76代近衛天皇は鳥羽天皇・藤原得子(美福門院)の皇子で、藤原璋子(待賢門院)の皇子・崇徳天皇譲位のあと即位する。 崇徳天皇は妃・藤原聖子との間の重仁親王を即位させたかったが、当時鳥羽上皇には藤原璋子に意がなく、寵愛妃・藤原得子との間に生まれた体仁親王を近衛天皇として幼帝を即位させた。 実は、藤原璋子(待賢門院)は白川法皇から格別な寵愛を受けており、鳥羽上皇は顕仁親王(崇徳)を自分の子であるとは考えていなかった。白川と藤原璋子の間にできた子であろうと・・・・。 こうして崇徳と鳥羽親子の間には確執が生まれており、崇徳は後々幸せ薄い人生を送ることとなるのである。 当時摂関政権を握っていたのが藤原忠実の息子藤原忠通と藤原頼長である。 もちろん外戚関係を築くべく頼長は養女としていた藤原多子を近衛天皇妃として入内させる。また、忠通は藤原伊通・娘の呈子(シメコ)を養女としてむかえており、呈子シメコを近衛天皇妃として入内させる。 話は前後するが、忠通・頼通はお互いに藤原忠実の息子で年齢は25歳はなれていた。忠通は温厚であったが、頼長は悪左腑と呼ばれたように腹黒い一面があった。 父・忠実は政治手腕という意味で、温厚な長男よりも、やり手の次男・頼長をかわいがっていた。 というよりも長男・忠通を毛嫌いしていたのである。 後に父・忠実は長男・忠通を勘当している。 考え方も風貌もまったくの正反対の兄弟に異様な空気が流れていたことは計り知れる。 しかし幼い近衛天皇はというと温厚な兄のほう忠通が好きであった。 政治的には兄・忠通は失脚していくが天皇の信望は集めるのである。 しかし、病弱な近衛天皇は1155年17歳の若さにして崩御される。 そして一気に忠実・忠通親子の独断場が始まろうとした。しかし、それもつかの間・・・近衛天皇崩御で崇徳天皇は息子・重仁親王の即位を望んだが、またしてもその願いは叶わず、父・鳥羽法皇は美福門院や近臣の信西の推す弟・雅仁親王が77代後白河天皇として即位した。 そして、摂関・藤原忠実、頼長は一気に奈落へと落ちていく。 理由は、近衛天皇崩御が藤原忠実・頼長親子の呪詛によるものであるとの奏上が信西入道より上皇に出されたからである。 これにより親子は法皇から遠ざけられ、参内も拒否された。蘇我・藤原氏が権力の座につくために、過去何度も繰り返されてきた呪詛事件だが、果たして本当かどうかは怪しい。悪左腑を陥れるにはこれで十分であったのだろうか。 近衛天皇御崩御の時には民衆も一様に、崇徳の息子・重仁親王の即位が期待されていた。藤原頼長は、近衛天皇即位により失意にあり世捨て人のように三条西の洞院にひっそりいた崇徳上皇に近づいていた。 しかし即位は後白河天皇であった。藤原得子(美福門院)の希望が大きく影響したのも間違いない。 また、忠通は後白河天皇に接近する。 藤原忠通・頼長兄弟の亀裂に順ずるように、崇徳上皇と後白河天皇の兄弟対立もますます深まり、一触即発の緊張状態が続く。そして、やがて両派はそれぞれ武士を集める。 崇徳上皇・藤原頼長・教長方には源為義、源頼賢、源為朝などの源氏親子や、平忠正・長盛親子らが集結した。後白河天皇・藤原忠通・信西入道方には、源義朝、平清盛、源頼政、源義康(足利義康)らが集結した。このときの兵力は断然天皇方が優勢であったが上皇側は各地の僧兵の集結を期待し強気であった。 ところが、僧兵軍の応援はなく、崇徳上皇側はあえなく源義朝、平清盛率いる天皇側に惨敗する。 当然のことながら、戦犯に問われた上皇側はことごとく処刑されることになるが、これを仕切ったのは後白河側近の信西入道であった。 平清盛は、叔父の忠正から命乞いをされるが、信西の沙汰が変わることはなく、忠正はこの世を惜しんで斬首された。 また、源義朝とて同じである。 実父・為義及び兄弟6人を涙ながらに処刑しなければならなかった。 このときに処せられた者は100人以上に及び、洛三条の河原では幾日にも続いて斬首が行われたという。 そして崇徳上皇の沙汰があった。 思えば不遇の御方である。「お前の父はおれ(鳥羽)ではない。白川である」とののしられ、退位後は次期天皇に息子・重仁親王と思っていたら、鳥羽と美福門院の子・近衛天皇が即位し、近衛天皇譲位の後は、順番で言えば今度こそ重仁親王と思っていたら、後白河・・・。 そして最期は、ある意味藤原頼長の勢いに乗って起こした謀判・保元の乱での惨敗である。 崇徳上皇は髪を下ろして仁和寺にはいったものの、讃岐の国に流された。 その後は讃岐院とも呼ばれ、8年後に不遇の人生を閉じた。
