現在残る唯一の公家・冷泉家
「小倉百人一首」でも有名な、藤原定家の末裔が、冷泉家です。 藤原定家は「歌仙正統」の称号を与えられた御子左家と呼ばれる和歌の家に生まれ、その後、定家の子、為家には三人の子供がおり、長兄為氏が二条家を、次兄為教が京極家を、そして為相が冷泉家を興し、三家に分かれます。しかし、二条家、京極家は断絶し、冷泉家のみが和歌の家として現在にいたるまで続き、貴重な文化遺産を守り続けています。
冷泉家は京都御所の北側にあたる、今出川通りに面して屋敷を構え(今出川通烏丸東入ル)、唯一残る公家屋敷として国の重要文化財にも指定されています。かつては公家屋敷が列ねた土地でしたが、明治維新のおり東京に移った明治天皇にお供をしてほとんどの公家が同行し、留守居役を預かった冷泉家がこの地に留まりました。そのために完全な姿で保存されることになり、公家の暮らしを知る上でも貴重な建物となっています。 広い通りに面した白い築地塀に囲まれた一画にあります。中央に一間ほどの 立蔀の奥に内玄関があり、そしてその右手に当主が出入りする式台付の大玄関が構えています。この式台は当主が輿のまま乗り入れできるように大きな作りとなっています。
座敷奥は、上の間、中の間、使者の間と3つの部屋に分かれ、上の間は当主が座るところ、床の間も中央に作られ、この座を中心に神事や行事が行なわれてきたようです。 二の間の入り口付近に扇面を散らした屏風には「古今集和歌集」「新古今和歌集」などの古歌が書かれ、作者は、冷泉家十代の為頼です。 為頼は遠州の歌の師でもあり、為頼の父、為満親子二代にわたって手ほどきを受けたといいます。 また、冷泉家15代為村の書といわれる「書き捨ての文」は遠州の茶訓として有名で、遠州流五代目宗香の時代に書かれたものです。 「人の応需してうつし侍りぬ」と最後に書き記し、遠州流を学ぶ門人から頼まれたものです。
冷泉家中興の祖とも呼ばれる為村の時代、寛永年間(1624~1643)に、冷泉家の貴重な典籍、古文書などの散逸を防ぐという理由からか、天皇によって蔵が封印されるという時期がありました。 当主であっても蔵を開けることを禁止したのです。 蔵は御文庫といわれ典籍類だけでなく、歴代の御影が祀られ、冷泉家にとっては当主以外は入ることが出来ない神聖な場所です。 そこを封印され、100年以上もの間、誰一人として蔵に立ち入ることが出来ないという不遇な時代を迎えるのです。 中御門天皇によって享保8年8月御文庫の封印が解かれると、(為綱、為久、為村、三代にわたる時代) 再び封印されたら御家の一大事ということで、とにかく蔵にある全ての書物を昼夜を通して書き写され、 それらを保管するために新たな蔵が建てられたのです。
藤原経輔女
┣藤原俊忠1073-1123 堀河院歌壇で活躍
忠家 ┃
┃ 六条院宣旨
┃ ┣八条院坊門局
┣藤原俊成1114-1204 崇徳天皇に親近し藤原基俊に入門
藤原敦家娘 ┃ ┣後白河院京極局
┃ 為忠娘
┣八条院三条(鳥羽院皇女八条院に出仕)
┃ ┣隆季(四条家の祖)
┃ ┣俊成卿女1171-(後鳥羽上皇に出仕)
┃ ┃ ┣具定
┃ ┃源通親┓┣女
┃ ┃ 源通具
┃ ┃ ┣
┃家成┓ ┃ 土御門天皇の乳母
┃ ┣藤原盛頼
┃ ┗藤原成親(平家討伐を陰議)
┃
┣高松院新大納言(祗王御前)
┣八条院按察(朱雀尼上)
┣八条院中納言(建御前)
┣前斎院大納言(竜寿御前)
┣藤原定家1162-1241
┃ ┣因子(後鳥羽院に出仕 民部卿典侍)
藤原親忠女 ┣定長(寂蓮)後鳥羽院歌壇
(美福門院加賀) ┣為家
藤原実宗女┃┣為氏(二条家の祖)
┃┣為教(京極家の祖)
┃┣為子(九条道良室)
┃宇都宮頼綱娘
┣為守(冷泉)
┣為相(冷泉家の祖)
阿仏尼(安嘉門院四条:十六夜日記) ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┏為賢
┣為秀┳為尹┳上冷泉為之┳為富━為広━7為和━8為益━9為満━10為頼 ━━┓
┗為成┗為邦┗下冷泉持為┗政為┳為孝┳為豊┳為純━━┳為勝━為将━為景┃
┗堯淵┗寿信┣大徳寺僧┣教勝 ┃
┗相国寺僧┣惺窩━為景 ┃
┗為将 ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┗□━□━23為臣━24為任
┣貴実子
富美子┣
25為人(兵庫県加古川市出身)