平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

花魁・高尾太夫と仲山美姫さん

2011年10月16日 | 仲山美姫 成島桃香 なっちゃん なつみ なな

 吉原の花魁の代表格、つまり太夫の筆頭といえば美浦屋の高尾太夫、代々襲名された名前で、中でも有名なのは二代目万治高尾太夫である。  伊達騒動で有名な伊達綱宗の意に従わなかったとして斬殺されたとの説がある。 花魁・高尾大夫の幼名はアキといって、絶世の美人で、聡明であったという。 1640年に父・角兵衛は、アキ三歳のとき仔細あって離婚した。 その後、1646年に母ハルは再婚するが一家の生活が苦しく、母が世話になっていた明賀屋の主人の計らいで、遊廓の三浦屋四郎左衛門に相談した。 アキの父が勘解由頭ということもあり、その身分と聡明さを見込んだ三浦屋四郎左衛門はアキを禿として引き取り、名妓大夫になる本格的な教育を受けさせたのである。 花魁となる資格を得た後は、三浦屋四郎左衛門はアキと特別に養子縁組みをした。 1657年の振袖火事によって三浦屋が焼け落ち、遊廓は浅草の新吉原に移ったのは、アキ19歳のときである。 三浦屋再建のためアキは花魁となり、二代目・高尾大夫を襲名し店にでたのである。しかしその3年後、過労と病魔に襲われたアキは、22歳で病のため死去した。 新吉原・三浦屋から、高尾大夫・アキの生家に送られてきた遺品は僅かに五品であったという。 アキ死亡は1660年、藩主・伊達綱宗の死亡は1711年であるから、同時期の死亡ではない。 また、伊達家に斬殺されたというのは定かではないが、お家の名誉を汚さないために死因を病死にすることはよくあることで、22歳という若すぎる死を考えると、斬殺説はあながち嘘でもなさそうである。 また三代目は水戸家の水谷六兵衛に落籍した水谷高尾太夫、 四代目は浅野壱岐守に落籍した浅野高尾太夫である。 京都では島原の吉野太夫が十代まで続いたが、二代目以外はその詳細は不明である。 二代目吉野太夫の生まれは京都・方広寺の近くで松田徳子という。 幼少の頃に禿として勤め、14歳で太夫となり圧倒的な存在感を放っていたという。 後陽成天皇の皇子を馴染み客とし、26歳の時に豪商・灰屋紹益と結婚し、38歳で死去した。

コメント    この記事についてブログを書く
« 花魁姿の仲山美姫さん in 伝心庵 | トップ | 辻君と仲山美姫さん »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

仲山美姫 成島桃香 なっちゃん なつみ なな」カテゴリの最新記事