保元の乱で惨敗した上皇側の藤原頼長は、喉を射抜かれ看護されるが、後に舌を噛み切って自害する。 父・忠実は奈良興福寺・禅定院へと逃れるが後に捉えられ処刑される。 源為義・息子は三井寺へいったん隠れるが、後に信西の命により処刑。 清盛の叔父・忠正は命乞いするも、同じく信西の命により三条河原にて民衆にさらされ親子ともども斬首される。 崇徳上皇は剃髪し、弟が門主の仁和寺へ逃れ出家し、讃岐に流され、阿野高遠の手にあずけられ、侍女・佐の局など数少ない女房とともに山里にて心温かいお世話をされたそうです。 その後崇徳の心労を察し、幾度となく都へ便りをだす女房であったが返事はなく・・・。 しかしあるとき、横笛の音を耳にする。 この果てまで、崇徳の御身を思い訪ねてきたものがいた。 阿部麻鳥という都の御所にて水守をしていたお方である。 女房はいわんや、崇徳はどえだけ感涙したか。 交わす言葉もそこそこに、横笛の音にて阿部麻鳥は崇徳を慰めたという。 そしてその後なくなられるまで、だれひとりとして訪問するものはいなかった。
藤原成子-1177
┣ 式子内親王1149-1201斎院
┣ 守覚法親王1150-1202
┃ 藤原友実娘
┣ 以仁王1151-1180(┣源頼政1104-1180と挙兵)
┣ 円恵法親王 源仲政?-?
┃(1152-1184三井寺長官)
┃1078-1162 ┏(養女)━━━━ 藤原呈子シメコ九条院1131-(伊通コレミチ娘)
┃ 忠実┳藤原忠通1097-1164 ┃雑子女:常盤御前1138-?
┃ ┃ ┣基実1143-1166 ┃ ┣今若1153-1203
┃ ┃ ┣基房1145-1231 ┃ ┣乙若1155-1181
┃ ┃ ┗兼実1149-1207 ┃ ┣牛若1159-1189
┃ ┗藤原頼長1120-1156 ┃ 源義朝1123-1160
┃1115-1161 ┃(保元の乱で死亡) ┃
┃サネヨシ実能┳幸子 ┃
┃ 教長┃徳大寺 76近衛天皇1139-1155
┃ ┗公能右大臣 ┃
┃ ┣藤原実定 ┃
┃ ┣藤原多子1140-1201(幸子が養母 頼長の養子)
┃ ┣ 娘 ┃
┃ 藤原豪子 ┗一条能保┃ 藤原忠隆1102-1150
┃┏藤原経宗1119-1189 ┃藤原顕頼┣藤原信頼1133-1160後白河寵臣
┃┗源懿子1116- ┏━━━━━━━┛ ┣ 公子
┃ ┃ 1143 ┃ 伊岐致遠女 ┣勧修寺光頼
待賢門院┃ ┃ ┃ ┣六条天皇79代 ┣藤原惟方1125-(洛検非違使長)
┃ ┃ ┣二条天皇78代1143-1165藤原惟方母俊子、時子が乳母
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┃ 女朱内親王1141-1176
┣後白河天皇77代1127-1192(紀伊の局が乳母)
鳥羽天皇 ┃ (藤原通憲(信西)、後白河側近で平治の乱で死す)
74代┃ ┃ ┣藤原成範
┣近衛 ┃ 藤原朝子┗小督?-?
┃76代 ┃ (紀伊局) ┃ ┃
美福門院 ┃ ┃ 藤原隆房
┃ ┃ ┃
┃ 葵前 ┃ 清盛・娘四女
┃ ┣- ┣範子内親王1177-1210斎院
┣憲仁親王80代高倉天皇1161-1181
┃ ┃ ┣高成親王(82代後鳥羽天皇)1180-1239
┃ ┃ 藤原殖子(七条院)
藤原祐子┃ ┣言仁トキヒト親王(81代安徳天皇1178-1185)
┣滋子1142-1176 平清盛 ┃
┃(建春門院) ┃ ┃
平時信 ┣徳子1155-1214(建礼門院)
┣時子1126-1185 ┛
┣時忠1127-1189院政期の政治家
┣親宗1142-1199 ┣讃岐中将時実
藤原家範娘 ┣右大弁時宗
┃ ┗娘(敦盛の許婚)
┣夕花の君(壇ノ浦後義経凱旋し、妻室に迎えた)
┣ゆかり姫
師の局(安徳乳母 待賢門院に出仕)