http://www.tanken.com/meiji.html
明治天皇の日常生活
明治天皇の巡幸
行動派の明治天皇は、即位してまもなく日本中を巡幸しています。その数、97回。一番最初は明治5年に始まった全国行幸で、明治9年に東北、11年に北陸・東海道、13年に中央道、14年に東北・北海道、そして18年に山陽道へと巡幸を続けます。このおかげで、土で固められていただけの道路がどんどん改善されていくのです。
「テツ注」
母の最初の嫁ぎ先が越河()の豪農、母の妹の嫁ぎ先も豪農(山梨県大月市七保)でした。共通していることは両家とも、養蚕に従事していたということです。
(第一次東北巡幸と第二次東北・北海道巡幸)http://www.stks.city.sendai.jp/sgks/WebPages/izumiku/42/42-09.htm
(第一次東北巡幸)
明治9年(1876)6月30日、明治天皇(24歳)は正午に仙台を出発、二輪馬車に御乗車せられ岩倉具視、大久保利通ら随員は馬に乗って従った。同市七北田(ななきた)には 午後2時頃到着、七北田字町の桜井三蔵で小休された。 桜井家は昔ながらの宿屋で木造二階建ての建物は今も旧姿を残して居る。天皇は表二階の十畳間の座敷で休息されたが、そこは現在も「御座の間」として当時使用された品々とともに、大切に保存されている。又、沿道警備のため巡幸の1ケ月前に桜井家の向かいに七北田分屯所が急造された。現在の泉交番の南隣りの地である。
(第二次東北・北海道巡幸)
第二次巡幸は第一次で行かなかった山形・秋田・北海道への巡行が目的で、宮城県内は通過地であった。明治14年(1881)8月14日、前日の大雨による出水で道路が寸断されていたので、明治天皇(29歳)は愛馬白玉号に騎乗して仙台を出発し、途中、七北田橋たもとの伊藤欣之助宅で小休された。同家では家の棟に金色の菊の紋章を掲げていたところ、前もって取り除きを命ぜられた。伊藤欣之助は七北田村村会議員、宮城郡会議員を歴任し七北田公立消防組の初代組頭をつとめた人である。伊藤宅は明治31年5月焼失したため、当時の遺構や、記念の木標などは全て失われた。
明治天皇行幸の年より56年後の昭和7年8月、桜井家の屋敷内に「明治天皇御駐輦址碑」が桜井小圓太氏によって建立された。
(駐輦(ちゅうれん);輦(れん)は天皇が乗る車をいう。天皇が行幸の途中で車を留めること。)
http://blogs.yahoo.co.jp/stock19631966/folder/969015.html?m=lc&p=6
「越河の宿」入口は交通の要所で100mの狭い範囲に「東北自動車道」「国道四号線」「東北本線」と肩を寄せ合い両脇は急峻な「奥羽山脈」「阿武隈山系」が迫り寄っている
伊達藩は「御番所」を置き 坂上田村麻呂も「下紐の関」を置いた
この要所は「伊達への兵糧攻め」で使ったら最高の戦略基地に「伊達の首根っこ」的な地理的状況・・・・・・・
道端の「トチの実」を「どんぐり」だ「クリ」だと騒ぎながら峠を越え左手に旧街道を行く頃は視界は開け、のんびりした里山風景が目の前に・・・・・・
街道の道なり雰囲気は間違いなく江戸時代
だが当時を思わせる物的なものはなく昔萱ぶき屋根、今トタン張り屋根の大きな農家屋敷が両側の水路沿いに連なっている
宿場町だったと主張する「標識」が集落の中間地点に。山の上には放牧場があり春先には一斉に牧場目指す牛が続く小路が目立つ。
明治に入り天皇が東北巡幸の際の印が道端の用水路わきにあった。
「テツ注」
屋敷の直ぐそばに、東北本線があり、相当な急勾配の区間でした。
蒸気機関車の煙突から排出される高熱の煙による火災が度々発生したため、火の粉の防止用トンネル(火除けトンネル)で覆われていました。
夜間、上りの列車(東京方面行)が急勾配の線路を登る時は、機関車に高熱の蒸気が必要で、火室(かしつ)に多量の石炭をくべるためにフタを開けると、火室からの光が周辺に反射し、火の粉も飛び散る様子が見えました。後で知ったことですが火床(かしょう・ひどこ)に溜まる燃えかすの処理も大変だったらしいです。
テツの母の生家は、大きい家出したが、屋根が茅葺きだったため、引火し消失してしまい、明治天皇が立ち寄った家の貴重な財産もなくなりました、
余談ですが、勾配の線路を走る時、機関車の動輪が空転することがあります。
ボイラーで温められた蒸気が一気に吹き出してしまうので、圧力が無くなってしまいます。立ち往生することもあったらしいです。
煙突からも火の粉が飛び散っていました。
「テツ注」
テツは鉄道が好きなので、機関車の空転の様子を撮影した動画を探しました。
越河の母の生家のそばを走っていた東北本線とは、まったく関係がありませんがYouTubeに公開された動画をご覧ください。
なお、石炭をくべるためにボイラーの蓋を開ける時の赤い光が運転室から漏れて見えていて、迫力があります。
C57 1 貴婦人 山口号 H20年秋 篠直 大空転の巻!
