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【スペイン-2-2】 16世紀 スペイン王国成立(フェリペ2世の隆盛)とスペインハプスブルグ家衰退

2020年12月04日 | 世界史-欧米・ロシア

スペイン王国の成立とは、1492年イスラムのナスル朝を滅ぼしてグラナダ(果物のザクロの意味、各地にザクロの像がある)を占領した時だろうか(ローマ=カトリックの信仰を統一国家理念として絶対王政が成立)、カスティーリャ王でありアラゴン王のカール5世1500-1558が1516年にスペイン王・カルロス1世になった時だろうか。

アラゴン王・フェルナンド2世1452-1516の治世、妻のイザベル1世1451-1504は(二人は1469年に結婚し、1479年にイザベルはカスティリア女王に、フェルナンド2世はアラゴン王に即位した)、スペイン人・コロンブス1451-1506が1492年に西インド諸島を発見した時の大航海スポンサーとなった。

インドだと勘違いして西インド諸島、航路などの名称がついたが実際にはアメリカ大陸に到達していたことは有名である。かくして西インド諸島や南北アメリカ大陸が次々と発見されて、莫大な富がスペインにもたらされた。実際には原住民のモンゴロイド族を支配・虐殺してその財産を略奪したのである。イベリア半島のイスラムを追い返してキリスト教を復活させた「レコンキスタ運動」の後すぐに、大航海時代が訪れたころ、国王の娘・カスティーリャ女王・ファナ1479-1555がフィリップフェリペ1世1478-1506(ローマ皇帝マクシミリアン1世の長子)と結婚した。

-----聖なる巡礼の道 アルメニアが出発地----------------------------

グラナダ-サクロモンテ地区:貧しい人々が住んでいた地区 レコンキスタに敗れたイスラム教徒たちがここに逃げ延びた。そして誕生するのがフラメンコ。踊り子の苦しそうな表情は弾圧された苦しみを表すという。

グラナダの近くにあるモクリン:レコンキスタの激戦地 奇跡を呼ぶキリストの絵があり、祭りでは絵を神輿にのせて担ぐ。人口600の町に2万人もの人が集まって「キリスト万歳」と叫ぶのである。

アンダルシア地方はオリーブの産地(100kmにも及ぶ 天国にはオリーブ畑がある)、世界消費の50%をここで生産するという。その灌漑設備技術はイスラム教徒がもたらしたものである。

コルドバ、8世紀には世界最大の都市となる メスキータは世界最大のモスクをカルロス1世は改修したものの後悔したという

      イスラム教、キリスト教、ユダヤ教が共存し、ユダヤ人の文化が発展した当時世界最大の都市 人口50万人

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ローマ皇帝マクシミリアン1世はハプスブルグ家である。その子・フェリペ1世(フィリップ美公)とファナ女王との結婚はハプスブルグ家がスペインに食い込んだ瞬間とも言える。

ファナ女王は結婚後に狂人となったことで知られるが、その息子カール5世(ローマ皇帝)カルロス1世(スペイン国王)として世界を制覇する。彼はフランドル地方で生まれた為にフランス語が一番堪能であったが、神聖ローマ皇帝としてドイツ語を喋り、スペイン国王としてスペイン語を学び、イタリア語まで喋ったという。

スペインの黄金期を統治したのはカール5世の子・フェリペ2世1527-1598で、絶対主義の代表的君主となった。ヨーロッパ、中南米、フィリピンを支配し、オスマン帝国を退けて領土を拡大したことから、「スペインは太陽の沈まない国」と言われた。最初の妻はマリア・マヌエラ1527-1545 ポルトガルの王女である(ポルトガルを制覇してポルトガルの領土まで支配)。一方神聖ローマはカール5世の弟・フェルディナンド1世が継ぐ。

フェリペ2世の母イザベラがポルトガル王女で絶世の美人であったことから最初の妃はポルトガル王女を切望していたようだ。ところが最初の妃マリア・マヌエラは皇子を生むとすぐに死亡。この皇子が悲劇の王子ドン・カステロである。ドン・カステロは生まれたときから病弱で奇行癖があり、5歳迄喋ることができず体にも障害を持っていた。また精神的にも不安定で動物を虐待するなどを繰り返していたという。二度目の結婚は1554年、名はメアリー1世1516-1558英。

彼女はヘンリー8世と王妃キャサリンの子でイングランドとアイルランドの女王でもある敬虔なカトリックで、プロテスタントを迫害、数多くを殺害したことから「血まみれのマリー」とも言われた。フェリペ2世は11歳年上のメアリーとは気が合わず、すぐに別居状態。そしてメアリーは結婚4年後に死去。

1559年、3番目の妻はエリザベート・ヴァロワ1545-1568、アンリ2世とカトリーヌ・メディシスの長女である。実は彼女はフェリペ2世の息子ドン・カルロス1545-1568の婚約者であった。当然ドン・カルロスの不満は高まり、これがオペラの題材になっている。婚約者を父にとられ階段から転げ落ちて奇行が激しくなったカルロスは旅に出るが、そこはネーデルランド、プロテスタントの国。フェリペ2世はドン・カルロスを国家反逆罪でとらえて監禁、これがもとでカルロスは獄中死を遂げた。一方エリザベート・ヴァロワも出産が原因で23歳で死去。1570年4番目の最後の妻はアナ1549-1580、オーストリア・ハプスブルグ家の王女で父はマクシミリアン2世、母はフェリペ2世の妹・マリア。叔父と姪の間柄である。そのアナも30歳で病死、それまでに生まれた5人のうち4人は赤痢や天然痘で夭折し残ったのはフェリペ3世1578-1621であった。

16世紀前半 カール5世時代のハプスブルグ家の領土

以降スペイン国王は、フェリペ3世1578-1621、フェリペ4世1605-1665、カルロス2世1661-1700と続くがカルロス2世の代でスペインハプスブルグ家は途絶える。この頃のスペイン宮廷画家の巨匠・ベラスケス1599-1660は数多くのフェリペ4世家族の絵を残した。「女官たち」「マルガリータ王女」「馬上のカルロス皇太子」「フェリペ4世騎馬像」「イサベル・デ・ブルボン騎馬像」これらはフランスのルーブル美術館やプラド美術館などに所蔵されている。時を同じくしてフランスの宮廷画家として活躍したのがルーベンス1577-1640で外交官として1年ほどスペインを訪れた時にベラスケスと親交を深め、1624年にはフェリペ4世からナイト爵の称号を得ている。因みに彼の代表作には「マリードメディシスの生涯」つまりフランス国王ルイ13世の母親の生涯を24枚の絵画で描いたものがルーブル美術館にて見ることができる。

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