大阪天神橋周辺での撮影は久しぶりです。天神橋といえば大阪で一番長い商店街が有名で、天神祭りの際には商店街が人で埋まります。また、901年に菅原道真が、藤原時平により九州大宰府に配され、903年に没した後に天神信仰が始まり、村上天皇の勅命によって建立された大阪天満宮は、天神橋のすぐ北側にあり、隣には繁昌亭という上方落語の寄席があります。本日休憩中に天満宮と繁盛亭に立ち寄ってみましたが、寄席は前売り完売で、当日券だと立ち見という繁盛ぶりでした。ほかの話は次に譲るとして、今回の主役は松岡亜由美さん。 東京からこられた岩手出身のお嬢さんです。 とにかく目がくりくりしていてかわいく、初々しい好感の持てるお嬢様でした。
平家ゆかりの碑・平家塚は神戸・和田岬や山口・赤間神宮ちかくなど、各地に見ることができる。ここに紹介するのは兵庫県赤穂にある平家塚である。なかでも武芸に秀でた平経盛一家は一の谷や壇ノ浦で大きな活躍をするのであるが、ここ赤穂の塚は一の谷の戦いで破れた一家が落ち延びたところのようである。 今日、姫路相生CCでゴルフを楽しんだ後に帰宅途中に見つけた塚で、人里はなれた山奥に5kmほど車を走らせたところにあろうとは、驚きである。
平家は屋島から大軍を率いて福原から一の谷の3kにおよび、海上には数千の軍船を浮かべている。 源範頼、梶原景時は 平家の総勢3万、源氏洛中の兵は3千。 ここは時を待ち、鎌倉からの援軍と合流して平家追討を提案した。 ところが義経は今がその時と妙案を携えてでた。 源氏の武将を説得し、院の許しを得ると、さっそく3千騎は大江山に陣を構えて平家の動きの詳細をつかんでいた。 一軍は範頼を大将として摂津の伊丹から西宮を抜けて生田川への平野を進む2千騎。 また義経率いる1千騎は、丹波路を篠山、小野と進み鵯越から敵地の真上へ襲いかかろうというのである。畠山次郎重忠、土肥実平などは、梶原景時を何故か嫌っていただけに、軍艦景時のいない二陣に嬉々としていた。 このとき平家の若武者・敦盛(清盛の弟・経盛ツネモリの三男)は洛の暗がりにただ一人で忍び入っていた。右大弁宗親の姫君の舘へ近づき、尽きぬ名残を語り合い、つい二夜ともなった。 右大弁宗親はかねてより平家と源氏が共存できないものかと考えていたお方である。 その頃屋島の本拠地では平家総勢が生田、輪田をめざして船出陣をするさなかであった。 ところが教盛の三男・敦盛が失踪したという。 臣下には命を捨てて戦に望め、といっているだけに、身内の者が失踪し、教盛は激怒し敦盛を勘当し、船出したのであった。 しかし兄・経正は弟を信じていた。 かくして、敦盛は忠度に背を推されて、二の尼の後陣として船出したのである。 播磨の室津(姫路の西)には平家の軍船が無数にはいっていた。 時に、入道清盛の命日にあたるこの日は法要が営まれる巨大な船では、清盛が好んだ弦が奏でられた。 建礼門院は琴を、薩摩守忠度は笙(しょう)、門脇中納言教盛はひちりき、三位中将重衡は鼓、修理太夫経盛の嫡子・経正は琵琶、弟敦盛は笛という具合である。さて、平家側の守備・攻撃陣であるが、鵯越の先・丹波路は資盛を大将に有盛、師盛、忠房を副将として兵2千で柵を築き、生田川の口は知盛を大将、重衡を副将に6千の兵にて力を注いだ。 鵯越の道は越前三位通盛、越中前司盛俊、若狭守経俊が3千の兵で守るのである。 一の谷では薩摩の守忠度、忠光、景清、景経、敦盛らを有して控えさせ、海上には残る1千の兵が待機している。 これに対して源氏方は、さきの宇治川での義仲との戦いで傷つき、疲れた兵を含めてわずかに3千である。源氏の勝算は一の谷での背後からの奇襲攻撃もあるが、後白河法皇とのだまし討ちにあった。 この時院から平家方へ、入道清盛の命日をはさむことを理由に1週間は攻撃をせずに大江山で待機する旨の連絡があった。 また、和議も考慮にいれているとのことである。平家方の雑兵は和議の噂に喜び、鎧・兜を緩めがちに休憩するのである。 ところが実はすざまじい勢いで、義経軍は大江山から丹波路を突破し一の谷の間近まで迫り、範頼軍も生田の口から福原へ攻め入ろうと進んでいたのである。平家本陣が油断しているとき、丹波路に柵を築いていた資盛大将以下有盛、師盛、忠房副将は義経軍に破られ、からくも丹波路から高砂を経由して屋島へ逃げていた。義経の、奇襲を悟られまいとする追撃が屋島へ追いやったのである。かくして義経は400騎を従えて、鵯越を逆落としに駆け競った。 この前夜、通盛の兵は鵯越の途中を教経は西国街道の辻を守っていた。義経がこの二陣を突破して駆け抜けたときには時遅く、和議が偽りであったことに気付くのであった。軍の数においては圧倒的に平家の有利であったが、地勢と時の心理においては源氏方が有利であることはゆうまでもない。 教経の薙刀「龍炎」もむなしく、兄・三位通盛卿のみしるしは、元三位の家臣である木村源吾俊綱に討ち取られていた。また、清盛の側近であった盛国の息子・越中前司盛俊も義経の騙まし討ちに驚き、東国の猪俣小平六則綱に落ちている。
