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沖縄-糸満-7 義烈空挺隊慰霊塔@平和記念公園

2015年05月22日 | 太平洋戦争

 平和記念公園とにかく広くて周遊バスが定期的に走っていますのでガイドもしてくれるし乗れば楽です。1/3くらいしか見れていません 来年も行こう ここでは義烈空挺隊の慰霊塔を紹介。既に義烈空挺隊については紹介したが、義号作戦の詳細を記す。陸軍特攻作戦の司令官として、出撃前の義烈空挺隊を閲兵する菅原道大中将とはどんな人物か。多くの特攻隊員を死地へと送り出す際に 「自分も後に続く」と公言していたこの司令官が、約束を果す事はなかった。戦後自決をほのめかすも、自決が最良ではないといて思いとどまり、慰霊処理をしたようであるが、表面的な慰霊であると非難されたようで、95歳まで生きながらえている。

以下は陸軍落下傘部隊史より抜粋引用しました

隊長機  隊長・奥山大尉指揮 操縦担当:諏訪部忠一編隊長、川守田少尉 航法及び通信担当:小林少尉、長瀬軍曹 無線班:辻岡創少尉(中野学校)、阿部忠秋少尉(中野学校)、酒井軍曹、菅野軍曹 第1小隊第2分隊長・尾身曹長、北島曹長、金山軍曹、大月伍長、高橋伍長

2番機  第1小隊長・宇津木五郎中尉指揮 操縦担当:酒井少尉、長谷川曹長 航法及び通信担当:なし 第1小隊第1分隊長・宮越准尉、谷川曹長、飯田軍曹、関軍曹、新井伍長、荒間伍長、木内伍長、菊田伍長、木谷伍長

3番機  中野学校・石山俊雄少尉指揮 操縦担当:新妻少尉、藤田曹長 航法及び通信担当:なし 第5小隊第2分隊・三浦曹長、蟹田曹長、諸井曹長、角田軍曹、川崎伍長、河野伍長、齋藤伍長、田村伍長、廣津伍長、中本伍長、宮本伍長

4番機  中野学校・原田宣章少尉指揮 操縦担当:町田中尉、岡本曹長 航法及び通信担当:瀬立少尉、石川伍長 指揮班長・石丸曹長、松實曹長、森井曹長、相田伍長、齋藤伍長、諏訪伍長、田村伍長、堀添伍長、松永伍長

5番機  第2小隊長・菅田寿美中尉指揮 操縦担当:菊谷軍曹、茂木軍曹 航法及び通信担当:なし 第2小隊第1分隊長・藤村曹長、大浦曹長、佐藤曹長、吉川曹長、石田伍長、大塚伍長、川崎伍長、郷田伍長、西潟伍長、宮本伍長、守木伍長

6番機  中野学校・梶原哲巳少尉指揮 操縦担当:松尾曹長、岡本軍曹 航法及び通信担当:なし 第2小隊第2分隊長・今村曹長、大山曹長、前原曹長、門山軍曹、岩瀬伍長、遠藤伍長、大島伍長、三浦伍長、津隈伍長、馬場本伍長、長谷川伍長

7番機  中野学校・棟方哲三少尉指揮 操縦担当:中原准尉、宮岡曹長 航法及び通信担当:青井少尉、今田兵長 空挺隊員:西島曹長、山下曹長、横田曹長、石割伍長、岩村伍長、上村伍長、坂下伍長、田村伍長、室井伍長

8番機  第5小隊長・山田満寿雄中尉指揮 操縦担当:山本曹長、小川軍曹 航法及び通信担当:なし 第5小隊第1分隊長・伊藤准尉、高村曹長、中里曹長、松井曹長、姉川伍長、大釜伍長、神伍長、斎藤伍長、進藤伍長、千代谷伍長、畑伍長

中飛行場攻撃部隊(渡部利夫大尉指揮) 編成:第3及び第4小隊 全12機中の4機で突入予定 

9番機  第3小隊長・渡部大尉指揮 操縦担当:久野中尉、荒谷少尉 航法及び通信担当:酒井少尉、簑島曹長 第3小隊第1分隊長・山城准尉、池島曹長、井上曹長、山本曹長、佐藤軍曹、岡本伍長、加藤伍長、田中伍長、村瀬伍長

10番機  中野学校・熊倉順策少尉指揮 操縦担当:高橋少尉、小野曹長 航法及び通信担当:なし 第3小隊第2分隊長・和田曹長、南曹長、森山曹長、毛糠伍長、佐野伍長、杉本伍長、鈴木伍長、種田伍長、平石伍長、福井伍長、細田伍長

11番機  第4小隊長・村上信行中尉指揮 操縦担当:吉沢曹長、水上曹長 航法及び通信担当:なし 第4小隊第1分隊長・道上曹長、酒井曹長、佐藤曹長、仁木曹長、阿加井伍長、安達伍長、齋藤伍長、徳永伍長、比嘉伍長、福島伍長、向笠伍長

