元禄16年1月24日に礒貝十郎左衛門【四十七士 美童で浅野内匠頭に寵愛される】と富森助右衛門【四十七士 父は赤穂藩御留守居役富森助太夫。母は山本源五右衛門の娘。】が連署で書いた『礒貝富森両人覚書』によると、表門は梯子をかけて登り、裏門は門を打ち破ったとしている。赤穂浪士のお預かりを担当した松平定直【伊予松山藩4代藩主】 の家臣波賀清大夫が赤穂浪士たちから話を聞き、それをもとにして書いた『波賀聞書』では、表門隊で最初に梯子を上って邸内に侵入したのは大高源五【四十七士 奥州豪族安倍貞任の一族】と小野寺幸右衛門【赤穂浅野家家臣の大高忠晴の次男】であったといい、大高が飛び降りざま名乗りを上げ、吉田沢右衛門【四十七士 吉田忠左衛門兼亮の三男】と岡島八十右衛門【原七郎左衛門の三男。 母は和田将監の娘。長兄は原惣右衛門】もそのあとに続いて上っていったとしている。原惣右衛門は飛び降りた際に足をくじき、また神崎与五郎【浅野家きっての俳人】も雪で滑り落ちたが、大事はなく働きにも影響はなかったという。 堀部弥兵衛は高齢であるため大高源五が抱いて下ろしたとしている。一方裏門の様子を示した『波賀聞書』では、杉野十平次【資産家萩原家の一族】と三村次郎左衛門【四十七士の中では最も身分が低い】が門を破り、一番に突入したのは横川勘平【新参の藩士で徒目付職】、番人を倒したのは千馬三郎兵衛【千馬求之助の次男。母は赤穂浅野家家臣の筑間三右衛門の娘】の半弓であったとしている。寺坂吉右衛門【討ち入り後、泉岳寺に行くまでに姿を消している】の書いた『寺坂私記』によると原惣右衛門が書いた浅野内匠頭家来口上書を上包して箱に入れ、青竹に挟んで吉良邸の玄関前に立て置いたという。
『小野寺書状』によると、表門隊は玄関に差し掛かり、玄関の戸を蹴破ったとしている。飛び起きて広間からかけつけてきた番人三人と戦っている間、小野寺幸右衛門が立て並べてある弓を発見、幸右衛門は吉良家臣一人を斬り倒したあと、すぐにそれらの弓の方へ向かって弦を切って使い物にならないようにしたという。
『波賀聞書』によると、庭の見張り組は「五十人組は東へ回れ」「三十人組は西へ回れ」などと声高に叫ぶことであたかも百人以上の大勢が討ち入ったかに装ったとしており、これが功を奏し、長屋にいた吉良家臣たちは本当にその人数がいると信じ込み、ほとんどの者が恐怖で長屋から出てこなかったという。
『礒貝富森両人覚書』も、邸内ではたびたび戦闘が起きたが、長屋の侍は出てこなかったとしている。しかし『小野寺書状』によると長屋から飛び出してきた吉良家臣二人がおり、先に出てきた男を小野寺十内が槍で倒し、もう一人は間喜兵衛の槍で倒したという。
『赤城士話』によると間瀬孫九郎に遮二無二斬りかかる吉良家臣がおり、孫九郎はその男の脇腹に槍を突き刺したが、その吉良家臣は槍を手繰り寄せようと槍を二打ち三打ちしてきた。孫九郎が槍を投げだすと男は倒れて息絶えたという。 大石内蔵助が12月19日に寺井玄渓(浅野内匠頭の藩医だった人物)に送った書状によると、一番の働きをしたのは不破数右衛門であったという。 四、五人の敵と戦い、その刀がささらのようになっていたという。不破数右衛門が父佐倉新助にあてた書状では本当は不破は庭の見張り担当であったが、こらえ難くて独断で邸内へ突入してしまい、邸内では長刀を振るう当主吉良左兵衛義周と遭遇し、戦闘になった。義周は負傷すると逃げ出したという。義周本人は自分は負傷して気絶したと証言している。
『江赤見聞記』は、吉良方に強者が広間に六人、台所に一人いたとしており、吉良家臣の清水一学は台所で討ち死にしている。 富森助右衛門の証言によると礒貝十郎左衛門が軽い者を捕えてろうそくを出させ、真っ暗だった吉良邸内を明るくしたという。後に取り調べの時にこれを聞いた大目付仙石久尚も礒貝の機転の良さに感心したという。 新井白石が吉良邸の隣人の旗本土屋主税から聞き取った話を室鳩巣が書き綴った『鳩巣小説』では、隣の吉良邸が騒がしくなったので外へ出て見た土屋が壁越しに声をかけたところ、片岡源五右衛門、原惣右衛門、小野寺十内と名乗った者が、吉良上野介を打ち取って本望を達したと言う声を聞いたとしている。これを聞いた土屋は壁際に灯りを掲げてその下に射手をおき、「堀を越えてくる者は誰であろうとも射て落とせ」と命じたという。
