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【スペイン-1】 9世紀 サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の旅

2020年12月04日 | 世界史-欧米・ロシア

【巡礼(カミノ:Camino)の地・サンディアゴ】    スペイン・サンディアゴ(12使徒のひとりヤコブのスペイン名、キリストの死後、ユダヤ王によって殺され亡骸は弟子たちの手によって船で運び出された。その後の消息は不明であった)はキリスト教の聖地。ということでフランス各地からピレネー山脈を越えてサンディアゴを目指す旅をいう。9世紀(812年)にスペイン・イベリア半島の西北の端のサンティアゴ・デ・コンポステーラで聖ヤコブの遺骸が発見された。これによってバチカン、エルサレムと並んでキリスト教の三大巡礼地に数えられるようになり、フランスから、「トゥールの道」、「リモージュの道」、「ル・ピュイの道」、「トゥールーズの道」の主要道路がスペインに向かい、巡礼の旅が世界中に広がった。最盛期の12世紀には年間50万人もの巡礼者が、800kmもの道のりを、街々の聖堂を巡り神に祈りを捧げながら歩いた。プエンテ・ラ・レイナ、エル・クルシフィオ教会、フロミスタ、レオン、サン・イシドロ聖堂、などの街や教会は、ロマネスクの建築様式(サンペドロ大聖堂)など多々文化が伝搬した。

サンティアゴ・デ・コンポステーラ(星の野原という意味)の入口にある栄光の門(1188完成Byマテオ)を通り、主祭壇に祀られている聖ヤコブと対面する。そして裏にまわって聖ヤコブの背中を抱いて神の恩寵を受けて、巡礼の旅を終えるのである。いっとき、巡礼者はほとんど居なくなったらしいが、1000年以上の歴史を持つ聖地への旅が21世紀になってブームになり、今では年間およそ30万人が挑戦しているという。巡礼拠点の街には巡礼事務所があり、巡礼者の数が増えると共に、無料の宿泊所が整備されてきた。これらは巡礼を支える人々の無償の奉仕で成り立っている。横断の距離はおよそ 800kmの道程で、信仰と向き合う貴重な時間となる。

フランス・リヨンの南にル・ピュイ=アン=ヴレという都市がある。ここは古代から聖なる地とされ、中世には多くの人がここから聖地サンディアゴまで巡礼を行ったという。その距離は約1500km。当時の出発地は サン=ミシェル・デギュイユ礼拝堂であった。巡礼者はクレアンシャルという巡礼手帳を用意して臨む。ノートルダム大聖堂で巡礼者のためのミサが行われ、その後出発する。聖地エルザレムを奪還するために組織された十字軍、そのテンプル騎士団は聖地への巡礼者を守る役割を担っていたという。

スペインとフランス国境にあるピレネー山脈の麓にあるのが巡礼者の宿場町サン=ジャン=ピエ=ド=ポール。ここでピレネー越えの情報を貰う。

巡礼者が泊まる宿:ジット

 

【イスラムに征服されたイベリア半島】   さて、ほんとうにサンティアゴで聖ヤコブの遺骸が発見されたのだろうか。8世紀当時のイベリア半島はイベリア半島全土がイスラム教圏(ウマイヤ朝)であった。イスラム圏勢力が凄い勢いで北アフリカ、地中海を経由してイベリア半島に渡ったのには、ローマ帝国の弱体化と大いに関係する。ローマ帝国が東西に分裂し、ゲルマン民族の大移動(3世紀-7世紀)を経て西ローマ(フランク王国)が分裂したのは814年である。この頃キリスト教徒が激減してローマ教皇はフランク王国に布教を委ねた。本来キリスト教は偶像崇拝を禁止していたが、ゲルマン民族にキリスト教を広めるために、聖像を使ったのである。(東のビザンツからは大いに非難されることとなる)このように弱体化したキリスト教圏内にイスラム教は侵攻してきたのである。

200年以上に渡るイスラムの文化は、現在でもその姿を各所に留めている。地中海沿岸のマーケットにはイスラム教の人々が交易を広めた痕跡が残っている。一番代表的なものはスペインのアンダルシア州グラナダ市南西の岡にあるアルハンブラ宮殿である。宮殿と呼ばれているが城塞、住居、軍隊、モスク、学校、墓地などの施設を備えている。13世紀、イベリア半島最後のイスラム王朝・ナスル朝時代の建築で、ナスル初代ムハンマド1世が建築に着手した。当時のイスラムの技術は、要塞だけに留まらず、イベリア半島の農業技術にも及んだ。そして驚くべきことは、後のスペインキリスト教徒の人達も今なおイスラムの技術を使用して生活していることである。城壁は2km、最盛期には2000人以上が暮らした。最古の砦はアルカサバ。コマレスの塔。ライオンの中庭は王に仕える女性の空間。二姉妹の間の壁には細かな装飾、鍾乳石飾り。

【キリスト教徒によるレコンキスタ運動】    これだけイベリア半島の隅々まで浸透していったイスラム圏をキリスト教圏に取り返す必要があった。この運動をレ=コンキスタ(再征服)という。イスラムのウマイヤ朝による西ゴート王国(8世紀から10世紀に繁栄)を征服してキリスト教の地に取り戻すことを言う。イベリア半島の北側に追いやられていたキリスト教徒の小国は次第に結びついてアラゴン王国を形成した。そしてこの王国から後に英雄が生まれた。それはハイメ1世1208-1276(征服王とも言われる)そして精力的に地中海沿岸の領土を取り返した。ハイメ1世がどうしても取り返したかった島がマヨルカ島(バルセロナから8時間のリゾート地)、港町パルマには守りの塔があって海賊が出没していたそうだ。そしてキリスト教徒との激しい戦争の末、この島を取り戻した。しかし再びイスラム軍が襲ってくるので島の周りを数百の塔で囲ったという。

レコンキスタが終わったのは、1492年、アルハンブラ宮殿があるグラナダを陥落してナスル朝が滅亡したときであった。なんとイベリア半島再征服には700年以上かかっているのである。このレコンキスタを達成するのに利用されたのが、サンティアゴ巡礼の旅である。従ってスペイン・サンディアゴで聖ヤコブの遺骸が発見されたというのは、あくまで伝説なのであるが、巡礼の地に沿って数多くの教会、聖堂が建てられたことは、今になっては遺跡という面で大きい。レコンキスタの情熱が大航海時代へと繋がる。

【世界最古のワインはバルセロナ産】   最も早く取り返したのはサグラダ・ファミリアやピカソで知られるバルセロナ。ここでキリスト教の象徴とも言えるワインが栄えた。この地方のワインは世界最古だそうだ。964年、アルナウ・オジェール氏は、この土地を支配していたイスラム教徒との戦いに勝利して、貴族の称号を与えられ葡萄の栽培を始めたという。そして出来上がったのがバルセロナワイン(乾杯=チェチェ) 

【ロシオ聖母祭】    実は同じような伝説がスペイン南部アンダルシア地方のロシオという町で行われるロシオ聖母祭である。かくしてエル・ロシオの巡礼と聖母祭が毎年行われている。(100万人が参加するスペイン最大の巡礼で、60kmの道のりを4日間かけて巡礼行進する)アンダルシア地方と言えばマンサニージャというシェリー酒の一種。サンルーカルは今から200年前にマンサニージャで栄えた街で、数多くの醸造所があるという。 そして面白いことに日本でも巡礼は行われた。それは空海による四国八十八ヵ所の巡礼であり、時期がほぼ同じであることは大変興味深い。

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