昨年9月の台風12号による土砂崩れに遭った兵庫県加古川市志方町永室の長楽寺で8日、平清盛によって安置されたと伝えられる本尊「木造地蔵菩薩半跏像」が特別開帳された。国の重要文化財で、普段は20~30年に一度しか開帳しない秘仏。土砂災害で本堂は倒壊したが、本尊を安置する地蔵堂は無事だった。花祭りに合わせ、被災を免れた姿を見てもらおうと1日限りの公開を決めた。寺に伝わる縁起によると、本尊は、平清盛の娘で、高倉天皇の皇后だった徳子が出産した際、天皇が清盛に命じて安置させたという。実際には鎌倉時代後期~南北朝時代の作とされる。本堂が2009年5月に大改修を終えたときも特別開帳されており、3年ぶりの公開となる。拝観した播磨町本荘2の主婦(63)は「境内は新緑が美しく、眺めも良い。本尊は麗しい表情で、心が安らいだ」と笑顔を見せた。改修工事を寺役員として推進した永室地区の上原十郎さん(86)は「改修からわずか2年半で本堂が倒れ、がく然とした。でも今は、本堂が自らを犠牲にして住民を守ってくれたと感謝している。長楽寺が村の守り神であることは変わらない」。釋康祐住職(70)は「再建はまだ遠いが、多くの人に参拝してもらえるよう整備を進めたい」としている。(神戸新聞より抜粋)
近衛天皇が崩御したのが1955年、近衛天皇の第一皇子であり美福門院(得子)の養子となっていた守仁親王が即位するまでの中継ぎとして、雅仁親王は29歳で即位して後白河天皇が誕生した。その翌年には保元の乱が起こっている。当時の後白河天皇は暗愚の君とよばれていたために、鳥羽は崇徳と頼長の結びつきに危機感を抱き、死の直前に藤原得子・美福門院に遺言を残した。 それは「武士団を召集して、崇徳や頼長が謀反を起こしたことにして討つ」 というものである。 1156年の保元元年に鳥羽法王が崩御したことで崇徳上皇側と後白河天皇側のバランスが崩れていよいよ戦いは始まった。 最初、鳥羽側の武士団には最有力の清盛はいなかった。 述べたように、崇徳は鳥羽の実子ではなく、白河と藤原璋子の子である。 また清盛も忠盛の子ではなく、白河が愛人・祇園女御の妹を孕ませ、忠盛に押し付けた跡に生まれた子である。 しかし後を託された藤原得子は武力・財力に秀でた清盛を招集し、清盛も呼応した。 また左大臣頼長と仲の悪かった源義朝は後白河天皇側についた。 一方、崇徳、頼長側は平忠正、源の総帥・為義、為朝を召集した。平忠正が何故平氏一門を抜けて崇徳上皇側についたのかはわからない。平忠盛は崇徳上皇の皇子・重仁親王の後見であったことから、崇徳側につくことが本来の形かもしれないが、池禅尼は崇徳の不利を悟って忠盛の五男・平頼盛に後白河側につくように命じている。つまりこのときには平清盛は後白河側につくことを決めており、平家を二分する内紛が少なからずあったと思える。頼盛が母・池禅尼に説き伏せられたように、平忠正も従うことが平家の絆と思えるからこそ、わからないのである。源為朝は為義の八男で、母は摂津江口の遊女である。「無双の弓矢の達者」としてその名をとどろかせていた為朝は父に従って上皇側についたのであるが、実は為義はすでに高齢であり、上皇側の大将として招かれるも、辞退している。しかしついに承諾させられて、6人の子を引連れて崇徳上皇の御所・白河北殿に参上したのである。 招かれた上皇側の大将の経緯と藤原頼長が崇徳上皇側と手を組んだ経緯を考えると既に勝敗はきまっていた。 藤原頼長が何故崇徳上皇と結びついたのかであるが、前回の記載のように、近衛天皇が17歳で崩御したとき、崇徳は自分が返り咲くか、子の重仁親王(美福門院・藤原得子の養子に迎えられかわいがられていた)が即位することを期待したのであるが、雅仁親王が後白河天皇として1955年に即位したのである。このときの崇徳上皇の激怒に乗ってきたのが悪左府と呼ばれた左大臣藤原頼長である。
保元の乱の結果は源義朝の奇襲により後白河側が勝利したというが、その詳細はよくわからない。源氏の攻撃の特徴は奇襲であり、それは源為義、為朝も十分に承知している。そもそも奇襲攻撃は為朝によって計画・提案されたようであるが、藤原頼長により退けられたという。「夜討は卑怯、興福寺の僧兵の到着を待って決戦するべし」との記載が保元物語にあるらしいが、納得できる筋ではない。逆に後白河側の源義朝が白河北殿に夜討をかけ、平清盛の軍勢も為朝の守る西門を攻めた。これにより上皇方は総崩れとなり、崇徳上皇や頼長は御所を脱出、天皇方は残敵捜索をするとともに、為義の円覚寺の住居を焼き払った。頼長の敗北を知った忠実は、宇治から南都に逃亡したのである。 頼長は重症を負って闘争中に死亡、崇徳は末弟の覚性法親王が門跡を務めていた仁和寺に助けを求めたが、密告されて捕まったという。
法隆寺金堂内に納められている釈迦三尊像に関する記事が読売新聞にあった。つい先日法隆寺を訪れたときに紹介を終わっていたが、聖徳太子の后・膳部菩岐岐美郎女の死622年2月や母・間人皇后の死622年4月を受けて、その冥福を祈って造られたことが説明されている。また台座に残る円形の痕跡についての不思議が記載されているが、これはもともと夢殿にある救世観音像がこの台座に安置されていたことを意味することはすでに紹介した。 いつも思うのであるが、何十年かぶりに法隆寺を訪れ、ボランテイアの方から聞いた内容が、偶然にも直後の新聞記事に出てくるというタイミングに驚いてしまう。
小学館 仏像より抜粋