『礒貝富森両人覚書』によると、吉田忠左衛門や間十次郎らが、台所横の炭小屋からヒソヒソ声がするのを聞いたため、中へ入ろうとすると、中から皿鉢や炭などが投げつけられ、さらに二人の吉良家臣たちが中から斬りかかってきたのでこの二人を切り伏せたあと、尚奥で動くものがあったため、まず間十次郎に槍で突いた。出てきたのは老人で脇差で抵抗しようとするも武林唯七に一刀のもと斬り捨てられた。老人であり、白小袖を着ていることからこの死体をよく調べてみると面と背中に傷があったので吉良に間違いないと判断し、一番槍の十次郎が首を落とした。そして合図の笛を吹き後、玄関前に集合した赤穂浪士たちは表門番人の三人に吉良の首を見せて間違いなく上野介であることを確認した。
『鳩巣小説』によると声だけしか聞こえない土屋邸では赤穂浪士たちが吉良を探している間の声を聞いて取り逃がしたのだろうと思っていた。しかし突然「有り様に申さぬか」という大声が聞こえてきたという。他の者が「額の傷を見よ」という声も聞こえきた。その後しばらくしてわっと泣き出す声が聞こえた。これを聞いて土屋は今まさに吉良の首をあげて悦びの泣き声をあげているのだろうと思ったという。 吉良上野介の首は潮田又之丞の持つ槍の先に掲げられた。邸内の火の始末をしたあと、吉良邸を出て、辰の刻(午前8時ごろ)浅野内匠頭の墓がある泉岳寺に着き、墓前に吉良上野介の首級を供え、仇討ちを報告した。この際に足軽の寺坂吉右衛門が立ち退いており、赤穂浪士は46人となっていた。
表門隊
┣大石内蔵助1659-(大将)
┃┣大石主税良金1688-
┃┣大石大三郎1702-1770
┃りく
┣┏原惣右衛門元辰1647-(槍)
┃┗岡島八十右衛門常樹1666-
┣間瀬久大夫正明1642-(半弓)
┃┣間瀬孫九郎正辰1681-
┃刈部弥次郎の娘
┣片岡源五右衛門高房1667-【槍 浅野内匠頭から最も寵愛された】
┣富森助右衛門正因1670-(槍)
┃
┃渡辺式重平右衛門
┣┣武林唯七隆重1672-【槍祖父は,文禄・慶長の役で捕虜 明軍所属の孟二寛】
┃┗武林半右衛門尹隆(両親の看病のため脱盟)
┃
┣奥田孫大夫重盛1645-(太刀)
┃┗┏奥田貞右衛門行高(養子)
┃ ┗近松勘六行重1669-
┣矢田五郎右衛門助武1675-(槍)
┣勝田新左衛門武堯1680-(槍)
┣吉田沢右衛門兼貞1675-
┣岡島八十右衛門常樹1666-
┃┏小野寺十内秀和1643-
┃┗貞立尼
┃ ┣大高源五忠雄1672-
┣ ┗小野寺幸右衛門秀富1676-
┣早水藤左衛門満堯1659-岡山藩家臣山口家常三男(弓)
┣神崎与五郎則休1666-(弓)
┣矢頭右衛門七教兼1686-(槍)
┣大高源五忠雄1672-主税に次ぐ若年(太刀)
┣近松勘六行重1669-
┣間重次郎光興1678-堀内流剣術(槍)
┣堀部弥兵衛金丸1627-(槍)
┃┗ほり
┃ ┣
┃ 堀部安兵衛武庸1670-
┣村松喜兵衛秀直1640-(槍)
┃┏小野寺十内秀和1643-
┃┗岡野金右衛門包住1655-
┣ ┗岡野金右衛門包秀1680-(槍)
┣横川勘平宗利1667-(槍)
┗貝賀弥左衛門友信1650-
裏門隊
┣大石主税良金1688-(大石内蔵助の嫡男)
┣小野寺十内秀和1643-(槍)、
┣間喜兵衛光延(槍)
┣┏吉田忠左衛門1641(実質的な指揮者)
┃┃┗吉田沢右衛門兼貞1675-
┃┗貝賀弥左衛門友信1650-
┣堀部安兵衛武庸1670-(太刀)
┣礒貝十郎左衛門正久1679-(槍)
┣杉野十平次次房1679-
┣倉橋伝助武幸1670-
┣赤埴源蔵重賢1669-
┣三村次郎左衛門包常1666-
┣菅谷半之丞政利1660-
┣大石瀬左衛門信清1677-(槍)
┣村松三大夫高直(槍)
┣寺坂吉右衛門信行
┣潮田又之丞高教
┣中村勘助正辰(槍)
┣奥田貞右衛門行高(太刀)
┣間瀬孫九郎正辰(槍)
┣千馬三郎兵衛光忠(半弓)
┣野和助常成(弓)
┣茅間新六光風(弓)
┣木村岡右衛門貞行(槍)
┣不破数右衛門正種(槍)
┗前原伊助宗房(槍)