徳川吉宗生誕の地は城下吹上邸とされており、和歌山城から南へ 5分ほど歩いたところにある。現在では住宅地の一角にひっそりと石碑が建てられている。
八代将軍吉宗は極めて幸運であった。吉宗は紀伊徳川家第二代藩主・徳川光貞の四男として生まれた。 つまり紀伊徳川家の藩主になることすら難しい四男であり、母は当主・光貞の湯殿番の女中であった。 父、光貞と江戸にいたときに、紀州藩邸に当時の将軍綱吉がやってきた。 綱吉の一人娘・鶴姫が光貞の嫡男・綱教と結婚していたからである。 このとき綱吉の子・徳松は死に、綱教を時期将軍に考えていたほどに鶴姫を溺愛していた。 ところが綱教が41歳でなくなり、頼職が26歳でなくなったことにより、紀伊家当主となり、綱吉の一文字をもらい吉宗と改めた。 この時点で吉宗が将軍になることは不可能といってよい。 つまり綱吉の跡を継いでやっと6代将軍になった家宣にしてみれば、最も嫌っていた大名・紀伊家の綱教のせいで冷や飯を食わされたのであるから、その弟・吉宗、しかも綱吉の字をもらったことを思えば、家宣が紀伊家ではなく尾張の徳川吉通に継がせる遺志があったことはいうまでもない。 ところが吉通は頓死し、7代将軍家継もわずかに8歳で死んだ。 これらの幸運の次に絵島生島事件により紀州家の者は将軍にしないと言う月光院が大打撃を受けた。 事件により優位に立った天英院にしてみれば尾張は受け入れることはできず、紀伊を押すことになる。 このように吉宗には考えられないほどに幸運がついてまわり、その結果天英院に押された紀州・吉宗が八代将軍となったのである。
さて、将軍吉宗といえば目安箱の設置がある。当時目安箱の設置により町人の意見を聞くというのは画期的なことである。 幕府批判の中でも特に語り継がれているものに、緊縮財政政策を批判した山下幸内の手紙がある。倹約により金回りが悪くなり、結果天下の万民が困窮するからよくない・・という内容である。 後に徳川尾張家7代藩主・宗春は自らの政治信条を述べた「温知政要」のなかで、吉宗の経済政策を批判し、全藩士に配っている。 宗春は将軍・家宣が次期将軍に推していた尾張家4代藩主・吉通の弟にあたり、19男でありながら類稀なる幸運により7代藩主となった。 紀伊家の徳川吉宗と壮絶な跡目争いを行った尾張家の6代藩主・徳川継友は、その後間もなく病に倒れ病没したために、弟の通春が7代藩主の座についた。 藩主になる前は陸奥梁川藩主・通春(吉通から通の文字をもらった)といったが、尾張藩主になったところで8代将軍・吉宗から宗の文字をもらって宗春と名乗った。 この宗春が目安箱の山下幸内と同じく緊縮財政政策の弱点を痛烈に批判したのである。 そして宗春は積極的に消費奨励策をとった。 芝居見物を禁じた吉宗に対して宗春は自ら芝居に出かけ、遊郭で金をばらまき、手法はともかく尾張は一気に繁栄し、太夫の身請けまで行った。 宗春がある店の提灯が綺麗だといって店の主人に多額の褒美を与えると、色々な店が提灯に華美な工夫を施したために提灯を見るだけのために名古屋に人が集まったという。 それまで宿場に入っていなかった名古屋の街が賑わい一気に繁栄していったのはこうした理由によるのである。
こうして将軍職を狙ったともいえる尾張宗春と8代将軍徳川吉宗との対決が始まるのである。しかし吉宗は宗春の政策の破綻をじっと我慢して待っていた。 宗春の積極政策は原資もないのに借金にて行っていたものであり、街は栄えたが尾張家の財政は破綻してしまった。 また、尾張藩の武士は御三家の紀州藩、水戸藩にくらべて評判が悪かった。 この家臣が将軍に徹底的に反抗する宗春に不満を抱き始めたころ、吉宗は契機とばかりに腹心の御庭番(隠密)を尾張に放ち、宗春を主君と仰いでいては尾張藩はつぶれるぞ、と脅迫・説得したのである。 そして吉宗は1739年ついに宗春に隠居を命じ、温知政要も絶版処分にしたのである。 跡継ぎのいない尾張藩にとっては「取り潰し」である。 新たな尾張藩主には美濃高須藩の松平義淳があてられ、徳川宗勝と改名した。 その後の宗春は名古屋城三の丸に幽閉され死ぬまでの25年間外出も許されず、墓石には金網がかけられ罪人扱いであったという。 吉宗のすざまじい執念深さは、尾張には将軍の座を渡したくないという強い思いに発展し、田安家・一橋家および清水家の御三卿を作らせたのである。
松平広忠 ━━ 徳川家康 1543-1616年 ┓幼名:竹千代
(八代当主) ┏ 松平忠政 ┃
┃ ┣ 徳川家元 ┃
於大の方 ┣ 樵臆恵最 ┃
(伝通院) ┣ 内藤信成 ┃
┗ 市場姫 矢田姫 ┃