今日、5月21日は25年に一度という金環日食の話題で一日が始まった。ベストタイミングは8:00頃ということもあって、会社のブラインドを通して金環日食の様子がキャビネット上に映し出されるさまにしばし見入った。出勤時の空は少し暗く、いよいよだなと思いつつ、しかしながら完全な金環食の帯の中ではない。 ところで過去1000年で金環食は今回が39回目だというから、はやり平均25年に一度のようである。時代は平安時代に遡って源平の戦いが繰り広げられていた頃のことである。以仁王の令旨によって挙兵、都から逃れた遺児・以仁王を北陸宮として擁護し、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って上洛したのは木曽義仲、1183年5月のことである。その勢い盛んな旭将軍・木曽義仲を平氏が破ったのが1183年10月の水島の戦いである。木曽義仲軍7000騎と500余艘に対して平氏・平重衡・平通盛軍は1000余艘というから源氏側が有利に思えるが、結局木曽義仲軍は惨敗して京都へ敗走することとなった。この勝利により平氏軍は勢力を回復し、再入京を企て一の谷の戦いを迎えることとなる。この水島の戦いの最中に95%ほど欠けた金環食が起こったことが、「源平盛衰記」に記されているという。現在の解析技術によって、当時の金環食95%がみられた地域も特定することができる。現在の水島は倉敷の水島コンビナート近辺をいうが、当時はその周辺の島々のことを水島といっており、95%の欠け率などから、どの島が合戦場所であったのかも特定できるかもしれない。そして金環食を迎え、空が異様に暗くなったときに、騎馬戦を得意とする源氏にとって不幸なことが起こった。 つまり空の変化に驚いた馬が制御不能になったことで、木曽義仲軍は大敗するのである。 (この大敗理由は私の勝手な説)これが本当かどうかは別として、無敵の木曽義仲がこの戦いで初めて負けたというから、金環食が作用したのはほんとうであろう。
木曽義仲が京都に敗走した頃、頼朝の弟・義経が大将軍となり数万の兵を率いて上洛してきた。驚いた義仲は、「生涯の遺恨」であると後白河院に激烈な抗議をし、頼朝追討の宣旨を要求している。もはや木曽義仲の敵は平家ではなく源頼朝となり、源範頼、義経率いる鎌倉軍との開戦となる。 このとき木曽義仲は法皇幽閉など一連の行動により既に人望を失っており、付き従う兵も無く宇治川や瀬田での戦いに惨敗した。その後落ち延びるが近江粟津において討ち死にしたのである。木曽義仲が源氏の棟梁、源頼朝に反旗を翻したのには理由がある。頼朝の祖父・為義は嫡男・為朝を見切って、次男・義賢を源氏の棟梁としたことがる。義賢は木曽義仲の父にあたる。ところが棟梁の座を奪うべく義朝は、弟にあたる義賢を殺して棟梁の印・友切の剣を奪い取ったのである。1155年のことなので、義仲1歳の頃のことであるが、義仲は源氏の棟梁となった頼朝のことを相当恨みに思っていたのかもしれない。また、義朝は東国を束ねようとした武士であるのに対して義賢は男色の毛があり、二人はもともと合わなかったのである。
穴穂部間人皇后は厩戸皇子の母、用明天皇の父である。現在奈良磯長陵に聖徳太子と膳部菩岐岐美郎女とともに葬られている。日本書紀での記載を見る限り、その人生は政の犠牲になった感が極めて強い。厩戸皇子側の蘇我氏連合軍が物部氏との戦いに勝利して確固たる地位を築いた頃の記載はあまりなく、蘇我馬子が崇峻天皇を擁立しておきながら、傀儡として政治の舞台から追いやり、そのために穴穂部間人皇后の再婚相手に用明天皇と馬子の姉・石寸名郎との間に生まれた田目皇子を選んだというから、皇后は甥と結婚したことになる。厩戸皇子にしてみれば母親が従兄弟と結婚したのだからいい気分ではなかったはずである。しかし愛する母親が、用明を早くに失い、塞ぎ込んだ気持ちが少しでも晴れるのであれば、それも仕方ないと自分を説得した様子が、婚儀の宴の記載で伺えるようである。間人皇后は田目皇子と結婚すると佐富女王をもうけ、その女王は長谷王といって厩戸皇子と膳部菩岐々美郎女との間に生まれた皇子と結婚して、「葛城王」「多智奴女王」を産んでいる。しかしこのあたりの詳細の年代は一切不明である。
ところで法隆寺となりの中宮寺金堂は厩戸皇子が母・間人皇后のために建て、そこは皇后の宮であったと云われており、位置的には、葦垣宮、飛鳥岡本宮、斑鳩宮を結んだほぼ中央にあることから「中宮」と称されたらしい。間人皇后は、蘇我氏と物部氏との争乱の際には丹後に身を寄せたことから、丹後には「間人」と書いて「たいざ」と読む地名がある。因みにこの地方で獲れるカニをタイザガニというが、これは地元に人びとが畏れ多いとして座を退いたことから間人のことを退座、つまりタイザと読んだという。 間人皇后が崩御したのは622年2月である。実はそれから間もなくの622年4月7日に、厩戸皇子の愛する妻・膳部菩岐岐美郎女が亡くなり、厩戸皇子自身は翌日の4月8日に亡くなっている。この連続の死は、後に上宮家一族の全滅を暗示する事柄のように思えてならない。
ここ間人皇后の供養塔は、法隆寺の北ほど近いところにあります
再び大山へやってきた。前回は後醍醐天皇と名和長年公を訪ねるのが目的であったが、今回はゴルフである。名和氏の先祖は村上天皇の第七子具平親王であるから赤松氏と系統が同じである。そこから9代目の僧侶・常陸房昌明という人物が源義経の伯父である行家を捕まえて恩賞として鎌倉幕府から但馬の多田荘と葉室荘を与えられ、承久の変でも鎌倉幕府の側に付き但馬の守護職と多数の荘園を与えられた。 そしてその子の行明にも伯耆の長田が与えられたという。 名和氏は、大山奥の長田から海岸近くの名和に館を移し姓を『名和』と名乗り、海運業、漁業などで財力のある豪族となっていった。その名和氏が後醍醐天皇に忠誠を誓ったのは約650年前のことである。
