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飛鳥・橘寺の謎

2011年02月15日 | 奈良・飛鳥時代

 橘寺は正史と寺伝とが大きく食い違う寺である。 寺伝ではこの寺こそ聖徳太子自ら建てたものとあり、ここで太子が勝鬘経を講義したもうたが、そのとき天は蓮の花をふらし給うたという。 その蓮の花を集めて塚にうめたという塚が、現在畝割塚として残るのであるが、蓮は仏教の瑞花であり、死者のごとく古墳に葬られる必要はなになのか。 聖徳太子の根拠地である橘寺は日本書紀にはほとんどでてこない。 しかし太子の活躍地は斑鳩よりもここ橘寺のほうがふさわしい。 太子は蘇我氏の血統をうけ、この地は蘇我馬子のいたところからはなはだ近い。 太子が死んだのは斑鳩であろうが、 活躍していた頃は飛鳥にいた可能性は高い。 橘寺は調査の結果、東向きの四天王寺様式の寺であることがわかった。つまり、塔、金堂、講堂が東西一直線になっていて、建立は斉明帝の頃という。 金堂は蓮の花の塚跡に建てられ、これは橘寺が寺伝のごとく聖徳太子によって建てられたのではなく、太子の死後太子の鎮魂のために建てられたとみるのが普通である。 橘寺の西の門を通る道は、川原寺の中門を通る道と重なっている。 この川原寺、斉明帝の川原宮の跡に建てられたと記録にあり、発掘調査によってそれは確かめられたが、宮跡を寺にするのは極めて異常なことである。 斉明帝は新羅との戦いのために九州遠征中に朝倉宮で亡くなったが、そのとき 「鬼ありて大笠を着て喪の儀を臨み見る」、と日本書紀にあり、鬼とは蘇我入鹿であるというのは扶桑略記である。 入鹿は斉明帝が皇極帝の位にあったときに寵愛された近臣であり、殺された入鹿の亡霊は、終世斉明帝の周囲をろついていたと思わ、語り継がれていたのである。 従ってその霊は手厚く祀られる必要がり、彼女の宮殿・川原宮を寺にした。 つまり川原寺は斉明帝の墓なのである。 そして太子の鎮魂の寺・橘寺と直角に対してたれられた。

 

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