【14世紀】 ドイツ騎士団の東方植民に対抗して、ポーランド、リトアニアが合併しヤゲヴォ朝が誕生した
ドイツ騎士団の侵略を阻止する
【1440】 モスクワ大公としてキプチャク・ハンから自立したイヴァン3世は自身をツァーリ(皇帝)と自称
1462 :イヴァン3世の治世に於いてキプチャク・ハン国から独立したモスクワ公国は、次のヴァシリー3世の時代に領土を拡大する
1502 :キプチャク・ハン国滅亡
ルーシー諸侯を併合、リトアニアに侵攻するなどして領土拡大を成功
この頃ビザンツ帝国が亡びて国民は各所に散っていく
イヴァン3世は最後のビザンツ皇帝コンスタンティヌス11世の姪・ゾイパレオロギナ1455-1503と結婚
ビザンツ皇帝の世祖来な後継者ということでツァーリを名乗る。
【1530】 イヴァン4世1530-1584が3歳で皇帝に即位するとシェイスキー公が後見人となる
【1556】 ロシア・ツァーリ国を建国、全ルーシー諸侯を統一
息子ヒョードル1世が智的障害で生まれたこともあり、リューリク朝は断絶し約15年間の動乱の時代にはいる
この時期にコサックのイエルマーク1532-2585がシベリアに進出したことでロシアは飛躍的に領土を拡大する。
【1572】 ポーランド・リトアニア共和国となるが、18世紀には第一次-第三次ポーランド分割(Byロシア帝国)により滅亡。
【イヴァン4世1530-1584】 モスクワ大公国
父・ヴァシーリ3世、母エレナ・グリンスカヤ(二番目の妃、タタール人) ギリシャ正教会では再婚できないはず
フランス :フランソワ1世がルネサンス導入
スペイン :インカ帝国征服
英国 :ヘンリー8世による妻アンブーリンの処刑
日本 :戦国時代
ドイツ :ルターの宗教改革
数十人の大貴族を粛清して国土拡大
1533 イヴァン4世は3歳で皇位を継ぐ
1540 10歳で母エレナが大貴族により毒殺され、6年は惨めな生活
1546 母方グリンスキー家が実権を持つと、イヴァンはツアーリーとして戴冠
モンゴルの残党大将・サインブラトを倒し、ハーンの直系子孫を名乗る
⇒ハーンの地位奪取
⇒シベリア民を従わせる
花嫁コンテストで結婚 候補者1000人から次第に絞る
アナスターシャと結婚(実家はロマノフ家 生年不明)子供は6人
大貴族に対しては恐怖政治、民衆には人気ある
イヴァン、ピョートル誕生
1560 妃アナスターシャ死亡 毒殺?(後年の研究では水銀)
犯人と思われる大貴族一族を抹殺 スターリン時代のソ連も同じ
1561 マリヤ・テムリュコヴナ1544-1569 毒殺死?
1570 ノブゴロド事件:イヴァン4世は市民数万人を虐殺
1571 マルファ・ソバーキナ?-1571 ノブゴロド商人の娘 結婚直後に毒殺?
1572 アンナ・コルトフスカヤ?-1626 東方正教会では結婚は3度迄 不妊で修道院行き
1575 アンナ・ヴァシリチコヴァ?-1576 市民 DV死?
1577 ヴァシリーサ・メレンティエヴァ?-? 臣下と不倫 臣下串刺し、妃毒殺?
