平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

大河清盛・乙前という遊女

2012年05月08日 | 平家物語

 後白河天皇が今様の師と仰いだ乙前という遊女が今回の大河で登場した。天皇は当時70歳を超える老女であったとも云われる乙前と師弟の契りを結んで御所に住まわせた。乙前が得意としたのは今様という流行り歌で、『紫式部日記』には,貴族が宿直のため内裏に泊まり込んでいるとき,遊びとして「読経あらそひ」とともに「今様歌」が歌われたことが書き留められている。  院政時代の宮廷では白拍子という女性達も今様の謡い手となっていた。 後白河天皇は、傀儡女のみならず一般市民・端者・雑仕・傀儡子、白拍子など、あらゆる人々の側について今様を習ったとされ、五木寛之の「親鸞」でもその様子が描かれている。

  諸国を漂泊し、宿駅で傀儡子が人形劇を披露する傍ら傀儡女が売春で生計を立てる、傀儡と呼ばれる集団がいた。遊女・傀儡女は諸国を漂泊したことから全国にネットワークがあり、交通の要衝に本拠を置き芸能に携わったため、芸能の伝播・伝承の担い手として重要な役割を果たすこととなる。彼女らは後に都市部・町に定住したが、院政時代頃から白拍子が流行し、また京都に遊女屋街ができたことで衰退していったとされる。当初白拍子は武士層の支持を受け、貴紳に愛される者も多く、広く愛好された全盛期には芸が本分であったが、衰退に伴い、次第に売春婦化していったと考えられている。貴族の屋敷に出入りする機会にも恵まれていたため、芸達者で見識の高い人が多かったといわれる。その後、遊女らは鎌倉時代に職業権を認められ、徒弟制度に基づく遊女組織を形成し、後の遊郭へと繋がってゆく。乙前はこうした傀儡の代表格で、美濃国不破郡(現在の大垣市青墓)の出身、つまり平安末期から鎌倉期にかけて傀儡子や遊女のいる宿の出身である。宿の長者を青墓長者といい,大炊といった。保元の乱後斬られた源為義の子の乙若,亀若,鶴若,天王丸の母が青墓長者の女であったことが保元物語にみえる。また,平治物語によると源義朝は平治の乱に敗れ,青墓に逃れているが,青墓長者大炊の女延寿との間に夜叉御前1150-1160をもうけていたという。

コメント