めていた19世紀末、当時、科学界で大御所とされて一大勢力を誇ったエルンスト・マッハなどは、人間が直接的に知覚できることだけで科学を構築してみようと目論み、直接的に知覚できないことに関する記述は「形而上学」という言葉を用いつつさかんに排斥しようとした。ニュートン力学体系における「絶対空間」や「絶対時間」の概念を、「形而上学的な要素の残滓(のこりかす)」と呼んで否定し、排斥した(『力学の発展史』)。マッハらは、明らかに排斥しようとする意図をこめつつ「形而上学」という言葉を用いていた。マッハはニュートン力学の<<>>の概念も「得体の知れないもの」として排斥し、<>の概念抜きで、<>など、直接的に知覚できる要素だけで力学を再構築した。また原子論も拒絶した(原子などというものを誰も直接見たことは無かったので、見えない原子を概念として受け入れてそれを基盤に科学を組み立てることは拒絶したのである)。大御所のマッハは若いボルツマンが採用した原子論や気体分子運動論も排斥し、学会で執拗に攻撃した。(ボルツマンが自殺する原因を作った、とも指摘されている)

現代でもやはり、ポジティヴィズム的な考え方を正統だと見なし、それからはずれた考え方を排斥したがる人々は自然科学の分野を中心として多く存在しているが、最近の人々のあいだでは、直接感覚できないことがらのことは、マッハがそれを「形而上学」と呼んで排斥しようとしていたように、(正式な学問的な用法ではなく、あくまで俗な用法にすぎないものではあるが)「オカルト」と呼ぶようなことが行われている。

科学という概念がようやく広まりつつあったころ、科学者のほとんどはアマチュアサイエンティストであった、また社会的にも優遇されているとは言い難かった(冷遇されていた)。現代では、科学は(かつての西欧のキリスト教と同様に)国家からお墨付きを得て、行政的な機構にも組み込まれている[33]。政府や政府系の組織によって膨大な数の科学者が雇われ生活しており、科学は一大勢力となっている。現代では、科学者でない一般の人々も含めて、多くの人々が、サイエンス(科学)をしばしば「正統」「正統性」というイメージと重ねつつ受けとめている、ということは多くの科学哲学者などから指摘されている。こうした社会環境においては 「科学」 /「疑似科学」 という一対の概念が、(ちょうどかつてのキリスト教が政治権力と一体となっていた西欧における、キリスト教の 正統/異端 のように)その判定の結果が大きな影響を及ぼす概念となっている。何が科学で何が科学でないか、ということに関しては、20世紀に様々な論争が行われている。これは線引き問題、と呼ばれている。

現代の学会などでは(特に自然科学系の学会などでは)、古参の科学者などが新奇な研究や新奇な説などを「疑似科学」(や「オカルト」)などと呼んで排斥しようとすることがある。現代の科学者にとっては、自分の研究に「疑似科学」との烙印を押されてしまうと、科学者にとって必須の、公的機関からの研究助成金などを支給してもらえなくなり、科学者生命を絶たれることを意味し、やがて職や収入も失い、その意味でも死活問題となる。現代の科学者は、先輩や同僚の科学者たちから「疑似科学」「オカルト」などの言葉で異端との烙印を押され排斥されることを恐れている。


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