http://www.youtube.com/watch?v=Qgu8kzpXmxA
蒸気機関車・2008・C571空転する峠
http://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=BqKotGcKXcc
【空転した貨物5479レ】救9001レ到着と救援作業
http://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=-jDYoJCWqd4
C571号機の力闘 SLやまぐち号 空転で立ち往生~再引き出し 2012.11.11
http://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=0wTrOcEjAl8
C623倶知安峠の空転
http://www.youtube.com/watch?v=_rYM_dP9tvA&feature=player_detailpage
埋め込みコードなし・・・上のURLをクリックしてご覧ください。
SLあそBOY 雨の急勾配で立ち往生② 2003/10/13/MON
http://www.youtube.com/watch?v=WbEVr7de6OE&feature=player_detailpage
明治天皇六大巡幸展 第一回: 九州・西国 東北・北海道 北陸・東海道
http://blog.shimokitazawa.com/blog/2012/10/post_4f5a.html
東北御巡行
http://touhoku.sakura.ne.jp/00x-50om-kaihatu-02.htm
ご巡幸は、もちろん鉄道がない時であるし、大変な旅行であったが、その供奉者は当時の政府のベスト・メンバーであり、その人数も総勢百四十八名であった。
そのうち主なる人の名をあげてみると
二品
左大臣
右大臣
内閣顧問
内務卿
参議
司法卿
大史
宮内卿
侍従長
宮内少輔
宮内大亟
侍従番長
同 北白川宮能久親王
有栖川宮熾仁親王
岩倉具視
木戸孝允
大久保利通
大隈重信
大木喬任
土方久元(のち宮内大臣)
徳大寺実則(西園寺公実兄)
束久世通禧(のち枢密院副議長)
杉孫七郎(のち枢密顧問官)
香川敬三(のち皇后太夫)
米田虎雄(明治天皇の乗馬のお相手)
高崎正風(のち御歌所頭)
「テツ注」
なぜ、明治天皇が立ち寄られたかというと、想像の域を脱していませんが、名前が石川平十郎・源是清(みなもとの・これきよ)ということから、源氏の家系につながる名門で財産家だからでしょう。田畑も広くあり、小作人も大勢いたとも聞いたことがあります。
「テツ注」
母の生家の貼られてあったという紙片を見た覚えがあります。
つまり、配膳・談話・休息などの部屋割りを示すものでした。
その紙片は、母の弟宅で見ました。
福島県郡山の東電社宅に母の弟が住んでいました。東北電力の社員で、須賀川市の電気部(東電に併合される以前のこと)に勤めていました。
親戚は郡山市内または近くに住んでいると思います。
その家も走行中の汽車から火の粉が茅葺き屋根に飛び、全焼したそうです。
さらに、当時流行したメリヤス製造(家内工場)に手を出しましたが失敗したこともあり、全く無一文になりました。
「テツ注」
やがて、まさよは仙台の東北女学校(師範学校)を卒業後、結婚の話が持ち上がってきました。
相手は、伊達崎(だんざき)の旧家、亀岡家でした。
そして、てる子(当て字)を出産しました。
しかし、まさよはいつも下働きばかりさせられ、きつい労働(養蚕業)を強いられました。てる子と会えるのは、夜間を除いて授乳の時だけだったとか・・・。
そんな生活に耐え切れなくなったまさよは、てる子を連れて越河の実家に戻りました。
しかし亀岡家からは、てる子を取り戻しにやってきました。
まさよは、てる子と別れれも亀岡家に帰ることをしなかったのでした。
亀岡家では石川家の財産目当だったらしいことを、後になって聞きました。
亀岡家について
施工:小笠原国太郎
木造二階建 寄せ棟造り 本瓦葺き
下見板張り銅板仕上げ
建築面積415.5㎡ 延床面積646.9㎡
二階建ての主棟の外観は洋風で、屋根には塔屋やドーマ、縦長の窓、玄関入り口上部の曲線など洋風建築の要素を取り入れ、屋根周りの収まりは和風になっていたり、・・・。
福島・伊達 / 旧亀岡家住宅 1・外観 - じゃらんカメラ - Yahoo!ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/kmy22jp/32447354.html
福島・伊達 / 旧亀岡家住宅 2・内部 - じゃらんカメラ - Yahoo!ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/kmy22jp/32455991.html
洋間に置かれたブリタニカ百科辞典(英語版?)
