全長263m1941年に誕生した世界に誇る巨艦大和は、軽巡・矢矧と駆逐艦8隻を引き連れて徳山沖を出撃し沖縄の戦場に向かったのは4月6日午後3時である。それから24時間後米空母機群345機に空襲されて鹿児島坊津岬沖で沈没した。大和海上特攻を推したのは連合艦隊司令部の神重徳参謀、航空特攻だけに頼って艦船部隊が何もしないわけにはいかないというわけである。特攻を相談された第二艦隊司令長官・伊藤整一中将は、沖縄に辿り着くまでに攻撃されて作戦は失敗するとして応じなかった。連合艦隊司令部は「1億総特攻のさきがけとなってもらいたい」との申し出に、伊藤中将は承諾したという。つまり天皇陛下の御為に死ぬことを承諾したのである。実はこの特攻には異論があった。来るべき本土決戦で来襲する米艦隊を迎撃するために使うべきというものである。しかし伊藤中将の「我々は死に場所を与えられたのだ」 の一言に皆は納得したという。大和隊は出撃直後から米潜水艦の追尾を受けて撃沈され、戦死者3000人、矢矧と駆逐艦の犠牲者を含めると4000人に及ぶ。
さて、こうした話には何か気になりながらも当時はそうだったのかな、として納得する傾向があるのであるが、当時であったとしても、「我々は死に場所を与えられたのだ」 という一言に皆は納得するはずはない、と疑問を持つことが重要ではないだろうか。私には納得できないし3000人もの乗組員が納得したというのは極めて疑わしい。皆が納得した・・・ということで特攻の正当性を主張しようとしているだけであって、それは真実ではない。航空特攻は基本的に志願だとしているが、これは全くの偽りである。半強制的に志願書類に署名を強要されたという話も多く残っている。当時は庶民であっても本音を語れば憲兵にしょっぴかれた・・・という話で象徴されるように、自由な発言は制圧されていた時代背景を考慮に入れて、「我々は死に場所を与えられたのだという伊藤中将の一言に皆は納得した」という文章には翻訳が必要である。ところで大和による海上特攻を推した神重徳参謀は敗戦後どうなったのかが気になるので調べてみた。駆逐艦を含めて約4000人もの犠牲者を出した海上特攻を推し、連合艦隊参謀長などの反対を押し切って1億総特攻のさきがけとして大和艦長・伊藤中将を説得させた人物であるから、その後はしかるべき責任を取るのが筋であるが、何ら責任はとっていない。敗戦一ヶ月後に謎の飛行機事故死をしており、責任を取っての自殺とも考えられるが、神重隆氏(息子にあたる)によると自殺するような父ではなかったという。