あれは30年ほど前のことだったろうか、静岡県浜松市にある聖隷三方原病院に入院中のMさんを訪ねたことがある。
Mさんは、聖隷三方原病院(せいれいみかたがはらびょういん)のホスピス病棟で、奥様とお二人で起居されていた。
同施設では夫婦のどちらかが不具合でも、末期状態にある日々を一緒に付き添いで過ごすことができるのだ。各病室はそのように作られている。
浜松駅から出るバスで同病院を訪ねた時は、お二人で模型飛行機を飛ばしに庭に出ているということだった。
しばらくして戻られたので、初めてお逢いする方ではあるが、模型飛行機の飛び具合、風の具合などを楽しそうに話してくださった。
それから間もなく、Mさんはお亡くなりになった。
Mさんにとって、あのホスピス病棟での楽しみの一つが模型飛行機だったのだ。
どんな模型飛行機だったのか、あるいは他の方が飛ばしているのを見に行っておられたのか、忘れてしまった。
模型飛行機のプロペラを回転される動力が、ゴムだったか、模型飛行機のエンジン専用揮発油だったか、あるいは折り紙の飛行機だったか・・・。
とにかく模型飛行機がお好きだったようだ。
実はテツも模型飛行機好きだった、ただしゴム動力とグライダー(滑空機)だったが・・・。
ホスピス - wiki
さて、テツのやりたいことは、下記の記事に書いたので、繰り返すのは止そう。
これもやってみたい
自由な日々を過ごしているのはいいが
テツの自己満足
ただ、可能ならば、たまには外出して、ファミレスなどで食事をしたい・・・。
外出には介護タクシーのお世話になるなど、費用の問題があるので、テツにとっては無理だが、夢は「好きなものを食べたい」ことだ。
カップラーメンは、食べる機会もあると思うが、それ以外は「夢の夢」だ。
別れた妻の手製の、「ひき肉を、半分に切ったピーマンに詰めて、油で揚げた」料理は簡単なものだったが、美味かった。
あれをもう一度食べたい・・・、でもこれは、完全に無理な話だ。
今の夢は、あの某和食レストランで、天ぷらや刺身の盛り合わせを食べながら、キンキン冷やした日本酒(地酒)を味わいたい。
馬刺しを、「おろしにんにく醤油」にたっぷり浸して食べた味も忘れられない。
もう一つは、「回転寿司店」の味である。
いわし・あじ・いくら・納豆などが大好きだ。トロなどでなくて普通のものでいい・・・、まぐろもうまい・・・。
これらは、もう死ぬまで口にすることが出来ない味である。
このように、「食べたいこと」を考えながら、「生ける屍」同然に過ごしているこの頃である。
お世話になっている施設や、サービス万点の医療介護制度などには感謝のほかはないが・・・。
生ける屍より
1917年(大正6年)、島村抱月の芸術座が松井須磨子を主演に上演し、松井が劇中で歌う『さすらいの唄』のレコードがニッポノホン(現在のコロムビアミュージックエンタテインメント)から発売され、流行した。翌1918年(大正7年)には、芸術座の『復活』を『カチューシャ』のタイトルで製作して大ヒットさせた日活向島撮影所が、『生ける屍』のタイトルで製作した[2]。
さすらひの唄 佐藤千夜子
http://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=GCn7SUklpu8
出典
さすらいの唄
作詞:北原白秋、作曲:中山晋平、唄:松井須磨子/佐藤千夜子
1 行こか戻ろか
北極光(オーロラ)の下を
露霊(ロシア)は北国 はて知らず
西は夕焼け 東は夜明け
鐘が鳴ります 中空(なかぞら)に
2 泣くにゃ明るし 急げば暗し
遠いあかりも チラチラと
とまれ幌馬車 やすめよ黒馬(あお)よ
明日の旅路が ないじゃなし
3 燃ゆる思いを
荒野(あれの)にさらし
馬は氷の 上を踏む
人はつめたし わが身はいとし
町の酒場は まだ遠し
4 わたしゃ水草 風吹くままに
流れ流れて はて知らず
昼は旅して 夜(よ)は夜で踊り
末はいずくで 果てるやら
《蛇足》 島村抱月が主宰した芸術座は、『カチューシャの唄』であたりをとって以来、主役の松井須磨子が歌う劇中歌を売り物とするようになりました。
この歌もその1つで、大正6年(1917)にトルストイの『生ける屍』のなかで歌われました(『カチューシャの唄』『ゴンドラの唄』参照)。
(二木紘三)
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