後醍醐天皇の討幕は2回行われた。 その一回目は1324年の正中の変は後醍醐天皇の無礼講メンバー多治見国長、土岐頼兼、日野資朝、日野俊基らによって実行された。 この行動の直接のきっかけは大覚寺統の後宇多法皇の死去である。 後宇多は後二条、 後醍醐天皇兄弟の父であり、大覚寺統では後醍醐天皇の次の天皇は後二条の子・邦良親王と決められていた。 本来なら兄の後二条が後を継ぐ予定であったが、早くに死んだために次男の後醍醐天皇がつなぎとして即位した。 ところが後宇多が死んでしまったから皇太子の邦良親王の立場は微妙なものとなる。 そこで、邦良親王は幕府を動かして後醍醐天皇を退位させ、一刻も早く天皇になろうと考えたのである。 鎌倉武士に強要され実権のない上皇になることに抵抗を覚えた後醍醐天皇は決行した。 幕府の京の拠点である六波羅探題を襲撃して北条範貞を殺害すると、奈良興福寺の僧侶に挙兵させ、機内の武士を呼びかけた。 一気に鎌倉に圧力をかけようというのである。 ところがこの計画が土岐頼兼の舅にあたる斉藤利行という六波羅の御家人の耳にはいり漏れたのである。 これにより先手を打った六波羅は多治見国長、土岐頼兼を滅ぼして、日野資朝、日野俊基を生け捕りにされ、 資朝は佐渡に流罪、俊基は放免という寛大な処置であった。 後醍醐天皇はこれに懲りずに六波羅の要人・伊賀兼光を寝返らせ、楠木正成、足利尊氏、新田義貞といった有力御家人を味方につけていく。 楠木正成は河内の出身であるが、その家系、身分は不明である。 ただ楠木正成が幼少の頃朱子学を学んだという河内の観心寺は後醍醐天皇の属する大覚寺統の寺であり、後醍醐天皇の側近・万里小路藤房を通して繋がったらしい。 二回目の討幕計画・元弘の変は1331年起こった。 しかしまたもや側近の吉田定房によって鎌倉にしらされ計画は失敗し、後醍醐天皇は隠岐に流された。 しかし後醍醐天皇は笠置山に脱出すると、ここで挙兵し、楠木正成は本拠地で呼応した。 このとき幕府は本格的に笠置山を攻めて落城させている。 この時の幕府側の大将が足利尊氏である。 後醍醐天皇は捕獲され京に連行されると、二条為子との間にできた尊良親王は京で捉えられ、護良親王は吉野にはいった。 護良親王はもともと延暦寺の僧・尊雲法親王として押し込められていたが、還俗して護良親王と改名していた。 このとき楠木正成は河内の赤坂で孤立状態で奮闘していたが、とうとう夜陰に乗じて逃げてしまった。 百倍もの敵を相手にまんまと逃げおおせたというのは勝利に等しい。 後醍醐天皇は隠岐へ流罪、宗良親王は讃岐、尊良親王は土佐に流され、持明寺統の量仁親王(後伏見天皇と西園寺寧子との間の親王)が即位して光厳天皇となった。 このとき護良親王と楠木正成は俄かに体力を回復させていた。 幕府はこれをみて、再び大軍を動員して二人の征伐を決意する。 しかし楠木正成の奮闘中に、1333年、後醍醐天皇は隠岐を脱出し、名和長年という豪族の支援を受けて船上山で挙兵し全国の武士に討幕の綸旨をばらまいた。 鳥取県大山町界隈の豪族である名和長年は、後醍醐天皇が隠岐を脱出する際に全面協力をしたことから、建武の新政権では河内の豪族・楠木正成らとともに重用された。
そんなゆかりのある大山町の南10kmほどに見える別名・伯耆富士とも出雲富士呼ばれる標高1700m超の山が大山であり、その雄大な姿を眺めながらラウンドできるのが大山ゴルフクラブである。今回はスコアもさることながら、大山の勇姿にも集中しながら何枚かのショットを収めました。
法隆寺の近くにある中宮寺宮墓地に行ってみた。法隆寺東院伽藍の東にある中宮寺と関わりがあるのだろうかと思ったが、関係はないようで、宮内庁が治定した皇族の墓が中宮寺の近くにあることから中宮寺宮墓と名づけられただけのようである。 この墓には次の六墓一塔が治定されている。伏見宮貞敦親王王女・尊智女王、伏見宮邦房親王王女・尊覺女王墓、後西天皇皇女・高榮女王墓、有栖川宮職仁親王王女・榮恕女王墓、有栖川宮織仁親王王女・榮暉女王墓、伏見宮貞敬親王王女・成淳女王墓である。 以下に示した系図からも伏見宮家と有栖川宮家の王女墓から共通点は天皇の直系ではない王女(直系の内親王ではない)であることくらいで、年代はばらばらで実績なく、門跡寺院に入門していることくらいの関係しか見れない。住まいに共通点があったのだろうか。
┏伏見宮貞成親王(後崇光院) 勧修寺(藤原)房子 花山院(藤原)兼子
┃ ┣性恵女王 ┣応善女王 ┣大慈光院宮
┃ ┣102後花園天皇(彦仁)1419-1471 ┣仁尊法親王┣知円女王
┃ ┣めここ皇女┣103後土御門天皇(成仁フサヒト)1442-1500
┃ ┣理延 ┣嘉楽門院藤原信子┣104後柏原天皇1464-1526
┃ ┃ 大炊御門信宗 ┣尊敦親王 ┣覚鎮女王
┃ ┣王女 皇太后源朝子 ┣105後奈良天皇(知仁)1497-1557
┃ ┣雲岳聖朝 ┣清彦親王 ┣106正親町天皇(方仁)
┃ ┣伏見宮貞常親王④1425-1474 豊楽門院藤原藤子 ┣永寿女王 ┃
┃庭田(源)幸子┗伏見宮邦高親王⑤1456-1532 万里小路(藤原)栄子 ┃
┃ ┗伏見宮貞敦親王⑥1488-1575 ┃
┃ ┣尊智女王 ┃
┃ ┗伏見宮邦輔親王⑦1513-1564 ┣誠仁親王(陽光太上天皇)
┃ ┣伏見宮貞康親王⑧1547-1568 藤原(万里小路)房子┃
┃ ┗伏見宮邦房親王⑨1566-1622 ┃
┃ ┃┗尊覺女王 ┏━━━━━━━━━━━━┛
┃ ┗□ ┣107後陽成天皇 櫛笥隆子1604-1685(逢春門院)
┃ ┗□□ 藤原晴子┣聖興女王 1590-1594 ┣光子内親王1634-1727