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正室・篠山殿━┳ 長男・松平信康(1559年 - 1579年)(母:築山殿)
正室・朝日姫 ┣ 長女・盛徳院 (1560年 - 1625年)(母:築山殿)
側室・お津摩 ┃
側室・お万 ┣ 次女・督姫 (1565年 - 1615年)(母:西郷局)池田輝政室
側室・小督局 ┣ 次男・結城秀康(1574年 - 1607年)(母:小督局)
側室・西郷局 ┣ 三男・徳川秀忠(1579年 - 1632年)(母:西郷局)━━┓幼名:長松
┣ 四男・松平忠吉(1580年 - 1607年)(母:西郷局) ┃
┣ 次女・良正院 (1565年 - 1615年)(母:西郡局) ┃
┣ 三女・振姫 (1580年 - 1617年)(母:お竹 ) ┃
┣ 徳川義直1601-1650(初代徳川尾張藩主)(母:お亀) ┃
┃ ┣光友1625-1700(2代藩主) ┃
┃ ┣京姫┣綱誠1652-1699(3代藩主) ┃
┃ 歓喜院┃ ┣吉通1689-1713(4代藩主母本寿院) ┃
┃ ┃ ┃ ┣五郎太1711-1713(5代) ┃
┃ ┣松平義行┃九条輔姫 ┃
┃ ┣松平義昌┣継友1692-1732(6代藩主 母は和泉)┃
┃ ┣松平友著┣義孝1694-1732(母は唐橋) ┃
┃ 千代姫(家光娘)┣宗春1696-1764(7代藩主 母は梅津)┃
┃ ┃ ┣勝子 ┃
┃ ┃伊予 ┃
┃ ┗松姫(綱吉養女) ┃
┣ 徳川頼宣1602-1671(初代徳川紀伊藩主)(母:お万) ┃
┃ ┣徳川光貞1627-17052代(生母 中川氏) ┃
┃ ┃ ┣徳川綱教1665-1705(3代尾張藩主) ┃
┃ ┃ ┃ ┣徳川頼職1680-1705(養子) ┃
┃ ┃ ┃鶴姫1677-1704(徳川綱吉娘) ┃
┃ ┃ ┣徳川頼職1680-1705(4代尾張藩主 母真如院) ┃
┃ ┃ ┣徳川吉宗1684-1751(5代藩主8代将軍 母浄円院┃
┃ ┃ ┃ ┣徳川家重1712-1761(9代将軍) ┃
┃ ┃ ┃ ┃┣徳川重好1745-1795(徳川清水家初代) ┃
┃ ┃ ┃ ┃安祥院 ┃
┃ ┃ ┃ ┣徳川宗武1716-1771(徳川田安家初代) ┃
┃ ┃ ┃ ┃┣徳川治察1753-1774(徳川田安家2代) ┃
┃ ┃ ┃ ┃┣松平定国1757-1804(伊予松山藩主) ┃
┃ ┃ ┃ ┃┗松平定信1758-1829(陸奥白河藩主) ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┗徳川宗尹1721-1765(徳川一橋家初代) ┃
┃ ┃ ┃ ┗徳川治済1751-1827(徳川一橋家2代) ┃
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃瑞応院 ┃
┃ ┣因幡姫1631-1709(鳥取藩主池田光仲正室) ┃
┃ 八十姫1601-1666(加藤清正娘) ┃
┗ 徳川頼房(1603年 - 1661年)十一男・(母:お万) ┃
┣松平頼重1622-1695(讃岐高松藩主初代) ┃
┃ ┣綱方1648-1670(水戸藩主となる前に死亡) ┃
┃ ┣綱條1656-1718(水戸3代藩主) ┃
┃土井利勝娘 ┃
┣亀丸 ┃
┣徳川光圀1628-1701(水戸藩2代藩主) ┃
谷重則娘・久子┃┣松平頼常1652-1704(讃岐高松藩主) ┃
┃┣綱方1648-1670 ┃
後陽成天皇 ┃┣綱條1656-1718 ┃
┣近衞信尋(近衛家当主)┃側室・玉井氏 ┃
近衛前久娘・前子 ┗尋子(泰姫) ┃
┃
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正室・於江与の方━┳ 千姫1597-1666(天樹院):豊臣秀頼室、のちに本多忠刻室
母は信長の妹お市 ┣ 徳川家光1604-1651三代将軍 福・春日局に養育 幼名:竹千代
┣ 徳川忠長1606-1634 駿河大納言
┣ 徳川和子1607-1678(東福門院):後水尾天皇中宮
┣ 珠姫 1599-1622(天徳院) :前田利常室
┣ 勝姫 1601-1672(天崇院) :松平忠直室
┗ 初姫 1602-1632(興安院) :京極忠高室
側室・お静(浄光院)━ 保科正之1611-1673(会津松平藩主)
┃┃┣幸松
┃┃菊姫
┃┣媛姫(米沢藩主・上杉綱勝室)
┃┣正経1647-1681(2代会津藩主)
┃お万
┣摩須姫(加賀藩主・前田綱紀室)
おしほ