1580 マリヤ・ナガヤ?-1608
子はドミトリー1582-1591不審死でマリヤは修道院
1581 息子イヴァンの妻・エレナ懐妊するが、イヴァン4世のDVにより流産
イヴァン4世は息子を撲殺(イヴァン雷帝とその息子:画家レーピン)
1584 イヴァン4世死去 ピョートル1世即位
野心家ボリス・ゴドノフ実権(ピョードル妃の兄)
ピョードル1世が死去するとボリスは即位 次に息子ピョードル2世が即位 二か月後に暗殺
以降実は殺されていなかったドミトリーが王位:偽ドミトリー 暗殺
1598 シビル=ハン国(シベリアの語源)滅亡 By イエルマーク1532-1585率いるコサック軍
【1605】 この間、ロシア-ポーランド戦争が勃発、モスクワクーデター1610によりヴァシーリ4世は廃位。ポーランド軍がモスクワを占領し、スウエーデンがノブゴロドを占領したが、ロシア国民軍これを打ち破
【ミハイル・ロマノフ1596-1645がツァーリに即位】してロマノフ王朝が誕生した@1613
【1699】 【ピョートル1世1672-1725】 は初代ロシア皇帝
┣ピョートル1世の子供の時の教師がユダヤ人で、西の技術を導入すべしという教育を受けた
┣オランダの造船所(西インド会社)で学んだ@1697あとは多くのユダヤ人技術者を持ち帰った@1698
┣スウエーデン・カール12世からバルト海海域の世界覇権を奪取@1721 :北方戦争
┃ ┣焦土作戦
┃ ┗一般市民を巻き込み難民発生
┣バルト海交易ルートを確保
┣この時に建設したのがサンクトペテルベルグ(ピョートルは聖人ペテロ(初代ローマ教皇)の意味)@1703
┃ ┣東ヨーロッパ覇権
┃ ┣ロシア帝国宣言@1713
┃ ┣コサック隊を編成---領土拡大の前線部隊
┃ ┗西のシベリア経由南下して清国と衝突
┃ ┣康熙帝とネルチンスク条約1689
┃ ┣モンゴル国境キャフタ条約1727
┃ ┗ベーリング--アラスカ、カムチャッカ探索
┣次は黒海海域をロシアの影響下に置くことを目標
┗絶対王政を確立し、西欧化政策、シベリア経営
【1700】 北方戦争~1721 最強のスウエーデンを討ち、バルト海への出入り口港都市・ピョートル・ブルグを作った。
後のペテルブルグ
【】 極東ベーリング制覇 By デンマーク人
【皇女ソフィア1657-1704】
アレクセイ_モスクワ大公1629-1679
┃ ┣ソフィア・アレクセーエヴナ1657-0704
┃ ┃ 銃兵隊の反乱を起こしてイヴァンを5世として復活@1682
┃ ┃ ソフィアは摂政として実権を握る
┃ ┃ 愛人ヴァシーリが宰相
┃ ┃ クリミア戦で失敗---フョードル優位
┃ ┃ ソフィアは再び挙兵@1698
┃ ┃
┃ ┣フョードル 1661-1682---病弱 即位1676
┃ ┣イヴァン 1666-1696---病弱 即位1682
┃マリヤ・ミロスラフスカヤ1625-1669
┃
┣ピョートル1世1672-1725---世継ぎ候補@1682
┃ 反旗を翻したのが皇女ソフィアに対して軍備を整え向かってきたソフィア銃兵隊を殲滅
┃ 姉のソフィアをノヴォジェービチ修道院へ幽閉
┃ ソフィアは再び挙兵@1698---反乱は鎮圧されて処刑も済んだが首謀者がソフィアであるとの証拠がない
┃
ナタリヤ・ナルイシキナ1651-1694
幽閉後の「ソフィア皇女」の肖像画を残したのはイリア・レーピン1844-1930、その容貌が相まって極めて有名な歴史画として残っている。
【ピョートル1世の妃エヴドキヤ・ロプーヒナ】
エヴドキヤは貴族のフョードル・アブラモヴィチ・ロプーヒンとその妻ウスティーニャ・ボグダノヴナ・ルティシチェヴァの娘、白羽の矢が立ち1689年にツァリーツァとして戴冠した。しかし美人とは言えない妻エヴドキヤを捨ててオランダ人の愛妾アンナに心を移した。カトリック信者は離婚できない。そこでエヴドキヤをノヴォビッチ修道院送りにする。つまりエヴドキヤはキリストと結婚することで、それ以外の契約は無効。つまりピョートル1世は再婚が可能となるのである。その代わりに修道院には莫大な金品を手にすることができた。これを利用してカトリックの貴族は金品と引き換えに離婚をするということが良くあったのである。
