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厩戸皇子が湯治を楽しんだ伊予

2010年05月05日 | 奈良・飛鳥時代

 四月下旬に高句麗の慧慈は筑紫に到着していた。慧慈が来れば百済の慧聡僧も倭国に来る。五月に慧慈は皇太子の師となり翌年には完成した飛鳥寺に住み倭国の仏教を指導し広めると同時に飛鳥寺の運営を行い、飛鳥寺の長官には馬子の長男・善徳がなることで蘇我氏本宗家の権威を一層固めた。慧慈・慧聡の来倭とともに、かなりの経典が持ち込まれ、厩戸皇子は幾つかを学んだが同時に道教も両師に習ったようである。道教は中国道家の開祖といわれた老子により開かれ、3世紀頃に基礎が出来始め、6世紀頃には教理学の基礎がが確立し唐代以降に宗教哲学として完成したといわれ仏教に大きな影響を与えていることから慧慈が・慧聡が道教にも詳しかったと考えられる。因みに、仏教は中国から高句麗を経て百済、新羅と伝わり、538年に百済から倭国へ伝わったとされている。  慧慈が厩戸皇子の師となり1年経った596年の23歳のとき、膳臣加多夫古の17歳の娘・菩岐岐美郎女と結婚をしている。刀自古郎女、菟道貝鮹皇女の嫉妬は相当なものであるが、菩岐岐美郎女は嫉妬を感じていないようである。 厩戸皇子が最も寵愛していることもあるが、恐らく身分の違いからであろう。身分に雲泥の差がある菟道貝鮹皇女や刀自古郎女とは競うこともなくのんびりした気持ちであったからだろう。 この頃田目皇子と結婚した母には4歳の佐富女王がおり、かろうじて生きがいを見つけていた。

 その頃にいよいよ厩戸皇子は冠位制を考えており、高句麗の慧慈や慧聡も冠位制を馬子に勧めている。一番の難関は諸豪族の反発である。 臣や連に生まれれば能力がなくても権力をもてるが、造、首、直などの姓には束縛された人物は有能であっても位を得ることは出来ない。 冠位制とはこれを打ち砕く画期的な考えであるが、百済や高句麗では既に採用されている。飛鳥に屋形を構えた秦河勝が冠位制に対する馬子の考えを告げた。馬子は百済の冠位制を考えているが、これは王族にも位階を定めており冠位が多すぎると厩戸皇子は感じている。大王をもっと権威あるものに望んでいる厩戸皇子は王族に位が与えられるのは滑稽だと感じている。その点高句麗の冠位12階制は最適である。それと飛鳥寺の完成と諸豪族にも寺を建てるようにと進言したことから僧と仏像が不足し始めた。 飛鳥寺を完成させると百済や高句麗から来ていた寺工も帰国を望むことから寺の建築もはかどらない。 ここで必要なのは新羅との友好を深めて倭国へ寺工をはじめ僧を向かえ、諸豪族の寺建設への手助けを行うことである。 百済、高句麗、新羅の朝鮮三国との友好を考えることによって倭国の寺院建立が可能になることに胸を弾ませていた。

 厩戸皇子は今の道後温泉にあたる伊予に一ヶ月の休養をとる為に行くことを決めた。温泉につかりながら慧慈、慧聡と語らうことも目的である。今一番かわいく思っている菩岐岐美郎女を連れて行きたいが刀自古郎女が異常に嫉妬を抱く。刀自古郎女を連れて行けば菟道貝鮹皇女が嫉妬をいだく。3人連れて行けば菩岐岐美郎女の居場所がなくなるといった具合である。だから3人とも連れて行かずに伊予へ行こうと考えた。 伊予の湯では菩岐岐美郎女の屋形がある斑鳩に新しい都を造る計画もじっくり考えたかった。斑鳩は菩岐岐美郎女の父・膳臣加多夫古が統括する地域であるが、自然に囲まれ心に和みを与えてくれる場所である。この地で厩戸皇子の寵愛した菩岐岐美郎女は育ち、14歳のときに知り合ってお互いに一目ぼれした。刀自古郎女は蘇我馬子の娘であるし、菟道貝鮹皇女は豊御食炊屋姫(推古天皇)の娘であることから、いかに厩戸皇子が菩岐岐美郎女に気を許していたかが伺える。

 厩戸皇子が斑鳩の矢田の丘で菩岐岐美郎女をの愛瀬を楽しんだ秋には背丈を凌ぐすすきが二人を包んでいたという。 お互いにかしずく 舎人や女人達は二人に危険が及ぶことを気にして目を離さず監視するように見つめていたが、すすきが二人の愛から舎人を遠ざけた。 菩岐岐美郎女の芳しい香りに近づいた蝶を追いかけながら、丘の花摘みを終えた菩岐岐美郎女は一輪厩戸皇子に与えた。 伊予への旅では慧慈、通訳の高延、警護長の葛城臣烏那羅、舎人は土師連堀手、犬養連毛野、茨田連川石等を連れ、難波の海から明石海峡、小豆島、吉備の児島湾、熟田津(松山の三津)を経て伊予へ到着すると、連日伊佐爾波で湯治三昧である。伊佐爾波の丘は現在の伊佐爾波神社がある道後山から湯築城跡がある一帯で、祭神は応神天皇、神功天皇である。 厩戸皇子はこの丘で詩を残しているが仏教、道教、儒教の思想が一体となっており、慧慈の影響と平和主義が後々万民に愛されたことが伺える。 厩戸皇子が伊予を後にして戻ったのは斑鳩の菩岐岐美郎女の屋形である。 伊予の湯は石女にも効果があるというので、菩岐岐美郎女は是非連れて行って欲しいというが、厩戸皇子の脳裏に浮かんだのは菟道貝鮹皇女のほうである。

厩戸皇子が伊佐爾波で湯治三昧をしたことは道後の足湯では有名である

 

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