Captain Kidd 1945 Charles Laughton, Randolph Scott
海賊キッド
ストーリー |
英国大使ブレイン卿は、インドのモガール国からの帰途、有名な海賊キャプテン・キッドに襲われ、殺された上に財宝を奪われた。 ところが英本国では卿が海賊に仲間入りしたという説が伝わったため、卿は国賊として家は継絶、所領は没収された。 令息はアダム・マーシーと変名し、ことの真相を探ろうと海賊に身を投じたが、不運にも捕らえられてロンドンのニュウゲイト牢獄に監禁された。 1699年、ウィリアム三世の治世となって、フォーコナー大使がインドから帰国するに際し、毒を以て毒を制しようと、キャプテン・キッドに「アドベンチャー」号を与え、大使護衛を命じられた。しかも無事に任を完うすれば貴族にとりたてるという好条件であった。 キッドはニュウゲイトの囚人中から屈強な者を選んで船員にしたが、アダムもその一人だった。 キッドが財宝を隠している島にアダムは仲間と共に行き、父の武器を発見してキッドが仇敵であることを知った。 大使の乗船「クオダ」号に出会うと、キッドは部下ロレングに命じて「クオダ」号に爆弾をしかけ、大使と令嬢アンが財宝と共に「アドベンチャー」に乗り移ると「クオダ」は乗組員もろとも爆破した。キッドはまた大使をも海中に突き落とした。 アンと恋におちたアダムはキッドの魔手を逃れて「アドベンチャー」を脱船し、運良くポルトガル船に救われた。そしてキッドよりも先に英国に帰り、父の後嗣として英海軍の司令に任ぜられ、アンと結婚した。 とは知らぬキッドがロンドンに現われるとたちまち捕らえられて絞首台に送られた。 |
ウィリアム・キッド(William Kidd、 1645年 - 1701年5月23日)は、スコットランド西部生まれの私掠船、海賊船の船長。キャプテン・キッドの別名が広く知られている。
生涯
グリーノック生まれ。ニューヨーク州に移住し、その地でサラ・ブラッドレイ・コックス・オートと結婚する。夫婦の間にはエリザベスとサラ・キッドという2人の娘が生まれ、妻方の資金を活用し、キッドは裕福な商人として生計を立てていた。
参照→海賊ウィリアム·キッドの家族情報・・・機械翻訳
イギリスに商品を売りさばきに出向いている時に、キッドは海賊退治を含む私掠船の許可を得る機会を与えられる。必要な資金の5分の4を私掠船のスポンサーとなる貴族たちが出資し、残りを自分の船であるアンティグア号を売り払ったキッドと知り合いであるロバート・リビングストーン大佐が出資した。オーフォード伯やロムニー伯、シュルーズベリー公、それにジョン・サマーズ卿などの著名な貴族が出資している。
新しい乗船となったアドベンチャー・ギャリー号は、海賊退治に相応しく、36門の大砲と70人の乗員を持つ強力な船であった。しかし、私掠船としての収入は芳しくなく、豊かな収入を求めて乗り込んだ乗員たちの圧力を和らげ、また自分の投資に見合った利益を求めて、フランス船と海賊船のみの略奪許可しかないにもかかわらず、英国船以外の船なら誰からでも略奪するようになっていった。航海が進むにつれ、キッドの活動は委任を受けた私掠船というより、海賊の活動に近づいていくことになる。
1697年10月30日、キッドはウィリアム・ムーアという船員の間で論争になり、喧嘩に発展してしまう。キッドは鉄で補強されたバケツをムーアに投げつけ、殺害してしまう。この事件を期にキッドは海賊として海に乗り出すことを決めた。
1698年1月30日、キッドは商船のクェダ・マーチャント号(Quedah Merchant)を発見し、略奪を決意する。相手の警戒を解くため、フランス国旗を揚げて接近し、商船もフランス船であるかのように振舞った。相互の船は接近し、キッドとその乗員は略奪を開始するが、略奪がほぼ終わってからキッドはこの船がイギリス船であることに気がつく。乗員と所有者に船を返すべく相談を持ちかけたが、相手方乗員は提案を拒絶し、これ以後キッドは2隻の船団を率いることになる。
1698年4月1日、キッドとその船団はマダガスカル島に到達する。この地でキッドは初めて海賊と遭遇する。かつてキッドの下で副船長として働いていたが、船を盗み海賊として活動しているロバート・カリフォード(Robert Culliford)とその船モカ・フリゲート号(Mocha Frigate)である。キッドは襲撃を決意し、乗員に船を捕らえるように指令を出すが、乗員のほとんどが謀反を起こし、カリフォードに合流してしまう。わずか13人の船員しかキッドの元に残らず、キッドは帰国を決意する。アドベンチャー・ギャリー号を燃やして破棄し、もう1隻のクェダ・マーチャント号で出発する。
ニューヨーク市に帰り着くもののその場で拘束され、ストーン刑務所に留置される。その後イギリスに護送され、海賊行為とウィリアム・ムーアの殺人で起訴され、悪名高いニューゲート監獄に投獄される。全ての罪に対して有罪と宣告され、1701年5月23日にロンドンで絞首刑にされる。
遺体はテムズ川の上に鉄の檻にいれられ、海賊を志すものに対する警告として放置される。キッドに出資した貴族達は結果的に海賊を支援したことになり、大いに恥をかくことになった。
政争に巻き込まれた説
一般にはキッドは貴族らスポンサーを騙して出資を募り、それを元手に海賊行為を行っていたとされる。だが、ミュージアム・オブ・ロンドン・ドックランズで開催されている「海賊 キャプテン・キッド物語」では、キッドは富裕層の対立に巻き込まれたという見方を示している。それによればキッドの怪しい事業はスポンサーの意思によるもので、それによって利益を脅かされると考えた東アジア会社が裏で糸を引いてキッドを犯罪者に仕立て上げたという。実際、キッドの裁判では彼の無実を示す証拠が紛失し、有利な証拠の提出が禁じられていた。
フィクションと伝説
キッドは処刑される直前、「自分はある場所に財宝を隠している」と叫び、その場所を説明しようとしたが、処刑人はそれを無視してキッドを処刑してしまったという。この逸話をもとに「今もどこかにキャプテンキッドの財宝が眠っている」という伝説が発生し、複数の作家がその財宝を題材とした小説を執筆している。そしてキッドは多くの財宝(略奪品)を手にいれたとする文書も存在する。
エドガー・アラン・ポーの『黄金虫』、ロバート・ルイス・スティーヴンソンの『宝島』がそれらの作品の代表作である。キッドが立ち寄ったとされるノバスコシア州のオーク島やキッドの活動拠点の1つであった、ニューヨーク湾に位置するガーディナーズ島で今も財宝探しが行われている。米インディアナ大学のチームによって、ドミニカ共和国の保養地カサ・デ・カンポ沖にあるカタリーナ島近海で、クェダ・マーチャント号とみられる船が発見された(2007年12月13日発表)。そしてアドベンチャー・ギャリー号についても、サント・マリー島の近くの海底で財宝とともに発見したとバリー・クリフォードが発表した。
出典
- CNN 2011.06.02「カリブの海賊の背後にエリート貴族」 2011年9月5日閲覧
- CNN 2011 .06. 02「海賊キャプテン・キッドの背景を探る - (6/10)」 2015年5月12日閲覧
- 海賊キャプテン・キッドの財宝発見か、マダガスカル沖 2015年5月8日配信 2015年5月12日閲覧
原文を読む→ウィリアム・キッド - Wikipedia
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