┃ ┗伏見宮⑲貞敬親王 ┣清子内親王1592-1674 ┣良仁親王 1638-1685(111後西天皇)
┃ ┗成淳女王 ┣政仁親王(108後水尾天皇)1596-1680 ┗高榮女王
┃ ┣尊英女王 ┃┃┣興子内親王1623-1696(109明正天皇)
┃ ┣近衛信尋 ┃┃┣昭子内親王1625-1651
┃ ┃ ┃┃┃ ┣近衛基熙1648-1722(左大臣) ┓
┃ ┃ ┃┃┃ ┣好君(伏見宮貞致親王妃) ┃
┃ ┃ ┃┃┃┏近衛尚嗣(関白・左大臣) ┃
┃ ┃ ┃┃┃┗泰姫君(水戸藩主・光圀室) ┃
┃ ┣高松宮好仁親王┃┃┣高仁親王1626-1628 ┏━━━━┛
┃ ┣一条昭良 ┃┃徳川和子(東福門院) ┃
┃ ┣貞子内親王 ┃┣紹仁親王(110後光明天皇┃
┃ ┣庶愛親王 ┃┣守澄法親王 ┃
┃ ┣尊蓮女王 ┃園光子(壬生院) ┃
┃ 近衛前子(中和門院)┣常子内親王 ━┛
┃ ┣識仁親王(112霊元天皇)
┃ 園国子(新広義門院) ┗有栖川宮⑤職仁親王
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ ┣榮恕女王
三条治子(西御方) ┃ ┗有栖川宮⑥織仁親王
足利尊氏1305-1358 ┣伏見宮治仁王 ②1370-1417 ┃ ┗榮暉女王
┣足利頼子 源資子 ┣伏見宮貞成親王③1372-1456 ━┛
赤橋登子┃ ┣栄仁親王(伏見宮①)1351-1416
三条秀子┃ ┣興信法親王 藤原資子
藤原公子1232-1304 ┣興仁親王( 3崇光天皇 ) 三条厳子┣101称光天皇
┣貴子内親王 西園寺寧子 ┣弥仁親王( 4後光厳天皇 ) ┣6後小松天皇1377-1433
┣姈子内親王 ┣量仁親王(1光厳天皇)1313-1364 ┣緒仁親王(5後円融天皇) 1359-1393
┃ 藤原経子┣豊仁親王(2光明天皇)1321-1380 ┣熈永親王
┏89後深草天皇 ┣胤仁親王(93後伏見天皇)1288-1336 ┣尭仁法親王
┃ ┣熈仁親王(92伏見天皇)1265-1317 ┃ 藤原仲子1339-1427
┃ ┃ ┃┣尊園親王1298-1356 ┣尊道親王1332-1403
┃ ┃ ┃三善衡子 正親町実明女
┃ ┃ ┗━━━━┓
┃藤原愔子1246-1329 ┣富仁親王(95花園天皇)1297-1348
┃ 藤原(洞院)季子 ┣直仁親王1335-1398
┃ 藤原(正親町)実子
┗━(持明院統:足利氏が京都に擁立 北朝)━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃
伊岐致遠女 ┃
源懿子1116-1143 ┣79六条天皇1164-1176 ┃
┣78二条天皇1143-1165 ┃
┏77後白河1127-1192 更衣尾張局 ┃
74鳥羽 ┃ ┣道覚親王1204-1250 藤原立子(東一条院) ┃
┣覚快法┃親王1134-1181 ┃ 修明門院藤原重子┣85仲恭天皇1218-1234┃
紀家子 ┣80代高倉天皇1161-1181┃ ┣84順徳天皇1197-1242 ┃
平滋子┃ ┣高成親王(82代後鳥羽天皇)1180-1239 ┃
┃ ┣守貞親王(後高倉院)1179-1223 ┣83土御門天皇1196-1231 ┃
┃ ┃ ┣86後堀河天皇1212-1234 ┃ ┣88後嵯峨天皇1220-1272 ┃
┃ ┃ ┃┣87四条天皇1231-1242 ┃ 源通子 ┃┣89後深草天皇┛
┃ ┃ ┃藤原竴子1209-1233 ┃ ┃┣90亀山天皇━┓
┃ ┃北白河院・藤原陳子 承明門院源在子 ┃西園寺姞子 ┃
┃ ┃ ┃持明院基家┛ ┣宗尊親王 ┃
┃藤原殖子(七条院) ┃1242-1274 ┃
┣言仁親王トキヒト(81代安徳天皇1178-1185) 平棟子 ┃
徳子1155-1214(建礼門院) ┃
┏━(大覚寺統:吉野朝廷 南朝)━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃平時仲女
┃┣慈道親王1282-1341
┃┃藤原嬉子1252-1318(今出河院) 不明
┃┃ ┣- 姈子内親王(1270-1307)後深草皇女(遊義門院) ┣海門承朝
90亀山天皇1249-1305┣- 阿野廉子1301-1359 藤原勝子 ┣世泰親王
┣世仁親王(後宇多天皇)1267-1324 ┣成良親王 ┣98長慶天皇1343-1394
洞院(藤原)佶子┃┣邦治親王(後二条天皇)1285-1308┣恒良親王 ┣99後亀山天皇1347-1424
1245-1272 ┃堀河(源)基子┃┣- ┣義良親王(後村上)1328-1368
(京極院) ┃(西華門院) ┃藤原(徳大寺)忻子 ┣祥子内親王
┃ ┣邦良親王1300-1326┃
┃ ┣邦省親王1302-1375┃
┃ 藤原(五辻)宗子 ┃
┣尊治親王 (96後醍醐天皇) 1288-1339
┃ ┃ ┃┃┣恒性皇子
藤原忠子 ┣懽子内親王1315-1362 ┃┃┣護良親王1308-1335
┃(光厳上皇妃、宣政門院) ┃┃源師親娘
┏西園寺禧子1303-13333(礼成門院 後醍醐中宮) ┃┣尊良親王1310-1337
┣左大臣公衡1264-1315 ┃┣宗良親王1311-1385
┣太政大臣兼季1281-1339 ┃二条為子
┣西園寺金章子1271-1342伏見天皇中宮)藤原実俊┣世良親王-1330
┣西園寺瑛子1273-1336(亀山天皇後宮) ┃┣静尊法親王?-?
