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奈良時代の無欲の天才・吉備真備

2019年01月15日 | 奈良・飛鳥時代

 吉備真備695-775は言わずと知れた岡山県倉敷市真備町の英雄である。奈良時代に二度唐に渡り数多くの文化を日本へ持ち帰った。学者でありながら70歳代まで朝廷に仕え、72歳で右大臣にまで昇りつめた。中国西安には遣唐使吉備真備記念碑がある。当時の中国は世界最先端の国で、これを見習うべく優秀な人材を遣唐使として送り込んだ。真備が居た第八回遣唐使には玄昉、阿倍仲麻呂などが居た。真備の唐滞在は20年にもおよび735年に帰国し朝廷に出仕すると、多くの文化技術を取り入れていく。なかでも複合弓という強力な弓を持ち帰り、律令の軍隊を造るように進言したのかもしれない。かくして帰国後の40年は国造りに大きく貢献する。時の聖武天皇のブレーンに抜擢された。さらに阿倍内親王といって後の孝謙天皇の教育かかりになった。そして真備は橘諸兄や玄昉とともに朝廷政治に参画していく。8世紀の日本は中国風の国をつくろうとしていただけに、唐の文化を知っている人は重宝されたのである。

 吉備真備公園のすぐ北側にある箭田大塚古墳は真備の祖先・下道氏の一族の古墳である。石室の長さは19m、玄室の長さだけでも8.4mある全国最大級のもので、吉備真備の一族が巨大な力を持っていたことがわかる。吉備真備の元の名は下道真備といって、山陽道と山陰へ抜ける街道の要所に古墳をつくって力を見せつけたと考えられる。真備町の隣の矢掛町では真備のルーツにつながる資料が見つかっている。それは真備の祖母のものとされる火葬人骨である。火葬文化が大陸から伝わってわずか10年ほどのことであったという。つまり吉備は唐や都との結びつきが強く、文化の伝播が早かったともいえる。

 しかし真備は順風満帆ではなかった。藤原不比等の孫・藤原広嗣が異例の出世をする真備をねたんで挙兵、740年に広嗣の乱を起こした。しかしこれはすぐに鎮圧され、広嗣は処刑された。広嗣に田舎者と揶揄されたことで下道真備改め吉備真備と名乗った。ところが直後、聖武天皇が平城京を離れた。混乱が続くこの地では政治は続けられないとして新天地を求めた。結果平城京は740年から745年まで天皇不在となる。ここに登場するのが光明皇后の甥であった藤原仲麻呂、実権を握ろうとする。真備の盟友・玄昉は大宰府に左遷となり翌年死去。藤原広嗣の残党に討たれたのである。

 749年、聖武天皇が退位して太上天皇となり、真備が教育かかりをしていた阿倍内親王が孝謙天皇として即位したのである。後ろ盾を得た真備は安堵したが、750年仲麻呂は真備を筑前の守に任命するのである。さらに真備は肥前守に任命される。そして次は752年 遣唐副使に任命され再び唐へ行くことになった。ここでは鑑真を来日させ仏教の戒律を日本に広めることに成功したのである。ところが藤原仲麻呂は真備を唐から大宰府に送ったのである。この時真備は60歳、新たな試練である。中央政府の藤原仲麻呂にとっては、着々と実績を上げる真備は怖い存在であったに違いない。真備は大宰府に防御のための城を築くことにした。現在の福岡県糸島市に怡土城という中国式山城を築いた。

 すると764年には仲麻呂の後ろ盾であった光明皇太后が崩御すると仲麻呂は求心力を一気に失うこととなる。孝謙天皇が太上天皇となり真備を造東大寺長官に任命すべく、大宰府から呼び戻したのである。真備が復権し立場を脅かされた仲麻呂は、朝廷に反旗を翻して藤原仲麻呂の乱を起こした。吉備の仲麻呂は孝謙軍の作戦参謀となり仲麻呂軍と対峙した。戦いの最初は琵琶湖南岸の勢多橋、これを焼き払うと仲麻呂の動きを封じ込めた。この時に孝謙軍が使ったのが唐から持ち帰った複合弓で、飛距離が200mにも及ぶ威力があった。これによる攻撃で仲麻呂は色を失い、逃げる仲麻呂を孝謙軍が追いつめていくのである。そして琵琶湖の西岸で仲麻呂は斬られた。その後真備は右大臣にまで昇進し計5代の天皇に仕え、775年10月81歳にて大往生したのである。

吉備真備公園のすぐ北側にある箭田大塚古墳

 

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