ある「世捨て人」のたわごと

「歌声列車IN房総半島横断鉄道」の夢を見続けている男・・・ 私の残された時間の使い方など

私のメモ帳・・・演歌 ウィキペディア(3)

2016年10月12日 | 音楽

1970年代[編集]

1970年代に入ると五木ひろし八代亜紀森昌子牧村三枝子石川さゆり中条きよし西川峰子細川たかし新沼謙治川中美幸などが登場。

同年代の演歌のヒット曲で、1970年代前半は「傷だらけの人生」「圭子の夢は夜ひらく」「よこはま・たそがれ」「わたしの城下町」「雨の御堂筋」「瀬戸の花嫁」「女のみち」「女のねがい」「せんせい」「ふるさと」「夜空」「なみだ恋」「くちなしの花」「なみだの操」「夫婦鏡」「うそ」「昭和枯れすすき」「あなたにあげる」など。1970年代後半は「心のこり」「千曲川」「北の宿から」「嫁に来ないか」「昔の名前で出ています」「津軽海峡・冬景色」「北国の春」「能登半島」「夢追い酒」「与作」「みちづれ」「おもいで酒」「舟唄」「新宿・みなと町」などの多くの名曲が生まれ、フォークニューミュージックアイドル歌謡などと競い合いながら安定した発展を見せていた。

ほか大相撲界からも次々と現役力士・演歌歌手を兼業しつつデビューを果たし、特に二人共大関に昇進した増位山太志郎の「そんな女のひとりごと」、琴風豪規の「まわり道」がロング・ヒットを記録した。

その一方で、昭和49年(1974年)には森進一がフォーク歌手かつシンガーソングライター吉田拓郎作の「襟裳岬」で、第16回日本レコード大賞を受賞するなど演歌と他のジャンルとのコラボレーションがはじまり、以後演歌かその他の音楽ジャンルか分別の難しい曲も登場することとなる。

1980年代〜1990年代[編集]

1970年代後半から1980年代にかけて中高年の間でカラオケブームが起こり、細川たかしのようなカラオケの歌いやすさを意識した演歌歌手が台頭し一時代を築いた。カラオケ向けの楽曲作りとマーケティングが始まる。しかし若者のポップス志向がより強くなったこともあって、演歌離れもこの頃から進んでいった。

1980年代半ば以降は若者と中高年の聞く歌が、さらに乖離していく傾向が強まっていった。テレビの歌番組も中高年向けと若者向けが別々になり、年代を問わず誰もが知っている流行歌が生まれにくい時代となった。若者もカラオケに夢中になる様になり、日本のポップスもカラオケ向けの楽曲作りとマーケティングが始まる。演歌が中高年のみの支持に限定されてきたことや、素人がカラオケで歌いやすいことが尊ばれ、北島三郎のように圧倒的な声量や歌唱力を誇る歌手や、森進一のように独特な声質と歌唱法を持つ個性的な歌手が実力を発揮しにくくなり、テレビへの露出が減少した。そのため緩やかな保守化と衰退が始まった。

1980年代後半から1990年代前半にかけて坂本冬美香西かおり伍代夏子藤あや子城之内早苗など、この時期にデビューし大御所のポジションを手に入れた女性歌手達が多数誕生する。また島倉千代子の「人生いろいろ」、石原裕次郎の「ブランデーグラス」「北の旅人」、美空ひばりの「みだれ髪」「川の流れのように」などがロングヒット、往年の大御所歌手も健在ぶりをアピールした。しかし、石原とひばりは度重なる病に倒れ、石原は昭和62年(1987年)7月に、ひばりは平成元年(1989年)6月に、奇しくも二人共に52歳の若さでこの世を去ってしまう。

さらに都はるみが1984年12月(第35回NHK紅白歌合戦)に、森昌子が1986年8月に共に惜しまれつつ歌手活動を引退した(その後都は1990年に、森は2006年にそれぞれ本格的に活動再開している)。ほか松村和子尾形大作段田男大和さくらなど大型新人として期待され、ヒットを放ちながらも短期間のうちに活動を縮小・中止してしまうケースも見られた。

またアイドルから演歌に転向した長山洋子や、ニューミュージックから演歌に寄った堀内孝雄や、ポップス寄りの演歌を歌う桂銀淑のように独自のスタイルでヒットを出す歌手も現れ、「ニューアダルトミュージック」という新しいジャンル名も生まれた。さらに大瀧詠一がポップス風に作曲した「冬のリヴィエラ」(森進一)、「熱き心に」(小林旭)がヒットするなど、緩やかな衰退の中で分化が起こり、「演歌」という音楽ジャンルの定義もより拡大しつつあった。

主なヒット曲に、1980年代前半は「おまえとふたり」「おやじの海」「とまり木」「倖せさがして」「雨の慕情」「大阪しぐれ」「ふたり酒」「帰ってこいよ」「奥飛騨慕情」「みちのくひとり旅」「夫婦舟」「北酒場」「さざんかの宿」「氷雨」「兄弟船」「矢切の渡し」「長良川艶歌」「娘よ」「つぐない」など。1980年代後半は「夫婦坂」「そして…めぐり逢い」「愛人」「あじさい橋」「雪國」「時の流れに身をまかせ」「愛しき日々」「命くれない」「無錫旅情」「夫婦善哉」「追憶」「雪椿」「祝い酒」「雨酒場」「夢おんな」「酒よ」「男の情話」「風の盆恋歌」など。1990年代に入ると「麦畑」「恋唄綴り」「忍ぶ雨」「流恋草」「恋挽歌」「こころ酒」「心凍らせて」「蜩 - ひぐらし -」「無言坂」「むらさき雨情」「夜桜お七」「捨てられて」「珍島物語」「二輪草」などがある。

1990年代も半ばを過ぎると若者の中に支持者がほとんどいなくなった上、大御所歌手のヒットも年々減少し、演歌の衰退は激化。平成8年(1996年)にはオリコンチャートが発足した昭和43年(1968年)以後、史上初めてオリコン年間シングルチャートの総合100位以内に演歌の作品がランクインしない事態が発生する(この年演歌で年間1位だった伍代夏子の「鳴門海峡」は総合で年間153位)[4](もっとも演歌の場合はキャンペーンなどでの手売りの割合が大きく、レコード店での売上を対象とするオリコン等のチャートに反映されない売上が相当あるという指摘もある[5])。1990年代末には演歌の新曲CDが数十万枚単位でヒットする例は極めて少なくなってしまった。一部レコード会社の演歌部門撤退による演歌歌手のリストラもこの時期に行われており、大御所さえもリストラされる事態に陥る。その後、リストラされた演歌歌手の多くは、演歌を主力とするレコード会社に移籍した。

 

 


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