西園寺実兼1249-1322 ┗遊義院一条局
関白御堂記や源氏物語に描かれている京都三大祭り・葵祭が繰り広げられたのは昨日のことである。平安時代の高貴な装束をまとった511人の行列が都大路を優雅に進み、沿道では約1万9千人が華やかな王朝文化の雰囲気を楽しんだ。葵祭は上賀茂神社(北区)と下鴨神社(左京区)の例祭で、正式には「賀茂祭」だが、参加者がアオイの葉を身につけることから、この名で呼ばれる。起源は6世紀で、天皇が国の安泰や五穀豊穣を祈った故事にさかのぼる。今年は雨のため15年ぶりに行列「路頭の儀」が順延され、15日は両神社で「社頭の儀」が行われた。(京都新聞より一部抜粋)
2006年の葵祭り 藤に飾られた牛車・唐車 と 斎王代用八葉車
法輪寺は奈良県斑鳩町にある仏教寺院で、法隆寺東院の北方に位置する。寺史に関わる史料は乏しく創建事情の詳細は不明であるが、7世紀中頃の創建で、本尊薬師如来像と虚空蔵菩薩像は飛鳥時代末期の古像である。当寺の創建については、『日本書紀』には記載がなく、『聖徳太子伝私記』では聖徳太子の子である山背大兄王が太子の病気平癒を祈るため、622年に建てたとする。また、『聖徳太子伝暦』では百済の開法師・円明法師が建てたとする。
山背大兄皇子は厩戸皇子の第一皇子で皇太子候補でもあった飛鳥時代の皇族筆頭である。母は蘇我馬子の娘・刀自古朗女-623、平和主義に徹したことから一族滅亡の道を自ら選んだ悲劇の皇太子でもある。蘇我入鹿がなくなる二年前の643年に一族の上宮家は滅亡し、その埋葬地は斑鳩・富郷陵墓参考地とされていますが定かではないようです。
背景に見える丘中腹まで行ったのですが、山背大兄皇子の墓は見つからず断念
厩戸皇子の嫡男・山背大兄王一族が滅んだ理由をきわめて要約すると以下となる
推古9年から太子の革新政治が始まり、小墾田宮建都は舞台づくりで、仏教が発生し弾圧された聖地、理想主義的政治をしようとする厩戸皇子の都としてふさわしい場所といえる。 またこの地は厩戸皇子の祖父欽明帝の宮から西へ2km、厩戸皇子の叔父・敏達帝の宮の南1km、推古の同母兄用明帝の宮にも近く、稲目の家があった地であり、蘇我馬子から少し距離をとって太子独自の政治を始めるにふさわしい。 持統天皇、元明天皇や藤原不比等によって完成された律令官僚制の基礎をつくったのは厩戸皇子であり、天皇記や国記は古事記や日本書紀の先駆をなしたといわれる。 ところが律令制は都城制とは切り離せないものである。 推古11年の小墾田宮遷都はそういう律令制にふさわしい都城をいとなむことができるものでなければならない。
推古29年厩戸皇子は死に、推古34年に馬子が、推古36年に推古帝がなくなった。 推古末期には馬子の子・蝦夷が権力を握り、推古の次の天皇には厩戸皇子の嫡男・山背大兄王ではなく、敏達の孫であり、彦人大兄皇子の子である田村皇子を推挙した。 山背大兄王が血統と才能において優れているにもかかわらず、蘇我の血をひいていない田村皇子を推した。 山背大兄王と蝦夷の時代になって、馬子の現実、厩戸皇子の理想のギャップはどうしようもないほど広がっていた。 山背大兄王の理想主義は蝦夷にとっては耐えられないものになっていた。 蝦夷には、次は馬子の娘・法提郎女の生んだ古人大兄皇子を即位させれば蘇我氏は安泰であるとの考えがあった。 しかし舒明帝は蝦夷の思うようにはさせてくれなかった。 舒明には蘇我の血がはいっていない宝皇女との間に中大兄皇子がいて、当然彼が皇太子にいて皇位継承を主張すべき地位にいた。 蝦夷にとってはこの中大兄皇子が恐るべき存在であったのだ。 舒明2年、都を飛鳥の岡に移したのは厩戸皇子の政治との決別であり、小墾田宮に色濃く残る厩戸皇子の影からのがれようとした。 斑鳩の山背大兄王の政治的圧力からのがれようとした。
舒明の治世においてたびたび都が移動している。 飛鳥岡本、田中、そして百済へと遷都したのは明らかに蘇我氏からの離反を示している。 舒明の即位は蝦夷の強引な推挙によるものであるが、血統はどうしようもなく、蘇我の血をひかない舒明と蝦夷の間に溝が生じ、舒明はたびたび有馬や伊予の湯治にでかけて、蘇我氏からの脱却を図った。 中大兄皇子が皇太子になったのも、宮を飛鳥から遠くに離して飛鳥や豊浦に住んでいた蘇我氏の圧力から自由になったためである。 百済宮はかなり大きな都城の建造を意図したものであり、舒明は祖父の宮のあったこの地に、蘇我氏、厩戸皇子の本拠とも離れた巨大な都城をめざした。 蝦夷は、舒明の死後、皇后の宝皇女を皇極帝として即位させた。 山背大兄王でもなく、古人大兄皇子でもなかったのは、蝦夷の子・入鹿が皇極帝の寵愛を受けていたからである。 寵幸の近臣というから、男女関係を想定した寵愛であった可能性がある。 そして皇極の治世には入鹿による専横がより激しさを増していく。 皇極帝は元年、642年に百済大寺を建てようと夫の意思をついだが、あきらめて小墾田宮に遷ったのである。 ここは東宮・中大兄皇子の宮があったところで、この南に仮宮を建てた。 そして皇極2年の4月に飛鳥板葺宮に新宮を建てる。 ここは馬子の墓も近く、蘇我氏の本拠であり、皇極帝が完全に蘇我入鹿の意志のもとにあったことを意味する。