12番機  中野学校・渡辺祐輔少尉指揮 操縦担当:木村曹長、小林軍曹 航法及び通信担当:なし 第4小隊第2分隊長・新藤曹長(旧姓東郷)、稲津曹長、伊藤軍曹、小寺軍曹、赤羽伍長、宍戸伍長、東海林伍長、辻岡伍長、豊田伍長、村木伍長

 5月17日、沖縄特攻「義号作戦」が正式発令されます。同月19日、菅原中将は奥山・諏訪部両隊長と直協部隊の渥美飛行第60戦隊長(誘導)、草刈飛行第110戦隊長(戦果確認)を軍司令部に招いて作戦の詳細な打ち合わせをおこないます。20日には義号作戦の全貌を全幕僚に伝達し、義烈空挺隊の出撃は決定されました。

 「最後の一兵迄 奥山隊長の決意」より  「沖縄の敵飛行場に強行着陸に成功すれば、その晩のうちに敵飛行場爆砕の仕事を片づけてしまひます。隊員全部敵飛行場を自分の墓場と心得て手當り次第敵機をやつつけるつもりだから、自分は必ず成功する自信があります。空挺部隊の目的を遂げたその後もなほ、もし万一生残ることが出来れば山中にもぐりて敵飛行場の周囲や戦果の報告など、最後の一兵となるまでゲリラ戦を續けて敵を殲滅する覚悟です」 

 奥山隊長の訓示に先立つて、航空部隊長が軍装検査を行つた。巡視する同部隊長は装具の装着や兵器の点検等を行ひながら、一人一人に対して慈父の情のこもつた問を発した。「お前がたゞ一人負傷して戦闘に堪へぬ時の決意如何」「自決」「自決法如何」「われに手榴弾あり。ひたすら任務に邁進、斃るゝもなほ已まず」(「燦たり義烈空挺部隊」より)  陸軍特攻作戦の司令官として、出撃前の義烈空挺隊を閲兵する菅原道大中将。かつて川南空挺基地の建設に関わった菅原中将が、空挺部隊最後の出撃に立ち会う巡り合せとなったのです。多くの特攻隊員を死地へと送り出す際「自分も後に続く」と公言していたこの司令官が、約束を果す事はありませんでした。

 隊員達は出撃前、家族や世話になった人々に宛てて遺書を残しています。奥山隊長の手紙は、母に別れを告げるものでした。 「昭和二十年五月二十二日此の度、義烈空挺隊長を拝命 御垣の守りとして敵航空基地に突撃致します 絶好の死場所を得た私は日本一の幸福者であります 只々感謝感激の外ありません 幼年学校入校以来十二年 諸上司の御訓誡も今日の為のように思はれます 必成以て御恩の万分の一に報ゆる覚悟であります
 拝顔お別れ出来ませんでしたが道郎は喜び勇んで征きます 二十有六年親不孝を深く御詫び致します 道郎 御母上様」

 こうして、沖縄へ突入した8機の隊員は全滅しました。義号作戦の結末を「尻切れトンボ」と表現した菅原道大中将ですが、5月24日で全てが終わった訳ではありません。あまり知られていないのですが、作戦終了後に7名の義烈隊員が戦死しています。エンジントラブルや航法ミスにより途中帰還した4機。その搭乗員にも再出撃が命じられたのです。沖縄への物資投下任務に指名されたのは、山本金保曹長ら7名の不時着機パイロット達。義号作戦から僅か4日後の出撃命令でした。5月28日と6月3日、飛行60戦隊に組み込まれた義烈空挺隊の飛行士は再び沖縄へ飛び立ちます。そして、二度と還ってきませんでした。一方、奥山隊の不時着組48名は母体である挺進第1聯隊に吸収されます。そのうち熊倉順策少尉(隅之庄不時着)や酒井一義隊員(八代不時着)ら何名かは、再び特攻作戦への参加を命じられました。義号作戦の後も、陸軍は空挺特攻を重ねようとします。次の目標として選ばれたのは、義烈空挺隊が散華した沖縄と、半年前に突入する筈だったサイパン。海軍空挺部隊と協同で行う「第二剣作戦」、そしてグライダーによる沖縄特攻「烈號作戦」はこうして始まります。米軍との死闘を繰り広げるレイテの高千穂空挺隊。崩壊した戦線に踏みとどまる、ルソンの滑空歩兵聯隊、挺進工兵隊、挺進通信隊、挺進機関砲隊。大損害を蒙って戦力回復中の挺進飛行隊。沖縄で散華した義烈空挺隊。彼等に続いて、内地に温存されていた挺進第1聯隊及び第2聯隊、挺進戦車隊や挺進整備隊も戦いの準備に取り掛かります。陸軍最後の空挺作戦。それは、空挺戦力の壊滅を意味していました。

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