【1762】 ロシアを最も強大な国家としたのは
第8代皇帝・エカチェリーナ2世1729-1796である。
┣無能な夫ピョートル3世を暗殺するとすぐに即位@1772
┣⑩ポーランド分割@1772 : プロイセン&オーストリア共同
┣ ①シュラフタというポーランド式社会階級を退けて専制君主政治を行った。
┣②1774第一次露土戦争(対オスマン帝国)で勝利してクリミア半島などの領土を拡大する。
┣ クリム=ハン国を統合(クリミア半島の由来)
┣ セバストポリ要塞建設@クリミア半島 --- 不凍港
┣③県郡を細分化して知事を配置
┣③1787第二次露土戦争でも勝利する
┣④1792ポーランドやリトアニアにも侵攻
┣⑤強大な権力を持つとサンクトペテルブルグにエカチェリーナ宮殿を建設して、その権威を誇った。
┣⑥武装中立同盟を結び、農奴制を強化した。(アメリカ独立戦争やフランス革命の前後)
┣⑦また世界中の美術品をコレクションしてエルミタージュ美術館建造(元々は勉強のための図書館:冬の宮殿の一部)
┣ エルミタージュ:「隠れ家」の意味
┣ (多くのレンブラント画、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロ、ティツィアーノ、ベラスケス、などを所蔵)
┣ 1990年には世界遺産に指定され、年間400万人以上もの来館者数を誇っている。
┣ 因みにルーブル美術館の来場者は年間1000万人。
┣⑧ラクスマン1766-1806が来日@1792
┣⑨各地のピョートル大帝の騎士像を設置:尊敬の象徴
サンクトペテルブルグ(ソ連時代はレニングラード)は偉大な音楽の都でもある。
また、エカチェリーナ2世は数多くの愛人を持ったことでも知られ、100人以上と言われていたが、ロシア学芸員の御仁がNHK特番で言っていたのは12人。おそらくこれが正しい人数だろう。一番有名なのがグレゴリー・ポチョムキン氏1739-1791。エカチェリーナ2世よりも10歳年下の愛人で、ロシア帝国の軍人である。陸軍主席大将に任命してクリミア地区の総督として、セバストポリ要塞を築いて黒海艦隊を設立した。クリミアの成長ぶりは凄く、今も尚オデッサ、ニコラーエフ、ヘルソンなどの主要都市は順調に発展しているという。
学芸員:昔と違って日本に於ける学芸員の多くが有期雇用。これでは文化の発展・育成はとても見込めない。日本維新の会を筆頭にナショナリズムを軽視する傾向は益々広がるであろう。
【パーヴェル1世-アレクサンドル1世の治世】
1792 母が父を暗殺するという激しい境遇に生まれたパーヴェル1世-1807は母を恨んで育つ。そして選帝侯軍の軍人バニグセン1745-1826はパーウエル1世の即位とともに罷免されるが、1807年、パーウエル1世を襲撃して殺害。その子・アレクサンドル1世1778-1825が即位する。彼は神聖ローマ帝国のバーデン伯カール・ルートヴィッヒの娘エリザベータ、カタリーナ、カロリーネと会見しエリザベータを気に入る。翌年エリザベータはプロテスタントからロシア正教に改宗すると結婚。
1796 エカテリーナ2世が崩御してパーヴェル1世が即位
このころエリザベータはポーランドの公爵アダム・イエジィを愛人とする
1799 第一子マリア・アレクサンドロヴィナが生まれるが夭折
1803 アレクサンドル1世はエカテリーナ2世の侍女マリアを愛人に持つ
このころ?エリザベータはアレクセイ・オコトニコフを愛人とする
1806 第二子エリザベータ・アレクサンドロヴィナが生まれるが、オコトニコフの子か?
オコトニコフが暗殺される。犯人はアレクサンドル1世の兄弟
1807 パーヴェル1世が暗殺さ、アレクサンドル1世が即位
1812 フランスがロシアに侵攻
1825 エリザベータはアレクサンドル1世とともにタガンログという田舎町へ療養に行くがアレクサンドル1世は病死
1826 エリザベータはアレクサンドル1世を追うように病死・心不全