蘇我氏による王族の殺害は山背大兄王のときが初めてではなく、崇峻天皇殺害も実行している。 しかしなんら朝廷に動揺はなく、馬子への非難もない。 山背大兄王一族殺害でも蘇我氏に対する非難はそんなにおきていない。 事件の背後には皇位継承問題があり、蘇我氏だけによるものではない意図が働いていそうではある。 山背大兄王一族が滅亡した時点で、蘇我氏が推す舒明天皇の皇子・古人大兄皇子が有利であった。 中大兄皇子は若く、時期尚早であった。 皇極としてはしばらく皇位に居座り、わが子・中大兄皇子が成人した段階で譲位するつもりであった。 しかし蘇我氏からの圧力は高まる。 蝦夷・入鹿は甘樫岡に邸宅を作り、皇極への威嚇の意図もあって東漢氏の兵力を動員して軍備を増強した。 皇極は追い詰められており、先手を打ってクーデターを起こしたというのが真相なのかもしれない。 日本書紀には入鹿が皇位を狙ったという所伝がみられるというが、これは藤原氏による捏造、蘇我氏を逆賊にしようとするためのものと考えてよい。 蝦夷・入鹿がもくろんでいたことは古人大兄皇子の即位である。
大化新政権は律令国家建設をめざした改革であり、それらを草案したのは唐からの国博士・僧旻と高向玄理である。 僧旻は飛鳥寺の寺主を務めていたから蘇我氏とも近い人物である。 僧旻は自らの僧坊で周易を青年貴族層に講じており、そこには若き日の鎌足や入鹿がいた。 そして師から高い評価をえていたのは入鹿である。 僧旻は祖国・唐との交渉を望んでいたが朝廷はそれを許さなかった。 こうした状況を周易にとりいれた講義に入鹿は興味を抱き、国政改革を目指していたものと思われる。 皇極天皇から絶対の信頼を得た入鹿は、結局だまし討ちによって殺された。 当時の政権の主導権は天皇よりも入鹿にあったから、謀反の罪で征伐するのは不可能だったのである。 つまり何ら正当性のないものであり、この凶行が成功したとしても諸豪族の支持を得られるかどうかはわからなかったから、中大兄皇子らは飛鳥寺に篭って次の戦いに備えた。 しかし諸豪族は蝦夷側にはつかなかった。 蘇我氏の支流ではあるが、蘇我倉山田石川麻呂を味方につけていたのは大きかった。
阿部倉梯麻呂?-649
不明 ┣橘娘 ?-681
仏教賛成派 ┣ 吉備姫王 ┗小足媛624-?
蘇我稲目-579 ┃ ┣ 軽大郎女 ┣ 有間皇子639-658┓
┣ 蘇我堅塩媛?-? ┃ ┣ 36孝徳天皇(軽皇子)594-654 ┓┛
┃ ┃ ┏━━━━━━━━━┛ ┃ 飛鳥宮 ┏漢(建)皇子 ┃
┃ ┣ 桜井皇子560-587 ┣ 35皇極天皇(宝皇女)594-661 ┃
┃ ┣ 炊屋姫(33推古天皇)554-628 ┃ ┃板葺宮 (37斉明) ┃
┃ ┃ ┃ 大俣女王┃ ┣間人ハシヒト皇女628-665 ┛ ━┓
┃ ┃ ┣ 田眼皇女 ┣ 茅渟王?-?┣40天武(大海人皇子)630-686 ┃
┃ ┃ ┣ 竹田皇子 ┃ ┃ ┃┣ 十市皇女648-678 ┃┓
┃ ┃ ┣ 尾張皇子 ┃ ┃ ┃額田王631-689 ┃┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┣舎人皇子676-735 ┃┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃┣三原王-752 ┃┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃┃┗小倉王-□□-清少納言┃┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃┣大炊王733-765(淳仁) ┃┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃┃┣- ┃┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃┃粟田諸姉(仲麻呂義理娘)┃┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃橘娘┃当麻山背(当麻老娘) ┃┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃┣新田部皇女-699 ┃┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃┣明日香皇女-700(忍壁妻) ┃┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┣38天智(中大兄皇子)626-671 ┛┃
┃ ┃ ┃ 真手王 ┃ ┃乳母は蘇我,葛城で育つ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┗広姫 ┃ ┃ ┣ 大友皇子648- ┃ ┃ ━┛
┃ ┃ ┃ ┣押坂彦人皇子?-?┃宅子娘┣葛野王669-705┃ ┃
┃ ┃ ┃┏━━┛ ┃ ┃ 十市皇女648-678┃ ┃
┃ ┃ ┃┃小熊子女?┣34舒明天皇(田村皇子)593-641 ┃ ┃
┃ ┃伊比古郎女 ┃┃┃ ┣中津王 ┃ ┣古人大兄皇子-645 ┃ ┃
┃ ┃ ┣麻呂古 ┃┃┃ ┣多良王 ┃法提郎女(馬子の娘)┗倭姫王 ┃
┃ ┣ 31用明天皇┃┃┣ 糠手姫皇女-664 ┣ 蚊屋皇子 ┃
┃ ┃宣化 ┗┃┃┃ ━━┓ 蚊屋采女 ┃
┃ ┃ ┗┓ ┃┃┃ ┣ 来目皇子 ┃
┃ ┃石姫皇后 ┃┃┃ ┣ 殖栗皇子 ┏━━━━━━━━━━━━━┛
┃ ┃ ┣ 30敏達天皇538-585┣ 茨田皇子 ┣大田皇女644-667 石川郎女
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┣大伯皇女661-701┣-