亀岡邸
http://www7.plala.or.jp/oygd/sanpomiti/kameokatei.html
蚕種製造業で財をなした亀岡家の住宅: アメセルのブログ
http://amecell-garden.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-ce30.html
福島の建築 ⑫
http://kazenoshin.exblog.jp/9816999/
ところで、亀岡家と 亀岡高夫さんには関係がないのでしょうか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%80%E5%B2%A1%E9%AB%98%E5%A4%AB
亀岡 高夫(かめおか たかお、1920年1月27日 - 1989年3月13日)は、日本の政治家。自由民主党衆議院議員。建設大臣、農林水産大臣を歴任した。
亀岡家住宅とメリヤス製造との関係
伊達の香りsub19
http://datenokaori.web.fc2.com/sub19.html
戦後まもなく産声を上げた伊達郡のメリヤス編みは荒廃の中から立ち上がりました。 衣料不足の時代で、造った ... 福島県のニットの生産額は昭和59年がピークで360億 円を越えました。現在までに大きな .... 会社として積極的にホームスパンの製造を行った のは伊達崎の亀岡紡織であった。亀岡家住宅(現在保原町に移築、県指定文化財)の 二階もホームスパンの織機が置かれ女工さんが何人も通っていた。泊まりの女工さんも 20人 ...
メリヤスとニットの町 保原・梁川
伊達郡のメリヤス編みは荒廃の中から立ち上がりました
http://datenokaori.web.fc2.com/sub19.html
TURNER - 公益財団法人 仁泉会
(Adobe PDF) - htmlで見る
「旧亀岡家住宅」 その他
http://www.jinsenkai.or.jp/turner/wp-content/uploads/2012/02/TURNERvol02.pdf#search='%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E7%9C%8C%E4%BC%8A%E9%81%94%E5%B4%8E+%E4%BA%80%E5%B2%A1%E5%AE%B6'
「テツ注」
その後、母は藤田の市川重夫と結ばれ哲也が生まれました。
これが、この私、市川哲也です。
運悪く、重夫が胃がんが元で死亡しました。
市川重夫の納骨のためかも知れませんが、テツと母は福島県の北部の藤田を訪れました。もしかしたら藤田に市川家の墓があるのかも知れません。
当時重夫の兄が藤田駅の駅長でした。
藤田駅の近くに宿をとり、翌日萬蔵稲荷神社に行った記憶があります。そして藤田に戻り、途中貝田駅(当時は信号所)で一休みして、越河の母の生家跡を訪ねました。母と祖母の石川いしが同行しました。
参拝の目的が何であるかテツには分かりません。
この神社が祖母の信仰の対象だったかも知れません。
萬蔵稲荷神社
県道46号白石国見線(小坂峠)
http://roadweb.web.fc2.com/report_p/p046_kosaka/p046_kosaka_1.htm
小坂峠について
国見町小坂と宮城県白石市小原の間にある羽州街道の峠で、標高は441mある。
萬蔵稲荷神社(宮城県白石市)|ゴシュインデイズ
http://ameblo.jp/idjericho/entry-11080697588.html
「テツ注」
しばらく母は須賀川の町営電気部につとめていました。
あるとき叔母の夫の生家(山梨県大月市七保町)を訪ね、そこで過ごしました。大きい茅葺きの家で、2・3階は蚕のねぐらになっていました。
テツを養子にしたいという親族の意見があったらしいですが、詳しいことは分かりません。
しかし、テツの学校の問題ということで、須賀川に戻ることになりました。
これもテツの推測ですが、まさよにとっては、再び養蚕という仕事に従事するという煩わしさが嫌だったのかも知れません。
1942年(昭和17年)4月18日(東京に最初の空襲があった日)の早朝、テツと母は祖母の夫に送られて家を出ました。
駅までの間に桂川(相模川の上流・山梨県の呼称)が流れています。
それを横切らねばなりません。当時は橋がなかったから、この渓流をおんぶされて渡りました。
朝早く家を出たのは、おそらく、他人に気づかれないように(逃げるように家出)するためだったと思います。須賀川から運んできた荷物は置いたままで、その家を出たのでした。
荷物は後で送り返されたことも知りました。
中央本線猿橋駅から上り列車(電気機関車が牽引)に乗り、東京に向かいました。
八王子駅(?)で東京行きの電車に乗り換え、更に東京駅で池袋方面行の山手線(外回り)に乗りました。
神田駅を出た頃、電車の窓越に飛行機が見えました。かなりの低空飛行で、操縦席には人の姿が見えました。後で気づいたのですが、機体には日の丸ではないマークが付いていました。
電車が目白駅についた時、ホームのスピーカーから「空襲警報」のアナウンスを耳にしました。
てっきり友軍機と思っていましたが、実は敵機だったのです。マークが星の形の米軍機でした。地上からの対空砲火(高射砲)の音も聞こえませんでした。
ドーリットル空襲・・・1942年(昭和17年)4月18日
「初めての空襲ドーリットル空襲(ドーリットルくうしゅう、英語:Doolittle Raid)、またはドゥーリトル空襲とは[1]、第二次世界大戦中の1942年(昭和17年)4月18日に、アメリカ軍が、航空母艦に搭載した陸軍の爆撃機によって行った日本本土に対する初めての空襲である。なお作戦遂行において中華民国軍の支援を受けた。名称は空襲の指揮官であったジミー・ドーリットル中佐に由来する。」
「テツ注」
その後、母の収入だけでは生活に困るということで、須賀川市の平家(茶商)と三度目の結婚をしました。そして、平光子(みつこ)が生まれました。
そのようなことで、平哲也には二人の姉妹がいるのですが、現在の様子は分かりません。
消息をご存知の方はお知らせください。
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