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赤穂事件江戸急進派と御家再興派

2009年12月14日 | 池波正太郎 江戸時代

 江戸詰めの藩士たちは安井彦右衛門【安井家は浅野長政の実家で、子孫は浅野家に仕え、彦右衛門はその庶流の一つであり赤穂浅野家中では名門】 や藤井又左衛門【江戸急進派から義盟への加入を求められるも加わらず、赤穂藩にさえ立ち寄らなかった】 など赤穂藩から逃亡した者を除いて、多くが吉良上野介義央を主君に代わって討つべしと主張するようになった。 特に剣豪として江戸で名を馳せていた堀部安兵衛武庸【馬廻役(武士の階級で騎乗できる武士)200石 四十七士の中では一番の剣豪で、江戸急進派と呼ばれる勢力のリーダー格】、高田又兵衛【高田派槍術開祖】の子孫(従弟)であり槍の達人の高田郡兵衛【馬廻役200石 郡兵衛伯父・旗本内田元知から養子の申し出を受けたが断ったため敵討を疑われる。計画を口外しない条件で養子縁組を受け入れ突然脱盟】、堀部の剣の同門である奥田孫太夫【四十七士 大太刀の使い手】などが強硬に吉良上野介の首級をあげるべきと主張した、片岡源五右衛門、礒貝十郎左衛門、田中貞四郎ら浅野内匠頭の寵愛を受けた側近達も同様に仇討ちを主張した。

 堀部ら吉良邸への討ち入り主張派に対し、主君への報恩第一の寵臣片岡らは行列襲撃してでも即時の吉良殺害を主張するなど意見が食い違い、ついには片岡らは江戸を飛び出して、3月27日に赤穂へ入って同志を募ろうとしたが、この頃、赤穂城では大石内蔵助のもと殉死切腹が主流であったため、片岡らの吉良を討つという主張は受け入れられず、赤穂も去っていった。以降は江戸へ戻って三人だけで独自に吉良上野介の首を狙うようになる。 赤穂城開城直前の4月14日には堀部安兵衛、高田郡兵衛、奥田孫太夫たちも赤穂へ入った。 ただちに内蔵助はじめ重臣達に会見を申し込んで吉良上野介への仇討ちを主張したが、大石らからは「上野介へ仇討ちはするが、まず大学様のお家再興をしなければならない。時期を見よ」と諭され、赤穂開城を見届けたのち、5月12日には江戸へ帰っていった。しかし江戸へ帰った後も堀部達は吉良への仇討ち計画を進め、内蔵助に江戸下向を迫り続ける。 こうしたお家再興よりも吉良家への仇討ちを優先しようとする勢力は、江戸詰めの藩士たちに多かったため、彼らは江戸急進派と呼ばれた。

 年末からは脱盟者も出始め、同志の1人萱野三平は父の萱野七郎左衛門と浅野家への忠孝の間で苦悩して自害、橋本平左衛門も遊女【曽根崎新地淡路屋のお初】と恋仲となり、忠義を捨てて彼女と心中してしまった。また江戸急進派の中心人物高田郡兵衛も旗本内田三郎右衛門との養子縁組騒動を機に脱盟した。高田の脱盟は江戸急進派の顔を失わせる結果となり、その発言力を弱めさせた。内蔵助はこれを好機として元禄15年2月15日の山科と円山での会議において「大学様の処分が決まるまで決起しない」ことを決定する。 3月5日、吉田忠左衛門【四十七士】と近松勘六【四十七士 源義高末流】がこの決定を江戸の同志達に伝えるべく下向した。吉田はまず江戸で孤立していた片岡源五右衛門 ら内匠頭近臣組と面会すると説得して大石の盟約に加わらせている。そして3月8日に江戸急進派のリーダー格の堀部安兵衛と両国米沢町で会談に及んだ。しかし案の上安兵衛ら江戸急進派は決定に納得せず、内蔵助をはずして代わりに原惣右衛門を大将にして独自に決起することを模索しつつ、6月には内蔵助との最後の調整のため堀部安兵衛が自ら京都へ乗り込んでくることとなった。安兵衛は「もはや大石は不要」として内蔵助を斬り捨てるつもりだったとも言われる。しかしちょうどこの頃、遠林寺の祐海などを通じて内蔵助もお家再興が難しい情勢を知ったといわれる。また7月18日には、実際に幕府が浅野大学長広に広島藩への永預かりを言い渡したことで、お家再興の望みは完全に絶たれる。 内蔵助も以降は討ち入り一本と決め、安兵衛ら江戸急進派との対立はここに解消された。 7月28日、内蔵助は、堀部安兵衛も招いて京都円山で同志との会議を開き、本所吉良屋敷への討ち入りを決定した。

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