┃29欽明天皇509-571 ┣ 厩戸皇子 ┃ ┣大津皇子 662-686
┃ ┣穴穂部間人皇女-621 ━┛ ┃ ┃ ┣- 長娥子(不比等娘)
┃ ┣穴穂部皇子-587 ┃ ┃山辺皇女663-686(天智娘) ┃
┃ ┣宅部皇子539-587 ┃ ┃ 御名部皇女(天智娘) ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┣長屋王
┃ ┃ ┃ ┃尼子娘(胸形君徳善娘)┣鈴鹿王
┃ ┣泊瀬部皇子(32代崇峻天皇)553-592 ┃ ┃ ┣ 高市皇子654-696 ┓
┣ 小姉君?-? ┃天武天皇631-686 ┃
┣ 石寸名郎女?-? ┃┃┃┃┗ 刑部皇子665-705(忍壁)┃
┣ 境部臣摩理勢-628(蝦夷が滅す) ┃┃┃┣但馬皇女-708 ┛
┃ ┗ 蘇我倉麻呂?-? 孝徳┃┃┃氷上娘-682(鎌足娘)
┃ ┣ 蘇我倉山田石川麻呂-649━┓ ┃ ┃┃┣長皇子-715
┃ ┃ ┃ ┃ ┃┃┃┣智努王693-770(文室氏に降下)
┃ ┃ ┃ ┃ ┃┃┃┗大市王704-780
┃ ┣ 蘇我日向?-? ┣乳姫┃┃┣弓削皇子-699
┃ ┣ 蘇我赤兄623- ┃ ┃┃大江皇女-699(天智皇女 川島妹)
┃ ┃ ┣常陸娘?-? ┃ ┃┃ 長屋王684-729
┃ ┃ ┃ ┣山辺皇女663-686 ┃ ┃┃ ┣膳夫王-729
┃ ┃ ┃天智天皇626-672 ┃ ┃┣ 草壁皇子662-689 ┣葛木王-729
┃ ┃ ┗大蕤娘669-724 ┃ ┃┃ ┣ 吉備皇女683-707
┃ ┃ ┣紀皇女?-? ┃ ┃┃ ┣ 軽皇子683-707(42文武)
┃ ┃ ┣田形皇女674-728 ┃ ┃┃ ┣ 氷高皇女 (44元正)
┃ ┃ ┣穂積親王-715 ┃ ┃┃ 阿閉皇女661-721(43元明)
┃ ┃ ┃ ┃┗但馬皇女 ┃ ┃┃ 聖武天皇
┃ ┃ 天武天皇┣大嬢 二嬢 ┃ ┣41持統天皇645-703 ┗井上内親王717-775
┃ ┗ 蘇我連子 大伴坂上郎女 ┃ ┣健皇子649-658 紀橡姫 ┣他部親王 761-775
┗ 蘇我馬子(嶋大臣)551-626 ┣蘇我遠智娘-649 ┣難波内親王┣酒下内親王754-829
┣ 蘇我蝦夷587-645 ┗姪娘 越君伊羅都売 ┣白壁王(光仁)709-781
┃ ┣ 蘇我入鹿605?-645豊浦宮 ┣ 阿閉皇女 ┣ 施基皇子-716
┃ ┗ 蘇我畝傍 ┣ 御名部皇女┃ ┣春日王703-745
┣ 河上娘(崇峻天皇妃) 天智天皇(中大兄皇子) 託基皇女665-751
┣ 法提郎女?-? ┣ ┣不比等659-720 ┓
┗ 刀自古朗女-623 鏡姫王 車持君與志古娘(安見児) ┃
┣ 山背大兄王595-643 ┗━━┓┣定恵641- ┣藤原麻呂695-737
┣ 財王608- ┃ 中臣鎌子614-669 ┃
┣ 日置王 ┣ 弓削王622 ┗藤原五百重娘669-695┛
┣ 片岡女王 ┃ ┣新田部皇子-735
厩戸皇子574-622 ┃ 天武天皇 ┣塩焼王-764(氷上真人)
┃ ┣ 舂米女王 ┃ ┃
┃ ┣ 馬屋古女王(第8子) ┣磯城皇子┗道祖王-757
┃ 菩岐岐美郎女-622 ┣忍壁皇子665-705 ┣陽候女王
┣ 手嶋女王 ┣泊瀬部皇女 ┗長野王
位奈部橘王 ┣託基皇女┣-
宍戸臣大麻呂娘 川島皇子657-691(天智皇子)
1155年近衛天皇が崩御した直後のことである。後継天皇の候補として崇徳上皇の第一皇子・重仁親王が最有力だったが、守仁王(後の二条天皇)が即位するまでの中継ぎとして、その父の雅仁親王が立太子しないまま後白河天皇として即位した。突然の雅仁親王擁立には雅仁親王の乳母・朝子の夫である信西の策略があった。この時頼長には、天皇の死は忠実・頼長が呪詛したためという噂が流されており、事実上の失脚状態となっていた。近衛天皇の霊は「何者かが自分を呪うために愛宕山の天公像の目に釘を打ったため、自分は眼病を患い、亡くなるに及んだ」と述べ、調べてみると確かに釘が打ちつけられていたという。住僧に尋ねてみると「5、6年前の夜中に誰かが打ち付けた」と答えたという。忠実は頼長を謹慎させパイプ役である高陽院を通して法皇の信頼を取り戻そうとしたが、12月に高陽院が死去したため望みは絶たれた。
同じ頃、源義朝と源義賢(義朝の異母弟で木曾義仲の父)は源氏の棟梁争いで対立し、義朝の嫡男・義平は義賢の居館・武蔵国の大蔵館を急襲し、義賢や義賢の舅・秩父重隆を討ちとって武名を轟かせていた。この合戦は秩父一族内部の家督争いに端を発したものに、源氏内部の争いが結びついたものである。これにより源氏の棟梁の証である友切の太刀は、為義より義賢に委ねられていたのであるが、義平より父・義朝のてに移され、源義朝が源氏の棟梁になったとのことである。 この大蔵合戦により義平は「鎌倉悪源太」と呼ばれるようになった。 そして同じ頃、鳥羽法皇の容態は悪化し、第一皇子である崇徳院は臨終の直前に見舞いに訪れたが、対面はできなかった。『古事談』によれば、法皇は側近の藤原惟方に自身の遺体を崇徳院に見せないよう言い残したという。大河では惟方ではなく清盛がその役を演じてたが、史実はどうなのだろう。憤慨した崇徳院は鳥羽田中殿に引き返し、法皇が崩御して程なく保元の乱へと都は急変するのである。
鳥羽天皇が眠る安楽寿院陵
平安京の南方に位置する安楽寿院や城南宮は鳥羽離宮の一部であった