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行基と山崎院人名瓦

2011年01月03日 | 奈良・飛鳥時代

 行基は生涯で49にも及ぶ寺を建立したが、多数の人名瓦が出土したのは山崎院と和泉の大野院からのみである。 この瓦は大山崎の歴史資料館に陳列されていて、主な名は六人部連宇麻呂、佐為縮禰手子、乙麻呂孫葉栗足鳥などである。 六人部連は火明命といってニニギ尊とコノハナサクヤ姫との間に生まれた息子の末裔で、尾張氏系の豪族である。 向日市の向日神社の神主が代々 六人部氏であることは結構しられているらしい。 つまり六人部連は乙訓の豪族とみられる。 佐為縮禰もニギハヤヒの末裔で、神武東征よりまえに近畿入りして物部氏となる名豪族であり、山城の豪族とみれる。 葉栗は彦国葦命の末裔と記された録があるところを見ると、和爾系諸族の一氏で、彦国葦命は武埴安彦との戦いでは崇神天皇側について勝利している。 これらの人名を刻んだ瓦は山崎院のどこかの建物で使用されたことには間違いないが、極めて粗悪なものが多く、建物というよりも塔の表面を葺く瓦に利用されたといえる。 行基の山崎院の場所には道昭が立てた可能性が高い仮称山崎寺があったことが、大山崎遺跡の発掘調査からわかってきたという。

 さて行基は生駒山東麓の山中にある竹林寺に眠っている。 「竹林寺略録」には行基が704年に生駒山に入り、「草野仙房」に住したとあり、定かではないが竹林寺が生駒仙房の後身であるとされている。 竹林寺本堂の東脇には結界石が並んでいる。 結界石は寺の境内と外とを区切る標石(境内の正面や四方にたてる) で、奈良の寺には結界石を残すところが多く、竹林寺のものは時期が古く、建立者が明らか(銘文があり、鎌倉時代に僧入西が造立した)なことで知られている。 (板碑形結界石「大界外相」)

 

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